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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
田中義一内閣は、本音では、金融恐慌と農村救済と共産主義及び無政府主義の蔓延対策など緊急を要する財政・治安の内政諸懸案の対処で手一杯で、中国問題どころではなかった。
中国内戦による混乱から日本人居留民を保護する為に軍隊を派遣するにも、財政逼迫と中国派兵よりも国内対策を求める強い世論で、数千人単位の少数兵力しか派遣する事ができなかった。
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5月 蒋介石率いる国民党軍は、日本人居留民が多く住む山東省済南市に向けて北上を開始した。
各国は、中国情勢の緊迫から、中国に住む自国民を守る為に軍隊を派遣していた。
日本も、国民の安全を守るという国家の責任から、青島・済南間の鉄道線路確保と済南市の日本人居留民の保護目的で派兵した。
中国における居留民は日本が圧倒的に多く、日本人は中国人への親近感から武装された外国租界ではなく手薄な地域で中国人と隣り合わせで生活していた。
軍部は、日本人居留民人数に即した兵力を送り出した。
その事が、中国人の敵意を買った。
日本政府は、中国との衝突を回避する手段として、現地保護の原則を放棄して邦人の前面引き上げを覚悟した。
日本軍に守られた日本人居留民は、中国人を信じ切っていた為に中国軍を刺激する事を好まなかった。
5月 第1次山東出兵。
済南市における両軍の兵力は、中国国民革命軍2万人以上対日本軍第六師団約3,500人。
それは警戒行動で、領土拡大目的の軍事行動ではない以上、中国軍が日本人に危害を加えないと分かるや小部隊を残して撤兵した。
関西財界と新聞は、たとえ居留民保護目的でも出兵は中国側を刺激するとして、出兵には反対した。
中国は、謀略で敵軍を撤退した後に、弱小となった所を攻める事を常套手段としていた。
中国で撤退する事は、多くの犠牲者を出す危険な愚策であった。
中国人暴徒による、日本人居留民への犯罪が減少するどころか増大した。
日本国内では、警察や憲兵隊の監視が厳しく、華僑に対する嫌がらせはあっても殺人事件は起きなかった。
日本人は、犠牲になった同胞の無念さに涙したが、アジアの平和の為に耐え忍んだ。平和と共存を求める日本人は、ありもしない中国人の良心を信用した。
中国共産党は、日本人共産主義者から、日本の世論は分裂しているとの情報を得ていた。
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6月(〜7月) 田中義一首相は、中国での日本人居留民を如何に守るかべきかを協議する為に、東方会議を開いた。
会議は、中国には治安を維持する警察力が著しく低下している為に、これまでの非暴力無抵主義による内政不干渉では守れない、という事で意見が一致した。国家の義務として、武器を持たず無防備な日本人居留民を守る為に、好戦的に武力を投じ現地で守る干渉政策を採用した。但し、領土的野心を示す事は、国際社会で孤立する危険があるとして、危険が去れば速やかに日本軍を撤退させる事とした。
これが、悪名高い「田中上奏文」である。
東京裁判は、この軍事行動を不戦条約やハーグ条約などの国際法に違反する、時効無き戦争犯罪と認定した。
国際法は、日本の如何なる自衛行為をも認めてはいなかったのである。
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中国共産党政府が、日本の中国侵略及び世界征服の証拠として歴史教科書に載せている田中上奏文(田中メモ)では、大正11年に死亡している元老・山縣有朋が昭和2年の会議に出席したとされている。
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パスカル「人間は、天使でも野獣でもない。そして不幸な事は、天使のまねをしようと思うと獣になってしまう」(『パンセ』)
ジュネーブ会議。日本代表石井菊次郎は、イギリスとアメリカの対立を調整しようとしたが失敗して分裂した。
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軍国日本は、国家の責任として、中国との戦争を覚悟して自国民を守ろうとした。
