🎻17:─3─GHQ内のマルクス主義者による外国特派員協会と日本国内に存在する幾つかの反天皇反日的報道機関。〜No.67No.68No.69 

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 朝日だけじゃない「反日地方紙」の正体
 首都圏や近畿圏を除けば、その地域で圧倒的な存在感を誇る地方紙というものが存在します。県内の政官財界に多大な影響力を持ち、その地域の人々にとっては、まさにゆりかごから墓場までお世話になる新聞なのです。それほど影響力のある紙面がまさに「反日一色」というのはなぜでしょうか?
国政になると突然「反日
 3年ほど前に、弊社で『反日地方紙の正体』(日下公人・責任編集)という本を出しました。増刷を繰り返すなど、保守層を中心にかなり話題になったのですが、「沖縄タイムス」「琉球新報」の“二大巨頭”をはじめ、その紙面はますます過激になるばかりです。
 ご存知の方も多いかもしれませんが、首都圏や近畿圏などを除けば、その地域で圧倒的な存在感を誇る地方紙というものが存在します。県内のシェア80%近くといった県紙も珍しくないばかりか、県内の政官財界に多大な影響力を持ち、県内の大きなイベントなどには必ず名を連ねます。さらに、亡くなった方や生まれたばかりのあかちゃん、高校や大学の合格者氏名まで掲載することで、その地域の人々にとっては、まさにゆりかごから墓場までお世話になる新聞なのです。
 これは「地域密着」という点で、非難するべきものではないのですが、問題は、それほど影響力のある紙面がまさに反日一色という場合が非常に多いのです。地元県政などには「完全与党」であるにもかかわらず、なぜか国政になると突然「反日」になってしまうのです。
 この理由について、本書では、大部分の地方紙が共同通信から記事の配信を受けていること、中には、社説まで、その主張を丸写ししていること、地方の記者がいまだ左翼史観にこりかたまって思考停止していることなどを実例に基づいて解説していますが、最近になって、これは編集レベルだけの話ではないと思えるような出来事がありました。
 詳細は省きますが、ある地方紙から弊社の書籍広告の掲載を拒否されたのです。この本ではなく別の本なのですが、なんと「朝日新聞批判の部分を削ってほしい」というのです。さらに別の書籍の時も、違う地方紙から「韓国を批判する本は載せたくない」とのクレームを頂きました。もちろん、相当なやりとりがあった上で、こちらもそのような新聞への掲載は拒否したのですが、担当者もその上司も、何が問題なのかまったくわかっていない様子でした。これはあくまで想像ですが、おそらく普段は地元企業などに対して「広告を載せてやっている」という態度なのでしょう。広告の内容についても、だれに対して何に気を使っているのか全く話が噛み合いませんでした。
 もちろん、まっとうな地方紙もたくさんあると思います。ただ、地元の大企業然として「井の中の蛙」になり、言論の中身については、朝日の記事や共同の配信を有難がって思考停止しているだけでは、新聞界全体のためにもならないと思います。本書を責任編集していただいた日下先生が担当した論文にこんな下りがあります。
 ≪(地方の)知事は東京からお金を取ってくることを誇るのではなく、自らの足で郷土をつくる気概を持つべきだし、地方のメディアも中央のメディアに依るのではなく、独自に報道、評論活動をすべきである。ある地方紙の幹部にこう話したところ、幹部は「我々は県庁の主を決めることができる」と見当違いの誇りを語った。また別の地方紙の局長は「県庁に行けば下にも置かない扱いを受ける。県紙に何と書かれるかで彼らの出世も決まる」と昂然と言った。≫(皆川豪志)
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 産経新聞iRONNA「関連テーマ 朝日新聞が日本を嫌いな理由
 「日本はあの戦争で酷いことした」「日本は悪い国だ」と喧伝し続けてきた朝日新聞。彼ら好みの言葉で言えば、それは巨大メディアが日本人に対して大々的に行ってきたヘイトスピーチではなかったか。慰安婦報道に携わった記者は、背筋が寒くなるような日本憎悪も吐露している。 
 稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員
 朝日は戦後左翼社会の鏡だった
 稲垣 いつも言っているのだが、朝日新聞戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
 では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
 本郷 朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。昭和20年10月、朝日社内では十月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
 稲垣 渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
 本郷 彼は、たしか横浜事件で辞めた。
 稲垣 いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
 本郷 田中慎次郎氏も復職してくる。のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
 稲垣 彼はゾルゲ事件連座したんですよね。
 本郷 そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
 昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
 そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。これは組合が選挙して選ぶということです。社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
 これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
 稲垣 革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
 本郷 そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
 稲垣 ニューディール派でもニューディール左派だから。
 本郷 アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
 稲垣 もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。共産党とそう変わらない。共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
 本郷 それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。読売は読売で激しい争議があった。あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
