🎹32:─1─スターリンの大粛清。ノモンハン事件。アメリカ陸軍航空部隊は、民間ボランティア部隊を派遣して日中戦争に参戦した。1939年~No.207No.208No.209  @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 チャーチル「戦い取るべくもの、それが平和だ」
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 イギリスは、国民党に経済軍事支援を続けていたが、権益を守る為に国民党による中国統一を好まなかった。
 中国の権益を維持する為に、中国共産党と密かに手を組み、中国共産党のスパイを組んで国民党内の反蒋介石派に反乱をそそのかしていた。
 イギリスの軍需産業と国際金融資本は、ファシスト中国に大量の軍需物資を輸出していた。
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 「その昔、モンゴルの大平原に暮らしていて、東に行ったのが日本人、西に来たのがハンガリー人。私達は兄弟です」
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 辻政信編『これだけ読めば戦は勝てる』「だいたい支那人民族意識もなく、カネ儲け以外に道楽がない。従って東洋民族としての自覚を促したり、利益の伴わない事に彼等の協力を期待したりするのは極めて難しい」
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 ナチス・ドイツカール・シュミットは、アメリカのモンロー主義中南米に於ける経済的な理由であったが、日本のアジア・モンロー主義は軍事的なものであるという論文を発表した。そして、アメリカの主張は日本の主張に比べて相当に怪しいと。
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 中立国のアメリカ陸軍航空部隊は、ルーズベルト大統領の命令に為たがって、日本軍航空部隊と戦うファシスト中国空軍部隊を強化する為に、正規パイロットを退役民間パイロットとしてボランティア部隊を組織して派遣した。
 が、心血を注いで中国軍将兵を育成したが失敗し、大半の中国人パーロットが操縦するアメリカ製戦闘機は日本軍機に撃墜された。
 吉田一彦「夜間訓練から帰投した11機の内1番機は滑走路の先の水田に飛び込み、2番機は宙返りして炎上、4番機はその消火中の消防車に衝突した。結局5機が着陸に失敗して4人が死んだ」(『シェンノートとフライングタイガー』)
 何とか離着陸ができても、日本軍機との激しい空中戦には耐えられる中国人パイロットはそれ程いなかった。
 中国人パーロットによる空中戦が不可能である以上、アメリカ人パーロットが代わって戦うしかなかった。
 中国戦線における空中戦は、正規の日本人パイロットが操縦する国産日本軍機とアメリ義勇兵パイロットが操縦するアメリカ製中国軍機及びソ連パイロットが操縦するソ連製中国軍機で行われいた。
 軍国日本は、知らず知らずのうちに、アメリカやソ連と戦う様に誘導されていた。
 アメリカの軍産複合体と国際金融資本は、大量の武器弾薬を政府の資金を得てファシスト中国に供給していた。
 アメリカの軍需産業は、日中戦争で大儲けし、大量の雇用を生み、世界大恐慌で疲弊していたアメリカ経済の再生の原動力となった。
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 1939年 イギリスの公文書「次なる戦争。もしも日本を巻き込む事ができれば、当然のことながら、我が国の立場は非常に有利になる。それができればアメリカを巻き込めるだろうし、恐らくさしたる努力も不要であろう。いずれにせよ、この事が達成されればそれは、我が国のプロパガンダ担当者の当然かつ明確な努力の結果である」
 ルーズベルトは、アインシュタインの提言を受けて、約6,000ドルの予算で「ウラニウムに関する諮問委員会」を設置した。だが、原爆開発にはそれほどの興味は無かった。
 アメリカのSF小説家フレッド・オルホフは、リバティ誌に核兵器を使用した近未来戦争小説を連載した。
 ライル・ケイン「日本との戦争が始まったら、最初にするべき事は奴らを一人残らず強制収容する事である」
 在郷軍人会は、反日運動の主力メンバーとして、人種差別的運動を推進していた。
 ソ連軍は、ゾルゲ・尾崎情報から、軍国日本の武力侵略が中国から東南アジアに拡大すれば、アメリカは西欧勢力を糾合して日本軍の侵略を阻止する為に戦争に突入すると判断していた。
