🎹12:─2─スチムソン・ドクトリン。第一次上海事変。オタワ会議。5・15事件。中国共産党の瑞金大虐殺。1932年~No.53No.54No.56 @ 

上海海軍特別陸戦隊写真集

上海海軍特別陸戦隊写真集

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 満州事変後。朝日新聞東京日日新聞(戦後の毎日新聞)は、新聞を売る為に、軍部の強硬派拡大派以上に戦争推進派として穏健派不拡大派を軟弱者・負け犬と罵り、全国で戦地報告や講演会を開いて世論を戦争へと誘導した。
 戦前の新聞各社は、軍部の弾圧や統制を受けた被害者ではなく、戦意高揚の報道を行い、和平交渉を行って戦争を止めようとする政府や軍部を激しく非難し、誤った情報を報道して国民を戦争へと駆り立てた。
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 1932年・33年 司法官赤化事件。
 帝国大学では、世界の潮流としてマルクス主義が流行し、マルクス主義を信奉する学生が多数が生まれていた。
 高等教育を受けた知的エリートの中に、反天皇反日共産主義者がいた。
 左翼・左派のマルクス主義者は、天皇制度は人民を搾取する元凶であるとして打倒するべく、ソ連の支援を受けて密かに活動を続けていた。
 軍国日本は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした国體を守るべく、この年だけで2,400件以上の思想犯を検挙した。
 マルクス主義者の活動以上に右翼の国粋主義者によるテロが横行し、警察当局と憲兵は右翼・左派の民族主義運動を取り締まった。
 前蔵相の井上準之助が、2月に右翼のテロで死亡した。三井合名会社理事長の男爵団琢磨が、3月に右翼に殺害された。
 河合徹「現在の資本主義を否定する基底として三二テーゼ[1932(昭和7)年にコミンテルンが決定した『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』。ブルジョア民主主義革命を経た後のプロレタリア革命を起こす二段革命論]を正しいと信じておりますから、資本主義否定の次ぎの段階においては天皇制を否定される事は当然であり、これによって社会主義が完成されるのであります」
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 右翼・右派は、意見の違う相手を容赦なく殺し、大量に人を殺す戦争を起こそうとした、血に飢えた見境のない狂った殺人集団であった。
 右翼・右派が、日本を戦争という破滅への道へ暴走させた。
 右翼・右派こそが、戦争の元凶であった。
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 アメリカは、自由と民主主義の為に、ナチス・ドイツソ連同様に、軍国日本と戦うファシスト中国を軍事支援していた。
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 1932年 アメリカ陸軍は、大統領命令で、70機の軽爆撃機とジョン・ジョエットら10名の操縦士を中国空軍飛行学校の教官として派遣した。
 だが、幾ら教えても中国人パイロットは育たず事故死が続出した。
 後に。報告を聞いたルーズベルトアメリカ軍首脳は、同じアジア人である日本人も中国人同様に人体的機能としてパイロットには向いていないと早合点した。
 その思い込みによる誤認が、真珠湾の悲劇につながった。
 当時。アメリカには独立した戦略空軍は日本軍同様に存在せず、陸上の航空隊は日本軍同様にアメリカ陸軍に所属していた。
 アメリカと日本の違いは、アメリカ軍には海兵隊が存在し、日本軍には海兵隊がなかった。
 アメリカ軍による中国への軍事支援は、以前から行われていた。
 沖縄のマルクス主義者・島袋正榮などは、ソ連に亡命した。
 沖縄は、反天皇反日の根拠地として共産主義者が多かった。
 アインシュタインは、日本軍の満州侵略に抗議し、日本への経済制裁を要請する談話を発表した。
 アメリカのSF小説家カール・W・スポーは、ワンダー・ストーリーブ誌に、原子爆弾を題材とした『最終戦争』を連載した。 
 アメリカ海軍は、ハワイ大演習を行い、日本海軍艦艇の命中率21%に比べてったアメリカ海軍艦艇の命中率は7%との結論を出した。
 スターリンは、軍国日本が満州を占領した事に危機感を抱き、アメリカが満州問題でソ連に接近してくると見越して、対米工作を指示した。
 真の狙いは、日米の全面対立であった。
 アメリカの対日強硬派は、軍国日本に対する牽制の為にソ連と国交樹立を訴えた。
 アメリカの保守派は、共産主義への警戒心から米ソ国交樹立には猛反対した。
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 ドイツ国防軍は、ファシスト中国への軍事支援を本格化する為にゲオルク・ヴェッツェル中将を顧問団長として送り込んだ。
 ドイツ国防軍は、ヴェルサイユ講和条約で軍の頭脳とも言うべ参謀本部を廃止され、大ドイツ軍を解体された為に、軍の再建をエリート参謀であったゼークト少将に命じた。