 ところが世界情勢は劇的に変わっていく。昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共蒋介石をどんどん負かしていく。さらに朝鮮戦争が兆す。そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
 追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。手法としては、職場内の密告を推し進めた。長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
 いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
 稲垣 正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
 本郷 もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
 石川 村山さんの時代ですね。
 転機となった村山騒動
 本郷 というより「信夫・永井」の時代。だから終戦直後、いったん左翼が乗っ取ったけど、それはひっくり返された。その連中は元の現場に戻ったわけです。でもね、戦後の企業に共通した悩みとして、能力の高い人ほど多く戦争で失っているわけですね。だから、現場に戻された左翼でも、現場を握る強さで、どんどん出世の階段を上っていくわけですよ。
 石川 それが広岡さんであり、森さんであり、渡邉誠毅さんだということですね。
 本郷 森さんも渡邉氏も、それで現場から上がっていった。それに本社の編集局といっても、当時は非常に人も少なかった。そして、昭和34年の暮れ、96時間のストライキ「九六スト」がある。「60年安保」の前年ですからね。この前後から、社内で再び左翼が跳梁跋扈し始めるわけです。現実に、30年代の初めから、紙面がひどく左傾化していった。とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を作っていました。のちの北朝鮮報道で有名な岩垂弘記者たちがいたころです。
 稲垣 社会党の岩垂寿喜男元衆議院議員の弟かな。
 本郷 「長野の秀才兄弟」なんて言われていたが、彼の報道は、北朝鮮べったりだった。
 ところが「九六スト」の直後に、専務の信夫さんがスパっと辞めるわけです。自分で役員定年制を決めた手前もあったが、左を抑え切れなかった責任を取ったようなものだった。
 そして、「自分でやってみたい」と意欲を燃やした村山長挙社長が親政を始め、まず左翼征伐をやろうとした。そのとき東京編集局長に起用したのが、編集局次長だった木村照彦氏でした。九六スト、それからそのすぐ後の「60年安保」のときに、広岡氏はヒラ取締役で東京編集局長だった。
 村山社長は、その広岡氏を快く思わず、紙面の左傾を問うて九州に飛ばした。当時は西部本社担当と言ったが、この人事について、森氏は『私の朝日新聞社史』という回想録の中で、「広岡氏が西部に追われて、社に暗黒時代がやってきた」と書いている。暗黒時代とは村山親政を指し、それに付き随った木村氏についても悪口を書いている。木村氏は、かねてから右翼系政治結社黒龍会と関係があり、思想的にはむしろ中道右派だった。
 ところが、村山親政で致命的な失政が起こってしまった。村山社主家に、公私の別をわきまえぬ行為が重なったのです。そうして、昭和38年から、お家騒動が始まる。すったもんだのあげく、九州に流されていた広岡氏が、39年1月20日の取締役会で村山社長解任の動議を出し、それが通ってしまう。
 彼はヒラ取締役から一足飛びに専務になり、その翌日、大阪経済部時代からの刎頸の友、森氏を論説主幹に据えるわけです。ここからずっと左翼路線が固まっていく。
 稲垣 この「村山騒動」が、一つの転機になったんだ。確かにそれまでの朝日新聞は、左旋回してはいたけれども、それは社会全体が左がかってたから、その反映でもあった。そのころの朝日の社内は、言論はかなり自由だった。実際、社内にはいろんな人間がいたのです。森氏のような左翼的な連中がまだ人事権まで握っていなかったから、採用で、いろんな人間を入れていた。だから、当然意見も違うし、お互いに論争する場面もあった。
 ところが、村山騒動後、いわゆる広岡体制になると一変するのです。というのも広岡氏の権力基盤は極めて脆弱だった。支配株は50%に満たない。それで組合員の持ってる株券を一所懸命かき集めたりした。
 本郷 株式受託委員会ですね。これは、実は法的な資格を持っていなかったのです。法人格もなく、株だけかき集めるという体裁上の組織でしてね。しばしば職権まで使って株を広岡政権に集め゛翼賛体制″を作った。
 ところが、出世願望の上役が、中間管理職に「おまえの部下に、まだ株を信託しないやつがいる。早く信託させろ」などと言ってくる。私などが、「冗談じゃない、なんで私有権を侵害できるのか。株集めなどは、職制を使ってやることじゃないでしょう」と言うと、「おまえ、そんなこと言ってたら将来ないぞ」なんて言われた。そういう時代がずっと続いた。
 広岡氏が政権を取る以前は、社内に、非上場ながら朝日株の取引市場があり、「ある方がお辞めになるので、300株出ますよ」といった掲示が出てね。みんなが入札で買ったんですよ。ところがそれを、広岡氏らが全部潰して、職権を使って集めてこいとなった。はなはだしいのは、通夜の晩に担当者が行って「亡くなったご主人、1000株持っていたはずだけど、すいませんが社のほうに」と言って集めたりした。
 稲垣 組合のボスを通じても集めたんだよ。そこで組合との腐れ縁ができたわけだ。
 本郷 そのとおりです。
 稲垣 つまり、そういうことで、広岡体制になってから、人事も連中が完全に握ったもんだから、左がかったやつばかり入れるようになった。つまり、明々白々の共産党員であると、親父もそうだし、共産党一家みたいなやつの子弟を入れたり、NHKの番組改変問題で話題となった本田氏のような記者も入れているわけですよ。
 石川 ああ、本田雅和さん。
 稲垣 ああいう記者を平然と入れているわけです。だから、事件が絶えないわけです。
 整理部の裁量を抑制し、職人集団に
 稲垣 さっき広岡氏以前は非常にリベラルな雰囲気があったと言ったでしょう。左も右もいたしね。それから、自由にものをけっこう言えた。組合は組合でそれなりのことをやってたけど、縛るようなことはなかった。
 本郷 私が入社した年の暮れに「九六スト」があった。このとき、編集局のカナメである整理部が、経営側の期待に反してストに加わったものだから、紙面の出来ばえが無惨になった。整理出身の専務だった信夫さんには、痛手だったはずです。
 ところが、広岡さんが政権を取って、まずやったのが整理部の奪権です。それまで朝日新聞の大幹部になる人は、みんな整理の経験があった。緒方さんも美土路一さんも、信夫さんも長いこと整理をやっていたし、木村さんもそうだった。朝日の中では、整理をやらないと幹部になれないという不文律があったくらいでね。
 なぜかというと、整理部門は編集局にありながら、号外をいつ出すとか、特別版をどう作るとか、こんな広告は載せられないとか、要するに社業全体を見渡していないとできない。その上、読者のニーズを理解しながら、これが今日の一面トップだとか、これは10行に削っちゃえというふうな仕事をやるのが整理部なんです。だから、整理を経験した人は、社業全般に通じることになる。
