🎶28:─1─日本人移民のアメリカ同化。朝鮮人移住者の日本拒絶。~No.63No.64No.65 @ ⑩ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人移民は、日本を捨ててアメリカに同化しようとした。
 朝鮮人移住者は、朝鮮に誇りを持ち日本への同化を頑なに拒絶した。
   ・   ・   ・   
 反日朝鮮人は、日本・朝鮮・中国で、日本に接近して、日本に牙を剝き爪を立て、日本の寝首を掻こうとしていた。
   ・   ・   ・   
 日本国籍朝鮮人は、日本天皇への忠誠心はなく、日本国への愛国心は希薄で、日本民族日本人を軽蔑し、渡来人となっても帰化人にはなれなかった。
 朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺害しようとしていた。
   ・   ・   ・   
 日本人移民は、「郷に入っては郷に従う」を信条として、アメリカと完全に同化する為に、民族特有の融通無碍的柔軟性を発揮して、アメリカの法律や習慣的決まりを守り、暴力を振るわず犯罪を起こさず、アメリカ人以上の模範的アメリカ人になろうとしていた。
 善良なアメリカ市民になる為に、アメリカを愛し、アメリカ国家に忠誠を誓い、アメリカ市民としての責任と義務を逃げずに果たそうとした。
 日系二世は、アメリカ国民として銃を持ち、日本軍と戦い、日本人を殺してアメリカの英雄となった。
 日本人移民は、キリスト教に改宗し英語を話してアメリカ人になり切ろうとしても、白人と共に銃を取り、白人以上の大量の血を流し犠牲者を出さなければならなかった。
 世界は、人種・民族に関係なく全てが平等ではなく、選民思想の白人至上主義に支配されていた。
 日本人移民は、どうあがいて悪戦苦闘しても所詮は非白人であり、人種平等を主張しても白人と同等には見られなかった。
 日本人移民は、自分の居場所を確保する為に、白人以上の血と汗を流し、多くの同胞を戦場に送り出し、戦死させねばならなかった。
 それは、日本列島に住み日本人とて同じ事であった。
 日本人の苦境に同情し、自分の利益を犠牲にしてまで日本人の居場所を開けてくれる国家も民族も存在しない。
 日本人移民は、アメリカ人を逆恨みせず、アメリカ国家の為に進んで、明日の命も分からない激戦地に立った。
 自分の権利を如何なる犠牲を出しても勝ち取ろうとしない者は、全ての権利を放棄した者とされた。
 つまり、奴隷とされた。
 戦って勝たない者には、明日はなかった。
 日本軍と戦った、日系アメリカ兵はその英雄的象徴である。
 日本人は、情に流され戦いを嫌って逃げなかった日系アメリカ兵に感謝しなければならない。
   ・   ・   ・   
 A級戦犯である東條英機松岡洋右キリスト教徒)は、日本との戦いに戸惑う日系アメリカ人に、大和魂を発揮し、アメリカ国民としてアメリカ国家に忠誠を誓い、勇気を出して戦い、運命を自らの手で切り開いて前に進む様に勧めた。
 幻の。東條英機の「日系アメリカ人への手紙」
 この手紙は、偽物とも言われている。
 東條英機首相からの手紙。要旨「日系二世は、アメリカ人である。だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして当然である」(ミノル・トウナイ「日系人は祖国アメリカに尽くせ!」ワック株式会社『歴史通』11月号 2010年11月9日)。
 1933年4月 松岡洋右は、帰国途中のハワイで、日系アメリカ人の覚悟としてのメッセージをホノルルのラジオ局で放送した。
 「日系市民は、精神的に100%のアメリカ人でなければならない。万一、最大の不幸が起き、米日戦争と言う事が突発したと仮想した場合には、日本人系アメリカ市民は、ことごとく銃を持って立ち、アメリカの為に一命を投げ打ち、第一線に立って日本軍と戦わねばならない。しかして大和民族の血を有する日系アメリカ市民が、最も優秀な戦闘力を発揮して、さすがは大和民族の血を受けたる日系市民は強い、という観念を白人に抱かせてこそ、日系市民の名誉であり、これが大和民族の武士道である」
