🎹14:─1─ナチ党と国防軍は中国に軍事顧問団を派遣した。日本の国際連盟脱退。日本陸軍のイスラーム工作。1933年~No.64 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 世界の総人口は、約20億900万人。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍は、第一次世界大戦上海事変を教訓とし、大陸に兵力を送り、敵前上陸を行う為の研究に本格化させた。
   ・   ・   ・   
 上海のユダヤ人サッスーン財閥は、国際金融資本のロスチャイルド家の東アジア代理人として、軍国日本と戦う蒋介石ファシスト中国に多額の軍費を提供していた。そして、ソ連を通じて中国共産党にも支援の手を伸ばそうとしていた。
   ・   ・   ・    
 1933年 山田孝雄「それわが国家は天壌無窮の皇位を中心として存在し、その皇位万世一系の皇統を以て充たされたり。かくの如き真実は必ずや、その内面の精神生活にこの天壌無窮、万世一系という事実を生むべき思想あるべきを思うべきなり。その偉大なる思想なくして如何にしてかかる偉大なる事実の行はるる事あるべけむや」(『国體の本義』)
 華族赤化事件。
 野坂参三は、日本の公安から資金を引き出してアメリカに渡り、日本国内にコミンテルンの為の謀略組織を立ち上げるべく活動した。
 第13回コミンテルン執行委員会総会で、野坂参三らはソ連から多額の活動資金を受け取った。
 「将来、対ソ同盟の戦争が起こった場合、革命的兵士が指揮官たる荒木に反抗し、彼等も部隊を赤軍の部隊にかえ、武器を天皇に向ける事は、全然夢想ではない」
 スターリン資金は、都市部のマルクス主義者日本人を通じて、農山漁村の貧困を憂える血気盛んな若手将校団の中に流れた。
 共産主義者日本人は、日本軍を弱体化し骨抜きにする為に、日本兵士の中に天皇や政府や財閥への不満や憎悪を蔓延させようとした。
 共産主義資金を手にした日本人は、天皇制度国家日本を中国共産党ソ連の利益に叶う国に改善すべく、地下活動を続けた。
 ソ連は、金と共に数多くの工作員を日本に送り込み、政治家、官僚、軍人、学者、報道関係者、知識人、そして皇室とその周囲の華族に同調者を広めていた。
 外国資金は、相手の国における敵対行為を許さない。
 常識ある普通の国は、外国資金での政治活動を厳罰をもって禁止している。
 常識なき国は、外国資金を自国民からの献金として受け取り、国益を無視し、利敵行為を国民の当然の権利として行っている。
 アメリ共産党は、日本の侵略に抵抗する中国を支援する為に中国人友の会を設立し、機関誌としてチャイナ・トゥデイを創刊して編集長にソ連のスパイであるフィリップ・ジャフェを就任させた。
 ルーズベルトは、保守派の反対を押し切り、ソ連を承認して国交を樹立した。ユダヤ系国際金融資本家は、これまでの小口による非公式融資から本格融資に切り替えて大量のドルをソ連に送った。
 ソ連のスパイであるエドワード・カーターは、大平洋問題調査会の事務総長に就任するや、親中反日色の強い政治団体に改造した。 
 蒋介石は、抗日世論におされて、「中国共産党を殲滅して国内を統一した後に、国民と協力して日本軍と戦う」との妥協案を示した。
 秦孝儀「日本が我々の第一線の部隊を打ち破れば、我々は第二線、第三線の部隊でこれを補充する。……一線、また一線と陣地を作り不断に抵抗して少しも怠る事がない。……もし3年から5年も抵抗できれば、国際上において必ず新しい発展があると思う。……この様にしてこそ、我々の国家と民族には死中に活を求められる一筋の希望があるのであ」(『総統蒋公大事長編初稿』)
