🎵40:─1─日本が感謝するのは、知日派の隋・唐・南宋であって、反日派の中国共産党及び中国国民党ではない。~No.97No.98No.99 @ ⑦ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 南宋は漢族だが、隋と唐は異民族で漢族ではない。
 知日派中国人は、異民族に多く、漢族には少ない。
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 反日中国共産党と中国・中国人は別人である。
 知日派はいない。
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 日露戦争。日本の勝利に対して、中国国内では誰も関心も興味も示さないばかりか、逆にロシアが負けた事に残念がる者がいた。
 日本に留学していた清国留学生は、日本の勝利に歓声を上げ、清国は日本を手本として近代国家を目指し、清国人は日本人を先生と敬って教えを請うべきであると訴えた。
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 儒教が、理想とする君主は古代の堯(ぎょう)と舜(しゅん)で、目指す理想王朝は周王朝であった。
 歴代の皇帝や王朝は、将来の為の進歩と発展を目指さす、過去を手本とし古代に返ろうとしていた。
 魯迅「これは、閉ざされた空間で亡霊が入れ替わり演じる寸劇であり、この国がよたよたと歩みを進める、つまらぬ輪廻の芝居である」
 「中国人とは『騒ぎは率先して起こさず』、『禍の元凶にならず』のみならず、『率先して幸福にならず』の民族である。これではあらゆる物事の改革を進める事ができず、誰も先駆者や開拓者の役割を担おうとしない」
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 伊丹万作「(戦争責任問題で)騙されたということ自体がすでに一つの悪である」
 「(戦後、反戦平和教育で)『騙されていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でもすでに別の嘘によって騙され始めているに違いない」
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 律儀で真面目な日本は、古代に受けた恩義に対して近代と現代において倍にして恩返しをした。
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 中華世界では。自分を正当化する為に、歴史的事実を捏造、改竄、歪曲、曲解して歴史書を書いて後世に正史として残した。
 つまり、中国史とは政治や思想の為に都合よく作られた嘘に近い創作話である。
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 中国共産党が編纂した現代中国史は、現実に起きた事実に根差した資料を客観的科学的な思考で書き記した近代的歴史書ではなく、特定の思想に基づいた自己を正当化する伝統的歴史書である。
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 もし、近代と現代で日本が中国に、ヒト、モノ、カネで協力しなかったら現代の中国は存在しなかった。
 古代の日本は、非漢族の隋と唐からヒトとモノの支援を受けたが、カネの支援を受けてはいない。
 隋と唐は異民族であり、漢族の現代中国とは縁もゆかりもない。
 若し異民族の隋と唐が中国というのなら、北方系草原民の中国人と南洋系海洋民の混血児である弥生人・倭族と縄文人倭人との間に生まれた日本人も中国人となる。
 名誉と体面を重んずる日本人は、中華皇帝から金印を授かったが金銭を下賜されてはいない。
 公私ともに、中華帝国もしくは中国人富裕層から金を借りてはいないし貰ってもいなかった。
 古代の日本は、中国との間でカネの貸し借りはしていない。
 日本民族は、恩義を決して忘れないし、礼節と義理を踏みにじるような非人間的行為はしなかった。
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 中国や朝鮮は、自分に利益をもたらす恩義は返したが、自分に不利となる恩義は無視し義理も人情も礼節も踏みにじった。
