🎹10:─1─西北大飢饉。中国大洪水。満州事変と国際連盟理事会。リットン調査団。1930年〜No.38 


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 鍾祖康「来世は、豚になっても中国人には生まれたくない」。
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 軍国日本が軍事介入する事で、中国の地獄の様な内戦は収束し、日本軍の侵略によって一つにまとまり始めた。
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 人の命は虫けら以下。
 中国軍の被害を拡大したのは、督戦隊であった。
 日本軍と戦う戦場から敗走する味方の兵士を射殺し、日本軍陣地へと追い立てて殺した。
 ファシスト中国と軍国日本の熾烈な戦闘。
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 皇室と関係が深かった日本赤十字社は、軍部が立ち入りを許した天災で被害を受けた中国各地に救援隊を送っていた。
 軍部は、自然災害で被災した中国人を親日派にするべく救援を許した。
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 ファシスト中国と中国共産党は、被災した自国民を一切助けず、見殺しにした。
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 1912年の中華民国建国から33年までの22年間だけで、内戦は700回を超えた。
 7年間の国民党内戦で、死傷者は3,000万人以上といわれる。
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 中国共産党は、華中・華南に15のソビエト地区を作り地主階級の土地を没収して貧農に分配する事で人民の支持を得た。
 紅軍兵士が無教養の貧民出身や犯罪者や流民の為に、略奪や殺人や強姦などの暴虐が目立った為に「赤匪軍」と恐れられた。
 中華世界では、軍人は無教養で身分の低い者の為の卑しい職業と軽蔑されていた。
 中国共産党軍は、解放区を拡大し資金と食糧を確保する戦術として「一村一殺」を行い、占領した村で村長一家を村人の目の前で公開処刑した。
 女子供も容赦なく皆殺しにした。
 共産主義とは、人民を死と暴力の恐怖で支配する事である。
 反対派は、本人はもとよりその家族、女子供であっても容赦なく虐殺した。
 共産主義は、恐怖で人民を洗脳して革命戦士に育てた。
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 満州族は、満州清朝を復活させる為に満蒙独立運動を起こした。
 日本陸軍は、満州の正統な所有者は満州族であるとして独立運動を支援した。
 満州族モンゴル族、漢族は、別の民族である。
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 1930年代 中国の宋慶齢は、国民党左派であったが、宋家の三姉妹として国父・孫文の妻であり蒋介石夫人の宋美麗の姉という揺るぎない立場で、蒋介石赤狩りから免れていた。
 スターリンの信奉者としてソ連コミンテルンと通じ、スターリニストとしてスターリンに敵対するトロッキストなどを蒋介石に告発して粛清させた。
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 1929〜30年 西北大飢饉。
 河北省水害と陜西省干害。被災者3,000万人以上。餓死者900〜1,000万人。
 陜西省だけで、100万人以上の婦女子を含む200万人以上が流民となり、70万人以上の女性や子供が中国人人身売買業者によって奴隷(性の奴隷)として売られた。
 父権を絶対視する正統派儒教は、女性や子供の人権を一切認めず単に男・夫。父親の道具としか認識されていなかった。中国では、人身売買はアヘンの密売と同じく普通におこなわれていた、重要な産業であった。
 中国には、歴史的事実よして、人道は存在しない。
