🎺02:─3─昭和天皇の三国同盟反対。独立派ベトナム人と日本軍の北部仏印進駐。内閣機密費と陸海軍の上納金。1940年7月~No.8No.9No.10 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 歴代内閣は、内閣機密費年間10万円以外に、陸軍と海軍からそれぞれ年間500万円ずつ上納させていた。
 陸海軍からの上納金は第1次近衛内閣頃から始まり、陸海軍は上納金を議会のチェックを受けない臨時軍事費特別会計に組み込んで会計処理した。
 内閣書記官は、陸海軍から受理した上納金1,000万円を議会工作として、日和見的議員への接待費と院外団及び右翼への賛助金に使っていた。
 7月22日 近衛文麿は、第2次近衛内閣を組閣し、第1次近衛内閣時の書記官長を務めた側近の風見章を法務相に起用した。
 風見章は、内閣書記官長の富田健治から上納金1,000万円を受け取り大政翼賛会結成資金にあてた。
 10月12日 大政翼賛会が結成され、各既成政党は自主解党して参加し、明治憲法発布から続いた政党政治が終わった。
 総裁に近衛文麿首相、事務総長に有馬頼寧(よりやす)伯爵、風見章法相は12月に法相を辞任して総務となった。
 風見章は、内閣書記官長ではなかったが、陸海軍からの上納金の多くを受け取っていた。
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 2015年3月1日 産経ニュース「【戦後70年】マレー作戦「日本、完璧な諜報」 英秘密文書「最悪の降伏」分析
 英国防諜機関シンガポール支部の1940年7月の報告書の抜粋 (英国立公文書館所蔵)
 第二次大戦で「東洋のジブラルタル」といわれたシンガポールが日本軍によって陥落して73年。チャーチル英首相が「英国史上最悪の降伏」と嘆いた作戦の背景に、「第五列」など「完璧な諜報活動」があったと、英国側が分析、評価していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。事前に地理や軍事力の情報を収集し、植民地支配から現地人を独立させるため、支援して協力させていた。戦前の日本のインテリジェンス(諜報)能力が高かったことが改めて浮き彫りとなった。
 「マレーにおける日本のインテリジェンス活動」(KV3/426)によると、英国の防諜機関シンガポール支部は、日本が情報収集活動を本格化させた1940年7月に報告書で「日本はマレー半島、とりわけシンガポールで完璧な諜報活動を展開している。精巧な組織が存在しているとは聞かないが、国を挙げてかなり発達した諜報組織を持っている」と警戒していた。
 さらに41年4月、「日本の諜報活動は、スパイとして生まれてきたような日本人全てが関わり、彼らがこの国にいる限り続くだろう」と在留邦人が総出で情報収集していることを指摘。「あらゆる日本人を捕虜にし、国外追放する方法を検討すべきだ」と結論づけた。
 実際に同年12月8日に開戦すると、在留邦人約3千人がインドのプラナキラ収容所に抑留された。
 「英国史上最悪の降伏」について、42年6月2日付の報告書で陥落時のシンガポール防諜機関の責任者は、「少なくとも6人の内通者が日本の侵攻を手引きした」と指摘、さらに同7月23日付で「MI6」高官がMI5海外担当責任者にあてた書簡で、「ここ数年日本は想定を超えて驚くべき『第五列』活動を毎日のように行った」と指摘して現地人を味方につけた「第五列」を「敗因」とした。
 そして、マレーでは、全てのマレー人が積極的か潜在的に「第五列」に参加しているとの見方が広がるほど、日本が活動を活発化させたにもかかわらず、「英国側が重大に受け止めず官僚的態度に終始し、英将校らが不用意に重要事項を公然にしたことが悔やまれる」(42年7月30日、MI5幹部報告書)としている。