 ところが、広岡さんには整理の経験がない。森さんも渡邉さんにもない。広岡知男さん以後の社長にも、整理経験者はほとんどいない。逆に、整理部を煙たがって弱体化した。
 稲垣 私は整理に入ったときに「おまえらは、まずまっさきにニュース価値の客観的判断をする義務があるんだよ」と言われた。これはトップに値するのかどうか。あるいは3段にするかという判断をまずおまえらが判断せよと言われて、それで張りきったことがある。そうした気概や矜恃は今なくなってしまっている。
 本郷 変わって、上から指示がくるようになった。
 稲垣 そう、上から指示がくる。とくに広岡氏、秋岡家栄北京特派員の時代はひどくてね。秋岡氏の中国べったりのくだらない原稿をトップにしろとか、そういう指示が判断なしで罷り通るようになった。だから、見映えよく見えればいいという、整理職人になっちゃった。
 石川 権限を失っちゃったんですね。
 稲垣 私なんか生意気だったからね、大阪の整理部時代、森氏の感想文みたいなくだらない原稿を削って怒られたことがある(笑)。
 本郷 それが東京だと、とんでもない事件に膨れてしまうんだよね。森氏が主幹になってからは、論説の原稿は事実の間違いがあっても、誤字や脱字があっても、整理部は手を入れられなくなった。整理部を職人集団にしていった。これは非常に大きな変化だな。言論の一元統制。左翼の常套手段だ。たとえば、広岡氏が政権を取ったあとの昭和41年だったかな。蒋介石の写真を使っちゃいけない、というお触れが出た。
 稲垣 ああ、そういうことあったねえ。
 本郷 理由の説明もなく、蒋介石の顔写真はダメとなった。整理部には、連絡事項を記した引継帳があり、毎日の業務の前に、必ずそれを見た上で仕事に入るのですが、そのお触れを呼んで、おいおい、馬鹿なこと言うなと思った。蒋介石は「徳をもって怨みに報いる」と言って、日本の兵隊を無事に返してくれた恩人じゃないか。まさか死んだときも顔写真を扱わないのかと、私が社内で大きな声を出したら「おい、おまえ、ダメダメダメ」とデスクに制止された。
 稲垣 大阪の整理で経験したのは、文革時代に、毛沢東のマンガを載せちゃいかんと言われたことだったなあ。私も頭に来た。でっかい声で怒鳴ったら、みんな、顔を上向けている。ヒラメだってわれわれは言ったんだ。上ばっかり見てるやつがえらくなっていくんだ。段々、デスクにはなっても、何段に扱っていいかわからないような整理記者が偉くなる。そういう滑稽な時代が到来したわけですよ。
 無謬主義が始まったわけ
 本郷 それから、これは私の大阪整理部時代だな。ちょうど文革紅衛兵が騒いでいた時分で、しょっちゅう社内でも組合部会があった。みんなが、森さんなんかに媚びて、文革礼賛を合唱するので、『あんなもなぁ長続きせん。どだい、中国人てのは、歴史的に根は利己主義なんだ。簡単には変わらんよ』と言ったら、これもやられたな、こっぴどく。すごい中国崇拝派みたいなのがいて、これがまたアホなことばっかり言うわけですよ。
 稲垣 戦前から、ソ連社会主義の祖国と言われていたが、戦後、ソ連日本兵の捕虜を国際法に反して長期抑留したり、虐待したり、その異常ぶりがわかってきた。旧満州に侵攻してきたときなんざ婦女暴行も多発したし、いくら口をふさいでも、復員兵が家族に言い、それが世の中に伝わってくる。スターリンの大粛清も、なんとなく伝わってきて日本の左翼のソ連に対する信仰は地に墜ちてしまった。そこへ代わりにやってきたのが中国であり、中共なんです。新聞で北京にはハエ一匹飛んでないとかね。そういう讃歌を平然と書いていたし、日本人の左翼の大半はそれを信じていた。
 本郷 戦後間もなく中国礼賛の風を吹かしたのがいっぱいいたんだ。いわゆる文化人の中にもね。だけど、そういう連中を嘲笑って書いた記者もいたんだよ。広岡体制以前には、門田勲さんという大物記者がいて、「中共拝見」というタイトルで、いま読んでも実におもしろいことを書いている。ハエがいないなんてウソだと、ちゃんと書いているしね。
 石川 それはいつごろですか。
 本郷 昭和30年代の初め。30年の連載ルポ「中共拝見」のころは、まだ「中共」と書いてますよ。「中国」なんて呼んでません。中国と書けとか、北鮮と書いちゃだめだとか、北朝鮮と書いちゃだめだ、ちゃんと朝鮮民主主義人民共和国と書かなければいけないなんて言い出したのは、広岡体制以降だよ。アホな、まあ、くだらんことを大マジメにやった。しかも、今でもそうだけど、みんなそれに唯々諾々と従っていたんだ。
 稲垣 それは偉くなりたいから、睨まれたくないからですよ。新聞記者にとって一番怖いのは何かというと、干されることで、次に飛ばされるということなんだ。干されれば、記事を書けなくなる。たとえ書いてもボツにされる。そのうち地方支局へ吹っ飛ばされる。こういうのが一番いやなんだよね。社が中国になびくと親中派になる奴もいた。中国産野菜の残留農薬問題が持ち上がり、輸入禁止になったさいも、わざわざ学芸部の記者が中国の現地に行って、中国の農民がかわいそうだと書いたりした。せっかく作った農産物が輸出できないと。平気でそう書いていたわけよ。学芸部が何で中国へ行かないとならないのかと思ったけどね。どうも学芸部の中にはそういう一派もいたんだよな。
 石川 広岡さんが、朝日が偏向報道に走る礎を築いたという認識でお2人は一致するようですが、広岡さんご本人はどんな方なんですか?
 稲垣 広岡氏は、まったく特定のイデオロギーも何もない。
 本郷 そのとおり。私も彼は筋肉の男、権力指向の人間だと思う。
 稲垣 東大野球部出身でね、体育会系なんだよな。深い思想を持ち合わせていたわけではない。
 本郷 広岡氏が社長になってから、左傾紙面への統制が露骨に始まった。これは顕著でしたね。代表的なのは、さっきも言った整理部の権限を奪い、紙面へのコントロールをトップ・ダウンでやり、人事面でも素直に言うことを聞く人間だけを優先的に引き上げていった。
 それから、「無謬主義」を植え付けたな。「朝日は絶対に間違えない」という信仰みたいなものです。なんでそんなになったかというと、さっき言った株の問題が密接に関係しているわけです。業務上のミスがあると、株主総会で村山社主家側から攻撃される。権力基盤が脆弱だから、そんなことがあっては絶対ならない、ということで「ノーエラー」が唱えられはじめ、これが基本になったということですよ。ところが、人間だからエラーをしますよね。するとどうするか、頬被りなんだよ。訂正しない。みんなが見ぬふり。みんな黙っている。
 石川 エピソードってありますか。
 本郷 それが典型的に表れているのは、『朝日新聞縮刷版』でしょう。そのころの『縮刷版』は、私ら整理が最終版を作ったあと、「縮刷直し」という作業をやった。読者に配る新聞には訂正を入れるが、永久に残る『縮刷版』には訂正を残さずに出版するために、訂正を引っこ抜いて、空いた穴を埋め記事で埋めて帳尻を合わせる。
 ところが、当時、防衛大学校の教授だった佐瀬昌盛氏が朝日の論説記事が誤っている、おかしいと騒ぎ出した。すると、言を左右にして逃げまくるんだけど、結局、直さない。すると今度は、『縮刷版』だけ直していたと再び問題になったのです。
 稲垣 『縮刷版』では文章自体を直していたんだよね。
 石川 米ソの冷戦下の、中距離核ミサイルをめぐる問題でしたね。ミサイルが「導入された」とあったのが、佐瀬氏に『諸君!』で指摘され、「導入を決めた」とこっそり直してしまった。「導入された」と「導入を決めた」では大違いですね。
