🎹11:─1─満州では、中国人暴徒による日本人居留民への事件が激増していた。万宝山事件。朝鮮排華事件。満州事変。石原莞爾。1931年~No.42No.43 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ジョージ・ヘンリグ(ケンタッキー大名誉教授)「(満州事変は)実際、当時の保守的ヨーロッパ人達は中国の策略的、欺瞞的であるのに対し、日本は安定の源で共産主義に対する防波堤でもあると」(『オックスフォード米国史』)
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 国際常識において、戦争は、戦勝国になれば有効な一大公共事業であり、一時的な失業者対策になるとされている。
 だが、敗戦国になれば悲惨の一言であった。
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 ゲレー回顧録『25年』(イギリス外務大臣)「しからば西欧の如何なる国が、仮に日本と同じ立場にあったとして、日本以上に、いや日本と同じ程度にさえ、自重する事ができただろうか」
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 日本政府は、中国政府への配慮と国際的日本批判を批判を恐れ、満州や中国で生活する日本人居留民を中国人暴徒から武力を行使しても守ろうという決意は薄かった。
 日本人居留民は、国家から見捨てられ、中国人暴徒の中に放り出されていた。
 彼らの命を守るのは、軍部の統帥権軍国主義者の狂気だけであった。
 国際世論は、軍部と軍国主義者の暴力的行為を侵略行為、戦争犯罪、非人道的犯罪として完全否定した。
 軍国日本には、中国や満州に住む日本人居留民を戦争をして守る権利が認められていなかった。
 国際世論は、軍国日本の自国民を守るという正当防衛も自衛権も認めてはいなかったどころか、如何なる武力行使も完全否定していた。
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 蒋介石は、革命外交を宣言して日本の中国利権や資本を没収し始めた。
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 1929(昭和4)年10月の大恐慌発生以来、イギリス、フランス、オランダなどの植民地を持つ国は自国経済の保護の為に、排他的ブロック経済を採用し、持たざる国である軍国日本、ナチス・ドイツファシスト・イタリアを自国圏市場から締め出した。
 日本経済は、関東大震災以来三陸地震室戸台風など相次ぐ天災から立ち直れないうちに世界大恐慌に巻き込まれ、多くの会社が倒産し、数多くの工場が操業停止に追い込まれ、失業者が都会に溢れた。
 日本が唯一期待する中国市場では、抗日中国人による反日大暴動が多発し、日本製品ボイコットで市場から閉め出され始めた。
 ナチス・ドイツファシスト・イタリアは、反日運動に便乗して大量の武器弾薬を売り込み、日本資本の追い出しを手助けした。
 ドイツ軍は、ワイマール政府の許可を得て対日戦の為に軍事顧問団を派遣した。
 ドイツの保守階級は、反日派であった。
 北海道や東北地方は、34年と35年の大凶作で餓死者は出なかったが飢餓人口が44万人を超えていた。
 貧困農家では、口減らしの為に息子を軍隊か満蒙開拓団に出し、娘は僅かな金を稼ぐ為に都会に年季奉公に出かけた。
 多額の借金を抱えた極貧農家は、娘を女郎屋に売った。
 金の工面ができない農家は、泣く泣く、田畑を都会の投資家に獲られた。
 政党政府は、有効な打開策を打ち出せず、不毛な政争に明け暮れていた。
 生活に困窮する都市労働者や地方農家は、賄賂を取って堕落している政党政治家に絶望し、単純思考でわかりやすい軍部に救済を期待した。
 日本は、八方塞がりの状況から脱出する為に軍国主義を採用し、国際社会を敵に回しても大陸侵略に暴走した。
 軍国日本は、「満州は、満州族の故郷であって中国人の土地ではない」の建前で、日本の死活にかかわる重要地域として、親日政権樹立の為に軍事行動を行おうとしていた。
 国際社会から締め出された軍国日本には、商品を販売する地域として、満州と太平洋の南洋統治領しか残されていなかった。