 日本の「第五列」活動が成功したことに関連して、「アジアを通じて日本の仏教の僧侶たちが頻繁に情報収集しながら、反キリスト教汎アジア主義を訴えた」(42年6月6日報告書)と、欧米白人の植民地支配からの解放を訴えたことを記している。 (編集委員 岡部伸)」
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 7月 イゴール・クルチャトフ博士は、科学雑誌アメリカン・フィジカルサイエンス・レビュー」で「日本の都市を吹き飛ばすような爆弾が出来る」と述べ、原爆の破壊力は10キロ四方を全滅させ全ての人の命を奪うと発表した。
 アメリカは、日本への航空機用ガソリンや鉄屑などの軍需物資の輸出禁止措置を踏み切った。
 7月2日 ルーズベルトは、議会を通過した国家防衛法に署名した。
 7月3日 ルーズベルトは、ホワイト・ハウスを訪れた宋子文に、日本向けの武器、機械、石油、鉄屑などを輸出禁止する反日条項を加えていると説明した。
 7月4日 米内光政首相は、畑俊六陸相が単独辞職し、陸軍が新たな陸相を出さなかった為にやむなく総辞職した。
 7月6日 社会大衆党は、解党して近衛文麿の新体制運動に合流を決めた。
 三輪寿壮書記長「内外の時局に鑑み、政治の新体制を待望するは国内一致の輿論なり。日本民族の滅亡またこれが成否にかかる。然しながら政治の新体制は自らにして成るものに非ず。……ここに全国100万の同志を代表し、厳粛に解党を宣言す。今日を以て社会大衆党は解くかれたり。……」
 7月10日 イギリス本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)の開始。
 7月16日 ドイツ空軍は、イギリス本土上陸作戦(シー・ライオン作戦,あしか作戦)を発動する前段階として、イギリス本土を空爆するバトル・オブ・ブリテンを開始した。
 無敵と言われたドイツ空軍は、イギリス空軍の鉄壁の守りで大惨敗した。
 7月18日 ポーランドユダヤ人達は、日本の通過ビザを貰う為に、杉原千畝が領事をしているリトアニアの日本領事館に殺到し始めていた。
 杉原千畝は、東京の日本大使館に電報を打って指示を仰いだ。
 7月20日 アメリカ議会は、アメリカ艦隊を大西洋と太平洋に二分配置し、海軍力増強の為に40億ドルを支出する法案を可決した。
 造船業界は、艦艇建造の為にフル操業に入った。
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 7月22日 第二次近衛文麿内閣。松岡洋右外相は、ルーズベルトに書簡を送った。
 「貴方が抱いておられる世界平和維持に関する終生の希望と関心を、私もまた同様に分かち持っております。しかしながら世界が間断なく進化し、変化し、成長しつつある以上、平和は現状の墨守によっては維持されぬ事を、私は了解するにいたりました。国際連盟規約第19条は、その加盟各国がこの様な進化と変化した事情に応じる為の調整を既定したものです。連盟はこの規約を履行する勇気に欠けていたがゆえに失敗しました。世界には新秩序がもたらされなければなりません。世界平和は我々がこの様な進化と変化に適応する事により達成されるのです」
 ルーズベルトは、アメリカが主導で築いたワシントン体制の厳守と門戸開放・機会均等の原則に基ずく平和を希望するという、現状にあわない杓子定規的な返書を送った。
 松岡洋右「日本は、アメリカと戦うべからず」
 近衛文麿首相と松岡洋右外相らは、日中戦争を解決させるべく蒋介石と直接交渉を模索していた。
 ソ連軍のスパイであるゾルゲは、日中戦争を世界戦争レベルに拡大させるという指令を受けた。
 尾崎秀実「コミンテルンの指導にのっとって日本における革命を成功させる事であったが、いきなりは出来ないので、先ずは中国革命の為に中国共産党と手を組む。そして日本を大陸に引き込み、これにより米英との対立関係を激化させる」
