🎺09:─2─平和主義者昭和天皇のアメリカ大統領への親書。〜No.48No.49No.50No.51 ⑦

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世界の常識では、昭和天皇には戦争責任があり、ヒトラー同様の戦争犯罪者であると認定している。
 日本の歴史教科書はおろか諸外国の歴史教科書においてもそういう記述があり、子供達にそう教えられている。
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 アメリカ世論や国際世論は、昭和天皇戦争犯罪として裁き、死刑などの極刑を求めた。
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 原武史昭和天皇は太平洋戦争に反対ではなく、勝てると真剣に考えていた。というより、母親である貞明皇后の影響もあり、しだいに『祈れば勝てる』と信じ込むようになっていったと思います。
 降伏を決断する際には、神器の確保に言及したように、国民に対する責任より皇祖皇宗(アマテラスや歴代天皇)に対する責任のほうが重要だったのではないでしょうか」(『昭和天皇』)
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 武士・サムライや庶民(百姓や町人)は、喧嘩をしても、戦っても、絶対に勝てない相手が強者で実力者であっても、相手が売ってきた喧嘩・戦いであれば「降り掛かった火の粉は払いのける」の「死ぬ事を覚悟」して受けて立った。
 喧嘩をする以上、戦う以上、国力(軍事力・経済力等)の絶対揺るがない彼我の差を意識から省き、敢闘精神で勝利のみを考え負ける事を思い悩まず、「肉を斬らして骨を斬る」的戦法で、合理的現実的科学的論理的情緒的などの根拠を一切合切を無視し、起死回生で最後には絶対に勝利する。
 日本民族日本人は、四の五の愚にも付かない事をうじうじと思い悩みを嫌い、潔く、清々しく、竹を縦に割ったように思考し行動する事を好んだ。
 そして、ひ弱な相手・弱者ではなく強者・強敵に正々堂々と戦いを挑む喧嘩をする事こそ「男の本懐」であると信仰した。
 「強きを挫き、弱きを助ける」
 弱い者(非力者・女性・子供・老人など)を虐めて泣かす事は「男の恥」であるとして、最も嫌った。
 日本民族日本人は、戦う相手が勝てない強敵で有れば有るほど逆に勇気が湧き奮い立った。
 戦前の日本人は、アメリカやイギリスと戦争しても勝てない事は知っていたが、それ故に、勝てると信じて戦った。
 その点に於いて、現代日本人と昔の日本人とは別人のような日本人である。
 昭和天皇も同様に、アメリカと戦争はしたくなかったが、政府と軍部そして戦争を決断したからにはそれに従い、日本の勝利を皇祖皇宗と歴代天皇に祈った。
 現代の日本には、武士・サムライはおろか庶民(百姓や町人)さえもいない。
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 司馬遼太郎「(日本という国はそもそも)戦争というものをやろうとしてもできっこない」
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 アメリカ軍は、日本軍と戦って、「勝てなければ戦わない」「負けるなら戦わない」「殺されたくないから降伏する」という、キリスト教的人命重視の世界の常識が日本民族日本人に通用しない事に恐れ戦いた。
 アメリカは、世界の平和の為に命を軽視する日本の常識を粉砕し抹消するべきだと決断した。
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 靖国神社護国神社は、日本民族日本人の志を見える化した象徴である。
 靖国神社の精神とは、「負けない」という闘志で生ききる事で、苦しく辛くとも悲壮感はない。
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 戦前の日本は、平和の為に戦争を回避したチェコスロバキアのような自主的国家消滅の決断を拒否した。
 チェコスロバキアは、自国民の生命財産を守る為にユダヤ系国民を犠牲にした。
 自分を犠牲にするか、他人を犠牲にするか、である。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を殺す為につけ狙っていた。
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 天皇・皇族・皇室を命を賭けて守った熱狂的狂信的尊皇派・勤皇派は、天皇の菊の御威光を信奉する、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、身分低き芸能の民(歌舞伎役者・曲芸師・傀儡師など)、差別された賤民(非人や穢多など)、軽蔑された部落民(山の民・川の民・海の民)達であった。
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 2019年6月23日号 サンデー毎日「新たな議論はここから始まる!
