世界はこれほど日本が好き――No.1親日国・ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」
- 作者:河添 恵子
- 発売日: 2015/10/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
歴史修正主義と軍国日本の人道的貢献。
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日本では、如何に歴史的な偉業をしても一度失敗すると、人権が剥奪され、人間性は抹消され、死んだ後も尊厳が否定され、魂・霊魂まで踏みにじられる。
現代の日本には、失敗者を許さない原理主義的不寛容で救いはない。
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日本で出世・昇級・進級するには、成功や貢献は正しく評価されず無価値であり無意味であった。
評価基準で重視されるのは、「何を成功させたか」ではなく「失敗しなかったか。つまり何もしなかったか」である。
現代日本の高学歴出身知的エリーが目指す生き方は、「目立たず何もしない」と言う事である。
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日本では、努力しても、苦労しても、頑張っても、未来・将来に対する夢も希望もない。
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田中義一は、中国共産党が作成した偽書・田中議定書(メモランダム)に関連したと濡れ衣を着せられた。
東條英機は、中国共産党が告発する板垣征四郎・松岡洋右・松井石根ら同様にA級戦犯として、リンチ的縛り首で殺された。
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日本はおろか世界は、「正義」の名の下で、国際法で犯罪者と有罪判決を受けた田中義一や東条英機の「弱者を助けた人類史的人道貢献」を一切認めない。
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昭和天皇が望んだ善意を悪意で歪めたのは、キリスト教歴史観とマルクス主義(共産主義)階級闘争史観の東京裁判史観そして日本人極悪非道の重罪人史観=自虐史観である。
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中国共産党・中国軍は、反日派敵日派である、
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2018年5月号 正論「シベリア出兵の美しい真実
ポーランド人を救った日本人 井上和彦
日本は本当の友人
『ポーランドには、〝苦しい時に本当の友人がわかる〟という諺があります。まさにこれはポーランドと日本の関係を表しています』
シベリアのポーランド孤児救出──日本ではほとんど知られていない近現代史の秘話は、ちょうど100年前の1918年(大正7)から始まった『シベリア出兵』最中の出来事だった。
……
19世紀、ポーランド人は真の独立を勝ち取るべく二度にわたって帝政ロシアに対して独立戦争を挑む。だが蜂起は鎮圧され、さらに蜂起に立ち上がった多くのポーランド人は政治犯としてシベリアに強制的に送られたのだった。
その後、第一次世界大戦で戦場となったポーランドの人々がシベリアに逃れ、シベリアのポーランド人は15万人から20万人に膨れ上がったという。そんな最中の1917年にロシア革命が起きた。そして翌1918年に第一次世界大戦が終結してようやくポーランドは独立を回復する。
だがシベリアのポーランド人は、ロシア内戦で祖国への帰還が困難となり、それどころか生活は困窮を極め、餓死者などを続出したのだった。
そんな同胞の惨状を知ったウラジオストク在住のポーランド人が彼らを救済するため『ポーランド救済委員会』を立ち上げた。そして彼らは、せめて子供達だけでも救って祖国へ帰してやりたいと駆けずり回った。だがそんな訴えも各国を動かすことができなかったのである。
もはや万策尽きたか──いや、シベリアには精強無比なる日本軍がいた。ポーランド救済委員会はただちに日本政府にSOSを送ったのである。
1920年6月18日、ポーランド救済委員会を立ち上げた一人アンナ・ビエルキェビッチ女史がウラジオストクの日本領事を訪ね、さらに東京との外務省を訪ねその窮状を訴えた。
その申し入れを受けて日本が動いた──外務省は、日本赤十字社に救済事業を要請するや、7月5日に子供らの救護活動に入ることを決定する。
原敬内閣、陸軍大臣・田中義一大将、海軍大臣・加藤友三郎も了承。こうして日本政府および日本赤十字と日本軍が、各国が見放したシベリアのポーランド孤児救援に立ち上がったのである。
