🎺35:─1─根絶やし宣告。現代日本人の能力ではカサブランカ会談の無条件降伏要求が理解できない。1943年~No.161No.162No.163 @ 

無条件降伏は戦争をどう変えたか

無条件降伏は戦争をどう変えたか

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 カサブランカ会談の無条件降伏要求とは、昭和天皇の命及び日本皇室の保証のない無条件降伏であり、日本軍の全滅と日本民族皆殺しであった。
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 ルーズベルトは、宗教的白人至上主義の差別主義者として、ヒトラー同様に日本人を最も嫌い、日本民族を野蛮人と混血させて地上から消し去る事を望んでいた。
 当然、昭和天皇を助ける意思はなく、罪を悔い改めて助命嘆願すれば助けて一生涯生き恥を晒すのも悪くはないと、考えていた。
 アメリカの軍産複合体は、世界恐慌からアメリカ経済を立て直す為に、軍国日本との戦争を歓迎していた。
 事実、戦争特需で、街に溢れていた数百万人の失業者はフル操業の軍需産業で職を得て生活できるようになった。
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 小林よしのり「1943年の米軍の調査では米兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えていた。その狂気はそのまま戦場に持ち込まれた。従軍記者エドガー・L・ジョーンズは次のように書いた。われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を八回し、救命ボートを機銃掃射し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけそれで置き物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきた」(『戦争論 3』P.238) 
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 日本陸軍は、太平洋地域に戦線が拡大した為に、兵員や物資の海上輸送を強化するべく船舶兵を追加した。
 日本海軍は、艦隊決戦の思想にこだわり、海上輸送の護衛には関心が薄かった。
 日本陸軍船舶輸送司令部は、輸送に必要な艦艇を独自に研究していた。
 強襲揚陸船「神洲丸」、大型発動機艇(大発)、小型発動機艇(小発)、武装大発動艇(武装大発)、高速輸送艇(高速艇)、駆逐艇、潜航艇母船、潜航輸送艇、陸軍空母、など多様な船艇を建造した。
 日本陸軍の船舶自衛研究は、日露戦争時の輸送船・常陸丸事件からである。
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 日本陸軍は、海外に約100万人を派兵していた。
 アメリカ海軍は、日本本土と南方の海上輸送を遮断する為に、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に潜水艦隊を配置して「群狼作戦」を始めた。
 日本海軍は、主力艦船を島嶼防衛と敵主力艦隊撃滅の作戦に投入していた為に、急造の護衛艦船を輸送船団に付けた。
 急造の護衛艦では、アメリカ海軍潜水艦の攻撃から船団の全ての輸送船を守る事が出来なかった。
 輸送船も、軍専用の輸送船ではなく民間の船舶を無理して使用した為に、速力が遅く格好の標的となっていた。
 軍部としては、南方の激戦地に兵員や戦略物資を運ぶ為に、輸送船の犠牲を承知でバシー海峡に輸送船団を送り出していた。
 バシー海峡に於ける輸送船被害は予想通り甚大であったが、軍部には他に有効な補給手段がなかった為に「バシー海峡の悲劇」を回避する事なく続けた。
 もし。朝鮮から連れてきた従軍慰安婦が輸送船に乗船してたおであれば、彼女らもバシー海峡に沈んでいる。
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 1943年 アメリカ軍兵士捕虜は約14万人で、その内3分の1が捕虜収容所で日本軍の虐待で死亡したとされている。