 日本政府は、23年の関東大震災のおりに、清朝最後の皇帝溥儀と北洋軍閥の段祺瑞北京政府から受けた支援を恩義として忘れず、「人道」の見地から二つの調査団を派遣した。たとえ、現在の国家や政府が反日的侮日的であっても、民衆には罪はないと割り切り、無償で被災民の救済に乗り出した。
 戦前の日本人は、「敵に塩を送る」事を武士道的美徳とし、「罪を憎んで、人を憎まず」の天皇神話を信仰していた。
 キリスト教諸団体は、大災害や戦争を布教の好機として救済活動に乗り出していた。宣教師らは、被災地で人が命を失うのは唯一絶対神の「愛」を信じない事に対する神の審判であると糾弾し、被災民達に貧困や困窮から抜け出すには伝統的民俗宗教や土着的自然宗教を捨て普遍的教義を信仰する事だと諭した。キリスト教会は、天皇制度国家日本の救済活動には侵略意図ありとして反天皇的宣伝をおこなった。
 日本軍部は、被災地の被害状況を調べるべく調査団を派遣した。
 日本赤十字社は、軍部の協力を得て、被災民を助ける為に優秀な医師や看護婦達を被災地に派遣した。
 中国人の指導者は、被災した同胞が幾ら餓死しようともペストやチフスなどで病死しようとも気にはしなかった。
 日本軍部は、中国の風土病やペストやチフスなどの細菌研究に力を入れた。
 戦後、この細菌研究は細菌兵器開発として非人道的犯罪と認定された。
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 1930年 関東庁警察が取り扱った満鉄とその附属地への破壊工作件数は、1,294件。
 関東軍が取り扱って件数は、運行妨害・貨物被害60件、電線妨害20件。
 関東軍も関東庁警察も、破壊工作を止めない反日派中国人への不満や怒りが増していた。
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 1930年 河南大戦。死者は12万人に達し、負傷者は1万9,500人以上、省外へ逃亡した戦争難民118万5,000人以上。軍に拉致され、軍役を強いられた者は129万7,700人以上。
 女は強姦され娼婦として売られ、男は兵士する為に連れ去れて殺され、男の子は奴隷として売られた。
 鬼畜のような中国には、人権も、人道も、良心も、道徳も、何もなかった。
 そこにあるのは、自分だけの「個人の利」でけであった。
 個の利の為に、自分の「面子」が存在している。
 「面子」は「利」である。
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 1930年7月 中原大戦。蒋介石軍60万人以上対反蒋介石軍70万人以上。中立、張学良軍20万人以上。
 各軍は、強制連行した数十万人の苦力(クーリー)、数多くの従軍慰安婦(性の奴隷)、日常品は勿論武器やアヘンなどを扱ういかがわしい商人を多数抱えて行軍していた。彼等は、イナゴの様に食糧等を暴力的に現地で調達していた。気の荒い盗賊の様な兵士は、駐屯地周囲の地元民から強奪し、抵抗すれば容赦なく虐殺した。
 戦場となった地元民は、強盗の様な軍閥軍兵士を兵匪と毛嫌いしたが、それ以上に見境なく虐殺する乞食の様な中国共産党員を共匪と恐れた。
 上海や香港の秘密結社は、不法行為で暴利を得る為に、内戦を拡大させるべく両陣営を煽り立てた。
 中国は、法秩序を失い、約2,000万人の匪賊などが横行する無法地帯となっていた。
 中国社会は、「勝って生き残る」か「負けて死ぬ」かの二者択一の実力主義社会、能力至上主義社会である。
 「生きる事」を選んだ中国人は、金銭を第一とし、損得勘定で行動する為に貧しく弱い被災者を救済する気はなかった。
 人望があった汪兆銘ら穏健派は、飢餓と疫病に苦しむ民衆を救済するべく北京で反蒋介石の国民政府を組織するが、理論のみで軍事力を持たない為に参加者は少なかった。
 武力を持たない者の正論は、負け犬の遠吠えとして誰からも支持されず、逆に社会を混乱させるだけの有害無益な存在であった。非暴力・無抵抗や人道などは、犬の糞ほどの価値もなかった。それを真に受けるのは、無能な日本人だけであった。
 中華民国最大の内戦である中原大戦は、買収された張学良軍が味方した蒋介石軍の大勝利で終結した。
 戦死者は、蒋介石軍9万人以上、反蒋介石軍30万人以上であった。戦災による庶民の被害者数は、両軍の戦死者の合計以上といわれている。
 勝利者は、戦闘終了後兵士に対し褒美として、3日間支配地で略奪、強姦、殺人、放火の自由を与えた。
