🎶18:─1─レーニンは、世界に暴力的共産主義革命を輸出する為に日中戦争と日米戦争をプロデュースした。~No.40No.41No.42 @ ⑥ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 対日包囲網としての、ソ連コミンテルン中国共産党日本共産党
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 中国共産党の日本共産主義革命計画。
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 日本の安全保障は、ロシア及びソ連の侵略から如何にして祖国日本を守るかであり、その国防計画の延長に対朝鮮戦略と対清国(中国)戦略があった。
 ロシア・ソ連と対抗する為には、清国(中国)と朝鮮を親日派として軍事三国同盟を結び、共同防衛戦線を築く為に両国を近代化させる事であった。
 日本は、ロシアを恐れていた。
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 マルクス主義者は、帝国主義戦争に反対する平和勢力といわれていた。
 コミンテルンは、絶対平等の「人類の理想」を掲げた。
 軍国日本は、平和勢力と闘っていた。
 天皇制度を死守する為に、過激なマルクス主義者や共産主義者を弾圧したが、イデオロギーだけを理由に死刑は行わなかった。
 思想犯に対する死刑は一人もいなかったが、拷問に近い取り調べで死亡した者はいた。
 それでも、諸外国の政治犯への拷問的取り調べに比べれば手緩かった。
 諸外国では、反体制派の政治犯や思想犯に対して真面な裁判をせず処刑した。
 日本の司法権は、天皇の大権の一つである。
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 日本には、日米戦争を起こそうとしたレーニンを偉大な指導者と崇め、その思想を学び実践しようとした日本人達がいた。
 彼らは、大学などの最高学府を卒業した優秀で有能なエリート達であったが、人としての持っているはずの思考の一部が停止していた。
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 レーニンの思想を正統に引き継いでいるのは、中国共産党である。
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 瀬長亀次郎(日本共産党副委員長)「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」
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 竹山道雄「昭和の初めの若い青年の中の活動的な分子がつぎつぎに赤に染まった」
 「大正末昭和初めには、すべての思想雑誌が赤一色だった。赤にあらずんば人にあらずという、強力な圧力が生まれていた。
 この左翼の傾向的集団表象が、一部の若い軍人にうつって『青年将校』となった。……外から察しえぬことではあったが、この両者のつながりをかんげないことには歴史についての感覚がないことになる。……一見正反対のものと思われ、当人たちもそう思っていたとしても、それは反面教師としてはたらいたので、かれらの真の動機は社会構造を改めようとすることにあった。……青年将校たちは、天皇が腐敗した政党財閥の上にのって機関説によって運用された者であるかぎり、そのために満州で死ぬことはできなかった。自分たちが死ぬのは、国家永遠の生命の象徴たる現人神のおん為でなければならなかった。かくて、天皇機関説排撃は神学論争だった」(『昭和の精神史』)
 「人間は世界を幻のように見る。……
 人間はなまの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮かべた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求したがって構成して、それをなまの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば『第2現実』とでもいったようなものが存在する。これは映画に似ている。すなわち、ある特定の立場から材料を取捨選択してモンタージュしてでき上がったものであり、現実を写しながら現実とは別なものである。この映画は、それ自身の中に因果の法則をもち、筋書きもち、昂奮させ陶酔させる。……進歩的世界像も、やはりこのような『第2現実』というタイトルの映画である」
 「人間は思い浮かべた世界像──第2現実──を経験している。人間は世界を幻のように見る。そして、これはただ日本人だけの性向ではなく、人間そのものに共通である」
 「世界についての人間の認識はおおむね・・・欲望と想像力と集合性という三つのものによって決められるのではないか。これを傾向的集合表象とよんでみたい」
 「傾向的集合表象はナマの客観世界から独立して、人間精神の中だけで成立した世界像であるが、ほとんど絶対の権威をもって支配する。それが風のごとく来ってまた去ってゆくのを私は幾度も経験した。それが一世を覆うのをいかんとも解することができず、ついには国運をも傾けてゆく中にただ怪訝の念をもって揉まれていた」
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 1901年 日本で初の社会主義政党である社会民主党が組織された。
 1903年 清国は、中国の近代化を日本に学ぶべく、優秀な中国人約1,000を日本に留学させた。
 日本は、古代的な中国を近代化すべく、清国を通じで全面協力した。
 もし日本が親身になって協力しなければ。中国は近代化できなかった。
 中国には、自力で近代化する能力も体力もなかった。
 片山潜は、中江兆民と共に「平民新聞」を創刊した。
 片山潜は、抑圧された人民を救済するには宗教ではなくマルクス主義であるとして、キリスト教を捨て社会主義者となった。
