🎹28:─1─ソ連の極秘命令を受けた中国共産党と日本共産党。第二次上海事変。中ソ不可侵条約調印。日本軍部の軍医部。1937年8月〜No.150No.151No.152 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ソ連中国共産党は、ファシスト中国軍と日本軍を戦争させる為に、ファシスト中国軍内の工作員将軍を利用して日本海軍陸戦隊に先制攻撃を仕掛けた。
 軍国日本は、対ソ戦・対共産主義の為に中国との戦争を望まず、満州から中国全土への戦線拡大を避ける努力をして居た。
 全ては、中国共産党の陰謀であった。 
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 ドイツ人は、教養無き野蛮な日本人を文明人にする為に、近代知識、最新科学、最先端技術などを授けて導いたという思いがあった。
 第一次世界大戦で、日本がドイツ帝国を攻撃した事を恩知らずとして憎んでいた。
 ドイツ軍軍人は、日本軍に敵意を持ち、復讐心に燃えていた。
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 中国人民は、日本軍の侵略から祖国を守る為に勇敢に戦った。
 国際社会は、軍国日本の帝国主義侵略戦争を犯罪行為であるとして厳しく非難した。
 日本の軍国主義は、ヒトラーのナチズムやイタリアのファシズムと同意語とされた。
 昭和天皇は、ヒトラームッソリーニに同様に、血に飢えた戦争犯罪者とされた。
 国際世論は、戦争犯罪者・昭和天皇の処刑を望んだ。
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 上海租界の外国の駐屯部隊、アメリカ軍、2,800人。イギリス軍、2,600人、フランス軍2,000人、イタリア軍800人、その他。
 日本海軍は、上海に取り残された日本人居留民を保護し無事に帰国させるべく第三艦隊を派遣した。
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 日本軍の侵略する先の、日章旗旭日旗が翻っている下に保護すべき日本人居留民がいた。
 日本人居留民の命は、日本軍の侵略が成功するかどうかにかかっていた。
 日本陸軍は、通州事件の様な虐殺事件を恐れて、山東半島・青島の日本人居留民を引き上げを開始し、内陸の北京などにいる日本人居留民を安全な天津租界に移動させ始めた。
 残留を希望する日本人居留民の安全を図る為に、防衛拠点作りを急いだ。
 中国共産党は、日本軍の行動を侵略戦争の始まりと喧伝し、各地の学生を動員して抗日暴動を盛り上げた。
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 ソ連は、ファシスト・国民党に抗日戦を支援する為の大規模な軍事支援を約束した。
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 日本陸軍は、戦闘能力の為に戦傷病者治療の充実の一環として、看護兵を衛生兵に、磨工兵(医療機器の整備兵)・補助看護兵を補助衛生兵とそれぞれ名称を変更した。
 衛生兵は、前線の隊付衛生兵と後方の病院付衛生兵に区分されていた。
 病院付衛生兵は、徴兵検査の時点であらかじめ決められ、検査に合格すると陸軍病院の教育隊に入隊して基礎医学と医療器具の教育を受けた。
 兵役検査では、適性や入隊前の職業などを参考にしてどの兵科に配属するかを割り振りしていた。
 隊付衛生兵は、各兵科の現役兵から命令で補充され、野戦における応急処置などの医療・衛生教育を受けた。
 医学・衛生などの専門知識や応急処置の技術を習得できない者は、戦闘要員として戦場に送られた。
 後方任務に就く者には、高度な専門的知識を学ぶだけの学力が求められた。
 部隊を巡って、兵士一人一人の観察し、何時いかなる時でも戦闘が始まっても戦えるように日頃から健康状態に気を遣った。
 中国大陸は劣悪な衛生状態の為に、赤痢菌や蛔虫やインフルエンザなどの疫病知識が欠かせなかった。
 従軍看護婦がいなければ、傷病兵が使用した衣服や毛布を沸騰消毒したり洗濯、動けない傷病兵の食事や下の世話もした。
 戦闘が始まるや、部隊の後方で仮包帯所を開設して負傷兵を収容して手当を行った。
 収容が不可能なほどの激戦では、戦闘救護班を編成して弾丸飛び交う中を、呼ばれた所に駆けつけて負傷兵の応急処置を施した。
 兵士にとって衛生兵は「地獄に仏」の様な存在で、日頃から「衛生兵殿」として敬意を払っていた。
 負傷兵を野戦病院に運ぶのは、担架中隊や車輌中隊の役目であった。
 戦闘が激化して新たに部隊編成されると衛生兵不足になった為に、階級が上がるのが他の兵科に比べて早かった。
 日本軍は、日本的「家」思想から、徴兵した者で、家の跡取り・長男は安全な本部要員・補給部隊・医療班などの後方任務に回し、次男や三男を戦闘要員として最も危険な最前線に送った。
 その意味で、日本軍内には差別があった。
 陸軍軍医部は、戦闘領域を北は千島列島・樺太満州から南は東南アジア全域と広範囲に想定し、極寒の凍傷から熱帯のマラリアデング熱にいたる幅広い医学知識を必要とした。
 海軍軍医部は、水上艦艇の船舶医学以外に潜水艦の潜水医学、航空機の航空医学、派遣された陸戦隊の陸上医学など、他の医療機関の支援・協力をあてにできないという閉鎖空間での高度な専門知識が要求されていた。