 国際社会は、軍国日本の命綱である満州南洋諸島からも追い出そうと画策していた。
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 コミンテルンは、アジアを共産主義化する為に国民党政権内部に中国共産党員を忍び込ませ、反日運動を煽っていた。
 アメリ共産党員の鬼頭銀一は、天皇制度を打倒して日本を共産主義化する為に、コミンテルンの策動基地のある上海で朝日新聞記者尾崎秀実とソ連スパイのゾルゲを引き合わせた。
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 徳富蘇峰「朝鮮も俺が属国だと斯う言っている。そうして責任を問われる時には、朝鮮は独立国だと言っている。人がやかましい問題にすると。俺の物ではないと言っている。人が立派に整理して物が出来上った時には、之は俺の物だから戻して呉れと言っている。実に余りに虫が好過ぎるのであります。……
 支那人は黙って居れば、如何なる物でも巻き上げようとしている。支那人に言わせれば、九州も之は上海に近いから俺の領地だと言うかも知れない。現にご承知であるかもしれないが、明の永楽帝は我が阿蘇山に台安鎮国山という名前を付けております。この調子だと富士山にでも、或いは支那人が何とか言う名称を付けるかもしれません。
 実に之は虫の好い国としては世界第一であります。此の虫の好い支那人と競争し得るのは、ただ御隣国の一つの米合衆国だけであります。それで両国はなかなか仲が良い」(昭和6年講演『歴史上より見たる日本と支那』)
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 1931年 日本共産党最高幹部の鍋山貞親は、獄中で、転向する前に『社会民主主義との闘争』という論文を公刊した。
 「我々労働者と農民は、議会以外大衆行動にのみ、自己の利益を擁護し又自己を解放する手段と手法とを求め……議会行動を議会以外大衆行動に従属せしめ、議会を大衆行動の支持点として利用する為にのみ、これに参加するのだ」
 官憲は、労働者・農民の権利向上を求めるマルクス主義運動と天皇制度廃絶及び国家転覆を画策する最左派の日本共産党を分けて考え、テロ集団の壊滅の為に共産主義者を大弾圧し、マルクス主義関連の書籍の焚書を行わず書店での販売を許していた。
 革新官僚や統制派軍人等は、マルクス主義社会主義政策を研究していた。
 パール・バックは、貧困階級出身の中国人によるサクセスストーリーとして小説『大地』を出版し、世界的な大ベストセラーとなった。
 中国で布教活動をしていたプロテスタントの宣教師は、全米で「中国=善。日本=悪」を広め、異教国日本の侵略で塗炭の苦しみにある中国人キリスト教徒を救う為の募金活動を行った。
 『大地』を読んだ善良なアメリカ人は、侵略者日本から可哀想な中国を助けようという善意から募金に協力した。
 反日勢力は、「日本は世界征服という野望を持っている」というプロパガンダを行って、アメリカ世論を誘導した。
 西海岸諸州の人種差別主義者は、日本人移民はアメリカ侵略の先兵と信じ込んで警戒し、白人社会に警鐘を鳴らしていた。
 軍国日本は、悪を憎む「善人」のアメリカ人によって破滅へと追い詰められて行った。
 日本海軍は、沖ノ鳥島に水上飛行機の軍事基地を建設する為に政府に圧力をかけた。
 日本政府は、軍部の圧力に屈して日本領として東京都小笠原支庁編入したが、気象観測所や灯台などの建設を渋った。
 警察当局と憲兵隊は、日本国内で1,900件以上の思想弾圧を行った。
 カリフォルニア州で、アジア人排斥を緩和させる為に東洋問題評議会が結成された。
 毛沢東は、江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。
 中国共産党は、農村改革として地主や豪農から小作人を解放して自作農とし、土地改革として地主や豪農などから農地を取り上げて小規模農家や零細農家に再配分した。
 共産党支配地域に政治局員を配置し、農村を共産党下部組織・単位として、農民を共産主義革命兵士に仕立て上げた。
 開放農民達は、中国共産党に協力し、国民党員や地主、豪農、企業家、資本家、知識人などの国民党支持者を告発して財産を没収し、場合によっては人民裁判で有罪と決め付けて処刑した。