 抗日中国は、日本海軍に中国沿岸を海上封鎖された為に、イギリスやアメリカの援蒋軍需物資を中立地帯・北部仏印のハイフォン港に陸揚して鉄道で昆明重慶に輸送していた。
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 ルーズベルトは、日本との戦争が始まるや、属州ハワイの日系市民が上陸してきた日本軍に内通する危険があるとして、その監視の為にハワイにFBI支部開設を命じた。
 アメリ財務省は、蒋介石が暴力的に人民から強奪した銀1億8,400万ドルを購入した。
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 スターリンが、ファシスト中国と相互不可侵条約を結び、軍事顧問団と人民義勇軍(正規軍)を派遣し大量の武器弾薬を供与したのは、ファシスト中国に同情し、ファシスト中国が勝利する事を望んだからではなく、日本軍を満州から遠ざる為であった。
 そして、中国共産党が地盤を築き共産主義革命軍を強化するまで、軍国日本もしくはファシスト中国の何れかが勝利する事なく泥沼の戦いを続けさせる事であった。
 スターリンの狙いは、日露戦争の復讐をして、天皇制度を打倒し、日本を共産主義化して衛星国に組み込む事であった。
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 蒋介石は、ソ連軍が軍事介入してこない事が分かるや、ドイツ軍事顧問団の提言に従ってアメリカを日本との戦争に引き込む戦略に切り替えた。
 ドイツの軍需産業と国際金融資本は、依然として、武器弾薬をイギリスの輸送支援を得てファシスト中国に供給していた。
 クリストファー・ソーン「もし『ファシスト』という言葉を1930年代の非ヨーロッパ世界の中で使うとすれば、中国の国民党政権ほどそれに相応しい政権はなかった」(『太平洋戦争とは何だったのか』)
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 1月 駐英大使リッベントロップは、「総統の為の覚書」を起草してヒトラーに送った。
 ナチス・ドイツの外交は、反ソではな反英仏に転換すべきで、英仏に備えて日独伊三国同盟を形成すべきであると提案した。
 軍国日本は、あくまでも対ソ目的での反共産主義同盟を目指す為に反英仏的色彩を薄めて交渉に参加した。
 陸軍は。ファシスト中国を軍事支援しているナチス・ドイツを中国戦線から引き離す為に、三国同盟案に賛成した。
 「敵の味方を味方に付ける」という離間の策である。
 皇室関係者や海軍など親米英派は、反英仏同盟になるとるとして猛反対した。
 1月17日 ニューヨークで、日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会が正式に設立された。名誉会長は、スティムソンが就任した。ヘレン・ケラー女史やキリスト教関係者も、日本軍の侵略から中国を救う為に会に参加した。アメリ共産党は、組織を裏で操作する為に多くのソ連のスパイや共産主義シンパを幹部職に送り込んだ。
 FBIは、ソ連コミンテルンの陰謀に警戒し、アメリ共産党の活動への監視を強化した。
 1月31日 ルーズベルトは、多くの上院議員を前にして、軍国日本はナチス・ドイツと同じ野蛮な侵略主義政策を推し進め、ナチス・ドイツの実質的軍事同盟国として東アジアから世界に脅威を及ぼす存在である、と声高に非難した。
 アメリカ政府は、軍国日本の侵略に徹底抗戦している蒋介石政権に2,500万ドルの巨額支援を決定した。
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 2月10日 日本軍は、抗日中国軍を包囲する一環として海南島に上陸した。
 アメリカ政府と軍首脳は、日本が東南アジアへの進出の計画していると警戒し、対日経済制裁を発動すべきであると考え始めた。
 2月15日 科学雑誌フィジカル・レビュー」は、核分裂原子爆弾についての可能性を語った物理学者エンリコ・フェルミの話しを掲載した。
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 3月10日 第18回共産党大会。スターリンは、世界を共産主義化する為に資本主義間での戦争を煽る事こそが正しい選択でり、反対勢力の謀略で戦争に巻き込まれるべきではないと警告した。
 「慎重を旨とせよ。そして、他人に火中の栗を拾わせる事を常とする戦争挑発者が、我が国を紛争に引っ張り込む事を許してはならない」
 3月15日 戦争か平和か。
 国家の究極の選択として、破滅的な戦争を選ぶか?国民の命を戦争から守る為に平和を選ぶか?
