🎹06:─1─日中戦争の原因はファシスト中国の「革命外交」とソ連・コミンテルン・中国共産党の対日本戦略であった。~No.15 @ 

統帥綱領

統帥綱領

  • 作者:大橋武夫
  • 発売日: 1972/02/01
  • メディア: 単行本
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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人の思考と行動は、短期的戦術若しくは中期的戦略でであって、長期的戦略はない。
 起きてもいない事や何もない所を想像して、求める結果を想定して計画し準備し、て、作戦を立て行動する事が苦手である。
 何かが起き、甚大な被害が出てからでないと行動できないのが、日本人である。
 日本人の行動は、「後悔先に立たず」で大半が後手である。
 欧米や中国は内なる衝動で変化を起こすが、日本は外からの強打があって初めて動く。
 日本人は、玉突きの玉で、玉が当てられてからようやく動く。
 外から強打され、恐怖してパニックを起こす。
 日本は、蜂の巣である。
 日本人は、蜂である。
 蜂は、巣が刺激されないと防御的行動を起こさないが、巣が刺激されると巣を守る為に飛び回る。
 日本人は、防御的蜂蜜か熊蜂であって、攻撃的雀蜂ではない。
 蜜蜂や熊蜂は、雀蜂のように別の蜂の巣を攻撃はしない。
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 ロシアの侵略が、明治維新日露戦争を引き起こした。
 清国(中国)・朝鮮連合の脅威が、日清戦争日韓併合を引き起こした。
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 軍部は、戦争を回避する為に日本人居留民を見捨てた消極的平和主義の政府に激怒した。
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 軍部は、政府が第1回南京事件と漢口暴行強姦事件で日本人居留民を現地保護せず見殺しにした事を教訓として、政府に変わって日本人居留民を保護する為に、統帥権を政府や議会から独立させた。
 軍国主義者は、統帥権を拡大解釈した。
 軍部は、統帥権を悪用して暴走した。
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 政府が、日本人居留民を現地保護する為に、中国と戦争を覚悟して集団的自衛権を発動して中国派兵を命じていれば、統帥権の暴走を食い止められたかもしれない。
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 軍人は、立案した作戦を淡々と実行し、成功すれば生還して、失敗したら戦死した。
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 世界平和をもたらすと期待された国際連盟は、幻想であった事がハッキリした。
 軍国日本は、国際連盟に対して過度の期待を抱き、国益を犠牲にし軍縮を受け入れ国際協調と国際貢献を行ったが、悉く裏切られた。
 軍部は、国際協調主義や平和至上主義では国家を守れないと痛感した。
 現実主義を信奉する軍国主義者は、戦争をさせ平和を求めてるという平和至上主義の理想主義は有害であると再自覚した。
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 日米戦争は、レーニンが発案し、コミンテルンアメリ共産党中国共産党などに示唆した。
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 1926年(大正15年・昭和元年) 憲政会・第1次若槻内閣の幣原喜重郎外務大臣は、不干渉主義を保持していた。幣原外交。 
 大正末期から昭和の初め、帝大生の3分の1は共産主義統制社会の実現の為には官界や経済界で出世するべきだと真剣に考えるマルクス主義者で、同じ3分の1がマルクス主義者ではないが社会全般の統制は必要だと考え協力した。
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 1927年 ファシスト中国、中国共産党満州軍閥は、民族主義を煽り、満州各地で大規模な排日暴動を起こし、数多くの日本人居留民を襲い暴行を加え、強姦し虐殺した。
 3月24日 第1回南京事件。中国人共産主義者と南京の市民と学生は、暴徒となって日本人居留民達を襲い暴行し強姦し殺害した。
 4月3日 漢口事件。
 反日派中国人達は、地方の日本人入植者や奉天などの日本人住民を組織的に襲撃し、中国人官憲は取り締まるどころか支援していた。