 近衛首相、松岡外相、東條英機陸相、及川海相らは、対外政策を協議し、日中戦争と南方問題を同時解決する事を申し合わせた。
 南方問題解決で、1,援蒋ルートがある北部仏印に対して「武力を行使する事もある」という陸軍案を、2,石油確保の為に蘭印に対して「武力を行使する事もある」という表現を削除した海軍案を採用した。石油等の重要物資は、外交的措置として平和的な話し合いで確保する事が確認された。
 松岡洋右外相は、杉原千畝からの電報に対してユダヤ人難民に救援の手を差し伸べたかったが、ナチス・ドイツとの三国同盟協議がある為に、杉原千畝人間性を信頼して服務規程を順守する事とビザ取得条件を満たした者への発行を許可した。
 軍国日本は、ユダヤ人難民の受け入れを拒絶したわけではなく、正式な身分証明書と通過ビザを持っている者を受け入れ、持っていない者の不法上陸を拒否したまでの事である。
 杉原千畝は、役人として服務規定を守る義務があったが、職責に叛いても人間として行動する事えらんだ。
 欧米では、人間性よりも服務規程が優先されて、特別な理由がない限りユダヤ人難民の受け入れを拒否していた。 
 7月25日 ニューヨーク日本総領事若杉要は、新たに外務大臣に就任した松岡洋右に、アメリ共産党スターリンの命令でルーズベルト政権と反日世論を操っていると報告し、ファシスト中国が仕掛けている日米分断策動に気をつける様にに訴えた。
 近衛内閣は、昭和研究会の提言を受けて、アジアから米英勢力を排除して新秩序を建設するという基本国策要綱を決定した。
 ルーズベルトは、対抗処置として対日包囲網を強め中国支援を拡大し、石油、石油製品、鉄屑の対日輸出をライセンス制に切り替えた。
 アメリカ軍無線傍受部隊は、日本の石油備蓄量を測定する為に、国内外における日本の油送船の動きを監視ししていた。
 7月26日 東条英機陸相は、陸軍省軍務局軍事課が起草した「基本国策要綱」を提出した。
 近衛内閣は、基本国策要綱を閣議決定大東亜共栄圏建設に邁進した。
 「世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし、皇国亦有史以来の大試錬に直面す、この秋に当り真に肇国の大精神に基く皇国の国是を完遂せんとせば右世界史的発展の必然的動向を把握して庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以て刻下喫緊の要務とす、依って基本国策の大綱を策定する」
 7月27日 大本営政府連絡会議で、南進において武力行使を棚上げとした「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が追認された。
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 松岡洋右外相は、人種差別を利用して親日派を拡大する為に、貧困層であるアフリカ系アメリカ人組織に秘密工作を行った。
 一部の黒人組織は、白人優位の格差社会に対する人権運動として、有色人種である日本人と昭和天皇に好意を寄せた。
 FBIは、黒人社会に浸透していると思われる松岡工作を警戒し、日本から来た外交官や商社マンそして日系アメリカ人への監視を強化した。
 アメリカは、激しい人種差別社会であるだけに、白色人種と有色人種という人種間対立を嫌っていた。
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 松岡外相は、アメリカ経済を支配している事を熟知していただけに、ユダヤ人難民保護という昭和天皇の希望に添って、日本や上海に逃げて来る東欧系ユダヤ人難民への便宜を図っていた。