 ヒトラーは、総統官邸を訪れたチェコスロバキア大統領ハーハに対して、ドイツ軍の侵攻命令を下したと恫喝して、ドイツとの併合要請文への署名を強要した。
 ハーハ大統領は、戦争で祖国を焦土としない為に併合宣言文に署名した。
 平和の為に、チェコスロバキア共和国は自主的に消滅した。
 世界は、戦争を避ける為に祖国を消し去ったチェコスロバキア共和国の決断に驚いた。
 イギリスは、本国防衛の為にアジア各地に駐屯している部隊の一部を引き上げさせ、その穴埋めにアメリカを中国支援に誘い出す為の謀略を強化した。
 3月20日 大日本回教協会は、『東半球に於ける防共鉄壁構成と回教徒』を発表した。
 「回教徒の伝統的反スラブ、反ソビエト的思想をもって、ソ連の東亜赤化通路に居住する蒙古族及び支那西北地方の回教徒を、東亜防共陣営に団結せしめ、支那本部及び満州に対する赤化策動地帯を遮断する。……防共の盟邦満州帝国、蒙古防共自治国、西北防共回教自治国等これらを貫く東亜防共連盟の結成、これを更に延長し中部及び西部アジアの回教徒及び回教国集団と連結する」
 イスラムは、親日派として、反宗教無神論マルクス主義者から信仰を守る為に軍国日本との共闘を望んでいた。 
 3月21日 南昌攻略作戦。日本軍は、修水河渡河戦で暴動鎮圧用の「くしゃみガス(あか)」や「催涙ガス(みどり)」を使用したが、非人道的な毒ガスの「イペリット(きい剤)」を使用しなかった。
 日本軍は、中国戦線で化学兵器を56例使ったとされるが、そのうち何例が致死性のイペリットなのか不明である。
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 春 スターリンは、ナチス・ドイツがイギリスやフランスと戦争しやすい様に誘導するべく、ポーランド廻廊とダンチヒグダニスク)自由市でヒトラーの主張に理解を示した。
 ヒトラーは、地元のドイツ人の強い要望を受け、ドイツ人居住地域のドイツ編入ポーランド政府に要求した。
 ポーランドは、イギリスやフランスの支持表明を受けて、ナチス・ドイツの領土割譲要求を拒絶した。
 ポーランド回路にしろダンチヒ自由市は、歴史的にはドイツ領であった。
 ヒトラーは、領土回復の為に宿敵ソ連との連携を希望した。
 スターリンは、ポーランド領とフィンランド領への領土拡大と新たな共産主義圏獲得の為にヒトラーとの関係強化を決断したが、同時にイギリスやフランスと敵対する事を避ける為にナチス・ドイツに知られない様に秘密工作を行った。
 ソ連とイギリス・フランスを取り持ったのが、アメリカに潜むソ連のスパイ達であった。
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 4月 日本政府は、占有権を主張し、フランスの領有宣言を無効として、日本の領土に加えた。
 フランスは、第一発見者である日本が南沙諸島の調査を続けて領有を宣言しないので、1933年に領有を宣言していた。
 サンフランシスコ条約締結まで、南沙諸島新南群島として日本領土であった。
 中国は、一度も南沙諸島を領土とした事がなく、主張をした事もない。
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 5月 セント・ルイス号事件。アメリカは、ユダヤ人難民を乗船させたセント・ルイス号、オルディナ号、クワンッア号、フランダース号などの客船の入港を拒否した。
 入港を拒否された客船は、何れの国からも閉め出されて出港地のナチス・ドイツに戻った。
 乗船していたユダヤ人難民の多くが、ホロコーストの犠牲となった。
 人種差別主義者のアメリカ人は、ナチスから避難してくるユダヤ人難民を受けいる事に猛反対していた。
 アメリカ国内で、ユダヤ人や黒人に対するリンチ殺人や強姦や暴行事件が多発していたが、犯人が白人と分かるや地元警察は見て見ぬ振りをした。
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 赤の大粛清。スターリンは、1,000万人近くの反対派を反革命分子として処刑した。
 共産主義圏では、独裁者への個人崇拝を拒否する者は反共産主義者として殺された。
 共産主義者は、血に飢えていた。
 日本のマルクス主義者は、スターリンレーニン同様に尊敬し、人民革命を行う為に天皇制度を廃止しようとしていた。