 軍令部は、情報を重視して、通信専門部署として第4部を設置し、通信諜報を担当する第10課を創設した。
 日本軍諜報機関は、神戸のアメリカ領事館から外交文書用暗号表を奪い、アメリカの暗号通信を傍受し解読していた。
 フォン・ゼークト大将は、ヴェッツェル中将の要請で中国を訪れ、蒋介石に中国軍の強化についての意見書を提出した。
 「日本一国だけを敵として、他の国とは親善政策を取る事」
 関東軍は、満州で石油を求めて国防資源調査として調査隊を各地に派遣した。
   ・   ・   ・   
 東トルキスタンのホータンとカシュガルで、ウィグル人は相次いで独立を宣言した。
 ホータンでホータン・イスラーム王国が建国し、イスラーム神学校の導師(イマームムハンマド・イミン・ボグラが首長(アミール)に推戴された。
 カシュガル東トルキスタンイスラーム共和国が建国され、軍事指導者マフムード・ムフィティが国家元首に就いた。
 両国は軍事力がなかった為に、侵略してきた中国軍閥によって相次いで滅ぼされた。
 イミン・ボグラは、アフガニスタンに亡命し、在カブール日本公使館に身を寄せた。
 北田正元公使は、物資両面で支援し、現地情勢を聞き出して東京に極秘情報として報告した。
 ムフィティは、英領インド在ムンバイ日本総領事館に逃げ込み、部下15名と共に日本に亡命した。
 軍部は、内蒙工作の一環として、亡命ウィグル人達を利用するべく内モンゴルに送り込み独立運動を支援した。
 日本陸軍は、ソ連を封じ込める防共廻廊の建設の為に、ユーラシア大陸親日国家群を樹立するべく各民族の独立運動を軍事支援していた。
 国民党は、日本陸軍イスラーム工作が民族分離につながるとして危機感を抱き、ウィグル人はイスラームを信仰するムスリム漢人の一員と断定し、回教徒として軽蔑した。
 中国共産党は、劣勢を挽回する為に少数民族の支持を得る為に、国民党の民族政策を激しく非難し、ウィグル人は漢族ではなく別種の少数民族回族」であると主張した。
   ・   ・   ・   
 ナチス・ドイツソ連アメリカは、日英同盟が破棄され軍国日本が孤立した事で、安心してファシスト中国への軍事支援を始めた。
 日英同盟を失った軍国日本は、孤立無援の丸裸となり、自国一国で国土と国民を守らねばならなくなった。
   ・   ・   ・   
 アグネス・スネドレーは、中国共産党ファシスト国民党の内戦の模様を『中国の夜明け前』にまとめた。
 「将校は見付け次第、労働者や学生を殺していた。ある時は立ち止まらせて射殺し、また時には捕らえて跪かせて首を刎ねたり、また五体をバラバラに斬り殺したりしました。捕らえられた断髪の少女達は裸にされ、まるで当然のように凌辱された後、脚の方から頭の方へと、身体を二つに引き裂かれました」
 「ソビエト・ロシアの領事館の5人は逮捕され、街頭を歩かされ、ポケットに持っていた金は全部まきあげられました。靴は無理やる脱がされて、挙げ句の果てに殺されました。その内の一人の女性は性器から、太い棒を身体に突き刺されて殺されました」
 「老農婦は側に行って母親の腕から赤ん坊を無理にはぎとり、高く上げ地面に叩き付けた。繰り替えし彼女は拾い上げて、また地面に放り投げた」
 日本人では想像もできず実行が躊躇われる悲惨な蛮行が、ごく普通の中国人の手で日常的に中国各地で行われていた。
   ・   ・   ・   
 1月 ドイツで、ヒトラー内閣が成立した。
 ドイツの民意は、ヒットラーを独裁者とする事を支持した。
 ヒトラーは、積極的経済政策として軍需関連産業を活性化させるべく、紛争地帯への武器輸出を推進した。
 中国は、国内で産出するレアメタルをドイツに輸出し、日本と中国共産党と戦う為に最新鋭の武器を大量に購入した。
