🎺50:─1─アメリカとイギリスは、昭和天皇が終戦交渉を望んでいる事を知っていた。1945年7月~No.239No.240No.241No.242 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アメリカの自由と民主主義の理想は、人民主権で有り、それを妨害する専制君主制は一切認めず廃止する事である。
 その好例が、ハワイ革命によるハワイ王国の廃止である。
 人民主権からすれば、日本の神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)もまた廃絶すべき人民の敵であった。
 キリスト教会は、占領地をキリスト教化する為に、各地にあった民族宗教や土着信仰を破壊した。
 古代から受け継がれてきた、日本独自の祖先神・氏神信仰も滅ぼすべき悪魔の異教であった。
 祭祀王・男系天皇の祭祀とは、神代から継承された祖先神・氏神を祀る事である。
 祖先神・氏神祭祀は、一子相伝として男系のみに受け継がれた閉鎖的密室における排他的神事であり、不特定多数の女系では執り行えない神聖な神事である。
 無宗教反神論者は、古代から途絶える事無く継承されてきた民族宗教の祖先神・氏神信仰を、非科学的愚行として安全拒否している。
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 日本陸海軍航空部隊や陸軍高射砲部隊は、無差別縦断爆撃に襲来するB29編隊に反撃し、何機も撃墜していた。
 憲兵隊は、墜落したB29爆撃機から脱出したアメリカ人搭乗員達を捕らえ、爆撃で被害を受けた住民の報復リンチから守っていた。
 家族を無差別爆撃で惨殺された住民や日本兵士によって、捕虜虐待が起きていた。
 戦後。捕虜虐待した者は戦犯として裁かれ、有罪判決を受け、幾人かはリンチ的縛り首で処刑された。
 国際法に於いて、一般市民、女子供への無差別爆撃は戦争犯罪とはされず、無差別爆撃をして捕虜となった者を虐待・処刑する事は戦争犯罪とされた。 
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 7月 尖閣諸島遭難事件。沖縄・石垣島の島民達が乗船する避難民船が、アメリカ軍機の攻撃を受けて尖閣諸島に漂着した。攻撃による死傷者は、約100名。
 連合国は、戦時では「戦争の勝利」が最優先されるとして、軍人も非戦闘員も関係なく日本人であれば例外なく攻撃対象としていた。
 連合国軍は、船舶であれば、民間船であれ軍用船であれ無差別に攻撃して撃沈していた。
 アメリカ軍は、全ての攻撃を真珠湾騙し討ちとバターン死の行進をもって正当化していた。
 白人キリスト教徒兵士の多くは、宗教的人種差別から、非キリスト教徒の日本人を絶対神に愛された名誉ある人とは認めず、非白人として命の尊厳を否定し、薄汚い人種として害獣(イエローモンキー)か害虫の如く駆除の対象と認識していた。
 東郷茂徳は、ソ連を仲介として、停戦交渉するべく特使の派遣を鈴木貫太郎首相に進言した。そして、特使に近衛文麿の起用を提案した。
 日本の外交当局や者や軍人は、極秘に中立国スイスやスウェーデンアメリ諜報機関OSS(戦略情報局)と接触和平工作をおこなっていた。
 7月頃から。アメリカ軍は、広島に「8月5日、広島を大空襲する」とのビラをまいて、警戒を促した。
 広島の憲兵隊と警察は、敵の謀略であるとして厳しく箝口令を敷き、ビラを躍起となって回収した。
 連合国は、国際赤十字などの情報をもとにして、日本軍が連合国軍兵士捕虜を非人道的虐待をしていると発表した。
 国際世論は、激怒して、軍国日本への厳罰と昭和天皇への思い処罰を求めた。
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 ノーマンは、コロンビア大学の後援を受け、ニューヨークの応用社会研究局で対日占領政策で、日本の民主化には天皇制度を廃止すべきであるとの持論を強く主張した。
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 7月1日 陸軍航空総隊は、敵爆撃隊に対抗する為に制号作戦を発動した。