 平民新聞は、エンゲルス著『空想から科学へ』など社会主義共産主義に関する多くの文献を翻訳して出版した。
 1905年 日露戦争
 日本は、ロシアの侵略から祖国日本を守る為に戦争をした。
 それは、正しい戦争であった。
 敗れたロシア人は、人種差熱主義者として、日本を絶対に許さず、絶えず復讐戦の機会を狙っていたが、日本陸軍の実力を恐れていた。
 日本に勝つ為には、日本陸軍を弱体化させ無力化する必要があった。
 中国では日本が日露戦争に勝利した事で、日本への留学熱が高まり、日本へ中国人留学生約8,000人が押し寄せた。
 中国人留学生の内で、日本と友好関係で西洋列強からアジアの独立と平和を築こうという考えは少数派であった。
 大半は、日本と再度戦って日本軍を撃破して中国人の自信を取り戻し、アヘン戦争の復讐戦を勝利して中華帝国の威信と栄光を復活させる事を誓っていた。
 中国は、反日であり、親日ではない。
 知日とは、日本に勝つ為に日本を知ろうという事であって、友好の為ではない。
 1906年 日本最初の合法社会主義政党無産政党)である日本社会党が結成された。
 陳独秀ら中国人留学生は、日本語に翻訳された社会主義共産主義の文献を読み革命家となった。
 中国共産党の芽は、日本で生まれた。
 1911年 孫文ら革命派は、日本右翼勢力の力を借りて辛亥革命を起こした。
 2月12日 清王朝が崩壊して、アジアで初めての皇帝なき共和制国家・中華民国が誕生した。
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 1912年 袁世凱は、軍事力を背景にして中華民国初代大統領に就任した。
 1915年 袁世凱は、中華の混乱は伝統的な皇帝制でなければまとまらないとして皇帝に即位した。
 陳独秀は、社会主義共産主義の日本語訳文献を携えて帰国し、新文化運動を始め、知識人層を啓蒙する為に伝統的儒教価値観を批判する雑誌『新青年』を刊行した。
 憂国の念に燃える知識人層や学生達は、欧米列強や日本に敗れ沿岸部を租借として奪われ、植民地支配が進む事を憂い、腐敗堕落でなすすべをしらない無能さに苛立ちを覚え、陳独秀らが始めた社会主義運動を支持し始めた。
 1916年 袁世凱は、独立派を中心とした反帝制運動の盛り上がりで失脚し、失意の内で憤死した。
 中国は中華民国と幾つかの軍閥が割拠して、武力統一を目指す激しい内戦状態に突入した。
 日本は欧米列強は、中国在住の自国民の内戦から保護する為に、過去の諸条約を根拠にして最小限の軍隊を合法的に駐屯させた。
 もし。軍国日本が、中国の内戦から日本人居留民を保護し、戦争に巻き込まれたくなかったら、中国に住む全ての日本人居留民を見捨てるか帰国させるべきであった。
 中国人が、中華思想で日本との対等関係による友好を望まない以上、上下関係を巡っての日中戦争は避けられない運命にあった。
 中国人留学生は、その目的の為に日本に留学していた。
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 1917年3月(ロシア暦2月) ロシア2月革命。 
 共産主義者は、血に餓えていた。
 共産主義大義を成功させる為ならば、数百万人でも、数千万人でも、虐殺しても罪の意識を抱かなかった。
 共産主義国は、大虐殺の上に建国され、大虐殺によって守られていた。
 軍国日本が、相手にしていたのはそうした共産主義者ソ連、ロシア人であった。
 11月(ロシア暦10月) ロシア10月革命。
 石井ランシング協定。臨時特命全権大使石井菊次郎とアメリ国務長官ロバート・ランシングは、中国に関する共同宣言を行った。
 12月19日 革命政府のボリシェヴィキレーニン派)は、独自の報道機関『イズベスチヤ』紙を設立して啓蒙活動を開始した。
 レーニンは、王党派や反革命派などの白衛軍が欧米資本の支援を受けて攻勢に出て赤衛軍が苦境に陥っている為に、白衛軍と資本主義諸国との連携をうち砕くべく、旧ロシア帝国政府が諸外国と結んだ秘密協定や公式条約秘密条項を暴露しイズベスチヤ紙で公表した。
 その中に、1916(大正5)年7月に締結された第四次日露協約の秘密条項が含まれていた。
 秘密条項は、日本とロシアが満州を南北に二分割して棲み分け、満州利権を第三国(主にアメリカ)から共同して守る、という対米攻守同盟であった。
 ソ連工作員は、アメリカで日本への脅威論を喧伝して排日運動を煽り、中国で反日民族主義運動を指導した。
 ワシントンの指導層は、対日警戒心を強め、対日圧迫政策を取り始めた。
 ウィルソン大統領は、宗教的白人至上主義として日本を牽制する為に中国に肩入れした。
 中国は、アメリカが反日親中国政策を取り始めた事を知るや、さらに過激な排日民族主義運動を全土に拡大した。
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 1918年8月 米騒動
 シベリア出兵(〜22年)。
 日本は、ロシア干渉戦争に参戦する事には気乗りしなかったが、同盟国イギリスと友好国アメリカからの強い要請でシベリア出兵を決断した。
 アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、人種差別主義者として日本人を嫌っていた上に、イズベスチヤ紙の暴露記事を読み日本はアメリカを満州から占めだして独占しようとしていると判断した。
 海軍次官であったフランクリン・ルーズベルトも、日本は満州はおろか中国からもアメリカを排除しようとしている警戒し、中国の反日運動に理解を示し民族運動を支援し始めた。
 アメリカ企業群も、中国市場への参入する為に親中国反日政策を求めた。
 アメリ共産党は、ワシントンの変化をレーニンに伝えた。
 北京大学マルクス学説研究会が設立し、学生の間で社会主義共産主義への関心が広まった。
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 1919年3月 レーニンは、第二インターナショナルが国民に義務と民族主義の高揚で自国政府を支持して第一次世界大戦に協力した事を批判し、国民の義務と民族主義を否定する国際人民革命を世界に広める為にコミンテルン第三インターナショナル)をモスクワに創設した。
