🎶14:─1─第1回南京虐殺事件。山東出兵。済南虐殺事件。中国共産党結党。アメリカ共産党と排日運動。1920年〜No.28 * 


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 被害者は日本。
 加害者は中国。
 仕組んだのはソ連コミンテルン共産主義者
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 アルフイレート・フェアドロス(オーストリア国際法学者)「戦争は防御戦争か攻撃戦争のどちらかである。この概念のペアと合法及び違法な戦争という概念は厳格に区別しなければならず、……従って合法な攻撃戦争も違法な防御戦争もありえない」(1937年『国際法』)
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 フーゴー・グロチウス「人の世に殺し合いはなくならない。しかし、殺し合いのルールがある。不必要な殺傷は行うべきではない。軍事合理性と無関係な殺傷から無くしていくことで、人類は少しずつ文明的になる」
 中華世界には、ルールのない殺戮が文明的に存在する。
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 日本人にとって、日本以外の世界、大陸は地獄であった。
 中国在住の武器を持たないひ弱な日本人居留民の生命財産を誰が守ってくれるのか。
 日本人は日本人しか守る事がでかい、そして、その日本人とは日本軍である。
 日本軍は、日本人居留民を中国人から守る為に、中国人と戦い、中国人を殺した。
 だが、日本軍が日本人居留民を武力で守った事は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」により戦争犯罪とされた。
 つまり、中国大陸の日本人居留民を日本人が守る事は犯罪であると、国際司法機関は裁定を下した。
 それが、東京裁判である。
 日本人の戦争犯罪は、第一回南京虐殺事件から始まった。
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 1920年 孫文は、儒教価値観の漢族中心主義から、少数民族の権利を剥奪し漢民族に吸収し同化させべきであると主張した。
 「中華民族について言えば合計4億人いる。入り交じっているのは、数百万のモンゴル人、百万余りの満州人、数百万のチベット人、百数十万の回教を信ずるトルコ人だけで、外来の者は1,000万にもならない。
 ……
 漢族を中心に満、蔵、回などを同化させしめ、漢族を改めて中華民族となす」
 満州族の王朝であった清朝は、「五族共和」を掲げ、藩部と呼ばれる土地に住むモンゴル、チベットイスラム教徒などの王侯の生活を保証し、諸民族の伝統・文化・宗教の保持を約束していた。
 ただし、漢族の残虐的本性を歴史から知るだけに、漢族に対しての警戒心を弛める事なく、地方の高官に登用しても中央の高官には昇進させなかった。
 蒋介石「中国5000年の歴史は、各宗族共通の運命の記録に他ならない。……要するに我らの実は同じ一個の民族であり、かつ一体系の、一種族でもあるのである」
 中華思想儒教において、領土内の少数民族の存在を認めず、人は少数の支配する有能な読書人と大多数の支配される無能な小人の2つにハッキリと区別していた。
 そして。徳を施すのは、救い価値のない小人ではなく、道理をわきまえた読書人とその一族のみであると指定していた。
 日本人は、儒教の本質が理解できなかった。
 老子道教は、孔子儒教は人々を誑(たぶら)かす欺瞞であるとして徹底して批判していた。
 中華思想儒教からすれば、日本も国内の少数民族や周辺地域の民族同様な蛮族であり、対等な関係国では忌み嫌うべき下位の野蛮国に過ぎなかった。
 蒋介石はもちろん孫文も、本心で、日本をどう見ていたかは不明である。
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 レーニンは、1918年に日中全面戦争を1920年に日米全面戦争を計画した。
 日本と中国の戦争は、共産主義者が仕掛けた罠であった。
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 1921年7月23日(〜7月31日) 中国共産党第一次全国代表大会。中国共産党の設立会議。
 開催場所は、上海市・フランス租界内の李漢俊自宅。
 出席した各省の代表者13人、コミンテルン代表の2人。
 上海代表:李漢俊(東京帝国大学出身)、李達(東京帝国大学出身)。
 広州代表:陳公博、包惠僧。
 北京代表:張国菇、劉仁靜。
 武漢代表:陳潭秋、董必武日本大学出身)。
 長沙代表:毛沢東、何叔衡。
 済南代表:訒恩銘、王尽美。
 留日代表:周仏海(京都帝国大学出身)
 コミンテルン代表:マーリン、ニコリスキー。
 党の発起メンバーである陳独秀成城学校出身)と譚平山は広州、李大訢(早稲田大学出身)は北京、沈玄廬(日本留学組)はモスクワにおり、また邵力子は上海で病臥しており、戴季陶(日本大学出身)はすでに党を脱退しているため出席していない。