   ・   ・   ・   
 日本男児として、一個の自立した人間として、武士道精神を持つ者ならば、アメリカ国民でありながらアメリカ国家を裏切るような、卑怯で卑劣で下劣な振る舞いをしない事を切に望んだ。
 昭和天皇も、日本的惻隠の情から、両国関係の悪化に伴う日系アメリカ人の身の上を案じていた。
 東條英機は、戦争犯罪者として、リンチ的縛り首で処刑され、遺骨は冒瀆され、ゴミの様に海に捨てられた。
 死後の安らぎは否定され、靖国神社での鎮魂も認めらてはいない。
 靖国神社墓所ではない以上、A級戦犯の遺骨も遺物もない。
 中国と韓国・北朝鮮と国際的反日世論は、こぞって靖国神社を犯罪的軍国主義の象徴として目の敵にし、正義の名の下に地球上から抹消する事を訴えている。
 日本の大半の政治家は、世界的靖国神社批判を恐れて、公式参拝はもちろん、私的な参拝も行おうとはしない。
 反靖国神社反戦平和市民団体は、全てを理解した上で、政治家が日本を外国の植民地にしない為に戦って死んだ、勤皇の志士(天皇に忠誠を誓った日本人)を祀る靖国神社を参拝しない事に賛成している。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実は、素人でも分かる様に、目の前に存在している。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、サムライ的な昔の日本人とは違う。
 中国人や韓国人・朝鮮人は、サムライでもなく、武士でもなく、もちろん武士道精神などは持っていない。
 民族の物語を抹殺する現代の日本には、サムライも武士もいないし、そして武士道精神もない。
 それは、時代の流れであり、日本民族の定めである。
   ・   ・   ・   
 日本の外務省や陸海軍情報機関は、FBIアメリカ軍情報機関の厳重な監視下にある日系アメリカ人を利用せず、利益に転びやすいアメリカ人を工作員としてスカウトした。
 アメリカ当局は、要注意人である全ての日系アメリカ人を監視し、真珠湾攻撃後直ちに逮捕して、軍情報機関と協力して情報を聞き出す為に非人道的拷問を行った。
 だが、予想に反してスパイ容疑を立証できず、無実として帰宅させるか、敵対行動を捏造して刑務所に収監した。
 アメリカの敵国人への取り扱いは、人種差別意識も手伝って、日本軍以上に残酷さを伴っていた。
 それは、現代に於いても変わりはない。
 1942年以降、日本のスパイとして活動していたアメリカ人の大半が逮捕された。
 アメリカに情報提供していた日本人は、特高警察や憲兵隊の追求を逃れながら、統帥権情報以外の国家機密の多くを連合軍に伝えていた。
 軍国日本は、国内の裏切り者によって情報戦に敗北していた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本には、天皇が任命した第一党政府や国民が選んだ代議士による衆議院を脅迫し、国家政策や外交方針を左右できるほどの政治圧力団体としての「軍部」は存在しなかった。
 衆議院の代議士は、政友会や民政党などの政党に分かれて第一党の座をめぐって激しく激論を交わしていた。
 対外基本政策は、対米英ソ協調と中国不介入で、大陸進出には反対であった。
 陸軍は対ソ戦略の為に、海軍は対米戦略の為に、政府が勝手に割り出した予算を取り合う為に議会での賛同者を獲得する為にコマネズミの様に奔走していた。
 軍部は、軍政では陸軍省海軍省、軍令では参謀本部と軍令部に分かれ、それぞれが省益部益の為に勝手に行動してまとまりがなかった。
 さらに、それぞれの組織には幾つもの派閥に分かれて抗争を続けていた。
