🎺50:─2─原爆投下実験前に「皇室維持条項」を含めた警告を出す事は却下された。1945年7月16日。~No.243No.244No.245 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ユダヤ人は、昭和天皇ヒトラーホロコーストに協力した共犯者として死刑にする事を望み、悪の根源である天皇制度の廃絶を求めていた。 
 反天皇反日ユダヤ人は、昭和天皇の葬儀に参列する代表団を韓国同様に送らなかった。
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 反天皇反日ユダヤ人達は、昭和天皇A級戦犯東条英機松岡洋右等が数万人のポーランドユダヤ人難民を、ヒトラーナチス・ドイツのホロコーストから助けてくれた事を知っていた。
 その人道貢献を知った上で、靖国神社の廃止を強く求めた。
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 7月中旬頃 陸軍特種情報部や海軍大和田通信隊など電波受信装置を持つ部隊は、謎のコールサインを持ったB29爆撃部隊がテニアン島に配備された事を傍受したが、正体不明機の特種任務まではわからなかった。
 陸軍中央特殊情報本部も、アメリカ軍の軍事無線を傍受して、テニアン島コールサイン600番台の正体不明のB29部隊が配備された事を、参謀本部第六課や航空本部に報告した。
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 明石寛二陸軍少佐は、日本政府が極秘でソ連を介して終戦工作を行っているという情報が上海で流れていると、厚木航空隊司令・小園安名海軍大佐に知らせた。
 小園大佐は、軍務局の高松宮宣仁親王を訪ね、本土決戦に一致団結する為に海軍上層部の退陣を行う粛軍(クーデター)が必要であると意見具申した。
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 7月16日 チャーチルは、トルーマンと原爆使用について議論する為に、ロンドンの外務省に「ハイドパーク協定」等の資料を至急送るように緊急電報を撃った。
 ルーズベルトの急死によって原爆使用に関する幾つかの機密文書がワシントンで見つからず、トルーマンは知らない事が多かった。
 ポツダムで、アメリカ陸海空軍参謀本部合同会議が開かれた。
 会議は、原爆を投下せずとも日本は早い時期に降伏すると結論を出し、原爆を使用するなら事前警告を与えるべきとの意見が出された。
 続いて、米英の軍事指導者による合同参謀本部会議が開かれた。イギリス軍参謀総長アラン・ブルック卿は、天皇制度を解体すると日本軍は徹底抗 戦にでて大損害を出す恐れがあるとして、対日最後通牒のスチムソン草案に天皇制度存続を保障する様な文言を明記すべきと発言した。
 レーヒー統合参謀総長は、無条件降伏の内容は政治的な判断が必要である以上、チャーチルトルーマンが協議して判断するものであるとの公式論で答えた。
 昭和天皇の意思を伝える東郷メッセージはポツダムに転送され、トルーマンやスチムソンらに配布された。
 バーンズ「大統領はスターリンとの会見の一日か二日前に日本の和平へのアプローチについての情報を得た。なぜなら我々は戦争の早期に日本の暗号を解読していたからである」
 バーンズは、無条件降伏の条件を緩和して天皇制度を維持する事には反対であり、原爆投下ミッションの成功の為にも日本の降伏を受け入れる事には同意しなかった。
 バーンズ「もし日本政府が無条件で降伏していたならば、原爆を投下する必要はなかった」
 スチムソンやフォーレスタルらは、無条件降伏を修正して、現在の皇室の下でイギリス同様の立憲君主制を約束すれば戦争を終結できると期待した。
 スチムソン「私も日本が和平の為に工作しているという情報を受け取った。」
 フォーレスタル「日本が戦争から脱け出したがっているという本当の最初の証拠が、今日傍受した東郷発佐藤宛の暗号電報によってもたらされた」
 マックロイ「日本がソ連に戦争の泥沼から引っ張り出してもらう努力をしているというニュースがもたらされた。ヒロヒト自身がカリーニンスターリンにメッセージを送る為に狩り出された」
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 ニューメキシコ州アラモゴードで、暗号名トリニティである原爆実験は成功した。
 原爆実験成功の知らせは、直ちにポツダムのスチムソンのもとに届けられた。
 「手術が行われた。術後良好。期待を上回る」
 ウラン型原爆の爆発は確実に成功するが、プルトニュウム型原爆は不安定で爆発するか不明であった為に爆破実験を行った。
 アメリカ側は、原爆の使用で日本は無条件降伏する以上、ソ連の参戦は必要ではないという意見が支配的となった。
 スチムソンに、原爆実験の成功の知らせが届いた。
 後は、ソ連の対日戦参戦がいつ頃になるかその正確な日時をする事であった。