 議決事項:党の基本任務・民主集中制等の組織原則と規律等を規定した中国共産党綱領が定められた。また、役員選挙により、以下のようになった。
 委員長  :陳独秀
 副委員長 :周仏海。
 組織部長 :張国菇。
 宣伝部長 :李達。
 広東特派員:包惠生。
 長江特派員:周仏海。
 日本特派員:張太雷。
 北方特派員;劉仁静。
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 中国共産党の文書は、中国語の中に適切な語彙が少ない為に、漢字の多くは日本語所縁の和製漢字で作成されていた。
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 周仏海(1897年5月29日〜1948年2月28日)は中華民国の財政家・政治家。汪兆銘政権の有力者。
 日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。
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 羅君強(らくんきょう、1902年〜1970年2月22日) 中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。
 1922年(民国11年)春、中国社会主義青年団に加入し、まもなく中国共産党に加入した。7月、中学を卒業し、上海に赴いて中共第2回全国代表大会に参加した。しかし翌年、いったん共産党を離党している。
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 周仏海や羅君強などは、中国で共産主義革命を成功させるべく中国共産党を離党して中国国民党に入党し、左派系列の宋慶齢汪兆銘などに接近した。
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 1922年 アメリカ連邦最高裁判所は、国民の排日運動を受けて「日本人を帰化不能人種とする」最終裁定を行った。
 ハーディング大統領は、第1次世界大戦時に膨れ上がった軍事費による財政赤字、戦争終結に伴った軍需物資生産の急激な縮小による経済不況と復員兵の失業と恩給など、諸問題を解決し国家を再建するには国民の支持と議会の協力を必要とした為に、「日本人移民を受け入れない」という排日運動を放置した。
 日本は、同盟国イギリスとの集団的自衛権発動として、パリに於ける日赤戦争病院開設とオーストリア・ニュージランドの防衛負担や太平洋・インド洋・地中海での安全航行確保など連合国の勝利への貢献と、数多くの実績を果たしたが、アメリカはその全てを無効とした。
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 1922年 第一次奉直戦争。馬賊頭目張作霖は、奉天を拠点に奉天軍を組織して華北に侵入するが、山東出身の呉佩孚(ごはいふ)が率いる勅隷軍び敗れる。
 1924年 第二次奉直戦争。呉佩孚は、張作霖との戦争に敗れ、直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)のクーデターで北京を明け渡して脱出した。
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 1924年 内藤湖南「近頃の支那人の家族破壊論はこれと違って、支那の家族は儒教の本義から成り立っており、儒教が奴隷主義の道徳だからという点から、家族破壊論を主張するのであるが、それと同時にその間に赤化を目論むものも出来て来たのであって、それらの運動が何等の効力もないというのは、支那の社会組織が進歩した共産主義的の家族制度から成り立って居るがためである」(『新支那論』)
 満州政権の張学良は、蒋介石の国民党政権とは異なる独立国として、日本勢力を満州から追い出す為にソ連との間で奉天協定を結び、中国共産党に急接近し始めた。
 5月26日 クーリッジ大統領は、ホワイト・ハウスの中庭で、議会が可決した人種差別法案である「排日移民法」を拒否権を発動する事なく署名した。
 カリフォルニア州などの西部及び中部諸州は、日本からの移民をシャットアウトする排日移民法の成立を歓迎し、排日運動を続けた。
 ルイジアナ州など南部諸州の黒人隔離諸団体は、排日運動が全米に拡大する事を支持した。
 アメリカは、ソ連や中国同様に反日派国家となった。
 日本がシベリヤ出兵時に日本人を犠牲にして行われた、ポーランド孤児救出、ロシア人児童救出、ロシア人及びユダヤ人の戦争難民救出という人道的貢献は、全て否定された。
 日本が行った人道的貢献は、世界で報道されていたに関わらず完全無視された。
 国際世論は、日本を正しく評価する事を拒否し、そしてなかったものとして歴史上から抹消した。
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 国際社会に於ける、日本の孤立化はこの時から始まり。