 アメリカ系ユダヤ人と上海系ユダヤ人の両組織は、ルーズベルトの対日強硬政策を支持して、軍国日本の大陸侵略に協力する満州ユダヤ人団体を非難していた。
 ニューヨークのユダヤ人支援団体は、松岡外相の協力を得て、アジアに逃げてくるユダヤ人難民への金銭支援を行っていた。
 A級戦犯板垣征四郎東條英機らも、昭和天皇の希望に添ってユダヤ人難民を助けていた。
 軍部は、アメリカとの関係改善と戦略物資の購入の為にユダヤ人難民を利用しようとした。
 ユダヤ人難民達は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、その他多くの国で入国を制限されていた為に、軍国日本を頼るしかなかった。
 昭和天皇と軍国日本は、無償で、4万人近いユダヤ人難民を受け入れ安全に第三国に移住させた。
 其の先頭に立っていたのが、A級戦犯松岡洋右外相であった。
 ユダヤ人難民達は、A級戦犯達によってホロコーストから逃げる事が出来た。
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 夏 アメリカの外交問題評議会国務省による戦争と平和研究プロジェクトは、アメリカのとるべき自給自足に関する研究を行っていた。
 世界の経済圏を、アメリカが主導権を持つ西半球、大英帝国ナチス・ドイツを中心としたヨーロッパ大陸、日本を含む太平洋地域の四つに分類した。
 ナチス・ドイツが支配するヨーロッパ大陸の経済力が強く、アメリカは西半球と太平洋地域に大英帝国の植民地を加えて拮抗できると結論を出した。
 日本がナチス・ドイツ三国同盟を締結した事は、アメリカの自給体制の脅威でありアジアへの太平洋航路を脅かすと警告を発した。
 翌41年1月15日に、アメリカの国益を守る為には日本の東南アジア侵出を阻止するべきであるとの、極東政策の報告書を提出した。
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 8月 軍部は、本土上空防衛の為に防衛総司令部を新設したが、航空部隊の編成は翌年7月であり、戦闘機は全国で約100機のみであった。高射砲も足りず、弾薬も不足していた。
 ソ連は、バルト三国を併合し、反共産主義者自由主義者や宗教関係者を反革命分子として大量処刑した。共産主義者は、各地で血の虐殺を行った。
 陸軍参謀本部は、対ビルマ謀略として、鈴木敬司大佐を機関長とした南機関を設立した。
 南機関は、ビルマ国内の独立派に接近した。
 ビルマに、「アラウンパヤー王朝最後の王子が『雷帝(ボ・モージョ)』となって、太陽を背にして『白馬』に乗ってビルマを解放する」という民間伝承があった。
 ビルマ独立派は、雷帝を日本天皇に重ね、白人と戦う日本軍の支援でビルマの独立を達成しようとした。
 アジア人にとって、日露戦争に勝った軍国日本は独立と自由への希望の星であった。
 8月1日 松岡洋右外相は、仏印と共に蘭印を大東亜共栄圏に抱合する事を言明した。
 蘭印や仏印などの経済を支配する華僑・華人らは、円貨経済・金融圏に飲み込まれ、日本に支配される事として警戒した。
 8月3日 アメリカの市場分析は、国民の4分の3が、祖国と民主主義を守る為に選抜徴兵制度に賛成しているとの結果を発表した。
 8月14日 ビルマの指導者バー・モウ長官は、日本軍の協力を得てビルマ防衛軍を新設するべく、イギリスの厳しい監視を逃れてオン・サンやネ・ウィンらタキン党の若者30名を日本へ派遣した。
 白人の支配に苦しみアジア人は、軍国日本を目指していた。
 8月20日 百団大戦。中国共産党は、華北で大反攻作戦を実施し、日本軍を攻撃した。
 8月30日 松岡洋右外相とシャルル・アンリ駐日フランス大使は、援蒋ルート閉鎖と北部仏印に平和進駐する事で合意し、議定書を取り交わした。
 1,東亜における日仏の互恵尊重。
