🎶15:─1─近衛上奏文と共産主義の敗戦革命。世にも恐ろしい共産主義(マルクス主義)。~No.31 

 
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1943年3月18日 近衛文麿は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招いて、陸軍中堅層の「国家革新の陰謀」を打ち明け、後継首班を引き受け「赤に魅せられた」陸軍の革新派(隠れマルクス主義者)を速やかに粛清する事を要請した。
 近衛文麿満州事変発生以前より石原莞爾ソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案を作らしめた。この二案は池田成彬結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。
 石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の新人の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ新人は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。
 この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の新人は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである。……
 要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
 翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。」
   ・   ・   ・   
 1945年2月14日 近衛上奏文
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
 敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。
 つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。
 ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権を爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。
 ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に準備せるポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。
 ルーマニアブルガリアフィンランドに対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエト政権に非ざれば存在し得ざる如く致し候。
 イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる故を以て、内閣総辞職を強要致し候。
 スイスがソ連との国交開始を提議せるに対しソ連はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 英米占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり、而して是等武装団を指揮しつつあるものは主として共産系に御座候。ドイツに対してはポーランドに於けると同じく巳に準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。
 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。
 少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 抑々満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候。
 是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。
 此事は過去10年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去10年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。
 不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。
 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
 一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。
 戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。
 もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるがゆえに、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。 尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改らば、彼等としては戦争の継続につき、考慮するようになりはせずやと思われ候。
 それはともかくとして、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上」
  ・   ・   ・  
  昭和天皇は、上奏文の内容について下問した。
 天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
 近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
 天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
 近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
 天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
 近衛「それは、陛下のお考え…。」
 天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
 近衛「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
 天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
 近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」
   ・   ・   ・   
 近衛文麿は、戦争を続けると共産主義革命の危険性が増す為に、戦争を早期に終結するように訴えた。
 共産主義勢力は、幾たびも弾圧されたが、政府部内、政治家、官僚や軍人、右翼や右派にも、到る処に潜んでいると警告した。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、共産主義は失敗した。
 共産主義は、あ何も生み出さず滅び去った。
 だが、日本国内外には共産主義の残党が数多く生き残り、過激派は今も支持者からの支援を受けて活動している。
