- 作者:高橋 敏
- 発売日: 2010/01/21
- メディア: 新書
・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
尊皇派や勤皇の志士は、エタ・非人・散所などの賎民や山の民や川の民や海の民などの部落民そしてヤクザ・博徒ら日陰者に多かった。
・ ・ ・
2016年4月号 SPIO「陸軍の印を『代紋』に使うことまで許されたケースも
戦果の上海で、命懸けて飛行場を建設したヤクザがいた 猪野健治
昭和のはじめ頃のヤクザは、平時においては賭博開帳、あるいは炭鉱や港湾、土木などの労働現場で働き、戦時になれば親分自ら子分を引き連れ戦地に赴くこともあった。人の嫌がる危険な仕事でも、すすんで引き受けたという。
〈O月OO日、「さあ野郎ども出掛けるぞ」の聲にOOO名の乾分はハネ起きた。そして御用船OO丸は義侠の親分乾分を乗せてOO日の朝、戦火のOOに上陸したのだった〉
これは日中戦争の最中、1937年11月発行の『文藝春秋』臨時増刊に掲載された『戦ひの上海から』の一節だ。『O』で伏せ字になっているのは、軍事機密にかかわる部分と思われ、戦時の報道規制ぶりが窺われ。
ここで子分を従えているのは、長崎・宮久一家の親分、宮崎久次郎。記事には、海軍の要請を受け、子分数百人を引き連れ上海に乗り込み、命がけで飛行場を建設するまでの顛末が描かれている。
当時の上海は軍事的緊張の極みにあり、敵弾が降り注ぐなかで工事が強行された。途中、再三にわたって爆撃を受け〈一時は、賽の河原の石積みの様に甲斐のない仕事の様であった〉という。同年。艦隊司令部の長谷川長官は宮崎久次郎を旗艦出雲に招き、〈親しく感謝と慰問〉の言葉を伝えた。さらに、この話はヤクザの美談として『誉れの飛行場』と題された浪曲になり、海軍省提供でテイチクからレコードまで発表された。
この一件は『文藝春秋』に載ったかことから広く知られたが、ヤクザが戦場に乗り込んで軍部の仕事を請け負うことは、それ以前から行われていた。
ヤクザと軍部の関わりが始まったのは日露戦争となった『203高地』へ武器弾薬や食料を運ぶ兵站を担ったのが最初とされる。
日露戦争では、京都の砂子川一家の西村伊三郎が伏見の第16師団から要請を受けて、幹部・子分50名を引き連れて従軍し、戦場で軍夫として弾薬運びなどに従事、活躍したことが文献に残っている。
犠牲者も相当に出たという。軍部は砂子川一家の労を讃え、陸軍の山形の印を代紋として使用することを許可した。そのうえに陸軍は、馬の糧秣と寝藁を独占的に納入する権利まで与えている。
慰問興行や慰安所の運営も
当時のヤクザは、炭鉱や港湾などで働きつつ、博徒として賭場からあがり得ていたが、戦時色が濃くなると賭場も開けなくなる。そこで、軍属として戦地に赴き兵站や輸送、施設建設などを担うようになった。日本軍が進駐する土地に拠点を築き、利権に食い込む者も多かったのだ。
兵士の慰問もヤクザが担った。当時は浪曲が大人気で、興行を取り仕切ったのはヤクザである。18歳で興行師として独立し、顔役に登り詰めていた永田貞雄(2代目山口組・山口登組長の義兄弟)は、戦時中に愛国浪曲への転換の音頭を取り、台湾や朝鮮半島、満州、中国本土に拠点をもつ親分衆らと連携し、軍の慰問興行を引き受けた。大陸を横断する浪曲師の1団を送り込むのもヤクザだった。
そのほか、軍部からの依頼で慰安所の運営を任されたり、諜報機関である『特務機関』の配下となって、非合法活動に携わったりする者もいた。
とはいえ、ヤクザが戦場に向かったのは、ただ利権のためだけではないだろう。当時のヤクザは社会の中で差別されたり虐げられたものが多かった。彼らにとって、『お国のために働く』ことは誇りを感じ、『働く意欲』や『信念』に目覚める場所だったはずだ」