 軍資金や物資な乏しい中国では、味方であっても負傷者の治療はせず、敵兵への治療はなおさらしなかった。
 敗走兵は匪賊として集団となって村や町を襲撃し、略奪して戦闘力を軍閥に売り込んだ。集団に入れなかった敗残兵は、盗賊と見なされて民衆に猟奇的に惨殺された。
 「弱い者」は生きる資格がない社会であり、他人の助けが得られない以上は「個」人として強く生き抜くしかない社会である、ゆえに、他人をけっして信用しないのが当たり前の社会であり、他人をむやみに信用するのは無能な馬鹿の証拠とされた。
 捕虜収容所は全くなく、食糧や医薬品は貴重品の為に、捕虜は死ぬまで苦力として酷使するか、あるい味方の兵士として採用してかっての戦友を殺させるか、その場で猟奇的手段で惨殺した。
 敵を殺して生きるか、敵に殺されるか、その二者しか選択はなかった。
 日本の軍事力は、中国の総軍事力に比べてはるかに弱小であり、その装備も中国軍に劣っていた。日本軍の装備は、国際的な軍縮要請を受けた国会での軍事費削減攻勢にあって、日露戦争からそれほど近代化されていなかった。
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 1931年 揚子江、准河及び大運河流域の16省で大水害。被災者は8,000万人以上で、死者は14万人以上である。数百万人の難民が、南京や上海の都市部に流入し、各都市の治安は悪化した。
 避難民や下層階級の貧民は餓えと寒さに苦しみ、毎朝、都市では百人近い不運な者が路上で死んでいた。
 貧困者に、救いのないのが中国社会であった。
 各革命政府及び軍閥の兵士は盗賊(兵匪)と同じで、貧しい無力な農民から女や食糧を奪い、抵抗すれば容赦なく殺しそして家を焼いた。
 三光作戦とは、屠城作戦や清野作戦と同様に、中国民族の伝統的正攻法である。中国大地は、血に塗られた地獄の様な土地であった。
 歴史的事実として、中国人は中国人を猟奇的に惨殺していた。
 何時の時代でも、中国の武官や軍人は戦場で残虐行為を行った為に、文官・知識人から人殺し集団として嫌われ、社会的身分・地位は低かった。
 支配者は、武官の反乱を恐れていた。
 極東アジアでは、文官は武官より身分が高く、文官は戦場へ出ない為に武官よりはるかに残忍である。役人は、一般庶民を知恵なき獣人としてあしらい、そして重税を課して全てを奪った。ゆえに、民衆は位の低い役人でも「官匪」として恐れた。
 中国の何れの政府も腐敗し、ワイロと横領が横行していた。貪官汚吏の横暴によって、人民は救い様のない地獄の生活を強いられ、悲惨の極地に断たされていた。
 中国人には自力による自浄能力はなかく、外的な衝撃のみが現状を改善する唯一の望みであった。
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 中国大洪水。死者100万~400万人。1931年7月~8月。被災者2,500万~5,000万人ウィキペディア
 1931年中国大洪水
 1931年8月の洪水による被災者
 日付 1931年7月-11月(川により異なる)
 場所 黄河、長江、淮河
 死者 14万5,000人–400万人
 1931年中国大洪水は中華民国で起きた一連の洪水である。この洪水は記録が残る中で最悪の自然災害の一つと一般にみられており、また疫病と飢饉を除いて、20世紀最悪の自然災害であることはほぼ確実である。推定死者数は、14万5000人とするものから、370万-400万人とするものまである。 
 気象的要因
 1928年から1930年まで、中国では長期の旱魃に見舞われた。[要文献特定詳細情報]によれば、華中では1930年末の冬から異常気象となり、激しい冬の嵐ののち、春の雪解けと豪雨によって川の水位が大幅に上昇した。1931年7月・8月には雨はさらに勢いを増した。1931年はまた、台風の活動が極めて活発だった年でもあり、年平均わずか2個の台風しか発生しないこの地域に、この年の7月だけで7個の台風が襲来した。
 死者総数と被害
 中国の文献では、長江の洪水による死者総数を約14万5000人、被災者数を約285万人とするのが一般的だが、西側の多くの文献では、それよりはるかに多い370万から400万人の死者が出たとしている。
 長江