 満州の日本人居留民は、中国本土同様に被害を受け、数多くの死傷者を出していた。
 コミンテルン日本共産党に対する27年テーゼ「日本問題に関する決議」を作成した。
 日本共産党が、統一戦線政府を樹立する為に主導権を握る必要があった。
 「多種多様な階級的諸組織の全てが、その政治的頭部組織たる共産党の指揮下に立たねばならない」
 反天皇反日的日本人は、日本で暴力的共産主義革命を起こすべく暗躍し始めた。
 エリート官僚やエリート軍人官僚の中に、マルクス主義が浸透していた。
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 統帥権を悪用したには、軍人ではなく政治家であった。
 政治家は、政権与党から政権を奪う為に、統帥権を悪用して政府を批判し、内閣を総辞職に追い込んだ。
 日本の政治家や官僚・役人は、自分の立身出世の為に政局を弄び、アメリカやイギリスのような高度な政治能力と狡知な外交交渉術や卓越した経済政策力を持つ事ができなかった。
 日本の悲劇は、軍部の暴走ではなく、政治家や官僚・役人が成熟するどころか稚拙に安穏とし為である。
 軍人は、軍事予算の増額を威圧的に要求したが、政治に干渉する気はなかった。
 政治家が、首相や大臣の椅子欲しさに軍人を利用し、軍人を政治の場に引きずり出したのである。
 問題は、軍人ではなく政治家である。
 問題の政治家は、責任を他人に転嫁し、義務を地位を悪用して回避し、利権がらみの甘い汁が吸える権利だけを要求する。
 明治から大正、昭和初期から戦中を経て後期、そして平成と、政治家や官僚・役人の質は明らかに劣り、劣化を続けている。
 戦うべき時に戦いを放棄する政治家や官僚・役人が、最も醜悪な存在であり、国家を滅亡に導く。
 それが、第一回南京事件であった。
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 第二次山東出兵と済南虐殺事件。
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 統帥権は、個別的自衛権を採用して集団的自衛権を拒否した。
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 日本政府は、第1回南京事件に際してアメリカとイギリスからの集団的自衛権発動による同時派兵要請を拒否し、個別的自衛権で独自の行動する事を通告した。
 アメリカとイギリスは、日本が共同派兵を拒否した事で、日本は協力してお互いの国民を守る意思はないと判断した。
 軍部としては、政府が集団的自衛権を放棄して個別的自衛権で皇室と国家と国民を守ると決定した以上は、統帥権を個別手自衛権で強化するしかなかった。
 もし。政府が、単独ではなくアメリカやイギリスと連合を組み、自国民を殺傷した中国人暴徒を懲罰として武力で鎮圧していれば、統帥権の強化は必要なかった。
 日本軍が、集団的自衛権アメリカ軍・イギリス軍と行動を共にしていれば、義和団事件時同様に独自の軍事行動をとる事なく抑制され、それ以降の世界での孤立と中国との戦争は起きなかった。
 日本の悲喜劇は、中国との戦闘を避けるという配慮から、アメリカやイギリスとの協調関係を放棄し、日本は日本で独自に個別的自衛権を発動すると決断した事にある。
 無自覚的に、中国との戦争を避ける為にアメリカやイギリスとの戦争へと舵を切った。
 集団的自衛権による小さな戦争を恐れる余り、個別的自衛権で大きな戦争を引き寄せた。
 統帥権による軍部の暴走を抑制するには、集団的自衛権アメリカ軍とイギリス軍と連合軍を編成する事であった。
 国家に於いて最も警戒すべき自衛権とは、国家間の協調関係を旨とする集団的自衛権ではなく、自主判断で独自の行動できる個別的自衛権である。
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 ファシスト中国の革命外交。
 1928年 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
 蒋介石は、不平等条約の即時破棄と国際合意・ワシントン条約の無効を宣言した。
 軍国日本に対しては、日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効と国際法による交渉で獲得した諸権利は否認し、投資と犠牲で築いた全ての中国権益を没収すると通告した。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。
 日本政府は、中国との戦争を避けるべく、平和を最優先にして中国で生活する日本人居留民の保護を放棄した。