 マルクスは、国境を越え、民族の隔たりを取り除き、人民・労働者がインターナショナルに手を握らなければ共産主義は達成できないという、世界革命論を唱えた。
 自由・資本主義諸国への秘密プロパガンダ工作を行う司令部をドイツ・ベルリンに設置し、リーダーにドイツ人ヴィリー・ミュンツェンベルグを指名した。
 世にいう、「ミュンツェンベルグ・トラフト」である。
 ミュンツェンベルグは、専制君主や資本家を打倒する為に「反帝同盟」などのフロント組織を各国で組織し、社会的エリート層内に共産党員を増やした。
 打倒すべき敵体制内に共産党員を送り込み賛同者・協力者を獲得し内部から崩壊させるという、共産党の得意とする「トロイの木馬」作戦である。
 マルクス主義の「科学的な発展法則」に従って、社会をブルジョアとプロレタリアに分断して対立させ、既存の秩序を破壊して緩やかな社会主義革命を成功させ、その後に全てを破壊し敵対者を全て排除して共産党一党支配の強固な共産主義理想社会を完成させる。
 ミュンツェンベルグ・トラフトは、日本にも魔の手を伸ばし、東京帝国大学など最高学府に共産主義を浸透させ、さらに軍部内にも同調者・協力者を獲得した。
 日本軍部内で、総力戦の為には統制・計画経済が必要だと考える軍人官僚エリートはマルクス主義政策である国家総動員体制を参考とした。
 知識人としては、朝日新聞記者の尾崎秀実であった。
 政治家であれば、風見章であった。
 官僚エリートならば、帝国大学出身の革新官僚や転向官僚であった。
 軍人官僚エリートであれば、統制派の思想的指導者である池田純久であった。
 そして民族主義者であれば、転向組右翼であった。
 軍国主義者は、同じ全体主義者(マルクス主義者)といってもファシスト国家社会主義者)というより共産主義者に近かった。
 そして。共産主義者は、日本の政府・官僚・軍部の上層部に浸透し、新聞社や雑誌社に入り込んで日本を破滅へと誘導した。
 日本は法秩序が守られ安定していた為に後回しとして、社会混乱が甚だしく法秩序のない中国を有望地域として共産主義化工作を行った。
 中国の指導層や富裕層に共産主義への警戒心を取り除く為に、カラハン宣言を発し、ロシア帝国が不当に手に入れた中国利権を中国に返還すると宣言した。
 だが。ロシアは、如何なる手段であっも一度手に入れた利権や領土を放棄する気はなかった。
 知識人層や学生達は、ソ連を植民地支配からの解放者と誤解して歓迎し、共産主義に好意を抱いた。
 3月1日 3・1独立運動
 5月4日 5・4運動。北京の学生等は、パリ講和会議で日本の山東省権益の継承と日華21ヵ条要求が無効にならなかった事に対して反発して抗議活動を全土に広めた。
 7月 カラハン宣言。レフ・カラハン(ソ連外務人民委員代理=外務次官)は、中国の反日民族主義運動を味方に付ける為に、ロシア帝国と清国の間で結ばれた全ての不平等条約を破棄し、皇帝が奪った権益を無条件で返還するとの宣言を行った。
 ロシアは、昔から武力で奪った物は話し合いで返還する事なく、カラハン宣言は中国人を味方に付けるための餌であり、事実、返還の約束は反故にされた。
 中国人は、ソ連に裏切られても日本人を中国大陸から追い出す為にソ連の協力を歓迎した。
 10月 孫文は、上海で中華革命党を改組して中国国民党を旗揚げした。
 日本留学組は、大別すると二派の割れ、日本の支援を受けるべきと言う日本派とソ連の支援を受けてべきと言うソ連派であった。
 中国の保守層や知識層は、アヘン戦争は清国とイギリスの戦争であり、清仏戦争は清国とフランスの戦争であったが、日清戦争は日本と清国ではなく日本軍と李鴻章の私兵軍との戦争と認識しており、中国はイギリスやフランスなどの白人大国に敗北したが日本の如き野蛮な小国には負けてはいないという中華意識が強かった。
 その為に、大国意識の強い中国人は中国を昔の様な栄光ある国家に再興するには、下賤な日本ではなく白人のソ連を頼るべきであると確信していた。
 レーニンは、中国や日本などアジア全体を共産主義化する為にソ連スパイを送り込み、古典的中華思想で自意識過剰な中国人を取り込むべく謀略を仕掛けた。
 コミンテルンは、レーニンの「日本をアメリカとの戦争に追い込んで破滅させ、その混乱に乗じてアジアを共産主義化する」という戦略を実現するべく、中国共産党日本共産党の結党を急ぎ、そして中国・アメリカに反日市民運動を盛り上げソ連を中心とした3カ国対日戦線を築いた。
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 レーニンの大虐殺。
 1920年 コミンテルンは、日本・中国・朝鮮などに共産党を作るべく、上海に極東事務局を設置して工作員を送り込んだ。
 2月〜6月 ニコライエフスク(尼港)虐殺事件。
 ロシア人、中国人、朝鮮人らのパルチザンは、ロシア人約8,000人と日本人約700人を虐殺した。
 9月 コミンテルンは、中央アジア及び中国の共産主義指導者をカスピ海西岸のバクーに集めて東方諸民族会議を開催した。
 会議は、資本主義国の植民地支配からの解放にお互いが全面的に支援し合う事を約束した。
 コミンテルンの真の目的は、世界をソ連の利益に従属させ、諸外国の共産党をモスクワが指導する事であった。
 12月6日 レーニンは、ロシア共産党モスクワ組織の活動分子の会合での演説で、日本を共産主義化するには日本とアメリカを戦争に追い込み、日本を敗戦させ、敗北を利用して武力蜂起して共産主義革命を行うべきであると訴えた。
 世に言う、敗戦革命論である。
 共産主義者が取るべき基本方針は、日本とアメリカの間に相互不信を増幅させ、日本人とアメリカ人の間にお互いを憎む感情を植え付け、日本の国力を疲弊させ軍事力を弱体化させる事であると。
 日米戦争の芽は、日本に関係ないと事で作られていた。
 レーニンがなぜ日米戦争を引き起こして日本を敗北させようとしたか?