・ ・ ・
アドラー「人は、自分に価値があると思えた時にだけ、勇気をもてる」
・ ・ ・
ヤクザは、所詮ヤクザである。
ヤクザは、人に嫌われている事を知っていたし、別に好かれたいとも思わなかった。
人は人であり、自分は自分である。
ヤクザになった原因をあれこれ考えても始まらないし、碌でもない親を呪っても仕方がないし、自分を爪弾きにした社会を恨んでも仕方がない。
ヤクザになりたくてヤクザになったわけではないが、ヤクザの道を選んだのは自分であった。
命の遣り取りする渡世人であるからには、いつ親分の命令で敵対するヤクザに斬り込んで斬り殺されるか、拷問で半殺しでかたわ者にされるか分からない。
将来の事など分からない身の上で、昔の原因をとやかく詮索しあげつらって愚痴を言っても馬鹿がげている。
細く長い人生ではなく、太く短い人生と諦め、将来の夢や希望を想い描くよりも、今この時を楽しく面白く生きていた。
それは、自暴自棄、やけくそではなかった。
任侠道=武士道に基ずく「侠気の美学」で、瞬間、瞬間を充実させて生きていた。
・ ・ ・
幕末・戊辰戦争当時。開国近代化策の幕府・佐幕派と鎖国攘夷策の薩長・倒幕派の兵士となって全国を転戦した主力は、藩士であれば中流以下の武士であり、下士や郷士であった。
庶民であれば、武士に憧れた、その日暮らしで安定した収入がない町人や僅かな田畑しか持っていない貧しい百姓であった。
常識ある庶民は生活や仕事を破壊する戦争を嫌い、戦いが始まれば命大事として我先に逃げ出し、戦いが終わった後は戦場に群がって戦死者の金品や衣服を奪って弔った。
庶民は、権力者や支配者が、幕府であれ、薩長であれ、日本人であれ、中国人や朝鮮人やロシア人やアメリカ人などの外国人であろうと、自分の仕事・生活・家族の命を奪わない限り気にはしなかった。
GHQのアメリカ人が、日本を軍事占領して、日本を破壊する様な日本国憲法(平和憲法)やアメリカ式価値観を押し付け手も、日本人で暴動を起こし抵抗した者は皆無であった。
「長いものには巻かれろ」「御上ご尤も」などという卑屈根性は、権力には決して楯突かない逆らわないという庶民の気質である。
同じ日本人でも、1割未満の武士道に生きるサムライと9割以上の命大事な庶民では、考え方や生き方は全く異なる。
応仁の乱や戦国時代に暴れ回って敗れた武士の子孫であるヤクザやエタ・非人などの下層民は、祖先の身分であったサムライに復帰できる事を期待して武器を取って取って戦った。
ゆえに、日本天皇に心酔し、日本天皇を命懸けで守ろうとしたのが、人間差別を受け軽蔑され蔑まれ嫌われていたヤクザやエタ・非人らの下層民であった。
日陰者として生きていたエタ・非人やヤクザにとって、唯一頼る存在が日本天皇であった。
ヤクザが信奉していた、「弱気を助け、強気を挫く」「真面目な堅気には迷惑を掛けない」「女子供、老人、病人など弱い者に危害を加えない」「困っている者、難儀している者は、自分を犠牲にしても助ける」「喧嘩するなら弱い相手ではなく強い相手と喧嘩する」などの任侠(仁侠)道とは、武士道に通じていた。
任侠(仁侠)道は、理不尽な権力には命を捨てても戦うというアウトローの道である。
そして、国家滅亡の危機に於いては、それが正しかろうが悪かろうが、負けようが勝とうが、天皇さんの一大事、御国が大事として武器を取って戦った。
ヤクザやエタ・非人達は、個の自由として私の主義主張を貫くべく戦場に行かない為に逃げ隠れして兵役逃れしたマルクス主義者の社会主義者や共産主義者とは違い、国民の義務として公の日本天皇や日本国を守る為に戦った。
現代のヤクザは、任侠(仁侠)道=武士道を微塵も持たない、殺人を屁とも思わない冷血な暴力団・犯罪者集団に過ぎない。