 如何なる原因があろうとも、平和を求め、戦争を否定した。
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 1929年 ソ連軍は、ハラルに進駐した。
 スターリンは、満州に親ソ傀儡政権を樹立して中国・日本を含む東アジアを共産主義化する為の拠点を築こうとした。
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 1930年4月 ロンドン条約の成立。日本全権は、若槻礼次郎と財部彪。
 外務省代表団はシャンパンを抜いて祝杯を挙げ、海軍代表団は通夜のように沈み込んで悔し涙を噛みしめた。
 軍部は、国防を蔑ろにして協調外交や軍縮政策を進める政党政府に不満と反発を強めた。
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 1931年9月18日 満州事変。現地軍の関東軍は、中央の不拡大方針を無視して戦場を満州全体に広げた。
 日本国民は、関東軍を支持した。
 軍部と軍国主義者と一般国民は、一心同体であった。
 加害者の軍国主義者と被害者の一般国民は、有り得ない事である。
 一般国民は、軍国主義者に騙されたのではなく、軍部の日本居留民を現地で保護する大陸政策を積極的に支持していた。
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 1932年 コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 9月15日夜から16日未明 楊柏堡(ヤンパイプ)事件。
 共匪共産主義匪賊)と馬賊は、撫順炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人を猟奇的に虐殺した。
 中国人労働者が、襲撃を手引きした。
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 外交は、耳当たりのいい常識論で相手と話し合って問題を解決する事ではない。
 相手を気持ちを慮って配慮し、自分から一歩下がって譲歩して、懸案事項を棚上げして有耶無耶に妥協を図る事は外交交渉ではない。
 外交とは、密室で行う2国間交渉で暗礁に乗り上げ不調に終わる事を想定し、国際社会で孤立しない為に如何に数多くの第3国を味方に付けるかである。
 軍国日本は、ファシスト中国との2国間交渉で停戦を目指して失敗し、親日的傀儡政権を樹立して内々で日中戦争を解決しようとした。
 反日に凝り固まった中国と、本心で幾ら腹を割って話し合った所で、中国が求める要求の95%近くを正当であるとして受諾しなければ解決できない事は知っていたがゆえに、一歩も引く事ができなかった。
 中国はどんな政治体制に変わったとしても、社会は儒教的価値観による縦社会として不可侵の上下関係のみが支配していた。
 中国が日本に強要したのは、対等関係による平等ではなく、上下関係による服従であった。
 中国の中華思想は、日本、朝鮮、ベトナムなどの周辺諸国・地域に対してはタテ関係として絶対服従を求めるが、アメリカ、ロシア、イギリスなど白人国家にはヨコ関係として友好を求める。
 軍国日本は、日中戦争を局地紛争と限定して中国との2国間交渉で解決しようとした。
 ファシスト中国は、中国の巨大市場と無尽蔵の資源を利用してナチス・ドイツソ連アメリカ、イギリス、国際連盟を味方に付け、国際世論を利用して軍国日本を追い詰めていった。
 昭和天皇は、日本の窮地を救い戦争の危機を回避する為に、諸外国が反日色を強めた為に国という枠組みを持たないローマ教皇ユダヤ人に働きかけた。
 日本外交の失敗は、中国との2国間交渉の決裂ではなく、中国の赤裸々な惨状と日本が被った深刻な被害を公開して第三国を味方に付けなかった事にある。
 つまり、中国を手出しできない救いがたい窮地まで追い詰めのではなく、中国の気持ちを察し配慮して妥協しようとした「詰めの甘さ」にある。
 日本の外交方針は、明治と大正と昭和前期では正反対になった。
 明治と大正は、植民地にされ奴隷にされない為に、他人の視線を気にせず軍備を増強し、相手を無視して冷徹で非情な現実外交に徹していた。
 それが、日韓併合である。
 それと同時に、人として「平和と人道に対して貢献」するべく、ポーランド人児童やロシア人児童、ロシア人難民やユダヤ人難民を犠牲を出しながら救出した。
 平和と人道に対する貢献をして戦死した日本人将兵は、国家が顕彰する為に靖国神社の祭神として祀った。
 同胞が助けられた事に対して、ポーランドは軍国日本に感謝したが、ロシアとユダヤは逆に日本人軍国主義者を憎んだ。