 スターリン「私の最大の楽しみは犠牲者を選び、緻密に計画して、容赦ない復讐を果たし、それからベッドに行く事だ。この世でこれにまさる快感はない」
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 ソ連のT型戦車の原型はアメリカ製であった。
 アメリカ人技術者ジョン・ウォルター・クリスティーは、快走戦車T3(M1931)を完成させたが、アメリカ陸軍が採用しなかった為にソ連軍に2輌を売却した。
 ソ連軍は、アメリカやドイツ等の技術でT3快走戦車を改良して名戦車T34を完成させた。
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 ソ連軍は、シベリヤ鉄道は利用して大量の兵士・武器弾薬・軍需物資を戦場に送り続けていた。
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 日本にとって、日露戦争以来、ロシア・ソ連の鉄道網は国家安全保障の重大な脅威であった。
 日本軍が満州にこだわったのは、極東シベリヤの大動脈であるシベリヤ鉄道を抑える為であった。
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 ソ連極東軍は、満ソ国境の全力部隊に対して臨戦状態に入る事を命じた。
 5月11日〜9月16日 ノモンハン事件で、ソ連軍は平原に轟く戦車のキャタピラの音を隠す為に、大音量でロシア民謡を流した。
 中国は、ソ連に対して対日戦への参戦を要請した。
 動員兵力。
 日本軍 5万8,925人。火砲 70門。
 ソ連軍 6万9,101人。火砲 542門。戦車 438輛。装甲車 385輛。
 外モンゴル軍 8,575人。
 損害  | 戦死   | 負傷     | 病死   | 行方不明 |捕虜
・日本軍 |7,696人|  8,647人|2,350人|1,021人|不明
ソ連軍 |9,703人|1万5,952人|  701人|1,143人|94人
・日本側興安軍   |死傷者2,895人
ソ連外モンゴル軍|死傷者  566人
 部隊としての被害は、日本軍の方が圧倒的に多く戦闘不能に陥っていた。
 継戦不能に陥った事において、日本軍は敗北していた。
 ソ連軍の捕虜となった日本人兵士の多くは、「捕虜の汚名」を恥じて、帰国せずソ連に移住したといわれている。
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 関東軍参謀辻政信少佐は、強気一辺倒で、東京の参謀本部の意向を無視し関東軍を引きずり国境紛争を一気に拡大しようとした。
 モスクワの日本大使館駐在陸軍武官・土居明夫大佐は、関東軍司令部に急行し作戦会議に出席して「ソ連は国境に相当の兵力を輸送している。戦車はものすごい数がどんどん東に向かっている」との情報をもたらした。
 辻少佐は、土居大佐を別室に呼びつけ、「あんたがあんな恐怖症のような報告を東京でしたら、若い将校が『刺し殺す』と言っている」と脅した。
 事件後。現地の師団長は、満州に来た陸軍省人事担当課長に辻少佐の更迭を訴えた。
 陸軍省人事局長も、辻少佐の予備役に編入させる事を指示した。
 人事担当課長は、参謀本部と相談し、辻少佐を現役に残す事として、ほとぼりが冷めるまで一時左遷させた。
 服部卓四郎と辻政信のコンビを陸軍中枢に残した事が、日米開戦の原動力となり、日本に悲劇をもたらした。
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 日本陸軍は、独自技術で開発した最新鋭の九七式中戦車(装甲約25ミリ)を4台投入した。
 ソ連軍は、主力軽戦車BT5(装甲約22ミリ)を約500台投入した。
 九七式中戦車の被害は、連隊長吉丸清武大佐がのる戦車一台だけであった。
 九七式中戦車は、白兵戦用に、歩兵部隊支援として敵歩兵部隊への攻撃とトーチカ制圧の為に開発された支援兵器であって、大陸に於ける戦車戦用の主兵器ではなかった。
 日本陸軍戦車部隊と砲兵隊は、ソ連軍機械化部隊に反撃して約8割を破壊した。
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 戦車の被害、日本陸軍戦車隊‥29輛、ソ連軍機械化部隊‥800輛。