 ゼークトは、国内での軍隊再建が不可能な為に、産業力の劣っているソ連、トルコ、ボリビアなどに重工業などの産業支援をする引き換えに国内での軍事訓練を要求した。
 ソ連とは、1923年に秘密軍事協定を結んだ。
 当時のドイツとソ連は、敵対関係ではなく友好関係にあり、ドイツ軍はファシスト中国や中国共産党を軍事支援し、ソ連軍は中国共産党を軍事支援した。
 ヴェルサイユ講和条約は、ドイツ政府が外国の軍隊に軍事顧問を送る事も、軍事援助する事も禁止していた。
 ドイツは、正規軍人としてではなく、ドイツ軍人が私人としてファシスト中国と個人的な契約顧問となった事にして処理した。
 国際連盟も欧米列強も、ドイツ軍事顧問団の活動がファシスト中国対軍国日本の戦争として極東アジアに限定され、自国に影響が出なければ問題にはしなかった。
 むしろ、ファシスト中国が積極的に自国製品を購入してくれるのであれば、ドイツ軍事顧問団の活躍に期待した。
 武器商人・ハンス・クラインは、軍事顧問団の協力を得て、南京・広東両政府と武器工場建設の契約を結んだ。
 ドイツ企業の中国進出が再開され、ドイツ財界はユダヤ系国際金融資本の資金援助を得て巨額の中国投資を始めた。
 ドイツ国防軍は、軍国日本が幾ら抗議しても国際連盟が沈黙する限り、ファシスト中国への顧問団を継続し、参謀や指揮官の戦術・戦略能力向上の為に実戦で鍛えるべく人員を増やしていった。
 有能な人材を育成するには「百聞は一見にしかず」として、物が溢れた安全で安心できるゆったりした後方の教室で学ぶより、瞬時に気の緩みも許されず物資不足でやり繰りしなければならない最悪な現場に実際に身を置くのが一番として、人員を派遣した。
 軍事顧問団は、28年の設立時は30名であったのが、38年には100名以上にぞういんされた。
 ヴェッツェル中将は、ファシスト中国軍強化にゼークト大将を中国に招いた。
 ゼークト大将は、以前に北支の実地踏査に訪れた際、蒋介石に戦略的助言を行っていた。
 「日本一国だけを敵として、他の国とは親善政策を取る事」
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 中国政府内部では、対日戦略をめぐって主戦派と戦争を避けようとする主和派の二派に別れて対立していた。
 主和派は、今の国力では日本には勝てない。日本に勝つには、殖産興業を起こして国力を付け、富国強兵を進めて軍事力を強化する事が先決である。隠忍自重し、国力を充実させ最強の軍隊を組織してから、日本と雌雄を決すべきである、と。
 主戦派は、我が軍は日本軍の10倍以上の兵力を有し、装備している武器もドイツ、アメリカ、イギリスから購入した最新式で、優秀な我が部隊で旧式装備の日本軍を攻撃すれば勝利は間違いないと豪語した。
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 1月7日 スチムソン国務長官は、不承認主義(スチムソン・ドクトリン)として軍事制裁を伴う対日経済封鎖を宣言しようとした。
 スチムソン「武力に訴えて日本が得たもの一切を認めない」
 フーバー大統領は、食糧や原材料を海外依存しなければ生きられない日本に経済制裁を行えば戦争になるとし、アメリカは共産主義勢力が暗躍する中国の為に日本とは戦争する気はないと、スチムソン提案を拒否した。そして、日本軍の攻撃的自衛行為は犯罪であると非難するにとどめた。
 大統領選に影響力を持つ軍産複合体は、フーバー大統領の再選支持を取り止めた為に、フーバーは落選してルーズベルト大統領候補が当選した。
 ジュネーブアメリカ、中国、ソ連の三国は、日本のアジア侵略を阻止する為の秘密会議を行った。
 スチムソンは、共和党員でありながら、戦争回避の軟弱策にこだわるフーバー大統領を見捨て、反日強硬政策に反対しない民主党のフランクリン・D・ルーズベルト次期大統領に極秘に会談を重ねた。
 アメリカ政界は、党利党略を重視する日本とは違って、党方針よりも個人の政治信条が優先されていた。
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 徳富蘇峰支那人と日本人とは、決して同じものではない。根本的に違ふといふ此の見地からして、総ての外交政策なり、或は総ての事を創出さえなければならないと思ふ」(昭和7年『蘇峯会誌』第3年第一輯)
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 1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件。国家元首昭和天皇爆殺失敗事件。
 朝鮮人テロリストは、大元帥昭和天皇を狙って爆弾テロを行うが爆殺に失敗した。
 日本のマルクス主義者と反天皇キリスト教徒は、軍国日本を転覆する為に、天皇暗殺を計画する朝鮮人テロリストを支援していた。
 ファシスト中国は、上海の大韓民国臨時政府を匿っていた。
 上海・フランス租界のキリスト教会に、朝鮮人テロリストは潜伏していた。