 処刑された者、18万8,000人以上。
 追放された者、210万人以上。
 永年抑圧されていた人民は、これまでの鬱憤を晴らすように気に食わない者を、プロレタリアの大義を振り回して事実無根の無実でも処分した。
 共産主義者は、敵の血を大量に流す事に狂喜していた。
 中国共産党は、土地開放という農村改革を行う事で小規模農家と小作人の支持を得て、支配地を拡大した。
 アメリカのマスコミは、中国共産党を抑圧と搾取に立ち向かう農民政党として絶賛した。
 後年。中国共産党は、個人の土地所有を禁止して党の管理下に置くとして農民から農地を取り上げ、抵抗する者は容赦なく反革命派・右派として処分した。
 3月 3月事件。橋本欣五郎らは、軍隊を動員して議会を占拠し、宇垣大将を首班とする総力戦内閣を樹立するクーデター計画を練る。軍部は、橋本欣五郎らは逮捕したが、国を思っても行動として穏便な処置で事件を解決した。
 橋本欣五郎の周囲には、若手エリート将校や革新官僚マルクス主義から転向した右翼などが、レーニン資金を目当てに集まっていた。
 陸軍は、橋本欣五郎が10月も同様のクーデター計画を起こした為に、姫路野砲連隊付きとして左遷した。レーニンから渡された20万円近い活動資金は、陸軍省軍務局軍事課が終戦まで保管した。
 4月 周恩来の片腕であった顧順章は、蒋介石に寝返って中国共産党のスパイ網を売った。
 国民党は、顧情報をもとに中国共産党のスパイ組織を一網打尽にして潰した。
 周恩来は、裏切りに激怒し、仲間への見せしめとして、顧順章の家族を皆殺しにして上海フランス租界の公園に埋めた。
 毛沢東は、武装蜂起全てに敗北し、窮地に追い込まれて瑞金に逃げ込んだ。
 中国共産党エリートのソ連留学派は、ソ連の協力を得て、壊滅的打撃を受けた組織の立て直しに取りかかった。
 非留学組である毛沢東派は、コミンテルンから党指導力と軍事能力を疑われ中枢から遠ざけられた。
 両派は、熾烈な権力闘争を始めた。
 6月20日 フーバー・モラトリアム。
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 夏 台南州嘉義(かぎ)農林学校の野球部は、台湾代表として甲子園に出場した。
 近藤兵太郎監督「1位でなければダメだ。2位と最下位は同じ事だ」
 近藤精神とは、最高位を目指して、最後の最後まで諦めない事。
 実力とは、技量と精神の結合である。
 正選手、内地人(日本人)3人、本島人(台湾系漢族)2人、高砂族4人。
 1回戦、3─0で神奈川商工を破った。
 決勝戦、4─0で名門、中京商業に敗れて、準優勝。
 「球は霊(たま)なり 霊正しからば球また正し 霊正しからざれば球また正しからず」
 日本人は、人種差別や優秀民族意識よりも逆境にある者に心を寄せるという判官贔屓が強く、台湾の学校が快進撃して勝ち進む事に熱狂して喜び優勝する様に声援を送った。
 武士道精神から、勝った者にも、負けた者にも、両者ともよく戦ったとして分け隔てなく称讃した。
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 7月 旅順で、関東軍の石原完爾参謀は、対中強硬派の森恪代議士に対共産主義・対ソ戦略としての満蒙構想を説明し、政治的な協力を求めた。
 7月2日 万宝山事件。在満の日本人団体である満州青年聯盟は、抗日中国人の暴動を恐れた。右翼的日本人は、軍部に対して、満州を中国から切り離して五族協和による理想国家を建国する事を要望した。
 朝鮮人小作人は、不毛に近い未開墾の土地を中国人地主から借り受けて農作業を行い、収穫を折半して生活していた。
 農耕するには厳しい土地の上に、小作料は高くて収入は少なく、中国人役人が定期的に廻ってきて賄賂を取り、馬賊が時より襲撃してきて食糧や貯めていた金を奪っていった。
 食糧価格が暴落すると、朝鮮人小作人の手取りが減った。
 小作料が払えなくなった朝鮮人小作人は、借金の返済に妻子を取られ、小作地から追放された。
 朝鮮人の多くは、現在の不幸の原因は中国人ではなく日本人であるとして反日運動に参加した。
 7月5日 朝鮮排華事件。朝鮮で。朝鮮人暴徒が、中華街を襲撃して華僑約100人を殺害した。
 ファシスト中国は、朝鮮人による華僑虐殺に対する制裁として対日経済断交を実行した。
