🎹23:─1─毛沢東と日本軍部の裏取引。中国共産党と日本軍の共同アヘン密売。共産主義者汪兆銘。No.128No.129No.130 * 

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)

  • 作者:遠藤 誉
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 新書

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 孫子兵は詭道なり
 中国のおける最上の勝利は、自軍を戦わせる事なく、詭弁を弄して、嘘の上に嘘を重ねて相手を騙しきって得る事であった。
 中国には、歴史的に「信」は存在せず、あるのは「詐り」だけである。
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 中国共産党軍は、」日本軍と支配地・占領地を分け合って解放地区を拡大した。
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 毛沢東は、抗日戦後の蒋介石との最終戦争勝利の為に日本軍を利用する戦略を立てた。
 中国共産党軍を温存する為に、国民党軍を日本軍との大規模戦闘に誘導する。
 如何しても避けられない状況に追い込まれない限りは日本軍との戦闘を回避し、戦闘に突入しても、攻められたら退き、退いたら攻めるといった消極的ゲリラ戦を取って被害を最小限にとどめる。
 国民党軍に甚大なる打撃を与え消耗させる為に、国民党の内部情報や国民党軍の軍事情報を日本側に高く売る付ける。
 その為に、日本軍、汪兆銘政権と極秘に密約を交わす。
 毛沢東は、中国共産党直属の極秘諜報機関をつくり、対日協力の工作員を送り込んだ。
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 1939年 日本外務省は、中国の情報を収集する為に、上海副領事・岩井英一を班長とする諜報機関「岩井公館」を設置していた。
 岩井公館には、すでに中国共産党工作員の袁殊(えんしゅ)が潜り込んでいた。
 繙漢年(はんかんねん)は、毛沢東の密使として上海に赴き、袁殊を介して岩井英一に接触した。
 岩井英一は、繙漢年との間で、蒋介石重慶政府の内部情報と国民党軍の軍事情報を得る見返りとして高額の提供料を半月に一回払う事で合意した。
 日本外務省は、班漢年情報の報酬として、情報提供料を機密費から捻出して上海に毎月送金していた。
 重慶にいた周恩来は、国民党と国民党軍の情報を班漢年に送っていた。
 中国共産党の対日協力諜報機関は、香港にもあった。
 毛沢東は、日本留学組の寥承志(りょうしょうし)を香港に送り込んだ。
 廖承志は、香港日本領事館内で情報担当の小泉清一と接触し、軍事協力諜報組織を立ち上げた。
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 スターリンは、対独戦が終了するまでシベリアの安定を維持する為に、中国共産党と軍国日本の密約を望んだ。
 毛沢東も、蒋介石が率いる国民党軍との最終決戦に備えた軍事力を付ける為に、軍国日本との裏取引を望んでいた。
 ワシントン内部のソ連スパイも、中国を共産主義化するべく蒋介石に日本軍との決戦をけしかけていた。
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 毛沢東は、日本外務省に情報を流して上手く丸め込めたと判断し、次の段階に進むよう繙漢年に極秘指令を出した。 
 日本外務省は、国民党の詳しい情報を得る事で、中国共産党は日本との友好を望んでいると錯覚した。
 繙漢年は、岩井英一に「実は、華北での日本軍と中国共産党軍との間で停戦」を申し込んだ。(岩井回顧録『回想の上海』)
 岩井英一は、軍事関係は統帥権に関するもので外務省の担当であるとして、陸軍の影佐和貞昭大佐を紹介した。
 影佐貞昭は、特務機関「梅機関(影佐機関)」を主管する諜報関係の幹部であった。
 繙漢年は、南京に赴き、日本軍最高軍事顧問公館で影佐大佐に会い、影佐大佐の紹介で南京政権の汪兆銘に面会し、周仏海にも接触した。
 影佐大佐は、中国共産党の真の敵は国民党である以上、同じ利害で中国共産党とは組めると分析した。
 日本陸軍も、国民党軍と戦うに於いて中国共産党軍が開放地区で大人しくしてくれる事を望み、今の状態での協力関係を維持する事を希望した。