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 日本は、西洋列強の侵略から日本を救うには清国と李氏朝鮮と三ヶ国で防衛同盟を組むべきであるとして、両国の政策を反日から親日に変更させる必要があった。
 三ヶ国は、政治・経済・軍事など多方面で強い国にならなければ、西洋列強の軍隊に侵略されて、西洋列強の植民地にされ、白人の奴隷にされるという恐怖心があった。
 喫緊の課題は、旧態依然たる古代の聖人君子の「徳」で国家を運用しようとする頑迷な儒教を、国際法を遵守する近代国家に構造改革を行う事であった。 
 その為には近代的教育が最重要として、西洋の近代的学問を日本国語に翻訳し、両国から優秀な人材を留学させ日本語で教育した。
 両国の留学生に正しい近代国家像を教える為には、日本の国益を前面に出す事を控え、西洋列強の侵略という現実の国際情勢を客観的合理的に知らせ、急ぎ国家の近代化を行う事を教える事であった。
 結果的に、日本の三国による防衛同盟は失敗に終わり、善意による努力は無駄となり、親日派を育てるどころか反日派を増やすだけであった。
 イギリスなどの西洋列強は、清国・中国が自国の商品を言い値で買って大金を払ってくれる上客である事を望み、近代化して国際法や商法に強くなる事を嫌った。
 西洋の植民地政策は、分離し対立させて効率よく統治する事で、少数派に多数派を支配させ、貧富の格差を拡大させ、独立の為に団結させずお互いを憎しみあって敵対させる事であった。
 事実。中国の改革派や李氏朝鮮の開化派は、虐げられた貧しい人民を解放するには腐敗堕落した儒教の古代的専制君主制を打倒して近代国家に作り替えるしかないとの信念から、日本に政治亡命して革命運動を続けていた。
 その代表が、中国の孫文であり、朝鮮の金玉均であった。
 日本は、中国と朝鮮に、親日的で強い近代国家を望んだ。
 西洋列強は、言う事を素直に聞いて利益を生み出す弱い時代遅れの国家を望んだ。
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 新潮45 2015年10月号 石平「日本に『近代』を学んだ中国人
 『新史学』を提唱した二人の大学者
 王国維と郭沫若の歴史研究
 今回取り上げる二人は、いずれも日本留学経験者として中国の近現代史に大きな足跡を残した『大学者』である。
 一人は東京理学大学の前身である東京物理学校で学んだ王国維であり、もう一人は、九州帝国大学医学部を卒業した郭沫若である。
 近代中国の学術史を語る際に絶対に欠かせないこの二人の碩学は、その研究分野が哲学・歴史学・美学・文学など多岐にわたっていることでも、よく知られている。まさに中国近代の学問を代表する『学界の巨匠』だが、じつは、両者の多岐にわたる学術研究のなかでも、とりわけ輝かしい成果が『中国史研究』である。
 『新史学』と称される王国維と郭沫若の歴史研究、とくに中国古代史に対する二人の研究は、数千年の歴史を誇る中国の史学に近代の新しい風を吹き込れて、中国の伝統的史学に近代的科学の思考と研究手法を導入した点で、大きな歴史的業績を残している。
 要するに、日本の近代教育が育てたこの二人の碩学の手で、中国の歴史学は初めて近代的科学への一大変貌を遂げたのである。」
 ……
 古来、中国は『歴史の国』と呼ばれるほど、歴史学が盛んな国であった。紀元前91年ごろに成立した中国最初の歴史書(正史)である『史記』以来、現代に至るまで、中国では歴代王朝の歴史が数多く残されてきた。『史記』から『明史』まで24の歴史書は『24史』と総称され、『清史稿』までの26の歴史書は『26史』と総称される。
 これらの伝統的な中国の歴史書を見ていると、とても興味深い事実が浮かび上がる。それは、これらの歴史書の大半が、じつは歴代王朝の官僚によって編纂されたものだった、ということである。
 しかも中国の場合、一つの王朝が滅んだあとには、次の王朝の官僚が前王朝の歴史を書くのが普通だった。たとえば、隋王朝が滅んで唐王朝が立てられるが隋王朝の歴史を記した『隋書』を編集したのは唐王朝の高官の魏徴であった。あるいは、清王朝の時代に前王朝の明の歴史を記した『明史』が誕生したが、それを書いたのは清王朝高官の張廷玉である。