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7月 ファシスト中国の国民党は、資金源となっている資本家の要請を受け、中国共産党による都市労働者の組織化を禁止した。
ただし、国民党系でない中立派地主に対する小作人争議のみを許可した。
中国共産党は、農民協会を組織して小作人争議を行ってそれなりの成果を得ていた。
何らかの原因で農地を捨てて流浪していた遊民は、農民協会に入り込んで小作人の権利ではなく自分の利益の為に活動を始めた。
遊民系協会員は、地主に暴力を振るって金をむしり取り、従わない者は人民の敵として虐殺して財産を奪った。都市への食糧を差し止めて不当な賄賂を要求し、従わなければ暴動を起こした。
農民会の被害を受けた地主や都市は、国民党に中国共産党の横暴を訴えた。
中国共産党中央は、ロシア共産党の指導に従って階級闘争を行うべく、農民運動を過熱化させ不法行動をとる地方組織に自制を求めた。
農民協会は、盗賊紛いの遊民系会員を排除しようとしたが、逆襲を受け協会は大混乱した。
場当たり的な活動方針しか持たない中国共産党によって、都市や農村の労働運動は統制を失って、遊民は匪賊化して犯罪事件が増加した。
蒋介石は、匪賊化した中国共産党を排除すべく、第一回国共合作を解消して政府内中国共産党員を追い出した。
国民党政府に協力していたコミンテルン顧問団と中国軍の育成にあたっていたソ連軍軍事顧問団は、国民党を去り、中国共産党の紅軍を訓練した。
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8月 蒋介石も、中国武力統一までは日本軍との武力衝突を避ける方針をとった。
日本政府は、日本人居留民の安全が守られたとして撤兵した。
イギリスは、上海での反英運動が昂じて華南地方の英国権益を略奪する方向に暴走する事を畏れていた為に、中国人が反日に転じて北に向かう事に期待していた。
イギリス諜報部員は、国益の為に中国人の間に反日気運を煽り、極秘で反日派中国人活動家に金と武器を流し始めた。
中国共産党と国民党左派は、軍閥打倒と日本人追放の為に国民党の意思を統一すべく暗躍していた。
中国のナショナリズム運動は、中国共産党の指導の下で燎原の火の如く広がっていった。
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8月1日 南昌武装蜂起。
8月21日 蒋介石は、ソ連軍を対日戦に介入させるべく、スターリンと不可侵条約を締結した。
スターリンは、日本軍との戦闘を避けるべく、蒋介石に知られない様に極秘で日本側に接近した。
8月後半 日本軍は、中国政府が「日本人居留民の生命財産は責任を持って保護する」事を約束した為、山東半島から撤兵した。
だが。ファシスト中国は、日本との如何なる約束も守る意志はなかく、不利な状況下に追い詰められた為にか日本軍を撤退させるべく方便として約束したまでの事であった。
中国各地では、中国人便衣隊(ゲリラ)による日本人居留民への暴行や殺人事件が絶えなかった。
朝日新聞「中国が捏造した反日宣伝記事は、香港経由で世界中にばらまかれている」
中国で活躍している一部の白人企業は、日本軍が進駐すると中国人便衣隊や中国共産党の赤匪の犯罪行為が激減するとして、日本軍を歓迎していた。
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9月 毛沢東率いる遊撃部隊(流民部隊)は、中国共産党中央の指示を無視して独自方針で暴動を起こしたが敗退し、匪賊の様な会党が根城としている井崗山に立て籠もった。会党の黄文才や王佐らは、支配地域での強奪に「人民の正義」という大義名分を持たせる為に喜んで入党した。
アヘンの密売と人身売買を生業としていた秘密結社も入党して、井崗山中国共産党勢力は急激に党員を増やした。
毛沢東は、表面的にはマルクス主義による人民の指導者と振る舞いながら、実態は中国伝統の専制君主であった。
彼らは、労働者の権利が保証された人民国家の建設ではなく、自分達の一君独裁の封建王朝を築こうとしたにすぎない。
革命部隊と言うよりは盗賊集団に過ぎなかった為に、毛沢東ら党幹部と平党員らとの間には雲泥の格差が存在し、党員は一般住民を奴隷の様に使役した。