 反日は、国際社会では世界正義となった。
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 1925年 張作霖は、中国本土への軍事介入を行う為の軍事費を調達するべく、暴力的な経済政策を実施し、紙幣を乱発して貨幣価値を暴落させた。
 満州経済の混乱で、日本人居留民にも深刻な被害が出た。
 柴田養助「満州は当時、張作霖政権時代で、張作霖は東三省を根拠地としたにも拘わらず、満州の本務地を等閑(なおざり)にして中国本土進出に没頭していた。そして日満関係の沿革を無視して国権回収、新興支那建設という南方題目を以って、民意を繋ぐことに苦心していた。
 大正15年初頭、本務地に於いては、奉天票を乱発したため、通貨が暴落し、奉天の財政が危機に瀕した。人心は極めて不安な状態になった。まず朝鮮農民と中国農民が各所で衝突した。これは中国農民の不得手とする水田経営を、朝鮮農民は熟達した技術を以って立派に経営したのだ、中国農民はこれを圧迫して満州から追い出そうとしたためである」
 日本政府は、張作霖に対して長城以南への介入を停止させ、満州の経済安定化と財政再建に専念させるように干渉する事を決定した。
 関東軍や陸軍中堅幹部の中には、反日行動を続ける張作霖を放置しては満州権益は維持できない為に、張作霖を廃して親日勢力に交替させるべきだと主張する者がいた。
 何れも、軍事占領ではなく外交交渉を優先と考えていた。
 奉天政権内部の満州族を中心とした親日勢力は、満州を中国から切り離し、日本の支援を受けて満州の安定と近代化を進めるべきだと考えていた。
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 第1次山東出兵。
 1927年 国際連盟総会は、「国際紛争解決の為にあらゆる平和的手段を取らねばならない」との宣言決議を全会一致で裁決した。
 国際法は、戦争自体を違法とし、武力を用いての解決を禁止した。
 国際世論が騒ぐ、軍国日本の戦争犯罪が始まる。
 フランスのブリアン外相は、アメリカに「恒久友好条約」を提案した。
 1月 イギリスは、中国内戦による混乱から自国権益と自国民を守る為の自衛行動として、上海に軍艦と上陸部隊を派遣した。
 2月 第1回南京虐殺事件。
 アメリカとイギリスは、報復権を発動して、惨殺された自国民の恨みを晴らすべく南京を攻撃し、中国人の暴徒や一般市民を殺害した。
 日本軍は、日本政府の内政不干渉方針に従って報復権を放棄して、虐殺された日本人居留民の遺体を放置し、救出した負傷者を保護して逃走した。
 イギリスの外相チェンバレンは、国際連盟事務総長に、「平和的解決を行う事」という連盟規約を拒否し、連盟常任理事国の権限での自力救済を主張した。
 「帝国政府は、中国における難局を解決するに当たり、現時点で連盟の助力を求め得る如何なる状況にもない事を誠に遺憾とする」
 国際連盟としても、中国が唯一の正統政府の下に統一され治安と法秩序も回復されてない内戦地帯である以上、連盟規約や武力行使禁止の宣言を適用する事ができず、各国の自力救済行動を傍観するしかなかった。
 この国際連盟の「事なかれ主義的現状追認」が、軍国日本を破滅へと追い詰めた。
 ハーバート・スミス(ロンドン大学教授)は、1832年刊の『英国と諸国民の法』で、国際連盟規約は「組織立った国民間の交渉」を前提としたのもであり、国家の体を成していない内戦状態で混乱している中国には適応されない、と記した。
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 3月14日 昭和金融恐慌
 4月 上海工務局は、上海の治安を維持する為に諸外国に派兵を要請した。 イギリス軍9,000人、アメリカ軍1,500人、日本軍1,500人、フランス軍400人、イタリア軍50人。
 海軍艦艇、イギリス11隻、日本11隻、アメリカ5隻、総計31隻。
 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立した。共産党と決別した国民党軍は、「国民革命軍」として北爆を継続することとなった。
 4月12日 蒋介石は、上海クーデタを起こして、共産党員と労働者を虐殺し左派勢力を一掃して南京国民政権を樹立した。
 第1回国共合作の解消。
 4月17日 若槻礼次郎内閣総辞職し、国際協調と中国内政不干渉の幣原喜重郎外相も辞職した。。
 4月20日 立憲政友会総裁の田中義一が首相に任命されて内閣を組閣した。
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 5月 第一次山東出兵。
 田中義一首相(外相兼務)は、対中外交として日本人居留民現地保護政策を採用し、第1回南京事件の再演を防止する為に、北伐を進める国民革命軍が日本人居留民の多い山東省に迫った事を受け山東省への陸軍の出兵に踏み切った。
 5月27日 日本政府は、山東省の日本権益と山東省に生活する約1万7,000人の日本人居留民の保護及び治安維持の為の自衛的出兵である事を表明した。
