🎹16:─1─ファシスト・イタリアのエチオピア侵略。エチオピア帝国と軍国日本。オマーン国王と結婚した日本人女性。1935年~No.70No.71No.72 @ ⑬

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国と朝鮮以外のアジアと中東及び北アフリカの独立派民族主義者の大半は、日本に憧れる親日派であった。
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 日本の頑固な保守層は、国際結婚に猛反対していた。
 日本皇室には、純血主義による民族優位はもちろん人種差別や外国排除の考えは微塵もなく、むしろ諸外国との親善の為に国際結婚を容認していた。
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 ハワイ王家は、非白人同盟として、日本皇室と姻戚になる事を熱望していた。
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 日本皇室の弱点は、西洋諸国の王侯貴族のように、外国の王侯貴族との姻戚関係がなく、皇位継承権を持つ皇族が日本民族日本人だけと言う事である。
 外国の王家であれば、自国だけではなく他国にも王位継承権を持つ王侯貴族がいる。
 自国系の王家が絶えれば、他国から王族を迎えて自国の新たな王家とした。
 それが、真の開かれた王家である。
 必ずしも王家が、自国の血を引いた王族でなくても、他国の王族でも構わないと言う事である。
 例えて言えば、日本人の天皇家が絶えたら、イギリス王家かスウェーデン王家から王族を天皇として迎えて天皇に即位させる、と言う事である。
 それが女系天皇論である。
 西洋諸国の王侯貴族は、女系継承権で他国の国王に即位できる。
 故に、ドイツ人がイギリスの国王に即位できるのである。
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 反日中国共産党は、一帯一路世界戦略で、貧しい親日派諸国に対して多額の資金援助金を行い反日派に加えている。
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 1904年 日露戦争の日本の勝利は、欧米列強による帝国主義政策である植民地拡大政策の終焉を告げるもので、植民地支配に苦しむ全ての有色人種にとって朗報であった。
 ロシア帝国と戦争を繰り返していた、フィンランドなどの北欧、ポーランドなどの東欧、トルコなどの中近東、ペルシャやイランなどの中東は、歓喜して親日派となった。
 インド、ビルマ、マレーシア、カンボジアベトナムインドネシアなども親日派となって、日本に期待した。
 非白人諸国の大半が、親日派となり、小国日本を勝利に導いた明治天皇を偉大な指導者とし、日本を守り通した伊藤博文を優れた政治家として崇拝した。
 伊藤博文朝鮮人テロリストによって暗殺された事に、哀悼の意を送り、その死を非白人社会の甚大なる損失であると惜しんだ。
 日露戦争の勝利を否定する反日派は、中国と朝鮮・韓国のみであった。
 伊藤博文の死を歓喜して喜んだのも、反日の中国と朝鮮・韓国であった。
 反日派以外は、日露戦争を軍国日本の大陸侵略ではなく、偉大なる自衛戦争と認めていた。
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 1919年1月 アフリカの唯一の独立国であったエチオピア帝国は、国際連盟に加盟する為に、有色人種で常任理事国である大日本帝国に助言を得るべく日本代表に接近した。
 非キリスト教徒非白人である日本は、欧米列強の植民地支配から解放してくれる希望の光であり、有色人種の憧れの星であり、富国強兵の近代国家になる為の手本であった。
 それは、同時に。世界をキリスト教徒白人のみで支配するという「神聖な使命」に燃える白人にとって邪魔者な異分子にすぎなかった。
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 1921年 ムッソリーニは、イタリア各地のファシスト勢力を統合してファシスト党を結成した。
 1922年 イタリア政府は、ファシスト党によるローマ進軍を阻止しようとした。
 イタリア国王は、国内の混乱を避ける為にムッソリーニを首相に任命した。
 ファシスト党は、新法を制定して議会を無力化し、他の政党を解散させ、一党独裁体制を実現した。
 政権を掌握していたファシスト党ベニート・ムッソリーニ統領は、「古代ローマ帝国の再興」、「地中海を再び我らが海に」という民族主義的なスローガンを掲げた。