 他国の軍隊で、これほどの過酷で激務を強要された軍医部はない。
 日本軍部は、限られた少数兵力の為に、徴兵した兵士を一銭五厘の消耗品とは考えず、戦闘継続の為に防疫と健兵対策に力を入れていた。 
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 日本陸軍は、事変不拡大方針を堅持し中国との戦争を回避する為に、上海に避難してきた日本人居留民約3万人を本国に引き揚げさせるように恫喝した。
 石原莞爾「上海の在留邦人が危険なら、在留邦人は全員引揚げたらよいっ!損害は1億円でも、2億円でも、補填してやればよいっ!戦争するより安くつくっ!」
 日本外務省は、日本人居留民の引き揚げを実施しなかった。
 日本海軍も、引き揚げには賛同しなかった。 
 日中戦争拡大の責任は、陸軍ではなく、責任回避をした外務省と海軍にあった。
 国家の責任として、海外に住む同胞を現地で保護せず強制的に帰国させ、強制帰国を拒否する同胞を棄民として見捨てていれば、戦争にはならなかった。
 国家が国民を武力で守ろうとした事が、戦争の原因であった。
 国家に戦争を起こさない唯一の方法は、国民が国家を頼らずあてにせず依存せず、自己責任と自己判断で行動し、協力者や仲間を持たず自分一人で自分と家族を数千数万人の敵から戦って守り切る事である。
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 8月 日本政府は、現地保護ではなく全員帰国を決定し、青島の日本人居留民約1万7,000人に対して、中国軍と反日派中国人による被害から保護する為に本国への引き上げを命じた。
 青島市長は、日本資産約4億円の安全保管を公約した。
 ドイツのクルト・ヤンケは、ドイツの工業生産に必要なタングステンなどの稀少金属を中国から安定的に輸入するには、日本から中国を守る必要がある為に、ドイツ軍幹部数人ともにイギリス軍情報部幹部と極秘に協議した。
 ファシスト中国は、世界トップクラスのチェコ製機関銃を正式採用した。
 日本軍は、チェコ機銃に苦しめられた。
 第二次上海事変。上海の日本海軍陸戦隊約2,200人は軽装備で、ナチス・ドイツの支援を受けた精鋭の中国中央軍70万人以上と、非戦闘員に変装した中国共産党軍ゲリラ4万人以上の攻撃から、武器を持たない無防備な日本人居留民3万人以上を守っていた。
 上海に停泊している第三艦隊(旗艦・出雲)が、中国側への抑止力となっていた。
 軍艦・出雲は、日本人居留民にとって守護神であったが、中国人にとっては悪魔であった。
 中国軍は、国際法を無視して陣地に第三国の国旗を立てて外国権益を巻き込み、一般人を装って市内で放火や略奪や殺人行為を行った。
 揚子江流域の諸都市には、中国人を友人と信じ込んだ3万人以上の日本人居留民が取り残されていた。
 揚子江沿岸にいた犯罪者集団に近い旧軍閥の中国軍50万人以上は、150万人以上の戦争難民を上海租界に追い込みながら、上海に迫った。
 戦時国際法を無視して、一般人に変装した数万人の中国兵を上海に送り込んだ。
 中国共産党は、日本を戦争に追い込む為に、中国人を暴徒に仕立てて日本軍の後方で震え上がっている無防備な日本人居留民を襲撃した。
 反日朝鮮人は、租界内のキリスト教会を拠点として抗日派中国人に協力して、テロ活動を行っていた。反日朝鮮人テロリストのほぼ全員が、洗礼を受けた、敬虔なキリスト教徒であった。
 軍国日本は、四面楚歌の中にいて味方はなく、一人で孤軍奮闘していた。
 ソ連は、日本軍主力を満州から遠ざける為に、中国軍内の同調者に命じて日本軍に先制攻撃させた。
 ソ連軍は、中国共産党軍と抗日中国軍に国際義勇軍と武器弾薬を提供していた
 共産主義者は、日本軍以上に謀略戦に長けていた。
 蒋介石は、面子を守る為に、ドイツ軍指導による重装備を施した最精鋭の中央軍主力数十万人を上海戦に投入した。
 日本軍部は、不拡大を望む政府の優柔不断から、3万人を、さらに戦況不利となって20万人を増派した。当時の日本軍の総兵力は約50万人であり、国内には僅かな予備兵力しか存在しなかった。
 国内の日本人共産主義者は、反天皇活動を始めた。
 朝鮮の各キリスト教会も、反戦平和運動を密かに始め、信者に信仰を守る為に靖国神社への参拝を禁止した。
 反日朝鮮人テロリストは、キリスト教会を利用していた。
 日本は、バチカンへの遠慮から、キリスト教会の反天皇的活動を取り締まる事には慎重であった。
 一部の仏教徒も、中国人を殺す戦争に反対した。
 アメリカは、中立国であった。
 ルーズベルトは、日本軍の攻撃を計画的侵略と確信し、中立法から中国を除外すると宣言した。
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 バチカンは、共産主義勢力に対抗する為に、カトリック信者の靖国神社参拝を許可していた。
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 8月早々。蒋介石は最高作戦会議を開き、12日に揚子江を封鎖して日本の軍艦と商船を拿捕し武装解除する事を決め、同時に空軍に対して上海周辺の飛行場に展開して出撃準備するように命じた。
 何が何でも日本を戦争に追い込む為に、挑発するように指示を与え、場合によっては日本人に危害を加える事も容認した。
 中国軍は、日本軍の侵略に備えて準備に取り掛かっていた。