 中国とナチス・ドイツは、経済交流で深い関係を築き、更に軍事交流へと発展させた。
 1月9日 次期大統領候補ルーズベルト民主党)は、対日強硬論者の前国務長官スチムソン(共和党)と、ニューヨーク・ハイドパークで昼食を共にして、新政権でのアジア外交の助言を求めた。
 スチムソンは、「日本側の主張を認めず、満州国の独立を承認せず、支那の主権と独立、領土、行政の一体を尊重すべき」との不承認政策「スチムソン・ドクトリン」を説明した。
 支那に宣教師を派遣していたプロテスタントキリスト教会は、日本勢力を中国から追放する為に不承認政策を支持していた。
 ルーズベルトは、日本封じ込めの為にスチムソンを陸軍長官に採用した。
 アメリカは、中国との経済関係を強化させる為に、中国側の要求を受け入れて日本を共通の敵とする事に同意していた。
 レイモンド・モーリーとレックスフォード・タッグウェルらルーズベルトの側近は、フーバー大統領がスチムソン・ドクトリンは日本との戦争に発展する危険があるとして不採用した経緯を説明し、その採用を取りやめる様に警告した。
 モーリー「それは極東に大規模な戦争─イギリスがスチムソンに協力する事を拒否しなかったなら、合衆国とイギリスが日本と戦わねばならなかったであろう戦争─をもたらす政策を是認するものだった」
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、満州事変に不満を抱いていたが、軍部が提出した熱河作戦を裁可した。
 斎藤実首相は、昭和天皇に、国際連盟リットン調査団を派遣して満州国建国を調査している最中に熱河作戦を行う事は、政府としては同意できないと訴えた。
 2月8日 昭和天皇は、奈良武次侍従武官長に熱河作戦を取り消したいと伝えた。
 奈良侍従武官長は、昭和天皇の内意を聞き流して中止指示を軍部に伝えなかった。
 軍部は、戦争に消極的な昭和天皇の命令を素直に聞く気はなかった。
 2月10日 昭和天皇は、午後1時45分から2時25分にかけて、奈良武次侍従武官長に作戦の中止を求めた。
 『昭和天皇独白録』「満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の虞(おそれ)がある」
 奈良侍従武官長は、一度裁可された作戦を中止する事はできないと奉答して譲らなかった。
 昭和天皇は、大元帥として「統帥最高命令によって作戦発動を中止する事が可能か否か」と聞いた。
 奈良侍従武官長は、拝謁の時間が過ぎたとの理由から、「それは閑院宮陸軍参謀総長がいらしてからに」と言い残し「慎重に熟慮されるべき」であるとして帰宅してしまった。
 その日の午後10時過ぎ。昭和天皇は、徳大寺実厚侍従に「さっき聞いた事についてはどうか」との手紙を書かせて、奈良侍従武官長に送った。
 奈良侍従武官長は、参内せず手紙を送って答えた。
 「天皇のご命令をもって作戦を中止しようとすれば、動もすれば大きな紛擾(ふんじょう)を惹起(じゃっき)し、政変の原因になるかもしれず」
 天皇がその統帥権で軍部及び現地軍の作戦を中止もしくは変更を強行すると、血気盛んな将校達が逆上して政変が起きるかもしれないと脅した。
 前年の、犬養毅首相が射殺された5・15事件の様な事件が起きる可能性が脅した。
 昭和天皇は、大元帥として統帥最高命令を発動しても軍部が決定した軍事行動は中止できないと悟り、部隊を万里の長城を超えない事を条件にして軍部の暴走を承認した。
 最終決定権者であった昭和天皇は、軍隊への統帥権大日本帝国憲法で認められていたにも関わらず、「君臨すれど統治せず」の原則に従って政府及び軍部が決定した案件を裁可するだけの一機関に徹した。