 ソ連コミンテルンは、極秘に、反天皇マルクス主義者や反体制のアナーキストに活動資金を与え、日本を中国との全面戦争に追い込む様に指示していた。
 上海の日本人居留民は、国民党機関紙「民国日報」が国家元首昭和天皇暗殺テロ未遂事件を好意的に報道した事に激怒して、中国政府に激しく抗議した。
 ファシスト中国は、日本側の抗議を適当に受け流して日本人の感情を逆撫でにした。
 一部の過激な日本人居留民は、朝鮮人テロリストを庇い支援する中国への軍事的制裁を求めた。
 上海は。昭和天皇の名誉と命を守ろうとする日本人居留民と、大国意識で日本を見下し昭和天皇を尊厳を傷つける反日派中国人との間で、一触即発の不穏な状況に入っていた。
 日本海軍の上海駐屯陸戦隊と中国軍は、互いに相手の軍事行動を注視深く観察しながら臨戦体制に入った。
 スチムソン国務長官は、日本の満州における侵略行為は、門戸開放・機会均等・領土保全の諸原則を蹂躙し、不戦条約と9ヵ国条約に違反する行為で承認できないと発表した。
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 日本民族は、神話の時代から受け継いできた伝統的天皇制度である「国體」を如何なる犠牲をはらっても守ろうとした。
 2000年という気の遠くなるほどの長い年月を掛けて守る通してきた民族の伝統文化を、何とかして後世に残そうと孤独な戦いを続けていた。
 民族固有の信仰とも言うべき「国體」を守る為ならば、全世界を敵に回し、一人孤独に戦う覚悟であった。
 民族の一員であれば、祖先が守ってきた「国體」を死んでも守ろうとした。
 日本民族と日本天皇は、一心同体であった。
 全世界がよってたかって日本天皇昭和天皇)を殺して、玉体を切り刻んでゴミとして捨てようとしたら、全ての日本民族はその後を追って殉死する覚悟を決めていた。
 日本民族は、無残にも八つ裂きにされても、たとえ一人になっても昭和天皇を守ろうとした。
 「国體」には、2000年という、世界中の如何なる帝室や王室にはない崇高なる重みがある。
 中国にもないし、韓国にも北朝鮮にもない。
 さらには、アメリカにもない。
 中国の4000年の歴史とは、まやかしである。
 韓国の5000年の歴史も、架空の幻想である。
 中国の歴史は、政治的なイデオロギーである。
 韓国の歴史は、願望を込めた空想、ファンタジーにすぎない。
 日本の歴史は、現実の歴史、民族の歴史である。
 日本民族には、根絶やしにされても、皆殺しにされても、「国體」を死守する重い責任があった。
 それが、日本の歴史である。
 日本の歴史は、日本民族の歴史である以上に、日本皇室の歴史である。
 日本の正史は、唯一の日本の統治者である日本天皇の歴史である。
 日本の歴史が、日本天皇の歴史であるのが当たり前である。
 日本天皇のみが、日本の正統なる統治者である。
 日本天皇は、政治権力でもなく宗教権威でもなく、民族の心であり志であり良心であり道徳であり気概である。
 日本民族の品格や品位や品性は、日本天皇と共にある。
 ゆえに。日本民族は、2000年の歴史と共に日本天皇を護持してきた。
 「国體護持」とは、日本民族の歴史を守る事である。
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 軍国日本は、世界から犯罪者、侵略者と非難されようとも、国家元首昭和天皇の命と名誉を守る為に、朝鮮人テロリストを支援するファシスト中国を報復攻撃する必要があった。
 国際世論は、親中反日として、軍国日本の国家元首昭和天皇を守る為の自衛行為を否定し、朝鮮人テロリストを匿っているファシスト中国に制裁を加えるという正当防衛を激しく非難した。
 国際社会は、昭和天皇の存在を国家元首ではなく一般市民と同格とみなし、一般市民並みの昭和天皇の命を国家が軍事力で守る事は犯罪行為と認定していた。
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 1月18日 上海日本人僧侶襲撃事件。日本軍による謀略とされている。
 上海の日本人居留民は、激怒して、中華街に殴り込み中国人と衝突した。
 中国人は、日本人への復讐する為に気勢を上げた。
 1月20日 日本人居留民団は、「排日運動を殲滅するべし」との決議を行い、決議文を呉鉄城上海市長に提出した。
 上海市当局は、問題がこじれて不測の事態に至る事を恐れ、日本側の要望書を受理した。
 上海市内の学生や市民は、日本の横暴に屈服したと激怒して上海市役所を襲撃して、市内各所で暴動を起こした。
 呉鉄城市長は、暴動を鎮圧させる為に戒厳令を布告した。
 中国軍は、反日派市民を支援する為に市内各所に兵士を配置した。
 各国は、自国民を現地保護する為に軍隊を派遣した。
 日本政府は、昭和天皇暗殺テロ未遂事件擁護報道への反省と、二度と朝鮮人テロリストによる昭和天皇暗殺という重大事件を支援させない為に、懲罰的軍事行動を決定した。
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 日本政府は、第一回南京事件の様に、中国への配慮から軍事力を使って日本人居留民を保護するのではなく、多少の死傷者を出してもかまわないから戦争を避けて逃がす事を考えていた。