 政府声明「在留邦人の安全を期する自衛上やむを得ない緊急措置に外ならず、支那及びその人民に対し非友好的意図を有せざるのみならず、南北両軍に対してもその作戦に干渉し、軍事行動を妨害するものにあらず」。
 ただし、財政上大規模な出兵は困難であり、中国側を刺激する事も怖れて、一個旅団規模の出兵にとどめる事とした
 田中首相は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明して了解を得た。
 日本居留民は、北京に1,600人、天津に1,700人、青島に1万4,000人が、平和に生活していた。
 南京政権、北京政権、武漢政権の3政権は、日本人居留民保護目的の日本軍出兵に猛反対して激しく抗議した。
 中国共産党などが指導する反日組織は、各地で日貨排斥運動を起こし、対日経済断交を求める激しい市民大会を開いていた。
 一部の過激な反日派中国人は、日本人居留民への暴行を加えていた。
 5月28日 陸軍中央部は、在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下した。
 6月1日 歩兵第33旅団は青島上陸を完了した。
 6月22日 張作霖は、権力闘争でかつての有力な同士・仲間を粛清して奉天軍を掌握した。
 奉天軍を率いて万里の長城を越えて北京に入城し、「自分こそ中華民国の主権者である」と宣言して、大元帥に就任した。
 張作霖は、満州の日本権益を奪う為に反日的欧米寄りの政策を打ち出し、満鉄経営を破綻させる為に欧米資本の支援を受けて満鉄路線に対抗する包囲網路線を敷設した。
 さらに、日本人居留民や日本国籍朝鮮人満州から追い出す為に、中国人に日本国籍朝鮮人への増加させた。
 張作霖は、日本人居留民に直接危害を加えれば日本軍が保護で出動する事が分かっていた為に、日本国籍朝鮮人満州朝鮮族への犯罪を奨励した。
 地方軍閥馬賊は、奉天政権が犯罪行為を黙認もしくは手助けしてくれる事を良い事に、朝鮮人部落を襲撃していた。
 日本人居留民達は、身の危険を感じて関東軍に保護を求めた。
 関東軍は、対ソ戦略から、張作霖反日政策に危機感を抱き、ソ連軍の侵略を阻止する為の緊急出動体制の検討を始めた。
 6月27日 東方会議と田中上奏文
 7月7日 決定された対支政策綱領で、日本は「必要に応じ断乎として自衛」で現地保護の方針と「機を逸せず適当の措置に出つるの覚悟」を必要とするという宣明をした。
 中国共産党は、民族主義を煽って全土で排日運動も燃え上がらせた。
 8月 国民党は、日本軍が山東省に進出して牽制したために、北伐は一時中止された。
 8月7日 中国共産党は、中央委員会を開催した。
 8月13日 蒋介石は下野を宣言し、北伐続行の見込みはなくなった。こうした状況か
 8月24日 日本政府は、領土的野心がない事を明らかにする為に撤兵を決定した。
 9月8日 日本軍は撤兵を完了した。
 イギリスやフランスなどは、日本軍派兵が、中国の排他的暴動を鎮め治安を回復するとして無条件で歓迎した。
 11月5日 田中義一首相は、訪日している蒋介石と会談した。
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 第二次山東出兵。
 1928年 西北・華北の各地で大旱魃。被災者3,000万人。
 2月27日 ケロッグ国務長官は、フランスの攻撃戦争限定論を否定する交換公文を送った。
 「このような宣言に、攻撃(侵略)という用語の定義や、国家が戦争を行う事が正当化される場合を定める例外や条件が伴えば、その効果は著しく弱められ、平和の保障としての積極的価値は実質的に破壊されるだろう。……このような条約に採用される厳密な用語法は、アメリカにとってどうでもよい問題」
 4月10日 蒋介石は、国民軍総司令に復帰し形勢を立て直すや北伐は命じた。
 北伐軍(総兵力約20万人)は、広州を出発して北上し、山東省に向かった。
 広東駐在武官の佐々木到一中佐は、北伐軍と日本軍との衝突を避ける為に軍事顧問として北伐軍司令部に同行していた。
 4月13日 アメリカ、フランス、イギリス、日本など6大国は、正式に不戦条約を提案し、締結の為の協議に入った。
 4月16日 済南駐在武官酒井隆少佐は、出兵を決意すべき時機到来との意見を具申、さらに参謀総長鈴木荘六大将に状況を打電した。
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 4月19日 第二次山東出兵。日本政府は、北伐軍が再び山東省に迫って来た為に、前回同様に山東半島の日本人居留民保護を目的として出兵を決定した。
 派遣兵力は、天津から歩兵3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から平時編制の第6師団(師団長福田彦助中将)の一部とされた。
 4月20日午後8時20分 臨時済南派遣隊(3,000人)が済南に到着し、警備についた。
 4月25日 第6師団先遣部隊は青島に上陸した。