 歴史書を、学者ではなく官僚が書いていたということが中国史の大きな特徴だが、前王朝の歴史を書く官僚たちにとっては、前王朝の歴史を極力歪曲するなど、ごく当たり前のことであった。つまり、前王朝の歴史を歪曲し、矮小化することによって、自分の仕える王朝がいかに素晴らしいかを証明することが彼ら『官僚歴史家』の任務であり、前王朝の歴史を書く主たる動機もそこにあった。
 その結果、中国の歴史書の大半は、事実に基づいて歴史を書くのではなく、前王朝の悪口を言い触らすことをその目的とするようになったのである。
 このように書かれた歴史は、もちろん『歴史の真実』から程遠い。このような『歴史学』は、到底『学』の名に値しないものであった。
 つあり、清王朝が滅亡するまでの近代以前の中国には、『科学としての歴史学』はほとんどなかったのである。
 近代以前の中国史学のもう一つの特徴は、古代史をむやみ美化することである。
 中国人の思想を長く支配した儒教は、春秋戦国時代以前の周王朝の時代をもっとも理想的な歴史時代だと推奨してきた。そのため、儒教が支配的地位を確立した前漢王朝以後に書かれた中国の歴史書の多くは、中国最初の王朝とされる夏王朝の時代から殷王朝・周王朝の時代と、それ以前の前史時代に対して、手放しの賛美を捧げている。あたかも、その時代の人びとが慈悲に満ちた聖人のような『仁君』の下、平等で平和な社会で牧歌的な幸福の日々を送っているかのような書き方に終始するのである。
 もちろん、このような歴史記述には何の科学性も信憑性もなく、単なる後世の人びとの好き勝手な想像であろう。しかし近代以前、ほとんどの中国知識人はこのような牧歌的な古代社会のイメージを真実だと信じ込み、いい加減な中国伝統史学を唯一の学問だと認識していたのである。
 伝統史学の解体と『新史学』の構築
 そのような中国の伝統史学を根底から引っ繰り返したのは、当然、近代以来の啓蒙運動であった。この連載の第一回目に記したように、近代になってから『西洋の衝撃』によって、『中国こそが文明と学問の中心である』という中華思想の妄想が大きく揺らいだ。そして、西洋の学問と思考法が日本を経由して中国に伝わってくると、中国の一部知識人はやがて中国的価値観と学問に決別を告げ、近代的学問の視点と思考法から中国の『新学問』を再構築するようになった。
 学問の再構築のなかで、もっとも重要な位置を占めたものこそ『中国学問』の中心をなす史学の分野であった。伝統史学を解体して『新史学』を構築することが、きわめて重要な課題となる。その時代の中国知識人は、近代的視点から中国の歴史を根本的に見直し始めたのである。
 時代に先駆けて『新史学』を提唱し、最初に伝統史学の解体を言い出したのは、この連載の第三回目の主人公である啓蒙思想家の梁啓超である。 
 梁啓超が伝統史学への痛烈な批判を行うようになったのは、やはり、日本に亡命してからのことであった。
 日本で書かれた『新史学篇』(1902年)という著作のなかで彼は、『中国の24史は歴史ではない。単なる24家の家譜にすぎない』と伝統的な歴史書を鋭く批判した。ちなみに、この『新史学篇』という著作のタイトルから、『新史学』という言葉が生まれることになる。
 梁啓超の『新史学』がめざしたのは、王朝の立場から歴史の粉飾、美化、改竄を行う24史の悪しき伝統から脱出することだった。そのうえで、国民・国家の立場から本当の歴史を書いていくことがめざされた。中国およびその歴史は各王朝の専有物としてではなく、全体的かつ客観的に描かれなければならないという科学的思考によるものだった。
 さらに梁啓超は、辛亥革命後に『中国歴史研究法』(1922年)を発表して、『新史学』の研究法を提示した。同書では、特定のイデオロギーや先入観から歴史を論ずるのではなく、『客観的資料の収集』から始めることの重要性が強調されている。
 現在から見れば、『客観的資料の集取』などということは、歴史学だけでなく学問全般の手法において基本中の基本だ。しかし、その当たり前のことが、当時の中国では画期的な提案だったのである。
 このようにして、明治日本が育てた中国の啓蒙思想家の梁啓超は、中国の伝統史学を痛烈に批判した上で、近代学問としての『新史学』を初めて提唱したのであった。そして梁啓超の提唱した新史学の理念を受け継いで、実際の学問研究を通じて中国の『新史学』を確立させたのが、やはり、明治の日本で学問を学んだ二人に大学者で──今回の主人公である王国維と郭沫若─あった。」


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