 洪水が最も深刻だったのは1931年7月から8月にかけてであった。7月だけで長江沿いの4つの気象台が月間降水量600mm以上を記録した。
 淮河
 長江と淮河の洪水は、まもなく当時の中国の首都・南京市に到達した。大規模な洪水帯の孤島部に位置する南京市は壊滅的被害を受け、水死あるいはコレラチフスといった水媒介性感染症で数百万人が死亡した。困窮した住民により妻や娘が身売りされ、子殺しやカニバリズムまでもが政府に詳細に報告された。被害地域は湖北省湖南省江西省武漢市、重慶市などであった。8月19日には武漢市の漢口で水位が通常時を16m上回り、高水位線にまで達した。ちなみに通常時の平均水位は、上海外灘より1.7m高い程度である。1931年8月25日夜、京杭大運河の増水によって高郵湖近くの堤防が決壊し、この決壊による洪水で、就寝中の約20万人が水死した。
 政府の対応
 中華民国時代(1930年代–1940年代)
 災害の発生により中国国民党政府は洪水問題に対処するため、淮河管理委員会などの組織を立ち上げた。しかし資金不足と日中戦争やその後の国共内戦の混乱により、各委員会は、長江沿いに数カ所の小さなダムを建設できただけであった。
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 ヘレン・ミアーズ「調査団が集めた事実を証拠として使えば、日本は中国を世界平和を乱した罪で告発できる」(『アメリカの鏡・日本』)
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 ファシスト中国は、円借款3億円の支払いを遅延し、そして金を返すのが惜しくなって借金を踏み倒す事にした。
 日本の配慮や思いやりや気遣いが、中国の強欲によって踏みにじられた、、
 円借款は3億円であったが、元利合計10億円に達していた。
 日本軍部は、貸した金の返還を督促し、渋れば担保を差し押さえ、最悪の場合は懲罰的に軍事力を行使して返還させる、事を検討した。
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 辛亥革命清朝が崩壊するや、山東省などの貧困層漢族が大挙して満州に移住した。
 満州の水田農耕可能な土地には、すでに多くの朝鮮人が入植し生活していた。
 新たな入植者である漢族は、華夷秩序意識から、満州族朝鮮族を下位者と見下して彼らが苦労して切り開いた土地を奪おうとした。
 山東省から流れてきた張作霖等は、多数派となった漢族入植者の支持を得る為に朝鮮人農民への迫害を加え、馬賊として勢力を広げ軍閥化していった。
 清朝時代は、漢族の入植が禁止されていた為に満州族モンゴル族は多数派で、朝鮮族と漢族は少数派であった。 
 漢族の大量入植で多数派と少数派が入れ替わり、満州は無法地帯と化した。
 日本軍は、満州に住む日本人居留民と日本国籍朝鮮人移民が満州から立ち退かない以上、漢族の犯罪者や馬賊から生命財産を守る為に武力を用いていた。
 軍国日本は、内戦や犯罪で殺し合う中国・満州から十数万人の全日本人を日本に引き揚げるべきであった。
 が。それをすれば、ソ連外モンゴルで傀儡国家を建設したと同じように、満州を軍事占領し傀儡の共産主義国家を樹立した。
 軍国日本は、天皇制度を廃絶して大虐殺の暴力的共産主義革命を起こそうとする反社会的狂犬集団を、日本に近づけるわけにはいかなかった。
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 1931年9月14日 中国国民党(中国ファシスト)政権は、非常任理事国に選任された。
 9月18日 満州事変。日本軍は、中国兵士捕虜を信用して武装を取り上げて故郷へ帰したが、帰らない者や帰れない者は特種工人として強制連行し地域復興の為に鉄道や橋などの建設現場で、低賃金を払って使役した。
 戦後、この行為はジュネーブ条約(俘虜条約)違反の戦争犯罪とされ、多くの日本兵が戦犯として処分された。 
 山東省など華北の被災民は、救済せず戦乱ばかりを繰り返す非人間的中国人指導者に絶望して、日本軍が支配する安全で安心な満州に逃亡した。
 数十万人の日本人居留民が、中国各地で生活していた。
 中国政府は、日本人を自国民同様に見捨て、そして危害を加えていた。
 国際世論は、中国の主権防衛を無条件で容認し、日本の自衛権に基ずく自国民保護を侵略行為として完全否定していた。