 日本軍は、42年3月にインドネシアを軍事占領してオランダ人など敵性外国人を民間人抑留所に収容し、さらにユダヤ人を選別してユダヤ人のみの抑留所に収容した。
 ユダヤ人世界征服陰謀説を信じる日本軍人は、占領地のユダヤ人を秘密結社フリーメーソン会員か支配階級であるユダヤ系国際金融資本の手先と見なし、ナチス同様に隔離する必要があると信じていた。
 ジャワ憲兵隊は、インドネシアの全ユダヤ人を強制連行する為に、一般人を逮捕し拷問して名前と住所を吐かせた。
 日本軍は、捕らえたユダヤ人を抑留所「テルアビブ」に隔離して、銃と鉄条網で厳重に監視した。
 収容所の管理運営は、朝鮮人兵士か朝鮮人軍属に押し付けられていた。
 その扱いは、ドイツ親衛隊の様に非人道的であったと言われている。
 戦後。オランダのB級C級戦犯裁判所は、ユダヤ人弾圧を行った日本人兵士をナチスが行ったホロコースト同様の「人道に対する罪」で処刑した。
 一部のユダヤ人研究者は、ユダヤ人迫害は軍上層部の命令であり、昭和天皇と日本政府はユダヤ人弾圧の事実を隠蔽していると非難している。
 日本国内の人種差別反対団体は、昭和天皇と軍部はナチス同等かそれに近いホロコーストを行ったと確信し、ユダヤ人研究家の協力を得て犯罪行為の調査研究を行っている。
 世界世論に於ける、昭和天皇と軍国日本への非難は現代でも止む事がなく、弁護する声は一つとしてない。 
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 アメリカの民意は、人種差罰的に、軍国日本を徹底的に破壊し、軍国主義者を容赦なく殺し、昭和天皇の死刑を含む厳罰を、圧倒的多数で望んでいた。
 対日占領政策を協議していた組織の議論は、1,介入慎重論。2,積極誘導論。3,介入変革論。4,隔離放置論であった。
 ルーズベルトの諮問機関である戦後外交政策諮問委員会・領土委員会は、「戦後日本国内で諸改革を実行する場合、天皇制度を含めた日本の国内事情に直接干渉する事が、アメリカ及び連合国全体の目的達成と利益獲得にとって望ましい結果をもたらすかどうか」の議論を開始した。
 武力で国家政策に直接介入するより、道徳及び精神で内政に間接的影響力を与えるべきであるという結論を出した。
 問題は、「侵略戦争を命じた昭和天皇の戦争責任に対する処罰」と「軍国主義の根源である天皇制度を存続させるかどうか」であった。
 ホーンベック極東部長ら対日強硬派は、シカゴで天皇制度国家日本を平和的に再建築して国際社会の主要メンバーに復帰させるべきであると演説したグルーを、天皇制擁護派・宥和主義者と批判した。
 リベラル派や専制君主反対派は、天皇制度の廃止と日本の民主化を求めていた。
 キリスト教会も、日本をキリスト教国に生まれ変わらせる為に、異教の神道と異教徒王・天皇を日本から完全排除する事を求めていた。
 アメリカ世論は、無条件降伏の原則を支持し、国家元首昭和天皇のリンチ的処刑を求めていた。
 蒋介石は、中国共産党の新たな政治理論に対抗する為に、孫文三民主義を正統に受け継ぐ者として中国之命運を発表した。
 地方の反蒋派軍閥は、地盤である農村部を中国共産党に支配された為に、毛沢東に味方した。
 スターリンは、アメリカの武器援助を受けていた為に、ソ連政府はもとよりロシア共産党の指示を無視しがちであったコミンテルンを解散させた。
 幹部492人中134人を、反スターリン派として処刑した。
 コミンテルンの機能を、政府外交部と赤軍情報総局などに移管した。
 アメリカは、戦時情報統制として、戦死した日本軍兵士の悲惨な写真を新聞紙や雑誌に載せたが、アメリカ軍兵士の死体写真は厭戦気運を広めるとの理由で禁止した。代わりに、戦意昂揚の為に、和やかに寛いだ兵士達や勇猛に戦場に向けて行進する兵士達の写真を掲載した。
 イギリスのSIS(情報局秘密情報部、MI6=軍事情報部第6課)とSS(情報局保安部、MI5)は、戦後のヨーロッパに共産主義を滲透させない為に、ソ連軍がドイツ領に侵攻する前にナチス・ドイツとの早期講和を計画した。
 そして、ソ連ナチス・ドイツを戦わせて共倒れする様にしむけた。
 SISは、ドイツ軍情報部と秘密裏に接触し、中立国ポルトガルで講和の為に会議を開いた。
 ソ連は、秘密会談の情報を得るや、ソ連のスパイであるSIS幹部キム・フィルビーに指令を発した。