 関東軍支那駐屯軍は、無防備な日本人居留民が中国人暴徒によって暴行され強姦され殺害されている事を東京に報告し、日本人居留民保護の軍事行動を意見具申していた。
 野心的な軍人エリート官僚は、中国で日本人居留民がどんな被害を受けようとも関心を示さず、退役後は政界に転じて閣僚になる事を希望して政党や元老・重臣らに媚び諂っていた。
 東京の軍中央と関東軍などの現地軍では、軍閥の内戦や匪賊の跋扈で無法地帯と化した中国の認識に開きが起きていた。
 中国に生活する日本人は、中国人暴徒達によって命が危険に晒されているのに、救いの手を差し伸ばしてくれない政府や軍中央に絶望して、関東軍などによる直接保護を切望していた。
 関東軍は、政府や議会の国際協調外交では日本人居留民は守れないとの決意の元で、軍中央の軟弱戦略を無視して暴走し始めた。
   ・   ・   ・   
 カレイ・マックウィリアムス「 一世たちの落胆
 日本人移民ほどわが国で成功しようと固く決意した移民グループはいなかっただろう。移民委員会は、日本人移民は馴染みのない環境になんとか適応しようと努力していると報告し、彼等を称賛していた。日本人移民は懸命に学ぶ姿勢をみせている。
 そうすることで多くの困難を克服することができている。大きな隔たりのある文化を持ちながら、激しい偏見や日本人隔離政策に対してもよく対応してきた。これは他の民族グループとは大きく違っている。これが委員会の評価だった。
 日本人はこの土地にやって来ると早い段階で白人のやり方に馴染もうとしていた。身に着けるものも、そろえる家具類も、宗教的な習慣も白人風に変えていこうとしていた。日本人に対する凝り固まった偏見のなかにあって、白人との友好的な関係を築こうと努力していたことは間違いなかった。日本人の移民グループは犯罪を犯さなかった。これもすばらしいことである。他の人種グループではこんなことはなかった。日本人移民は貧しくても、借金を踏み倒すようなことはなかった。
 彼らは良き市民になるべく努力した。売春や違法ギャンブル反対のキャンペーンを張ったのも彼らだった。彼らの住む家が古いとか汚いとか非難されると、すぐさま家をきれいに、そして庭を美しくしようというキャンペーン活動を始めたいる。
 学校で日本語を教えることが問題視されると、彼らは日本人学校を公の教育委員会の管理下に置き、そのカリキュラムのなかで日本語教育を実施するよう働きかけている。前向きな提案であった。二重国籍が問題されると、国籍離脱条件の緩和を日本政府に掛け合っている。
 こうした日本人移民グループの努力で、『日本人はよく学習している。経済のこともわが国の歴史についてもだ』と高く評価されることになった。彼らはまとまりを見せた行動で、よりよい人種間関係を構築しようと試みた。ヘレン・ミアーズは彼らを以下のように観察している。
 『海外に暮らす日本人は、その土地の人々と見分けがつかないくらい同化している』
 『それは日本人が生来持っている、集団としてまとまる能力と組織に対する高い忠誠心の賜物である』
 ロバート・パーク博士も次のように述べている。
 『日本人移民は他の人種グループに比べてこの国への順応が早い。日本人に向けられた偏見を克服し、この国での地位を確かなものにしようと妥協を重ねたのが日本人だった。彼らほど見事にオーガナイズされた人種グループはなかったし、彼らは懸命に不慣れな環境と習慣を合わせていこうとした。われわれが好むと好まざるにかかわらず、それは厳然とした事実だった』
 日本人移民はこのように白人文化への順応を示していたが、彼らの持つ文化のすべてを捨て去るようなことはできなかったのもまた事実である。彼らは日本の伝統文化をすべて捨て去り、違う文化に合わせることを本当に願っているのか、そうする能力を持っているかという問題とは違う性質のものだった。日本人移民にとって日本の伝統はあまりに強いものであり価値のあるものだった。