昔のヤクザ=任侠(仁侠)と現代のヤクザ=犯罪者集団・暴力団は、全くの別ものである。
代表例が、国定忠治、清水次郎長、黒駒の勝蔵などであった。
平時の身分制度は、戦時では意味をなだなかった。
軍隊に入れば、上流家庭の子弟も下層民の子供も平等に扱われた。
下層民の子供でも軍事的才能があれば、上流家庭の子弟の上官となり、娑婆での恨みを晴らすために苛めて酷使し、私的制裁を加えて自殺に追い込む事さえあった。
日本の軍隊は、貴族の軍隊から発展した欧米の軍隊とは違って、食い詰め行き場のない下層民で形成されていた。
政府や軍部は、下層民の軍隊が天皇を担いで暴走しない為に「統帥権」をつくって抑え込み、教養なき下層民の兵士に厳しい軍律や軍紀を科して雁字搦めに縛りつけ自由を奪った。
日本軍隊の戦場に於ける高度な戦闘力と占領地に於ける非人間的凶暴性は、下層民が抱えていた差別的社会への不満不平から生まれた。
玉砕もカミカゼ特攻も万歳突撃も、下層民の差別社会に生きて返っても幸せはないという自暴自棄的なヤケから生まれた。
日本天皇・日本皇室が滅びる事なく2000年の長きにわたって存続できたのは、ヤクザやエタ・非人達の下層民が祭祀王・天皇制度を守っていたからである。
日本に於けるマルクス主義の社会主義者や共産主義者は、高度な教育が受けられ高額な外来書籍が購入できる都市部の裕福な家庭の恵まれた子弟に多く、その日暮らしを強いられたエタ・非人達の下層民の味方ではなかった。
マルクス主義者が集まっていたのが、エリート養成教育機関である帝国大学であった。
共産主義者は、暴力革命で祭祀王・天皇制度を廃絶しようとした過激派であった。
つまり。日本の共産主義運動は、下層民の為ではなかったがゆえに、エリート層や上流階級の共感を得ても、下層民の支持は得られなかった。
下層民は、マルクス主義の社会主義や共産主義をキリスト教同様に胡散臭いものと警戒し、毛嫌いしていた。
同様に、朝鮮人独立運動や朝鮮人テロリストの活動を支援したのも、下層民ではなくエリート層・上流階級であった。
関東大震災で、在日朝鮮人を虐殺したのは被災した下層民であり、被災を免れたエリート層・上流階級は在日朝鮮人達を助けようとした。
皇国史観の初等教育しか受けていない下層民は、朝鮮人への差別意識ではなく、朝鮮人テロリストが日本天皇を暗殺し日本政府を転覆させ日本国家を破滅させようと本気で信じたからである。
事実。天皇暗殺という世にも恐ろしい計画を、反日派中国人の支援を受けた朝鮮人テロリストが企て実行しようとしていた。
・ ・ ・
戦前の伝統右翼と戦後の現代右翼は、別物である。
伝統右翼は、白人排除のアジア主義から、アジア各地の独立派を支援して戦った。
清帝国と戦う孫文を支援したが、ソ連及び中国共産党と同盟関係を結んだ孫文は見捨てた。
ナチス・ドイツと軍事密約を結びソ連から軍事支援を受けた蒋介石を、敵と見なして戦った。
伝統右翼は、人種差別主義者でも反ユダヤ主義者でもなく、道理の通らない理不尽さには義憤を感じて自己犠牲的に戦った。
現代右翼は、明らかな人種差別主義者で、口先だけで叫き散らす仁義なき無法者である。
伝統的右翼は国民から一定な理解を得ていたが、現代右翼は国民から胡散臭くい毛嫌いされている。
現代右翼は、伝統右翼に比べて傾聴するところはない。
・ ・ ・
- 作者:高橋 敏
- 発売日: 2003/10/17
- メディア: 単行本
- 作者:高橋 敏
- 発売日: 2000/08/18
- メディア: 新書
- 作者:田口 英爾
- メディア: 単行本
- 作者:高田 明和
- 発売日: 2005/08/01
- メディア: 単行本
- 作者:高田 明和
- メディア: 単行本