 1923年 国際連盟は、エチオピア帝国が加盟の障碍とされた奴隷制の廃止を決めた為に加盟を認めた。
 1927年6月 駐ルーマニア公使、武者小路公共は、エチオピアに行き摂政タファリ・マコネン皇太子と「日本・エチオピア通商友好条約」に調印した。
 1928年8月 イタリアは、エチオピア帝国と隣接するソマリランド及びエリトリアを植民地として保有しており、エチオピアとイタリア=エチオピア友好条約を結んで関係を深めた。
 イタリアの目的は、将来、エチオピアを侵略する為の布石であった。
 エチオピアにとっては、自国を植民地しようと狙っているイギリスとイタリアを拮抗させる危険な賭であった。
 タファリ・マコネン「我が国は英伊両国によって密かに分割されており、イタリアは一番いいところを獲得した」
 1929年 イタリア王国は、約4,200万人の余剰人口を抱えた上に、世界大恐慌で国内産業が打撃を受けて失業者が街に溢れていた。
 さらに、世界的な農業恐慌による農業不況が農村部を直撃し、農家は生活苦に陥った。
 国内の失業と余剰人口を解決する為に、植民地の獲得と国威発揚を目的とした膨張政策を進めた。
ローマ帝国の復活」を掲げて東アフリカ帝国建国計画に取り掛かっていた。
 1930年 イタリア軍は、エチオピア・オガデン地方のオアシス・ワルワルにイタリア軍が要塞を築いた。
 4月 摂政タファリ皇太子は、ザウディトゥ女帝が病死した為に、エチオピア皇帝(ネグサ・ナガスト)ハイレ・セラシエ1世に即位した。
 11月 セラシエ皇帝は、イタリアの侵略からエチオピアを守る為に、イタリア以外の列強との連携政策を進めた。
 イタリアの政界首脳や軍部と経済界は、皇帝の代替わりで国内は混乱し弱体化しているとの判断から、エチオピアの獲得論が持ち上がった。
 エミーリオ・デ・ボーノ植民地相「イタリアにとって残された最後の土地」
 1930年 日本とエチオピアは修好通商条約を締結した。
 1931年 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は、大日本帝国憲法に倣ってエチオピア初の成文憲法「(英語版)エチオピア1931年憲法」を制定し、日本を手本として富国強兵の軍国主義政策を進めようとした。
 日本との交易を増やす為に、ヘルイ・ウォルデ・セラシエ外相を団長にした使節団を日本に派遣した。
 日本産綿製品のエチオピア市場における占有率は、33年にイギリス産を抑えて70%に達した。
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 1931年9月16日 満州事変。
 ムッソリーニは、国際連盟満洲事変勃発以後の日本の軍事行動を止められなかった事で機能不全に陥ったと見るや、高原を有し農業移民が可能なエチオピアへの侵略計画を極秘で進めた。
 エチオピアを侵攻しても、国際連盟には阻止する力はないし、イギリスやアメリカから大量の戦略物資を購入していれば反対はしない、唯一の懸念されるのがエチオピアと友好関係にある軍国日本の出方であった。
 軍国日本がエチオピアを支援に出れば苦戦が予想され、ロシア帝国を破った日本軍がエチオピア防衛の為に派遣されては侵略計画自体が失敗する危険があった。
 1932年4月 ムッソリーニは、ファシスト大評議会においてエチオピアに対して積極的政策をとる旨を発表した。
 エチオピア侵略で、アフリカと中東に植民地を抱え、地中海の制海権を握るイギリスとフランスの介入が予想された。
 ムッソリーニは、イギリスとフランスの心証を良くするべくヨーロッパ政治における積極的に調停役を演じていた。
 イタリア軍は、イタリア領ソマリランドからのエチオピア領内に侵攻する為の軍用道路建設を始めた。
 1933年 ムッソリーニは、日本軍を中国に釘付けにする為に、満洲を巡って軍国日本と対立するファシスト中国を支持して、軍事面では中国空軍の訓練の為に軍事顧問を派遣し、経済面では両国の合弁航空機工場などを建設した。
 ファシスト・イタリアは、軍国日本との対立姿勢を明らかにするべくファシスト中国との提携を深めた。
 ムッソリーニは、宗教的白人至上主義として日本人を憎悪し、差別していた。
 軍国日本とファシスト陣営との対立の始まりである。
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 1933年 ヘルイ使節団に随行したていたエチオピア皇室の縁戚者リジ・アラヤ・アベバ王子は、大和撫子の控え目で清楚な美しさに魅了され、新聞に日本人花嫁の募集広告を掲載した。
 華族令嬢黒田雅子は、新聞広告を見て、両親に無断で応募した。