 昭和に入ってから、他人からいい人と思われたいという八方美人的意識が強くな、平和の為に軍縮を受け、国益を抑えて耐える、温情と配慮による理想外交を進めた。
 対話して相手を理解すれば如何なる問題も解決の一口を見つけ、必ず解決し分かり合えると信じた。
 現実にはそれは幻想で有り得ない事であり、相手の身となって考え、相手の目から自分を見つめると言う事は無意味な事である。
 世界的普遍の常識や共通の価値観を持った者同士なら可能ではあるが、中国人相手には不可能であった。
 軍国日本は、平和を求める理想外交で破滅した。
 ジョン・フォレスター・ダレス「(瀬戸際外交とは)戦争に突入する事なく、ぎりぎりまで相手を追い込む能力は芸術的だ。そして、自ら崖っぷちに行く勇気がなければ、敗者になる」
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 1932年1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件。昭和天皇暗殺計画(東京義挙)。
 キリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇の暗殺に失敗した。
 1月28日午後 第一次上海事変
 4月29日 上海爆弾テロ事件(上海義挙)。
 昭和天皇は、平和を望み、戦争を嫌い、戦争の早期解決を命じていた。
 5月 5・15事件。三上卓海軍中尉らが、首相官邸に乱入して政友会総裁の犬養毅首相を射殺した。
 憲政の常道に従えば、同じ政友会の鈴木喜三郎が首相に就任するはずであったが、昭和天皇は斉藤実海軍大将に首相として組閣する事を命じた。
 憲政の常道である、二大政党制による大正デモクラシーは終焉した。
 国民とマスコミは、企業や富裕層の便宜を図って貧困庶民の救済を行わず賄賂で腐敗した政党政治に嫌気をさしていただけに、政党政治に痛打を与えた三上ら暗殺者を庶民の英雄として助命嘆願運動を行った。
 軍部は、庶民が味方してくれるという現実を目の当たりにして勇気付いた。
 軍部を助長させたのは、庶民であった。
 統帥権の強化を目指す軍部は、陸軍と海軍で主導権争いをしていた。
 宮中内でも、陸軍派と海軍派が昭和天皇を囲い込む為に暗躍していた。
 長洲・山県有朋系で陸軍寄りの中村雄次宮内大臣が辞任し、海軍寄りの薩摩・大久保利通の次男・牧野伸顕が後任の宮内大臣に就いて、勢力図は大きく変わった。
 昭和天皇は、国際派である牧野伸顕と海軍閥の後押しで、国政国益より党利党略で政権与党を目指し財界との癒着で腐敗堕落した政党政治に見切りを付け、天皇親政への舵を切った。
 海軍部内では、国際協調としての海軍軍縮条約をめぐって、海軍省側の条約派と軍令部側の反対派に分かれて揉めていた。
 条約派は次の海戦は航空部隊・空母が主体となると主張し、反対派は諸外国海軍同様に海戦を制するのは大艦巨砲であるとして譲らなかった。
 軍令部は、斉藤実内閣の樹立を歓迎し、長年の念願である、海軍内で海軍省の下位に置かれている地位の向上を目指した。
 軍令部長伏見宮博恭(ひろやす)元帥は、軍令を軍政から独立させ権限を強化する為に「軍令部条例及び海軍省軍令部業務互渉規定」という規則を改定させ、統帥事項や高級将校の人事権を海軍省から軍令部に移管させた。
 軍令の軍令部は、明治以来、軍政の海軍省の下部組織に組み込まれていたが、この改定で軍令部は独自の秘密行動が可能となった。
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 1933年 伏見宮部長は、海軍内の最高権力者とし、海軍大臣・大角岑生(みねお)大将に対して海軍省内の条約派将官を追放するように要求した。
 3月 大角海相は、定期人事異動で山梨勝之助大将や堀悌吉中将ら条約派将官を左遷し退役させた。
 海軍は、軍縮路線から軍拡路線に切り替え、アメリカとの建艦競争を再開させた。
 世界の軍事常識である大艦巨砲主義から、空母建艦と航空隊増設を制限した。
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 陸軍も、皇道派と統制派で激しく主導権争いを繰り返していた。
 統制派は、中央の軍人官僚エリートグループで、近代的な長期持久戦の集団国防主義であった。
 皇道派は、戦闘現場で下士官や兵士達と共に戦う若手将校グループで、伝統的な短期決戦の一国防衛主義であつた。
 1935年 国體明徴問題。天皇機関説統帥権干犯問題
 佐々木惣一(京都大学)「之(統帥権)を以て国務大臣輔弼の外に置くとするの説行はるれども、蓋(けだ)し是れ一つ独断たるのみ、何等法上の根拠あるなし」(『日本憲法
 6月 ヒトラーは、ナチス・ドイツ再軍備を認めた。