 本郷 「無謬主義」も影響して、社内の人事評価は減点主義になっていったんです。エラーすると、もうあいつはだめだと。社員の採用も、どこを切っても同じような顔が出てくる。金太郎飴みたいな人間ばかり集めた。だから、いまでもそういう雰囲気が残っている。硬直化してね。
 稲垣 そうそう。例のNHKの事件でもそう。あれも本田記者のやったことは、間違いなく大誤報なんですよ。政治家が事前にNHKの幹部を呼びつけた事実はないのに、呼びつけたと書いちゃったわけですから、これは明白な誤りでしょう。そういう致命的で重大な間違いがあるにもかかわらず、今度はご丁寧に検証委員会とかを、紙面に逃げ口上を出すために組織する。結局、それが事実であるとは断言できるような証拠はなかったという風ないい方をするわけです。この物言い自体が実にトリッキーで悪辣ですよね。記事に書いたことがウソだったのかどうかということなんですよ、要は。でもそうはいわない。結局はごまかしてるわけだよ。
 石川 無謬主義ですね。
 本郷 上に責任が及ぶから、担当デスクとか部長とかね。だからそういう組織を作って一所懸命にごまかす。
 石川 なるほどね。
 本郷 『諸君!』が、「朝日は日本のプラウダか」というタイトルの論文を掲載した時の、広告の話を覚えてますか。
 稲垣 編集長が堤尭さんの時ですね。
 本郷 そう。上智大学渡部昇一名誉教授が、この表題で論文を書いた。内容は朝日の左翼偏向を衝いたものでした。当時、私は東京の広告局で、広告の掲載審査にあずかる部長だった。当時は、雑誌の広告などに社の名前が出ていたら、必ず社長室に持っていくことになっていた。で、その広告の原稿を社長室に持っていった。
 そこで、「どう思うかね」と聞かれたので、「私はこれは載せるべきだと思います。なぜかというと、載せないと言ったら、それ見たことか、やっぱり朝日は日本のプラウダだと言われる。だから載せましょう」と言った。ところが、編集の最上層部が、絶対ダメだから断れというわけ。
 石川 それは広告掲載を。
 本郷 そう。要するに『諸君!』の見出しが、誹謗中傷だというわけです。
 石川 覚えてます。「日本のプラウダか」という表題が印象的でした。
 本郷 そうなんだ。そこで、掲載を断る意向を『諸君!』に伝えたら、堤氏が乗り込んできて、丁々発止やった。私は、内輪では、載せるべきだと突っ張ったもんだから、上司の広告局長が「君はもう引っ込んでいてくれ」という。業務の連中は、編集には逆らわない。上を見てるんだ。結局、広告局が広告掲載を断って、以来、出稿がなくなっちゃった。ケンカ別れ。
 石川 それ以来、『諸君!』は朝日に出してないんですか。
 本郷 そう。そういう「言輪の府」だったのよ。
 稲垣 産経が報じた朝日の毒ガスの誤報だって中国戦線に従軍したという男から変な写真を持ち込まれたのがきっかけだった。これ、日本軍の前線から煙がモクモク立ち上ってるもんだから、あ、こいつは毒ガスだとなり、一橋大学藤原彰という教授のところへ行って、「これは毒ガスじゃないでしょうか」、「間違いなく毒ガスだ」みたいになって(笑)。藤原教授は旧職業軍人だから間違うはずはなく、毒ガスか煙幕かの区別ぐらいつきそうなもんだけど、毒ガスだとお墨付きを与えたもんだからね。それを一面に出してしまった。
 本郷 それを見てね、ヘンだなあ、毒ガスに色がついてたら、敵はみんな逃げちゃうじゃないかって、社内で笑っていたんだよ。そしたら煙幕だとなった。でも結局、何も訂正せずに終わってしまった。
 屁理屈機関の名人芸
 稲垣 とにかく、朝日の社説でも論説の類ね。つまり、そういう事実に基づかないことを書くから、どうしてもそれをごまかす屁理屈ばっかり上達してくるわけよ。屁理屈のレトリックというのはいまや名人芸化している。でもどんな名人芸を尽くしても、どうしても自分に都合の悪いことがあるでしょう。そういうときは喧嘩両成敗にしてしまう。北朝鮮も悪いけど、それにちゃんと対応できない日本も悪いというわけ。喧嘩両成敗にしてしまうんだ。それが一つの例です。それもできないとなると、今度は言葉を失って黙っちゃうんだなあ。
 本郷 叩いても揺すっても黙っている。いるじゃない、そういうやつさ。まったく卑怯だよなあ。
 稲垣 都合の悪いことは絶対書かないんだね。初めから黙っちゃう。そういえば神戸で小学生の猟奇殺人事件をやったA少年な。事件発生直後の社説は冒頭で「言葉を失う」と書いてある。言葉が商売の論説委員が言葉を失ってどうするんだと思ったよ。その後は例によって例のごとく、社会が悪い、社会が悪いと言っていたけどね。この屁理屈たるや、もう噴飯ものだよね。
 本郷 広告部門に転属になって、朝日がいかに評判の悪い新聞かがよくわかったよな。大阪で、冷蔵庫が爆発する事故があった。東芝の冷蔵庫が爆発。ドカーンと4段のゴシックで見出しが立った。何も「東芝の冷蔵庫が爆発」としなくてもいいんだけど、そんな見出しを立てる。しかし、調べてみると、冷蔵庫にガスライター用のボンベが入っていて、そいつが腐食してガスが漏れ、それにサーモスタットの火花が引火、爆発したというんです。東芝はまったく被害者で、何の瑕疵もない。何とか後追い記事を出してくれと懇願するんだけど、社会部は、「そんな必要はない、警察の発表どおり書いただけだ」と、こうなんだよ。で、関東者で分が悪い東芝は、やむなく全5段の謹告広告を出した。「爆発の新聞報道があったけれど、実は中にガスボンベが入っていて…」と。もちろん、朝日は広告料を取った(笑)。
 それを聞いてね、これはひどいと思ったな。当時、科学部長が同期入社の男だったから、「メーカーが冷暗所に保存を、と勧めるガスボンベを冷蔵庫に保存するのは危険」と、科学的啓蒙記事を書いてくれといったら、「関係ありません」と、ニベもないんだ。こいつも社会部出身でね。
 稲垣 朝日新聞で案外みんなに知られてないのだけど、科学関係の記事はお粗末なんだ。ウソが結構多いんだよ。たとえば、環境庁が、ポリカーボネートというプラスティックを給食用の食器に使えるかテストした。どこまで使えば使用が不能になるかという一種の限界テストだった。だから、高温の苛性ソーダの液で100回ぐらい洗った。そうするとポリカーボネートが白っぽくなった。それをあたかも実用テストであるかのように、100回洗ったら白っぽくなった。環境ホルモンも溶出した(実際は許容濃度以下)ので、普及事業も中止されたと書いた(これもウソ)。それで環境庁は抗議する。これは耐用テストで実用テストじゃない。でも全然知らん顔ですよ。
 陰湿な社内いじめ
 石川 冒頭に、朝日が戦後民主主義の守護神を任じていたという話がありましたが。
 稲垣 そうそう。だから、安倍内閣のときに、教育基本法が改正されたでしょ。あのときの朝日の社説のタイトルは「戦後がまた変わったか」というものですよ。でもね。戦後というのはアメリカが占領して対日占領方針を、連合国で作ったわけですよね。端的にいえば、日本を永遠に三等国に押し込んでおくという方針です。新憲法教育基本法もそれに沿ったものだ。だから、朝日は戦後が変わるのはいやなんだよ。永遠に三等国のままならよかったと言っているようなものだ。防衛庁の省への昇格だって機嫌が悪くてしょうがない。