 1934年 アベバ王子と黒田雅子の縁談が成立し、軍国日本とエチオピア帝国の関係がより深くなる兆しを見せ始めた。
 ムッソリーニは、両国の関係に危機感を抱き、黄禍論を持ち出して軍国日本を非難し、アベバ王子と黒田雅子の縁談を破談に追い込んだ。
 イギリスやフランスも、軍国日本がアフリカ・中東に進出してくる事を嫌い、軍国日本を中国に封じ込める為にファシスト中国への軍事支援を強めた。
 4月 東京日日新聞は、夕刊でヨーロッパの「某国」の干渉によって破談した事を報じた。
 ヘルイは、帰国後、自国のアムハラ語で日本滞在経験を基にした日本紀行書を刊行し、同書を日本語訳で刊行して、両国の変わらない友好を世間に知らせた。
 伊藤久男は、エチオピアの呼びかけに答えるように歌唱『エチオピアの唄』を作って、レコードを日本コロムビアから発売した。
 白人の圧迫に苦しむ者同士として、エチオピアと日本の両国間で相互に関心が高まった。
 軍国日本の国民感情は、親エチオピアであった。
 ファシスト中国は、軍国日本に対抗する為に、ファシスト・イタリアやイギリスなどの軍事支援を受けて軍備強化を急いでいた。
 ナチス・ドイツもまた、中国市場に食い込む為に軍国日本包囲網に参加した。
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 1934年2月8日 ムッソリーニは、ヨーロッパが平穏であるという前提のもとで、エチオピアに対する軍事侵攻を35年に開始する事を決定し、戦争準備が整うまで先走った軍事行動をとらないように命じた。
 第一次エチオピア戦争で敗れたイタリア軍は、短期間の戦闘でエチオピア全土を占領する作戦を立案し現地軍の増強を急いだ。
 戦争開始の時期が近いという緊張感が、最前線戦に配備されたイタリア兵を思わぬ行動に走らせた。
 戦争は、現場の兵士による偶発的な事件から始まる事がある。
 11月(〜12月) ワルワル事件。ムッソリーニが警戒していた突発的事態が、イタリア領ソマリアエチオピアの国境地帯でを起こした。
 エチオピアの地方守備隊を伴ったイギリス領ソマリランドエチオピアの国境策定委員会は、このイタリアのエチオピア侵略に抗議した。
 委員会のイギリス代表は、国際紛争化を避けるためにすぐに現地を退去した。
 12月5日 ワルワルの地で両軍が衝突し、エチオピア軍に150人、イタリア人に50人の戦死者が出て、緊張状態は最高度に達した。
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 1935年 第6代オマーン国王スルタン・タイムールは、世界旅行するに当たって身分を隠し、その途中で日本に立ち寄った。
 タイムール国王は、神戸のダンスホールで大山清子(19)と運命の出会をして恋に落ち、国王である事を伏せて結婚を申し込んだ。
 清子も、その愛の真剣さを受け入れた。
 2人は、結婚を誓い合った。
 清子の両親は、年齢が倍以上離れている上に、結婚相手が中東の人である事から、娘は不幸になる思って猛反対した。
 二人の決意が固い為に、両親は「娘と結婚したいならオマーンではなく日本に住んでください」との無理難題な条件を突き付けた。
 タイムール国王は、直ぐさま帰国して、国王の座を弟のサイードに譲り、再び日本を訪れた。
 1936年 タイムールは、国王であった事を隠したままで清子と結婚し、生まれた娘を節子と名付けた。後の、ブサイナ妃である。
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 サイード国王が来日し、タイムールが元国王であった事実が明らかとなった。
 1939年 清子は、23歳で腎盂炎を患い他界し、お墓は兵庫県加古川市に建てられた。
 タイムールは、節子を伴ってオマーンに帰国し、将来を考えて王族の相続権を得られるよう手配してブサイナ妃と名乗った。
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 イギリスは、日本がアラビア半島に拠点を得る事に、中東からインド支配が脅かされるとして危機感を抱いた。
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 1978年 ブサイナ妃は、母の死から39年後に日本を訪れ母の墓参りをした。
 オマーン王国は、中東の中でも特に親日的な国である。
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 1935年1月15日 エチオピアは、ワルワル事件を国際連盟に提訴した。
 国際聯盟は、常任理事国のイタリアに気兼ねして紛争解決には消極的であった。
