🎺16:─4─アメリカとイギリスは、「7日午後1時」という指定日時が何を意味をしているかを知っていた。マレー強襲上陸。1941年12月8日。~No.97No.98No.99 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 真珠湾攻撃は、奇襲攻撃(サプライズ・アタック)であって卑怯な攻撃(スニーク・アタック)ではなかった。
 真珠湾奇襲攻撃がだまし討ちと呼ばれる原因となったのは、軍部ではなく外務省である。
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 ルーズベルトアメリカ軍は、日本の外交機密暗号を傍受・解読し、「7日午後1時」以降に日本軍が軍事行動を起こす事を理解していた。
 チャーチルとイギリス軍も、「7日午後1時」以降に日本軍がマレー半島を攻撃する事を知っていた。
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 イギリスに対しては事前の宣戦布告はなかった。
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 ルーズベルトは、真珠湾に太平洋艦隊を移動させた。
 真珠湾の水深は約14メートルで、航空機から発射される魚雷は通常40メートル沈みこんでから敵艦に向かって進んで命中する。
 真珠湾を攻撃するには航空機しかなく、水深の浅い真珠湾では雷撃は不可能であった。
 残る攻撃方法は爆撃であったが、水平爆撃は命中精度か低く撃沈する威力は弱く、急降下爆撃は命中精度も高く破壊力も強かった。
 軍事評論家フレッチャー・プラットは、日本人は近視で高高度水平爆撃は無理であり、おぶって育てられる為に三半規管に異常があって急降下爆撃はできない、と科学的報告書を発表していた。
 ルーズベルトは、もし万が一、日本海軍が真珠湾を攻撃したとしても被害は軽微で済むであろうと考えていた。
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 大本営は、真珠湾攻撃の12月8日は日本では「大安」でアメリカ・ハワイ・真珠湾では「仏滅」だから成功したと盲信していた。
 ミッドウェー海戦においても、中国から伝来した陰陽道の暦占い「六曜」に従って、勝負事に先んじて勝つ「先勝」を選んだ。
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 なぜ、スチムソン陸軍長官が日本を戦争に追い込むような対日強硬策をルーズベルトに進言していたのか。
 それは、スチムソンが1927年〜29年までフィリピン総督をしていた経験による。 そこで知ったアジア人像とは、アジア人は不平不満で反抗しても、脅せば恐怖で震え上がって大人しくなり、奴隷の如く従順となって損を承知で命令に従うという事である。
 アジア人が大人しくなったところで話を聞き、アジア人の要求をほんの僅か叶えてやれば良い。
 フィリピン統治で学んだ実践知で、軍国日本と日本人を理解し、対日強硬策を実施した。
 スチムソン陸軍長官は、ルーズベルトほどの反日親中国派ではなく、人種差別主義者として日本を憎んではいなかった。
 むしろ、ウォール街の国際金融資本家らの金儲けの為に日本を利用する事を考えていた。
 つまり、スチムソン陸軍長官はルーズベルトとは違って日米戦争を望んではいなかった。
 世界常識を持つ多くのアメリカ人高官達も、軍国日本は、チェコスロバキアナチス・ドイツとの戦争を回避する為にミュンヘン会談決定を受け入れて国土解体を決断したのと同様に、アメリカとの戦争を避けるだろうと予想していた。
 軍国日本が、絶望的戦争を避けるには領土の一部を放棄し帝国の解体を受け入れる事であった。
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 12月7日午前2時(東京時間時間12月7日午後4時)頃 アメリカ軍暗号解読班は、ワシントンの日本大使館に送られた通告文書第一部から第十三部までの暗号を傍受し、解読した。
 最終電文第14部の暗号文が日本大使館に届いたのは午前8時で、ハル国務長官への手交する時刻を「7日午後1時」と指定し、さらに直ちに暗号機を破壊する様に命じた。
 ハワイ時間の午前7時半で、南雲機動部隊が真珠湾を奇襲するのは午前8時であった。
 誰が呼んでも、「午後1時以降に日本軍が攻撃してくる」事は明らかであった。
 日本大使館は対米交渉が難航していても日米戦争に発展しないと信じ込んでいて、緊張感がなく、大使館員が出勤してきたのは午前9時頃であった。