 汪兆銘政権のナンバー2の周仏海(しゅうふつかい)の下に、李士群(りしぐん)が指揮する特務機関「76号」があった。
 中国共産党軍幹部の葉剣英(ようけんえい)は、李士群の秘書に女流作家の関露(かんろ)を送り込んでいた。
 汪兆銘政権の南京軍には、多くの日本軍人が軍事顧問団として赴任していた。
 繙漢年は、李士群を通じで日本軍事顧問団の都甲(とこう)大佐に会い、日本軍と中国共産党軍との和議と今後の役割について協議した。
 汪兆銘は、第一次国共合作当時、国民党広州政府の主席をしていた時に、毛沢東は広報部長を務めていた。
 その頃から、汪兆銘毛沢東は親しい関係にあった。
 毛沢東は、汪兆銘が日本軍に手引きで重慶を脱出し、南京に傀儡政権を樹立した時から対蒋介石重慶政権で共謀関係にあった。
 汪兆銘は、南京政権の軍事力や経済力が脆弱であった為に、日本軍占領地から返還された国土を再建するには、地方に勢力を拡大しつつある中国共産党との密接な深い関係を築く事を望んでいた。
 毛沢東は、中国共産党中央政治局を蚊帳の外に置き、中国共産党軍に対して日本軍と接触するように極秘命令を出した。
 中国共産党中央政治局は、共産主義上部組織であるソ連コミンテルンの意志決定に忠実に従っていた為に、スターリンが軍国日本に接触する事を否定すれば日本軍及び汪兆銘政権との協力関係は不可能になる恐れがあった。
 葉剣英や饒漱石(じょうそうせき)は、毛沢東の命令を忠実に実行した。
 饒漱石は、敵区工作部長の陽帆(ようはん)を密使として日本軍に送った。
 日本軍部も汪兆銘も、毛沢東の策略に踊らされた。
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 1945年8月13日 蒋介石は、日本軍が降伏すれば汪兆銘の南京政権(偽政府)は瓦解して、南京軍(偽軍)は統率を失い、放置すると軍閥化するか中国共産党軍に走る危険があると判断し、各地の有力な南京軍司令官の下に密使を送った。
 味方になり手柄を立てれば罪を問わない、と。
 胡宗南は、蒋介石の命を受けて、北京郊外に駐屯する華北綏靖軍(約4万人)総司令官の門致中(もんちちゅう)を寝返りさせるべく部下を送り込んだ。
 国民党軍事委員会調査統計局の載笠(たいりゅう)は、同月16日に、門致中に蒋介石名義で河北省先遣軍総司令に任命した。
 門致中は、周囲にいた南京軍に国民党軍になるように働きかけ、日本軍が支配していた北京や天津を国民党政権下に組み込み、侵入してくる中国共産党軍と戦った。
 国民党政権は、寛容政策を取り、満州を除く中国全土で南京政権軍を吸収し、南京政権下にあった諸都市を接収していった。
 中国共産党軍は、揚子江以南から黄河流域に自主的に撤収した。
 中国共産党は、寛容政策で戦闘力の高い南京政権軍(偽軍)約50万人を吸収して巨大化する国民党軍を牽制するべく、都市部の知識層に対日協力者を処罰する漢奸糾弾運動を起こすように指示した。
 9月3日 重慶会談。蒋介石は、アメリカのハーレイ駐華大使の仲介で毛沢東と会談し、中国共産党支配地区と中国共産党軍の処遇を巡って話し合った。
 トルーマン大統領は、ヨーロッパ復興を優先する為に、国共内戦を回避する事を望んでいた。
 10月10日 双十宣言。蒋介石毛沢東会談は合意に至らなかったが、両者とも内戦を始めるには準備不足であった為に、現状維持を求める中国共産党の主張と国民党政権指導での処理を求める国民党の主張を併記した共同宣言が発表された。
 内戦を起こさない為に、第三勢力を交えて問題を協議する政治協商会議を開催する事を確認した。
 中国共産党は、戦時中、日本軍や傀儡の汪兆銘南京政権との秘約に従って支配地を拡大させ、支配地人口1億人を擁していたが、軍事力は国民党軍に劣っていた。
 10月下旬 国民党軍と中国共産党軍は、日本軍なき後の重工業地帯である満州を手に入れる為に武力衝突した。
 アメリカは、武力衝突が内戦に発展しないように調停に乗り出し、翌46年1月に北京で停戦協定を成立させた。
 11月 国民党政権行政院は、世論の圧力に屈し、1938年8月に制定していた「懲治(ちょうじ)漢奸条例」に厳しい処分を加えた「処理漢奸案件条例」を可決し、漢奸裁判を始めた。
 漢奸裁判は開廷から判決が決まっていて、軍隊を持っている軍人、財力ある商人、外国に名の知れた政治家や知識人は無罪か軽い刑の判決を言い渡され、それ以外の者は厳罰に処せられた。
 特に。軍隊と財力を持たない者は、仁徳がある人格者であっも処刑された。
