🎹28:─7─ドイツの保守層、国防軍、軍需産業は、ヒトラーの許可を受け、抗日軍に軍需支援を続けた。1937年12月21日~No.168No.169No.170 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国際世論は、ファシスト中国に同情し、軍国日本を嫌っていた。
 国際報道機関は、ファシスト中国を応援し、軍国日本を激しく批判していた。
 軍国日本が行ったとされた非人道的虐殺記事や残虐写真が、世界中を駆け巡っていた。
 軍国日本は、孤立していた。
 ファシスト中国は善であり、軍国日本は悪であった。
   ・   ・   ・   
 ファルケンハウゼン中将は、駐華大使オスカー・トラウトマンに秘密報告書を提出した。
 「ドイツの国防大臣が日本軍の勝利を信じる様な事があってはならない」
 ヒトラーは、ブロンベルク防大臣とノイラート外相に対して、軍国日本との友好を維持しながら、ファシスト中国への軍事支援を継続する様に指示した。
 「基本的には日本との協力関係は維持するが、この日中紛争ではドイツは中立を保たねばならない。しかし、中国向け輸出は、うまくカモフラージュできる限り継続する」
   ・   ・   ・   
 中立国アメリカは、ファシスト中国への軍需物資輸出と正規兵派遣というヒト・モノ・カネの軍事支援を隠す為に、軍国日本を悪役に仕立て上げるべく悪意に満ちた反日プロパガンダを行った。
 「日本軍は南京に留まり、6週間にわたって20万人を虐殺した」
 国際社会は、少数兵力と物資不足の日本軍は激戦の最中にあって1日7,000人以上を虐殺していた確信している。
 つまり、日本軍は数倍の敵を乏しい物資で撃退する世界最強の軍隊であると。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、アメリカやナチス・ドイツから送られてくる大量の軍需物資をファシスト中国に送り届けていた。
   ・   ・   ・   
 フランス、オランダ、ファシスト・イタリアなどの諸外国も、ファシスト中国に同情的であり、反日的として軍国日本を非難していた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、世界の憎悪を一身に浴びながら、孤立無援で一人孤独に戦っていた。、、
   ・   ・   ・   
 各地の中国軍は、南京が陥落する報復として反日派市民や学生と暴動化して、日本系商店や工場、日本人住宅を襲撃して掠奪と放火、破壊を行った。
   ・   ・   ・   
 12月21日 日本側は、ナチス・ドイツが仲介する停戦交渉に対し、日本軍の優勢をもとにして厳しい条件を提示した。
 12月22日 日本側は、ドイツ軍が中国軍を支援している事実を中国人捕虜の証言や押収したドイツ製武器で掴むや、トラウトマン工作の信用性を疑い、日本軍の犠牲者が増大するにつれて提示された条件をそのまま受け入れる事は、国家の威信に関わるとして硬化した。
 だが、兵士を率いて戦場に赴かねばならない軍人にとって、無益な戦闘は避けたかった。
 広田外相は、ディルクセン大使に新たな条件を提示したが、内容は軍事的勝利を背景として満州国の正式承認や賠償金要求を含む厳しいものとなっていた。
 ディルクセン大使は、降伏条件に等しい内容の為に成立は困難であとした。
 やむなく、回答期限を来年の1月5〜6日まで延長する提案を承諾した。
 広田外相の手元に、ポーランド外務省からソ連コミンテルンに関する極秘情報が届いた。
 ソ連は日中戦が中国・アジアの共産主義化の為に有利な状況を生むと期待している事。
 ソ連軍は軍備強化の途上にあって軍事介入できないが、ナチス・ドイツに劣らないだけの軍人グループと軍需品を支援する事を約束している事、などなど。
 日本は、ナチス・ドイツに次いでソ連に対しても対中軍事支援物資輸送を中止する様に抗議した、ソ連は両国は宣戦布告をしていない以上は戦時国際法に規定された戦争状態にないとして拒否した。