井崗山の中国共産党部隊が遊撃戦といいながら犯罪行為を繰り返した為に、住民は彼らを血も涙もない「共匪」と恐れた。
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毛沢東は、中国を支配する為に繰り返し読んだのはマルクスやレーニンの書籍ではなく、北宋時代の司馬光がまとめた『資治通鑑』であった。
そして、愛読書が『三国志』で、見習ったのは王朝を守ろうとして仁徳者・劉備元徳ではなく、王権を簒奪した乱世の覇王・曹操であった。
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9月29日 政府の役職から身を退いて蒋介石は、「休養」を理由として日本を訪れたが、真の目的は別の所にあった。
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10月3日 蒋介石は、神戸で華僑の財閥・呉啓藩の邸宅で宋家の長男・宋子文と落ち合い奈良の法隆寺などをめぐり、神戸市の有馬温泉で宋子文の母親である倪(げい)佳珍に宋美麗との再婚の許可を求めた。
倪佳珍は、結婚を許可するに当たり、結婚式は日本ではなく中国で行う事とメソジスト会派のキリスト教に改宗する事の条件を付けた。
蒋介石は、宋美麗との結婚許可を得るという訪日した最大の目的を達成し、軍事独裁政権(ファシスト中国)を樹立する為の宋財閥からの財政支援とメソジスト会派を通じてアメリカからの軍事支援を得る事が可能になった。
孫文は、中国の近代化の為に、前半は日本と日本右翼の支援を受け、後半はレーニンとソ連の支援を受け、軍閥を打倒する為に中国共産党と手を組んだが、全て失敗し、失意のうちに死亡した。
蒋介石は、中国共産党を打倒する為に、満州権益を守ろうとする軍国日本と決別し、中国進出の機会を窺っているアメリカに接近した。
アメリカは、軍国日本を中国市場から閉め出す為に蒋介石を利用しようとした。
10月23日 蒋介石は、関西旅行から東京に戻るや、帝国ホテルで「謹んで日本国民に告ぐ」という満州及び北京の敵対軍閥を支援する日本政府を批判する声明を発表した。
日本政府は、蒋介石は軍人政治家ではあるが下野した私人であり、中国の安定化にはこれまで通りの親日派軍閥を支援するとい基本方針からノーコメントを貫いた。
蒋介石は、日本政府の冷ややかな反応は予想していたので気にはしなかったが、日本右翼に中国統一の北伐を承認して貰う為に頭山満と面会した。
右翼の首領である頭山満は、白人植民地支配からのアジア解放を唱える大アジア主義者で、孫文やアジア各地で抵抗運動を続けている独立派の最大の支援者であり、アジア全体での影響力が強なった。
蒋介石は、中国の近代化という孫文の意志は継続するが中国再統一に当たって中国共産党との関係を断ち事を条件に、頭山満から北伐決行の支持を取り付けた。
コミンテルンは、国共合作が崩壊した事を理由にして中国共産党の書記を陳独秀を解任し、ロシア語が話せる瞿秋白を任命した。
蒋介石は、軍事力(黄埔軍官学校卒業生を主力とする中央精鋭部隊)、裏社会の暴力(上海の犯罪的秘密結社)、財力(宋財閥)を手に入れ、国民党内部の権力闘争に勝ち残った。
中国共産党は、知識人や学生を味方にする為に上海文壇への浸透していった。
国民党政府は、左翼作家達を逮捕、拷問、処刑した。
文壇の重鎮である魯迅は、中立を守っていたが、国民党政府の弾圧を激しく非難し、知人のエドガー・スノーやバーナード・ショーらを通じて世界に訴えた。同時に、文壇に隠れ口先で社会を混乱させる左翼の作家や知識人を扇動家と強く批判した。
近代国家の建設、国民の覚醒、社会の安定を妨げているのは、文語体中国語と各民族・各地の方言であるとして、日本の国語運動・標準語普及活動を手本として統一的口語体中国語・中国国語を創作して広める事に全精力を注ぎ込んでいた。
魯迅の国語統一運動に賛同し協力したのは、日本留学組の親日派エリート達であった。
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12月 張作霖は、人種差別的な朝鮮人土地耕作令を発布し、急増する朝鮮人移住者が土地を取得できない借地期限を1年と制限し、同時に昔から住み着いている朝鮮人農民達の土地や農作物に圧力をかけて生活苦へと追い込んだが。