 統制派や革新官僚の親ドイツ派は、ナチス・ドイツと対ソ対共産主義勢力に対する提携を模索した。
 皇道派民族主義者は、日本の国力にあった一国防衛戦からファシズム陣営との数カ国共同戦略は不可として反対した。
 統制派は、国防戦略統一の為に中央から皇道派を一掃し始めた。
 8月 皇道派の相沢三郎中佐は、統制派の軍務局長永田鉄山少将を惨殺した。
 統制派は勢力を弱めるどころか、永田計画に沿って一つに結束した。
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 1936年2月 2・26事件。昭和天皇は、皇道派の蹶起を叛乱と決めつけ、反乱軍の鎮圧と陸軍内の綱紀粛正を厳命した。
 統制派は、天皇の命令として日露戦争沙河会戦の英雄・荒木貞夫と真崎甚三郎ら重立った者達を予備役として追放して、陸軍を掌握した。
 そして、皇道派復権を阻止する為に陸軍大臣及び海軍大臣軍部大臣現役武官制を復活させた。
 軍部は、軍部大臣現役武官制によって、国政を軍事優先の総力戦に改編するべく政治的発言力を強め内閣を支配した。
 共同謀議として、幾つかの内閣は軍部の要求を達成できずに総辞職に追い込まれた。
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 共産主義者は、陸軍内に深く浸透し、軍首脳部内にも支持者や同調者がいた。
 憲兵隊は、思想弾圧として軍隊内の共産主義者を探していた。 
 紅い軍人は、陸軍にも海軍にもいた。
 皇族や華族の中にもいて、天皇の身辺にも入り込んでいた。
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 昭和天皇は、最高権力者にして最終決定権者として、日中戦争終結と対米英蘭戦争の回避に心血を注ぐべく、信用できる人物を首相に任命して組閣を命じた。
 軍部は不都合な情勢や情報及び事実を隠蔽し、首相を恫喝し、昭和天皇に誤った報告を奉答して欺いた。
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 1937年7月7日 盧溝橋事件。中国共産党は、日本軍とファシスト中国(中国国民党)を全面戦争に追いこむべく仕掛けた。
 軍部は対ソ戦略から早期停戦と戦闘不拡大を主張したが、政府と議会は徹底攻撃を譲らなかった。
 国民は、度重なる日本人居留民への暴行・殺人・強姦等の犯罪行為を止めないファシスト中国への怒りから、消極的な軍部の弱腰を非難し、積極的な政府を支持した。
 7月28日 天津暴動。
 7月29日 通州大虐殺事件。
 8月13日 第二次上海事変日中戦争勃発。
 反日派のヒトラーとドイツ軍は、日本軍と戦うファシスト中国軍に軍事顧問団を派遣して協力し、中国人兵士をドイツ軍式軍事教練で鍛え上げ、上海近郊をドイツ軍工兵技術で鉄壁の要塞化した。
 ドイツの軍需産業ユダヤ系国際金融資本は、ファシスト中国軍が勝利する為に軍事費を与え、最新最強の武器を提供した。
 国民党軍の中の隠れ共産主義者は、スターリンの指示に従って日本軍に先制攻撃を行った。
 戦争を仕掛けたのは、軍国日本軍ではなく中国軍であり、ソ連の指示を受けた中国共産党であった。
 戦争を起こしていたのは共産主義者である。
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 ヒットラーは、国民選挙によって第一党となってナチス政権を作り、100%ではないにしても国民の総意で総統となって独裁者となり政府と軍隊を支配し、人種差別主義からホロコーストを行った。
 レーニンも同様に、人民の圧倒的支持を受けて共産主義政権・ソ連を樹立し、人民の正義で反対派の大粛清やウクライナ人の大量餓死を行った。
 ヒットラーのナチ党もレーニンロシア共産党も支持し行動を起こしたのは高学歴出身知的エリート達であり、古い伝統を守る一般市民や農民は彼らを支持せず行動を共にしなかった。
 中国共産党毛沢東も、スターリンも同じ〜イズム信奉者で大虐殺者であった。
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 軍国日本は、ヒットラーの軍事支援を受けたファシスト中国(中国国民党)、中国共産党ソ連などの国際的共産主義勢力、ソ連ファシスト中国に全面支援するアメリカ・イギリスの軍需産業・国際金融資本と戦争を続けた。
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統帥権と帝国陸海軍の時代 (平凡社新書)

統帥権と帝国陸海軍の時代 (平凡社新書)

  • 作者:秦 郁彦
  • 発売日: 2006/02/11
  • メディア: 新書