 軍部は、国内外から如何様に非難されようとも、反日派中国人暴徒に囲まれ、虐殺の危険にさらされている全ての日本人居留民を助ける為に武力を使う事を決めた。
 平和の為に中国にいる大半の日本人を見殺しにするか、全ての日本人を助ける為に戦争を覚悟で軍隊を出兵させるか。
 日本に残された選択は、反日派中国人暴徒が日本人居留民全員を虐殺する強い意志を持っていただけに、。戦争か平和かの二者択一しかなかった。
 だが。国際社会は、軍国日本の自国民現地保護という個別的自衛権を認めず、軍国日本の正当防衛を悪意のある過剰反応で戦争犯罪と決めつけていた。
 軍国日本が、戦争犯罪国家として断罪される事はすでに決まっていた。
 軍国日本には、自国民を守る為に戦争を決断する以外の道は全て閉ざされていた。
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 これは、軍国日本とファシスト中国の戦争であった。
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 1月28日(〜5月)国際世論が非難する。悪名高い第一次上海事変の勃発である。
 日本海軍陸戦隊(2,700人)対中国軍(3万人以上)。日本人居留民約2万5,000人。
 ヴェッツェル中将は、蒋介石に、ドイツ軍事顧問団が鍛えた精鋭部隊・第87師と第88師の投入を進言した。
 ドイツは、親中国反日派として、日本軍と戦う中国軍に軍事支援を行っていた。
 中国軍5万人以上が、上海の日本人居住区である閘北を攻撃した。
 日本政府は、日本人居留民を保護する名目で日本軍約6万人の派兵を決定した。
 中国共産党は、数万人の労働者や学生を組織して暴動を起こし、暴徒を煽って放火と略奪を行った。
 日本人居留民は、人を人と認めず、殺人や強姦を猟奇的に行う中国人暴徒を恐怖して見詰めていた。彼らを助けるのは、同じ日本軍だけであった。
 スチムソン国務長官「上海に対する日本の攻撃は道徳的問題にかかわると同時に、アメリカにとって金銭的価値にかかわる問題である」
 フランス租界は、戦火の外で安全であった為に、外国人は酒を飲みながら戦闘の行方を見物していた。
 狩猟民族の彼等にとって、非白人同士が殺し合って幾人死のうとも気にはしなかった。
 それが、当時の世界であった。
 アメリカは、中立国という立場から公に蒋介石を支援できなかった為に、個人の私的支援という名目で退役軍人を中国空軍に派遣した。
 世界的な戦略家の間では、生物学的調査の結果を踏まえて、日本人は民族的に内耳管に異常があって平衡感覚に欠陥があり、眼鏡を掛けるほどの近眼で空中戦も爆撃も出来ない、というのが常識となっていた。
 諸外国の軍隊は、この科学的報告に基づき、日本人は飛行機を操縦できないと信じられていた。
 白人優先主義に基づく人種差別から、空は神の天国に通ずる神聖な場所で、世界を支配者する欧米人のみに許された聖域とされていた。
 中国空軍の飛行教官ロバート・ショートは、世界常識に基づく人種偏見から、日本海軍航空機に空中戦を挑むが撃墜されて死亡した。
 日本海軍は、中国軍側の暗号を解読して作戦に反映して戦果を上げたことから、暗号解読に力を入た。
 退役軍人であるアメリカ人ロバート・ショートは、中国空軍に参加して日本軍機と戦った。
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 2月 蒋介石は、日本とソ連を全面的武力衝突させるべく張学良軍(30万人以上)に無抵抗を指示し、華北に約20箇師団を集結させ、熱河省を反撃拠点とするべく約7,000人を進出させた。
 張学良も、満州奪還の為に熱河省義勇軍4万人を編成し、万里の長城から攻撃した。
 東京の軍中央は、中国軍との全面戦争を恐れて万里の長城を越えて侵攻する事を禁じた。
 スターリンに対しては、ソ連軍を対日戦に参加させる為の不可侵条約の締結を打診した。
 スターリンは、アメリカの国際石油資本ソ連を対日戦に引き込もうとしていると、モロトフに書簡を送って警戒を促した。
 コミンテルンは、アメリカなどの共産主義者に対して、ソ連を日本の攻撃から守る為に、日本の侵略に抵抗する中国を支援を支援する大衆動員を呼びかけた。各国の労働組合に対して、日本へ積み出される全ての物資を阻止する為に、世界中の鉄道や港湾で抗議のストライキを命じた。各国の共産党とその支持者に、自国政府に対して対日経済制裁などの強硬政策を取らせるようにロビー活動を指示した。
 関東軍は、満州独立を脅かす敵を掃討するべく熱河省への関内作戦を行った。
 昭和天皇は、熱河作戦は国際連盟の誤解を招く恐れがあるして中止を求めていた。
 軍部は、戦闘に消極的な昭和天皇の意思を無視して、熱河作戦を実行した。
 関東軍司令官武藤信義大将は、「熱河省満州国領内であり、熱河作戦は対支戦争を起こす為ではない」と説明し、部下に「長城の向こう側の河北省は中華民国の領域だから越えてはいけない」と命令した。