 第14部を暗号解読してこれが最後通告である事に愕然とし、タイプ打ちに不慣れな大使館員が興奮状態で手間取り指定時簡に遅れてしまった。
 実松譲「大使館員の当直制度は杜撰(ずさん)だったように思う。日米交渉が緊迫していくなかで、私たちは電報は着電するとすぐに処理すべきではないか、と海軍の立場から大使館に申し入れていました。だがいっこうに改善されていなかった」
 
 ブラットン陸軍大佐は、午前9時から午前10頃まで行方不明になっていたマーシャル参謀長を捜し回り、午前11時15分にようやく解読文を手渡した。
 マーシャルは、何故か、前日の夜から所在不明となっていた。
 後日。「何処にいたのか?」と問われて、「覚えていない」と答えた。
 マーシャル参謀総長は、ブラットン大佐の最重要な14部から読むようにとの要望を無視して、13部から読み始めた。
 そして、アメリカとの外交関係を断絶するという内容の最後の14部を読み終えて、海外に駐屯するアメリカ軍に日本軍からの攻撃が近いという警戒を伝えた。
 但し、ハワイへの警告は、緊急電話回線も海軍の無線を使わず、時間がかかる民間の通信回線で送った。
 文面は、事態が切迫しているというものではなく、「午後1時の通告時刻が何を意味するか分からないが」という曖昧なものであった。
 スターク海軍作戦部長は、早朝にクラマー少佐から「午後1時」の通告時刻付き暗号解読文の連絡を受けたが、自宅でゆっくりと朝の時間を寛いでから登庁した。
 ウィルキンソン海軍情報部長は、解読文を読み終わったスターク海軍作戦部長に、至急、ハワイのキンメル提督に電話する様に意見具申した。
 スターク海軍作戦部長は、大統領命令でハワイに警告できるのはマーシャルだけであるとして、マーシャルに電話したがつながらなかった。次に、ホワイトハウスに電話したが、ルーズベルトにもつながらなかった。
 「私は良心には一点のやましいさもない。なぜなら自分の一切の言動は、上司の命令によってコントロールされていたからだ」
 その頃。ルーズベルトは、外部からの電話を全てつながない様に命じて、ハリー・ホプキンズと一室に閉じ籠もって密談していた。
 ワシントン時は、ハワイ時間午前7時半にあたる。
 ノックス海軍長官は、後日、報告書を読んで通告時刻「午後1時」は宣戦布告の時間を意味するとし、キンメル提督に緊急警告が成されていなかった事を知って愕然とした。 
 日本大使館は、最後通告の清書作業が指定手交時刻までに完了できないのは明らかであったが、大使館員全員を非常呼集して清書を間に合わせようとはしなかった。
 真珠湾騙し討ちの責任は、緊張感に欠けた外交官の怠慢であって、日本全体が責めを負う事は不当である。
 ハリー・バーンズ「スタークはFDRに協力を求められた。しかし、いくらか良心の呵責を感じていたらしい。もっとも、彼を計画の主要な実行者にすれば、FDRにとって余計な危険が増える事をを意味する。スタークはノックスのもとで仕事をしていた。彼を通じて計画がノックスに伝われば、計画全体が挫折してしまう恐れがあったからだ」
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 ルーズベルトは、昭和天皇に平和を求める親書を送ったが、新しい提案を盛り込まなかった。つまり、平和への親書で戦争を回避する意志はなかった。
 ワシントン時間午前11時 ホワイト・ハウスは、ルーズベルトの親電を東京に送った。
 ホワイト・ハウスは、親書を送る事を発表した。
 ハル国務長官は、中国大使に「この電報は多分役に立たない。しかし、後日、アメリカ側の立場をよくする。その為に打っておいたんだ」と語った。
 松平康東一等書記官「ルーズベルト大統領から親書が出る。という事は戦争なんだ」 
 正午 東京の中央電信局は、グルー大使に宛てた親電文を受け取ったが、参謀本部の戸村盛雄少佐は独断で親電をグルー大使に渡すのを15時間遅らせた。
 グルー大使は、アメリカ発のラジオで親書を知っていたが、受け取ったのは午後10時半であった。
 直ちに、昭和天皇への謁見を求めたが実現しなかった為に、東郷外相に手渡した。
 午前11時52分(ハワイ時間午前6時22分) スターク海軍作戦部長は、マーシャル参謀長に、機能が優れた海軍無線局を使って海外の警備部隊に警告を発するべきと意見した。
 マーシャル参謀長は、海軍の提案を拒否し、陸軍無線局からパナマ、マニラ、サンフランシスコの警備部隊に警告文を送ったが、ハワイには直接ではなく民間回線で送った。
 この警告文は、遅れて配達された。
 ルーズベルトは、日本軍に攻撃される事は知っていたが、それが真珠湾であったかそれは不明である。