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 日本陸軍航空部隊は、優秀な操縦士と九七式戦闘機を得て、ソ連空軍を圧倒した。
 ジューコフは、スペイン内戦で戦った優れたパイロットにIー16戦闘機を与えて投入した。
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 航空機の被害
 日本陸軍航空隊‥ 179機(未帰還・77機。大破・102機)。
 ソ連軍戦闘機‥1,549機(撃墜・1,340機。高射砲・180機。戦車・26機。歩兵攻撃・3機)。
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 欧米列強は、日本を中国市場から排除する為に、日ソ全面戦争に発展する事を望んだ。
 ナチス・ドイツは、ソ連に対して日ソ紛争の早期解決に助力する事を申し込んだ。
 日本軍は、ノモンハンで大敗したとされている。
 ソ連軍は、満州深く侵略せず撤退した。
 山川出版社ノモンハン事件では、日本の関東軍ソ連に大敗したことにより、陸軍当局は大きな衝撃を受けた」(『詳説 日本史研究』)
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 陸軍航空総監の東條英機中将は、最新鋭戦闘機「隼」の開発を許可した。
 陸軍は、戦車ではなく航空機の開発に力を入れた。
 対戦車兵器として、昭和8年に開発した93式火炎放射器と一部改良して昭和15年に正式採用された100式火炎放射器の2種類を制定した。
 太平洋戦争では、工兵隊の一部が装備して敵陣地攻略の補助兵器とされた。
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 ソ連軍の損失率は34.6%。
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 ウィキペディア
 人的損失
 事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍は出動した58,925人のうち損失は次のようになっている。
 戦死:7,696人
 戦傷:8,647人
 生死不明:1,021人(566人が捕虜うち160人が戦後に捕虜交換で生還)
 合計:17,364人。また同データにつき、17,405人とする見解や戦病2,350人を加えて19,768人とする見解もある。
 なかでもノモンハンで終始戦い続けた第23師団の損失は極めて大きく、日本軍死傷者の大半を占めることとなった。
 ※戦病者1,340人を含めた戦死傷病率は76%になる。
 日本軍の損失については、ノモンハン戦後のかなり早い時期に情報開示されていたが、太平洋戦争後に研究者間で日本軍惨敗という評価が有力になると、日本軍の損害も過大に見積もられるようになり、1966年10月3日付朝日新聞での、靖国神社で行われた「ノモンハン事件戦没者慰霊祭」に関する記事で「ノモンハン事件戦没者一万八千余人」との報道がなされたことで、日本軍は過少に損害を公表していると主張するものもあったが、この記事は死傷者数約18,000人と戦没者数と混同しており、同じ朝日新聞においても、2006年7月17日付の記事では戦死者は約8,000人と報じられている。また、靖国神社が18,000人の戦没者を祭っていると誤認されていることもあるが、靖国神社自体の慰霊祭文でのノモンハン戦没者数は7,720人となっており、明らかな事実誤認であった。
 ソ連側資料での日本軍損失は下記の通りである。
 1939年11月15日のソ連第1軍集団参謀部が労農赤軍参謀総長シャポーシニコフに提出した「1939年ハルハ河地区作戦に関する報告書」によれば、7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、負傷者2万5,900名)に達した。
 1946年のシーシキン大佐の本では、日満軍の損失の総計は5万2,000から5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述した。
 1993年のクリヴォーシェフ監修本でも日本の戦死者数は約2万5,000人とした。他方、ソ連軍中央国家文書館 (ЦГАСА) の文書によれば、戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった。