 「敵大型機の単機もしくは数機に対しても、所用の兵力を以て好機に投ずる攻撃を行い、これが必墜に努む」
 チャーチルは、アメリカの日本に原爆を投下する作戦(オペレーション ユース オブ チューブ・アロイズ)に同意して文書に署名した。
 ラルフ・バードは、海軍次官を退官するにあたり、暫定委員会に対して最後に無警告で日本に原爆を投下しない事を提案した。
 アメリカ軍暗号解読機関は、日本がソ連を仲介として早期終戦工作を督促している極秘電報を傍受していた。
 既に、日本がソ連を通じて降伏を申し込んでいる事は知れ渡っていた。
 カーター・クラーク准将「我々は、輸送船の加速的な撃沈と飢餓によって日本を惨めな降伏に追い込んだのだ。(原爆を使う)必要はなかったし、我々はそれを知っていた。日本も我々が(原爆を)使う必要がない事を知っていると事を知っていた。それなのに二発の原爆の実験の為に日本人を使ったのだ」
 リーヒ「国家防衛という観点からは、もう完敗している日本に侵攻する正当な理由は見付けられなかった」
 マックロイは、三人委員会小委員会での激論の末にまとめ上げた、ポツダム会議の大統領声明修正案(ボーンスティール陸軍大佐原案)をスチムソンに提出した。
 国務省側は、昭和天皇を戦犯として裁く事を求める強硬な国民世論を意識して、天皇制度を存続させる様な文章は含めるべきではないと猛反対していた。
 軍部首脳は、狂気的に抵抗する日本軍と非戦闘員との戦闘を続ける事はいたずらに犠牲を出すばかりであるとして、日本人が天皇制度の存続を求めるのであれば、それを認めて降伏を受け入れやすい様に修正すべきと判断した。
 陸軍作戦部(OPD)は、最後通牒の発表をソ連が参戦する直前の8月15日から9月1日の間と提言した。
 そして。大統領声明は、政府のみが知り得る正式な外交的チャンネルでなく、日本国民全てが知り得るラジオ放送で伝えるべきであると提案した。
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 トルーマン大統領は、スチムソン陸軍長官の京都を原爆投下実験の第一目標から外す事に同意した。
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 7月2日 ニューヨーク・タイムズワシントン・ポスト両紙は、「日本が降伏する最低条件として天皇制度の保証を求めている」と報道した。
 アメリカ国民は、昭和天皇への厳罰と天皇制度の廃絶を求めていた。
 スチムソンは、トルーマンに、軍国日本への最後通牒となる宣言草案に短いメモを添えて提出した。
 「もし我々が現在の皇室の下での立憲君主制を排除しないと付け加えるならば、それは日本にとって受け入れられる可能性を格段に増す事になるだろう」
 国務省は、日本で軍国主義者が復活しない為により厳しい内容にスチムソン草案を修正し、宣言文を昭和天皇や日本政府ではなく日本国民に直接訴える表現とした。
 知日派は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度を日本の常識で存続させる事は世界平和に脅威になる以上、国際常識化で改変すべきであるとの認識で一致していた。日本を愛するがゆえに、将来的に、自由と民主主義の理想で、日本国民が自由意思で専制君主制を廃止する事を望んだ。
 国務省修正草案「13条 我々は、日本国民と日本において権威を有する者が直ちに日本政府と大本営の権威の下に存在する全日本軍隊の無条件降伏を宣言し、その行為の誠意について適切かつ十分な保障を提供する事を要求する。日本にとってこれに代わる選択は速やかにして徹底的な破壊である」
 ベリヤが指揮する国家保安部は、三首脳会談が行われるポツダムのドイツ人住民を強制退去させ、武装した兵士を至る所に立たせて厳しく警備した。
 一部のソ連人兵士は、町に残された貴金属や高価な家具を略奪し、逃げ遅れたドイツ人女性を強姦し、抵抗すれば殺害した。
 ソ連諜報部は、英米代表団が宿泊する建物には全て盗聴器を仕掛け、接待するメイドやボーイにはスパイを配置した。
 スターリンは、占領地にあるポツダムでの三首脳会談準備を終えた。