 5ヶ月以上に及ぶ、日本を戦争に追い込む作戦は成功した。
 チームSRは、10ヶ月前から日本占領計画の研究を始めていた。
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 戦後。GHQは、戦争を回避する為に送られた親電の行方を極秘で調査していた。  
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 日本海軍の真珠湾奇攻撃は、卑怯な騙し撃ちではなかった。
 アメリカは、日本の外交暗号傍受し解読し、日本が何を考えているかを知っていた。
 そして、「7日午後1時」以降に日本軍が軍事行動を起こす可能性がある事を理解していた。
 日本側も、東京のアメリカ大使館とワシントンの外交電報を傍受していた。
 アメリカ軍が日本海軍の奇襲を知らなかったとすれば、アメリカ軍は日本軍との情報戦に完敗した事になる。
 それは、決してあり得ない事である。
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 アメリカ軍は、日本軍の奇襲攻撃に備えて軍隊を配備していたが、真珠湾だけは無防備のまま放置していた。
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 12月8日午前0時5分過ぎ グルー大使は、ワシントンの指示に従って、東郷外相に親書を手渡して昭和天皇への謁見を願い出た。
 東郷外相は、グルーに「親電は現今の危急を救い得るものとは認めがたく、且つ時刻も急迫につき」として昭和天皇の面会を断った。
 午前2時半 東郷外相は、東條首相に親書を伝えた。
 東條首相「内容に目新しいものはあるか」
 東郷外相「何もありません」
 午前2時50分 東郷外相は、皇居に参内した。
 昭和天皇は、真珠湾攻撃マレー半島上陸などの成功報告が来るのかを不安で眠れずにいた。
 午前3時 昭和天皇は、海軍軍装を召し、御学問所で東郷外相から親書を受け取って呼んだ。
 昭和天皇は、親書を読み、東郷外相の報告を聞き、戦争を回避する為の建設的な文面でない事に失望した。
 東條首相は、真珠湾攻撃の30分前に、昭和天皇の前で親書の全文を読み上げた。
 アメリカ東部時間の午後1時であった。
 スチムソン「戦争回避の努力をみせるポーズとしての価値しかなかった」
 日本陸軍船団は、マレー半島に上陸を開始した。
 ワシントンの日本大使館は、東京の指示に従い、最後覚書を東部標準時間7日午後1時に手交する為に準備を急いだが、清書に手間取り遅延という失態をしでかした。
 館員は、最後の暗号機を破壊し、暗号帳と機密文書を焼却処分した。
 だが日本外務省は、手交が遅れても構わないと思っていた節が幾つかある。
 先ず第14部を第13部から15時間後に長文で送った事、次に「大至急」ではなく「至急」と指定した事。
 そして、通告文の原文から「将来起こる一切の事態の責任は、挙げてアメリカ政府にある」という最後通告文を削除した。
 つまり、ワシントンの日本大使館は開戦通告と深刻にとらえなかったともいわれている。
 アメリカは、暗号電文から、開戦は間近であると判断した。
 ホワイト・ハウスとワシントンの軍首脳部は、午後1時頃に日本軍が何処かを奇襲攻撃する事を予想した。
 予想しなかったとした、無能と言うしかなかった。
 午後零時20分 日本政府は、日本の戦争はアジアの解放の為であるという「帝国政府声明」を発表した。 
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 『フーバー回想録』「スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ」
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 ハワイ時間7日午前8時(日本時間 8日午前3時25分)。真珠湾攻撃。日本は、軍事大国・アメリカに対して覇権的意図のもとで武力先制攻撃・騙し討ちを行ったのではなく、軍事的劣勢を補い為に予防的先制攻撃(プリベンティブ・プレアタック)・奇襲攻撃を行っただけである。
 不意打ちを食らわせる攻撃は、戦争勃発を意図として理不尽な圧力を加えて来る軍事大国に対する小国の当然な権利である。
 小国の権利が認められなければ、世界は大国の正義で支配される。
 大国中心の文明論及び力の正義に、敗北覚悟で宣戦布告して叛旗を翻したのは軍国日本だけである。
 日本軍は、攻撃対象を軍艦、軍用機、軍事施設に限定して、軍用地以外は攻撃しなかった。