 4月26日午前2時半 第6師団先行部隊である斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が、済南に到着し、6,000人が山東省に展開した。
 日本軍と北伐軍は、山東省内で対峙し、接近した地域で散発的な発砲事件は起きていたが全般的には平穏を保っていた。
 東京の中央部は、済南で緊張が高まっていると判断し、不測の事態に備えて増兵を決定し、混成第28旅団と臨時派遣飛行隊を急派し第6師団長の指揮下に入れた。
 4月28日 ケロッグ国務長官は、不戦条約提案直後に自衛権について重要な演説を行った。
 「不戦条約のアメリカ案には如何なる意味においても自衛権を制限し損なうものは存在しない。この権利は各主権国家に固有のものであり、全ての条約に暗に含まれている。全ての国家は……攻撃又は侵入から領土を守る自由があり、状況が自衛の為に戦争を訴える事を必要としているか否かを決定する権限は個々の国だけにある。……条約が自衛の法的概念を定める事は、平和の為に利益にならない。なぜなら、承認された定義に沿うような事態を作り上げる事は、無法者にとって極めて容易だからである」
 5月1日 北伐軍の侵攻を撃退するべく出陣していた張作霖軍が撤退し、それに吊られて北伐軍が北上して済南に到着した。
 済南に集結た北伐軍兵力は、約4万人。
 済南市内では、第1回南京事件を引き起こした北伐軍が今にも攻撃してくるのではないかと混乱した。
 5月2日 済南に入城した蒋介石総司令は、南京駐在武官の佐々木到一中佐を通じて、同地の治安維持は自らあたるから、警備区域の撤廃、青島からの増兵中止等を要請してきた。
 福田師団長は、日本政府からの軍命令による行動である以上、貴軍によって行動を左右されるものではない、として要請は拒否した。
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 5月3日 済南虐殺事件。
 午前9時30分 日本軍部隊に、中国人兵士が日本人住宅街に乱入したとの報告が済南日報社から入り、久米川好春中尉以下が済南日報社に向かった。
 これより先に、日本の総領事館巡査2名が現場に到着していたが、多勢に無勢として、中国人兵士達に襲われ暴行を受け佩剣を奪われた。
 午前10時 久米川小隊が駆け付けてきた為に、暴動を起こしている中国人兵士達は逃走し始めた。
 久米川小隊は、逃亡を図る中国人兵士達を捕らえようとした。
 中国人兵士達は発砲して抵抗し、久米川小隊も正当防衛として応戦した。
 小規模な発砲が、市内各所での戦闘に拡大した。
 これが、済南事件の発端である。
 福田師団長は、戦闘を拡大させず収束を図りたいとの北伐軍からの申し出ににより、全部隊に停戦を命じた。
 軍律の厳しい日本軍は、命令に為たがって停戦しようとした。
 対し、盗賊上がりで統制の弱い北伐軍は、兵力差を頼りにしていて、停戦をしようと消極的になった日本軍は弱ったと判断して攻撃を強めた。
 午後2時10分 福田師団長は、停戦の約束を守らない商埠地内に陣取っている北伐軍の掃討を命じた。
 午後3時 日本軍は、抗戦を続ける北伐軍を排除し掃討戦を中止して、再び停戦交渉を進めた。
 夜になって、北伐軍は撤退して停戦協定が成立した。
 5月3日午前 済南虐殺事件。中国軍兵士の一団は、日本軍の守備範囲以外で脱出できず日本人家屋に留まっていた日本人居留民達を集団的かつ計画的に襲い、略奪・暴行・強姦・殺人事件を起こした。
 計画的に虐殺された日本人居留民は、12名。
 それ以外で。中国人兵士の攻撃で死亡した男性2名、暴行侮辱を加えられた者30余名、強姦された女性2名、被害人員約400。略奪された商店及び住宅136戸。
 日本人居留民の抵抗で殺害された中国人兵士は、12名。
 日本人憎しで凶暴化凶悪化した中国人達は、狂喜して日本人を襲い猟奇的に虐殺した。
 5月4日午前中に 日本軍は、日本人居留民虐殺事件が起きている事を知らず、中国側が約束を守り、北伐軍が商埠地外に撤退する所を見届けた。
 同じ頃、日本政府は、両軍の武力衝突の報告を受け、戦闘拡大を防ぐには北伐軍を威圧を加えるだけの増派すべきであると決定した。
 軍部は、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を命じた。
 北伐軍が陣取っていた地域に入った日本軍は、無残に惨殺され、暴行され、強姦された日本人居留民達を発見した。
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 昭和天皇は、南次郎参謀次長(A級戦犯)から日本人居留民虐殺の報告を聞いた。
 夜。瀬川章友侍従は、参謀本部が作成した済南虐殺事件の報告書を昭和天皇に提出した。
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 5月5日 日本軍は、市内での被害状況を調査した。
 済南近くの鉄道駅で、日本人居留民9人の惨たらしい惨殺死体を発見した。