 それは、ロシア人が持っている日露戦争の敗北という屈辱の復讐である。
 日露戦争の敗北という屈辱を持つ限り、ロシア人は反日になっても親日・知日になる事は有り得ない。
 レーニン「両者の間には戦争が準備されている。両者は、その海岸が3,000ヴェルスタも隔たっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存する事ができない。
 ……地球は分割済みである。日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。日本は5,000万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い。アメリカは1億1,000万人の人口を擁し、日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。
 日本は、4億の人口と世界でも最も豊富な石炭の埋蔵量とを持つ中国を略奪した。こういう獲物をどうして保持していくか?
 強大な資本主義が、弱い資本主義が奪ったモノを全てその手から奪取しないであろうと考えるのは、滑稽である。……
 このような情勢の下で、我々は平気でいられるだろうか……共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用して、彼らを互いにいがみ合わせる事である。そこに新しい情勢が生まれる。二つの帝国主義国、日本とアメリカをとってみるなら──両者は戦おうと望んでおり、世界制覇を目指して、略奪する権利を目指して、戦うだろう。
 ……我々共産主義者は、他方の国に対抗して一方の国を利用しなければならない」
 アメリ共産党は、党員の多くをワシントンに潜り込ませ対日強硬策を国策に採用させていた。
 同じ頃、アメリカ国内では人種差別的な排日運動が盛り上がり、対日感情は悪化していた。
 日本は、地下資源を輸入し商品を生産して輸出する事で国家経済を維持する外国依存度の高い国で、特にアメリカへの依存は国家存亡に関わる最重要度であった。
 対米協調路線は、国策の根幹を成していた。
 レーニンは、中国など周辺諸国を防波堤にするべく共産主義革命を輸出し、直接的脅威である隣国の日本を破滅する為に間接的脅威である遠い国のアメリカを利用した。
 日米戦争への道は、レーニンによって示され、日本人・アメリカ人・中国人・朝鮮人共産主義者によって切り開かれた。
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 1920(〜22)年 レーニンは、日米離間から日米対立そして日米戦争へと発展させる極秘使命を帯びた偽装国家「極東共和国」を樹立し、工作員極東共和国高官としてアメリカに送り込んだ。
 ソ連の秘密警察・チェーカーの工作員ボリス・スクヴィルスキーは、外務副大臣としてワシントンに駐在した。
 スクヴィルスキーの対米工作は、アメリカにソ連を国家として承認させる事と国務省東アジア担当部署内に反日派の人脈をつくる事であった。
 スクヴィルスキーの反日親中国人脈に、ソ連のスパイ・協力者ではないが、対日強硬派のスタンリー・ホーンベックがいた。
 親中国反日派やソ連スパイの政府高官は、グルー駐日大使やマクマリー駐華公使など知日派の日本寄りの報告書を握りつぶし、日本を追い詰める強硬政策が実行した。
 ソ連による日本包囲網は形成されていった。
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 日本の人道的貢献
 軍国主義者によるロシア人児童の救出。
 日本軍部によるポーランド人孤児の救出。
 日本陸軍によるロシア人難民とユダヤ人難民の救出。
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 1921年 北京大学文科長の陳独秀早稲田大学に留学していた李大訢等は、中国共産党を結成し、コミンテルンに忠誠を誓った。
 陳独秀ら日本留学組は、相次いで日本の文献を中国語訳して出版し啓蒙活動を続けた。
 其の為に、中国の行ける共産主義社会主義から民主主義や科学に至るまでの近代的用語の70%近くが、日本生まれの和製漢語であった。
 趙新利「中国共産党が創立される前に中国で出版された『共産党宣言』などのマルクス主義著作のほとんどは、日本に留学している中国人によって日本語から翻訳された。中国共産党の創立にも、陳独秀、李大訢など留日学生の努力があった」
 日本に留学した中国人の大半が、日本との平和的友好の為に活動せず、その正反対の敵対活動に走っていた。
 中国共産党は、上海で第一次全国大会を開き、正式に結党した。
 毛沢東は、地方出身の一共産党員として無名に近かく、日本留学組でもなく結党主要メンバーではなかった。
 中国共産党は、満州支部を設立し、満州に於ける日本権益を破壊するべく抗日工作を開始した。
 ロシア人は、日本に奪われた満州権益の正統な所有者であるという信念から、中国共産党に対して日本人暗殺や日本系企業への襲撃を命じていた。
 日本にとって、満州はロシア・ソ連から祖国日本を守る最前線として死守しようとしていた。
 満州在住の日本人居留民は、反日中国人の嫌がらせや暴力を受けていた。
 4月 マルクス主義堺利彦は、上海極東事務局の要請を受けてコミンテルン日本支部準備会を立ち上げ、近藤栄蔵を代表として上海に派遣した。
 コミンテルンは、日本共産党結党資金として月額2万円(現代の8,000万円)を活動資金として提供する事を約束した。
 暁民共産党事件。大金を持って帰国した近藤栄蔵は、下関の料亭で乱痴気騒ぎの大宴会をしている所を逮捕された。