朝鮮人移住者は、中国人の嫌がらせに不満を募らせていった。
広東コミューン事件。共産主義者は、武装蜂起して広東を占領し、犯罪者を釈放して略奪と放火を許可した。蒋介石は、討伐軍を派遣して、共産主義者と犯罪者を容赦なく処刑した。
ナチス・ドイツ、アメリカ、イギリスなどの欧米諸国は、1929年10月に起きた世界大恐慌から自国経済を立て直す為に、中国軍にモノとカネの軍事援助を行い、ソ連には軍需産業の発展名目で多額の融資を行った。
当時の中国軍は、ドイツ軍同様に強力な最新兵器を装備した最大最強の軍隊であった。
日本軍装備の大半が、国際的軍縮圧力もあり、議会によって予算を大幅に削減されて日露戦争当時のままであった。
ソ連軍は、1930年後半頃から、正規兵数千人と失業者数万人を国際義勇兵として抗日戦に派遣した。
世界大恐慌により、 欧米列強は保護貿易主義に走り排他的経済ブロックを形成した。
地下資源の無い貿易立国日本を、明治維新以前の前近代的農業国家に逆戻りさせる為に、日本を国際的に孤立化させ、国際経済市場から閉め出し、中国市場からも追放しようとした。
日本殲滅計画を立案し、各国政府を動かして対日強硬政策と日本包囲網(ABCD+S包囲網)を実行に移したのが、イギリスとアメリカの国際的ユダヤ人資本家であった。
中国と日本の違いは、何処にあったか。中国の軍需産業は、何時止むとも分からない内戦を支えるには脆弱であった。中央政府及び地方独立軍閥は、欧米列強から武器弾薬を大量に輸入する為に国民を犠牲にした。産業らしい産業のな内戦状態の中国における重要な収入源は、アヘンと人身売買と盗掘であった。
軍国日本は、憲法に従い法的手続きの基で国家予算を決め、国民の生活を圧迫しない範囲で軍事強化を図った。
日本独自の国防計画をたて、欧米列強の軍需産業に依存せず、独自の兵器体系で国内産業を活用した武器自活路線を採用した。
国内不況で大量の失業者を抱えている欧米列強は、経済浮揚策として、大量消費を行っている中国の内戦を利用していた。
欧米列強の軍需産業に多額の融資を行っていたのが、国際的ユダヤ人金融資本であった。
扱い商品は、武器弾薬とアヘンであった。彼らは、各国の政府・軍隊の秘密情報部や新聞社・通信社などの国際的報道機関から膨大な情報を仕入れていた。
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1928〜32年 第一次五ヵ年計画。農村地帯は都市労働者の犠牲となり、数千万人の零細農家以外の農民は土地を没収され、強制的に集団農場や国営農場に押し込められた。
農民は、共産主義体制下では虐げられ、自由が認められず奴隷的重労働が強制された。
抵抗した中小規模の農民は、家畜を殺し、穀物生産を拒否した為に、クラーク(富農)として弾圧され極北の地獄のような強制重労働収容所に送られた。
農産物生産が25%に低下した為に、ウクライナなどの農村部で数百万人が餓死した。
数百万人の農民が、緑軍として内戦を起こしたが、西側の兵器で武装した共産軍によって皆殺しにされた。
共産軍は、反革命分子に対して情け容赦がなく、共産主義の大義に逆らう者は虐殺した。こうして、数千万人が犠牲となった。
赤軍や赤旗の「赤」とは、数千万人の人民が流した赤い血であった。
西側のユダヤ人金融資本は、ソ連の国内で何が起きているかを充分に認識した上で、石油やマンガン鉱などの資源を独占する為に、スターリンの都市重工業化計画に巨額の融資を行った。アメリカの全機械輸出の40%以上が、ソ連向けであった。
ソ連の重工業による経済発展は、共産主義にもとずく党主導の計画経済では失敗したが、西側のユダヤ人資本家らの協力で成功した。そして、急速に軍事大国となり、周辺諸国に軍隊を派遣して傀儡化した。
ルイス・マクフェデン上院議員「ソビエト政府は、我が国の連邦準備制度理事会及び連邦準備銀行の決定により、ロックフェラーのチェース銀行、モルガン・ギャランディ・トラスト他、ニューヨーク市内の幾つかの銀行からアメリカの国家資金を手に入れている」
ハリマン「共産主義の考え方は、少数が多数の為に何が善であるかを知っているのだというのであって、少数がその善意を民衆の上に仮借なく強制したのであった。個人が国家の婢僕であった」
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