🎼05:─4─日本が軍国主義国家になった理由は、ロシア帝国とソ連・共産主義勢力の侵略であった。~No.8No.9 * 

大日本帝国の民主主義

大日本帝国の民主主義


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族日本人は、理性・論理・合理ではなく、感性・感情・情緒で考え行動する。
 そして、物語が好きである。
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 ロシアは、如何なる理由があろうとも日本の軍国主義を認めない。
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 司馬遼太郎「歴史には、感情がある。18、19世紀から20世紀にかけて、帝政ロシアおよびその後のソ連が、近隣の国々に恐怖という感情を持たせつづけてきたことを忘れては、世界史も日本史も理解できない」
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 日本は、同盟国からの援軍を得られないという孤独な為に、国防戦略は軍国主義しかなかった。
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 2016年5月号 新潮45「水戸学の世界地図 10 12月14日の出立
 吉田松陰はなぜ赤穂浪士の討ち入りの日に江戸へ旅立ったのか。
 吉田松陰は1851(嘉永4)年12月14日、江戸を出発した。熊本藩士の宮部鼎蔵南部藩士の安芸五蔵と相諮っての大旅行。ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航するおよそ1年半前のこと。
 ……
 山鹿流兵学者の松蔭が水戸を目指す吉日は、どうしても12月14日。松蔭ならではの思い込みがあったろう。
 松蔭の人生を変えた日付
 この出立は松蔭の人生を変えた。ネガティヴな作用があった。
 大旅行の目的はなんであろうか。旅行というよりは、やはり遊学と表現すべきものかもしれない。良き師の居るところや何か学ぶべき事柄のあるところには長居をする。兵学の勉強をする。国難に立ち向かうための智恵を養う。国難とはつまり外圧である。西洋諸国が日本と関わりたがっている。異国船が頻々とやってくる。松蔭の立場は攘夷。異国船を打ち払わねばならない。
 そういうものの考え方の基盤を、松蔭は既に水戸学から受け取っていた。それを深めるために水戸に行かねばならない。だから最初の主目的地は水戸。それから会津若松、新潟、弘前などを巡る。特にロシアの脅威に、18世紀この方。晒され続けている北方の様子を、少しでも知りたい。海岸の地理を実見し、海防の現状を見聞きしたい。これもまた目的。結局、江戸に戻ったのは翌年の4月になった。
 ……
 松蔭は嘉永3年に九州を遊学した。水戸学の代表的書物でありながら当時まだ未公刊だった。会沢正志斎の『新論』の写本にふれた。大きく影響された。江戸に行き、さらに水戸に向かう大きな原動力になったのは『新論』の読書体験だったろう。萩から江戸へと出発したのは嘉永4年3月5日。……佐久間象山は信州の松代藩儒学者だけれども、藩主の真田幸貫が1841(天保12)年に幕府の老中に任じられて海防掛になると、砲術や蘭学を勉強し、主君を助けた。新時代の海防論の一大権威としてその名を知られていた。
 そう。危機の時代なのである。幕府の老中に海防掛が要るような。松蔭が東国や北国の太平洋沿い、日本海沿いを見て回りたくなるような。しかもその危機は慢性化していた。この時代の感覚に即して言えば『終わりなき海防の時代を生きろ』というところ。
 たとえば、松蔭7歳の1837(天保8)年、モリソン号事件が起きた。モリソン号はアメリカの商船。民間会社の持つ船。浦賀や鹿児島にやってきた。しかし、勝手に一存で、民間の意志のみで、はるばる日本に来航したのではない。ジャクソン大統領の御墨付きを得て、アメリカ政府のかかわった言わば『日本開国プロジェクト』の一環だった。
 モリソン号には7人の日本人も乗っていた。うち3人は尾張からの、4人は九州からの漂流民。モリソン号は日本の鎖国の制を知りながら危険を冒してまで日本人を国に帰しに行く。まことに好意的な態度ではないか。その船が、アメリカ国家を代表して日本と通商交渉するきっかけを探る役目も兼ねる。アメリカから日本に輸出できる商品のサンプルもたくさん載せていた。何しろ日本人漂流民を伴っている。頭ごなしに拒否されるだろうか。日米交渉の緒がつかめるのであはあるまいか。