 上海市内や共同租界内の日本人居住区に生活していた中国人は、保安隊や憲兵隊が対日戦の為に土嚢を積み始めたのを見て、アメリカ人やイギリス人の住む共同租界に逃げ出した。
 上海の日本人居留民団(約3万人)は、戦闘の危険がある為に、婦女子を日本か共同租界に避難させる事を決め、揚子江上流から避難してくる日本人居留民をも上海に上陸させず日本に引き揚げさせる事とした。
 上海には、日本人租界は存在しない。
 南京や漢口などの上流から日本人居留民難民(3万人以上)を乗せた船舶が上海に入港したが、日本に向かう事ができる大型船は日本に向かい、遠洋航行ができない小型船は日本人居留民避難民を上陸させた。
 中国奥地で、日本人居留民が如何なる危険な状態にあるか想像も付かなかった。
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 日本政府と軍部は、国家の責任として、戦争をしてでも日本人居留民を助けるべきか、戦争を避ける為に日本人居留民を見捨てるか。
 二者択一。それ以外の選択肢は、なかった。
 話し合いによる問題解決は、不可能であった。
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 軍国日本の中国侵略は、時間の問題であった。
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 ドイツ人クルト・ケントは、数人のドイツ軍幹部と共にイギリス軍諜報部大佐と極秘に意見交換をした。
 ケントは、タングステンなどのレア・メタルを手に入れる為にドイツ軍事顧問団を中国に派遣していたが、思いの外に日本軍の猛攻で中国軍が苦戦を強いられる恐れがあるとして、早期に日本との休戦を仲介する必要を感じ、日本への外圧を強める為にイギリスと手を組む事にした。
 イギリスは、日本軍が上海や広東に南下してくる事を警戒していた。
 ドイツ軍は、イギリスを日中戦争に巻き込もうとしていた。
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 豊田喜一郎は、クルマ作りへの憧れから、父・佐吉の自動織機の特許権を売ってトヨタ自動車工業を設立して、自動車開発に情熱を傾けた。
 「資源のないこの国が生き残るには、技術しかない。自分達の車が、日本の将来を支えていく」
 トヨタは、「産業報国」思想から独自技術による物作りに拘った。
 西洋礼賛主義者は、日本の稚拙な技術は西洋の高度な技術には絶対に勝てないとの悲観論から、トヨタの無謀な挑戦を馬鹿にして嘲笑った。
 航空産業に於いても同様に、日本の生産技術力と開発能力を無能に近いほどに否定していた。
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 松井石根軍司令官は、戦時国際法違反を行うと昭和天皇の名誉と日本の体面を毀損し国益に悪影響が及ぶとして、元外交官で法律博士の斉藤良衛を帯同し事あるごとに協議していた。
 だが、生きるか死ぬかの戦場では恐怖心や異常な昂奮状態から暴走するに日本兵士が少なからずいた事は事実であった。
 殺されるかも知れないという恐怖心と異常昂奮から、言葉が分からない中国人を、女子供に関係なく敵と認識して殺した事が戦争犯罪とされた。
 危機に際しては大声を出さず騒がず一目散に逃げ出す日本人にとって、自暴自棄的に半狂乱となって叫き散し暴れながら走り回る中国人が理解できないどころか、何時襲ってくるか分からない暴徒にすぎなかった。
 日本人は濡れた薪の如く暴徒化しないが、中国人は瞬間湯沸かし器的に暴徒化しやすかった。
 日本軍兵士は、中国人の冷静さを失った暴動的行動に命の危険を感じ、その恐怖心が一般人殺害に暴走した。
 その戦場における異常心理は、戦争犯罪とされた。
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 陸戦条規(1907年)は、占領目標・攻撃対象とする都市及び地域に敵地上部隊が存在し抵抗が予想されている時、一定の目標を定めた無差別砲撃を適法と認めた。
 だが、敵地上部隊が存在しない無防備都市及び地域への攻撃及び砲撃は、人道上の面から禁止されていた。
 海軍砲撃条約(1907年)でも、上陸地点における無防備地帯や軍事施設のある敵都市への艦砲射撃を認め、民間施設と一般市民の被害はやむを得ない事と認めていた。
戦闘が無人の荒野ではなく人が住む地域で行われる以上、非軍事的民間施設が攻撃され、罪のない一般市民が戦闘に巻き込まれて犠牲になる事はやむを得ず、戦争において「付随的損害(コラテラル・ダメージ)」は避けられないとされていた。
 空戦法規(1923年 草案)は、陸戦条規及び海軍砲撃条約同様に、軍事目標主義で、特定の軍事目標に対する空爆でその周囲での民間施設の破戒と一般市民の犠牲はやむを得ないと認めていた。
 敵の攻撃から軍事施設を守る為に一般市民を人の盾として利用する事は認めず、空爆されて死傷者が多数出ても戦争犯罪に問われないとした。
 敵陸上部隊のいない無防備都市への空爆や軍事目標が識別できない為に都市全体を破壊する空爆等は、人道上禁止された。
 もし。敵が戦時国際法を遵守せず違法行為を行う時、その行為を止める目的で反撃する「戦時復仇」を正当防衛として認めていた。
 報復として、無差別爆撃をされたら同等の被害がでる無差別爆撃が認められていた。