 戦争を止める事は不可能であった事が、天皇の戦争責任がった。
 軍部は、軍事行動を制約している憲法を自分に都合の良い様に拡大解釈する為に、権力欲の強い政治家を味方に付けて議会を動かし、無力化した昭和天皇を担いで悪用して政府に圧力を加えて戦争を起こして行った。
 政治・外交・軍事が一体となって天皇を支えて国難である日清・日露両戦争を乗り越えた時代とは異なり、軍事が政治・外交より上位に立ち天皇の意思に関係なく独自で動く事を知らしめた瞬間である。
 軍国日本の歯止めは、この時失われた。
 国際連盟の内部では、日本の言い分を認めて制裁行動をしない代わりに、日本一国ではなく国際監視団を編成し満州の治安維持を行う代案を提案していた。
 日本軍部は、アメリカに加えてソ連も参加させる案と聞いて対ソ戦略から不同意を示した。
 2月15日 国際連盟は、軍国日本とファシスト中国に対して、満州国を承認しない勧告案を示して、親中国反日を鮮明にした。
 イギリスは、裏工作として、軍国日本の対面が立つ方策を探っていた。
 バチカンは、軍国日本支持を頑なに守っていた。、
 2月24日 関東軍は、らちが明かない外交交渉を続けていては敵に反撃の好機を与えるだけであるとして、熱河作戦を実行した。
 国際連盟は、リットン調査団の報告書に基づき日本軍の満鉄付属地への撤退を求める勧告案を、賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で可決した。
 松岡洋右は、勧告案が総会で可決されるや、苦渋の選択として国際連盟に残る道を断念して議場を退場した。
 「日本政府は日支紛争に関し、国際連盟と協力せんとするその努力の限界に達した事を感ぜざるを得ない」
 松岡は、脱退には反対であっただけに、会場を出た所で「失敗した、俺は失敗した」と漏らした。
 イギリスは、何とかして日本の脱退を食い止めようとしたが、昔ほどの発言力をなくしていた為に国際的反日世論を説得できず日本の退場を見送った。
 日本の右翼や軍部などの人種差別主義者は、「持てる国」のアメリカやイギリスなどが日本を追い詰めたというアングロ・サクソン陰謀論ユダヤ人金融資本による世界征服陰謀論を信じ込んでいた。
 国際世論は、日本側の主張する自衛行為を否決し、領土拡大の犯罪的侵略行為と決め付けた。
 一部の対日強硬派は、さらに踏み込んで、日本に対して制裁的経済封鎖を要求した。
 国際連盟を動かしていたイギリスは、日本が連盟を脱退する事は連盟の弱体化につながるとして、日本に譲歩しないで脱退をさせないように裏工作を行っていた。
 蒋介石は、連盟の正式メンバーではなかったが、日本批判を繰り返していた。
 アメリカは、中国市場に食い込む為にファシスト中国を後押ししていた。
   ・   ・   ・   
 3月 日本軍は、熱河省を攻撃した。
 ヴェッツェル中将とドイツ軍事顧問団は、日本軍が長城を越えて河北方面に侵入してこないように中国軍を指揮して戦った。
 日本は、「中国は完全な統一国家ではなく、国際法などの諸原則が適用できない、犯罪の多発する不安定国家である」と主張し、国際連盟を脱退した。
 3月1日 満州国が建国された。
 中国の内戦から逃げるようにして満州に漢族が大量に移住し、満州族モンゴル族は少数派になっていった。
 満州満州族の故地で中国ではないとされていたが、漢族が多数派になって歴史上初めて満州は中国の領地とされた。
 満州が中国化するにつれて、漢族と朝鮮族の間で反日派が勢力を拡大させていった。
 3月3日 昭和三陸地震。M8.1。
 被害。死者1,522人。行方不明者1,542人。負傷者1万2,053人。家屋全壊7,009戸。流出4,885戸。浸水4,147戸。焼失294戸。行方不明者の多は、津波による被害であった。