 10月 中国共産党の張太雷は、コミンテルンの指示で日本に渡り、山川均や堺利彦らに接触し、来年1月にモスクワで開催される極東諸民族大会に日本代表を派遣する事を要請し、その旅費を提供する事を申し出た。
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 1922年 中国共産党は、コミンテルンに加入し、一支部としてアジア地区の共産主義革命達成の任務を担当する事となった。
 コミンテルンは、日本を共産主義化する為に中国を拠点とし、中国共産党を手先に使い始めた。
 全国水平社を中心に、部落解放運動が始まった。
 1月 極東諸民族大会に、日本代表として、アメリカ在住の片山潜鈴木茂三郎、日本国内から徳田球一らが参加した。
 スターリンは、徳田球一らに日本で共産主義運動を行うように指示した。
 7月 徳田球一らは、コミンテルン日本支部として日本共産党を結成し、中国共産党を通じてコミンテルンからの指令と活動資金を受け取っていた。
 アジアに於ける共産主義組織の指揮命令系統は、ソ連コミンテルン中国共産党日本共産党で、日本共産党中国共産党の下部組織で、人件費や運動資金はコミンテルンから出ていた。
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 1923年1月26日 窮地に追い込まれていた孫文は、日本軍の全面支援を得られない為に、ソ連に軍事支援を要請した。
 レーニンは、未だに弱体で基盤を持たない中国共産党を救う為に、中国国民党中国共産党との連携を条件とした。
 孫文は、共産主義の侵攻から天皇制度と祖国日本を守ろうとしていた日本の右翼と軍部の努力を踏みにじるがごとく、軍事支援を受ける為にソ連と手を組んだ。
 いわゆる、孫文・ヨッフェ共同宣言である。
 コミンテルン工作員ミハイル・ボロディンは、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となり、国民党の中に共産主義者を増やし、有望な者をモスクワに留学させた。
 9月1日 関東大震災社会主義者朝鮮人独立派が暴動を企てているとの噂が、10万人が犠牲となった東京に流れた。
 朝鮮人テロリストは、裕仁皇太子暗殺を計画していた。
 ミュンツェンベルグ・トラフトは、震災後共産主義革命を起こすべく、「被災者救援」を名目としてコミンテルン要員を国際救援隊に潜り込ませて日本に送り込んだ。
 外国の被災者支援活動は、キリスト教系と共産主義系の諸団体が精力的に行った。
 共産主義系支援団体は、警察や憲兵隊にバレないように身元を誤魔化していた。
 だが、幾ら被災者を救済してもキリスト教に改宗する者も共産主義運動に参加する者もは少なかった。
 裕福な上流階級や高学歴なエリート層にキリスト教に改宗する者や共産主義に参加する者は多かったが、中流階級や下層階級では殆どいなかった。
 天皇制度という国體を護持していたのは、中流階級や下層階級であった。
 そこが、西洋の専制君主制や資本主義体制そして東洋の専制君主制とも違っていた。
 西洋や東洋では、人民や労働者など中流階級や下層階級を動かしてボトムアップ的に下から共産主義革命を行えば、専制君主制や資本主義体制を打倒できたが、日本ではそれが不可能であった。
 日本で共産主義革命を行うには、上からのトップダウンしかなかった。
 そして、日本を弱体化させる有効な手段は、朝鮮人独立派と朝鮮人テロリストを味方に引き入れる事であった。
 日本に於ける共産主義革命を起こすには、日本共産党中国共産党に比べて遙かに脆弱で頼りなかった。
 日本で天皇制度を廃絶する敗戦革命を行う為に、中国国民党アメリカを利用して日本を戦争へと追い込む事にした。
 レーニンは、中国国民党を引き込むべく孫文に密使を送り、蒋介石をモスクワに呼んで軍事教練を教えた。
 12月 虎ノ門事件。摂政宮裕仁親王が狙撃された。
 日本人共産主義者朝鮮人テロリストは、天皇制度廃絶の為に裕仁皇太子を暗殺しようとしていた。
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 1924年1月20日 第一次国共合作中国共産党は、国民党の中に浸透して赤化と反日を広めた。
 日本との提携を求める親日派は、政権中枢の官職から左遷された。
 日本に留学した中国人学生達や在日華僑達の中にも共産主義者が増え、日本共産党反日在日朝鮮人と連携を深めていった。
 内務省警保局保安課外事係、特高憲兵隊は、国内での共産主義者の活動を厳しく監視し、共産主義弾圧の機会を窺っていた。
 東京大学京都大学などの最高学府学生や知識人階級は、社会変革の為にマルクス主義に傾倒していった。
 農村部などの庶民は、伝統的に皇室への崇敬の念が強く、愛国心に燃え、共産主義を嫌悪していた。
 マルクス主義者は、国民への啓蒙活動の為に新聞社や出版社に就職して、社会を批判する記事を書き、書籍を出版していた。
 東大新人会は、左翼学生による全国的学生運動の組織として「社会科学連合会」(学連)を設立した。
 日本共産党は、解党を宣言した。
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 1925年 日本政府は、共産主義勢力の攻勢から天皇制度と祖国日本を守るべく治安維持法を制定し、28年には凶悪はに対して死刑を課す改正を行った。
 阿倍源基「戦後、治安維持法は無類の悪法だとして非難する人があるが、天皇制打倒を重要目的として、公然と暴力革命を唱えていたプロレタリア独裁日本共産党に対し、厳罰主義で望んだのは、帝国憲法下における戦前日本の国民思想からすれば当然であったと思われる。しかも日本共産党は、コミンテルン日本支部として結成されたもので、事実上はソ連共産党支配下にあったのである。したがって『ソビエトを守れ』というのは、日本共産党の重要スローガンの一つであった。ただ治安維持法に死刑罰を設けたのは行きすぎであり、実際問題として死刑に処せられた治安維持法違反者は一人もいなかった」(『昭和動乱の真相』)