 満州では、中国人による日本人への刑事事件が急増した。
 日本政府は、中国政府や奉天政府に抗議し事件の沈静化と日本人居留民の保護を求めた。 だが。中国政府も奉天政府も、口では再発防止を約束するだけで一向に実行せず、むしろ反日暴動を煽っていた。
 満州で、日本人女学生数十人がピクニック中に襲撃され強姦される事件が起きた。
 反日派中国人による日本人居留民への犯罪行為は、増加の一途にあった。
 満州在住の日本人居留民団は、中国側の機嫌を伺うように抗議だけする日本政府の弱腰外交に絶望し、生命財産を守る為には武力保護しかないとして関東軍の軍事行動に期待した。
 関東軍は、日本人居留民の生命財産を守る為に、満州を中国から切り離す軍事計画を極秘で進めた。
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 中国人と流血事件を起こしていたのは日本人ではなく、朝鮮人であった。
 日本人は、中国人と敵対し争う事なく、友人として親しく付き合っていきたいと希望していた。
 朝鮮人は、長年、中国から属国として軽蔑され、中国人に差別され、奴隷の如く使役されてきた屈辱を晴らす為に、日本国籍の威を借りて復讐をしていた。
 日本人は、朝鮮人と中国人の流血を伴った乱闘騒ぎのとばっちりを受け、中国人から逆恨みされた。
 中国共産党は、それを利用して軍国日本を戦争に引きずり込む為の陰謀を巡らせていた。
 単細胞的な日本軍人エリート達は、中国共産党ソ連の陰謀に乗せられて戦争を始めた。
 天才的戦略家の石原莞爾は、それを知ってか知らずか分からないが、満州事変を引き起こした。
 石原莞爾とは、それだけの軍人で、褒められた人間ではない。
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 7月6日 日本は、沖ノ鳥島を自国領土に編入した。
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 田原総一郎「(満州事変前における)張学良軍の日本への圧迫・弾圧は筆舌に尽くし難く、奉天近辺だけでも暴行や器物・施設の破壊などの日本人及び日本企業関係の被害が、1年間で30万件を超える有り様だった。また、日中間で満鉄と並行する鉄道は敷設しないという取り決めになっていたのに、中国側は約束も日本側の抗議も無視して2本の平行鉄道を作り、満鉄の売り上げは1/3に激減した。……以上のことから、満州事変は既得権を守る自衛の戦いであった」(『日本の戦争』)
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 国際連盟は、中立性を捨て、ファシスト中国を支援し、軍国日本を非難した。
 軍国日本は、国際社会で孤立した。
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 9月 関東軍(約1万400人)は、日本人居留民の保護と日本製品排斥に抗議して侵略を開始した。
 満州だけで、この年だけですでに1,300件以上の反日暴動や暴行事件が起きていたが、中国側の妨害や非協力で300件以上が未解決のままであった。
 中国側には、治安を回復する意思はなかった。
 中国人官憲は、日本人に対する暴力事件に目を瞑り、犯罪者から賄賂を取って解決を妨害した。
 満州は腐敗し、中国同様に無法地帯化して、無抵抗な日本人は暴力や略奪を受けても泣き寝入りするしかなかった。
 30万人の日本人居留民は、無抵抗主義で話し合い解決を外交政策とする日本政府に絶望して、「一時退去の方針」に従い資産を放棄して帰国した。
 残留した26万人の日本人居留民は、生命財産を守る為に関東軍に保護を求めた。
 ゾルゲは、モスクワの指示で周恩来と上海のフランス租界で面会し、モスクワの指令を伝えた。
 中国共産党は、ソ連共産党の支援でやっと生き延びていた。
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 9月18日 満州事変。関東軍は、政府と陸軍中央の協調外交では無防備な同胞を守りきれないとして、張学良軍(26万人以上)を攻撃した。そして、満州親日政権樹立を目指して暴走した。