 福田師団長は、非戦闘員であった日本人居留民の虐殺報告を受けるや、国軍の威信と国家の名誉を保持するべく、蒋介石総司令に対して12時間の期限つきで最後通牒を発した。 しかし、蒋介石総司令は誠意ある回答を行わなかった。
 日本の世論は、女性や子供が中国人兵士によって猟奇的に惨殺された事をしるや激怒し、中国に対する報復、復讐、懲罰の戦争を求めた。
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 日本人は、古代から朝鮮人とは違って中国人に対して憧れや親しみを持って眺め接してきたが、済南虐殺事件を目の当たりにして中国人の見方が激変し、中国人への敵意が湧いた。
 日本人の中国人への憎しみは増幅し、日本人兵士による中国人民に対する残虐行為は否が応でも激化した。
 そして。軍国日本は、世界に理解される事なく孤立し、孤独なまま世界相手の破滅的戦争へ引きずり込まれた。
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 東京裁判は、中国で自国民を武力で保護する行為が、中国の主権を踏みにじり世界を征服しようとする平和に対する犯罪と断罪した。
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 中国では、相手の立場に配慮し、思いやって譲歩する事は、無意味であるどころか有害であった。
 中国には、道理も、情理も、一切通用しなかった。
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 5月8日 日本軍は、済南市内の日本人居留民約2,000人の保護の為に済南城を攻撃し、武力で済南付近と膠済沿線の掃討を開始した。
 蒋介石は、武力統一を優先し、日本軍との衝突は極力回避して黄河を渡って北京に進撃するように命じていた。
 北伐軍は、日本軍との正面激突を避けた為に大掛かりな戦闘は起きなかった。
 中国軍兵士は、停戦に奔走していた佐々木中佐を捕らえて監禁した。
 蒋介石は、佐々木中佐に危害を加えると日本軍との全面戦争に突入する危険があるとして、救出する為の使者を派遣した。
 アメリカやイギリスなど諸外国は、武力を用いて自国民居留民を現地保護した田中強硬外交を歓迎した。
 田中義一首相は、満州を中国内戦の混乱から救うには中国本土から切り離すしかないとして、張作霖に戦闘を中止して奉天に帰還させるしかないと決断し、関東軍を欺いても張作霖奉天帰還を成功させるように北京駐在の芳澤謙吉公使に極秘命令を送った。
 芳澤公使は、張作霖満州に帰還して内政に専念するように勧告した。
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 済南事件は、日清戦争以来の大規模な日中間の衝突事件であり、後の日中戦争の前哨戦として中国側に根強い日本に対する反感を呼び起こした。
 中国の民族主義が激しく沸騰し、中国各地で反日運動が盛り上がり、日本人居留民への嫌がらせが頻発した。
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 アメリカ報道「日本軍が国民党軍の北伐を妨害する為に故意に済南事件を起こした」
 国際世論は、済南虐殺事件は日本軍が起こした事件とされ、反日運動を盛り上げた。
 日本人が虐殺された事実を知っても、誰も理解しなければ同情もしない。
 日本国内でも、反天皇反日的日本人が暗躍していた。
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 第三次山東出兵。暴支膺懲(ぼうしようちょう)。
 5月8日午後  田中義一首相は、第1回南京虐殺事件と済南虐殺事件の中国人暴徒による虐殺事件を教訓とし、国家の責任として中国人暴徒から日本人居留民を保護する為に増派を決断した。
 日本政府は、増派案を閣議で協議し、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認した。
 日本は、独裁国家ファシズム国家ではなく、憲法の下での法治国家として政府や国会が協議して国家方針を決定した。
 日本の国会議員は、アジアで唯一、憲法で認められた国民の権利で国民が総選挙で代議士を選ばれていた。
 大陸出兵も、閣議が協議して決定し、昭和天皇は政府決定に対して裁可をえ、軍部は命令に従って計画を持ってて実行した。
 5月9日 軍部は、第3師団に動員を下令し、さらに支那派遣軍の定期交代部隊(歩兵5個中隊)の繰り上げ派遣を命じ、さらに海軍部隊にも増派を命じた。
 蒋介石は、日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領した為、北伐軍に対して日本軍との決戦を避けて北京に進撃する様に命じた。
 5月11日 日本軍は、済南市内の全ての北伐軍が撤退したので済南全域を占領した。
 5月17日 田中義一首相は、アメリカとイギリスの大使を招致し、山東出兵に対する日本側の事情を説明した。