 外国通信社は、アメリカがニューメキシコ州で新しい実験を行ったことを報道した。
 スターリンは、原爆実験成功の極秘情報を得るや、ポツダムに到着してすぐにチタの極東軍総司令部に対日戦開戦日を予定より10日早められるかを問い合わせた。
 ワシレフスキー元帥は、兵隊及び物資の輸送は計画通り進行中で、極東に十分な兵力と弾薬がそろうのは設定された8月11日以降になると返答した。
 スターリンは、ソ連が参戦するまで日本を降伏させない為に、無条件降伏修正に応じない事を再確認した。
 阿南惟幾陸相は、ニューメキシコで爆発威力の強大な新型爆弾の実験が成功した事を知っていたが、それが原子爆弾であったとは理解できなかった。
 理研仁科芳雄は、如何なる国も戦争中には原爆を完成できないと報告した。
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 レズリー・グローヴス少将は、スチムソン陸軍長官に、日本本土原爆投下実験は予定よりも早い時期に可能であると報告し、実験場を京都とし、爆心地目標を京都駅の西にある梅小路機関車庫付近にする事を要請した。
 スチムソン陸軍長官は、美術史家ランド・ウォーナー博士が作成した日本文化財リストから、京都には高額取引可能な美術品が数多く存在するとして実験場候補地から外すように命じた。
 グローブスは、実験場・京都を強く望んだが、上官の命令に為たがって実験場を広島に変更した。
 広島は、京都の身代わりとなった。
 日本が、京都や奈良を戦火から救ってくれた恩人とするべきは、スチムソンではなくウォーナー博士である。
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 昭和天皇国家元首の座から引きずり下ろして退位させ天皇制度を廃止し、昭和天皇と政府及び軍部の指導者を戦争犯罪者として連合国に引き渡し、国際的軍事裁判に出廷させて有罪判決と処罰を受け入れる事に同意しない限り、日本に平和を認めないと言う事であった。
 それは、暴力的ロシア共産主義革命の再現であった。
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 マルクス主義者は、日本をソ連のような「恐怖と死」が支配する共産党国家に改造するべく暗躍していた。
 彼らは、何が何でも天皇制度を廃止するべきだと確信していた。
 その先に待っていたのは、共産主義の狂気であるスターリンの大粛清や毛沢東の大虐殺であった。
 マルクス主義者が目指した天皇制廃止による日本改革は、悲惨の一言であった。
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 歴史的事実として。天皇制度を守ろうとしていたのは、身分が低い社会的弱者である下層民達であった。
 天皇・皇室が、滅亡した大陸の王族や王家と違って存続できたのは、守った階層が違うからである。
 祭祀王・天皇は、親のように国民を慈しみ、国民を大御宝として愛しんだ。
 権力者や金持ちなどの裕福にして自力で逆境を乗り越えられる者ではなく、社会の底辺層にある弱者こそ身の上やすかれと祈る存在である。
 ゆえに、マルクス主義者の悪辣な陰謀は悉く失敗し、陰惨な共産主義が日本に根付く事はなかった。
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 天皇制度を廃して社会改革を目指す者は、他人の為という利他の弱者救済ではなく、自分の為という自愛の強者独占である。
 そうした自愛の独占志向が、現代の日本に広がってきている。
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 ユダヤ教徒ユダヤ人や反宗教無神論ユダヤ人は、異教徒の天皇を憎み、絶対神への信仰から祭祀王・天皇を地上から消滅させようとしていた。
 ユダヤ人と天皇・皇室は、無関係である。
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 サンフランシスコ海軍基地を、重巡洋艦インディアナポリス号が原爆「リトルボーイ」の部品を積んでテニアン島に向けて出港した。
 艦長は、「乗務員の命より積み荷を優先せよ」という厳命を受けていた。
 後日、その非人間的命令が悲劇を生んだ。
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 ダレスは、トルーマン大統領、リーヒ参謀本部長、国務長官ヤコブソンとの会談に関する報告書を送った。
 「1,岡本中将と加瀬公使は日本の参謀本部と直接秘密電報を遣り取りしている。それによると、陸軍参謀総長梅津美治郎海軍大臣米内光政も外務大臣東郷茂徳もいまや和平派になっている。
 2,岡本や加瀬と相談した横浜正金銀行の北村孝治觔と吉村は、無条件降伏の原則についてはもはや問題はない。ただし、彼等は陸軍と海軍の無条件降伏で十分なのではないか、また、無条件降伏を実行する為にも天皇は必要だとも感じている。