 戦史に詳しければ詳しいほど戦略的常識に囚われて、最終的には日本軍は敗北すると分析し、1万人の関東軍が26万人以上の敵がいる満州を席捲するとは予想していなかった。
 朝鮮軍(任務は、治安の維持の為で、装備は軽装備であった)は、天皇の許可を得ずに、混成第39旅団(約3,000人)を満州へ侵攻させた。
 上海や南京で数十万人による抗日大会が起き、中国全土で数千にものぼる暴動が起き略奪や放火が多発した。
 中国当局は、取り締まるよりむしろ反日運動を煽った。
 イギリスの政府暗号研究所は、日本軍の機密通信を傍受して、関東軍の軍事行動を事前に知っていた。
 西海岸諸州で、日本軍の侵略戦争に対する抗議運動が起き、日系アメリカ人への風当たりが強くなった。
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 日本外務省は、根も葉もない捏造情報による日本叩き報道がなされていたが、中国人による日本人居留民への犯罪が知れ渡れば自然と落ち着くと高を括って放置した。
 中国側は、日本側が表だって反論をしない事を良い事に激しい宣伝戦を仕掛けて国際世論を味方に付けた。
 アメリカの宣教師達も、アメリカ全土で日本を非難する説教を続けて、アメリカ世論を反日に導いた。
 軍国日本は、日本外務省の情報戦・宣伝戦の無策によって破滅へと追い詰められていった。
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 満州事変後。アメリカの広告会社の多くが、事変を利用すれば金儲け出来ると踏んで日本大使館に押し寄せ、「契約すれば、日本の主張する正当性を世界に広める」と商談を申し込んだ。
 当時の駐米日本大使出淵勝次は、武士道精神から、何らやましい事がない以上、国際法に則り正々堂々と構えていれば、正しい事は姑息で陰険な謀略的宣伝戦を用いて騒ぎ立てなくとも知れ渡るものと、国際正義を信じ切り情報戦を軽視した。
 「日本は、君らの力を借りて下品な宣伝活動をやらなければならないようないい加減な主張をしていない。正々堂々の外交をやるだけだ」
 昔も今も、日本のエリート外交官僚は、事務能力は優秀ではあるが、それ以外の能力は無きに等しい。
 現代日本の外交官は、事勿れ主義的に波風を立てないように反論せず相手の言う事を唯々諾々と拝受し、その結果として皇室の権威が傷付き国益が損なれ国民が不利益になろうとも意に介さない。
 広告会社は、門前払いをした上に自尊心を踏みにじった軍国日本に憎悪して、先を争って中国大使館に協力を申し込んだ。
 中国大使は、国際世論を味方に付ける絶好のチャンスとして、大歓迎して広告契約を取り交わした。中国寄りの宣伝を依頼する為に、和やかに微笑みながら巨費を投じて得意の大接待を行った。
 陽気なアメリカ人は、葬儀場にいるみたいにジョークもユーモアもいわず笑いもせず無口で厳めしい顔で立ち尽くす無愛想な日本人よりも、明け透けで物事に拘らずよく笑い陽気に浮かれて騒ぐ面白い中国人に好意を抱いた。
 日本人は嫌われ、中国人は好かれた。
 アメリカの広告会社による、中国寄りの報道で国際世論は親中国反日一色となった。
 アメリカの広告会社の大半が、ユダヤ系であった。
 日本外務省のプレゼンテーション能力の完全なる欠如で、国際世論に於ける宣伝広報戦で日本は敗北した。
 情報戦略がなかったのは、戦場で生き死にをかけて戦っていた軍人ではなく、安全な広報でエリート風を吹かせていた官僚であった。
 エリート官僚は、自己の無能無策ぶりを隠蔽する為に失敗の責任を全て軍人に転嫁し、被害者面して我関せずと逃げ隠れして反省するところがなかった。
 この失敗の構図は、現代でも変わるところがない。
 エリート官僚の大半が、隠れマルキストである革新官僚であった。
 国際社会において、自己主張も反論もせず「沈黙する者」は「罪を認めた者」である。
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 国民党政府は、抗日救国会を設立し、反日市民団体に対して全土で日本人居留民への暴力・強姦事件を示唆した。
 日本大使館は、蒋介石に対して日本人居留民保護を求めたが、国民党政府は誠意を見せる事なく適当にあしらった。
 中国各地の日本領事館は、反日暴動が激しくなって生命の危険が迫っているとして、日本軍が駐留しているより安全な上海や北京など主要都市への避難を決定し、管轄内の日本人居留民に通達した。