 GHQのニューディール左派は、もともと社会主義だから、競争が嫌いなんです。本質的に社会主義からきた競争忌避なんだよ。これが日本に昔からある横並び思想とガチッとマッチしたから、例えば、学力テストみたいな競争には大反対するわけです。みんなで手をつないでゴールインしようという左翼教師の考えに近い。ああいう風潮が、どんどんはびこった。学校同士の競争は排除される、日教組も極力反対したからね。今でも学校格差はあってはいけない。勝つのも反対という立場でしょう。
 「私は弱者だと、一番最初に大きな声で言ったやつが勝ちだ」という笑い話があるが、そのとおりなんですよ。戦後の農政なんかその典型だね。農協が「私たちは弱者だ」「さんざんいじめられた」という。戦時中は無理やり供出させられていじめられた。戦後は国際競争力がないから、高い米価を維持する。補助金をたっぷりもらうといった具合で、私は弱者だと声高に主張している人間に限って、実は優雅に海外旅行なんかを楽しんでいる。そういう風潮を推奨したのが、朝日新聞なんだ。
 本郷 広岡氏の後、号令はよく届くようになったけれど、自分で判断できない人が増えた。例えば1979年の中越戦争のとき、両国の国境に大部隊が集結しているというニュースが入ってきたから、私は夕刊のデスクとして、これをドーンと一面トップに据えた。
 ところが、早版の試刷りを見た局次長が飛んできた。「おいおい、これ、大丈夫か」と言うんだ。「まあ、見ててご覧なさい。2、3日で必ずドンパチ始まるから」とは言ったのだが、彼は「しかし、これはなあ、君。両方とも社会主義国家だよ」と言うんだよね。「あんた、何言ってるの?」と言ってやったんだ(笑)。「まあ、任しておいて」と押し通したら、3日目にドンガラと戦闘が始まった。あのころまでは、まだ私みたいなのが整理部にいて、頑張れたのよ。
 石川 中越の衝突ですから、昭和でいうと54年ですね。
 稲垣 いまはおそらくそんなことやれないでしょうね。できるだけ小さく。何かあったら困るから、2段か3段、隅のほうに、目立たないようにと指示が出る。
 石川 稲垣さんの『朝日新聞血風録』なんか読みますと、稲垣さんも相当、社内弾圧に遭ってますね。
 稲垣 それはもうむちゃくちゃでした。私は、大したことを言ってるわけじゃない。ごくごく当たり前のことを言っているんだけど。
 本郷 アタマがおかしいとか、あの人は右翼・反動だとか言うんだよね。
 稲垣 私は随分、軍国主義者と言われましたよ。
 本郷 私はそういうことを言われると、いつも「私は真ん中だよ。おまえさんらは極左だから、私のことが右翼に見えるんだ。真ん中にいても右翼に見えるのね」と、言い返していました。
 稲垣 そういうふうに、社内で弾き飛ばそうとするからね。しかも、上層部は直接言わずに、手下を使う。まったく薄汚いやり方なんだ。
 本郷 そう。実に陰湿なんだ。
 『中国の旅』の舞台裏
 石川 ところで、たとえば本多勝一さんや秋岡さんはどういう記者だったんですか。
 稲垣 本多勝一氏の『中国の旅』を例に挙げると、あれは、広岡社長命で後藤基夫編集局長を使った周恩来独占会見と連動している。このやり方は、やはり後藤編集局長の金日成独占会見のときにと同じやり方よね。これは、宮田浩人という朝鮮総連べったりの記者によるものでしたが、会見取材に合わせて連載をやって「北朝鮮では学費は要らない、全部ただだ」と、ベタベタに賛美するんだよね。
 本郷 本多氏の場合は『カナダエスキモー』などの、要するに゛冒険ダン吉″で確立された名声が利用されたんだな。面白い作品を作らせたのは名物社会部長だった田代喜久雄氏(のち編集担当・テレビ朝日社長)ですよ。それを広岡一派がうまく使って、日中に使ったというわけですよ。でも、もともと゛冒険ダン吉″だから、政治や思想のことなんか何もわかりはしないのです。
 稲垣 向こうが言ったことをそのまま書くわけだからね。
 本郷 それは自分でも言っているよ。「僕は聞いたまま書いただけなんだ」と。
 稲垣 『中国の旅』が始まると、当時はまだ旧満州の関係者が生きていたから、猛烈な抗議がきた。「これは全然、事実とは違う」というわけです。撫順炭鉱で死んだ中国人を万人坑に投げ込んだと書いてあるが、撫順炭鉱は露天掘りで普通の炭鉱とは違う。事故なんて起こるはずがないじゃないかという抗議がきた。
 本郷 平頂山事件にしても、私のはるか先輩で、満鉄社員の息子だった人が、「これウソだ」と社内でも言っていたし、「これは違っている」と、OBが大勢、会社に抗議に来たが、それを…。
 稲垣 全部門前払いしたんだよね。本多氏自身は私は中国の言うことをそのまま書いただけだから、文句があるなら中国に言ってくれと、こういう言い草をしていた。私はそれを聞いてびっくり仰天したけどな。
 本郷 いや、それは方便であって、実態はプロパガンダに自ら加担したんでしょう。それがプロパガンダであることは社内でも多くの人がわかっていたじゃない。罪深いですよ。こういう抗議が来ているという情報は、社内でさえ全部抑えたし、OBからの疑問にも同じ態度ですよ。
 さっき私は朝日の一つの特徴に無謬主義を挙げたけれど、もう一つ、「ぬるま湯体質」を挙げたい。それは、朝日にじっとしていると、月給はいいし、少しずつ地位も上がっていくわけです。そこで、会社を飛び出るのを覚悟で喧嘩するなんて、馬鹿じゃないのかという空気が生まれていくんですよ。もともと、みんな平和主義の優等生だしね。
 林彪拉致事件の内実
 石川 広岡-秋岡時代の林彪事件報道のときの雰囲気を聞かせてもらえませんか。北京特派員だった秋岡さんは、林彪の失脚を否定しましたが…。
 本郷 後に推理小説家になった伴野朗上海支局長が、中国の放送、新聞を地方でもあれこれ調べて、何かおかしい、林彪失脚があったらしいと『週刊朝日』に書いた。
 石川 稲垣さんが副編集長時代ですか。
 稲垣 その前です。すると、広岡にゴマをする社内の魑魅魍魎どもが、ワッと週刊朝日編集部に来て抗議した。「そんなこと書いて済むと思うか!」という言い方でやられるわけよな。当時の編集長が「何だ!それでは戦前の新聞と同じじゃないか」と怒った。当時の特派員だった秋岡氏は後で、西園寺公一の秘書から、実際に林彪事件があったのだと聞かされているわけだが、それは朝日の本社には伝わらなかった。
 彼は辞めたあと、日中学院という語学学校に行った。朝日も金出してやったんだろ。日中学院の幹部に据えた。
 本郷 そのあとも、人民日報の日本総支配人になったはずだ。
 稲垣 北京支局長経験者で日本語版の中国の雑誌「人民中国」の編集幹部に行く人もあった。こうなると、北京のご機嫌を損じるようなことは書けなくなる。将来の就職のことまで考えてしまうからね。
 石川 秋岡さん自身はその林彪事件のときに、失脚していないと、しばらく言ってた。後に笑われるわけですよね。そのことについてはご本人はどう受けとめてるのでしょうか。
 稲垣 何も言ってない。都合が悪いことは黙ってるんだよね。
 本郷 それで、何か言われりゃ、親分の広岡氏を指させばいいわけでしょ。
 稲垣 広岡氏は広岡氏で「私が悪いのではなく、私は最大の被害者だ」と言うわけでしょう。でも広岡氏は中国のご機嫌を損じるようなことは書かなくていい、そこに、いるだけでいいと明言しているわけですよ。歴史の証人としていればいいと言っているわけです。でも秋岡氏は歴史の証人として、本当の歴史を書いたことなんかなかった。彼はもともと、外報部時代から、文章の書けない記者として評判だったんだよ。
 石川 秋岡さんが?