 日本海軍攻撃隊は、民間人や民間施設への誤爆を避けるべく細心の注意を払っていたが、軍基地や軍事施設で働いている民間人の犠牲はやむを得ない犠牲とした。 民間人の犠牲者は、68人で、そのほとんどが基地の従業員であった。
 湾内に停泊していた大小軍艦約120隻を攻撃したが、一隻の病院船には一発の機銃弾も撃ち込まなかった。
 アメリカ軍が撃った対空砲火の破片が落下して、市民57名が巻き込まれて死亡した。
 石油基地なども攻撃しなかった為に、真珠湾の環境破壊と民間人の二次的被害も起きなかった。
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 パン・アメリカン航空の大型飛行艇チャイナ・クリッパー機は、真珠湾のあるフォード島北側にある飛行艇専用の船着き場を目指して飛行していた。
 同機の乗客の中に、ビルマ首相ウー・ソーとイラン帝国皇太子パーレビ(モハンマド・レザ・シャー)がいた。
 真珠湾攻撃の真っ最中にハワイに向かって飛行していた民間機チャイナ・クリッパー機は、日本軍機の攻撃を避ける為にハワイ島ヒロ空港に緊急着陸した。
 両者は、日本軍による真珠湾奇襲攻撃の成功を間近に見て、白人による世界支配の終焉は近いと確信し、アメリカやイギリスと戦う軍国日本への共感を強めた。
 ウー・ソー首相は、軍国日本の戦争に協力する申し込みをした事がバレて逮捕さ、戦後、濡れ衣を着せられて処刑されたれた。
 イラン帝国皇帝レザ・シャーは、枢軸側に味方しないし連合国側に協力しないと中立を宣言したが、ソ連への援助ルートを確保したいアメリカとイギリスの謀略で逮捕されモーリシャス島流しにされた。
 パーレビ皇太子は、皇帝に即位した。
 親日派のパーレビが、祖国が連合軍によって軍事占領され傀儡国家の皇帝となった。
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 トルーマン真珠湾の失敗は、陸海軍の反目にあった。キンメルとショートは口もきかない間柄で、お互いに情報ゼロの状態であった」
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 日本海軍は、マリアナ諸島グアム島に上陸し、アメリカ軍守備隊400人と現地民義勇兵800人は抵抗は無駄と判断して降伏した。
 数日で、トラック島やクエゼリン島なども日本軍によって占領された。
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 昭和天皇は、日本海軍による真珠湾攻撃の報告を聞くや、「病院や学校には爆弾を落とさなかっただろうね。本当に大丈夫だろうね」と何度も念を押した。
 自衛行為としての「正戦」を宣言した以上、可能な限り非戦闘員を巻き込まない事を希望した。
 その気持ちで、一般市民を大虐殺する目的の大量破壊兵器・原爆の開発に猛反対した。
 軍国日本が戦ったのは、戦時国際法に則った「正戦」であって、神の意思で際限の無い殺戮や無差別の虐殺を祝福する「聖戦」ではなかった。
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 日本軍は、地元の独立派の協力を得て侵攻していた。
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 軍部は、第三国であるタイのシンゴラ湾に許可なく上陸する為に、政府に対して開戦詔書から「国際法を守る」の文言を削除させた。
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 日本は、宣戦布告以前に真珠湾を奇襲攻撃し、この先制攻撃ゆえに、日本は戦争犯罪国家とされた。
 日本軍は、乏しい弾薬や燃料の為に軍事目標を攻撃したが、それ以外の病院などの民間施設を攻撃するゆとりはなかった。もし民間施設を攻撃したとしても、意図した攻撃というよりは戦闘による誤爆であった。
 それは、全ての戦場で言えた事であった。
 日本には、アメリカの様に有り余るほどの物資はなく、遊び半分に浪費できる燃料も弾薬も無かった。
 弾薬の乏しい日本兵は、貴重な銃弾を一発ずつ撃つ銃を手にして突撃した。
 大量の弾丸を持つアメリカ兵は、離れた場所から機関銃を乱射して日本兵をなぎ倒していた。
 その物量差は、海上でも、上空でも、同じであった。
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 12月8日午前1時30分(日本時間) 日本軍の第18師団佗美支隊(佗美浩少将)は、宣戦布告なしでマレー半島東岸のコタバルに上陸を開始した。