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 7月2日 アンダーソン大蔵大臣は、ペンタゴン開催合同運営委員会に出席するイギリス代表ウィルソン元帥と駐米大使ハリファックス卿に対して、イギリスはケベック協定第二項に従って軍国日本の降伏前に原爆(TA)を投下する事に同意すると伝えた。
 「首相はその兵器を使用する決定に対する同意を次の委員会(合同運営委員会)」で記録すべきであるという私の提言に同意した。首相はこの事をターミナル(ポツダム会議の暗号名)で大統領と議論する事を望むので、委員会はその事をメモにしておいてもらいたい、と述べた」
 老獪な外交を行うイギリスは、ケベック協定合意を使って、原爆使用の責任をアメリカに負わせる事と原爆開発を先に始めたという功績を残す為の裏工作を行っていた。
 カナダも、プルトニウム濃縮で原爆開発に貢献していたという実績を残すべく動いていた。
 新兵器・原爆の破壊力は、日本で日本国語による最新の科学雑誌を読んでいた小中学生でも知っていた。
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 7月3日 東郷外相の密命を受けた加瀬俊一は、松平康昌、松谷誠陸軍大佐、高木惣吉海軍少将らと終戦の為の条件作りを極秘で始めた。
 バーンズは、国務長官に就任した。対日政策として、無条件降伏の原則を緩和し天皇制度の存続を認める気はなく、原爆投下による戦争終結にこだわっていた。
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 アメリカ陸軍航空軍は、第二回目の姫路空襲を行い、姫路城を焼き払おうとしたが今回も失敗したが、市街地の76%を焼き、一般市民514人を焼き殺した。
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 スチムソンは、ポツダム会議に向かうトルーマンに「皇室維持条項」入りの警告案を手渡した。
 第13条「このような政府が二度と侵略を希求しないと世界が完全に納得するならば現皇室のもとでの立憲君主主義を含めてもよい」
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 7月4日 トルーマンは、戦争を終結させる前に、日本への原爆投下実験を実現させるべくバーンズを国務長官に任命した。
 国務省スタッフ委員会。アチソンら反日強硬派は、バーンズ新国務長官の意向に従って、便宜的手段として天皇制度を存続させようとするグルー国務次官ら知日派を非難した。
 マクレイシュ国務次官補「現在の天皇に指一本触れない事、天皇制度を維持する事は無条件降伏を放棄する事に等しい」
 ペンタゴン開催合同運営委員会議事録「第三者に対する兵器の使用
 イギリス政府は日本に対するTAの使用に同意するとウィルソン元帥は述べた。彼は来るべきベルリンの会議(ポツダム会議)で首相が大統領とこのことを話すことを望んでいると付け加えた。
 合同運営委員会は、イギリス政府が、後者による日本へのTAの使用に対し同意し、勝つ、前者の同意はヘンリー・メイランド・ウィルソン元帥によって伝えられたと記録した」
 イギリスは、アメリカの日本に対する原爆投下実験を公式に合意した。
 カナダは、原爆の使用に反対しなかった。
 合同運営委員会には、カナダの軍需大臣クラレンス・ハウが首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングの命令でカナダ代表として出席していた。
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 7月5日 東郷外相は、重慶政権の反日強硬派宋子文外相がモスクワを訪問する情報を得るや、モスクワの佐藤尚武大使に対してモロトフポツダムが出発する前に会談する様に電報を打った。
 佐藤大使は、具体的な提案もなく、ソ連終戦交渉の仲介を依頼する事には反対であった。
 チェーチルは、下院選で保守党が敗北して首相を辞職し、次期首相に労働党のアトリーが内定した。
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 7月6日 グルーは、バーンズに日本への「警告文」を手渡した。
 「日本にとってこれに代わる選択は迅速で徹底的な破壊である」