 だが、浦賀でも鹿児島でも日本側の態度は剣呑だった。幕府も薩摩藩鎖国の建て前を墨守した。モリソン号を力ずくで追い払った。当時の日本の外国船対応を定めた法として効力のあったのは『無二念打払令』である。1825(文政8)年に出た。接岸してくる異国船はその場所に居る人間が総出で何が何でも打ち払え。要はそれだけと言ってよい。その『無二念打払令』がモリソン号に対して発動された。商船のモリソン号はじゅうぶんな武力を持たぬうえに、事を荒立てても良いとの命令も受けてはいなかったから、反撃せず、日本人漂流民を返還もできずに、帰っていった。
 江戸時代の限界
 とりあえず鎖国は無事に守られ、幕府としてはめでたしめでたし。とはいえ、一皮めくればおかしなことがたくさんあった。浦賀では、幕府の浦賀奉行は確かに『無二念打払令』を実行し、奉行所総出で、事に当たった。大砲を撃った。しかし、浦賀防衛に緊急動員された川越藩の藩兵はというと、まるでやる気がなかった。国難に対処する気概も発想もない。『無二念打払令』にしたがい、力ずくで打ち払いの任に当たるといういうとき、実際問題として、誰がどのようにしてどこまでやるが適当なのか。明確な規範がなかったせいもあるだろう。
 浦賀の経緯において、幕府からみて問題があったのは、動員されながら役に立とうとしない川越藩の態度だけではなかった。士農工商のうちの農工商と言えばよいか。侍以外。日本人の圧倒的多数を占める諸階級の態度がまた、かなり不穏であった。異国船を岸から打ち払っても、少し沖で役人の目につかなければ、そこでまで異国船を敵視しなくてもよいのではないか。かえって仲良くした方がお互いに利益があるのではないか。モリソン号には日本の漁船や商船が群がり、異国船に日本人の大勢が乗り込んで、船上は大にぎわい。積載されているアメリカ商品を貰って帰る者がたくさん居たという。一方的に贈与されるばかりでなく、物々交換もなされたのであろう。民間のアメリカ商船、モリソン号は、民間日本人と貿易をした。そう言ってもおかしくあるまい。これが果たして本当に異国船を打ち払ったことになるのだろうか。
 しかも、この筋立てはいつかどこで聞いたような話でもある。1824(文政7)年の大津浜事件の頃に、常陸の沖、房総の沖、あるいか奥州の沖の太平洋でしばしば起きていただろうことと、まるで同じ、英米捕鯨船と日本の沿岸民とのあいだの『民間外交』や『民間貿易』が、幕府や水戸藩を含む諸藩を大いに悩ませた。そのまったき再現である。『お上』は日本の民間人が自由に外国人と交際や交易をすることを禁じている。けれど、海の上で、国を超えての漁民と漁民、商人と商人との交わりを誰がとめられようか。人と人は国や政治を超えてお金と物と人情でつながるのが当たり前。この感覚を、長い鎖国時代を経ても、海国日本の民人は忘れてはいなかった。だから打ち払われている最中の民間商船、モリソン号に、日本の民間船が友誼を求めて殺到してしまう。
 川越藩になぜ国防意識がなく、三浦半島周辺の民人たちはなぜ士の身分の人々と心を合わせて異国船打ち払いに努めないのか。国民的な共同意識を有せないのか。答えは簡単である。まだ江戸時代なのだ。近代的な国防意識も、国家意識も、国民的連帯も、この国には成立していない。日本人は士農工商という身分制度に階層的に割られ、藩という封建秩序に空間的に割られている。近代的な国家と国民の姿はまだ遠い彼方である。たまたま浦賀で海防の役目に動員されてしまった川越藩が、なぜ川越藩の領地でもないところで、危険を冒してアメリカの船と戦わねばならないのか。三浦半島の農工商の階級に属する民が、幕府に見つからず咎めも受けないだろう海上アメリカ人と仲良くして何が悪いのか。そうした疑問に対する有効な処方箋は容易にはみいだせない。
 にもかかわず、日本が鎖国を、世界の列強が東アジアにいちだんと目を向けはじめているらしい時期に、なおも守り続けるとすれば、島国日本の圧倒的総延長をもつ海岸線を、大勢で防備しなければならない。監視し警戒し打ち払い続けねばならない。その労力をいとわぬ精神、経済的見返りが保証されていないとしてもなおも国土を護持しようとする精神とは、いったいどこから出てき得るのか。必要とされる膨大な人数は、どこから都合されるのか。それからもっと大切なこと。西洋諸国の貿易への願いを拒絶し続けるとすれば、日本がそう主張し続ける大義名分はどこに求められるのか。