ただちに日本陸軍が救援活動に動く出し、救援決定からわずか二週間後の7月20日に56名の児童とポーランド人の付き添い5名を乗せた日本陸軍の輸送船『筑前丸』が第一陣としてウラジオストクの港を出港した。
日本を離れたくない
3日後の7月23日、筑前丸が福井の敦賀港に入港し子供達が上陸するや、日本赤十字をはじめ軍や警察、役場、さらに一般の敦賀の市民までもが孤児たちを暖かく迎え入れた。 ……その後、子供達は敦賀から列車で東京へと向かい、福田会育児院に収容された。
こうして第一陣の『筑前丸』以降、翌1921年7月までに5回の救援便がウラジオストクと敦賀(つるが)を往復し、合わせて375名に児童が救出された。
当時ポーランド孤児を受け入れて養護した福田会の現在の理事長・太田孝昭氏はいう。 『ポーランド孤児達を受け入れ、そして養護したことは福田会の誇りですが、なにより全国から多額の義援金が寄せられたことを忘れてはなりません。とても福田会だけでは使いきれないほどの善意が寄せられたんです。決して豊ではなかったはずなのに、困っている人を助けようとするあの当時の日本、そして日本国民はほとうに素晴らしいかった!この一事に尽きる』
そして手厚く看護されて元気を取り戻した子供達が横浜港から船でアメリカに向かうことになった。
……
その時の様子を元ポーランド大使の兵藤長雄氏はその著書『善意の架け橋──ポーランド魂とやまと心』(文藝春秋)でこう記している。
≪横浜港から出発した際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランドの付添人に抱かれて乗船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、『君が代』の斉唱をして幼い感謝の気持ちを表して別れを惜しんだという≫
だがそれでもまだシベリアにはおよそ2,000名の孤児が救援を待っていた。ビエルキェビッチ女史は1922(大正11)に再び日本を訪れ救援を求めた。日本赤十字も経費負担と格闘し、最終的に急を要する孤児約400名を受け入れることを決定、再び陸軍が支援に乗り出した。
1922年8月、輸送船『明石丸』と『臺北(たいほく)丸』が3回にわけて孤児390名をウラジオストクから敦賀に運んだのである。もちろんこの第二陣の児童も前年同様に敦賀の人々に温かく迎えられ、大坂の天王寺に建てられた大阪市立公民病院宿舎に収容された。
大阪での歓迎ぶもりまた、東京でのそれに勝るとも劣らぬものがあった。
博愛の連鎖
敦賀の金ケ崎町には、『人道の港敦賀ムゼウム』という博物館がある。ここにポーランド孤児救出と、その20年後のユダヤ人難民救出に関わる経緯や様々な貴重な資料が展示されている。
列強干渉軍は、ロシアの反革命軍(白軍)らと共にボルシェヴィキ勢力と各地で戦闘を繰り広げたが1918年11月に第一次世界大戦が終わり、その後各国軍が撤収する中、日本軍は撤収せず極東地域に留まって戦い続けたのだった。日本が撤退しなかったのは、革命の波及を恐れ、この地に緩衝地帯をつくりたかったからにほかならない。つまり日本の安全保障上の理由からだった。
そしてその結果としてポーランド孤児を救うことができたのだ。
さらにこの出来事は〝博愛の連鎖〟を生んだことも付け加えておきたい。
日本に助けられたポーランド孤児たちの中には、その体験をもって、第二次世界大戦中に迫害されたユダヤ人を命がけで守った人もいたのである。
脈々と続くポーランドとの交流
そしてポーランドはこの孤児救援のことを忘れていなかった。
平成7年と8年、ポーランド政府が阪神淡路大震災の被災児童らをポーランドに招待し、ワルシャワで4名のポーランド孤児との対面などを通じて子供達らを温かく励ましてくれたのだった。
その後も、ポーランド政府は、平成23年に発生した東日本大震災で被災した岩手県と宮城県の子供達を2週間もポーランドに招いてくれた。
……100年前のポーランド孤児救出劇への感謝はいまも色あせることはない。
……
駐日ポーランド共和国大使館の広報文化センター所長のマリア・ジュラフスカ一等書記官はいう。
『このポーランド孤児救援の出来事は、実に感動的な話であり、いまもポーランドでは語り継がれています。是非とももっと日本人に知ってもらいたいと思います。いまでもポーランド政府は、日本国に感謝しています。あまり知られていないようですが、歴史的にポーランドと日本はたいへん密接な関係を続けてきたのです』
実は、ジュラフスカ氏の言葉にあるように、日本とポーランドの絆は、このシベリアからの孤児救出の前に、正確に言えば日露戦争(1904年)の頃から始まっており、さらに驚くべきことに第二次世界大戦中もポーランドはずっと繋がっていたもである。
ロシアの支配下にあったポーランドにとって、極東で日本がロシアと戦争を始めてくれれば、これを契機に立ち上がる。
一方、日本は、ポーランドからロシアに関する情報を入手し、ポーランド人の協力を得て内側からロシアを弱体化させることもできると考えた。
お互いの利害は一致していたのである。
そうして二人のポーランド人が日本を訪れた。
