🎺47:─1─アメリカは、昭和天皇の命と地位の安全を否定した無条件降伏を要求した。ザカライアス謀略放送。1945年5月~No.220No.221No.222 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アメリカは、軍国日本が拒否して戦争を続ける事を承知で昭和天皇の安全を否定した無条件降伏を要求した。
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 ラングドン・ウォーナーは、日本文化を護る為に、京都や奈良と共に広島など幾つかの都市を空爆する事に反対した。
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 アレン・ダレス。5月頃 ウォール街と大企業は、アレン・ダレスに対して、日本の資産や技術が破壊されそしてソ連に奪われない為に、戦争を終結させる交渉を日本の宮中など穏健派と図る事を求めた。
 アレン・ダレスは、ワシントンから、原爆開発の目途が付きつつある事、ルーズベルトソ連に対日参戦を要請している事、といった極秘情報を得ていた。
 ソ連参戦前に日本を降伏させる手段について、グルーら知日派から意見を聞いた。
 結論は、天皇制度を存続させ、昭和天皇の地位と命を保証する事であると。
 だが。アメリカ世論は、ルーズベルトが称えた「無条件降伏の原則」を支持し、天皇制度を廃絶し、昭和天皇を犯罪者として裁き厳罰を要求していた。
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 5月 米内光政海相は、終戦に反対する徹底抗戦派軍人や自殺願望の狂信的右翼による反乱を恐れ、終戦に備えて横須賀鎮守府首脳部の人事異動を行った。
 本土決戦の為に根刮ぎ総動員を行い、64個師団294万人を玉砕部隊として日本全国の海岸に配置した。銃器の数が足らず全部隊に配る事ができず、多くの日本人兵士が竹槍や刃物を武器として玉砕陣地に立て籠もった
 アメリカの戦時情報局は、軍国日本との妥協的講和ではなく、完全なる無条件降伏要求が正当であるとの世論を形成する為に、計画的に反日宣伝を繰り返した。
 各国の諜報機関の協力を得て、日本軍による捕虜虐殺や民間人への非人道的残虐行為を証明する写真を大量に公開した。
 その中には、ヤラセ的な写真も含まれていた。
 戦時情報局「日本の無条件降伏だけが軍国主義の野望と野心を打ち壊す事ができる」
 関東軍は、極東ソ連軍の増強状態から対日戦参戦は避けられないとの判断から、満州の4分の3を放棄して残りで防戦するとの戦略変更を決定した。
 防衛戦再構築完成は早くても9月頃になるとみられ、前戦に一部の部隊を残して後退する様に命じた。
 開拓総局も、関東軍の決定に従って、全ての開拓民に対して「ソ連軍の侵攻が近い」として後方への退避を通達した。
 新京やハルピンなど都市近郊の開拓民への連絡はとれたが、奥地の開拓民村には連絡が遅れた。
 8月に入っても、敗戦の惨状を知らない日本人は、一般的な引っ越しのように全財産を持って非難しようとしてもたついていた。
 中には。せっかく開拓して生活できるようになった農地を捨てるのを得る事に反対して、残って戦うと意地を張る者もいた。
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 アメリカ軍諜報機関アルソスは、ドイツ人科学者ハイゼンベルクソ連に連れ去れる前に捕らえ、身柄をイギリス送って監禁した。
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 5月初め 東郷茂徳外相は、ソ連が参戦する前に終戦交渉を成立させないと皇国日本は共産主義者の手で計り知れないほどの悲惨に見舞われると恐れ、スイス、ポルトガル、スペイン、スウェーデンの公使館に対して、アメリカ側が提示する降伏条件の子細を探るように命ずる極秘電報を打った。
 アメリカ陸軍通信情報局のマジックは、日本政府が本気で降伏の意志を持って行動し始めた事を掴んだ。
 グルーは、天皇制度存続を認める為にはヤルタ極東密約を見直す必要があると、スチムソンに働きかけた。
 スチムソンは、見直しの必要はなく、無人島か軍事施設のある都市に原爆を投下すればソ連の対日戦参戦前に日本は降伏すると確信を持っていた。