 ソ連軍中央国家文書館所蔵のソ連軍資料 では「1939年10月3日に、(日本)陸軍当局は戦死傷者数が1万8,000人であることを認めた」としながらも、日本陸軍当局(正確には第6軍軍医部)発表より過大な戦果報告を行っている。
 また、ロシア国防省公史料館蔵資料によれば、日本満州軍の戦死者:18,155名、負傷者・行方不明:30,534名で、合計48,649人であった。
 戦車第3連隊と第4連隊の1939年7月2日からおおむね7月7日までの損失。
 日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」「日本の戦車はピアノ線にひっかかって全滅した」「一戦に敗れ、引き下がった」「戦場から追い返された」などの辛辣な声がかけられたという。ノモンハンで一緒に戦った歩兵も戦車隊に対しては辛辣であり「戦車団が引き下がったのは、戦況にやまが見えたからですか?」という質問に対してある歩兵連隊長は「それはね、本当に役に立たなかったからだ。これを言うと戦車隊の者が怒り物議をかもすから体裁よく処理した。まるで豆腐だった・・・」と厳しい回答をしている。
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 ソ連は従来、イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定を大きく膨らませる一方で、自軍の人的損害を故意に小さく見せようとしてきた[507]。冷戦下で、ジューコフの報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編集した『大祖国戦争史(1941?1945)』といった、ソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデータが広く知れ渡り、ソ連側の一方的勝利が定説化する大きな要因ともなった。
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 5月 スターリンは、ナチス・ドイツとの提携の為にイギリス人女性を妻に持つマクシム・リトヴィノフ外相(ユダヤ人)を解任して、モロトフ首相を外相を兼務させた。
 ソ連ナチス・ドイツは、秘かに協力して、軍国日本と戦うファシスト中国への軍事支援を強化し、大量の軍需物資を送り続けた。
 孤立無援の日本軍は、ナチス・ドイツからの大量の武器弾薬の補給を受けた中国軍・ソ連義勇隊の連合軍と死闘を繰り広げていた。
 5月11日 親米派昭和天皇は、三国同盟には反対であった。
 弟宮の秩父宮陸軍大佐は、三国同盟推進派であった。
 昭和天皇秩父宮は、激しく喧嘩した。
 5月22日 ヒトラーは、反日派として日本を信用していなかっただけに、日本抜きでファシスト・イタリアと反英仏色の強い独伊鉄鋼同盟を締結した。
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 6月 沖縄県出身の漢那憲和内務政務次官は、沖縄県民の5割以上が標準語ではなく琉球語しか話せない事を問題としていた。
 日本人から日本人と認められず差別されるのは標準語が話せないからである以上、標準語を収得して自由に話すようになるべきであると。
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 6月7日 中支派遣軍は、上海の開発にアメリカ・ユダヤ資本の協力が不可欠とし、より多くのユダヤ人難民を吸収する為に上海とは別の場所にユダヤ人居住地区を築くよう提案にした。
 軍部は、浦東、海南島、祟明島などをユダヤ人居住区の候補地とした。
 海軍は、海南島を候補地から外すように要請した。
 陸軍と海軍は、上海新都市計画には第三国の容喙を許さず、アメリカ・ユダヤ資本の投資は欠かせないとして、ユダヤ人難民を利用するにより多くを保護する事に同意した。
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中国的天空〈上〉―沈黙の航空戦史

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