 5月18日 田中義一首相は、蒋介石張作霖に対して公式覚書を送り「満州の治安は日本は最も重視するところであり、もし戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持の為に適切にして有効な措置を取らざるをえない」お警告した。
 中国内戦の原因は中国の不統一にあり、蒋介石の元で統一すれば内乱は収束し、大陸の日本権益も日本居留民も無事に保てると判断して、北京政権の張作霖満州へ帰還するように圧力を掛けた。
 5月19日 オースチンチェンバレン外相は、アメリカに倣って英国版モンロー主義宣言した。
 「世界には、その繁栄と保全が我が国の平和と安全に特別かつ死活的利害を構成する一定の地域が存在する。帝国政府は従前より、これらの地域への干渉を容認しない事を明らかにすべく努めてきたところである。これらの地域を攻撃(侵略)から守る事は、大英帝国にとって自衛手段である。大英帝国政府はこの点に関して、その行動の自由を阻害する事はないという了解の上で、新条約を受諾する。
 アメリカ政府は、他国がそれを無視すれば非友好的行動とみなすと宣言する、類似の利害を持っている。従って、帝国政府は自らの立場を明確にすることで、アメリカ政府の意向と見解を表明するものと確信している」
 アメリカは、自国の理想主義的モンロー主義を維持する為にイギリスの現実主義的モンロー主義宣言を否定しなかった。
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 6月1日 張作霖は、戦闘即中止・奉天帰還勧告に大元帥としての面目を潰されたと激怒して拒否したが、戦況の悪化を知るや奉天帰還を決断した。
 だが、中華大元帥として自分の面目を守る為に、日本側の横暴な圧力でやむなく奉天に帰還するとした。
 6月3日午前零時55分 張作霖は、北京正陽門停車場から奉天行きの特別列車に乗り込み、逃げるようにして出発した。
 6月4日午前5時20分  張作霖爆殺事件。満州某重大事件。
 張作霖が乗り込んだ特別列車は、京奉線を奉天駅に向かって満鉄線との交差地点に差し掛かった所で爆発に巻き込まれた。
 張作霖は、即死に近い重傷を負い奉天城内の自宅に担ぎ込まれたが、午前10時過ぎに死亡した。
 張作霖爆殺したのは、河本大作大佐らである事は紛れもない事実である。
 関東軍と在満日本人居留民は、済南虐殺事件の再発を恐れていた。
 軍部の暴走が始まった。
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 6月5日 第3師団は、青島への上陸を完了した。
 6月8日 北伐軍は、北京に入城した。その数日前に北京を離れた満州軍閥張作霖は、日本の関東軍の謀略である張作霖爆殺事件によって殺害された。
 山東出兵で派兵された日本軍は最終的には約10万にふくれあがり、中国側死傷者は約5千人を超えた。中国兵及び中国の民衆は日本兵・日本人に対する憎しみを募らせ、居留民保護どころか、在留邦人がしばしば襲撃され、それを受けて日本軍が増強されるという悪循環を重ねた。
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 7月3日 蒋介石は、北京に入城して北伐の完成を宣言した。
 中国が統一されたわけではなく、各地には依然として大小の軍閥が割拠し、匪賊や馬賊が跋扈する内戦・混乱状態であった。
 7月19日 田中義一首相は、満州権益と日本人居留民を守るべく、満鉄総裁に山本条太郎を副総裁に松岡洋右を配した。
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 8月27日 パリで、不戦条約が調印された。
 国際連盟規約第21条「平和の維持を確保する為の、仲裁裁判条約のような国際協定あるいはモンロー主義のような一定地域に関する了解の効力に、本規約は如何なる影響も与えない」
 アメリカ議会は、国際紛争を戦争ではなく平和的に解決する事に同意したが、伝統的モンロー主義から自国の覇権下にある中南米で権利が制限される事には同意しなかった。
 ケロッグ国務長官は、国是であるモンロー主義を維持する為に、不戦条約を中南米で適用させない事を条件として条約に署名した。
 そして、2国間紛争が国際仲裁裁判条約の対象案件とされた場合も、当事国の意に沿わない拘束力を持った仲裁を行わない事を条件とした。
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 12月 ケロッグ国務長官は、上院外交委員会の「不戦条約」審議で、「自衛権主権国家に固有の権利であり、何が自衛権に当たるかの判断は各国に一任され」、「自衛の対象はアメリカ本土に限定される事なく、モンロー主義に言及された地域で自己保護の権利を有している」、「アメリカ政府はこの国策に他国の容喙を許さない」と証言した。
 ケロッグ「自衛は、すでに述べたとおり、合衆国本土への攻撃に対する単なる防衛に限定されない。自衛は我々の全ての領土、全ての権利、合衆国に対する脅威阻止の為の方策を取る権利に及ぶ」
 オーストリア国際法学者アルフレート・フェアドロスは、「自衛」とは武力攻撃への反撃だけではなく、自国の国益に不利益となる違法行為に対する自力救済も含むとの見解を示していた。