 5月以降 ベルン海軍武官やリスボン陸軍武官らも、ソ連参戦をという機密電報を日本に送っていた。
 日本の陸軍、海軍そして外務省は、ソ連参戦情報を掴んでいた。
 ジュセフ・グルー国務次官のトルーマン大統領への書簡「長期的な観点にたてば、日本に於いて我々が望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。日本では民主主義が決して機能しない事は、過去の経験が示している」
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 陸軍第13方面軍司令官岡田資中将は、名古屋空襲で撃墜されたアメリカ軍飛行士を無差別爆撃をした罪で処刑した。
 戦後。軍事裁判所は、岡田資被告を戦犯としてリンチ的縛り首に処した。
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 5月 一部の科学者の間で、アメリカ軍が「広島に新型爆弾を落とす」という噂が流れていたという。
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 5月1日 トルーマンは、原爆に関する諮問委員会である暫定委員会を設立した。
 国務・陸軍・海軍の三省からなる三人委員会は、今後の対日戦について協議した。
 戦時情報局のデイヴィスは、日本が降伏できる様に無条件降伏の条件を緩和し、昭和天皇や政府及び軍部ではなく日本国民に直接戦争を止める様に訴えるべきであると主張した。
 グルー国務次官は、共産主義的人民革命が起きて天皇制度が崩壊する危険があるとして反対した。
 ゲッペルスは、自殺したヒトラーに首相に指名され、ソ連に停戦を申し込んだ。
 ソ連は、ドイツの消滅とも言うべき無条件降伏を要求した。
 ゲッペルスは、ドイツを消滅させる無条件降伏を拒否して、家族と共に自殺した。
 デーニッツ提督は、ヒトラーから大統領に指名され、ゲッペルスが自殺した今となっては最後の代表者として、ソ連ではなくアメリカとイギリスに降伏するべく行動を開始した。
 カイテル元帥とヨードル大将は、残存するドイツ軍をアメリカ軍若しくはイギリス軍に降伏させる為に西部戦線への移動を命じた。
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 5月3日 鈴木首相は、ヒトラーの自殺とベルリン陥落に対して、日本はあくまで戦争を継続するとの談話を発表した。
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 5月4日 東京のマリク大使は、日本政府と宮廷の和平派は徹底抗戦派の軍部に知られない様に戦争の終結に動き始め、その条件として南樺太、千島列島、満州、朝鮮、台湾の放棄を用意していると、モスクワに報告した。障壁となっているのが、天皇中心の国體維持が保障されるかどうかであると伝えた。
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 5月5日 日本政府と軍部は、首相、外相、陸相海相、陸軍参謀総長軍令部総長の6首脳による最高戦争指導者会議構成員会議(最高戦争指導者会議)を設置し、下部官僚組織の影響を排除した協議を始めた。
 日本は、意思決定として、伝統的な皆参加のボトムアップ方式を放棄し、初めて首脳部によるトップダウン方式に変更した。
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 5月6日 ヨーデル大将は、デーニッツの命令でランスのアメリカ・イギリス軍司令部に出頭して降伏交渉を行う。
 連合国は、無条件降伏以外は拒否した。
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 5月7日 参謀次長河辺虎四郎は、ストックホルムリスボン駐在武官に対してソ連軍の移動を監視するように電報を送った。
 連合国軍は、日本側の外交電報を全て傍受していた。
 これ以降。ヨーロッパの中立国にある日本大使館ソ連内の日本大使館・領事館は、大使館員も駐在武官も官僚的縦割りを乗り越えて総出で、鉄道で極東に向かうソ連軍情報を克明に東京に報告し始めた。