 答えは細かくはいろいろあるだろう。が、大筋ではおよそひとつの方向に帰着する。川越藩の藩兵が浦賀を命がけで防備して当然と思うようになるためには、幕府や藩という次元にこだわっていては駄目なのだ。空間の区切り目をなくして日本をひとつの国にし、軍隊をひとつにしなければならない。近代的な言葉で表せば国軍が必要になる。川越藩の部隊に浦賀で玉砕せよと命ずることは無茶だが、国軍が国土のどこでも等しく防衛するのは自然である。また、士農工商という身分制度があるかぎり、それぞれの身分に属する日本人が他の身分と一体化して同じ日本人であると思うことは極めて困難だが、身分制度を壊してゆけば、みなが対等の国民と思い込むこともできる。身分制度にこだわっては国を守るに足る人数が出てこんしのだ、日本の場合は。
 海防論帰納
 江戸後期に『終わりなき海防の時代を生きろ』時代に発展した海防論のたどり着くところを理念化して言えば、こういうことになる。日本の長い海岸線を守るには、士農工商の士だけでは人数が足りない。農工商も兵にする道を考えねばならない。豊臣秀吉以来の兵農分離は続けられない。農工商にも武器をもたせる。そうしないと島国日本の海防は果たせない。
 また、日本全土の海防を具体的に整えようとすれば、藩単位では非効率にして軍事力も不揃いにならざるをえない。外国軍隊が陸軍を侵攻させようというとき、それなりの軍備を誇る雄藩の領する海岸線への上陸は難しいとも、弱藩の海岸線なら容易というのでは、国土防衛のどんなグランド・デザインも成り立たない。さらに、海岸線を有する藩の負担を強い、内陸の藩を関係なしとするわけにもゆくまい。藩が割れていることは外敵なき島国の統治方法としては有効だった。でも、外敵が長い海岸線のどこに現れるかを常に心配しなければいけない『終わりなき海防の時代を生きる』準戦時体制的時代には、まったく不向きである。
 18世紀から19世紀にかけての海防思想は水戸学を含めてこのような思考の経路を大筋ではたどっていった。国を防衛しなければいけないと思う。でも海岸線を守るためには国の仕組みに無理があると分かる。すると海防のために国の仕組みを変えなければいけなくなる。あとは海防に真面目に取り組むか、そこから目を背けて当座の現状維持だけを考えるかのどちらかになる。
 江戸幕府のとった基本的態度は後者であった。先の『無二念打払令』を真面目に日本の海岸線のすべてで実行しようとすれば、全国至るところに砲台を築き、監視員を常駐させ、機動的に動いて近隣のどこの海岸にもただちに向かえる沿岸防衛軍を諸藩に命じて編成させるなりしなければならない。が、幕府は『無二念打払令』を出しただけで、それを実効あらしめる海防策の実現に積極的に取り組もうとはしなかった。本気で行えば、幕藩体制の枠組みと士農工商の秩序に差し障りが出てくると知っていたからであろう。
 そもそも『無二念打払令』が文政8年に出されたのは、前年の大津浜事件と宝島事件の対応策としてであった。ともにイギリスの捕鯨船員が上陸してきた。前者は水戸藩領の大津浜に。後者は薩摩の宝島に。どちらも捕鯨船の母船は沖に居て、ボートで少人数が上陸してくるだけだった。『無二念打払令』はその程度の事態を想定した法であり、マニュアルであったと考えられる。ボートで少人数の捕鯨船員が来るだけならば。軽装の侍がほんの幾人かでも、あるいは漁民や農民でも、一心不乱に追いはらえば帰るだろう。その程度なのである。だから川越藩兵を浦賀に動員しても、彼らを働かせる思想もマニュアルもあったものではない。
 このようなありさまでどうして国が守れるか。海防論者は過激化する。松蔭はそういう若いひとりだった。本当に日本の海防を果たすための体制作りを欲してやまない。軍隊技術が必要だ。経済力が必要だ。だが、それだけでは駄目だ。この国の長い海岸線を、日本人が身分の違いを超え、身命を賭して、守ろうとするだけの価値体系が必要だ。松蔭はそれを求め、九州で『新論』に出会い、江戸で水戸行きのための人脈を作り、ついに水戸を目指した。水戸で会沢正志斎らと交遊した。そうして松蔭が水戸学を大いなる導き手として掴んだ価値体系とは、たとえば1856(安政3)年の『太華翁の講孟箚記評語の後に書す』でこう示されている。
 『凡そ皇国の皇国たる所以は、天子の尊きこと万古易らざるを以てなり』。