 関東軍は、満州の独立を確保するべく、張学良軍を万里の長城以南(関内)へ追いやって作戦を終了した。
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 日本政府は、満州事変に対する国際的批判を沈静化させる為に、国際連盟理事会に事実調査を提案した。
 国際連盟は、中国側からの訴えもあった為に、イギリス人のリットンを団長とする調査団を派遣した。
 イギリスは、反日的なアメリアとは違って親日的」、中国政府よりも日本政府と外務省を信用し、日本の満州における権益を認め、関東軍の軍事行動に理解を示していた。
 中国で生活するアメリカ人などの欧米人は、法の支配が利かない無法地帯の中国に秩序を取り戻す為に日本軍の行動は必要として歓迎していた。
 ソ連は、関東軍満州北部への侵攻姿勢を見せるや、日本軍との武力衝突を避けるべく中立宣言をして北満州防衛を放棄した。
 国際連盟は、リットン調査団満州に派遣した。
 リットン調査団は、結論として、日本の中国侵略と認めた。
 アメリカのマスコミも、日本の弁明を一切認めず犯罪的侵略行為と非難した。中国に同情するアメリカ人は、黒人・ユダヤ人差別同様に日系人への差別を露骨に行った。
 イギリス政府は、帝国内特恵制度を整備する為に、保護主義の一般関税法を制定した。
 国際世論は、日本側の自衛行為という説明を完全否定した。
 2月7日 アメリカ軍は、対日戦略の一環としてジェントを団長とする空軍顧問団を中華民国に派遣した。
 アメリ軍需産業は、イギリスの援蒋ルートを利用して軍需物資を抗日軍に供給し始めた。
 2月8日〜3月13日 日本軍は、呉淞桟橋に上陸して中国軍を攻撃して日本人居留民を救出し、攻撃に転じた。
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 3月 日本軍の指導で建国した満州国は、満州族、日本人、漢人、モンゴル人、朝鮮人の五族共和を理想とした。
 3月1日 援軍として第11師団が上陸し、総勢6万人となったところで、中国軍5万以上を猛攻した。
 3月3日 日本軍は、敗走する中国軍を追撃して嘉定と南翔の戦で停止した。
 朝鮮人テロリストは、戦争を継続させるべく、停戦交渉を妨害する為に爆弾テロを行った。
 日本軍戦死傷者は3,091人で、中国軍戦死傷者1万1,770人。
 3月4日 永井荷風断腸亭日乗』「銀座商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、……全市挙って戦捷の光栄に酔はむとするものの如し」 当時の日本国民は、日本軍の中国軍に対する勝利に熱狂し、さらなる中国大陸への進撃を望んでいた。
 日本国民は、軍部の犠牲者ではなく、軍部の大陸侵略を指示していた。 
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 4月26日 中国共産党は、軍国日本に対して宣戦布告した。 
 4月29日 上海天長節爆弾テロ事件。不逞朝鮮人テロリストは、軍国日本とファシスト中国の戦争を長期化させるべく、日本軍の軍司令官を暗殺した。
 昭和天皇は、軍部に対して、戦闘拡大を禁じ停戦協定を望んだ。
 軍部は、軍司令官が暗殺されて怒り狂ったが、昭和天皇の命令に不承不承従った。
 一部の軍人は、戦争より平和を望む昭和天皇を軽視した。
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 5月 「32年テーゼ」。共産主義者は、ロシア革命のように天皇制度を廃止し、昭和天皇ら全ての皇族を処刑しようとしていた。
 コミンテルンは、日本共産党とその支持支援する日本人に対して採択された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する共産主義インターナショナル執行委員会西欧局もテーゼ」を送り、日本を共産主義国家にする為に階級闘争を仕掛けて天皇制度を打倒する様に命じた。
 「労働者農民の革命的大衆闘争は、革命的危機の昂揚をもたらすものであろう。そしてその下で天皇制は絶滅的な打撃を受け、労働者農民のソヴィエトは樹立され、その旗の下に日本共産党は労働者階級及び一切の勤労者を、最終の勝利に導くであろう」
 日本のマルクス主義者は、搾取される人民を助ける為に天皇を打倒し、日本でロシア型の暴力的共産主義革命を起こそうとしていた。
 天皇主義者は、国家元首天皇を守る為に、天下の悪法である「治安維持法」でマルクス主義者を弾圧した。
 アメリ国務省などにも共産党員や支援者がいて、日本を追い詰める為の経済制裁的な強硬政策を実施していた。
 日本共産化テーゼは、日本を軍事占領したGHQの民政局による日本無能・無力化改革の中に引き継がれた。
 共産主義者が目指した改造計画の大半は成功したが、唯一、万世一系男系天皇(直系長子相続)制度は破壊できなかった。
 そこで、天皇と皇室を消滅させる長期的プランとして、皇室財産を没収し、皇統維持の為に必要な宮家を縮小させ、孤立無援の裸の王様状態にした。
 5月15日 犬養毅首相の妻・君千代は元芸妓であり、妾も烏森の芸妓であった。