 上陸作戦は、真珠湾奇襲攻撃より1時間20分早かった。
 日本軍は、英領マレーとその北のタイ領シンゴラに上陸した。
 タイ首相ピブンは、軍国日本と無害通行の秘密約束をしていたが、戦争は軍国日本の敗北で終わる事が分かっていた為に戦後の言い訳の既成事実を作るべく、現地からの日本軍上陸の緊急報告が届けられた際に居留守を使いった。
 海岸守備のタイ軍は、ピブン首相の命令がない為に上陸してきた日本軍を侵略軍として攻撃した。
 日本軍は、無害通行の密約があったのにタイ守備隊からの予期せぬ攻撃に驚いたが、シンガポール攻略という作戦に加えてタイ軍と戦う事は好ましくないとして静観した。
 タイ軍は、ピブン首相からの戦闘停止と日本軍の領土内通過を認める命令が届いて攻撃を止め、日本軍の上陸を静観した。
 日本軍は、長時間、タイ国内に留まる事は迷惑になるとして直ちに南下し、国境近くに建設されている要塞ジットラ・ラインの攻略に向かった。
 イギリス軍は、ジットラ・ラインは3ヶ月は日本軍の攻撃を防げると確信していたが、1日で日本軍に占領された。
 日本軍の攻撃を助けたのは、地元のマレー人であった。
 イギリス軍に協力したには、マレーで生活していた約350万人の華僑や華人であった。
 華僑や華人達は、イギリスの植民地支配に協力し地元マレー人を奴隷如く使役し阿片を売り付けて大金を稼いでいた。
 反日派の華僑や華人は、マレーに住む日本人居留民に暴力を振るう事件を起こしていた。
 イギリス人警官は、華僑や華人達による日本人居留民への犯罪に目を瞑り放置し、殺人・強盗・放火などの重犯罪のみ逮捕した。
 華人の陳嘉庚の配下は、日本人の谷豊の妹(6)を強姦して惨殺した。
 刑務所に収監された反日派の華僑や華人の重犯罪者は、白人看守から「好ましいアジア人」として優遇され、華僑や華人から英雄視されていた。
 日本軍の自転車を使った銀輪部隊は、1日平均20キロの快進撃を続け、敵の攻撃を受けるや自転車を捨てて密林に入って敵軍を殲滅した。
 地元マレー人は、自主的に、無報酬で、日本軍が乗り捨てた自転車を保管し、自転車を担いで日本軍兵士の後に従い、シンガポールへの進撃を助けた。
 華僑や華人達は、イギリス軍に協力する為に民間便衣隊(ゲリラ・スパイ・破壊工作員)を組織して、進撃してくる日本軍を攻撃した。
 イギリス軍パーシバルは、地元マレー人の協力で快進撃してくる日本軍に対抗するべく、日本人憎しの重犯罪者の華僑や華人を便衣隊として利用するように命じた。
 ジョン・ダレー大佐は、チャンギー刑務所などに収監されている華僑や華人の犯罪者を便衣隊として組織し、ダレーのならず者部隊と呼ばれた。
 華僑と華人は、中国国民党系と中国共産党系の二グループに分けて競わせた。
 犯罪者以外にも一般人も参加して、当初は約3,000人であったが、シンガポールが陥落する昭和17年2月迄に総勢数万人に膨れ上がった。
 正規軍人ではなく民間人ゲリラ・テロリストとして利用する為に軍服を支給せず、目印として黄色いバンダナを巻かせて戦場に投入し、さらに日本軍の兵站線を破壊すべく日本軍の後方へ送り込んだ。
 華僑や華人らのならず者部隊は、重犯罪集団の凶悪さを遺憾なく発揮して、戦闘地域以外の日本人居留民はおろか地元マレー人へ見境ない凶悪犯罪を「戦争である」として行っていた。
 日本軍は、ならず者部隊の便衣隊員で投降した者は許して武器を取り上げて家に帰したが、投降を拒否して徹底抗戦する者は正規軍人ではなく民間人ゲリラ・テロリストとして処刑した。
 その処刑が、戦争犯罪シンガポール大虐殺」と認定された。
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 マレー半島上陸作戦。イギリス軍14万人。日本軍3万5,000人。
 シンガポール防衛のイギリス軍は、マレーシアとタイ国境近くに、日本軍の侵略を防ぐ為に堅固な重層防衛線ジッド・ラインを築いていた。
 パーシバル「日本軍を3ヶ月は食い止められる」
 イギリス軍は、他の欧米列強軍同様に、白人キリスト教徒は優秀人種で世界の支配者り、優秀人種の軍隊は負ける事は絶対にあり得ないという不敗神話から、劣等人種の日本軍を過小評しいた。
 植民地支配を受けていたアジア人の多くも、日本軍は負けると確信していた。
 イギリスは、植民地支配で莫大な利益を得る為に、マレー半島の自然を破壊し、ブラジルからゴムの木を、アフリカから油椰子を持ち込んで植え、中国人苦力を奴隷の如く酷使して錫鉱床の露天掘りを行い重金属を含んだ死の池を幾つも放置していた。
 華僑や華人らは、白人植民地支配で利益を得ていた為にイギリス軍に協力していた。