 1月 日本は、ソ連と国交を樹立した。
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 1926年 日本共産党は、中国共産党の手助けを得て再建した。
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 1928年 中国共産党は、対日工作を担当する日本特別支部を東京・雑司ヶ谷に設置し、日本に留学している中国人学生や会社員、華僑を工作員として利用した。
 外事係、特高憲兵隊は、中国共産党のスパイが利用している特別支部が全国に計11ヶ所あり、活動資金が中国共産党から出ている事も突き止めた。
 日本政府は、両国の友好を深化させる為には民間交流を拡大すべきであるとして、日本留学を希望する中国人学生達に留学費を出し特別待遇をしていた。
 だが。中国人留学生は、中国共産党工作員として反日活動を行っていた。
 日本陸軍士官学校にも、中国共産党のスパイである中国人留学生が潜り込んでいた。
 外事係、特高憲兵隊は、政府が中国への融和策として中国人留学生の受け入れを積極的に行っていた為に、スパイ防止法である治安維持法があっても動かない物証が手に入らない限り日本特別支部への一斉手入れが出来なかった。
 中国共産党の謀略は巧みで、日本の官憲は反日工作の尻尾を捕まえきれずにいた。
 2月 第一回普通選挙で、無産政党各派から8名の衆議院代議士候補者が当選した。
 3月15日 3・15事件。警察当局は、治安維持法違反容疑で日本共産党幹部を一斉検挙して、日本共産党に大打撃を与えた。
 世に悪名高い、共産主義弾圧が始まった。
 中国共産党は、コミンテルンの指示を受け、日本特別支部を総動員して日本共産党再建を支援した。
 日本特別支部は、日本を混乱させ破壊する為に、社会主義運動を支援し、労働運動や小作争議を煽った。
 内務省警保局保安課外事係は、日本国内にある日本特別支部の検挙に乗り出した。
 そして、中国共産党日本特別支部検挙事件を起こし、中国人の反日組織を潰した。
 日本人知識人は、中国人差別の不当逮捕であるとして非難して、反日派中国人工作員を匿った。
 中国共産党は、日本人を反天皇反日の活動家にすべく意欲のある学生に共産主義教育を施していた。
 この日本人再教育プログラムは、戦後まで続けられ、その資金はコミンテルン、その後継組織極東コミンフォルムから出ていた。
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 1929年 共産主義弾圧は成功しかけたが、世界大恐慌で、失業者が街に溢れて頓挫した。
 進歩的知識人達は、「資本主義の限界と終焉。社会主義の可能性と到来」を唱えて、ソ連の計画経済を絶賛した。
 ティム・ワーナー(ニューヨーク・タイムズ紙記者)「大恐慌のもたらした荒廃が共産主義運動に礎石を提供した」
 4月16日 4・16事件。日本共産党取り締まりによって、社会主義運動は内部対立が激化して、労働者や農民の組織化が遅れた。。
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 1930年代 国家改造運動。
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 1930年 川崎武装メーデー事件。日本共産党員は、メーデー実行委員や警察官をピストルで負傷させた。
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 スターリンの大虐殺。
 1931年9月16日 満州事変。 
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 1932年 幾つかの帝国大学マルクス主義に染り、兵役免除の特権で学生は徴兵免除で守られていた為に、安心して反天皇反国家反政府反軍閥を主張し、社会運動や思想闘争を行っていた。
 学問の自由は憲法で守られていた為に、逸脱した反体制活動や治安を乱す暴力闘争を行わない限り学生運動は大目に見られていた。、
 扇谷正造「昭和7年の春の東大は、一時的な左翼運動のかたまりを見せていた時期であった。満州事変は前年の夏勃発し、国内は軍国主義に塗り込められつつあったが東大はリベラリズムの牙城として厳としており、……学内では毎日のようにデモが行われた。31番教室から、そのたび3本の垂れ幕がさげられた。
 1,天皇制を打倒せよ。
 1,帝国主義的戦争絶対反対。
 1,授業料を値下げせよ」
 帝国大学出身者は、官公庁の高等文官試験に合格して任官し、政府の中枢に入り込んだ。
 軍隊でも同様に、有能な士官候補生達がトップの成績で高級将校の階段を登り始めていた。
 日本国家社会党結成。
 血盟団事件
 司法官赤化事件。(1932年・33年)
 日本共産党員は、仲間をスパイ容疑で射殺した。
 日本国内で。日本共産党員は、武装資金を得る為に銀行強奪事件(赤色ギャング事件)を繰り返していた。
 5月15日 5・15事件。
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 如何なる国も、優勢に立って勝っている時は反対勢力や批判勢力にたいして寛容であるが、劣勢に追い込まれ負け出すと強権を発動して反対勢力や批判勢力を弾圧した。
 それは、日本はもちろん、アメリカやイギリスも同様である。