 2,フランスは、インドシナへの日本軍進駐を認め可能な限り援助する。
 3,日仏の経済関係強化。
 ヴィシー政権は、仏印の運命を軍国日本に預ける事を決定し、北部仏印への進駐を容認した。
 両国は、日本軍の北部仏印進駐を合意し、その目的を日中戦争を解決させ極東アジアに平和と秩序をもたらすものとした。
 8月末 企画院は、対米英開戦を前提とした応急物動計画を陸軍省に提出した。
 「基礎物資の大部分の供給量は50%近くまで下がり、軍需すら相当の削減を受け」て戦争には耐えないが、「民需を極端に圧縮すれば短期戦は可能」と結論を付けた。
 ただし、「石油だけは致命的である」と指摘した。
 三井物産などの民間企業は、イラクなどのペルシャ湾沿岸部やメキシコなどのカリブ湾沿岸部での油田地帯へと調査員を送っていた。
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 9月 日本軍は、日中戦争終結させる為に、アメリカ、イギリスの援蒋ルートを遮断する目的として北部仏印に進駐する事を、ドクー総督と仏印植民地政府に申し込んだ。
 軍国日本の要求は、大航海時代から400年以上続いてきた、白人支配という世界常識を否定するを非常識な要求であった。
 ビシー政府は、人種差別から白人が有色人種の支配下に入る事は屈辱であるとして、中立国アメリカや同盟国ナチス・ドイツに日本軍進駐阻止の支援を要請した。
 ドクー総督は、日本側の圧力に屈して進駐を容認するかわりに、植民地支配権を確保した。
 仏印植民地政府は、植民地搾取として租税徴収権と警察権を行使し、ベトナム人への苛酷な課税を続けて滞納すれば容赦なく逮捕して拷問にかけ、反抗するベトナム人はギロチン刑に処した。
 華僑は、中国共産党支配下雲南産アヘンを持ち込んでベトナム人に売り捌き、売り上げ金の一部を仏印植民地政府に上納した。
 東南アジア地域では、華僑によるアヘン密売で大量の中毒患者を出していた。
 ベトナム人は、人の生き血を吸って私腹を肥やす華僑を憎悪した。
 9月3日 ルーズベルトは、中立国でありながら参戦外交として、イギリスと防衛協定に署名し、Uボートの猛攻で苦境に立たされているイギリス海軍第一次世界大戦で使用した旧式駆逐艦50隻を提供した。
 ホワイトハウスは、ナチス・ドイツとの戦争に備えてイギリスに対して軍事支援を増加させていた。
 共和党議員などの孤立主義者は、イギリスに駆逐艦50隻を供給する事は戦争行為であると激しく非難した。
 米英防衛協定は、日本に対して、仏印からマレー半島に進出すれば敵対行為と見なすという意思表示でもあった。
 9月16日 昭和天皇は、対米英協調派として、近衛首相が三国同盟条約締結を奏上したとき不安を語った。
 「海軍はどうか?よく自分は海軍大学の図演(図上演習)で、いつも対米戦争に負けるという事を聞いているが、大丈夫だろうか?誠に、自分は心配だ。万一、日本が敗戦国となった場合、いったいどうだろうか?その場合、近衛は自分と苦労をともにしてくれるだろうか」
 9月16日 アメリカ議会は、21歳から35歳までの男子を選別徴兵する法案を通過させた。
 9月17日 ルーズベルトは、三国同盟成立の報告を受けるや、側近に「これで、日本を我々との戦争に誘い込める」と喜んで語った。 
 9月中旬 松岡外相は、蘭印総督府と石油を主要課題とした日蘭会商を行う為に、阪急電鉄東宝の創業者である小林一三小林一三商工大臣を派遣した。
 9月19日 御前会議で、三国同盟締結が決定された。
 近衛首相は、「英米を敵に回したら、何処から物資を入れる事ができるか」と尋ねた。
 星野直樹企画院総裁は、「英米は民主主義、自由主義の国だから、両国政府は合意しなくとも、民間とは話が付けられる」と返答した。
 革新官僚は、戦争に消極的な空気を払拭する為に、米英両政府と距離を置く中間的資本家から戦略物資は購入できると吹聴して回っていた。