 軍国日本には、生命財産を自力で守るという正当防衛すら認められてはいなかった。
 板垣征四郎土肥原賢二ら、日本国家の国益と自国民を武力で守ろうとした行為が、人道の罪及び平和に対する罪にあたるとしてA級戦犯の汚名を記せられてリンチ的縛り首で処刑された。
 国際常識は、中国人を被害者とし、日本人を加害者としている。
 現代日本も、こうした歴史的事実を知った上でA級戦犯を呪い、A級戦犯が祀られている靖国神社の廃社を訴えている。
 1933年7月30日 大阪朝日新聞「3億の対支債権 実力で回収を決意」
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 東京裁判判決速記録「B部第五章日本の中国に対する侵略」
 「日本が中国に対して遂行し、日本の指導者たちが『支那事変』あるいは『支那事件』という欺瞞的な呼び方をした戦争は、1931年9月18日の夜に始まり、1945年9月2日に東京湾上における日本の降伏によって終わった」
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 昭和天皇は、戦争ではなく平和を希望し、満州事変の不拡大と早期解決を望み、一度か裁可した熱河作戦の取り消しを軍部に求めた。
 軍部は、昭和天皇統帥権を無視し、満州事変不拡大という希望を拒否した。
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 1931年9月18日 国際連盟の年一回の総会が開催された。
 中国の施肇基代表は、中国の主権を侵害する軍国日本の侵略であると激しく非難し、制裁を科す可能性のある規約第15条の採択を強く求めた。
 イギリスのロバート・セシル代表らは、中国が終わらない内戦と度重なる災害で無法状態にあり、過激派民族主義者による日本人居留民への横暴などを考慮して、中国側が要求する規約15条を避け、当事者間の話し合いで解決を図る事を求める規約第11条の採択を求めた。
 9月30日 国際連盟理事会は、国際紛争解決決議は全会一致で行うという原則に従い、日中両国に話し合いによる和解を求める決議が採択された。
 中国側に対し、日本軍が管理する満鉄附属地外における日本人居留民の生命財産を保護する事。
 日本側に対し、日本人居留民の保護が確保され次第、「出来る限り速やかに」軍隊を条約上認められた鉄道附属地に引き揚げさせる事。
 新たな事態が生じない限り、次回会合を10月14日と決めた。
 10月8日 関東軍は、張学良軍が反撃の為に集結している錦州を示威する為に、10機程度の軽軍用機で爆撃した。
 中国側は、錦州爆撃を国際連盟勧告を無視した新たな侵略行為と告発し、欧米で反日世論を煽り、国際連盟理事会に当問題に関する会合を開くよう要請した。
 ヘンリー・スチムソン国務長官対日強硬派として、反日親中国の国民世論に従って、アメリカは国際連盟加盟国ではなかったが中国を支持した。
 中国の外交と情報操作及び宣伝は、日本より数段優れていた。
 10月13日 国際連盟理事会議長アリスティード・ブリアン仏外相は、日本側の反対を押し切って、非加盟国アメリカをオブザーバーとして招請する提案を、全会一致の原則を無視し、規約第5条2項の過半数で足りる「手続」問題として強引に可決した。
 フランスは、国際連盟におけるイギリスの影響力を弱め、フランス主導の新秩序を築く為にアメリカの国力を利用しようとした。
 イギリスは、同じアングロ・サクソン英語圏としてアメリカを利用してフランスを押さえようとした。
 10月24日 国際連盟理事会は、日本側に対して、次回の理事会開催が予定されている11月16日迄に日本軍を鉄道附属地に撤兵させる事を求める決議案を協議した。
 満州事変は規約第11条で全会一致の原則に従って解決する事になっていた為に、常任理事国の日本1ヶ国が反対し決議案は否決された。
 イギリスのセシル代表は、日本側に有利に問題を解決すべく、日本代表に「基本原則」があるのなら開示する様に求めた。
 日本代表の芳沢兼吉駐仏大使は、「東京の訓令がなければできない」として丁重に断った。
 「基本原則について、我が国政府は一定の見解を保持するも、我が国政府の許可が得られるまで、本職は正式に理事会にこの見解を伝える事はできない」