 稲垣 そう。文章、へたくそですよ。読んだらわかるよ。読むに耐えない。
 本郷 外報部記者のなかには、えてして文章の書けない記者がいる。作業としては、横書きの資料を縦書きにしているだけという記者が案外多いんだ。結局、本多氏も秋岡氏も謀略や宣伝に関してはまったく無知で、それは広岡氏も同じだったと思う。ジャーナリストとしては失格です。
 稲垣 慧眼の士を志すということがまったくないんだね。
 石川 北の拉致問題の場合はどうなんですか。
 稲垣 この問題では、朝日は明白なウソをついている。たとえば、産経より先に朝日が拉致問題を書いているという記事を出しているけれど、それは違うんだよ。
 石川 久米裕さんに関して最初に朝日が報じたという記事(昭和52年11月10日)ですね。
 稲垣 それは工作員の絡んだ拉致事件として書いているのではない。単なる密航事件として書いているわけだ。それを最初に拉致問題を書いたのは朝日新聞だと、金正日が拉致を認めた後で平気で紙面に載せるけれど、これは誰が見ても明白なウソなんだよ。ウソを平気で通してるうえに、しかもその記事のおかげで、朝日は名誉を救われたと書く馬鹿まで出てくる。
 石川 縮刷版をめくって真偽を確かめるためには、かなりの手間がかかります。
 稲垣 普通の読者は、記事を読んで、ああ、そうなのかと思って終わり。そういう読者の実態を、高をくくった上でウソを書くわけだ。だから、朝日新聞は眉に唾つけて読まなきゃいかん。まあ、その楽しみもあるけどさ(笑)。だけど、本当によくこんなにしらじらしいウソをつくなというのがある。
 朝日が書いて初めてニュースという思い上がり
 本郷 もう亡くなったが、和田俊氏は覚えてますか。ポル・ポト政権を賛美した。
 稲垣 ああ、和田さんね。あれは、カンボジアにはいないで書いたんだよね。
 本郷 微笑みの革命とか何とか。
 稲垣 いい加減な作文を書いちゃうわけ。ウソで固めた作文を書かせると実にうまい。
 石川 いわゆる57年の教科書問題というのは、朝日だけが誤報したわけでなかった。朝日が書いたこと自体は、全社横並びでどの社も書いた。ただ、朝日の釈明は変だったという印象がある。
 稲垣 あれは謝っていないんですよ。
 本郷 それは、さっき言った無謬主義と通ずるし、それから、あらゆる報道は、朝日が書いて初めてニュースになるんだという、そういうアタマがどこかにあるんだね。朝日の人間は、平気でそういう愚かなことを口にして憚らないからね。
 稲垣 傲慢だね。朝日の書かないものはニュースじゃないと、こう言っているわけだからね。だから、もちろん、拉致事件なんか朝日が書かなきゃ存在しないわけだよ。
 本郷 思い上がりもはなはだしいんだけど、それがいいと思っている。朝日の常識は、世間の非常識なんだ、ほんとに。そういうことを平気でやってきたんだ。
 稲垣 まったく根拠のない思い上がりがあるんだよね
 石川 それはいつごろからですか。
 本郷 広岡氏以降に確立したと思ったらいいですよ。
 稲垣 戦前から多少あったけどね。
 石川 昔は、左は左でも、あるいはリベラルはリベラルでも、言論の自由はあったわけですよね、稲垣さんとか本郷さんが入ったころ、あるいは入る前には。
 本郷 あのころの新聞小説で映画になったのは、ほとんど朝日だね。朝日に連載小説が載ると、講談社とか文春から出版され、それがすぐ映画になった。そういう時代があった。政界を見ても朝日出身の国会議員が四十数人、閣僚経験者も大勢いた時代があった。だから、朝日はどの世界でも別格、という感じさえあったね。
 石川 そうですね。石井光次郎さん(副社長・第五次吉田内閣運輸相)とかね、政治家以外でもそうだもんね。
 稲垣 下村海南(宏・副社長・NHK会長)もそうでしょ。緒方竹虎(副社長・第五次吉田内閣副総理)、美土路昌一(社長・全日空社長)ね。ところが、これに対しては、大阪サイドでは、新聞人が政治家になる、付き合いを深めるべきではないという冷ややかな見方もあった。緒方竹虎批判というのは大阪で隠然とあったのです。
 本郷 そう言えば、信夫さんは大阪整理育ちで、この人は政界とまったくつきあわず、財界ともつきあわなかった。わずかにつきあいがあったのは文人墨客ですよ。石川達三だとか井上靖池島信平とかね。みんなゴルフ仲間だな。ある意味で正しい。戦後では、この人の時代が朝日が商売のジャーナリズムとしては一番繁栄してますよ。
 企画催事もそうだ。南極探検だとか、いろんな展覧会。広岡氏の唯一の功績は、電算編集かなあ。でも、これも厳密には日経が先行しているし、読売に部数を抜かれるのも昭和52年だったか、広岡氏のときだ。抜かれると、「君ねえ、新聞は中身だよ」と言った。それまで部数だ、部数だって、さんざん言っていたくせに、本当に御都合主義でね。
 稲垣 最初に言ったけど、朝日の新聞の内容というのは、ずっと戦後の容共左翼の世界を反映してるんだよね。戦後の日本の左翼というのは、つまり戦前戦中、日本の軍部のアホさ加減のイメージをそのまま受け継いでいる。現実を見ないからで、ただ観念で遊んでるだけだからさ。たとえば、必勝の信念があれば必ず勝てる。負ける、負けると言うやつがいるから負けるとかさ。朝日はこれと全く似ている。
 戦争を放棄した憲法9条さえあれば日本は侵略を受けることはないとの観念論から長い間日米安保に反対し続けてきたんです。
 現実を見ないという、いわゆる戦前の病弊をそのまま引き継いでる。これが最も端的に出ているのが朝日新聞の社説ですよ。つまり、現実をありのままに見ようとしないで、自分に都合のいいように解釈して、見ようとするから、いろんな無理が生ずるわけです。それは、その場は繕えても、しばらくするうちにすぐバレるわけだな。そうすると、今度はそれを知らん顔してネグるか、それとも弁解するときは、いわゆる喧嘩両成敗方式。どっちも悪いとしたら、これは一番楽なのよ。
 本郷 自衛隊の海外派遣なんてとんでもないと言ってたのが、何か変なこと書くからね。後になって。
 稲垣 最初は絶対反対だったのに、なぜぐずぐずしていたんだ、みたいなことを書いているでしょ。よくみると、実におかしな主張をする。