 こうした感情も時の経過とともに断ち切ることができるようになった。フランク・ミヤモトはそのきっかけが第一次世界大戦だったのではないかと分析する。この頃、日本人移民に対する偏見はほとんど見られなくなったのだ。これを機会に多くの日本人移民は妻となる女性を呼び寄せ、家庭を持った。
 しかし(排日移民法の成立した)1924年になると、一世たちはこの国ではどんなに努力をしても受け入れられないことはないと諦めてしまうことになる。ナイキチ・チジワは1933年にその諦めを綴っている。
 『この国は日本人を絶対に認めない。人種が全く違う、肉体的な特徴が違いすぎる。そうした理由でわれわれは異種として扱われる』
 1923年の最高裁判所の判決が、一世のこうした絶望の原因だった。この年、わが国の最高裁は、日本人は帰化不能と判断した。この判断は日本人移民を絶望させただけでなかった。彼らへの偏見を煽るアジテーションの火に新たな油を注いだのだった。
 デヴィッド・スター・ジョーダンは早い時期から、移民が参政権を持てないままでいることは社会不安ひいては政治的不安定をもたらすと警告していた(アウトウェスト誌、1907年3月号)。彼はニューリパブリック誌(1924年5月14日号)でその危険性をあらためて喚起していた。
 『市民権を持てない移民は外国人のままである。そのことは彼らが本国の領事館の影響力を受け続けることを意味している。したがって彼らに認められている権利に何らかの制限が加えられれば、それはつねに国際問題とならざるを得ない、一地方の条例が国際問題になるような状態にアメリカを晒しておくことは危険である』
 『すべての移民に対して帰化できる道を残しておくことは、国家としてのまとまりを保つ上できわめて重要である。どんな人種であれ、彼らを法益の外に置いたままにするのはまずいことであり、こうした政策が歴史的にも惨めな結果を生んだことはすでに証明されている』
 アメリカに移民した者は一般的にアメリカを愛する傾向をみせた。この傾向は程度の差はあれ、どの人種でも同様であった。1924年までは日本人一世もおそらく同じような傾向を見せていたはずなのだ。ところがこの年を境に、日本人移民は『抑圧された愛国心精神障害』とでも名前がつけられそうな疾患を発病させてしまうことになる。
 ……
 カリフォルニアの政治家たちは、日本人に対して、大人も子供にも、あらゆる罵声を浴びせていた。
 がに股の化け物、女々しい意気地なし、サル、ヘンタイ、腐ったちび野郎、こうした情け容赦ない罵りの言葉の数々は日本人の誇りを深く傷つけたに違いない。
 画家ヨシオ・マキノは『私の少年時代』のなかで自らの体験を語っている。1893年、少年の彼はサンフランシスコのゴールデンゲートパークで白人たちに石を投げつけられたのだった。彼らは『ジャップ』やら『すけべ小僧』とか叫びながら石を投げつけられてきたのだった。こうした苦い経験はそう簡単に記憶から消せるものではなかった。
 一世たちにとって最も辛かったのは、子供たちが親たちに背を向け始めたことだった。一世は子供たちに夢を託していた。一世はもはや自らの生活の向上を目指して働いてはいなかった。次の世代がよい服を着て、車を持って、持ち家に住んでほしい。それが彼らの夢だった。
 一世にとって、カリフォルニアの白人からの拒絶よりも、あるいはこの後に彼らが経験することになった強制収容よりも、子供たちに背を向けられることの方が何倍も辛かったに違いない。
 世代間ギャップ
 カリフォルニアで移民排除を熱狂的に叫ぶ連中は、いわば職業としての愛国者といってもよかった。彼らは相変わらず日本人は白人社会に同化不能な人種だと騒いでいた。しかしその矛先は一世世代に向けられていた。確かにこうした連中がいうように、一世世代は同化の兆候はほとんどみられなかった、という面もある。