後に初代国家元首となるポーランド社会党の活動家であったユゼフ・ピウスツキは、日露戦争を機にロシアに対する武装蜂起を考えた。
これに対して、
ロマン・ドモフスキは、武装蜂起には反対しつつも、日露戦争における日本への支持を表明し連携を考えていた。
ピウスツキらは、日本軍と共にロシア軍と戦う断固たる決意をもって『ポーランド軍団』の創設を提案し、またロシア軍の中のポーランド兵士の日本軍へ投降、さらにシベリアにおける鉄道などへの破壊活動を日本に申し入れている。
この当時の極東地域のロシア軍の中のおよそ3割がポーランド兵だったようで、戦闘の重大局面におけるポーランド兵の離反は、ロシア軍にとって大きな痛手となる。物理的な防衛力の低下に加え、著しい士気低下を招きかねなかったはずだ。いずれにせよポーランドの独立指導者らはそんな提案までしていたのである。
それぞれの主張は違えども、ピウスツキもドモフスキも、日露戦争をポーランド独立の好機と捉えて日本との提携を模索してそれぞれ来日して日本軍高官と協議している。
1904年5月─7月の間日本に滞在したドモフスキは、参謀本部の児玉源太郎参謀本部副部長および福島安正第二部長の両将に面会しており、両将の勧めでロシア情勢やポーランド問題とポーランド人の要望に関する覚書を作成し、さらに彼はポーランド兵士に対するロシア軍からの離脱と日本軍への投降を呼びかける日本政府の声明文の作成にも携わった。ちなみにこのときのドモフスキの両将への面会を後押ししたのが、かの明石元二郎大佐だった。
ここで注目すべきは、ピウスツキとドモフスキが共にポーランド人捕虜に対して特別に処遇してくれるよう日本に申し入れていることである。
事実、捕虜は四国の松山に収容されたが、ポーランド兵はロシア人とは別の場所で特別待遇されている。彼らは捕虜でありながら、かなりの自由が認められていたようで外出時などには地元の人々から心温まるもてなしを受けたという。こうしたことに感銘を受けたポーランド人捕虜の日本への思いはいやが上にも高まってゆき、親日感情が醸成(じょうせい)されたのだった。
さらに明石大佐は、ポーランドの武装蜂起を支援し、武器購入のための資金をポーランドへ提供し続け、日露戦争の勝利と同時にポーランドの独立を助けたのである。
シベリアにいたからこそ
駐日ポーランド大使館のウルシュラ・オスミツカ一等書記官はこう語る。
『当時のポーランド人は、日本はポーランドの味方だと感じていましたし、ユゼフ・ピウスツキなどは日本と一緒に戦いたいと考えていました。そして日露戦争中、ポーランド人は皆日本を応援していました。そして小さな日本が大きなロシアに勝ったことで、ポーランド人にとって日本はヒーローになったんです。それは後に日露戦争で活躍した日本軍人51人にポーランド政府から勲章が贈られていることが証左です』
なるほど、ピウスツキは、日本兵の士気の高さや将校の有能さを高く評価していたといい、ピウスツキが軍事功労勲章の委員会総裁だったときの1925年(大正14)、目覚ましい戦功を上げた日本軍将校51名にポーランドの勲章授与を決定(授与は1928年)している。
さらにオスミツカ一等書記官はいう。
『第一次世界大戦後の1920年、今度はポーランドとロシアが戦争になったのですが、ピウスツキがモスクワまで攻め込んで勝利しました。そしてその後の第二次世界大戦でも、日本はドイツと同盟を結んでいるにもかかわず、ポーランドと日本は水面下で繋がっており、情報分野で協力し合っていたんです。つまりポーランドと日本は、これまで一貫して友好であり続けてきたんです。・・・これからも両国はそうあってほしですね』
驚くべきことに、日本はドイツと同盟を結びながらも、ドイツによって占領されたポーランドと情勢を情報分野でずっと繋がっていたのである。
知らされざる日本とポーランドの交流秘話──両国の絆は日露戦争にさかのぼり、その後のシベリア出兵で結果として、765名のポーランド孤児を救援することができた。両国の感謝の応酬は今も続いている。
2018(平成30)年、今年は、ポーランド孤児救出劇を生んだシベリア出兵から100年目にあたる。そして来年は、日本とヨーロッパ一の親日国家ポーランドとの国交樹立100年を迎える。」
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4月21日17:25 産経ニュース「「深い憂慮と遺憾」 靖国神社への奉納に韓国外務省が声明発表
靖国神社の春季例大祭に合わせて安倍首相が奉納した「真榊」=21日午前、東京・九段北
韓国外務省報道官は21日、日本政府や国会の指導者らが靖国神社に供物を奉納したり参拝したりしたとして「深い憂慮と遺憾を表明する」との声明を発表した。春季例大祭に合わせ安倍晋三首相らが21日「真榊」と呼ばれる供物を奉納したことを念頭に置いた抗議とみられる。
声明は靖国神社が「過去の植民・侵奪と侵略戦争の歴史を美化している」と指摘。「(日本の指導者らに)過去の歴史に対する謙虚な省察と真摯な反省を通じて、周辺国と国際社会の信頼を得る努力をするよう促す」としている。(共同)」