 イギリスの総選挙で、チャーチルの保守党が大敗北してポツダム宣言発出の当日には政権を失っている事を考え、ポツダム会議には次期首相となる労働党党首のクレメント・アトリーを出席させた。
 だが、アトリーはこれまでの三巨頭会議の大まかな概要は知らされていたが、原爆開発やソ連の対日戦参戦に関する申し合わせなど最重要極秘軍事情報は知らされていなかった為に、ポツダム会議は傍観者に過ぎなかった。
 アトリーは、戦争は終結して今後は戦後復興であるとして、関心は戦争に疲弊した国土と国民の生活を回復させる内政であるとして、戦後のソ連共産主義勢力への対応する世界秩序の形成に積極的に参加する意思はなかった。
 イギリス首相が、老獪で狡猾な外交交渉を行っていたチャーチルから外交に関してウブなアトリーに変わった為に、国益を守る為の発言力が弱まり、植民地を失って大英帝国の解体が進んだ。
 アメリカは、外交能力の弱いアトリーを見て、衰退するイギリスを対等なパートナーとは認めなくなっていった。
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 7月7日 昭和天皇は、鈴木首相を宮中に呼んで終戦交渉の進展状況を聞いたが、思ったほどに進んでいない事に落胆した。
 何としても戦争を早期に終結させるべく、木戸や東郷らが提案する親書を持った特使のソ連派遣に同意した。
 トルーマンは、バーンズ国務長官とレーヒー統合参謀総長らと共に巡洋艦オーガスタ号に乗船してポツダムに向かった。
 国務省でスタッフ委員会が開かれ、大統領声明草案内に天皇制度の廃止を含めるかで大激論が交わされた。
 グルーら知日派は、戦争を終結させる為には、天皇制度の存続を保障する必要があると主張した。
 アチソンやマクレイシュら反日派高官は、自由と民主主義の大原則から、天皇制度こそ軍国主義の根源である以上、二度と侵略戦争を起こさせない為にも天皇制度は廃絶すべきであると訴えた。
 グルーは、国務次官の権限で、天皇制度廃止を含めない事を宣言した。
 スチムソンは、呼ばれてはいなかったが独断でポツダムに向かった。
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 7月8日 東郷外相は、軽井沢に疎開している近衛文麿を訪れて特使を要請した。
 近衛文麿は、開戦責任を痛感し、自ら停戦交渉に臨むべく特使を内諾した。
 両者は、国體護持を最低条件として降伏を受け入れる事で意見が一致した。
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 7月9日 朝日新聞の笠慎太郎は、スイス公使館の暗号機を借りて、東郷外相を通じて内閣顧問の緒方竹虎に極秘情報を送り警告した。
 予想通りに、ソ連が対日戦に参戦し、アメリカ軍の本土上陸作戦が行われれば、ナチス・ドイツと同じような惨状が繰り返される。
 マジックは、7月14日に暗号電文を解読した。
 だが。外務省は、ソ連を通じて和平交渉を始めつつある時に、ソ連参戦を伝える極秘電報は差し障りがあると判断して緒方竹虎に届けなか。
 宮中、政府、外務省、陸軍、海軍は、縄張り意識が強く、最重要情報を隠匿していた。
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 7月10日 最高戦争指導会議で、戦争を終結させる為の特使をソ連に派遣する事を決定した。
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 7月11日 東郷外相は、佐藤大使に「状況の切迫により我々は密かに戦争終結を考慮している」との緊急電報を打った。
 ジョセフ・グルー国務長官は、日本に向けた無条件降伏に関する声明を発表したが、天皇制度存続の件はトルーマン大統領の承認を得られず盛り込まなかった。
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 7月12日 昭和天皇は、近衛文麿を宮中に呼んで戦争を終結させる為の特使を要請した。
 近衛文麿は、特使を受諾し、交渉の為の条件案として、外務省の加瀬案を避け、ブレーンの富田健二らが起案した最悪の場合は昭和天皇の譲位もやむなしという「和平交渉に関する要綱」を採用した。