 一部の統制派軍人は、石油獲得の為に蘭印侵攻計画の検討を始めていた。
 昭和天皇は、三国同盟が締結した事で日本が欧州戦争に巻き込れ、その責任が皇室・皇族に及ぶ恐れがあると判断して、木戸幸一内大臣を呼び、参謀総長閑院宮軍令部長伏見宮の更迭を指示した。
 東條英機陸相は、聖慮に従って参謀総長閑院宮から杉山元に替えた。
 及川海相は、聖慮に従って直ぐには伏見宮を更迭せず、暫くしてから永野修身に替えた。
 ヒトラーは、日独伊三国同盟を結び軍事顧問団を引き上げ軍事支援を中止したが、反日親中国の保守派やドイツ国防軍が極秘で続けているファシスト中国支援を黙認した。
 ナチス・ドイツファシスト中国への軍事支援を完全に止めたのは、軍国日本の傀儡政権・汪兆銘南京政権を承認した時である。
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 9月23日 日本軍は、独立派ベトナム人の協力を得て北部仏印に進駐した。
 独立派ベトナム人は、日本軍を解放軍として迎え入れ、一刻も早く仏印全土をフランス植民地から解放してくれる事を期待した。
 白人キリスト教徒の植民地に反対し、フランスからの独立を希望するベトナム人にとっては、日本軍は自由と平等への希望の星であった。
 独立派ベトナム人にとって、昭和天皇は最も崇拝するアジアの偉大なる指導者であった。
 独立に反対するベトナム人や華僑にとって、独立派ベトナム人の肩を持つ日本軍は信略者であり、昭和天皇は極悪非道な犯罪者であった。
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 2014年 ベトナムにおける好感度は、1945年に日本軍占領下で200万人近くが餓死をしても97%であった。
 韓国人と中国人は、日本人とは正反対にベトナム人から嫌われてる。
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 9月24日 日本軍は、北部仏印の混乱を鎮めて治安を回復する為に保護化に置くとして進駐した。
 フランス軍の一部は、侵攻してきた日本軍に対して攻撃したが撃破されて降伏した。
 チャン・チェラップは、フランス軍内のベトナム人兵士を説得して脱走させ、日本軍に協力する独立義勇軍(約2,000人)を組織した。
 「同じ肌をした日本兵がその2倍以上の兵力を持つフランス側を相手に砲撃と突撃を繰り返して追い立てていく。ベトナム人をあれほど無造作に殺してきたフランス兵が、抜刀して斬り込んでいく日本兵の前にただ逃げ惑った」
 インドシナ半島の住人は、敗れる事がない信じていたフランス軍が意図も容易く日本軍に敗北する様を、目の前で見てしまった。
 仏印政庁は、タイ有利な交換条件を拒否し、軍用機をタイ領サコンナンコン地方に飛ばし上空侵犯させて威嚇した。
 タイ軍は、対抗処置として、北部国境に軍隊を集結させた。
 イタリア軍は、リビアからエジプトへ侵攻した。
 イギリスの諜報機関は、日本海軍のJN−25をパープル暗号で完全に解読した。
 チャーチルは、日本海軍の秘密暗号の報告を得ていたが、アメリカを戦争に引きずり込み為にルーズベルトには知らせなかった。
 9月25日 日本軍は、フランス軍が守るランソンを軍事占領し、ハイフォンへの上陸作戦を敢行した。
 潘佩珠の門下であったチャン・チュン・ラップは、独立派市民と脱走ベトナム兵士を集めて越南復国同盟軍(約6,000人)を組織して日本軍に協力した。
 独立派は各地で武装蜂起して、仏印軍や親仏派ベトナム人組織や華僑・華人を攻撃した。
 チャン・チュラップ「(日本軍が)進駐するとベトナム国民は待ち構えていた様に、『アジアの精鋭来る』『救国の神兵来る』と、歓呼して出迎えた。中国戦線から派遣された日本軍人達は、抗日的雰囲気の強い中国大陸とはすっかり違うベトナムの熱狂的歓迎ぶりに大いに驚いた。ラップ司令官の『復国同盟軍』も、日本軍の進駐に呼応して南下した」