 水商売の芸妓・芸者で、政治家・官僚・企業家の妻になっている女性が多数いた。
 犬養毅「撃つのはいつでも撃てる、あっちへ行って話を聞こう」
 五・一五事件。首謀者の三上卓と古賀清志両中尉に死刑判決が出るや、114万8,000人分の減刑嘆願書が裁判所に寄せられた。
 日々の苦しい生活を送っている国民は、無能無策の政党政治に絶望し、直情径行の軍人に社会変革を求め始めた。
 悪名高い、日本の軍国主義の始まりである。
 日本の軍国主義は、国民生活無視・財閥利益優先の政党政治への絶望によって始まった。
 心ある知識人エリートは、市場原理の資本主義社会では貧富の格差が広がるのみで、腐敗して政治能力のない既成政党では国家改造は望めないと考えた。彼等は、社会改革を行う為に、大日本帝国憲法を停止し、特権階級を廃止し彼等が持っている私有財産を没収し全ての産業を国有化し、国民の権利も制限して国家の統制下で計画経済の必要性を主張した。つまり、国家社会主義体制の確立である。
 斉藤実海軍大将の山本英輔への手紙「政治が乱れ財閥が全盛横暴を極め、陸軍上層部までもが政争や権力闘争に明け暮れているのを見ている正義感の強い若い将校がファショ気分となり、これを民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が策動している。これがいわゆる統制派である。表面は美化されているが終局の目的は社会主義で、『国防の本義』はその真意を表している。林前陸軍大将や永田軍務局長はこの事を知っているのか、知らぬままに乗せられているのか不明だが、最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、あらゆる組織を国家的に統制するものである。それは『ソ連邦』の結果となる」
 失業者240万人以上を抱える日本は、満州投資による満州開発は死活問題であったが、満州開発は日本一国のみでは不可能で国際資本の投資が必要であった。
 資源の無い日本は、生き残る為に、満州の門戸解放と機会均等を受け入れる事を表明した。
 アメリカの失業者は、1,600万人以上。
 イギリスの失業者は、270万人以上。
 欧米列強は、自国経済の回復を内戦続きの中国市場で果たそうとしていた。国際資本は、平和ではなく戦争を望んでいた。
 鈴木貫太郎「犬養さんは満州の独立に反対した。そしてそう云う策動家の手先になつた軍人が、遂にあの暴行を敢てしたのであったが、その後の仕末に到っては誠に遺憾の点が多い。
 私共の其時の感想から云へば、如何なる理由があるにしても、あの暴徒を愛国者と認め而(しか)も一国の宰相を暗殺した者に対して、減刑の処分をして、一人の死刑に処せらるる者がなかったと云ふ事は、如何にも国家の綱紀から見て許すべからざる失態であったと思ふ。その為めに政治の大綱が断ち切られた様な気持ちがした。
 もしあの場合に真実に政治に明るい者があったなら、もっと厳格に処分しなければならなかっただろう。それが緩やかであった為めに遂に2・26事件を引起こした。2・26の起る温床は5・15の後始末の不結果に依るところが大なりと思ふ。真に遺憾に堪へない次第である」(『鈴木貫太郎自伝』)
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 昭和8年5月17日 司法省は、5・15事件の詳細な報告書「5・15事件の全貌」を陸軍省海軍省などの連名で発表した。
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 6月12日頃 スターリンは、ラーザリ・カガノヴィッチ政治局員に対して、中国共産党が強固な拠点を確保するまで満州問題には曖昧な態度を取って日本を非難せず、日米対立を煽る為にアメリカに接近する様に指示した。
 「政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていない様だ。その中で最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に、欧州ではフランスにとって有利に、アメリカ合衆国の影響力が低下し始めた事である。これは極めて重要な情勢だ、これに応じて、アメリカ合衆国ソ連との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリカで最も有力な銀行の一つの代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。
 6月20日 スターリンは、軍国日本に安心して満州での軍事行動が出来る様に、ヴャチェスラフ・モロトフ首相とカガノヴィッチ政治局員に日ソ不可侵条約締結を目指す様に指示した。
 「もし日本が実際に条約に動き出すとしたら、おそらくそうする事で、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させる事を望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連との条約調印に日本を急き立てる為に、対中交渉を継続して長引かせる必要がある」