 満ソ国境地帯の情報提供者から、兵員や物資の増加でソ連軍の動きが活発化しているとの情報も得ていた。
 7、8月には、40箇師団に達すると見られた。
 軍事に明るい者であれば、日に日に増加する兵力や戦略物資の輸送から、ソ連の対日戦参戦が切迫している事を理解した。それが、察知できないなければ軍事を語る資格がなかった。
 軍部の外務省も、ソ連の対日戦参戦は切迫していると判断したが、ヤルタ会議で決められたであろう参戦期日が分からなかった。
 だが。軍首脳部は、弱体化した関東軍ではソ連軍の侵攻を食い止める事は不可能と分析したが、だからといって援軍を送る予備兵力がないのも事実であった。
 その為に。希望的観測として、幾ら部隊や物資を極東に急送しても、ソ連軍参戦は9月以降か来年春頃になるだろうと判断した。
 関東軍に対しては、其れまでに国境付近の主力部隊を南満州に再配置するように命じていた。
 関東軍も、部隊の後方移動を急いだが、ソ連軍の侵攻はまだまだ先だと自分に言い聞かせて気を落ち着かせていた。
 連合軍に追い詰められた絶望的心理を本土決戦に没頭する事で逃げたいと思う者は、ヤルタ会談で対日戦参戦が約束されたという極秘情報を謀略として疑い、ソ連軍の対日戦参戦は起きないと信じ込んだ。
 政府首脳は、戦争終結工作を続けるに当たり、ソ連軍参戦は有り得ないという希望的観測に縋り付いた。
 日本は、「セーフ・バイアス」に陥っていた。
 河辺虎四郎「ソ連の敵側への参戦は前々から私たちの気にかかる大問題であった。ただ苦しい時には、更に加わるであろう危機来に対しては、理由を考えて、それが現実化しないようにとの希望をつなぎ、そして何人かが、深い根拠もないながらにでも、〝おそらく大丈夫だろう〟などといってくれれば、大いに味方でも得たように感ずる」
 だが。スターリンソ連軍首脳部は、ノモンハン事件などで日本軍に受けた手痛い被害から、関東軍が弱体化したとはいえその戦闘能力を警戒し、日本が降伏しそうなギリギリまで待ってから参戦するつもりであった。参戦時期を、8月中旬から9月頃と想定していた。
 ソ連軍は、日露戦争で一国でロシア帝国と戦争をし他国の援軍もなく少数で大軍のロシア軍を破った日本軍を実力を恐れ、日本軍が崩壊する瞬間まで参戦を控え、スターリンの命令があっても苦し紛れの遅延理由を報告して侵攻を引き延ばした。
 ナチス・ドイツは、国家統治機構としての政府と議会が崩壊し、暫定政権は連合国に「無条件降伏」を受け入れた。
 ドイツという国は、無条件降伏して地上から消滅した。
 連合国軍は、各地にあったユダヤ絶滅収容所などの強制収容所を開放し、人種差別によるホロコーストの実態が明らかになった。
 ロンドンで。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連は、ナチス・ドイツの犯罪を如何に裁くかについて会議を行う。最高権力者で命令を出したであろうヒトラーが自殺して生存していない為に、ヒムラーなど幹部をその共同謀議で裁く事にした。
 ニュルンベルク裁判は、侵略戦争戦争犯罪とする「平和に対する罪」と人種差別による集団虐殺及び民族殲滅を非人道的犯罪とする「人道に対する罪」で、ナチス・ドイツを裁く事になった。
 だが、何れの罪も明らかに「事後法」であった。
 軍国日本は、同盟国が辿った悲惨な「無条件降伏」に連合国の邪悪な意図を読みとった。天皇主義者は、玉砕して屍体の山を築いても、昭和天皇を守ろうと決意をあらたにした。臣民日本人は、自分を犠牲にしても、竹槍や石を武器として徹底抗戦を誓った。
 ソ連国内の日本大使館や各地の領事館は、月末、シベリア鉄道ソ連軍の兵士や戦車や戦闘機や大砲などを大量に東へ向けて輸送している事を、東京に伝えた。
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 マニラで開催された対日心理作戦会議は、「本土空襲を強化して軍部の威信を低下させ、天皇・穏健派政治家と軍部との関係を離間させる」「天皇詔勅によって、アメリカの対日要求を受け入れる形で終戦にこぎつける」等の対日戦略方針を決定した。
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 知日派のジュゼフ・グルー国務次官やボナー・フェラーズ准将らは、「天皇制度存続が可能であると明示すれば、日本は降伏に応じる」と語っていた。