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 軍国日本は、ナチス・ドイツアメリカ、イギリスなど中国寄りの第三国の厳しい監視下にあり、戦時国際法に違反すれば経済制裁の口実にされる危険性があった為に慎重に行動していた。
 日本軍は、攻撃する諸都市に反日的外国人ジャーナリストや親中国的外国人宣教師が多数の入り込んでいた為に、彼らを傷付ければ反日国際世論を煽る恐れがある為に、中国軍、軍事施設、飛行場などを細心の注意を払いながら精密に攻撃していた。
 外国人特派員達は、日本軍から攻撃されない事を知っていただけに、自由に戦場を走り回って日本に不利になる情報を集めていた。
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 8月1日 重慶の日本人居留民は、中国人による反日暴動が激しくなり、命の危険を感じた為に漢口への引き上げを決めた。
 揚子江流域の各都市の日本人居留民も、命の危険から自主的に引き上げを開始した。
 8月5日 蒋介石は、日本との戦争が近い為に、南京市の官吏に家族を避難させる様に通達したが、市民は放置した。
 正統派儒教は、一般市民を教養ある人間とは認めてはいなかった。
 朝日新聞(8月7日付)「南京特電5日発 全面的開戦近づく。官吏の家族は南京から避難するように」
 華北の中国軍は、約1万人の日本人居留民が住んでいる天津日本租界を砲撃した。
 天津の日本軍守備隊は、攻撃許可がない為に砲撃に絶えた。
 中国軍は、戦争を勃発させる目的で、威嚇砲撃ではなく挑発攻撃を行っていた。
 日本政府は、中国との全面戦争を避ける為の話し合いによる平和的な和平交渉を模索し、自衛行為であっても武器の使用を禁止していた。
 軍部の強硬派は、対中作戦計画に従って自衛行為として増派準備を始めた。
 戦後。この行為が日本の侵略に当たるとして告発された。
 栄維木」盧溝橋のずっと以前から日本が対中国作戦計画を練っていて、支那事変を引き起こす戦争準備をしていた」
 国際世論は、盧溝橋事件から始まった日中戦争は大陸侵略を狙った軍国日本の自作自演の陰謀と認めた。
 軍国日本の味方は、何処にもいない。
 8月6日 漢口租界を守っていた海軍陸戦隊漢口分遺隊300人は、中国軍の攻撃に備えて土嚢を積んで防衛陣を布いた。
 重慶各地から避難してきた日本人居留民は、漢口に入らず上海に向かい、引き上げを希望する日本人居留民の避難は完了した。
 8月7日 漢口租界の日本人居留民も、上海に向かって避難した。防衛に当たっていた陸戦隊も翌8日に撤退した。
 南京でも。総領事館や日本軍は、第一回南京事件の苦い経験から、日本人居留民を中国人暴徒から守る為に引き上げを開始した。
 各地の中国人暴徒は、日本人が去った商店や住居を襲って、全ての家具を奪い合い、流血事件を起こして無法化した。
 中国警察当局は、暴徒を鎮圧して治安を回復する行動を取らない所か、日本側との約束を反故にして、むしろ暴動を煽り暴徒に混じって強奪を行った。
 中国は、儒教的人治社会として、近代的法律は存在しない。
 8月9日 上海防衛隊司令官の張治中は、逃げだし始めた日本側を弱気と踏んで、蒋介石に対して日本軍への即時攻撃許可を求めた。
 蒋介石は、まだ開戦の時ではないとして、攻撃を許可しなかった。
 中国軍は、日本軍への攻撃命令をイライラしながら待っていた。
 スターリンは、日本軍を華北から華中に移動させる為に、隠れ共産主義者である張治中に日本軍を攻撃する様に示唆した。
 共産主義者の謀略は、後に証拠を残さない様に巧妙に行われた。
 中国軍の保安隊や憲兵隊は、市内各所に土嚢を積んで戦闘準備を隠す事なく進め、民間服に着替えた便衣隊を日本人居住区に送り込んだ。
 日本の憲兵隊は、避難する中国人は素通りさせたが、入ってこようとする中国人に警戒した。
 夕方 日本船籍の船は、日本人居留民を避難させるべく乗船させて出港した。
 チチハル作戦(〜10月17日)。関東軍参謀長東條英機中将は、兵団を率いて内蒙古の張家口に進撃して国民党軍を撃破したが、補給が上手く行かず餓死者を出した。
 大同に入城するや、副官に世界的遺産である雲崗石窟の保護を命じた。
 日本軍は、各地にある文化遺産を守りながら戦っていた。
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 大山事件。
 日本は、戦争を避けるべく、和平交渉を上海で行う為に準備を進めていた。
 海軍陸戦隊の大山勇夫海軍中尉は、斉藤一等水兵が運転する車で市内を視察中に惨殺された。
 大山勇夫中尉は、中国側を刺激しないために拳銃を所持しなかった。
 斉藤要蔵一等水兵も、拳銃をホルスターに仕舞って取り出す暇がなかった。
 中国軍側は、「大山中尉が支那兵の制止を振り切り、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」と発表した。
 大山中尉殺害事件は、中国共産党スパイである張治中が、仕組んだ謀略であった。
 日本政府は、上海市長や六ヵ国からなる停戦協定共同委員会に抗議し中国側の謝罪を求めたが、停戦交渉を優先する為に穏便に処理する事を伝えた。
 日本海軍は、日本人居留民保護目的で佐世保から増派したが、中国側との不測の事態を避ける為に兵舎から出る事を禁止した。
 中国側は、対日戦を決定していた為に、謝罪をしないどころか挑発行動をエスカレートさせた。
 日本人居住区には、依然として数千人の日本人居留民が残っていた。