 日本エリート官僚の悪癖である事勿れ的手続きと日本の立場・正論は声高に騒がなくとも何れは分かって貰えるという安易さから、国際連盟と国際世論の反日的空気を読めず、日本の名誉を挽回する好機を失った。
 日本エリート官僚は、テストが高得点の記憶力抜群で決められた手順を盲従遵守する文系マルクス主義者が多数派を占めていた。
 文系マルクス主義者が理想社会としたのは、欧米の自由・民主主義体制ではなく、ソ連社会主義体制であった為に、欧米列強の支配層・エリート層・上流階級との関係を毛嫌いし、国の進路と民族の将来の為に自分の理想を殺してまで嫌いな彼らと情報を交換して友好関係を築こうという意志はなかった。
 日本の軍国主義者の多数派とは、理系官僚や民族主義者ではなく、文系官僚とマルクス主義者であった。
 大正・昭和前期では、明治期のように理系(科学技術)と文系(古今東西の教養)をバランス良く身につけ、語学力に優れ、欧米の支配層・エリート層・上流階級から庶民・労働者・下層民まで分け隔てなく付き合える、軍人・官僚・政治家といった有能な人材がいなかった。
 その原因は、自分で考え自問自答して人格・品格・品位を高めるのではなく、与えられた知識を詰め込みその範囲で事務処理を行う、情緒的日本教育を否定した合理主義的西洋教育にあった。
 情緒的日本教育と観念的東洋教育は、本質的に異なる。
 伊藤述史「日本の若い外交官で外国語がろくに出来る連中はいなくて、内地ではどうにかやって行くが、一歩外国に踏み出せば役に立たない有り様である」(『日本の外交』1940年)
 イギリスなど諸外国の代表団は、中国国内の無法状態で日本が如何に追い詰められているかを知るだけに、日本側が自己の正当化を公言しない事に失望し、日本側に支援の手を差し伸べる事の意慾を失った。 
 セシル「何故日本はその見解を発表するに困難を感ずるかを諒解できぬと述べ、理事会の空気は一般に日本に対する疑念の念を増したかの如くであった」
 日本外交は、満州事変処理に於いて中国に外交に敗れ、日本を焦土とする戦争の悲劇は軍部ではなく外務省の失敗で起きた。
 日本外交の失敗は、いつの時代でも、内政・外交・経済などの国政を動かすエリート官僚の縦割り体質と訓令至上主義および横並び的事勿れ主義による限界を示していた。
 満州事変の失敗は、軍部・軍国主義者ではなく、官僚・マルクス主義者がもたらした。
 セシル「もし或る国(中国)の代表があれほど雄弁でなく、また、もし他の国(日本)の代表がもう少しよく表現できたならば、問題の解決はこんなに紛糾せずにすんだろう」
 古垣鉄郎「支那側の逆宣伝は巧妙を極め、熱心を尽くして我が外交当局の稚拙、不熱心とよい対照をなした」
 「(施肇基について)連盟の空気を巧みに有利に導き、何時の間にか連盟理事会自身を、日本と正面衝突の場面にまで引きずって行ったのは、何としても支那代表施肇基君の力である。……所謂支那大官らしい所がなく、万事アメリカ流……その英語は又堂にいつたもので……理論と修辞にかけては本物の英米人が甲を脱ぐ位である。……国家のバックなく組織ある政府の支援なくして、独りよく国際外交の檜舞台に主役を演じたダーク・ホースといふべきあろう」  
 「(芳沢兼吉について)感情に訴へるには多弁を要しないが、理性に訴へ、納得せしめるには如何なる能弁もなほ足りない。ところが事実は弁を要せざる支那代表が多弁で、弁を要する日本代表が訥弁でいる。……アメリカ仕込の支那代表と、支那仕込の日本代表の対決が、かかる公開会議で如何に展開したかは既報の通りである。……芳沢代表の語学上の不十分に加ふるに、支那式の無表情なる表現は、少なからず列国代表、殊にブリアン議長やドラモンド事務総長らを悩ませたと伝へられる」
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 1931年11月 江西省の瑞金に、一党独裁体制の中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立された。
 死の恐怖政治を行い、反共産主義者18万6,000人以上を虐殺し、210万人以上の住民を追放した。共産主義政権の多くは、「人民の名」において反対派を大粛清し、反共産主義者民族主義者や宗教関係者を大虐殺した。
 人民の敵とされた者から没収した資産は、特権を利用した共産党幹部が大半を横領し、ごくわずか金が「絶対平等」の原則として兵士らに均等に配られた。