 天皇制打倒を掲げる共産主義キリスト教は容赦なく弾圧したが、天皇制度を容認し共存を求めた社会主義キリスト教は許した。
 人は、自分に敵対して生存を脅かす敵に対してはない攻撃したが、自分と敵対せず共存を求める味方若しくは中立派には攻撃しなかった。
 日本が守りたかったのは、天皇を中心とした社会、国家である。
 つまり、国體である。
 共産主義は、天皇制度の廃絶を主張し、国體を破壊しようとした。
 それ故に、軍国日本は共産主義を躍起になって弾圧した。
 だが、弾圧することで共産主義が減少するどころか、エリート学生の間で増えながら日本全国に潜伏した。
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 1932年 社会大衆党が結成される。
 軍部内でも、資本主義体制への批判から変革を求める声がで始めた。
 共産主義者は、軍隊内で社会改革を求める若手将校達に接近し、味方に引き込もうとした。
 陸軍部内は、皇道派と統制派を中心に分裂して激しい派閥的対立が起きていた。
 1月 朝鮮人テロリストは、昭和天皇暗殺に失敗した。
 1月28日 第一次上海事変
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 1933年 獄中に収監されている日本共産党最高幹部の佐野学や鍋山貞親等は、転向を声明し、天皇を中心とした一国社会主義からコミンテルンを批判した。
 共産党関係者は、大量に転向した。 
 お人好しの日本人は、転向を宣言をしたマルクス主義者を信用して公務員に採用した。
 共産主義者は、結果優先として手段を選ばず、平気で嘘を付き、転向宣言も偽りであった。 
 滝川事件。
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 1933 小林多喜二拷問死事件。
 日本共産党リンチ殺人事件。宮本顕治等は、日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫を渋谷のアジトで凄惨なリンチを加え、小畑を惨殺した。年
 1月18日〜9月 華族赤化事件。
 共産主義は、皇室に近い華族や財界人などの良家の子弟の間にも浸透していた。
 一部の子弟は、左傾化した頭脳明晰な教師から、貧しい家庭に生まれ汗水垂らして働いている労働者の話を聞かされ、恵まれたか家庭に生まれ何不自由のない生活を過ごしている事に対する罪悪感から、社会改革の必要性に目覚めて左翼運動にのめり込んでいた。
 フランス革命からロシア革命まで、支配階級である王侯貴族や富裕層の中に革命派に同調する者は存在していた。
 日本皇室や華族の中にも、マルクス主義を信奉し、人民革命の必要性を確信する者はいた。
 共産主義の常套戦術は、敵を内部から崩壊させ、敵を小集団に分断し孤立化させ、個別に撃破して殲滅し、虐殺を持って根絶やしにする事。
 生き残った人々を、人民の楽園に導くのではなく、集団農場に追い込み、暴力と死で恐怖支配して抵抗できなくする事であった。
 2月4日 二・四事件。教員赤化事件。左翼教員事件。
 共産主義者は、洗脳教育を重視して教師の中に、反戦平和主義として同調者を増やしていった。
 心優しい教師は、教え子が戦場に行って人殺しをする事がたまらないほど嫌で、人殺しの為の徴兵が免れる事ができるのであれば喜んで共産主義活動に協力した。
 共産主義を信奉したのは、反戦平和と良心からであった。
 3月 司法官赤化事件。
 エリート階級に属していた弁護士や中央官庁の中にも、共産主義が浸透していた。
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 1935年 共産主義者は、平和勢力と呼ばれた。
 コミンテルンは第7回大会で「平和の為の闘争」決議を行い、世界各国の共産党に対して共産主義活動を「平和」と説明した。
 この時から、共産主義勢力は平和勢力とされ、共産主義活動に抵抗する勢力や拒否する者は好戦的な犯罪者とされた。
 「共産党は……戦争準備の目的でブルジョア民主主義的自由を制限する非常立法に反対し、軍需工場の労働者の権力の制限に反対し、軍需産業への補助金の交付に反対し、兵器貿易と兵器の輸送に反対して、戦わなければならない。
 ソ連社会主義の防衛の為に労農赤軍を出動させる事を余儀なくされた場合には、共産主義者は、あらゆる手段を用い、どんな犠牲を払ってでも赤軍帝国主義者の軍隊に勝利するのを助けるように、全ての勤労者に呼び掛けるであろう」
 日本共産党は、軍国日本をアメリカとの戦争で敗戦に追い込んで共産主義革命を成功させるべく策謀を巡らし、官公庁や軍隊に支持者を拡大するべく活動を積極化させた。
 35テーゼ。コミンテルンは、日本人共産主義者天皇制度を打倒し、日本を共産主義化する事を命じた。
 民族国家日本は、天皇統治を中心とした国體を守る為に、外国の支援や援助を受けられず国際的共産主義と孤独な戦いを続けていた。
 これは、日本のイデオロギー自衛戦争であった。
 東京裁判は、日本の天皇制度と祖国を国際的共産主義勢力から守る自衛戦争を否定している。
 天皇機関説
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 1936年2月26日 2・26事件。
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 1937年 矢内原事件。
 7月 中国共産党周恩来は、スパイ部門の最高幹部として新たな対日諜報団を設立し、中国人工作員を日本や朝鮮及び台湾に送り込んだ。
 王学文は、京都帝国大学に留学して日本人を仲間に引き入れ、朝日新聞の尾崎秀実や満鉄調査部の中西功らと接触し国家機密情報を入手した。