 新聞各紙は、中ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍がスペイン共和国軍同様に抗日中国にも軍事援助を行って戦争を泥沼化させ様としていると報道し、共産主義勢力への恐怖感を煽った。
 日本は、スペイン内戦を研究し、教訓として国家の舵取りを行った。
 ラーベ「拝啓。私どもは貴下の砲撃隊が安全地区を攻撃されなかったという美学に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡を取り得る様になりました事に対して感謝の意を表するものであります」
  ・   ・   ・   
 12月22日 昭和天皇のご臨席による御前会議で、中国軍との戦闘を停止し、中国との国交調整する事が決定した。
 軍部は、軍隊を対ソ戦に備えて満州に配置転換するべく講和に賛成し、部隊を裂くような領土要求には猛反対であった。
 近衛談話「帝国が今次事変終局の目的として期待する所は、決して支那に対して領土の割譲を求めるいに非ず、また戦費の賠償を要求するものにも非ず、1に東亜永久の平和を確立すべき新秩序の建設を希求するもの」
 ドナルド「蒋介石の政治権力の保全という観点からは、受け入れ可能な有利な提案だった。しかし、彼は戦争で日本に勝つ決意をしていた。日本は領土要求はしていなかった」
 だが。蒋介石は、アメリカ、ソ連、イギリスなどが抗日戦に全面支援してくれる事に自信を持ち、日本を二度と戦争できないまでに物的心的にダメージを与える強い決意を抱いていた。
 それ故に、日本が行った1938年から40年までお12回にわたる和平提案を全て拒絶した。
 軍国日本は対ソ戦の為に戦闘締結を望んだが、中国は軍需物資を得る為に戦闘拡大を望んでいた。
 蒋介石の顧問をしていたドナルドは、蒋介石政権内部での救い難い腐敗に絶望していた。 ニューヨーク・タイムズ紙は、45年2月25日付けの新聞で、人民の苦境を顧みる事なく腐敗堕落した国民党政権を非難するドナルドの会見内容を公表した。

 12月28日 南京は大寒気に見舞われ、穴が掘れない程に大雪となった。
 12月31日 日本軍は、南京市内の治安を回復させる為に、電気や水道の復旧に全力を尽くした。
   ・   ・   ・   
 12月末 トラウトマン大使は、和平実現の為に、ファルケンハウゼン将軍に蒋介石説得を依頼した。
 蒋介石は、人民が納得しないとして返答を留保した。
 イギリスの帝国防衛委員会は、関係改善が進むナチス・ドイツに対する経済圧力準備より先に、中国にあるイギリスの利権を侵害する危険性の高い日本に対する経済圧力を計画し速やかに発動すべきだと決定した。
 中国に巨大な権益を持つイギリスは、アジアの解放の為に黄色人種の日本と中国が同盟する事を警戒し、両国が敵対して戦争し合う事を望んでいた。
 日中戦争が長期化して両国が疲弊し戦争が不可能となった時に、「善意の仲介者」として乗り出すという、狡猾な外交方針をとっていた。
 イギリスは、日本に同情を見せながら、中国に大量の戦略物資を送っていた。
 アメリカは、日本との貿易を後退させる事を覚悟で、対日経済制裁を断行した。
   ・   ・   ・   
 宮田俊行「陥落後、南京は整然としていた
 ……
 治安回復と食糧支援
 …………
 治安回復とともに、難民の食糧問題が急がれた。
 南京の北西、揚子江岸に下関(シャーカン)という所がある。『再現南京戦』が引用する『長谷川清伝』によると、下関東の難民収容所で6、7千人が食糧不足に陥っていた。
 砲艦『比良』の艦長は上海に急行し、巡洋艦『出雲』にいる長谷川清司令長官に難民の窮状を訴えた。長谷川は救援を快諾し、比良は救恤(きゅうじゅつ)品を満載して戻り、元旦の正午近くに埠頭に横付けして陸揚げ、難民に配分した。翌2日に同館長が訪ねてみると、もう大部分はわが家に戻って街はきれいになっていた。爆竹が鳴らされ、代表者が正装して整列し、ひざまずいて三拝九拝したという。」(林芙美子は「南京大虐殺」を見たか)





   ・   ・   ・