 海軍陸戦隊は、通州虐殺事件の再演を恐れて一人でも多く逃がすべく脱出路を探した。
 中国軍は、民間人を抱えて防戦する日本軍は殲滅させやすいとして、日本人居留民の避難を妨害するべく通行人の検問を強化した。
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 8月10日 米内光政海相は、上海守備を担当するメンツから、現地の海軍陸戦隊だけでは日本人居留民の生命と財産を守り切れないとして、救援の派兵を主張した。
 日本海軍は、体面として、撤退ではなく積極攻勢を主張した。
 中国侵略を主張したのは、海軍であった。
 参謀本部作戦部長石原完爾、多田駿、杉山元ら不拡大派は、陸軍の総意として、出兵して中国軍と本格的な戦争状態に突入する事は、伝統的対ソ戦略から猛反対した。
 対中強硬派の武藤章、田中新一らは、中国に対する一撃を加えるべきであるとして派兵に賛成した。
 陸軍は、対ソ防衛を優先するか中国侵略を優先するかで分裂していた。
 石原は、蒋介石の挑発に乗って日本軍を投入すれば、戦線が中国全土に拡大されて収拾がつかなくなる。むしろ、中国の日本人居留民全員を本国へ引き揚げ、中国で失った財産を国で補填した方が、戦争するよりも安上がりである訴えた。
 陸軍内部の強硬派は、中国人暴徒による日本人居留民への度重なる残虐行為に対する懲罰を兼ねて、抗日中国に一撃を加えるべきであるとして派兵に賛成した。
 財政当局は、軍部主戦派の説明を信用して、引き揚げ者の経済的損失を補填するよりも戦争に勝利した方が実入りが良いとして認めた。
 つまり。不況下で苦しんでいる国民が、戦争を恐れて逃げ帰った卑怯者である引き揚げ者の経済的被害を税金で支払う事に、果たして同意するかが不安であったのである。
 真偽は定かではないが。ロシアの日本大使館付き武官を勤めた事のある米内光政は、共産主義に関係なく、日露友好を望んでいたといわれている。
 海軍は居留民保護の為に迅速に行動したが、陸軍は戦火の拡大を恐れて行動が鈍かった。
 国民世論も、抗日中国軍に包囲され、いつ攻めら、中国人によって虐殺されるかわからなない無防備な同胞の救助を求めた。
 スターリンは、満州における日本軍の増強を阻止する為に、日本国内の協力者に上海派兵を強行するように示唆した。
 8月11日 海軍軍令部は、上海の日本人居留民を守る為に、宣戦布告に等しい強硬な要求をファシスト中国側に突き付けた。
 上海の海軍陸戦隊は、攻撃してきたら反撃するとして、挑発するようにあからさまな戦闘準備を始めた。
 海軍軍令部長伏見宮博恭は、強硬論者として、戦闘止むなしとして上海への増派を命じた。
 日本海軍は、上海問題で非は中国側にあって日本側にはないとして、第1回南京事件や漢口暴行強姦事件等の苦い経験から戦争を避ける為に惨めに逃げ帰るきはなかった。
 軍国日本の悲劇は、自分の苦い経験を学んだが、過去の歴史を教訓としなかった。
 上海に、呉と佐世保から増援部隊が到着して、日本人居留民を守る上海陸戦隊は4,000人となった。入港した軍艦数隻も、第三艦隊の指揮下に入った。
 中国軍は、先制攻撃する為に4万人以上を上海陸戦隊の前に展開させ、さらに数万人の増援部隊を停戦協定を無視して上海北駅に送り続けた。
 アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの駐中大使は、上海不戦区域化を提案した。
 8月12日 第三艦隊は、午後5時50分に軍令部に「陸軍派兵を要請する」電報を打ち、午後7時に日本人居住区に止まっている日本人居留民に共同租界へ移るように命じた。
 午後8時40分 軍令部は、「動員が下命されても到着まで二週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」との返電を送った。
 夜 四相会議は、「上海並びにその北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護する」を主任務として2個師団(約3万人)の急派を決定した。
 消極的な陸軍は、中国人による通州事件の再発を恐れて、積極的な海軍に押し切られた。
 8月13日午前9時 閣議で、上海派兵が決定された。
 陸軍は、戦線拡大を避けるべく、日本人居留民を救出する為に約3万人のみを急派した。
 昭和天皇は、大元帥として派兵を裁可した以上は勝つ事を望んだ。そして漸次出兵ではなく、短期決戦を目的として大兵力を投入すべではないかと、積極的侵攻作戦を示唆する意見を漏らした。この積極策発言が、天皇の戦争責任に当たると認定された。
 昭和皇は、軍部に軟禁されていたわけでもないし脅迫を受けた操り人形でもなく、立憲君主としての責任を果たす為に自分の意思で行動していた。
 すべての戦争は、統帥権を持つ昭和天皇が決断した事である。
 そして、昭和天皇は戦争責任から逃げる事なくすべての責任を引き受ける事を表明した。
 午前10時30分 中国保安隊は日本人居住区への攻撃を開始したが、無勢の上海陸戦隊は応戦を控えた。
 午後4時54分  戦闘は、中国軍の攻撃で始まった。
 中国軍(2,000人以上)は、八字橋から攻撃を開始し、大挙して日本陣地への侵入を図った。
 八字橋守備の上海陸戦隊(約200人)は、通州虐殺の再演を防ぐ為に応戦した。
 別の中国軍(2,000人以上)も、別方向から八字橋への攻撃を開始した。
 午後5時 上海陸戦隊本部は、日本人居留民を保護する為に「全軍戦闘配置につけ」と命令を下した。