 日本人居留民の中で、知り合いの中国人達は危害を加える事なく守ってくれると信じて、家族共に残った。
 中国人暴徒は、居残った日本人居留民を襲い、暴行し、強姦し、略奪した。
 幾人かの日本人居留民は、殺害されたと言われている。
 中国は、日本の様に惻隠の情がないだけに、逃げる相手に対して容赦なく襲いかかって虐殺と略奪を行った。
 中国大陸とは、人の常識や道理が通用しない非情な世界である。
 朝鮮において。軍国日本に協力した方が有利と判断した朝鮮人は、「内鮮一体」を大義とする皇民化推進市民団体を結成した。
 親日派朝鮮人は、日本軍の侵略戦争に協力し、中国人を差別した。
 松井石根「自分が戦線に出ている間に最も感じた事は、朝鮮の人々の皇軍将兵諸君に対する親切であった」
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 朝日新聞は、軍部が局地戦で戦闘を止めようとしている事に不満を抱き、国民世論を好戦に煽っていた。
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 9月19日 スターリンは、蒋介石華北の部隊(100万人以上)に待機命令を出しながら北上しないのは、日本とソ連を戦わせようとしているのではないかと疑った。
 ソ連の極東軍は、約40万人。
 ソ連は、満州事変を国家安全への脅威としたが、日本軍との戦闘を避ける為に極東軍を後方に下げ、中立を守る為に逃げ込んできた張学良軍を中国領に追い返した。
 9月21日 蒋介石は、日本軍の侵略行為を規約第11条に違反するとして国際連盟に訴え、主力部隊を中国共産党撲滅に振り抜けた。
 国際連盟は、中国側の訴えを支持して日本軍に即時停戦を命じ、日本側の一切の弁明を却下した。
 中国全土で、反日暴動が起きた。中国共産党は、中国人暴徒を煽って日本製品を破壊もしくは略奪し、日本人居留民が襲って重軽傷を負わせていた。
 アメリ共産党は、日本軍が数千人の中国人を大虐殺しているとの捏造記事を流し、国民世論を反日に誘導した。
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 9月22日 スチムソン国務長官は、反日派急先鋒として、中国で活躍する宣教師やユダヤ人資本家からの情報を得て、対日経済制裁を準備した。
「日本は九ヵ国条約を破り、中国を侵略し領土を広げようとしている。アメリカは、日本の満州占領を承認しない」
 フーバー大統領は、日本との戦争になる恐れがあるとして経済制裁を中止させた。
 スチムソン国務長官は、対日経済制裁計画を国際連盟に持ち込んだ。
 フーバー大統領は、日本が中国を含みアジアの共産主義化を防止し、混乱を沈静化させ秩序を回復する事を表明する限り、その軍事行動はアジアの平和に貢献するものとして容認することを表明した。
 オーストリアのカレルギー伯爵やイギリスのバルフォアら世界的著名人らが日本を擁護したが、しょせん少数派で反日世論を沈静化する事は出来なかった。
 ロックフェラー財閥やユダヤ系国際金融資本は、日本を中国から追放する為に、反日強硬派のルーズベルト大統領候補に接近した。
 共和党のスチムソン国務長官は、ロックフェラー財閥の指示で民主党大統領候補ルーズベルトを支援し、親日的なフーバー大統領の再選を阻んだ。
 ソ連は、日本軍との戦闘を避ける為に、日本軍が兵員輸送に東支鉄道を使用する事を黙認した。
 中国の支配に苦しむモンゴルやチベットなどの民族主義者は、日本軍の快進撃に刺激されて、中国からの独立運動を盛り上げた。
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 アメリカにおける対日政策は、宥和派と懲罰派で激しく対立した。
 太平洋問題調査会は、反日親中をホワイト・ハウスに提言した。
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 10月 松本三益は、日本共産党に正式に入党し、沖縄に帰郷して、教職員を集めて沖縄教育労働者組合(OIL)を組織した。
 沖縄教育労働者組合事件。警察当局は、共産主義に傾倒した教師や師範学校生らを多数検挙した。