 皇帝ハイレ・セラシエ1世は、頼る国がない為に、白人勢力に反抗する軍国日本からの支援を期待した。
 軍国日本は、ファシスト中国や中国共産党による日本人居留民への死傷事件の多発で余裕がなく、エチオピア支援どころではなかった為に、エチオピア、イタリア両国との中立を保った。
 民間レベルでは、白人支配からアジアの解放を主張する黒龍会などの右翼諸団体がエチオピア支持を表明した。頭山満や議員などが「エチオピア問題懇談会」を立ち上げ、イタリアにエチオピア侵略の停止を求める決議案を送付した。
 1月3日 エチオピアは、イタリアの侵略を国際連盟に提訴した。
 国際連盟は、折からのドイツ問題に忙殺されて、エチオピア問題を審議するどころではなかった。
 ムッソリーニは、エチオピアに対するフリーハンドを得る為に、イギリスやフランスに働きかけ、「1935年1月6日に、イタリアはフランスから『フランスはエチオピア問題に関心を持たない』という秘密合意を獲得した」という成果を得たとして、イギリスにも同様の合意を迫った。
 イギリスは、イタリアのエチオピア政策を支持する事は、地中海・スエズ運河・インド洋への航海権を危険に晒すとして不同意を表明した。
 4月 ムッソリーニは、イギリス、フランスと共にナチス・ドイツに対抗する為にストレーザ戦線を結成し、イギリスはエチオピア侵攻を黙認すると分析した。
 イギリスは、ナチス・ドイツを封じ込める為にファシスト・イタリアを手なずける為に、エチオピアの獲得を容認する空気が生まれていた。
 イタリア軍は、エリトリアに正規軍5個師団と黒シャツ隊5個師団を、ソマリランドに正規軍1個師団と黒シャツ隊数個大隊をそれぞれ派遣した。
 東アフリカ植民地部隊の総兵力は20万人で、火砲700門、豆戦車150両、航空機150機が配備された。
 さらに、現地の傭兵や反乱部族(アスカリ)も参加した。
 6月 イギリスは、独断でナチス・ドイツと海軍協定を締結した。
 フランスとイタリアは、英独海軍協定に抗議してストレーザ戦線は崩壊した。
 イタリアは、独自外交方針を取る事にした。
 黒龍会頭山満は、日比谷の東洋軒でエチオピア問題懇談会を開き、エチオピアのヘルイ外相と駐日イタリア大使にエチオピア支持の決議文を送付した。
 インド独立運動家ラース・ビハーリー・ボースは、ゲストとしてエチオピア問題懇談会に参加した。
 7月以後、大日本ツラン連盟、大アジア主義協会、愛国青年連盟、愛国婦人会などもエチオピアを支持し、日本刀や医薬品をエチオピアに送った。
 7月16日 杉村陽太郎駐伊大使は、ムッソリーニと会見し「エチオピア問題に政治的関心無し」と伝えた。
 7月19日 A級戦犯広田弘毅外相は、日本皇室とエチオピア帝室との長年の友好関係を考慮して、エチオピア問題に関心があるという発言を行った。
 イタリアは、軍国日本に対する不信感が生まれた。
 日本政府は、軍部の圧力を受け、中国からイタリア軍事顧問団を締め出す為に「いずれにせよ、イタリアに対して好意的態度をとり続ける」事を表明した。
 ムッソリーニは、日伊間の友好関係を保つ為に「アジア人とアフリカの『未開人』を同一視しない」と述べ、日本批判の黄禍論キャンペーンを控えた。
 7月24日 大日本生産党内田良平は、ムッソリーニに対する抗議電報を送付した。
 イギリスは、イタリアに対してエチオピア侵略に対する警告を行い、「もはや同盟国ではない」と通告した。
 日本軍部と右翼は、イギリスがファシスト・イタリアに圧力をかけ始めるや、エチオピア支持を取り止めてファシスト・イタリアとの同盟関係構築を望み始めた。
 8月 イギリスは、ファシスト・イタリアに圧力を加えるべく、本国艦隊をジブラルタルに派遣した。
 イタリア政界は、イギリスとの戦争を恐れる声が高まった。
 イギリスは、フランスがイタリアとの戦争に消極的であった為に戦争に踏み切ろうとはしなかった。
 ムッソリーニは、イギリスとフランスがエチオピアを救う為に戦争を行わないと確信して、エリトリアソマリランドの軍をエチオピア国境に集結させ始めた。
 8月16日 パリ。イタリア・イギリス・フランス三国の代表は、エチオピア問題解決の為に会談を行った。
 イギリスとフランスは、イタリアに対して、エチオピアの独立を損なう事なく、国境線の変更やイタリアによる事実上の委任統治を認めるなどの宥和的な提案を行った。
 だが、ムッソリーニエチオピアの軍事占領に拘った為に会談は決裂した。
 イギリスは、艦隊をマルタに派遣し、マルタが攻撃された場合は直ちに戦争に突入する事を決定した。
 イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、イギリスなどとの戦争に発展する危険があるとして、エチオピア侵攻に反対した。