 ソ連にとって国家間の条約や協定は、政治的軍事的な一時の方便で有り、不可侵条約や中立条約で相手を油断させて侵略した。
 小国は、国家存亡の為に、国際法に基ずく条約や協定に一縷の望みを託していた。
 だが、大国は自分の都合がいい様に解釈し、一方的に破棄する。
 共産主義者にとって、国際法よりも共産党の基本方針を優先していた。
 特に、中国共産党にはその傾向が強かった。
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 7月(〜8月) イギリスは、カナダのオタワで、アメリカの保護主義に対抗する為に英連邦経済会議を開き、連邦以外からの輸入制限措置を決めた。
 排他的ブロック経済協定が成立して、世界市場における自由貿易体制は崩壊した。
 植民地を持つフランスやオランダなども、自国産業保護の為に自給自足政策を実施して、外国製品の輸入を制限した。
 植民地を持たず資源のない日本は、輸出先で高関税をかけられて不利な状況に追い込まれ、商品を優先的に売る植民地を持っていなかった為に、中国市場に活路を求めた。
 アメリカも、中国市場へ乗り出していた為に、競争相手の日本製品を排除するべく中国人に金をばらまいて日本製品不買運動をけしかけた。
 日本は、輸出量が半減して不況が深刻化し、倒産や操業短縮などで失業者が町に溢れた。不況脱出の切り札として、満州市場に乗り出した。
 さらに、農業不況に喘いでいる農民を救済するべく満州鉄道沿線への移住を奨励した。
 こうして、満州は日本の生命線とされた。
 ソ連は、日本の満州進出に警戒感を募らせ、自衛の為に中国や日本で共産主義革命を起こすべく両国の共産主義者に指示した。
 アメリカとイギリスは、最後の経済的フロンティアとして満州市場に参入すりべく、此処でも反日運動を煽り、馬賊を利用して治安を悪化させた。
 関東軍は、日本人移住者を守る為に、親日派中国人の協力を得て軍事行動を起こした。
 国際世論は、軍国日本を領土拡大の野心があるとして非難した。
 7月2日頃 スターリンは、カガノヴィッチ政治局員に対して、満州反日朝鮮人を使った対日テロ活動の失敗が軍国日本を弱体化させるという基本戦略を危険に晒したとして、当事者の厳罰を厳命した。
 「さる朝鮮人爆破工作員達の逮捕とこの事案への我が組織の関与は、日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す。ソビエト政権の敵以外、いったい誰がこんな事を必要とするのか。必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。……この紳士達が我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い」
 スターリンは、猜疑心が高い指導者として人を信用せず、政策や工作が失敗した時は内部に潜む敵のスパイの妨害工作として、犯人捜しを命じた。
 秘密警察による監視社会であるソ連は、疑わしい者は全て逮捕して拷問を行って自白を引き出し、罪を認めなければ地獄の責め苦で嘘の自白をさせて処刑するかシベリヤの強制収容所に送った。
 裁判はあっても無きに等しく、無実でも疑われれば余程の身の潔白を証明する証拠がない限り有罪となった。
 7月5日 日本共産党は、コミンテルンの指令に従い、国際共産党日本支部 日本共産党中央機関紙の名で「赤旗」号外を配布し「警察的軍事的天皇制を倒せ!」と檄を飛ばした。
 日本共産党党是の最優先に達成すべき重要課題は、暴力的ロシア革命に倣って天皇制度を廃絶する事であり、時代や社会に合わせて天皇制度打倒を口にしなくても、天皇制度打倒の党是は不変であった。
 共産主義とは、終わりが良ければ手段を選ばない事であり、共産主義大義の為なら平気でウソも吐くし裏切りもするのが共産主義である。
 共産主義の目指す理想社会とは、労働者が搾取されない人民社会であり、万国の労働者が団結する為に民族主義を否定した国際主義社会である。
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 8月12日 ハルピン大洪水。松花江から溢れた水は市内を呑み込み甚大な被害を出した。
 日本軍と満州人警察官達は、反日暴動に発展する事を恐れて被災者の救助活動を行った。
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 9月 日本は、満州国を独立国と認める議定書を交わし、未開発の不毛の大地を開発する為に多額の投資を始めた。
 9月6日 リヒャルト・ゾルゲが、上海から横浜に到着して、スパイ活動を開始した。
 コミンテルンは、ソ連邦の軍事干渉に関する第12回執行委員会決議を行う。
 ゾルゲや尾崎らソ連のスパイは、日本を破滅に追い込む為に、コミンテルンの指示に従って対日謀略活動を活発化させた。
 9月15日夜から16日未明 撫順炭鉱襲撃事件。楊柏堡(ヤンパイプ)事件。
 赤匪(共産党系)などの抗日ゲリラや馬賊は、撫順炭鉱を襲撃し、施設に火を放ち、日本人5人を惨殺した。
 炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。
 殺害されたのは民間人で、同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人であった。
 抗日ゲリラや馬賊は、80家族、約300人が住む楊柏堡の社宅を襲撃した。
 住人達は、襲撃を察知して坑道を使って逃げ避難して助かった。
 抗日ゲリラや馬賊は、無人となった楊柏堡を荒らし回り、破壊、略奪、放火し、人がいれば日本人であれ朝鮮人であれ容赦なく虐殺した。
 9月16日 平頂山事件。撫順を守る関東軍の独立守備隊は、抗日ゲリラに通じていたとされる平頂山集落を攻撃し、住民らを殺害した。
 満洲日報は号外を出した。「深夜の炭都はたちまちにして物凄き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場」
 診療所の責任者・友七郎は、犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行して報告書をまとめた
 「非常に惨い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた……顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」
 抗日ゲリラや馬賊を手引きしたのは、地元の中国人労働者であったとされている。
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 10月 沖縄出身の宮城与徳は、コミンテルンの指示を受けてアメリカから帰国して、ゾルゲと尾崎秀実の連絡役として活動した。さらに、独自に陸軍将校と接触して軍事情報を収拾してゾルゲに伝えていた。
 陸軍内には、宮城らに軍情報を漏らす軍人が少なからず存在していた。
 リットン調査団は、イギリス本国の方針に従って日本に有利な報告書を提出した。
 そして。蒋介石南京政府は、国民党が支配する一党独裁で自由と民主主義のないファシスト国家と認定し、中国の現状は内戦状態で統一された正統政府が存在していない事も認めた。
 リットン「満州国という国さえ否定してくれれば、満州事変以前の状態に戻す必要はないし、日本の権益は全て認める」
 軍部寄りで戦争を煽っていた朝日新聞などの報道機関は、リットン報告書を「反日文書」と糾弾して世論を煽った。
 政府や議会は、国際協調で平和的に満州問題を解決したいと思いながらも、民意に流されてリットン報告書を拒否し、国際連盟を敵視した。
 日本全権代表の松岡洋右A級戦犯)は、ジュネーブに旅発つ前に、元老・西園寺公望に挨拶に行き、「脱退は絶対に致しません」と明言した。
 日本政府も国際連盟脱退には反対であったが、軍部と右翼そして国民世論は脱退を支持していた。
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 11月 中国共産党軍は、湖北省を荒らし、35万人以上を虐殺し略奪した。350万人は、家を捨てて他省へ逃げた。共産主義者は、共産主義大義で各地で数十万の大虐殺事件を起こしていた。
 共産主義者は、血を好み、見境もなく殺戮と略奪を行った。
 民衆は、彼らを赤匪と恐れ、殺されない為に共産主義者に従った。
 多くの教会やミッションスクールも焼き討ちにあい、多くの宣教師やキリスト教徒が猟奇的に惨殺された。
 国民政府軍も、共産軍同様に教会や学校を襲い略奪し、施設は死体や汚物などのゴミの山となって打ち捨てられた。
 毛沢東「権力は、銃口から生まれる!」
 モスクワの指令「階級の敵は一人残らず殺し、彼等の家を焼き払い破壊せよ!」
 彭湃(ポンパイ)「レーニンのやり方は委細を問わぬ。ただ反動分子を殺すだけだ。……誰に報告する必要もない」
 日本は、自分勝手な中国人の無法ぶりに呆れると共に、共産主義者の人を人と思わない悪鬼の様な残虐性に恐怖を感じた。だが、共産主義者から祖国日本を守ろうとした事
 が犯罪行為とさ、共産主義価値観と戦った愛国心は「悪」と断定された。
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 12月 松岡洋右代表は、各国代表に日本の正当性を訴えて回り、連盟脱退を回避するべく精力的に努力をしていた。
 昭和天皇は、親米英派として、国際連盟に留まる事を希望していた。
 12月8日 松岡代表は、国際連盟に留まる為に有名な「十字架上の日本」演説を行い、日本を孤立化させようとしている国際世論に対して反論した。
 「諸君、日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ。しかし我々は信ずる。かたくかたく信ずる。わずかに数年ならずして世界の世論は変わるであろう。そしてナザレのイエスが遂に世界に理解された如く、我々もまた世界によって理解されるであろう」
 イギリスなど日本に理解を示す一部の国は、妥協点を模索した。


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