 松本は、逃亡したが2年後の1933年に逮捕され、37年に出獄したが再び地下活動を行い40年7月に再逮捕された。
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 11月 中国共産党は、国民党軍の猛攻で各地の拠点を失い支配地を失っていた。国民党を日本軍と戦わせる為に、侵略者から中華民族を救済するを標榜して日本に対して宣戦布告した。
 学生や市民は、侵略者日本との戦いを避け妥協する国民党への不満を爆発さ、各地で各種の反日団体を組織して愛国運動を始めた。
 中国人共産主義者は、北京や南京や上海などで数十万人を動員して抗日救国大会を開いて、「日本人を殺せ!」「日本人を追い出せ!」の大合唱を行った。
 群衆は暴徒化し、国民党本部や政府関係のビルに押しかけて暴れ回った。
 蒋介石は、国際社会に対して治安維持を示す必要から、暴徒の武力鎮圧を命じた。
 地方の各軍閥は、勢力拡大を続ける国民党を疲弊させる為に、蒋介石に対して抗日戦発動を要請した。だが、彼等は、中国共産党同様に、進んで日本軍と戦う気は毛頭なかった。
 中国人共産主義者は、都市部での市民暴動に失敗した為に、地方の都市で貧民や浮浪者や犯罪者を集めて愛国運動を継続し、偶然にもそこに日本人居留民が生活していれば襲った。
 抗日愛国団体は、日本へ資源を売る事に反対する労働運動を組織し、日本製品ボイコットを行い日本製品を見付けるや破壊した。
 毛沢東、瑞金に中華ソビエト共和国を樹立した。
 中国共産党は、中華ソビエト憲法大綱で少数民族自治権を認めたが、それは謀略であり本心ではなかった。 
 11月24日 国際連盟は、日本軍の自国民保護目的の攻撃的自衛行動を犯罪行為と糾弾した。
 ポーランドノルウェー、スペインなどは、中国の訴えを支持して日本軍の即時撤退を要求した。
 加盟国の間で、資源の無い日本に侵略戦争が出来ない様に経済制裁の発動と、抵抗を続ける中国への軍需物資等の支援が可能かの協議を始めた。
 国際連盟は、中立性を捨てて中国に加担した。
 11月25日 国民世論は、満州事変を全面支持していた。
 国民は、満州駐留兵士への慰問金募金活動を行って、10万円(現代の数億円)を軍部に渡した。
 その他に、鉄兜献金や愛国飛行機献金などを行って軍事行動を支援した。
 日本国民は、軍部の暴走を熱狂的に支持すれ反対の声は上げなかった。
 言論統制で戦争反対が言えなかったわけではないし、軍部に騙されていたわけではない。
 当時の日本人が、無能無学にして無見識で自己判断できなかったほどの知能指数の低い障害者ではなかった。
 軍部に騙されていたという日本人がいれば、そうした日本人は思考力も感情も全くない無味乾燥の人間である。
 外国から言われる「軍部に騙されていた可哀想な日本人」とは、日本人は救いようのない最低な人間であると侮蔑し軽蔑する差別用語である。
 現代日本人は、馬鹿にされて喜んでいる。
 当時の日本人は、中国情勢を十分知った上で、満州に於ける日本軍の軍事行動を全面的に支持していた。
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 12月 高橋是清は、金解禁を放棄して、内需拡大として軍備拡大策を採用し、9月18日の満州事変を利用してさらに需要創出政策をさらに進めた。
 軍部と軍需産業は、軍事費増額を求めて政治工作を始めた。
 国費が農村部より都市部に多く投資された為に、都市生活者と農民の間における貧富の格差が広がって行った。
 共産主義者は、尊皇精神の強い貧困農民より、都市の低所得労働者救済に力を入れた。
 12月10日 モスクワのコミンテルンは、偽書「田中奏上文」を発表した。
 台湾の貿易商人蔡知堪が、近衛師団が厳重に警戒する皇居に潜入し、国家最高極秘文書を保管してある秘密の場所から、田中上奏文の日本語原文を中国語に翻訳し、その翻訳本を持ち出したとされている。
 国際社会は、それを信じた。
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 日本は、国際的孤立を恐れた。
 政府組織や軍情報部は、対外宣伝グラフ誌を刊行した。

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