 フィルビーは、会談の内容をドイツ軍側の謀略と報告して、早期講和を潰した。
 イギリスには、ケンブリッジ大学出身のソ連スパイがいた。
 SISのフィルビー。SSのアンソニー・ブラント。外務省のガイ・バージェス。ドナルド・マクリーン等である。
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 連合軍は、タイに対する空爆を強化した。
 タイは、日本の敗北後を見据えた戦後外交として、欧米留学経験者を集めて反枢軸の自由タイ運動を始め極秘で連合軍に協力した。
 自由タイは、ニューデリーから、ビブン批判と日本軍への抵抗を呼びかける短波放送を始めた。
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 ハーバート・ノーマンは、太平洋問題調査会(IPR)から『日本における兵士と農民』を出版し、日本共産党の講座派マルクス主義理論を採用して軍国主義国家を解体すべきだと主張した。
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 1月6日 イギリス陸軍は、日本軍の捕虜に対する収容情況の発表に対し、国際赤十字の確認を得て「その生活情況は満足すべきものである」と評価して、捕虜虐待のない事を認めた。
 1月9日 日本政府は、南京・中華民国国民政府と「租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国協定」を締結した。
 日本国全権大使の重光葵駐中華大使は、南京の国民政府大礼堂で、南京政府汪兆銘主席との間で日華共同宣言に署名した。
 南京政府は、対米英に対して宣戦布告した。
 1月14日 日本軍は、ガダルカナルから撤退する為の支援部隊として、矢野大隊約750人を送り込んだ。 
 1月24日(14日〜) カサブランカ会議。ルーズベルトは、相談もなく記者会見で、突然、枢軸国に対して無条件降伏を要求すると言明した。
 「ドイツ、日本およびイタリアには無条件降伏を要求する事を決定した」
 チャーチルはもちろん両国代表団は、ルーズベルトの思い付きの発言に驚愕した。
 チャーチル「全ての敵国に無条件降伏を要求する、大統領が1月24日の記者会見で述べるのを聞いたが、それにはいささか驚いた。イスメイ将軍も同様に驚いたようだった。私は大統領に続いて発言したが、彼を支持し、彼の言葉を追認した」
 無条件降伏では、枢軸国が最後の一兵になるまで抵抗するとして、無条件降伏の解釈を緩和させ曖昧にするべく言葉巧みに糊塗に努めた。
 ルーズベルトの理想主義は、寛容な平和を求めるではなく、厳罰を持って望むという過酷な平和であった。
 ルーズベルト「突然記者会見が決まって、ウィンストンも私も十分な準備が出来ていなかった。その時にグラント将軍が南軍に無条件降伏を要求した事を思い出した。それで、気付いた時には無条件降伏を要求すると言ってしまっていた」
 ルーズベルトは、たまに、子ども向けの英雄談的な戦記物や偉人賢人の伝記物語は読んだらしいが、政治や外交に役立つ歴史専門書は読んだ事がなかった。
 日本に対しては、自由と民主主義による共和国に生まれ変わらせる為に、専制君主である天皇制度を廃止し、侵略と軍国主義を完全排除して、日本列島の中に押し込めてというものであった。
 国務省内の元駐日大使ジョセフ・グルーら知日派は、無条件降伏で天皇制度の廃止を求める事は、戦争を長引かせるだけで益がないとして反対した。
 ルーズベルトのブレーン達(大半がユダヤ人)は、グルー達を宥和主義者と非難し、厳罰を持って望むべきであるという対日強硬策を進言した。
 ルーズベルトは、日本専門家であるグルー達の天皇制度存続の寛容策を退け、ブレーンの天皇制度廃止の苛酷策を採用した。
 反日的国民世論は、日本の民主化の為には天皇制度を廃止すべきであるとした。
 日本の軍部及び軍国主義者は、天皇と日本を敵の脅威から守り、天皇を「人」として処刑させない為に全員が玉砕を覚悟した。
 アメリカは、「世界平和の大義」から、天皇ファシズムと日本軍国主義の中核である天皇神話を地上から消滅させようとした。つまり、日本のキリスト教化である。