 日本人は、情報を守るという意識が薄く、親しくなった者に聞かれると包み隠さず話し、それどころか聞かれていない事も自慢げに話していた。
 中国共産党にとって、日本は活動しやすい国であり、日本人は騙しやすい人間であった。。
 日本は、スパイ天国であった。
 尾崎秀実は、翌年1月に第一次近衛文麿内閣が総辞職するまで内閣嘱託として支那事変処理の助言を行ってい、政界・官界・軍部に広い人脈を築いていた。
 コミンテルンは、レーニンが提唱した「軍国日本をアメリカとの戦争に追い込み、敗北させ、敗戦で共産主義革命を起こす」を実現するように、中国共産党日本共産党と尾崎秀実に命じていた。 
 警察当局と憲兵隊は、日本無産党などを弾圧し、共産主義者を検挙した。
 7月7日 盧溝橋事件。中国共産党は、日本軍と国民党軍(ファシスト中国軍)を戦わせるべく、日本軍を挑発する為に発砲した。
 8月 第二次上海事変スターリンの密命を受けた国民党軍の将軍が、少数兵力の日本海軍陸戦隊に対して奇襲攻撃を行った。
 日中戦争の勃発。
 ソ連軍は、正規兵を国際義勇隊として抗日戦争に参戦させた。
 ナチス・ドイツも、抗日戦争の為に軍事顧問団を派遣していた。
 アメリカも、正規兵と武器弾薬を蒋介石に渡していた。
 日中戦争の勃発で或る。
 中国共産党の、軍国日本を戦争に引き込むという陰謀は成功し、後はアメリカと戦わせるだけであった。
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 1938年 人民戦線事件。
 4月 中国共産党は、日本の傀儡政権である北京の中華民国臨時政府に潜入していたスパイを警官として日本の警察講習所に留学させ、中国人留学生や華僑等を使って日本国内で抗日共産主義運動を展開するように命じた。
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 スターリンの大粛清。
 中国共産党内の権力闘争。
 毛沢東による粛清。
 1939年 企画院事件(〜41年)。企画院の革新官僚は、マルクス主義統制経済を推進してい。
 革新官僚は、軍部の要請に従って、戦争できない財政的数値を戦争ができるような嘘の数値に書き換えていた。
 1月 中国共産党は、地下謀略組織として東京支部支部長は汪淑子)を設立させ、日本人支援者、中国人留学生、在日朝鮮人等を使って破壊活動を計画していた。
 東京支部の極秘実行部隊として鉄血青年団と破壊隊が組織され、破壊工作員になっていたのは各大学に留学していた中国人学生であった。
 左翼化した大学の進歩的学生達は、「平和」の為に、天皇制度打倒や帝国主義戦争反対やソヴィエト政権樹立を叫んでいた。 
 2月19日 日本の警察当局は、中国共産党東京支部を強襲し、汪淑子支部長ラ幹部36名を検挙して地下謀略組織を潰した。
 だが、中国共産党の息のかかった中国人留学生と華僑、日本人協力者、在日朝鮮人らは全国に散り、反天皇反日活動の時機を窺いつつ息を潜めた。
 張鼓峰事件。
 ノモンハン事件
 機甲師団を主力としたソ連の大軍は、日中戦争への軍事介入としての満州侵攻を断念し、全軍をソ連領と外蒙古領に撤退させた。
 日本軍は、泥沼化した日中戦争の隙を突いて侵攻してきたソ連軍が撤退した為に、全滅を免れた。
 A級戦犯達によるユダヤ人難民保護。
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 マオチェン・ユ米海軍兵学校教授は、日中戦争の調査研究した結果、中国共産党軍における武器調達の第一の供給源は汪兆銘の軍隊であり、日本軍は日本製武器弾薬が組織的かつ大規模に中国共産党軍に売却されていたとの結論を公表した。
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 中国共産党は、ソ連を仲介者として日本陸軍と裏取引し、満州国と日本軍支配地域で延安産阿片を密売して活動資金や武器購入費を稼いでいた。
 日本軍と中国共産党は、表向きは戦っていたが、裏では友好関係にあった。
 日本軍と中国共産党軍は、本気で戦ってはいなかった。
 スターリンは、中国共産党軍と日本軍が熾烈な戦闘をおこなう事を望まなかった。
 中国共産党は、多数の中国人工作員を朝鮮や日本に送り込み、活動させていた。
 日本人協力者は、中国人工作員が日本国内で活動しやすいように支援していた。
 中国人工作員を支援する反天皇反日的日本人は、日本全国に数多く存在していた。
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 1941年12月 日本国内には、200万人以上の朝鮮人と数万人の中国人が生活し、さらに多数の不法上陸者が全国に散らばっていた。
 軍国日本は、敵工作員を多数国内に抱えながら、海の外でアメリカなどの国連軍と死闘を繰り広げていた。
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 日本の警察当局と憲兵隊は、日本国内に潜伏している、連合軍スパイ、中国共産党ソ連工作員、朝鮮独立派テロリスト、そしてそれぞれに協力する日本人支援者の行動を監視していた。
 軍国日本は、アメリカなどの大攻勢と戦いながら、国内の敵とも戦っていた。
 日本国民は、昭和天皇及び皇室と祖国日本を守る為に、国内外の敵と孤独に戦っていた。
 軍国日本は、頑丈な岩盤ではなく、薄皮のような薄氷の上に立ちながら戦争を続けていた。
 日本男子はおろか女性も子供も、「守る」為に、玉砕や特攻を繰り返していた。


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