 フランス・ヴィシー政権は、軍国日本に対して、進駐協定は仏印の主権を侵さない平和進駐であって武力進駐ではないと抗議した。
 日本政府は、抗議を受け入れ、軍部に対して平和進駐の方針に従う様に命じた。
 軍部は、現地軍に対して占領地からの撤退を命じた。
 独立派ベトナム人は、フランスの抗議を受け入れて撤退して行く日本軍を見て落胆し、裏切られたとして激怒した。
 仏印軍は、日本軍の支援を失った独立派を殲滅するべく越南復興同盟軍を攻撃し、同年12月にラップ司令官を捕らえて見せしめに処刑し、容赦ない残党狩りを行った。
 軍部と現地軍は、政府命令に従って親日派ベトナム人を見殺しにした。
 独立派は、日本軍を解放軍と信じていただけに、軍国日本に失望した。
 陸軍諜報部は、独立派の支持を繫ぎ止めておくベトナムで活動を続けていた。
 アメリカは、日本の南下を阻止するべく、重慶政権に抗日戦用に2,500万ドルの借款を行う。
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 9月27日 日独伊三国同盟締結。三国同盟独ソ不可侵条約の現状維持を確認する同盟である以上、三ヶ国が仮想敵国とするの相手はソ連ではなくイギリスであった。
 日本側の意図は、ナチス・ドイツファシスト中国への軍事支援を遮断する事であり、対米戦を意識したものではなかった。
 松岡洋右は、ヨーロッパ戦線やアメリカとの戦争を避けるべく細心の注意を払いながら外交を行っていた。 
 松岡洋右「近衛公と私に関する限り、三国同盟が侵略の目的から出たものでは断じてなかった事を、連合国側に納得の行くまで説明しておかねばならぬ。これが陛下と祖国に対する僕の最後の義務である」
 昭和天皇は、アメリカとの関係を悪化させる危険があるとして、本心としては三国同盟には反対であった。その為、帰国した白鳥敏夫イタリア大使に会う事を拒んだ。
 アーサー・マッカラム少佐(海軍情報部)「独伊はアメリカを対象とした、日本との軍事同盟を締結した。この条約について報道された条件及び日独伊指導者達の、とげとげしい言葉が信ずるに足り、かつ、それらを疑う理由もないように思えるので、アメリカが対英援助に踏み切ったり、またはアメリカが東洋における日本の目標遂行に力ずくで介入する場合には、これら全体主義三ヵ国はアメリカとの戦争に同意している」
 ストックホルム駐在陸軍武官小野寺信少将は、ロンドンの亡命ポーランド陸軍情報部のミハール・リビコフスキーをゲシュタポの追求から匿っていた。
 ナチス・ドイツは、三国同盟成立を機にポーランド軍情報網を壊滅させるべく、リビコフスキーの引き渡しを求めた。
 ベルリンの日本大使館は、東京に対して、同盟の証しとしてリビコフスキー引き渡しを求めた。
 陸軍中央の、ドイツ派は引き渡しに同意したが、ポーランド派は情報戦略にとって欠かせない手駒として放置した。
 小野寺少将は、軍中央の指示に逆らい、武官室付き通訳官として「岩延平太」名義の日本国パスポートを与えて保護した。
 松岡洋右外相は、日本国パスポートを反ドイツのポーランド軍将校に発給したが、事は陸軍内部の問題として関与しなかった。
 9月28日 アメリカは、日本制裁の強化として、禁輸商品を鉄鉱石や鉄屑を含む全ての鉄に拡大すると発表した。
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 軍国日本は、悪の枢軸の一角をなす好戦的なならず者国家との烙印を押され、時効無き永遠の戦争犯罪国家とされた。


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