 側近は、信用できないソ連ではなくアメリカと直接交渉すべきであると訴えた。
 東郷外相は、佐藤大使に「天皇の戦争終結の意思をロシア側に伝えて、三者会議の前に交渉を進展させよ」という緊急電報を打って、戦争終結に全力を尽くすよう督促した。
 スターリンは、対日戦参戦の条件とされた中ソ条約締結の為に宋子文外相と会談した。
 国民党政府は、外モンゴル満州における主権を主張し、中国共産党政府の否定と支援中止などで、強硬な態度をとった為に会談は失敗した。
 ソ連は、中ソ条約を締結し、その条約を根拠として日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告をしようとした。
 スターリンは、ポーランドを含む東欧管理権問題では有利な立場で勢力拡大を図っていたが、日本を含むアジア戦後処理問題では反共産主義蒋介石に手を焼いていた。
 アメリカ海軍諜報部の一部は、東郷メッセージを解読し、日本が降伏寸前にあるとの結論を出していた。
 フォーレスタル「(日本の政府・軍部の指導者)最後の判断と決定は、もし彼らの唯一の選択肢が無条件降伏であったならば、彼らは持てる力を使い切り、激しい怨念をかき集めてこの戦争を戦わなければならないという事であった」
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 アメリカとイギリスは、原爆投下実験に関する両国首脳の声明文案の擦り合わせを開始した。 
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 7月13日 東郷外相は、モスクワの佐藤尚駐ソ大使に、天皇が戦争終結を念願されたので近衛を特使として派遣する事を伝えた。但し、無条件降伏を変えないのであれば徹底抗戦すると付け加えた。
 モスクワの佐藤尚武大使は、ロゾフスキー外務副人民委員に、昭和天皇の御意思で戦争終結交渉の為に近衛を特使として派遣する事むねの東郷メッセージを手渡した。
 ソ連外務省は、モロトフ外相はポツダム出発の為に多忙で会見できないし、特使の件に関する返答はポツダムから帰国してから伝えると回答した。
 スターリンモロトフポツダムに向かったのは、7月16日夕方であった。
 佐藤駐ソ大使は、東郷外相に「国體護持以外は、無条件降伏もやむなし」と報告した。
 アメリカ海軍諜報局は、日本が戦争終結を決定した事、昭和天皇が戦争終結の為に近衛を特使としてソ連に派遣するように指示した事、などを暗号解読で知っていた。
 G2副部長ウェッカリングは、東郷メッセージは所定の手順で同情報を各方面に伝えた。
 アメリカは、暗号解読で昭和天皇と軍国日本が和平を希望している事を知っていたが、この時点で日本の降伏を認める気は毛頭なかった。
 フォレスタル海軍長官「日本が真剣に戦争を終わらせたいと願っている最初の証拠である。天皇は、戦争終結を強く願っている」
 ダレスは、ゲフェルニツツ秘書がヤコブソンから聞き出した、加瀬公使や岡本中将らの降伏の条件をトルーマンに伝えた。
 「1,スイス国際決済銀行スウェーデン人顧問ペール・ヤコブソンが横浜正金銀行の北村孝治郎、吉村侃(かん)から日本の終戦工作の事についてアメリカ当局と接触したいとアプローチを受けた。北村らはチューリッピ大使館付き陸軍中将岡本清福、ベルン公使加瀬俊一と相談の上でヤコブセンにアプローチしている。
 2,日本グループが考えている降伏の条件は皇室への配慮だけだ」
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 7月14日 最高戦争指導会議は、近衛文麿を特使とする事を承認した。
 軍部の継戦派は、交渉が破綻する事で昭和天皇や和平派に本土決戦の決断を迫れるとして、特使に持たせる条件案作りに反対の姿勢を見せた。
 近衛は、白紙で交渉に向かう事になった。
 ソ連大使館は、広田からの会談要請をハッキリと拒絶し、今後の交渉に応ずる意思のない事を明快にした。
 日本のソ連を利用した終戦工作は、昭和天皇の安全と皇室の存続という幻想的「名誉ある降伏」を求めたがゆえに、交渉内容が一般論と曖昧な譲歩案に終始して失敗したといわれている。