 グルー「日本人の面目を重んじて降伏を可能とする為、天皇制度の容認を含む処遇を示すべきだ。そうすれば、日本人は武器を置く」 
 フーバー元大統領は、ソ連共産主義勢力拡大を阻止する為に、天皇制度存続を指示した。
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 5月8日 ベルリンのドイツ軍は、ソ連に無条件降伏した。
 連合国軍は、ドイツを分割統治してドイツ国家は消滅し、ドイツ国民の権利を制限した。
 敗戦国の国民は、悲惨な境遇に追いやられた。
 ソ連支配下に置かれた地域は、ソ連軍兵士による殺人や掠奪や強姦が多発していた。
 共産主義者による復讐は陰惨を極め、神の許しを否定した反宗教無神論者だけに、反共産主義者の命を虫けらの様に踏みにじった。
 ゲーリング「お前は今、こうやって俺に死刑を言い渡した。だが思い上がるな。歴史は何時の日かお前達に審判を下し、お前達が滅ぶ時がやって来るぞ」(ニュルンベルク裁判で)
 だが。アメリカ人兵士による、ドイツ人女性への強姦事件が多発し、正確な人数は分からないが5,000人から1万人と言われている。
 占領地では、生活物資を得る為にアメリカ人兵士の相手をする事で手に入れるようになり、強姦事件は激減した。
 ニューヨーク・タイムズ紙「我々は勝利した。ドイツ人は優れた民族であって、もしドイツ人がナチスを排除するならば、我々はその復興を援助しよう」
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 日本政府は、戦争目的が自存と自衛である以上、「戦争を継続する」との決意声明を発表した。
 トルーマンは、対ドイツ戦勝利を祝う公式声明を発表し、日本に対してさらなる抵抗を続ければ完全な破壊が待っていると警告した。
 「我々の猛襲は日本の陸海軍が無条件降伏をするまで止む事がないであろう。……日本人にとって、いったい軍隊の無条件降伏とは何を意味するのであろうか。それは、日本の現在の災厄の崖縁に立たせた軍事指導者の影響を抹殺する事。兵士、水兵が、家族、畑、仕事に帰る事。現在の断末魔の苦しみを続けながら勝利するという無駄な希望を捨て去る事である。……日本人を殲滅したり奴隷化する事を意味しない」
 戦時情報局のザガリアス海軍大佐は、4月頃から、日本国民に対して即時戦争を止めるようにとのプロパガンダ放送を始めていた。
 戦時情報局(OWI)の対日プロパガンダ放送は、無条件降伏を進めるザカライアス大佐の謀略放送が始まる。海軍の和平派は、日本人有力者に友人が多い上に、ザガライアス海軍大佐の自称大統領公式スポークスマンの肩書き信用して、本土決戦を避ける為に終戦工作を始めた。
 陸軍の徹底抗戦派は、宮中や重臣による和平交渉の動きを察知して警戒し、憲兵隊を動かして和平派の監視を強めた。
 外務省は、公式放送ではなく謀略プロパガンダ放送で流されているザガライアス放送を信用していなかった。
 皇室近くの和平派も、ヒトラーの自殺によるナチス・ドイツの無条件降伏とムッソリーニのリンチ殺害とファシスト・イタリアの無条件降伏を目の当たりにしているだけに、一情報大佐の謀略プロパガンダ放送を額面道理に信用するほど馬鹿ではなかった。
 当時の外務省に同姓同名の加瀬俊一が二人いて、一人は東京の本省で大臣秘書官をし、もう一人はスイス行使になっていた。二人とも、戦争を終結させるべく奔走していた。
 加瀬俊一(東郷外相秘書)「ザガライアス放送というものは、やはり日本全土の上陸作戦を行わないで、適当に終戦に持って行けないかという事で、日本をそこに誘導する目的で一種の心理攻勢をしているんですね。もう一つの狙いは、日本にももののわかる人物がいるはずである、全ての人が戦争気違いになっているはずじゃない。特に天皇陛下はお立場から言っても、戦争を早く止める事を希望しているに違いないと考えたんですね。これは正しいんです。そこで、何とかして」この放送を陛下のお耳に入るようにしたいと思ったんでしょう。実は、お耳に入っているんです。入るようにしたのは我々です」
 ユダヤ系報道機関が支配するアメリカ世論はもとより国際世論は、依然として軍国日本を侵略戦争を起こした軍国主義犯罪国家として糾弾し、昭和天皇を虐殺者として裁き処刑するか追放を求めていた。