 だが。大軍の中国軍に対して、日本軍は劣勢であった。
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 南京上海防衛隊司令官張治中は、日本軍より先に、「日本の軍艦が上海を砲撃し、日本軍が中国人を攻撃している」との記者発表した。
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 日本軍の中国侵略によって、日中戦争が始まった。
 国際社会は、軍国日本の侵略戦争を非難した。
 日本の悲劇の始まりである。
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 中国軍の攻撃で、第二次上海事変が勃発した。
 ナチス・ドイツは、中国からレアーメタルであるタングステンを輸入する見返りとして、抗日軍の軍備拡張に協力し、対日戦に備えて上海周囲に2万以上の近代的トーチか構築に技術供与していた。
 日本海軍上海陸戦隊(約4,000人)は、軽装備のまま、ナチス・ドイツの軍事支援を受けた重装備の中国軍(3万人以上)の攻撃を受けた。
 ドイツの軍需産業は、大量の武器弾薬を抗日中国軍に売却していた。
 東京裁判は、日本軍の侵略で日中戦争が始まったと断定した。
 スターリンの目論見は、成功した。
 ドイツ軍事顧問団は、ヒトラーの許可を得て、蒋介石に対して被害を拡大させない為に日本軍の増派が来る前に撤兵する様に勧告した。蒋介石は、自分の面子を優先して、最精鋭部隊を投入した。
 中国政府外交部は、中国軍は領土と主権を守る為に侵略軍である日本軍を攻撃するが、その責任は日本が負うべきだと表明した。
 中国軍は、日本租界攻略の為にさらなる部隊を集結させた。
 8月14日 蒋介石は、上海の張治中司令に、日本軍が発砲してきた以上は正当防衛として攻撃を命じた。
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 公式の世界戦史は、日本軍の先生攻撃で戦争が始まり、中国軍は日本軍の侵略に対する防衛戦であったとしている。
 日本軍の侵略は永遠に許される事のない戦争犯罪というのが、国際法による世界常識である。
 国連や国際的司法機関も、アメリカやイギリスやロシアはもちろんドイツやイタリアやスイスまでも、当然の事として「日本=悪」を認めている。
 日本の軍国主義は、完全否定されている。
 日本には、弁明が許されていない。
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 午前10時頃 クレア・シェンノートが指揮する中国空軍のアメリカ製ノースロップ爆撃機21機と戦闘機コルセアは、地上軍と呼応じて、黄浦江に停泊している日本軍艦や上海租界への無差別爆撃を始めた。
 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの許可を得て、現役軍人パイロットを退役したと偽って中国軍に参加さ、日本軍を攻撃させた。
 アメリ軍需産業は、爆撃機や戦闘機など多くの攻撃機を抗日中国軍に売却していた。
 午後4時半には、アメリカ製爆撃機数十機が、租界を無差別爆撃し、第三艦隊旗艦巡洋艦「出雲」とアメリカ極東艦隊旗艦オーガスタに至近弾が落ちた。
 巡洋艦「出雲」は、応射して3機を撃墜し、2機にも被害を与えた。
 上海の繁華街である南京路にあるキャセイ・ホテルとパレス・ホテルと歓楽街の娯楽場「大世界」が、中国軍機の照準ミスから相次ぎ爆撃された。
 欧米の報道機関は、中国に同情的な記事を本国に送り、外国人を含む1,000人以上の死傷者を出した責任は日本側にあると伝えた。
 中国軍側は、日本軍の攻撃に対する自衛行為であると記者発表し、責任を日本側に転嫁して非難した。
 ユダヤ系の報道機関は、中国側の公式発表を取り上げて反日報道をおこなっいた。
 夕方 陸軍は、予想よりも早い戦闘開始に慌てて、第三師団と第十一師団に動員命令を発した。
 盧溝橋事件などで旧軍閥系中国軍と戦った経験から、二個師団を増派すれば中国軍を撃退できると高を括っていた。
 8月15日 日本政府は、「これまで不拡大を方針としてきたが、居留民の生命財産が危殆に陥るに及び、反省を促すため断固たる措置を取らざるを得なくなった」との声明を発表した。
 陸軍は、日本人居留民を救う為に上海派遣軍を編成し、松井石根大将(A級戦犯)を軍司令官に任命した。
 「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃討し、上海ならびにその北方要線を占領し帝国臣民を保護すべし」
 海軍は、軍艦を兵員輸送に使う事には不服であったが、日本人居留民保護の為に軍艦を提供した。
 蒋介石は、陸海軍総司令に就任して、中国に総動員令を下命した。
 夕方 日本人居留民の婦女子1,500人が、陸戦隊に守られながら中国軍の警戒網を逃れ、反日派中国人暴徒の襲撃を避けながら船に乗って日本に向かった。
 中国海軍は、日本海軍に比べて劣勢にあった為に戦闘に参加せず、日本人居留民避難民を乗せた船を攻撃せず見逃した。
 日本人居留民避難民の船は、日本海軍に守られながら21日まで出航し続けた。
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 8月16日 蒋介石は、日本批判の国際世論を見極めてから、ようやく全軍に総攻撃命令を出した。