 3月4日 フランクリン・ルーズベルトは、聖書に誓い、合衆国憲法を順守する事を宣誓して大統領に就任した。
 ルーズベルト大統領は、親中反日政策を行う為にスチムソンを陸軍長官に指名した。
 スチムソン陸軍長官は、日本軍と戦う中国への軍事支援が強化した。 
 ルーズベルトは、中国において日本排斥政策を決定した。
 ソ連は、ルーズベルトの周辺にスパイを送り込んだ。
   ・   ・   ・   
 3月12日 日本は、国際連盟を脱退した。
 日本国民は、満州国を認めない国際連盟からの脱退を求めていた。
 政府は、国際連盟からの脱退は国際社会で孤立化するとして躊躇していたが、脱退を求める国民世論の圧力に屈して決断した。
 国民世論を誘導したのは、軍部ではなく、会社経営の為に販売部数を増やそうとしていた新聞各社であった。
 そして、傍観して何もしなかった政治家と議会に不作為に尽きる。
 グルー大使からの報告「軍部のプロパガンダによって、軍部そのものにも、国民にも、西洋社会の道徳及びその圧力に屈するくらいなら、戦う覚悟ができている」
   ・   ・   ・   
 春 アメリ財務省は、日本との関係悪化を恐れる国務省の反対を押し切って、蒋介石に対して、小麦・綿花買い付け名目で5,000万ドルを融資した。
   ・   ・   ・   
 4月 松岡洋右は、帰国途中のハワイで、日系アメリカ人の覚悟としてのメッセージをホノルルのラジオ局で放送した。
 「日系市民は、精神的に100%のアメリカ人でなければならない。万一、最大の不幸が起き、米日戦争と言う事が突発したと仮想した場合には、日本人系アメリカ市民は、ことごとく銃を持って立ち、アメリカの為に一命を投げ打ち、第一線に立って日本軍と戦わねばならない。しかして大和民族の血を有する日系アメリカ市民が、最も優秀な戦闘力を発揮して、さすがは大和民族の血を受けたる日系市民は強い、という観念を白人に抱かせてこそ、日系市民の名誉であり、これが大和民族の武士道である」
   ・   ・   ・   
 5月 日本は、満州事変を終結する為に、国民党政権と塘沽停戦協定を結ぶ。
 蒋介石は、中国共産党殲滅の為に、日本と妥協して満州国を表面的には承認した。
 ソ連は、表向き、東アジアの安定を望むとして蒋介石の決定を指示した。裏では、国民党政権との友好を利用して工作員を多数潜入させた。
 中国共産党は、国民党政府と日本が新たな戦争を起こす様に、華北の非武装地帯に拠点を築いて満州に破壊工作員を送り込んでいた。
 日本軍と満州国軍は、中国共産党ゲリラや反日馬賊と戦闘を行ったが、敵が非武装地帯に脱げ込めばそれ以上の追跡を断念した。
 国際的報道機関は、現地のキリスト教徒や反日派中国人の情報を得て反日世論を盛り上げ、日本を国際社会で孤立化させた。国際的報道機関の大半が、ユダヤ系であった。
 ソ連のスパイであるゾルゲは、ドイツ人記者として上海から日本に潜入した。
 政治活動家後藤隆之助は、社会大衆党亀井貫一郎から国内の状況を聞き、高校時代の同級生である近衛文麿を支援する組織を立ち上げる事とした。
   ・   ・   ・   
 6月 ルーズベルトは、クロード・A・スワンソン海軍長官の提言に従って、総額2億3,800万ドルの海軍増強計画を発表した。
 日本海軍は、ワシントン及びロンドンの両海軍軍縮条約に従い、涙を呑んで海軍予算を削り軍備縮小を行っていただけに、アメリカの海軍増強という背信行為に驚きそして怒りを覚えた。
 軍国日本は、アメリカとの軍備増強で遅れを取り、対抗できるだけの軍備を整えられぬままに戦争に突入させられた。