 天皇の臣民を誇りとする天皇教徒ともいうべき日本人は、全滅を覚悟で、神の裔・昭和天皇を守る為なら素手でも戦おうという悲壮なる決意を固めていた。
 だが、一部の日本人は自分と自分の家族が生き残る為なら、昭和天皇を敵に差し出し人民裁判で有罪となって処刑されても、日本の神々を消失させる可能性のある天皇制度廃止もやむおえないと考えていた。
 中田格郎「終戦の少し前、サンフランシスコから入ってきたザガライアス放送も、最初は雑多な宣伝放送と一緒に考えていたが、この連続放送は、たえず、〝無条件降伏という事の意味〟を繰り返す。 『無条件降伏という事は、日本国民の絶滅や、奴隷化を意味しない』とか 『無条件降伏とは、陸海軍が手を上げる事である』といったぐあいであり、しかもこの放送をやっている者は、非常に日本の事情を知っている奴だなあ、と思ったので印象に残っていた」(『昭和の天皇 愛蔵版 3』)
 橋本正勝(第二総軍作戦主任参謀)「私達が気にしていたのは、政府首脳が軍の本土決戦のカゲで、どうやら終戦工作をやっているらしいという事だった」(『昭和の天皇 4』)
 戦略活動局(OSS)は、中国で活動する日本共産党幹部野坂参三らの協力を得て、昆明に対日プロパガンダ放送局を開設して謀略放送を行っていた。彼等に協力する反天皇派日本人や反日朝鮮人は、中国はおろか日本・朝鮮・満州などで予想以上に数がいた。敗戦後、彼等は、神国日本を崩壊させても自己の信念を貫くべく、ソ連の指示と一部のユダヤ系ニューディーラーの支援を受けて、日本に暴力的共産主義革命を起こし天皇制度を打倒するべく混乱を煽った。
 スイスのベルンで。日本大使館付き海軍武官藤村義朗は、戦争終結の為にOSSのアレン・ダレスと接触し、東京にその事情を報告した。
 アメリカ軍は、日本の暗号を傍受していた。
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 トルーマンは、OWI(戦時情報局)が作成しリーヒ提督が賛同した、軍国日本に対する無条件降伏の定義と平和への呼びかける声明を発表した。
 「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまで止む事はないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争を終わらせる事を意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力を排除される事お意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない」
 海軍情報部副部長エリス・ザカリアス大佐は、1920年から5年間日本に駐在した経験とOSSや海軍の情報から天皇制度を残せば日本は降伏すると確信して、海軍首脳部を説得した。
 アメリカ海軍は、日本本土に近づくにつれて日本軍の激しい抵抗にあって数多くの被害を出していただけに、日本が早期に降伏するのなら無条件降伏の修正に同意した。
 ザガリアスは、アメリカ海軍内の厭戦気分を受け、対日心理戦として短波放送を行った。
 日本軍守備隊の玉砕は、無駄ではなかった。
 回顧録「日本の降伏を決断できるのは天皇しかいないと考え、私は天皇に呼びかけた。というのも私はスパイから二つの情報を得ていた。和平を求めるグループの背後に天皇がいる、大将・鈴木貫太郎が降伏の秘密交渉を主導する、お二つだ」
 同盟通信社の井上勇記者らは、海外放送を傍受して内容を政府に伝えた。
 井上記者とザガリアスは、短波放送で極秘に私的な会話を行った。
 ザガリアスの個人的見解として、無条件降伏しても昭和天皇の安全は保障されると伝えた。
 日本外務省と軍部そして昭和天皇は、ザガライアス放送を聞いていた。
 外務省は、2人の会話を傍受して東郷茂徳外相に伝えた。
 東郷外相は、鈴木首相に伝え、早期に戦争終結させる下地ができたと確信し和平交渉を急ぐように進言した。
 アメリカが主張する無条件降伏とは、軍事的に軍部の排除であって政治的に天皇制度を中心とした国體廃絶ではないと。
 鈴木首相が求めたのは、アメリカ政府による公式な「国體護持の有条件声明」で、昭和天皇の身の安全であった。
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 5月9日10日 東京大空襲