 ヒトラーは、対中武器輸出について、ブロンベルク防相とノイラート外相と協議した。
 「基本的には日本との協力関係を維持するが、この日中戦争では中立を保たなければならない。しかし中国向け輸出は、中国が外国為替ないし原料で支払い、しかもうまくカモフラージュ出来る限り継続する」
 ゲーリング「ドイツは中国からタングステンを買っている、その交換で飛行機を売っている」
 8月17日 中国軍は、日本人居住区の侵入する為に、大軍を以て陸戦隊の防衛陣地に猛攻を繰り返していた。
 陸戦隊は、劣勢で何度も危機に陥りそうになったが、通州事件を避ける為に、玉砕を覚悟して白兵戦で食い止めた。
 居住区に残った日本人居留民の、男子は陸戦隊と協力して戦い、女性は炊き出しをし負傷者の手当をした。
 中国軍の攻撃で、日本人居留民にも多数犠牲者が出た。
 戦前の日本人は、現代の日本人と違って自己犠牲で死を恐れずに戦った。
 兵力の少ない陸戦隊は、反撃せず、ひたすら陣地を守り続けた。
 中国軍は、中立の共同租界に侵入して、陸戦隊の防衛陣地を側面から攻撃した。
 中国人住民は、中国軍の後方で弾薬や食糧の運搬を行っていた。
 フランス租界や共同租界は戦争の影響を受けず、アメリカ人やイギリス人らはビルの上から酒を飲みながら観戦していた。
 諸外国の報道機関は、日本軍と戦う中国人市民を侵略から母国を救おうとする勇敢な英雄と報道した。
 8月18日・19日 軍令部は、陸軍部隊が到着するまで防衛陣を維持させる為に、約2,400人を増援として上海に送った。
 上海陸戦隊の兵力は約6,300人となったが、中国軍比べれば約10分の1で依然として劣勢であった。
 日本軍兵士は、中国軍より劣って武器しかなかったが、降伏はもちろん、撤退も考えず、全滅覚悟で日本人居留民を守る為に多々且つ手板。
 張治中は、日本軍との全面戦争に消極的な蒋介石の命令を無視して、戦闘を拡大する為に攻勢に出る様に全軍に命じた。
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 戦死した日本軍兵士は、靖国神社に軍神として祀られた。
 現代日本では。中国や韓国・北朝鮮そして一部の日本人が、靖国神社を参拝する事は侵略戦争を美化し軍国主義の復活につながるとして猛反対している。
 キリスト教界や一部の仏教界も、靖国神社を否定し、参拝に反対している。
 バチカン以外で、靖国神社参拝を支持している宗教団体は少ない。
 トレヴェニアン「8月12日に中国側は日本総領事館と商社の電話線を切断した。その翌日、13日金曜日に、中国軍第88師団が北停車場に到達して、租界から外に通じる道路を全て遮断した。それは、ごく少数の日本軍と自分達の間の緩衝用にできるだけ多くの一般市民を閉じ込めておくのが狙いであった。
 8月14日にアメリカ製ノースロップ機に乗った中国軍パイロットが上海を盲爆した。高性能爆弾の一弾がパレス・ホテルの屋根を貫いた。別の一弾がカフェ・ホテルの表の路上で爆発した。729名が死に、861名が負傷した。31分後に別の中国機が女性や子供の避難所になっていた大世界娯楽センターを爆撃した。1,012名が死に、1,007名が負傷した。
 ……外国の介入を誘い出すつもりで、中国軍は、日本軍の砲撃による人命や建物の損害に輪をかけてるように、連日空軍による〈誤爆〉を繰り返した。
 さらに、彼等は、道路の遮断を続行して緩衝の目的で数万人の市民を閉じ込めていた……それも自国民を」(冒険小説『シブミ』)
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 8月20日(〜25日) 洛川会議。 陝西省洛川で中国共産党政治局拡大会議が開催され、抗日救国十大綱領が採択された。
 共産党の勢力を拡大させる為に、日中戦争を最大限に利用する事。八路軍と新四軍は、国民党政府から多くの軍費と武器弾薬を獲得するべきである。
 毛沢東は、党と軍の幹部に対して極秘命令を口頭で伝えた。
 「中日の戦いは、我が党の発展にとって格好の機会だ。我が軍の兵力の内、70%は我が党の発展の為に使い、20%は(国民党との)妥協の為に使い、残りの10%だけを抗日戦争の為に使う」
 毛沢東は、中国共産党が勝利する為の戦略は、日本軍と国民党軍を全面戦争で疲弊させ、中国共産党軍は戦闘に参加せず勢力を拡大して「漁夫の利」を得る事であると。
 つまり。中国共産党は、抗日戦争の主役にならず脇役に徹し、第一線で大きな戦いに参加してはならない、と。
 都市部の陣地戦は国民党政府の正規軍に任せ、味方は遊撃部隊として農村などの地方で宣撫活動に専念する。
 各指揮官は、抗日戦の英雄になる為に前線に立ち、同志を激戦地に投入して犠牲にしてはならない。
 中国空軍は、アメリカ陸軍航空部隊義勇軍の協力を得て、日本人の上に無差別爆撃をした。
 8月21日 A級戦犯・松井軍司令官は、戦場での心構えとして、艦上で全軍に敵の殲滅を命じたが、同時に無辜の民には仁慈を尽くす様に訓示した。中国通の松井石根は、中国の伝統的戦法である「三光作戦」を厳禁とすると厳命した。
 中ソ不可侵条約調印。ソ連は、中国への武器供給を本格化させた。
 ソ連は、武器購入代金として2億5,000万ドルを融通し、約300人の軍事顧問団を派遣した。
 ソ連軍正規兵数千人は、国際義勇兵として抗日軍に参加させた。
 その後も、中国の要請に従って増派を続けた。