 アメリカの狙いは、軍国日本に軍拡競争を仕掛けて国家財政を疲弊させ、満州を含む中国大陸から全ての日本軍を追い出す事であった。
 誰が見ても、軍国の国力はアメリカの経済力の足下にも及ばない事はわかりきっていた。
 ルーズベルトは、日本の軍事支出を煽る為に、軍備強化を進めているスターリンと外交関係を修復し、アメリカ資本に多額の対ソ投資を促した。
 軍国日本は、アメリカを軸としたファシスト中国、ソ連ナチス・ドイツの包囲網に囲まれた。
 だが。スターリンは、ルーズベルトの提案の真意を、アメリカは軍国日本とソ連を戦わせて中国の利益を独り占めにしようとしていると分析し、中国がアメリカの支配下に入る事はソ連には不利と判断して警戒した。
   ・   ・   ・   
 7月1日 イギリスの秘密諜報機関は、中国人を使って日本製品ボイコットを煽り、排日運動を盛り上げた。
 ソ連は、中国人共産主義者に日本居留民への暴行や日本軍への破壊工作など指示した。
 日本は、中国との安定した交易を維持する必要があると表明し、日本の生存を脅かすようなスチムソン・ドクトリンは受け入れられないと反論した。
 だが、日本側の弁明を認める国は少なかった。 
 7月30日 大阪朝日新聞は、敵日行動を止めないファシスト中国に対して、「3億の対支債権実力で回収を決意」という記事を掲載した。
 軍国日本は、隣国・中国が親日政策を採用して友好関係を深めてくれる事を期待して、総額10億円(現在の10兆円以上)の借款を行っていた。
 明治時代からの西原借款7億円。
 大正期の円借款3億円。
 日本軍部も、中国が対ソ戦略に協力して、共産主義勢力のアジア浸透を食い止めてくれる事を期待して、経済支援に同意していた。
 国民党政府は、日本との約束を破円借款や資本投資を国内インフラ整備ではなく、中国共産党軍閥との内戦勝利の為に流用した。
 日中戦争とは。日本の好意による円借款の返済拒否と民間の日本資産を没収する為に、ファシスト中国が仕掛けた強奪戦争であった。
 国際金融資本は、中国投資をより良いものとして回収する為に、ファシスト中国が軍国日本に勝てるようにアメリカ、イギリス、ソ連、イタリア・ファシストナチス・ドイツに軍事支援させた。
 中国が意図的に行う反日・侮日運動は、日本が配慮して行った無償有償の円借款や民間企業の資本提供と技術支援を踏み倒し強奪する為である。
 中国は、公私ともに受けた借金を返すつもりはないし、過去一度も最後の1円、1セント、1シリングまで返済した事がない。
 「南京政府の手によって処理せられるに至らば、その幾分は必ずや抗日資金として使用せられるべきは明らかであり、従って列強の対支借款は連盟の対支技術協力と共に関節に抗日を助長せしめ東洋の平和を撹乱するものといってもよい、対支借款はいはゆる西原借款などの政治借款と称せられるものをも合算すれば今や元利合計10億円にも達しているが、この政治借款について南京政府は全然責任なきが如き態度を執ってをり、その不都合は別に考慮するとしてもなほ明らかに南京政府において償還の義務を有しながら、知らざる振りをせるものの主要なるものを挙げると次のやうになっている。……
 南京政府軍需借款、陸軍部被服借款、第一次軍器借款、印刷局借款、済順・郄徐両鉄道借款、参戦借款など国庫券を担保とする借款は約1億2,000万円ある、これらは南京政府として逃れ難い厳然たる担保を提供してをりながら最近数年間は利払をもなさず、甚だしきは大正13年以来不払ひになっているものもある、よって現在これらの元利金を正確に計算すれば3億円に達するであろう、しかも何れも元利償還期限が疾(しつ)くに経過しているものでありいつでもこれを取り立てをなす権利のあるものである、支那の財政の状態を考慮して断乎たる処置を執らざに来るものである」