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 5月9日 佐藤大使は、ナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏した事を受けて、連合国は一人戦う日本に対して厳しい態度で臨んでくる事であろうとの分析を、重光外相に伝えた。
 「ソが我が方に押付けんとする条件は我が陸海軍の解消を含は勿論、殆ど無条件降伏に近かるべく、しかしてソ連自身の取り分としては『ポーツマス』条約の解消を主眼として、凡そ左の如きものなるべきか。
 (イ)南樺太の還付。
 (ロ)漁業権の解消。
 (ハ)津軽海峡の開放。
 (ニ)満州支那主権下復帰。
 (ホ)北鉄および日本の敷設に係わる北満州戦略的鉄道線の譲渡。
 (ヘ)ハルビンソ連行政下編入
 (ト)ソ連に対する関東州の租借譲渡。
 (チ)内蒙のソ連部内編入
 の諸問題の他
 (リ)朝鮮の処分、支那問題
 等をも持ち出し来るべし。
 しかしてソ連が右の如き条件を我が方に突付くる場合、必ずや強大なる態度を以て臨み来たるべく、ここにおいて我が方も和戦何れかを択ばざるべからざる羽目となるべし」
 重光葵外相は、戦争を終結するべく最善の手段を模索して遂に果たせず、A級戦犯として裁かれた。
 トルーマンは、対日戦においても、日本が無条件降伏するまで戦い抜くと宣言した。
 チャーチルは、トルーマンに早期に三国首脳会談を開く様に要請した。
 トルーマンは、あやふやな言い訳をして会談開催を延期した。
 ロンドン駐在の国民党政府武官は、重慶の軍事委員会に、「ロイター通信が本日、アメリカのウォールストリート・ジャーナル紙報道を引用して、『ソ連は間もなく参戦する』と配信した」と知らせた。
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 アメリカ側の暫定委員会は、合同方針決定員会でのケベック協定をたたき台にして原爆の使用を審議し、5月に31日に結論を出した。
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 5月10日 ワシントン・ポスト紙は、無条件降伏にこだわると日本は徹底抗戦を続けて損害が増大して得策ではなく、「日本に降伏の条件を示し、降伏を促進させる時だ」と主張した。
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 5月11日 スイス公使加瀬俊一は、OSSの協力者であるフリードリッヒ・ハックに接触して「ソ連を仲介として終戦を実現すると、ソ連のアジアでの権威が高まってしまうので、自分はアメリカと和平交渉がしたい」と申し出た。
 加瀬俊一公使は、OSSのドノバンと極秘に停戦交渉を始めた。
 日本側の希望は、天皇の安全と天皇制の存続であった。
 昭和天皇に近い近衛文麿吉田茂広田弘毅等は、ソ連を仲介者として終戦交渉をするよりもアメリカとの直接交渉を望んでいた。
 フォーレスタル海軍長官は、ハリマン大使と海軍首脳と会合して、ソ連の参戦は必ずしも必要ではなく、日本の顔が立ち名誉が守れる様な条件に無条件降伏の原則を修正すべきであると示唆した。
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 5月12日 武器貸与議定書委員会・船積み小委員会は、トルーマンが二日前に発令した大統領令に従って、ソ連行きの軍事物資輸送を全て中止する命じた。
 ソ連側は、激しく抗議した。
 アメリカ側は、ポーランド問題に関してのソ連への抗議が目的であったが、対日戦継続を考慮して譲歩して緩和した。
 原爆目標委員会(12日・13日)は、京都、広島、横浜、小倉を標的とし、新潟を代替地候補とした。
 特に、人類初の実戦に於ける原爆投下及び生体調査の実験場とし、京都ほど最適で最良の候補地はなかった。
 地形は盆地状で、市民は市内に集中して住んでいる。
 市の中心部・梅小路操作場の上空で爆発させれば、直径5キロ圏内の市中心部は全て灼熱の火炎に包まれて消滅し、盆地全体は爆風で吹き飛ばされる。
 60万人以上の市民を確実に焼き殺すか、生き残っても深刻な後遺症を残す。
 ユダヤ人研究者らも、京都は、原爆の破壊力と人体に対する生体反応などの貴重なデータを得る事ができると歓迎した。