 日本は、戦争を早期解決する手段をふさがれた。戦争を止めるには、イタリアの様に天皇を自らの手で処刑するか、ナチス・ドイツにのように自殺に追い込むか、天皇を連合国に差し出して処刑させるかの、いずれかの方法しかなかった。
 戦後の反天皇派日本人は、国民の命を救う為に、アジアへの侵略を止めさせる為に、軍部の強硬派を説得していずれかの手段を実行すべきであったと、将来有る子供達に正しい歴史として教えている。
 スターリンは、欧州の西海岸に第二戦線を築き、ドイツ軍の戦力を分割する事を求めた。
 アメリカ軍は、英仏海峡からの上陸作戦を主張した。
 チャーチルは、欧州上陸作戦に反対し、地中海・中東作戦を主張した。
 アメリカは、イギリスが自国の植民地を維持しようとしているとして不満を漏らした。
 ルーズベルトは、ソ連ナチス・ドイツと、軍国日本がイギリスと、一定の条件で単独講和を結び、アメリカ一国が両面作戦を強いられる事を防ぐ為に「無条件降伏」の原則を唱えた。
 コーデル・ハルカサブランカ会議より3年以上も前に始まった国務省の戦後計画の討議において、我々は、無条件降伏のアイデアを持っていなかった」(『ハル回顧録』)
 ウィリアム・リーヒ「カサブランカで驚くえき出来事があった。それは、大統領と首相が出席して開かれた最後の記者会見で、『無条件降伏』の原則が発表された事であった。私の知る限り、この政策は、米英合同参謀長会議では討議されなかった。軍事的観点からすれば、この政策は我々が敵を破壊しなければならないという事を意味するが故に、その実施には、戦闘において我々の困難を増大させる事になるかも知れなかった」(『私はそこにいた』)
 アーネスト・キング「このルーズベルトのお気に入りのスローガンは間違いである事をますます確信するようになった」(『艦隊提督キング』)
 アメリカ軍首脳部は、無条件降伏の原則は早期和平の妨げになると憂慮した。
 1月28日 東條英機首相は、国会での施政方針演説で、ビルマとフィリピンを早い時期に独立させる事を明言した。
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 2月 スターリングラード攻防戦で、ドイツ軍は降伏した。ソ連軍は大攻勢に転じ、ドイツ軍の敗走が始まった。
 2月1日 日本軍は、戦死者以上の餓死者を出してガダルカナル島から撤退を開始し、7日に撤退完了した。
 矢野大隊は、アメリカ軍を攻撃し、約半数を犠牲にしながら撤退を成功させた。
 アメリカ軍は、5万人を投入して約6,800人の戦死者を出した、苦しい攻防戦であった。
 2月2日 OSS(戦略情報局)に勤務していたバナー・フェラーズは、ウィリアム・ドノバン長官に対して、東條演説の危険性を訴える報告書を提出した。
 「フィリピンとビルマに独立を約束した東條のスピーチは由々しき結果を生むと思われます。強い反英感情を抱えるビルマ人は独立を受け入れ、日本人と共に白人と戦うかもしれません」
 さらに。5月24日にも、亡命中のマニュエル・ケソン大統領の懸念をドノバンに伝え、早急に対処するべきであると訴えた。
 「手遅れになる前に、極悪非道な日本の戦争指導者の下に10億の東洋人が結集するのを防がねばなりません」
 OSS文書「多くの軍事的努力が欧州に傾注されている為に、当面、極東での我々の唯一の武器は心理作戦です。これは国家的な重要性を持ち、戦時と戦後の極東でのアメリカの立場を危うくします」
 アメリカが最も恐れたのは、対日戦が人種間戦争と位置付けられ、日本軍の進撃が白人支配からの解放と認識される事であった。
 ゆえに、東條演説に恐怖した。
 フェラーズは、日本を残虐な侵略国家というイメージを作り上げる為に、日本軍兵士による虐殺事件を数多く捏造して流す戦争犯罪情報宣伝計画(WGIP)に深く関係した。
 2月12日 ルーズベルト「我々が交渉に応じる唯一の条件は、……カサブランカで宣言したとおり『無条件降伏』である。この政策で妥協をするつもりはないが、枢軸国の一般の人々に危害を加える意図はない」
 2月13日 南京政府軍は、統治権が及ぶ範囲内での治安を維持する為に、日本軍の協力を得て重慶政府軍と中国共産党のゲリラに対して大攻勢に出た。
 2月18日 日本軍は、37年1月1日以降に上海に移住した無国籍ユダヤ人を約7,000人に対し、5月18日迄に上海ゲットー移住する様に命じた。