 中国が、日本が相手に配慮して行う善意を踏みにじる事は、過去も現在においても変わる事はない。
 何度も中国に裏切られ甚大なる被害を受けても配慮と善意を繰り返す日本人に問題があって、嘘をついて騙して日本から血税を掠め取る中国人は悪くはない。
 中国人とは、そもそもそうして生きてきた民族だからであるから。
 ファシスト中国は、1923年9月の関東大震災で日本が甚大な被害を被って力をなくした隙を見計らって負債の遅延を始め、33年3月の三陸大震災と北海道・東北地帯の大凶作を好機として同年7月に負債の踏み倒しを顕わにした。
 中国の常套戦略は、相手が疲弊して弱っている隙を突いて攻撃に出る事であった。
 ファシスト中国は、騙して軍国日本から借款が得られないと判断するや抗日戦争を本格化させた。
 中国の歴代王朝は、相手から利益を得られる内は友好関係を維持し、得る事ができなくなればイナゴの大群的に軍事侵略して血の一滴まで搾り取っていった。
 ファシスト中国は、日本からの金銭的支援が得られるうちは表面的に友好を演出していたが、何れ訪れる日本との戦争の為に軍隊に於ける敵日教育と学校に於ける反日教育を徹底して行っていた。
 中国人は、柔やかな微笑みをたたえた表の顔と陰謀や謀略を巡らす裏の顔の二面性を持っていた。
 日本政府は、表の顔を信じて、困窮する国民支援を後にして中国に対して10億円の借款を行ったが見事に踏み倒された。
   ・   ・   ・   
 8月1日 後藤隆之助は、霞山会館に、近衛文麿、海軍の石川信吾、陸軍の鈴木貞一、社会大衆党の麻生久・亀井貫一郎などを招いて初会合を行った。
   ・   ・   ・   
 10月1日 ルーズベルト「一国として、私達は他国間の戦争に介入する事に断固反対です。政府の政策は平和を維持する事、そして、私達を対立させかねないいかなる混乱も避ける事を明確に目差すものです」
 10月16日 蒋介石は、ドイツ軍事顧問団の指導を受け、80万人以上を動員して第五次掃共作戦を始めた。
 10月21日 スターリンは、軍国日本を油断させる為に対日宥和策として満州国との領事交換に同意したが、その裏で反日キャンペーンを強化する様に指示を出した。
 「私の見る所、日本に関し、また総じて日本の軍国主義者に敵対する、ソ連及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった準備と説得を始める時がきた。……日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義的、侵略的、軍国主義的側面をはっきり示す必要がある」
 ロシア共産党の機関紙であるプラウダ紙は、ブラック・プロパガンダ戦略として反天皇・反軍国の激しい反日宣伝を行うと共に、日本国内の労働者を味方に付ける為に日本の肯定的な側面を伝えるホワイト・プロパガンダも同時に行った。
 日本の統制派軍人や革新官僚は、謀略的ホワイト・プロパガンダに幻惑され、ソ連を味方もしくは組みやすい相手と誤解した。その誤解は1945年8月15日の戦争終結のギリギリまで続き、軍国日本は崩壊した。
   ・   ・   ・   
 11月 ルーズベルトは、ソ連との国交を承認した。
 コミンテルンは、日本への経済制裁を強化さるべくアメリカ政府内に共産主義者を送り込んだ。
 反体制的労働組合は、モスクワの指示に従って労働争議を控え、ニューディール政策を支持した。
 共産主義者は、戦争を煽っていた。
   ・   ・   ・   
 12月27日 後藤隆之助と尾崎秀実らは、発起人会を霞山会館で開き、マルクス主義的革新運動を政治に反映させるべく昭和研究会を設立した。



   ・   ・   ・