 だが。ムッソリーニは、エチオピア戦争の方針を変えなかった。
 エチオピア問題は、国際連盟の場で正式に討議される事となった。
 9月6日 イギリス・フランス・ポーランド・トルコ・スペインによって構成された五国委員会は、エチオピア問題を平和的解決するべく話し合った。
 9月10日 イギリスとフランスの代表は、イタリアに対しては軍事制裁やスエズ運河封鎖などの強硬措置は執らず、国際連盟の枠組み内で戦争を抑止する方針をとる事で合意した。
 9月11日 イギリスのサミュエル・ホーア外相は、エチオピアの独立を支持する演説を行い、各国の連盟代表の熱烈な歓声を受けた。
 9月18日 五国委員会は、エチオピアの独立を国際連盟が保障するかわりに指導下に置き、イタリアが望む国境線変更を行う代償として、英仏がイギリス領ソマリランドおよびフランス領ソマリランドから若干の領土をエチオピアに割譲するという調停案を出した。
 イタリア政界内部では、平和解決の為に提案の受け入れを求める声が高まった。
 ムッソリーニは、「20万の軍隊を東アフリカに遠足に出したとでもいえというのか」と考慮しなかった。
 9月21日 ムッソリーニは、正式に拒否を決定した。
 イタリアとイギリスの緊張は、戦争直前といった最高潮に達していた。
 イギリスとフランスは、イタリアとの戦争を回避する為に、イタリアが戦争の範囲をエチオピアに限定して両国の権益を侵害しない事を確約すれば、英仏もイタリアの軍事行動を容認する事を決めた。
 地中海における戦争を回避する為に、エチオピアの主権は見捨てられた。
 イタリアの、イギリスとフランスを黙らせるという外交の勝利であった。
 ムッソリーニの強気は、アメリカ・ウォール街の国際金融資本から財政支援を受ける密約があったからである。
 皇帝ハイレ・セラシエ1世は、国際連盟から見捨てられた事が明らかになるや、イタリアとの戦争の為に国家総動員を発令し、50万人の新兵を集めた。
 だが、彼らの多くは槍や弓矢といった原始的な武器しか持っていなかった。
 エチオピア軍は、35万人の兵力を召集したが、軍事訓練を受けていたのはその4分の1で、装備は19世紀の旧式ライフルと旧式の火砲200門のみであった。
 エチオピア空軍の稼動兵力は、旧式のポテーズ25複葉戦闘機など13機であった。
 10月2日 ムッソリーニは、ラジオ放送で、エチオピアへの侵攻を宣言し、「アドワの報復」を訴えた。
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 エチオピア帝国には、外交での平和的な話し合いが閉ざされた以上は、残る手段は戦争以外に道がなかった。
 戦争か・平和か。個として独立した人間であれば、奴隷として惨めに生き長らえるよりも、勝てない戦いでも勝てると信じて勇敢に戦って死ぬ事を選んだ。
 エチオピア帝国にとっては自衛戦争であり、ファシスト・イタリアにとっては侵略戦争であった。
 軍国日本の満州事変とファシスト・イタリアのエチオピア戦争とは、両国に於ける人口過剰解消と世界恐慌による失業者対策であったが、戦争の本質は根本から異なる。
 一部の日本人は、エチオピア帝国を支持し武器弾薬を秘かに輸出していた。
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 第二次イタリア・エチオピア戦争。(1935年10月3日〜1936年5月5日)
 10月3日 総司令官エミーリオ・デ・ボーノ将軍は、イタリア軍部隊10万人とエリトリア軍部隊2万5,000人を率いてエリトリアから侵攻を開始した。
 イタリア軍部隊の大半は、アスカリと呼ばれる土着民の傭兵が占めていた。
 ソマリランドからは、ロドルフォ・グラッツィアーニ将軍が本国兵で編成された機械化部隊を中核とした攻勢を開始した。
 戦争は、宣戦布告なしに始まった。
 イタリア王国。兵力、50万人(アスカリ含む)。航空機、595機。戦車、795輌。被害、イタリア兵のみ3,731人。
 エチオピア帝国。兵力、80万人。被害、27万5,000人。
 「弱気を助け、強気を挫く」「判官贔屓」といった浪花節を好む日本の世論は、国力さ軍事力さに関係なく白人のイタリアに侵略されているエチオピアを支持した。
 日本政府と軍部は、国際世論がこの戦争を「第二の満洲事変」と見なしている事に配慮して局外中立を表明した。
 10月7日 国際連盟は、イタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済制裁を開始した。
 石油などの重要な戦略物資については、中立国のアメリカがファシスト・イタリアに販売する可能性があるとして適用外とした。