 蒋介石は、膨れ上がった国民党軍を整理し再編するべく、反対派や無能な将兵を漢奸裁判にかけて追放した。
 国民党軍参加の誘いがなかった地方の弱小部隊は、国民党政権の寛容と不寛容という二枚舌を怖れて中国共産党軍の軍門に走った。
 中国共産党は、寛容政策を徹底して、農村などの広大な地方を支配下に入れていった。
 毛沢東は、「過去を問わず、来る者は拒まず」の寛容方針を打ち出し、懐柔工作を行った。
 中国共産党軍は、進んで降伏する旧南京政権軍は同志として暖かく向かい入れ、抵抗する者は民族の裏切り者として容赦せず皆殺しとした。
 後年。国民党との内戦に勝利するや、用済みとなった旧南京政権の政治家や軍人の大半が反共産革命分子として粛清された。
 中国の寛容政策は、見せ掛けでしかなく、単なる方便に過ぎない。
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 1946年1月10日(〜31日) 重慶で政治協商会議。構成メンバー、国民党8名、中国共産党7名、中国青年党5名、無党派9名、民主同盟9名、合計38名。
 主要議題は、1,国家に於ける軍隊の一元管理と2,40名で構成される国民政治委員会の議席の各党派への配分数。
 兵力に於いては、アメリカ特使マーシャル、国民党代表張群、中国共産党代表周恩来の「三人委員会」で協議して合意した。
 60個師団を新編成し、国民党が50個師団、中国共産党が10個師団を保有する事に決まった。
 両党は、汪兆銘南京政府軍約50万人の争奪戦を始めた。
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 1949年10月1日 毛沢東は、中華人民共和国成立を宣言するや、日本軍と共謀した事実を歴史から抹消する為に、繙漢年、袁殊、饒漱石ら1,000人以上の対日工作員を逮捕して投獄し、そして死に追い遣った。
 周恩来葉剣英、廖承志ら忠実な毛沢東派は、粛清される事なく重要な役職に就いた。
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 中国は古代から人間軽視として、人を道具のようにこき使い、用が済んだら家畜のように殺した。
 韓信「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮られるのか」(范蠡の言葉)。
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 中国共産党諜報機関は、蒋介石の大陸奪還計画に協力する旧日本軍人顧問団「白団」の存在と、その中心人物が旧支那派遣軍総司令官岡村寧次である事を突き止めた。
 毛沢東は、岡村寧次を蒋介石から引き離し自軍に引き入れるべく、親中国共産党派日本人を介して岡村に大陸訪問を要請した。
 岡村寧次は、蒋介石への義理から、中国共産党が支配する中国への訪問を拒絶した。
 1956年 遠藤三郎元中将を団長とする元軍人団が訪中した。
 遠藤三郎ら元軍人団の日本語通訳を担当したのが、廖承志であった。
 毛沢東は、遠藤等を中南海に招き丁重にもてなし、今日、中国共産党軍が国民党軍との内戦だ勝利し中華人民共和国が樹立できたのは皇軍(日本軍)の中国進攻の御陰であると感謝の言葉を述べた。
 「日本の軍閥が我々中国に進攻した事を感謝する。あの戦争がなかったら、私たちは今ここにいない」
 革命第一世代は、日本軍部に敬意をもって感謝し、好敵手であった日本軍将兵の御霊を祀る靖国神社を素晴らしい宗教施設として褒め称えた。
 革命を経験した事のない文革の子に比べて、靖国神社を悪し様に罵る毛沢東周恩来ら革命第一世代はいなかった。
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 中国共産党幹部は、平身低頭し、土下座をしかねないほど謝罪する日本人を愚か者達と嘲り笑って。
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 1976年 中国共産党は、毛沢東が死亡するまで、南京事件尖閣諸島問題に言及せず、靖国神社公式参拝にも反対はしなかった。

 


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「米中同盟」時代と日本の国家戦略

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