 植民地支配に苦しむマレー人らは、白人や華僑・華人から解放してくれる神軍の到来を待ち望んでいた。
 日本軍は、マレー人ら現地住民にとって解放軍であり、華僑・華人らにとっては侵略軍であった。
 日本軍が迷惑をかけたという相手は、植民地の圧政下で搾取され貧困で苦しめられていた現地住民ではなく、植民地支配に協力して暴利をえ現地住民を下等人種と差別していた華僑・華人であった。
 日本陸軍謀略機関であるF機関(藤原岩市少佐)は、東南アジア各地の民族主義者を味方に付け、独立闘争の為に武器弾薬を与えた。
 植民地支配に苦しむ東南アジアの人々にとって、日本軍は紛れもなき「解放者」であった。
 東南アジアの華僑・華人らは、植民地に於ける既得権を守る為に白人支配者に協力した。
 非中国系東南アジア人は、祖国回復の暴動を起こし、植民地軍を攻撃する為に日本軍に協力した。
 独立派マレー人達は、先を争うにして日本軍の弾薬を運び、シンガポールへの近道を教え、そして進撃の道先案内をかつてでた。
 だが後に、民族主義者は、祖国完全回復の為に連合軍に協力して、侵略者日本軍を攻撃した。
 山下奉文は、全軍に対して軍紀厳守を命じ、占領地での強姦・略奪・放火を禁じた。
 「軍風紀を緊粛し『焼くな、奪うな、犯すな』を厳守すべし。従わざる者は処断し、上官もその責任を問う」
 戦場に立った大半の日本軍上層部は、兵士全員に皇軍としての行動と非戦闘員への犯罪行為を禁ずる命令を出していた。
 だが、一部の日本軍兵士は上官の命令を無視して略奪と虐殺を行った。
 戦後、上官や関係のない日本人兵士が戦犯として処刑された。
 イギリスの暗号解読機関は、ケーブル・ワイヤレス社の協力を得て、日本の全ての暗号を解読していた。日本語は世界的に難解な言語であり、その言語の壁ゆえに日本の暗号は解読できないと盲信している者は、無能な日本人である。日本外交の暗号通信はもちろん日本海軍の暗号も、イギリス情報機関は解読していた。
 タイは、セーニー・プラモート王子を極秘でアメリカに送り、抗日派華僑と協力して反ファシスト団体・自由タイを組織して連合国軍に味方させた。
 ルーズベルトとハル国務長官は、駐米ソ連大使リトヴィーノフに対日戦への参加を要請した。
 モロトフは、ソ連は中立条約で日本との戦争は出来ないし、ナチス・ドイツとの戦争に全精力を集中したいと訓令した。
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 日本軍は、今後の戦闘に備えて地元民の反感を買わないようにする為に、司令部付き医療施設近くに、民間業者に依頼して慰安施設を開設した。
 日本軍の占領地では、日本兵による地元女性に対する強姦事件は少なかった。
 日本軍の占領は、戦争が終わって占領したわけではなく、戦闘が終わっての占領であった。
 少数兵力の日本軍は、膨大な物量を持って大反撃してくる連合軍に備えて陣地構築を急いでいた。
 勝敗の鍵は、地元民が味方してくれるかどうかに懸かっていた為に、間違っても反感を買い敵意を持たれる事は避ける必要があった。
 だが。何時一死ぬかもしれない救いのない絶望的状況下で、気の弱い日本人兵士が死を前にして自暴自棄となりって凶暴になり、強姦や暴行をおこなった事は事実である。
 戦後。彼らは、B級C級戦争犯罪者として有罪となり、リンチ的縛り首で処刑された。
 日本は、彼らを靖国神社に祀って慰霊した。
 中国や韓国などアジア諸国は、戦争犯罪者の慰霊を許さず、靖国神社の破棄を求めている。
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 昭和天皇は、平和を望んでいただけに戦争になった事に落胆したが、戦争を始めた以上は勝つ為に背広から軍服に着替えた。
 午前7時10分 昭和天皇は、御座所で、侍従武官の山県有光と同城英一郎から真珠湾攻撃マレー半島上陸、シンガポール爆撃などが成功したとの報告を受けた。
 真珠湾攻撃成功の報告を受けた際、「病院や学校には爆弾を落とさなかったろうね。大丈夫だろうね」と心配して念を押して問い質した。
 昭和天皇は、 午前7時15分に永野修身軍令部総長から真珠湾攻撃の戦果を、午前7時30分に杉山元参謀総長からマレー半島上陸作戦その他の報告を受けた。
 攻撃は飽くまで敵軍艦と軍施設のみで民間施設への攻撃はしなかったとの答えで、民間人への被害はなき旨を聞いて安堵した。
 午前10時 昭和天皇は、帝室会計審査局長官の木下道雄から「昭和15年度会計審査」の成績について報告を受け、個人的な親しさから戦争が始まった事に対して「極めて沈痛な表情」を見せていた。