 相も変わらぬ論説の体質
 石川 いまの朝日新聞、秋山社長が、解体的出直しを宣言しましたが、昔に比べると変わっているのでしょうか。
 本郷 私は最近、変わってきたなと思うことがある。とくに中国報道ね。もう、かつてのように相手が嫌がることは書かないとか、きれいごとだけ書いてればいいという時代ではなくなってきている。それは何故か。インターネットの影響ですよ。たとえばきのう、おとといの事件が、隠しようがなく流れるでしょう。
 6月に起きた貴州省の少女強姦事件で、1万人クラスの暴動が起き、みんながハンディカメラで撮影してそれを流すわけでしょ。自由社会で最初に報道したのは、フランスのテレビですよ。それをやると、バーッと他のメディアも取りあげる。そうすると、嫌がることは書くなとはいえないし、逆に何やっているんだ、おまえらは!となってくる。
 たとえば4月の朝日の紙面では、中国で虐げられている活動家がどんな目に遭っているか、9人並べて紹介してましたよ。こういうことは、かつてはとても考えられなかった。もはや、上からの統制は利かないし、むちゃな統制もしない。真実の流れに任せていこうという姿勢が、秋山社長になって芽生えていると思う。
 石川 社内の風土は。
 稲垣 いままでのような中国報道では、読者に決定的にソッポを向かれる。世の中の雰囲気がね、『諸君!』とか『WiLL』とか、もちろん『正論』、そういう雑誌もあるけれどさ。それに週刊誌も全部中国のいろんな悪いところ、欠陥を洗いざらい書いてくる。それは、結構浸透しているでしょう。
 しかも、決定的なのが毒入りギョーザ事件だな、中国はやっぱりおかしい、気をつけないとどうごまかすかわからないと国民がしっかり認識しているし、中国のやり方がばれて、呆れられているわけでしょう。インターネットで情報を直接入手できるから、新聞を読むと、いかにウソが多いかがわかる。だんだん見放されてくるんじゃないかと思うな。中国に下手に迎合したような記事を書いたら、自殺行為ですよ。そういう意味で、社会状況が変わってきたんだよね。
 本郷 中国に対する日本の国民感情が急速に変わっているでしょ。ギョーザ事件でも、結果として中国が嫌いという声が6割ぐらいあり、東シナ海のガス田の問題でも、中国という国は気を付けないといけないぞ、という警戒感が広がってきています。
 中国の所得格差なんかの問題でも、NHKが特集でやるでしょ。これはとんでもないことになってきたぞと、国民がわかってくるわけでね。それからこの間の長野のオリンピックの聖火ランナーの問題ね。これも、ひどい。ひと様の座敷で、あんな旗を振り回して、いったい何様なんだという反応が、次から次に出てくる。
 稲垣 毒ギョーザ事件でも紹介された無菌豚でも飼っていたのかと思わせる作業室の映像もすごかった。ピカピカに磨いた部屋を、これが作業室ですって中国は平気で出すでしょう。あれを見て、誰もが「これはウソだろう!」と思う。中国は臆面もなく出しているけど、それがウソだと思われていることを知らないんだよ。気がつかない。
 いわゆる聖火リレーのときでも、フランスで轟々たる批判があったけど、屈強の若者に制服着せて、青シャツ隊にして、ランナーの周りを取り巻く。チベット旗でも持っていようものなら殴りかかる。そんなことを長野まで来て平気でやっているわけですよ。そんなことやったらかえって日本人の反感を買うぞということに気がつかないんだよ。中国という国は、もともと非常に酷薄な社会なんだよ。だから自己主張も120%までやらないと通用しない。
 「独りよがり」は旧日本軍とウリ二つ
 石川 稲垣さんも、やっぱり朝日新聞の最近の中国報道は変わってきたと思いますか。
 稲垣 うん、ちょっと変わってきたのは事実だ。少しまともにやれば、多少は取材力はあるし、優秀な記者もいないことはないから、それなりの成果は上がるんですよ。だけど、以前はひどかったし。しかし変わったのは報道関係に限った話だね。論説は相変わらずだな。
 本郷 だから、私は論説委員室を廃止しろと言っている。けど、まだ相変わらずだね。定年になったことだし、若宮啓文氏(前論説主幹)の降板は大いに観迎だったけど、まだ「本社コラムニスト」で残っている。ああいう人間を支持する同志が、いまだにいるんです。
 石川 論説は変わらない気がしますね。記事と論説が全く逆のときがある。
 本郷 新旧の交代中は、それはしょうがないかも。
 稲垣 まだね、論説、社説のほうは、ああでもない、こうでもないと屁理屈を言っている。東シナ海のガス田開発も社説は、共同開発に協力すべきだと書いてるわけですよ。
 本郷 しかもまた、それに迎合してる政治家や財界人がいるんだよなあ。
 石川 これだけは朝日新聞に対して言いたいことがあればどうぞ。
 稲垣 私はもうじき死ぬけども(笑)。朝日も、もうちょっと往生際をよくしなさいよと、これを言いたいな。自分が悪かったこと、間違ったことは素直に認めてね。それで再出発しないとダメだ。そこに初めて生きる道もあるかもしれんけどね。メディアの役割自体が変化している中で、未だに本土決戦みたいなこと言ったってだめだよ。
 本郷 とにかく朝日には、頭でっかちな秀才みたいなのばかり入るわけだ。ところが、日本人が言う「秀才」は、非常に間違って認識をされてるんだね。要するに、試験ができればいい、ということなんですよ。だから、先生が教えてくれたことをきれいに覚えてきて、そのとおりに答案を書けば、優等な成績を取って、進学校に入って大学入試も受かる、入社試験もとおるわけだ。
 しかし、人間は間違うんですよ。間違ったときに、「私は間違うはずがない」と間違うのが、日本型の秀才なんだな。朝日では、それが無謬主義になっているから、世間の常識が社内では通用しない。この間の、鳩山前法相を「死に神」にしたコラムなんかも、後であんな言い訳を書いてみたって、ちっとも謝ったことにならないし、釈明になっていない。