 日本人は等しく皇国の民であり、皇国は世界に冠たる国體であるがゆえに、そして国體の尊厳は西洋的価値観と並びたたないがゆえに、命を捨てても守る値打ちがあるということだ。海岸線の長い日本を防衛するには国民総動員的な体制を可能にしなければならないという海防論の一種の現実主義と、日本が万古不易の国體を有する世界最高の国であるからそれを士農工商の身分差にかかわりなく一体で防衛しなければならないという国體論の一種の超現実主義とは、鶏が先か卵が先かという関係にあるのだろう」
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 5月5日号 週刊新潮「世界史を創ったビジネスモデル 野口悠紀雄
 江戸幕藩体制ローマ帝国の共通点
 ローマ帝国が政治的な停滞・低迷期のあと五賢帝の時代に復活できたのは、分権的な政治構造と市場中心の経済構造を持っていたからだ。これらの条件が満たされていなければ、五賢帝がいかに有能な政治家であったとしても、ローマは復活できなかったろう。
 では、日本の場合はどうだろうか?江戸時代以降の日本の政治・経済構造を、政治的分権と経済的自由の観点から整理してみよう。
 江戸時代の日本は、統一国家というよりは、藩の連合体とみなすほうが適切な国家であった。徳川幕府は、その中の最も強力な存在であるに過ぎなかった。
 のちろん、幕府は藩を支配した。そのため、改易(大名などから身分を剥奪し、所領と城・屋敷を没収すること。除封、取り潰しとも言う)や国替(転封、移封)を行なった。参勤交代や天下普請(後述)等によって経済的な負担を課した。
 しかし、それ以上の存在ではなかった。
 藩の自治や裁量は、広範に認められていた。藩札の発行さえも自由に行なえた。藩は、基本的に幕府から独立した存在だったのだ。
 もっと重要なのは、本格的な国防軍が存在しなかったことだ。将軍の直轄常備軍である旗本・御家人は、小規模な集団だった。
 基本的な軍事力は、藩が保有していた。その費用を賄うための財政運営(年貢の取り立て)も、藩単位で独立に行われていた。
 もっとも藩が軍事力を保有していたと言っても、それは潜在的軍事エリートである武士階級を養っていただけのことであり、常備軍が存在していたわけではない。時代が経つにつれて、彼らは官僚化していった。神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)や磯田道史武士の家計簿』(新潮新書)」は、その様子をビビッドに描いている。
 ローマの場合に国軍たるローマ軍が国境警備にあたっていたのと比較すると、著しい違いだ。言うまでもなく、これは日本が海によって外国から隔てられており、国境警備のために強力な軍事力を持つ必要がなかったという特殊事情による。国防軍が存在しなかったことは、ヨーロッパ的な常識で考えれば、全く異質な世界のことと言えるだろう。
 自由な体制下で豪商が成長
 徳川幕府による全国統一の結果、平和の時代が到来し、経済が急成長した。アウグストゥスによるパックス・ロマーナの下でローマが成長したのと同じだ。
 ……
 国ではなく藩や村に帰属意識
 農業が経済活動の中心であったため、農民の移住は厳禁だった。人々は、基本的に土地に縛り付けられていた。
 一般的の人々の日常生活は、地域的に狭い範囲に限られていた。農民も商人も、庄屋や寺の管理する『人別帳』『』に記録されていた。
 主要な農作業や家屋の建設・修繕は、村単位で行なわれた。教育も村の寺子屋で行なわれていた。庶民の婚姻は、近隣の村との間でのものが多かった。遠い町や村との婚姻も稀にはあったろうが、藩を越えての結婚はなかったと思われる。したがって、『村』への帰属意識が高かった。
 共通の言語を話しはしたものの、日本国民であるという意識は稀薄であったに違いない。
 藩を越える移動は制約されており、藩を出るには通行手形が必要だった。ただし、旅行は可能だった。芭蕉は全国を行脚しているし、庶民の間でも、お伊勢参り、四国のお遍路、熊野詣、善光寺参りなどが流行するようになった。
 武士が他家に仕えることは、皆無ではないが稀だった。彼らの出世は藩の中に限定されていた。
 ただし、老中など江戸幕府の最高首脳の登用は、全国的に行なわれた。老中になるためには、5万石以上の譜代大名関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えていた大名)という規定があったが、例外もあった。