 東郷茂徳ソ連に働きかけなかったら、我が方は絶対的無条件降伏以外に方法がなかったのは明白であり、またソ連に大御心を伝へたる事により無条件降伏を有条件と為し得たといい得るのである」
 ドイツ・ウィースバーデンの占領地高等弁務官アレン・ダレスは、スイスとの往き来が制限されていた為にベルンの国際決済銀行幹部ペール・ヤコブソンを仲介として対日終戦工作を再開した。
 日本側関係者は、国際決済銀行理事北村孝治觔(横浜正金銀行)、スイス公使加瀬俊一、スイス公使館陸軍武官岡本清福中将で、藤村の海軍ラインとは別であった。
 アレン・ダレスは、交渉相手の中に陸軍参謀総長梅津美治郎大将と直接連絡が取れる岡本中将が参加している事で信用し、ヤコブソン=北村ラインでの和平交渉に乗った。
 ヤコブソンは、日本側の意向として、天皇制度と明治憲法を残すと約束してくれれば、表向きとして無条件降伏を受諾すると。
 ダレスは、トルーマンが無条件降伏に固執して妥協を一切しない事を知っていただけに日本側の提案に失望し、戦争を終結させ天王制度を残したあったらまず先に無条件降伏を受け容れるべきであると逆提案した。
 ヤコブソンは、イギリス参謀本部と関係を持ち、OSSとイギリス諜報機関MI6の工作員でもあった。
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 アメリカ海軍の空母艦載機は、北海道と青森を空爆し、避難していた軍艦や船舶を撃沈した。
 撃沈した艦船は、駆逐艦1隻、補助艦艇11隻、貨物船12隻。
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 7月15日 スイスの銀行家ヤコブソンは、OSSのベルン支局長アレン・ダレスに、日本側の降伏条件として天皇の安全を求めている事を伝えた。
 アレン・ダレスは、20日に、昭和天皇が戦争の終結に同意するならば、皇位の維持を認めると答えた。だが、ワシントンの許可を受けていたか不明である。
 スチムソンは、ポツダムに飛んだ。
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 7月16日 西部ニューメキシコ州アラモゴードで原爆爆破実験が成功した。
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 2018年4月17日22:51 産経ニュース「ヤルタ密約 チャーチル英首相、ソ連対日参戦1カ月前に情報漏らす ソ連への千島割譲、英連邦4カ国に
 1945年2月4日、ヤルタ会談に出席した(右から)ソ連スターリン首相、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相(AP)
 【ロンドン=岡部伸】ソ連に対日参戦の見返りに日本領土だった南樺太と千島列島を割譲するとした「ヤルタ密約」を3巨頭の一人として署名したチャーチル英首相がソ連侵攻1カ月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4カ国首脳に密約内容を極秘に明かしていたことが、英国立公文書館で見つかった英外交電報で分かった。
 同年2月に交わされたヤルタ密約は、ロシアがソ連時代から、日本固有の領土である北方領土の領有を主張する最有力根拠としてきたが、北方四島を含む千島列島のソ連領有に懸念を抱いたチャーチルが英連邦主要国に警戒を促したことをうかがわせる。
 電報は1945年7月5日付。チャーチルから英自治領省(ドミニオン・オフィス)経由でカナダ、豪州、ニュージーランド南アフリカ4カ国の首脳あてに送られた。
 駐重慶カナダ大使が中国政府筋から得たとする「ソ連は対日参戦の見返りに、クリール(千島)、南樺太南満州鉄道、旅順、大連を得る」との情報について、カナダのキング首相が6月27日付で照会したものにチャーチル自らが回答した。
 電報は、ソ連の対日参戦の条件として(1)ソ連の強い影響下にあった外モンゴルモンゴル人民共和国)の現状維持(2)南樺太の「recovery」(回復)(3)千島列島の「acquisition」(獲得)−を明記。
 そのうえで「われわれ3人はソ連の要求が日本が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した」などと米英ソ3首脳の密約を説明している。