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ポーランドは、対ロシア(ソ連)・対ドイツ戦略で日本陸軍との同盟意識を持っていた。
日本陸軍の主流は、親ドイツ派、親ナチス・ドイツ派、親ヒトラー派ではなく親ポーランド派であった。
軍国日本の軍国主義は、反共産主義であり反ファシズム・反ナチズムの全体主義であった。
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ドイツは、ロシアやアメリカ同様に反日派であった。
ヒトラーもルーズベルトもスターリンも、反日派であった。
当然の事であるが、ファシスト中国(中国国民党)の蒋介石も中国共産党の毛沢東も反日派以上の敵日派であった。
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日本人軍国主義者は、シベリア出兵時、日本陸軍の諒承のもとで戦火の中から敵国人であったロシア人の避難児童を救い出し、戦火が止んだ安全地帯の欧州側へ無償で送り届けた。
日本陸軍が犠牲を承知で行ったポーランド戦争孤児やロシア人避難児童の救出を承認し実行を命じたのは、田中義一陸軍大将であった。
日本軍部のユダヤ人難民救出・救護・保護を承認して実行を命じたのは、東条英機陸軍大将と松岡洋右であった。
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日本民族日本人の美徳は、神様や世間、国家や国民から賞賛され「善人」と承認を得る為に、態とらしく困った人や貧しい人に金銭を施し助けた事を自慢げに言い触らす行為は、心の穢れ・おぞましく醜いおこない・卑しい行為と嫌悪する素直な心である。
日本民族日本人と漢族系中国人や朝鮮人とは違うのである。
が、現代日本人が昔の日本人と同じ日本人とは限らない。
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自己満足的独り善がりの「正義」をネットなどで振り回して他人を非難中傷する日本人は、昔の日本人とは似ても似つかない「心の穢れ」た日本人である。
それは、左翼・左派・ネットサヨクやリベラルはもちろん右翼・右派・ネットウヨクも同様である。
特に、戦前を悪として一切認めない、完全否定する日本人は「心が穢れた」最たる日本人である。
偏見の強い左翼・左派・ネットサヨクは、日本軍がシベリア出兵時に共産主義軍隊(赤軍)からポーランド戦争孤児を救出した話は認めない。
シベリア出兵を犯罪行為と公言する日本人も、ポーランド戦争孤児救出をなかった事として完全無視している。
人種差別の強い右翼・右派・ネットウヨクは、ナチス・ドイツの魔の手からユダヤ人難民を救援し保護した話を認めない。
反天皇反日的日本人は、天皇に関する全ての人道的貢献を認めないし否定し抹消している。
弱者救済は、神代から受け継がれた皇道の大原則である。
日本民族日本人の弱者救済は、皇道を根源としている。
天皇制度を廃絶しようとする反天皇反日的日本人は、弱者救済の皇道を認めない日本人である。
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日本神道・皇室神道には、キリスト教の博愛ではなく、仏教の慈悲ではなく、女神・天照大神、仁徳天皇、光明皇后(藤原氏の娘)から昭和天皇へと脈々と受け継いできた慈愛の心(大和心)が基層に存在する。
反宗教無神論のマルクス主義(特に共産主義)や偏狂的男尊女卑の中華儒教では、日本的な「慈愛の心」は理解できない。
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世界で心ある国々の人々は、戦前の日本から受けた恩を忘れてはいなかった。
特に、トルコやポーランドは昔の日本への感謝の念が際立っていた。
その正反対なのが、中国、朝鮮、ロシアである。
自然災害多発地帯日本での生き方は、「情けは人の為ならず」と「風が吹けば桶屋が儲かる」である。
前者がトルコ・ポーランドなら、後者は中国・朝鮮・ロシアである。
北方領土、尖閣諸島、竹島そして靖国神社などの諸問題が解決できないのは、この為である。
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ロシアは、日本人軍国主義者が日本軍と協力してロシア人避難児童を命を賭けて救出した事に感謝しない。
中国は、東条英機と日本陸軍が激戦中でありなが、河南省の飢餓地帯で餓死寸前の中国人被災者約1,000万人を貴重な軍需物資を放出して助けた事に感謝しない。
日本国憲法が「世界の良識」と期待する世界とは、そんなものであり、その程度のものである。
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