 スターリンが、蒋介石と中ソ不可侵条約を締結した目的は、日本軍を中国における泥沼の戦い引きずり込む事であった。
 ワシリー・チュイコフ中将は、スターリンの密命を受けて蒋介石の最高軍事顧問として重慶に赴任した。
 スターリン「貴官の任務は、同志チュイコフ、中国での我が陣営の任務は、日本の侵略者の手を固く縛り付ける事だ。日本の侵略者の手を固く縛り付けた場合のみ、ドイツの侵略者が我が国を攻撃した際、我々は二正面戦争を避ける事が出来る」
 ソ連政府は、日本本土空爆の為に航続距離の長い大型爆撃機100機以上の商談を始めた。
 中国在住の諸外国の報道機関は、日本軍の残虐な侵略行為を非難する報道を一斉に流し、祖国を守ろうとして中国軍と中国人民の英雄的行為を称えた。
 スターリンは、ヨーロッパ重視の基本戦略から対日参戦には慎重に断ったが、9月に極東ソ連軍の一部を外モンゴルに入れて日本軍を威嚇した。
 中国軍は、ソ連の軍事介入を誘う為に全兵力の3分の1以上の73個師団を上海攻防戦に投入し、ソ連軍が満州華北に侵攻して日本軍を撃破して総攻撃を開始する時に備えて新たに50個師団を編成した。
 中国沿岸が日本海軍により封鎖されるや、大量の武器弾薬を新彊省の国境から運び、ソ連兵の義勇軍を航空機と共に抗日中国軍に供給した。
 8月22日 中国軍爆撃機は、共同租界内のシンシアーデパートとウィン・オンデパートを誤爆して被害を与えた。
 爆撃された建物に駆けつけた中国人群衆は、犠牲者を救出する為に集まったのではなく、瓦礫の中に埋もれた商品の山を奪い合う為に群がったのである。
 アメリカとイギリスの現地の軍事調査官が調査した結果、使用された爆弾はイタリア製と判明した。
 中国の宣伝広報局は、日本軍の爆撃であったと発表した。
 外国の新聞は、中国側の厳しい検閲を受けた上で、日本軍の侵略と日本軍兵士の悪逆な犯行と報じた。
 日本海軍機は、連日、台湾・長崎などの海軍航空隊の飛行場から出撃し渡洋爆撃していた。だが、爆撃機の護衛に当たっていた戦闘機は燃料の残量から長くは上海上空に留まれず不利であった。
 日本海軍は、上海派遣軍に共同租界東端にある公大飛行場の確保を求めた。
 山東半島に向かっていた第14師団は、青島の全日本人居留民が日本に帰国した為に、上海に向かった。
 蒋介石は、中国共産党紅軍を国民党軍第八路軍編入した。
 8月23日午前2時45分 松井石根大将の率いる上海派遣軍(約4万人)は、に上海郊外の呉淞(ウーソン)に上陸した。
 蒋介石「緒戦の一週目、全力で上海の敵軍を消滅する事ができなかった」
 中国軍は、上海の日本居住区から上陸した日本軍への攻撃に主力を振り向けた。
 だが。日本軍が上陸した沿岸は、ドイツ軍事顧問団の指導で難攻不落の防衛陣地が建設されていた。
 日本軍は、旅順要塞攻防戦以上の、地獄の陣地攻防戦に突入した。
 8月25日 日本海軍は、アメリカなどの中立国からの中国軍への武器や軍需品の輸送を遮断する為に中国沿岸を封鎖した。
 アメリカの武器商人は、日本軍の監視網を避けらがら武器弾薬を抗日中国軍に輸送した。
 中国軍の武器弾薬は、イギリス・アメリカ・ドイツ・ソ連・イタリア・スイスなどから補充されていたと言われている。
 日本軍に甚大な被害を与えたのは、ドイツ製兵器であった。
 アメリカやイギリスのユダヤ系国際資本は、戦争ではなく単なる武力紛争である以上、日本軍の封鎖は国際法に違反するとして抗議した。
 8月27日 ニューヨーク・ジャーナル紙上海特派員の香港発電「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐ為に、武力手段または他の抑止策をとる事について、何らかの国際的な合意が必要であるという事は、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている」
 「中国の検閲官は、発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。そして場合によっては、外電のニュースそのものを変えて仕舞いさえもした。その目的は、現地の外国人達があたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下されたものかもしれない、と疑っているかの様に見せかける為だったのである。だが、しかし、これらは明らかに真実ではない」
 8月30日 軍令部第三課福留繁大佐は、参謀本部第三課武藤章大佐に、日本人居住区に猛攻を加えている中国軍を撃退する為に増派を要請した。
 中国軍機は、上海港近くでアメリカ客船を誤爆した。
 ニューヨーク・ジャーナル紙「日本軍は敵の挑発にも関わらず、最大限に抑制した態度をとった」
 蒋介石は、国際連盟に対して、日本の軍事行動は不戦条約と9ヵ国条約に違反していると告発し、適切な制裁を講じるように提訴した。 
 8月31日 上海派遣軍は、参謀本部に、中国軍陣地の抵抗で甚大な被害を受け犠牲者が増えた為に、中国軍の重層な防衛陣を撃破するには最小限五個師団の増援が必要であると要請した。
 第三艦隊も、軍令部に対して、日本人居留民は依然として安全が確保されていないとしてさらなる増派を要請した。
 ニューヨーク・タイムズ紙「中国が一方的に攻撃
 上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである」




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