 グローブス将軍は、京都への爆撃を主張した。
 「京都に原爆を落とせば、日本人の心理に大きな影響を与え、戦争を終わらせるに最も効果的である」
 スチムソンらは、京都への原爆投下に反対した。
 ヘンリー・スチムソンは、次官補のジョン・マクロイに「もし京都を投下候補地から外すと感傷的な老人と思われるかな」と語った。
 ルメイ「京都には、歴史と美術品があるだけなので軍事的な意味がない」
 東京を、通常爆撃の目標リストから除外したが、将来的に原爆投下実験地にする為ではなく、焼け野原となり焼くべき建物がなくなったからである。
 原爆投下が爆破被害実験である以上、破壊する建物群がなければ実験地には不適格となった。
 原爆目標委員会は、アメリカ軍に対して、原爆投下実験候補地に選んだ京都、広島、小倉、横浜等への通常爆弾による爆撃を禁じた。
 理論的合理的科学的思考をする白人キリスト教徒にとって、異教の聖地・京都に対する感傷はなく、非白人の日本人に対する憐憫の情もなかった。
 アメリカ人は、宗教的白人至上主義による人種差別から、日本人の生死など歯牙にもかけず、人間であらざる日本人を幾ら殺しても人道的な悔悟の念に苦しむ事はない。
 日本に対する、原爆投下実験と生体実験の実施は決定事項であり、中止はありえなかった。
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 5月13日 近衞文麿は、昭和天皇に、ソ連の軍事介入による共産主義革命の危険が増大している上奏した。
 近衛文麿木戸幸一内大臣東郷茂徳外相(A級戦犯)・米内光政海相ら穏健派は、軍部に知られない様に極秘で和平工作を始めた。
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 5月13日・14日 アメリカ海軍機動部隊は、日本の航空戦力を破壊する為に、九州各地にある飛行場を空襲し、格納庫、弾薬庫、燃料貯蔵庫、兵舎など全ての建物を爆撃して破壊した。
 日本軍航空隊には、敵戦闘機と互角に戦えるほどの熟練パイロットは数が少なく、空中戦が出来ない新米パイロットは特攻隊員として送り出していた。
 劣勢にあった日本軍航空隊は、優れた戦闘機乗りを前線から呼び戻して迎撃態勢を整えた。
 航空産業も、爆撃を受けて被害を出して苦しい中で、Bー29に対抗する為の最新鋭機を開発製造していた。
 だが、その最新鋭機を乗りこなせる優秀なパイロットが日本にいなかった。
 つまり。作戦を立案する有能なエリー将校が多くいたが、不利な状況下で果敢に戦って勝ちを得るという優秀な将校と、戦争を支える卓越した補給将校が圧倒的に不足していた。
 主要都市には、高射砲などの対空砲火機を配備した。
 アメリカ陸軍爆撃部隊は、日本軍が防空体制を整える頃には主要都市の破壊を終了し、爆撃目標を地方の中小都市に切り替えていた。
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 5月14日 三回にわたる最高戦争指導会議で、ソ連との交渉目的は参戦防止と中立確保として戦争終結は棚上げとした。
 米内海相は、阿南陸相に対して「我々は皇室の擁護ができさへすれば良い。本土だけになっても我慢しなければならぬではないか」と発言した。
 バチカンスウェーデン、スイスなどで、OSSと極秘で行われていた非公式の和平工作は中止と決定した。
 松谷誠大佐は、阿南陸相に極秘で会い、国體の護持を最低条件としてソ連を通じて和平交渉に入る有利さを説明した。
 海軍中央は、藤村武官に対して「アメリカ側の謀略の疑いあり」と伝えた。
 スイス公使加瀬俊一は、ソ連が日本を攻撃する前に、ソ連を仲介として米英と終戦交渉を始めるように勧告する電報を打った。
 アメリカ軍諜報機関は、日本外交暗号電報を傍受し解読した。
 スチムソンは、イギリスのイーデン外相と昼食をとりながらS1(原爆の暗号)や対ソ外交などで話し合った。
 OSSは、日本に即時停戦を受け入れさせる為に工作員を日本に送り、昭和天皇に直接か、親米派で停戦を希望する近衛文麿広田弘毅平沼騏一郎らを介して説得するかの計画を立案した。
 それが、皇居パラシュート作戦であった。





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