 3,北村は二つの点についてダレスの意向を探ってくれとダレスにメモランダムを渡した。
 (1)天皇の存続。
 (2)1889年憲法明治憲法)への回帰。
 そして、東京が交渉手続きを進め、連合国側と対話する事になったとき、どのような権限を与えられていればいいかときいていた。
 4,これらの日本人グループの動きが然るべき権威の後押しを受けたものかは2、3日中に明らかになる」
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 スチムソン日記「7月16日 私は日本人の和平工作についての重要な文書を受け取った。日本に対して警告を始める心理的にみていい時期にさしかかっているようだ。午後7時30分、ハリソンの原爆に関する最初のメッセージが届いた。私はすぐにそれを大統領の宿舎にもっていきトルーマンとバーンズに見せた」
 陸軍通信情報部の暗号解読情報(通称マジック)とOSS(戦略情報局)のスイス支局は、日本の戦争終結工作の極秘暗号電報を解読して大統領と主要閣僚に伝えていた。
 スチムソンは、トルーマンが既に日本の戦争終結工作を知っているので、原爆投下実験の前に皇室維持条項を含めた警告文に賛成すると信じていた。
 バーンズは、トルーマンに代わって「警告を前倒しして出すのは反対である」と返答した。
 スチムソンは、事前警告を出す言うにトールマンに直訴するべく面会を求めたが、トルーマンスターリンチャーチルとの会談が忙しいと却下した。
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 7月17日 イギリス外務省は、アメリカ側が提出した初期対日方針に対する対案として、サンソン覚書を本にした対日政策案を、ポツダムのイギリス代表団に送付した。
 ポツダム宣言案は、イギリス案を受け入れて修正された。
 アメリカ統合参謀本部会議は、無条件降伏の原則に立ち返り、スチムソン草案から天皇制度の存続を臭わす箇所を削除した。
 レーヒー「この件は政治レベルですでに考慮され、問題の箇所を省く決定がなされている」
 正午 第一回米ソ首脳会見が行われた。スターリンは、モロトフ外相とともに、トルーマンが宿泊しているバーベルスベルクの小ホワイトハウスを訪問した。
 スターリン「大統領に対し、ソ連は8月の中頃までに戦争を開始する事が可能であるが、そ
の前に中国との交渉を終えて条約を締結しなければならない」
 トルーマンは、ソ連の参戦を8月15日と理解した。
 ユダヤ人科学者シラードは、対日無警告使用に反対する嘆願書に原子力科学者約157名の署名を集めた。嘆願書は、8月1日にホワイト・ハウスに届けられた。
 「原爆が今我々の自由になったと言う事は第一歩に過ぎず、将来の開発過程においてその破壊力には上限がなくなる。従ってこの新たに放出された自然の力を使用する前例を作ってしまう国家は、想像もつかないスケールでの破壊の時代の幕を開けた責任を負わなければいけない」
 東郷外相は、佐藤駐ソ大使に、昭和天皇の意志として、ソ連に和平仲介の依頼を急ぐ様に電報を打ち、無条件降伏に固執して国體護持を認めなければ最後まで戦うと伝えた。
 アメリカ軍は、日本の暗号電報を解読し、「日本が和平を望んでいる」ことをポツダムに知らせた。
 夕方 スターリンは、チャーチルと会談して、日本からの戦争終結の為の仲介依頼を披露し、トルーマンに伝える事は差し支えないと表明した。
 ソ連軍情報部は、アメリカが日本の暗号解読を行っている事を、アメリカの政府と軍隊内部の情報提供者から知らされていた。
 午後5時から、ツェツィリエンホフ宮殿で米英ソ三首脳によるポツダム会談が始まった。
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 7月18日 トルーマン日記「日本の天皇から和平を求める電報が来た」
 日本が戦争を止めたがっている事は、知れ渡っていた。
 アメリカ合同作戦本部会議は、天皇制度を存続させるという無条件降伏の修正案を否定し、より強硬なスチムソン草案修正案を採択してトルーマンに提出した。
 アメリカは完全なるシビリアンコントロールとして、文官である大統領権限は絶対で有り、大統領の決定・命令を変更・修正・廃止できるのは大統領のみである。
 アメリカ大統領は、国民の直接選挙で選ばれている以上、強力のリーダーシップで世襲天皇以上の権威と権限を持っていた。
 トルーマンチャーチルは、原爆実験成功の知らせ受け、今後の会談運営について協議した。
 チャーチルは、本土上陸作戦を実行して多くの犠牲者を出さない為に、無条件降伏を修正してはどうかと提案した。
 「我々が平和と安全保障について原則的な目的を全て達成しながら、日本にその軍事的名誉を保ち民族の存続を確保させる」
 「無条件降伏原則を変えて、皇室維持の条件付で日本に降伏を求めるべし」
 トルーマンは、真珠湾奇襲攻撃を行った日本には名誉心が欠如している以上、全ての自尊心を打ち砕き、無条件降伏を強要するというスケジュールを譲らなかった。