 午前11時25分 昭和天皇は、内閣上奏書類「米国及び英国に対する宣戦の布告の件」を裁可した。
 最終軍事指揮権を持った大元帥として、国家と民族を守る為に、全ての国民に軍隊に入隊して敵を倒す事を命じた。
 国家元首昭和天皇は、最終的決定権を持つ最高権力者として、如何なる外圧にも屈する事なく逃げ隠れもせず全ての責任を引き受けた。
 昭和天皇には、如何なる理由があれ、戦争責任がある。
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 東條英機は、誰もいな寝室で、昭和天皇の期待に応えられず戦争になった事に号泣し、己の力が及ばなかった事に涙を拭う事なく慟哭した。
 泣き止んだ後、総理として戦争を始めた以上は勝つ事のみを考えて政府を率いた。
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 全ての日本人は、日本には非がないと信じ、正義は日本にあると確信し、戦争に勝つ事だけを考えて銃を取った。
 負ける事はもちろん、譲歩して戦争を止める事も考えず、前を向き、油断をせず、一歩でも前に出る為に猛進した。
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 日本が戦争を回避する方法は、チェコスロバキア解体である。
 チェコスロバキアは、ナチス・ドイツとの戦争を避ける為に国家の解体に合意した。
 軍国日本が、アメリカとの戦争を避ける唯一の方法は、大日本帝国を解体し、日露戦争以前の状態に戻る事である。
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 日本人捕虜第一号、酒巻和男海軍少尉「貴国ら『持てる国』は、『持たざる国』である日本に対する経済封鎖を実施。我々に石油や綿などを売却する事を拒んだ為、我々は崩壊以外に選択肢を持たない状況に追い込まれた。その為、貴国と外交交渉を開始したが、実を結ばなかった。従って、友と共に私は真珠湾を目指して出港した。その目的は戦艦を撃沈する事であった」
 アメリカ軍は、酒巻少尉を捕虜収容所に収容したが、奴隷のように従順に指示に従わず、反抗的でトラブルを起こし手を焼いた。
 酒巻少尉は、帝国海軍軍人として、日本男児として、武器がなくとも戦う意欲を捨てず、殺される事を覚悟で日本の名誉を守ろうとした。
 アメリカ軍は、人格を崩壊させる為に裸で独房に閉じ込めたりと、ジュネーブ条約違反を承知で精神的攻撃を繰り返していた。
 連合軍も、日本軍同様に、捕虜虐待を行っていた。
 日本軍の捕虜虐待は戦況悪化と共に起きたが、連合軍による捕虜虐待は人種差別で起きていた。
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 ククリット・プラモード(後にタイ王国首相)「日本のお陰で、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」
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 真珠湾攻撃は、日本軍の予防的先制攻撃である。
 日本軍攻撃機は、戦時国際法に基づく軍事目標主義を遵守して、病院や民家など民間施設への攻撃を避けた。
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 B17爆撃機編隊は、午前8時にオアフ島に着陸するように命令を受けて飛行していた。
 ハワイに設置された防空用レーダーサイトの当直士官は、この日に限って専門外の将校が配置に就いていた。
 将校は、レーダーの機影を報告があるB17爆撃機編隊のと思い込んでいた。
 真珠湾攻撃。ハワイ時間、午前7時53分。
 アメリカ軍基地では、多くの日系アメリカ人が基地労働者として働いていた。
 高度な技術を持っていた日系アメリカ人労働者は、アメリカへの忠誠を示す為に、軍事施設の拡充強化に協力した。日本人らしい生真面目さから、弱点を作る為の手抜きはしなかったし、国家への裏切りとして軍事機密情報の漏洩も破壊工作もしなかった。
 ハワイ準州政府は、日系アメリカ人に市民権を認め公務員への道を開いて忠誠を要求したが、政治力を持たせるとハワイを乗っ取られるとの恐怖感から選挙投票権を認めなかった。
 日本軍の攻撃で、日系アメリカ人の犠牲者は、白人に次いで多かった。
 日本人医師や看護婦は、大量に運ばれてくる負傷したアメリカ兵や基地労働者の治療に奔走した。
 帰化して市民権を獲得した日系アメリカ人は、模範的アメリカ人であろうとして、日本と戦う為に自らの意思で志願してアメリカ軍に入隊した。