 共産党幹部による横領は、日常茶飯事的に行われていた。
 貧しい兵士は、凶暴化して、共産主義大義を振り回して地元民から金品や食糧を暴力的に奪った。
 匪賊・兵匪・官匪の中で、貧しい共匪がもっとも恐れられた。無力な人民は、生きる為に、容赦なく奪いさる赤匪に逆らうことなく従った。
 共産党政権は、各地で発生している数百万人の被災民を救済するより、国民党支配地を混乱させ暴動を誘発させる為に敵陣営へと追いやった。中国の戦術は、食い詰めた貧しい人民を暴徒化して敵軍にけしかける事を、常套手段としていた。
 それゆえに、中国では天災は人災により戦災へと発展した。
 そこには、「情において忍びない」という日本的やさしさ(弱さ)は存在しない。
 だが、人民からの支持を得けられず敗走(長征)した経験を生かして、人民の支持を得る為に闘争方針を変更した。
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 11月16日 パリで、国際連盟理事会が開催された。
 ジュネーブの連盟本部では、常任理事国の大国に不満を持ち、軍事行動を起こした日本の現状を理解せず、中国及び満州に権益を持たない小国が多数派であった。
 軍事・経済の弱い小国は、大国が帝国主義的政策を採用し、自国の利益の為に武力で領土拡大をするのではないかという懸念であった。
 伊藤述史「支那のような特別な状態の下にある国に起こった事柄は、かかる特別状態のない欧羅巴各国に間には先例となるものではないか云ふこと」(『連盟調査団と前後して』1932年)
 フランス世論は、第一次世界大戦時での日本赤十字社・軍医部によるパリ日本病院の活躍に感謝して、日本に好意的であった。
 代表団とは別に、交渉団の一員としてパリに参集した親日的なイギリスのジョン・サイモン外相やアメリカのチャールズ・ドーズ駐英大使らは、日本に有利な解決案を話し合った。
 松平恒雄駐英大使は、サイモン外相やドール大使らに、満州の特殊性、日本の歴史的経緯、領土拡大の意志がない事などを説明した。
 ドーズ大使は、親日的フーバー大統領の意向に従い、日本に受け入れられる妥協策を成立させるべく裏工作を行った。
 伊藤述史「ドール将軍といふ人の行動に対しては、我々日本人として感謝の意を表すことが適当であろうと思ひます。……理事会には一遍も出席しないで、裏面で非常に活躍されたといふことは我々一般に知っておくだけの理由があると思ひます」
 理事会は、12月10日の連盟理事会に日本側に有利な決議案を提出する事を全会一致で可決し、期限を設けず日本軍は「出来る限り速やかに」鉄道附属地に撤兵する事を勧告した。
 この時の日本外交は、中国外交に勝った。
 12月10日 国際連盟理事会で、芳沢兼吉代表は「満州の特殊性」と「日本軍の軍事行動は日本人居留民の生命財産を匪賊や無法分子から守る自衛行動である」事を繰り返し説明した。
 セシル代表は、中国の実状から日本軍が匪賊らを討伐する事は「不可避」であるとして、日本側の説明に同意した。
 理事会は、11月16日提案を全会一致で可決した。
 ブリアン議長は、日本有利な決議案は満州問題の解決に向けた「徹底的な一歩」となる事を望むと宣言した。
 日本側は、満州の特殊性を各国に理解して貰う為に、国際連盟から調査団を派遣する様に提案した。
 理事会は、英米仏3ヶ国から調査団を派遣する事にしたが、独伊2ヶ国が強く参加を求めた為に、5人構成となった。
 いわゆるリットン調査団であった。
 独伊は、満州事変解決の為ではなく、経済不況の解消の為に中国市場に進出するべく参加したのである。
 それが、後のナチス・ドイツファシスト中国(国民党)の対日密約、ドイツ軍事顧問団とドイツ軍需産業の対日戦全面支援となって実を結ぶ。
 イギリスとフランスは、中国本土や満州に於ける反日暴動や日本人居留民被害、そして満州の特殊性を知るだけに、日本側の言い分に沿った解決法を模索していた。
 日本政府は、満州が無法地帯で日本人居留民の生命が脅かされているという特殊事情を、大国の自国本意の武力行使を警戒する親中国派の小国諸国に理解して貰うべく、リットン調査団の調査に積極的に協力した。
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