 原爆実験の成功によって、天皇制度存続という条件付き降伏の可能性は消滅した。
 午後三時 トルーマンは、スターリンと、昭和天皇の戦争締結への意思を伝える東郷メッセージに関する協議を行い、軍国日本が無条件降伏のみを受諾するまで放置する事で合意した。
 スターリンは、トルーマンが隠している原爆実験成功の情報を得ていた。
 バーンズは、ソ連が参戦する前に、日本に無条件降伏を要求する最後通牒を出し、拒否された所で原爆を使用して日本を降伏させる事を望んだ。
 マーシャル参謀総長は、ソ連の参戦がなくとも日本は降伏するが、ソ連は戦利品を得る為に強引に参戦するしそれを阻止する事は出来ないと報告した。
 ロゾフスキー外務副人民委員は、佐藤尚武大使に、具体的な提案を持たない近衛特使派遣は受け入れがたいと回答した。
 佐藤大使は、東郷外相に対して、「昭和天皇の安全と皇室の存続」という国體護持のみを外した無条件降伏を受け入れるべきとの電報を打った。
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 7月20日 佐藤大使は、長文の電報を東郷に打電した。
 「すでに抗戦力を失いたる将兵及び我が国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救はるべくもあらず。7,000万の民草枯れて上御一人御安泰なるを得べきや」
 アメリカやイギリスは、日本の全ての暗号電文を傍受し解読していた。
 日本は戦争を終結する為に降伏を希望し、降伏する為の条件として国體護持(昭和天皇の命と天皇制度の存続)を求めていると伝えた。
 アレン・ダレスは、スチムソン陸軍長官に会うようにというマクロイの勧めに従ってポツダムに向かった。
 スチムソンは、原爆投下実験と無条件降伏を決断したトルーマンの決意を変える為に、ダレスと極秘で終戦交渉をしている日本側の人間に権限があるのか問い糾した。
 ダレスは、日本国内の混乱を知っていただけに嘘がつけず、答えられなかった。
 日本への原爆投下実験は不可避となった。
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 2017年7月27日 産経ニュース「「もう一つの原爆」忘れない…広島、長崎のリハーサルに使われた「模擬原爆」の恐怖、次世代に伝える 富山
 太平洋戦争当時に富山市上空から撮影された写真を示し、自身が目撃した「模擬原爆」の投下地点について説明する田中悌夫さん
 太平洋戦争末期の昭和20年、原爆の投下訓練を目的に米軍が富山市内に落とした「模擬原爆」を目にした人がいる。当時中学2年だった医師田中悌夫さん(86)だ。「広島、長崎のリハーサルに使われた事実を忘れてはならない」。「富山大空襲を語り継ぐ会」代表幹事を務める田中さんは、72年前に感じた衝撃や恐怖を次世代に伝えようと活動している。
 20年7月20日朝、登校していた田中さんは、快晴の空に1機のB29が翼を輝かせ北へ向かって飛んで行くのを目撃した。
 突然、機体が「ピカッ」と光ると「ザァー」という空気を切り裂くような音が鳴り響いた。「伏せろ」。近くにいた大人の叫び声でとっさに付近の壕に飛び込み伏せた。次の瞬間、ごう音とともに地面が震え、顔を上げると富山駅の北側で黒い煙が立ち上っていた。
 この時の爆弾が模擬原爆だった。長さ約3.5メートル、重量約4.5トン。長崎に投下された原爆とほぼ同じ形状と重量で、通常の爆薬が詰められており、色や形からパンプキン爆弾と呼ばれた。
 米軍の資料を確認した愛知県の市民グループ「春日井の戦争を記録する会」などの調査では、米軍が終戦間際に18都府県に約50発を落とし、400人以上が死亡したとされる。富山市には20年7月、計4発の模擬原爆が投下され、約60人が亡くなり、80人以上が負傷したという。
 爆弾は、田中さんの自宅から約1キロ離れた運河沿いに落ちた。近くにあった日本曹達の富山製鋼所を狙って外れたとみられる。駆け付けると、直径約10メートル、深さ数メートルの大きな穴が。近くの電線には運河の中にあった藻がぶら下がっていた。幸い、自宅は居間の壁が崩れ落ちた程度の被害で済んだ。家族にもけがはなく、胸をなで下ろした。
 広島と長崎に原爆が落とされたのは、それからわずか数週間後。自身が目撃したのが模擬原爆と知ったのはさらに数十年以上たってからだった。「原爆被害の大きさを考えると模擬であろうと身の毛がよだつ恐ろしさを感じた」と田中さん。
 以来、整形外科医として診療を続ける傍ら、県内の小中学校に語り部を派遣したり、約3千人が亡くなったとされる富山大空襲の体験者の話を会誌などにまとめたりする活動を続けてきた。「二度と戦争を起こしてはならない」との思いからだ。田中さんは29日に富山市で開かれる同会の集いでも模擬原爆について講演する予定だ。」
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