 事実。アメリカの国際資本は、国際連盟経済制裁決議を無視して、戦争で儲ける為にファシスト・イタリアに石油や軍需物資を売っていた。
 実効的な経済制裁は行われなかった。
 イギリスとフランスは、イタリアへの宥和政策として、イタリアによるエチオピアの植民地化を容認する和平案(ホーア・ラヴァル案)が立案された。
 エチオピア帝国は、屈辱的内容に激怒してイタリア寄りの和平案を拒絶して、徹底抗戦をおこなった。
 12月中旬 新総司令官のピエトロ・バドリオ将軍は、戦争を早期に終わらせる為に前任者の慎重な戦略を改めて大攻勢を仕掛けた。
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 もしこの時。エチオピアが、イタリアとの戦力差という現実をから和平案を受け入れて停戦していれば、亡国の憂き目を免れたしれない。
 日本にとっても、教訓となる事例かも知れない。
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 アフリカ系アメリカ人は、アメリ共産党ハーレム支部などを中心に、資金を集めて医薬品を購入してエチオピアに送り、義勇兵を組織して支援を行った。
 西アフリカでは、黒人知識層などがエチオピアを応援した。
 黒人女優のジョセフィン・ベーカーは、エチオピア奴隷制度を存続させていた為に、ムッソリーニを「黒人を救済する人物」としてイタリア支持を表明した。
 白人至上主義の人種差別主義者は、ファシスト・イタリアを支持した。
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 ナチス・ドイツは、ファシスト・イタリアをヨーロッパで口出しできないようにする為に、戦争を長期化させるべくエチオピアに武器を輸出した。
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 1935年2月15日 大角岑生海相は、衆議院赤字公債委員会で、軍事費を増額し軍事力を強化して国防を充実させる事によって、日本を攻撃すると甚大な被害を被るという威圧を敵に与え戦争を仕掛ける事の不利を自覚させると、説明した。
 「国費多端の折にも拘わらず、軍事費を要求する所以のものは、……これだけの準備をして置くならば日本に何かの考えで掛かってくるという国も非常に考えるであろう、躊躇するであろう、即ち……真に我が国を守るのであるという意味の国防を備えておけば、自然是れが戦争を避ける有力なる手段の第一であをうと思うのであります」
 国会は、第1回南京虐殺事件、済南虐殺事件、山東出兵、満州事変など、反日派中国に於ける日本人居留民暴行・強姦・殺人事件を目の当たりにしてきただけに、国防費増額を承認した。
 「軍備の充実と言う事は決して戦争という事に向かって進むという傾向の現れではない、素人考えで申すなら、戸締まりをしっかりしておかないと盗人が入ってくる恐れがあるから、しっかりと戸締まりをしておくのだという事で、まことに結構である」
 翌日。朝日新聞は「国防を充実せば戦争は起きない 衆議院赤字公債委員会で大角海相の答弁」と言う記事を掲載した。
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 1936年1月 軍国日本は、表だってエチオピアを支援できない為に、ファシスト・イタリアに対して存在を見せ付けるべく、権益保護名目でエチオピア首都アディスアベバに日本公使館を開設した。
 右翼のアジア主義者は、エチオピアを支持してファシスト・イタリアの帝国主義を非難した。
 1月20日 日本共産党は、機関紙『赤旗』附録『国際ニュース』第四号で、イタリアの侵略戦争を非難する記事が掲載したが、スペイン人民戦線に行ったような具体的な支援運動は行われなかった。
 左翼・左派のマルクス主義者にとっては、専制君主主義とファシズムの戦争で、人民の戦争ではないとして関心が薄かった。
 2月 イタリア軍は、頑強に抵抗するエチオピア軍陣地に対して毒ガスを使用して粉砕した。
 3月29日 グラツィアーニ麾下のイタリア空軍部隊は、エチオピア東部の都市ハラール焼夷弾による爆撃を行って壊滅させた。
 3月31日 メイチュウの戦い。イタリア陸軍は、近代的な精鋭部隊であるエチオピア帝国親衛隊を撃退した。
 5月2日 ハイレ・セラシエ1世は、国外へ脱出し、ジブチ経由でロンドンに亡命した。
 5月5日 ピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が、首都アディスアベバを軍事占領して戦争は終結した。