 日系アメリカ人は、母国日本との関係を断ち切る為に、ファミリーネーム(姓)はそのままにして、ファーストネーム(名前)をアメリカ風に改名した。
 日系アメリカ人は、日本民族の誇りを守る為に、ユダヤ人の様にユダヤ民族である事を隠す為にフルネームを変更しなかった。
 だが。アメリカ軍内部は激しい人種差別が横行していて、日本人志願兵は虐待に近い過酷な訓練が強制されていた。
 日本人志願兵は、アメリカ兵以上に規律を守り、上官の命令には盲目的に従い、地獄の様な猛訓練によく耐えていた。
 一部の軍首脳部は、日本人志願兵の不屈な忠誠心から日本人単独部隊の創設を模索し始めた。
 日系アメリカ人は、アメリカ国民として国家に忠誠を誓い、国家の為に日本と戦う事を決意した。
 日本精神・大和魂は、死ぬと分かっていても正々堂々と戦う事を本懐とし、生き残る為に味方を敵に売る「裏切り」を最も嫌った。
 アラスカの日本人移民134人は、エスキモーら原住民とアザラシや鯨を獲って生活していたが、敵国人とされてアイダホ州のミニドカ収容所に強制的に送られた。
 午後2時 野村と来栖両大使は、ハル国務長官に最後覚書を手交した。
 スチムソン陸軍長官「私は日本が奇襲したという、最初のニュースが届いた時に、何よりもまずほっとした。この危機が到来した事によって、決断できなかった時が去り、アメリカ国民全員を一致団結できるのだと思って、安堵した。
 被害の報告が、刻々と入ってきて、急速に大きくなっていったにもかかわらず、そのあいだ中、深い満足感にひたった」
 チャーチル「すでに戦争に勝った。……我々は戦争に勝ったのだ。……私は感動し興奮によって満たされ、すっかり満足して床につき、救われた事に感謝しながら、安らかな眠りにおちた」
 ハワイの日本人総人口は15万9,534人で、ハワイ諸島の34.2%に当たる。
 アンドリュー・W・リンド「ハワイでは日本人移民の職業階層内の上昇傾向が本土の日本人に比べて進んでいた」
カレイ・マックウィリアム「1941年の時点でハワイでは、日本人が就いていない職種はないといってよかった。働いている日本人の15%は指導的立場や専門職についていた」
 日系アメリカ人は、今はなきハワイ王家時代からハワイ先住民との間に強い絆が存在していたが、支配階級の白人との接近を極力避けて日本人だけで固まって生活していた。
 ハワイ先住民は、白人支配のハワイではなく、ハワイ人のハワイにするべくハワイ王家の復活を切望していた。
 アメリカ本土とは違って、日本移民排斥運動は起きなかった。むしろ寛容であった。
 白人支配層は、本土同様に日本人排斥運動を行いたかったが、日本人を排除してしまうと貴重な労働力が居なくなりハワイ経済が崩壊する恐れがあった。
 ハワイには、日系アメリカ人に代わる労働力が他にいなかった。
 西海岸諸州の日本人移民排斥団体が、ハワイの日本人約16万人を受け入れる事に猛反対していたからである。
 後に。カリフォルニア合同移民問題委員会は、国家安全保障の観点から西海岸の全ての日本人を退去隔離を主張したが、ハワイから本土への移住隔離は反対した。
 その為に。ハワイの人種差別主義者は、諸島内の日本人を「追放せよ!」とは主張できず、新聞や雑誌に反日論文を掲載しても、本土の様な退去隔離運動を起こさなかった。
 真珠湾攻撃後。アメリカ軍は、ハワイ在住の日系アメリカ人の暴動を恐れて戒厳令を引いたが、破壊工作は起きなかった。
 デロス・エモンズ将軍は、解任されたショート将軍に代わってハワイ防衛司令官として着任するや、日系アメリカ人がハワイでは欠かせない存在である事を理解して保護した。
ただし、アメリカに忠誠を誓わない者や軍国日本の行動を擁護する者は逮捕して本土の刑務所に送った。
 「我が国に忠誠心を持つ者は、それをハッキリとした形で示そうとする。それを妨げる様な事をするべきでない」
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 日本航空隊の未帰還機は、第一次攻撃隊で9機、第二次攻撃隊で20機。
 アメリカ軍は、奇襲による混乱から立ち直り、迎撃態勢を整えつつあった。
 レーダー観測部隊も、汚名を返上するべく、日本攻撃隊の機影を総力を挙げて負っていた。
 ハワイ近海にいた空母レキシントンは、日本機動部隊を発見すべく索敵活動を開始していた。
 南雲艦隊は、第三次攻撃を加える為に作戦海域に留める事は、アメリカ軍の反撃を受ける危険があった。
 



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真珠湾攻撃の真実

真珠湾攻撃の真実