 上海のユダヤ人は、ナチス・ドイツと同盟を結んだ軍国日本を打倒するべく地下秘密抵抗組織を結成し、反日朝鮮人組織らと連絡を取り、日本軍の情報を流し始めた。
 日本側のユダヤ人への親切心は裏目に出たが、昭和天皇の希望をうけてユダヤ人難民をできり限り保護した。
 だが。ユダヤ人は、昭和天皇東條英機松岡洋右ヒトラーと同罪の極悪人として憎んだ。
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 3月 大本営は、ニューギニアに大兵力を派兵する事を決定し、第18軍を編成した。兵力は9万5,000人。航空機は280機。
 終戦までに16万人以上が投入され、45年の敗戦時に捕虜収容所に収容されたのは約1万2,000人だけであった。
 アメリカ陸軍航空部隊は、どうすれば日本の木と紙から作られた民家を焼きはらい民間人を焼き殺すかを研究する為に、ユタ州ダグウェイに日本家屋の街並みを再現し、爆撃実験を繰り返していた。
 日本住宅は非常に燃えやすい事に着目し、爆弾ではなく焼夷弾による都市攻撃の研究を開始した。
 科学者は数多くの焼夷弾を製造して実験を繰り返し、新型のM69を開発して大量生産を始めた。
 カーチス・ルメイ「もし戦争に敗ければ、私は戦争犯罪人として裁かれるだろう」
 アメリカの軍需産業ユダヤ系国際金融資本は、連合軍の勝利の為に日本焦土作戦に全面協力していた。
 3月2日・3日 ダンピール海峡の悲劇。ラバウル港を出港した輸送船8隻と護衛の駆逐艦8隻は、ニューギニア島ラエに向かう為にダンピール海峡を通過中に攻撃を受けた。
 ラバウル航空隊所属の零戦が、敵攻撃機の大軍から輸送船団を守る為に奮戦したが防ぎきれなかった。 
 輸送船団は全滅し駆逐艦4隻も撃沈され、約3,000人が死亡した。
 制空権を持つ連合軍機は、海上を漂流する日本軍兵士に機銃掃射を加えて殺害した。
 3月15日 タイム誌「低空飛行の戦闘機が生き残りのジャップで一杯の救命ボートを血の海に変えた。ジャップに浴びせられたこの残忍さは、かって彼らがしばしば示したものである。今回の攻撃の結果、岸にたどり着く事ができたジャップはほとんどゼロに近かった」
 3月23日 ロサンゼルス・イグザミナー紙「太平洋を巡る戦いは、東洋人種と西洋人種の戦いである。どちらが、世界の支配者になるかの戦いなのである」
 アメリカの報道機関は、日本人隔離政策を全面的に支持していた。
 3月末 昭和天皇は、戦争には勝てないとの弱気から、木戸幸一内大臣に早期に講和を行うべきではないかと漏らした。
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 4月 アメリカ海軍潜水艦は、日本の海上輸送路を遮断する為に、日本の船舶を見付け次第全てを撃沈した。
 日本陸軍は、海上輸送の困難を予想して陸上輸送を充実させるべく、大陸の鉄道や道路を復旧に全力を上げた。
 中国の日本軍は、河南大飢饉とその周囲で餓死線上にある1,000万人以上の救済に全力を上げていた。中国側が飢餓民を日本軍に追い込んだ為に、300万人が日本軍占領下で餓死していた。
 300万人以上の餓死の責任は、日本軍側にあるとされた。
 中国の金融界は、日本軍が食糧や医薬品が買えない様に金融戦争を仕掛けていた。
 日本軍内に忍び込んでいた反日朝鮮人軍属と反天皇派日本人らは、破壊工作を行った。
 東條首相は、華北の食糧問題を解決し、対米英戦争に集中する為に、中国共産党との和解を模索していた。
 4月下旬 日本軍は、ポートモレスビー攻略作戦を発動。
 4月18日 連合艦隊司令長官山本五十六が搭乗していたは一式陸攻は、暗号が解読されていた為に、ソロモン諸島の上空で待ち伏せに遭って撃墜された。
 死因は顔面貫通機銃創及ぶ背部盲貫機銃創で、頭部の銃創はP38G双発戦闘機の重機関銃法ではなく小口径の銃によるものとされた。
 4月20日 重光葵は、東條首相に請われて外相に就任し、ソ連を利用して戦争を終結するべく木戸幸一内大臣と密談した。
 日本海軍は、ソ連の輸送船3隻がアメリカからの武器弾薬を運んでいる疑いがあるとして拿捕した。
 外務省は、海軍側に、ソ連との関係を悪化させて敵側に追いやる危険性があるとして解放を要請した。