 日本には、現在も、共産主義の脅威が存在している。
   ・   ・   ・   
 2016年6月11日 産経ニュース「【日本共産党研究】「侵略戦争に唯一反対した党」という自画自賛は本当なのか? 彼らに与えられた恐るべき「任務」とは…
 撤去されるレーニン像=1991年8月23日、リトアニア(AP)
 ※この記事は5月27日発売の「日本共産党研究−絶対に誤りを認めない政党」(産経新聞政治部、産経新聞出版)から抜粋しました。ネットでのご購入はこちらへ。
   ◇   
 日本共産党は、なぜそこまで警戒されるのか。歴史をひも解けば、その理由はすぐにわかる。
 そもそも日本共産党は1922(大正11)年、旧ソ連のモスクワに本部を置く「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)の日本支部として誕生した。結成当初のメンバーは堺利彦、山川均、野坂参三徳田球一らである。
 ロシア革命(1917年)後の19年、レーニンによってつくられたコミンテルンは、共産主義の思想を各国に「輸出」し、全世界を「ソビエト化」つまり、共産主義化することが目的の組織だった。
 当時誕生したばかりのソ連は、一国だけの革命政権が、いずれは他の資本主義諸国から包囲されてしまうことを恐れ、諸外国にも同様の革命組織が必要だと考えたのである。このため、各国支部共産主義者たちは、コミンテルンによるモスクワからの指令と資金提供を受けて、ソ連のための工作やスパイ活動はもちろん、自国の政治体制を内部から混乱させて、いずれは自国でも革命を起こそうと考えていたのだ。
 公式的な指令は「テーゼ」と呼ばれ、日本共産党にも結党時の「22年テーゼ」や、その後の「31年テーゼ」などがあるが、その「任務」を強く打ち出したのが、32年にコミンテルンが決定した「32年テーゼ」である。ここでは、武力闘争による「絶対主義的天皇制打倒のためのブルジョア民主主義革命」を明確に指示しており、これを「綱領文書」と位置付けていたのが戦前の日本共産党だった。
 25年に日本で成立した治安維持法も、そもそもは共産主義者を取り締まるためのものだった。現在では「戦前の悪法」の代表格のように言われているが、「天皇制打破」と「共産主義革命」という、まさに国家転覆とほぼ同義の言葉を綱領に掲げる組織に対し、国が警戒するのは当然だった。
 結果的に党指導者らは厳しい弾圧を受け、別の罪で死刑に処されるものもいた。現在でも、日本共産党は「戦前、侵略戦争に反対した唯一の党」「獄中で弾圧されても命をかけて戦った唯一の党」などと常套句のように自画自賛する。だが、こうした「美談」が真実をねじ曲げていることは、コミンテルン日本共産党の関係を考えただけでも明らかである。
 当時の日本共産党の具体的な目的は、スパイ活動を通じてソ連に情報を流し、中国大陸に進出していた日本軍のソ連侵攻を阻止することに加え、中国で進行中だった共産主義革命を支援することであり、いずれもコミンテルンが与えた任務だった。
 わが国が先の戦争に至った経緯については議論が分かれるところではあるが、その時、共産党は他国と内通し、他国の指示に従って、自国の体制を転覆させようとしていたに過ぎなかったのである。決して「平和のため」に「戦争反対」を訴えていたわけではないのだ。
 こうした見方に対して日本共産党はどう反論しているのだろうか。2006年9月の「しんぶん赤旗」で、「コミンテルンとの関係どう考える?」として、読者からの質問に答える形で述べている。
 「北海道の一読者」が《戦前、日本共産党コミンテルンの日本支部として出発したと知りました。そのこととコミンテルンスターリンの道具になっていたこととの関係をどう考えているのでしょう》と尋ねたのに対し、ペンネーム(喜)は、日本共産党コミンテルン日本支部だったことは当然認めた上で、コミンテルンを設立したレーニンの方針について、《政治上、理論上の大きな誤りや弱点も少なくありませんでした》《晩年のレーニンは、あたらしい路線の積極的な探究をはじめていましたが、1924年のレーニン死後、その探究もとざされてしまいました》と答えている。つまり、「レーニンの考え方にも一部に誤りや弱点はあったものの、そのレーニンが亡くなってしまったので仕方がない」という理屈である。
 では、当時、下部組織だった日本共産党は、コミンテルンに対して《誤りや弱点》を指摘したり、支部の立場を脱退したりすることはできなかったのだろうか。これについては次のように答えている。
 《生まれたばかりの日本共産党は、今日のような自主的な立場を自覚的にもつにはいたっていませんでしたが、世界の革命運動の国際的到達点にもささえられながら、民主主義の実現をめざして天皇絶対の専制政治をうちやぶるたたかいに全力でとりくみました。その点で、戦前の日本共産党の活動には、日本における民主主義革命の実現を重視したコミンテルンの前むきの援助とともに、コミンテルンの方針にともなう誤りや弱点もさまざまな形であらわれました》
 結局、《生まれたばかり》でよくわからなかったが、《天皇絶対の専制政治をうちやぶるたたかい》に日本共産党が全力で取り組んだと言いたいのはよくわかる。ただ、コミンテルンについては《前むき》だったからよかったのか、《誤りや弱点》があって悪かったのかが、不明である。なぜこのような奥歯に物がはさまったような評価になってしまうのか。
 それは、後に詳しく触れるが、日本共産党が、「共産主義」そのものを正面から総括しようとはせず、「レーニンの時代の共産主義はよいが、その後のスターリンの時代は悪い」という枠でしかものを見ていないからである。(喜)はさらにこう続ける。
 《コミンテルンは、日本共産党の加入から30年代前半までは、健全さをまだもっていました。しかし、37年から38年には、スターリン専制と弾圧がコミンテルンにもおよび、コミンテルンなどで活動していた外国の共産党の幹部、活動家への弾圧がつよまります。これ以後、コミンテルンは、スターリンの外交路線への追従と覇権主義的支配の舞台となるなど、各国の運動の前進をさまたげる反対物に変質をとげてゆきました》
 では、なぜ当時の日本共産党は、スターリンと決裂しなかったのか。(喜)は、まるで他人事のようにこう答えている。
 《当時、日本共産党中央は、天皇制政府の弾圧で獄中にあり、コミンテルンの変質の進行を知ることはできませんでした》
 日本共産党は、2004年1月に改定された現在の綱領でも《発達した資本主義の国での社会主義共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である》と社会主義共産主義革命への道を捨てていない。
 1991年のソ連崩壊や、それに従属してきた東欧諸国の崩壊についても《社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義官僚主義専制主義の破産であった》と切り捨て、あくまで「ソ連社会主義が間違っていた」との論法で自らに火の粉がかかるのを防いでいる。
 つまり、「レーニンはよいが、スターリン以降は間違っている」とのいつもの理屈だが、73年に改定するまでの綱領ではこうも明記していた。
 《党は、「万国の労働者団結せよ」の精神にしたがって、プロレタリアートの国際的団結をつよめるために努力する。ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、すべての人民大衆が人類の進歩のためにおこなっている闘争をあくまで支持する》
 ご都合主義もいいところである。
 ※この記事は5月27日発売の「日本共産党研究−絶対に誤りを認めない政党」(産経新聞政治部、産経新聞出版)から抜粋しました。ネットでのご購入はこちらへ。
   ・    ・   ・   



   ・   ・   ・