 そこに気づいてくれれば救いがあるが、気づいてないでしょう。逆に、己が正しいと、世間を見下す。役人の世界によくある行動パターンが、朝日人の本質みたいなところにもできてしまっていると思うんだよね。稲垣さんが言ったように、往生際が悪いのもそのせいよ、ほんとに。
 稲垣 教科書を一所懸命読んで、教科書どおりに書いて、いい成績を取ってきたやつがそのまま入って。朝日に入っても、教科書どおりのことを書いてるから。
 旧海軍と一緒なんだよ。日露戦争で、日本海大海戦で勝った東郷元帥の書いた教科書を、何十年もそのまま拳々服膺してやったらね、ボロ負けしたわけだな。それが最後までボロ負けするということに気がつかないというところが、また悲劇なんだよな。
 朝日の論説の本質は「独りよがり」です。日本の敗戦の要因となったレーダー開発の遅れも、夜戦をお家芸としていた日本海軍の水雷屋連中が「そんな強力な電波を出したら、忽ち敵にこちらの位置を知られる」と強硬に開発に反対したからです。
 しかし、敵がレーダーを開発すれば、夜でも一方的に狙い撃ちされる。同様に日本が戦争を放棄しても戦争は日本を放棄しない。憲法九条があるからといって金正日が日本への武力攻撃を遠慮するなんて有り得ない。それを阻止しているのは九条ではなくて日米安保です。九条に依存する朝日は「独りよがり」そのものでしょう。
 本郷 いや、私はだから、朝日新聞の役割はもう終わったんじゃないかと思うことすらある。だから、ネットの時代に本当に生き残りたいなら、本気で換骨奪胎しなきゃだめよと言っている。往生際が悪いですよって。
 石川 長時間ありがとうございました。

 稲垣 武氏(いながき・たけし) 昭和9(1934)年、埼玉県生まれ。京都大学卒業後、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」副編集長を経て平成元年退社、フリージャーナリストに。「悪魔祓いの戦後史」で第三回山本七平賞受賞。正論でマスコミ照魔鏡を長期連載していたが、病気のため現在自宅療養中。

 本郷 美則氏(ほんごう・よしのり) 昭和9(1934)年、北海道生まれ、湘南育ち。早稲田大学新聞学科を卒業後、1959年朝日新聞社入社、社会部、整理部などを経て、広告局、研修所長などを歴任。1994年、定年退職。フリージャーナリスト、評論家として、多彩な文筆活動を続けている。
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 産経iRONNA{「菅長官vs望月記者」バトルの波紋
 東京新聞の望月衣塑子記者と菅義偉官房長官のバトルが続いている。度重なる官邸側からの申し入れにも「報道の自由の侵害だ」と真っ向から反発する。そんな彼女を支える勢力の中には、これを倒閣運動の足掛かりにしたいとの思惑もアリアリだ。それだけに話はややこしくなるばかりである。

 理想論ばかりの野党とマスコミ
 2019年2月、会見に臨む
 菅義偉官房長官。手前で
 挙手するのは東京新聞
 望月衣塑子記者(春名中撮影)
 旧民進党系の衆院会派「無所属の会」(岡田克也代表、13人)に所属する安住淳財務相大串博志議員ら6人が先日、立憲民主党会派入りした。岡田氏も後から入会する方向という。安住氏は「参院選を控えて、そろそろ核になる野党が必要。自民党に本格的に対抗できる勢力の軸をつくりたい」と語っている。いまさら、そんな話を聞かされても、多くの有権者はシラケるだけだろう。元はと言えば、支持率が激減した旧民進党が「旧希望の党」人気にあやかって解党し、議員たちが散り散りバラバラになったのが混迷の始まりだ。
 自分たちで政党を壊しておきながら、「自民党に対抗できる勢力を」などと言っても、それなら壊さなければよかっただけの話ではないか。「なぜ、旧民進党は壊れたのか」について真摯(しんし)な総括がない限り、いずれまた内輪げんかを繰り返すのは目に見えている。私は元左翼だったので、野党が内ゲバをする理由はよく分かる。一言で言えば、彼らは現実に立脚せず、理想ばかり唱えているからだ。理想は頭で考える話なので、いくらでも思いついて主張できる。思いつきだから、議論しても妥当な根拠や正しい結論などありようがない。「オマエの考えはダメ」と言われれば、それまでだ。だから、議論がヒートアップしてくると、最後はけんか別れにならざるを得ない。
 彼らがいかに現実離れしているかは、激動する国際情勢について、ほとんど発言がないことで証明されている。米国と中国の新冷戦、あるいは北朝鮮の「核・ミサイル」問題について、野党から聞くに値する意見が出てこない。私は試しにグーグルで「野党名と北朝鮮、米中新冷戦」などと検索してみたが、読むに値しそうな記事はヒットしなかった。彼らは沈黙を守っているも同然である。それもそのはずだ。彼らは基本的に「お花畑思考」にとらわれているから、大国同士が激しく衝突する事態を目の当たりにすると、「けんかは良くない」程度のことしか言えないのである。あるいは、「日本は米中の仲介を」などと耳当たりのいい話をするのが関の山だ。
 このあたりは、野党だけではない。左派マスコミも似たようなものだ。例えば、朝日新聞は12月3日付社説で、米中の90日の貿易戦争休戦について、「両国が責任を自覚し、長期的に関係の安定をめざす道筋を熟考する機会としてもらいたい」と空論を唱え、日本についても「米中両首脳に対しては、機会あるごとに大局的な判断を促し続けるべきだ」と上から目線で書いた。朝日新聞は「貿易戦争が、新冷戦の一部にすぎない現実」を見ようとはしないのだろう。それを認めたら、米国と同盟関係にある日本の仲介など、あり得ない話になるからだ。沖縄県尖閣諸島を脅かす中国の脅威に日米同盟で対抗している現実も「知らんぷり」している。世界、とりわけ東アジアが緊張すればするほど、理想主義にとらわれた野党と左派マスコミは必然的に衰退する。2018年は、そんな真実が明らかになった1年だった。(長谷川幸洋「ニュースの核心」zakzak 2018.12.29 )
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