 彼らの英語能力は低かったし、仲間同士でかたまって暮らしていた。彼らはカリフォルニアの世情に疎く、故国日本の動向もよく知らなかった。ただひたすら故国を懐かしむだけの者も多かった。こうした一世の性癖は、日本人は白人社会に同化できない人種である、との思い込みをますます強めさせることになった。
 ……
 二世世代のこうした白人社会への高い順応度は、順応できない一世世代とのあいだに大きな世代間ギャップを生んだ。この溝は親と子供の年齢の大きな差があったことと関係している。一世世代の結婚は遅かったから子供との年齢の差がかなりあった。二世世代は白人社会の文化に容易に染まることができた。この世代間ギャップは『明らか』という形容詞よりもむしろ『みじめな』という表現が当てはまるものだった。
 ……
 カリフォルニアの白人たちが『日本人に生まれたら、絶対に日本人のままである』『彼らは氏族意識が過剰な同化不能人種だ』と叫んでいる時期に、現実には、日本人社会にはこうした世代間ギャップが存在していた。このギャップは絶望的ともいえるほどに多きなものだった。
 ……
 日本人の家庭では世代間の隔たりが大きすぎ、互いを理解しようとする態度は微塵もなかった。調和がなかった。
 ……
 日本人移民の家庭が閉鎖的であったことは誰もが認めていた。二世のジョージ・モリミツは次のように語っている。
 『両親の母国の文化は歌や食事や祝日と深く関わっていた。それはわかっていたが、ぼくらは両親とこうした文化について深く話したことなどなかった。両親の世代との隔たりはあまりに大きすぎた』
 ……
 一世なかにはキリスト教徒がいたし、二世のほとんどがその信者だった。
……
 日本人の子供たちは、ほとんど何の軋轢も人種的摩擦を感ずることなく中等教育まで進んでいった。どの町でも彼らはよい成績を修めていたから、教師に褒められ、気に入られていた。高校に入っても大学に進学しても他の人種グループと自由に交流した。
 黒人のように仲間はずれにされるようなことはなかった。友人をたくさん作ったし、スポーツや文化活動にも積極的に参加している。クラスの委員に選ばれることも稀ではなかった。
 ……
 しかし、高校卒業後あるいは大学に進んでから人種の違いに気づかされることになる。高校時代にはスポーツ倶楽部にも文化クラブにも分け隔てされることなく参加できた。しかし大学では違った。そこではやはり日本人学生は疎外されていた。
 それでも二世は卒業するとほとんどが日系企業に職を求めたから、卒業した後でも比較的差別を感じてはいない。このように二世世代は、一世の世代とは格段に緩やかななった反日本人の空気のなかで成長している。皮肉なことに、これが一世世代と二世世代のあいだの溝をいっそう深くする原因になっていった。に
 ……
 他の人種でもそうだったが、日本人移民も白人グループの理解を求めようと努力している。日本人移民は白人社会でも特に権威あるグループとの接触を求めている。たとえば建国の英雄の末裔と称する女性団体『アメリカ革命の娘たち』、各地の『商工会議所』『在郷軍人会』といった組織と交流しようとしていた。これらのグループは祝賀や記念の多くのセレモニーに参加する。彼らと付き合っておけば、何かの危機に見舞われときには支援が得られるのではないかという甘い期待があった。彼らから何らかのアドバイスをもらおうとしていたのも確かなことだった。
 ビジネスの世界でも似たような傾向があった。
 ……
 一世たちの開催する会合や晩餐会には保守層の白人リーダー格や役人が顔を出していた。 ……
 白人リーダーたちが日本人の集まりで日本人を褒め称えた言葉は枚挙にいとまがなく、一冊の厚い本ができるほどだった。こうした蜜月の光景は1930年から41年までよく見られた。しかし皮肉にも、日本人と連携していた白人連中こそが真っ先に日本人の強制収容を主張したのだった」(『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』P.142〜154)

   ・   ・   ・   





   ・   ・   ・