 ヤルタ会談直後、チャーチルは、密約の流出を懸念して同年3月、英連邦諸国に伝えないように外務省に指示していた。しかし、戦後処理を話し合う同年7月17日〜8月2日のポツダム会談に向けて、トルーマン米大統領らが出発する直前に、英連邦主要国に、情報提供していたことになる。
 チャーチルは当時からアジアでの共産主義浸透をもくろむソ連を警戒しており、豪州やニュージーランドに密約を事前説明することで、降伏勧告を含む対日政策で英連邦の結束を促したとみられる。
 また電報原本には、千島列島の獲得が記述された左部分に赤線がひかれており、千島列島の扱いについて英政府内で重要な懸案として論議された形跡を示唆している。
 カリフォルニア大学サンタバーバラ校の長谷川毅名誉教授(日露関係史)は、「英国は、日本に降伏を迫る上で、米国が主張する国体の否定(皇室解体)を和らげることを望んでいた。一方で、豪州やニュージーランドなどは過酷な和平条件を日本に要求しており、英連邦諸国をいかに説得するかの板挟みにあったのではないか」と指摘している。
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【用語解説】ヤルタ密約
 1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連スターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれた。ルーズベルトソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリンに日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられ、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定、東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。」
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 4月17日22:52 産経ニュース「ヤルタ密約 背景に透けるチャーチルの微妙な立場 戦後は一転「歴史的過ち」と批判
 チャーチル英首相がソ連侵攻の約1カ月前の1945年7月5日に自治領省からカナダをはじめ英連邦4カ国に送ったヤルタ密約に関する電報(英国立公文書館所蔵)
 チャーチル英首相が英連邦主要国に、米英ソ3首脳によるヤルタ密約の内容を“漏らしていた”ことは、チャーチル自身の密約に対する微妙な立場をうかがわせている。実際、チャーチルは戦後、署名したものの自身を頭越しにした米ソ首脳の独断と釈明し、大西洋憲章カイロ宣言で定めた「領土不拡大の原則」に反した歴史的“過ち”と認めている。
 密約をめぐって、英外務省は大戦終了約半年後の1946年2月、全在外公館に「ルーズベルト米大統領の権限を越え、米議会の批准を得ずに署名しており、(南樺太と千島列島などの領土移転を決めた)合意の有効性について米国内で議論が起こるかもしれない」と疑問を呈し、「論議に巻き込まれないように注意すべきだ」と警告を発していたことが、英外交電報で判明している。
 また、米国内でも53年に当時のアイゼンハワー大統領らが、ルーズベルトが独断で決めたとして密約の無効を訴えたことで、同じく英政府にはからず独断で署名したチャーチルの責任を問う声も表面化した。
 このため、チャーチルはイーデン外相あてに、「米ソ首脳が頭越しで決定した。自分はその場におらず、連合国の結束を乱したくなかったので署名した」と釈明する書簡を書いている。
 英国はこれまで、ソ連・ロシアが北方四島を含む千島占有の根拠としてきた密約が米ソ主導で結ばれたこともあり、北方領土問題に対する立場も明瞭にしてこなかった。
 日本の外務省は、こうした英国の姿勢について平成18(2006)年2月の国会答弁で、「わが国の認識を否定するものではない」とのみ答えている。(ロンドン 岡部伸)」




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