 総じてみれば、江戸幕藩体制は、ローマ帝国以上に分権的な国家であったと言えるだろう。265年間にわたる長期政権を維持できたこと、明治維新による統一国家への転換が混乱なく達成され、その後急速に近代化を達成したことなどは、こうした分権的政治構造によるところが大きかったと考えられる」
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 2016年5月号 SAPO「書闘倶楽部 評者 鈴木洋史
 国語の確立を描いた『坂の上の雲』言語編
 山口謠司(ようじ)『日本語を作った男 上田万年とその時代』集英社インターナショナル
 明治時代、日本にはまだ日本語がなかった。明治維新で近代国家がスタートしたものの、江戸時代同様、出身地、階層による方言が混在し、漢文、漢文訓読体、候文などの書き言葉は話し言葉とかけ離れ、使いこなせるのは知識層だけだった。言葉がそんな常態では軍隊の指揮、命令が混乱し、外国とまともに戦うことすらできない。それひとつとっても、〈すべての日本国民のための言語〉としての日本語、すなわち『国語』の確立が、近代国民国家となるために欠かせなかったことがわかる。
 それに生涯をかけたのが、日本で初めて言語学を学んだ上田万年(1867〜1937)。ドイツ、フランスへの留学を経て27歳で東京大学の教授となり、後には新村出金田一京助ら多くの弟子を輩出した、日本の言語学国語学の源流的な存在だ。また、文部省の委員会を通じて国語政策に影響力を持ち、言文一致や後に実現する新仮名遣いの推進役となった。
 本書はその万年の生涯を辿りながら、明治期の日本語を巡る状況をさまざまな側面から描く。英語を公用語にしようとする動き、漢字を廃止してひらがな、あるいはローマ字だけで日本語を表記しようとする大きな動きがあったこと、出版、取次、販売が発達して全国津々浦々に本屋が出現し、そのことが新しい日本語が普及する土台のひとつになったこと、落語の名人・三遊亭円朝の速記録が二葉亭四迷らによる言語一致運動に大きな影響を与えたこと・・・。
 これは、言語という側面から描いた日本の近代化の歴史であり、その意味で『坂の上の雲』言語編と言っていい。著者は学者だが、文章は平明、エピソードが豊富で、読みやすく仕上がっている」
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 吉田松陰達ら尊王攘夷派・勤皇の志士は、見境のない凶暴な殺人犯か、社会を恐怖に陥れた凶悪なテロリストか。
 尊王攘夷派・勤皇の志士の目覚めは、ロシアの北方領土及び蝦夷(北海道)への侵略に備えて徳川幕府が奥州諸藩に派兵を命じた、文化露寇事件・北辺紛争・日本人惨殺事件が発端である。
 日本の生存を脅かしたのは、ロシアそして後のソ連であった。
 日本をロシアの侵略から死守する為には、軍国主義しか手段がなかった。
 ゆえに、ロシアは日本の軍国主義を日本側の言い訳を一切聞かず完全否定する。
 日本を軍国主義化に追いやったのは、西洋列強が武力を持って日本を開国させたからである。
 西洋列強が、もし、お節介にも日本を暴力的に近代化させなければ、日本は軍国主義化しなかった。
 西洋式近代化は、いい迷惑であった。
 あのまま恫喝的に開国を強要されなければ、日本は世界の果てにある日本列島で、それこそ「井の中の蛙」として近代化せず平穏に生活していた。
 日本は、無理して西洋式近代化をしなくても、日本列島の自然だけで生活できたのである。
 西洋式近代化が、両手を挙げるほどに喜ばしい事とは限らなかった。
 西洋式近代化せず、太平洋の原住民・先住民として世界と関わり合わずに生きる道もあった。
 前近代的生活でも、平和で平穏で、100年1日として生きるのも悪くはなかった。
 

 

 

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ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義

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軍国美談と教科書 (岩波新書)

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日本軍国主義の源流を問う

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