 上院外交委員会は、「条約によって認められた自衛権の下、我が国家防衛体制の一角をなすモンロー主義を維持する権利が必然的に含まれる」との公式見解を付けて、不戦条約を承認する報告書を提出した。
 日本を始め締結国は、アメリカの「違法行為に対する自力救済=自衛は容認され、その判断は軍事と外交を発動国が決める」という条約解釈を留保条項として受け入れた。
 ケロッグ国務長官は、主権国の軍事行動が自衛か否かを「もし、立派な言い分があれば、その国の行動は世界は賞賛するだろうし、そうでなければ、世界は非難するであろう」と発言した。
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 日貨排斥運動。
 蒋介石は、北京に無抵抗で入城して北伐の完了を宣言し、アメリカやイギリスの全面支援で一党独裁体制国家樹立を目指していた。
 蒋介石が目指した国家は、自由と民主主義国家ではなく全体主義体制のファシスト国家であった。
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 柳沢慎之助「アングロサクソン2大強国は不戦条約に拘はらず事実上地球の4分の3に対して『利害関係ある地方』てふ名義の下に、勝手に武力的干渉を行ひ得る結果となった」(『外交時報』1928年9月1日号)
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 1928年 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。
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 1929年 華中水害で、被災者8,000万人。数千万人が上海や広州など華南と山東省へ流出し、毎年数十万人が中国を捨てて満州へ移住した。
 ソ満国境戦争。極東ソ連軍3万人は、張学良の奉天軍約30万人を撃破した。
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 大災害から中国人飢餓民の救護が可能な国は、戦争犯罪国家日本だけであった。
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 中国大陸に於いて、被災した人間を助ける行為は「軽蔑」されこそすれ「褒められる」事はなかった。
 人を助ける事は、「優しさ」ではなく「弱さ」であった。
 人間不信の中国では、心にやましい人間や後ろめたい過去がある人間だけが、其れを誤魔化す為に慈善活動を行うと信じられていた。
 よって。助けられた中国人は、口先だけで感謝し相手を褒めるが、心の中では軽蔑していた。
 内田良平「『保全』といった心優しい姿勢では、かえって中国人の侮りを受けるだけだ。むしろイギリスのような冷酷で高圧的な態度で臨まない限り、中国人とは付き合えない」
 中国人には、日本の配慮や思いやりや善意は全く通用しない。
 何をしても、どうやっても。中国人は感謝しないし恩義も感じない。
 相手に良かれと思って行う行為すべてが、無駄骨で有り、無意味であった。
 3月28日 軍国日本と中国の間で和平交渉がようやく成立し、済南虐殺事件は有耶無耶の内に処理された。
 5月20日 山東省の日本軍山東派遣軍は、和平成立を受け、済南城を含む山東全域から日本軍が撤退した。
 6月17日 田中義一首相は、「満蒙の如き我が国にとって重大なる特殊権益に対して我が自衛権の及ぶことはその接壌地帯なること並にしばしば政府が中外に宣明せる外交的事実から見て当然のこと」と発言し、満州を日本のモンロー主義で囲う事も留保に加える必要もないとの見解を明らかにした。
 国際法学者の信夫淳平は、モンロー主義や留保条項を主張しなかった田中義一首相の発言を批判した。
 「満蒙に於ける特殊権益に就て……その適用上に疑義の多き国家自衛権といふことを当てにするよりも、やはり英国のそれに倣うて一種の留保を明解に為して置いた方が善くはなかったであるまいか」(『外交時報』7月15日号)
 7月 田中義一首相は辞職した。
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 ソ連軍の満州侵略。
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 満州モンロー主義で守ろうとした軍国日本の野望は、戦争犯罪として完全否定された。
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 アメリカとイギリスは、世界中にある両国の利益を現状で維持する為に、国際関係と国際秩序を平和に安定させるべく全力を尽くし、障害になる国家と個人を如何なる手段を使っても叩き潰した。
 標的にされたのは、軍国日本であった。


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