 軍令部も、要請を認めてソ連の輸送船を解放した。
 ソ連に運ばれた、アメリカからの武器弾薬の一部が中国共産党軍に送られた。
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 重光葵大戦争を闘う日本には、戦う目的について堂々たる主張がなければならぬ。自存自衛のために戦うと云うのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。東亜の解放、アジア復興が即ち日本の主張であり、戦争目的である。公明正大なる戦争目的が、国民によって明瞭に意識し理解せられることによって、戦争は初めて有意義となり、戦意は高揚する。また若し、戦争の目的さえ達成せられるならば、何時にても平和恢復の用意があるわけであるから、戦争目的の高調及び限定は、平和恢復の基礎工作となるわけである。且つ、かような戦争に乗り出した以上、中途半端で如何にすることも出来ぬ。犠牲に犠牲を生んで行くことは止むを得ぬ。ただ、人としても、国家としても、自ら至善なる本体を見出すことをは、大なる力であって且つ神聖なる仕事である。これによってこそ、たとえ戦争の結果は如何であっても、国として人として将来が立派に見出せるのである」(『昭和の動乱』)
 東条英機首相は、昭和天皇が切望している戦争終結の道筋として、重光葵外相の「アジアの解放と独立」構想に共感し、ビルマ、フィリピンなど占領地区での独立承認作業を始めた。
 重光葵外相は、東条英機首相の許可を得て、アジア諸国による国際会議「大東亜会議」の開催に向けての作業を始めた。
 この時から、日本中心の「自衛戦争」からアジア全体の「解放と独立戦争」に格上げされた。
 つまり、アメリカが主張する「太平洋戦争」ではなく、日本が主張する「大東亜戦争」というのが正しい。
 軍国日本は、負けない為に如何なる犠牲を出し最後の一人になっても戦い抜く覚悟をしていたが、勝てない事も知っていた。
 戦争が希望せぬ形で終わる事を想定し、昭和天皇と国家の名誉を守り、戦死した全ての日本人を犬死に無駄な死にしない為に、戦勝国が掲げる独善的正義に対抗する日本の普遍的正義を打ち立てようとした。
 武士道は、不利な状況で戦いに利がなく負ける事が分かっていても、自分の命を捨てても「名誉」と「志」だけは子孫の為に後世に残そうとした。
 サムライは、「命」よりも「名」を大事にした。
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 林房雄「日本の百年にわたる孤軍奮闘は、これを歴史としてふりかえる時、決して無意味ではなかった。無謀とも言えない。西洋列強の植民地主義と侵略主義の重囲の中にあっては、いかなる名将、大政治家というども他に対策はなかったはずだ。秘密裡ではあったが、当時の政府と軍部の首脳によって、日支戦争不拡大、対米英戦争回避のあらゆる努力が行われたことは、現在発表されている多くの文献が証明している。だが、罠にかけられ、追い詰められた最後の関頭においては、山本五十六元帥ならずとも、玉砕を覚悟の決戦にふみきらざるを得なかった。これが日本の運命であった。慰めは、ださきに引用したオーエン・ラティモアの言葉である。
 『日本が立派にやりとげたことは、アジアにおける植民地帝国の19世紀的構造を破壊することだった』
 『戦時中、日本人によって占領された土地のうち、ただ一つも(旧主人のヨーロッパ人によって)満足にとりもどされたはなかった』
 『百年戦争』をみごとに遂行した日本の犠牲者たちを、だれが『犬死』と笑うことができるか!日本の戦死者たちは歴史の定めた運命に黙々と従い、最も悲劇的で英雄的な死を遂げた。散華である。アジア大陸と南と北に散った花々のために靖国の宮はすみやかに復興されねばならぬ」(『大東亜戦争肯定論』)





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無条件降伏は戦争をどう変えたか

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アメリカの影 (講談社文芸文庫)

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