 5月7日 ムッソリーニは、戦争の勝利とエチオピア併合を宣言した。
 エチオピア貴族は、祖国回復の為に、地方の部族の支援を受けて抵抗活動を続けた。
 愛国心を持ったエチオピア人は、イタリア人の奴隷になる事を拒否し、絶望的な戦闘を止めようとはしなかった。
 5月9日 ムッソリーニは、イタリア領エリトリアソマリランドを合わせた東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)の建国と、その皇帝にイタリア王アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の就任を宣言した。
 だが、戦争目的であった移住計画は失敗した。
 ファシスト・イタリアは、戦争には勝ったが国力を落とし、国際社会で孤立化して、ナチス・ドイツに接近した。
 新植民地エチオピア経営に専念する為に、中国から引き上げるべくファシスト中国との関係を清算する事にした。
 ロンドンに亡命しているエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は、国を失っても退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。
 国際連盟が、欧米列強の利害に左右されて国際紛争が解決できない事が明らかとなり、有名無実の存在として信用をなくした。
 6月 軍国日本は、ファシスト・イタリアとファシスト中国との関係に楔を入れる為に、イタリアによるエチオピア領有を承認した。
 軍部と右翼は、消滅したエチオピア帝国への同情を捨て去り、反ソ連・反共産主義を理由にして黄禍論を唱えるムッソリーニファシスト・イタリアと日本の接近を歓迎した。
 親エチオピア派であった財界人も、綿製品を中心としたエチオピアに於ける日本の経済的な権益を考慮し、満洲に於ける日本の権益とエチオピアに於けるイタリアの権益を取引する事を望んだ。
 日本の世論は、熱しやすく冷めやすいという民族的特性から、ファシスト・イタリアの勝利で消滅したかっての友好国エチオピアへの関心が薄れた。
 口先で偉そうな事を言っても「諦め」と「忘れる」ことが、日本人である。
 大国や強国に媚び諂って生き残ろうとするのも、日本人である。
 西洋礼賛派日本人には、白人の勝利を祝い、滅びたエチオピア帝国など関心がなかった。
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 1937年11月 日独伊防共協定の締結。
 日本人は、親日的であったエチオピア帝国を見捨て、有色人種蔑視のナチス・ドイツファシスト・イタリアとの提携を選んだ。
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 1938年4月16日 イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は、ナチス・ドイツの膨張政策に対抗する為に、関係が冷却化していたイタリアとの再連携の為に復活祭協定
結んで、エチオピアに対するイタリアの支配権は事実上のもの(デ・ファクト)として認めた。
 皇帝ハイレ・セラシエ1世とエチオピア亡命政府は、またしてもイギリスに裏切られた。
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 1939年 第二次世界大戦が勃発。
 イタリアは、枢軸国の一員として連合国イギリスに対して宣戦布告した。
 エチオピア亡命政府は、連合国の一員に加わった。
 東アフリカ戦線 。エジプトのイギリス軍は、エチオピアイタリア軍を攻撃した。
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 1941年 
 5月5日 イギリス軍は、イタリア軍を破って首都アディスアベバを占領した。
 ハイレ・セラシエ1世は、イギリス軍と共にアディスアベバに凱旋した。
 11月27日 イギリス軍は、東アフリカ帝国の全版図を占拠し、エチオピア帝国は復興した。
 イタリア軍敗残兵は、イタリア王国が降伏するまでゲリラ活動を行った。
 12月8日 真珠湾攻撃。日本は、対米英宣戦布告を行った。
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 1942年 エチオピア帝国は、イギリスとの協定に基づき軍国日本に宣戦布告し、日本との交戦状態に突入した。
 だが、エチオピア軍と日本軍が直接交戦する事はなかった。

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