 皇室とホワイトハウス 見えざる絆
 新資料で蘇る日米開戦 親電事件の真相
 新天皇の即位と令和の始まりに際して、現代史研究の第一人者が天皇制の歴史と未来を新たに論じる集中連載。最終回は、日本軍の真珠湾攻撃前夜、ルーズベルト大統領が昭和天皇に送った親電が軍部に10時間半止められた事件を振り返り、皇室外交が裏切られた過去から、現在を照らす。
 新天皇論  保阪正康
 皇室とホワイトハウスの緊密な関係を裏づける電文のやり取りが、一研究者の手で明らかになった。このことについてはこれまでこのシリーズでも触れてきたが、電文の内容については、今後、研究者のグリーン誠子氏が発見した資料の開示が待たれるところだが、この事実によって近現代史の不透明な部分に光が当たるのではないかと思われる。
 そこでこの電文のやり取りが明治の終わりごろ、つまり明治天皇ホワイトハウスの間ですでに始まっていることに改めて驚かされる。そして大正天皇昭和天皇の時代になっても続いていることがわかる。とはいえ昭和天皇の時代には、昭和の初めの頃までの電文があるにしても、その後は判然としない。いまだ発見されていないのかもしれない。極秘に両者の間で私的な交流が行われていたのかもしれない。
 私は近現代の日本史に関心を持つのだが、さあいあたり次のような史実にこの緊密な関係を持ち込んで検証してみたいと思う。わかりやすく箇条書きにいておこう。
 (1) 皇室とホワイトハウスの関係は、日露戦争後に始まったと推測される。
 (2) 大正天皇の親身溢(あ)れる電報はアメリカへの信頼に端を発している。
 (3) 昭和天皇が若くして摂政の地位に就いた事情はホワイトハウスに伝えられていた。
 (4) 満州事変での昭和天皇の立場をホワイトハウスは正確に知っている。
 (5) 太平洋戦争の開始直前、終戦時の天皇の発言にアメリカからの伝言があったのかもしれない。
 (6) 戦後、天皇を免責にするマッカーサー方針はアメリカ政府の総意だった節もある。
 このほかにもいくつかの不明点があるにしても、いずれ電文の内容が明らかになれば、史実の解釈は大きく変わることにもなりかねない。私自身はさしあたりこの6条件は検証に値すると考えている。
 『国體護持には自信がある』
 あるいは次のような史実にも新事実が示されるかもしれないと感も受ける。
 昭和20(1945)年8月14日、宮中では9日に続いての2回目の御前会議が開かれている。ポツダム宣言を受諾するか否かの最終会議である。しかし本土決戦に固執する強硬派の阿南惟幾陸相梅津美治郎参謀総長豊田副武軍令部総長は譲らない。議論が白熱していく中で、天皇は、『阿南、わかった。(国體護持には)私は自信がある』と制している。理由は示していない。
 天皇があえて『私は自信がある』と言ったのは、どのような根拠に基づいてるのか、これまでもあれこれ推測はされていたが、しかし確かな根拠は示されていない。私は宮中には独自の伏せられたルートがあり、そのルートで天皇の元に情報が入っていたのではないかと考えてきた。そのルートとは、たとえば駐日大使のグルーなどが軸になって日本側に伝わってきたのではないかといった説も想定される。
 宮中とホワイトハウスの関係が、お互いに高度の情報を知らせあうことで信頼しあう状況になっていれば、昭和という時代の歪(ひず)みはある程度ただせたはずだが、そうはならなかったところに悲劇があった。しかし戦争末期になって、アメリカ側から高度の情報が伝わってくることはあり得たと思われる。天皇は『私は自信がある』との言は、実はその回路が復活してきたと考えたのである。
 そしてもう一点である。昭和天皇は、9月27日にマッカーサーとの初の会見を行っている。天皇は緊張している。35分近くの会見を終えて、宮内省に帰ってきた。正面玄関に車をつけ、省舎でひと休みしてから吹上御所まで別の車で向かうことになった。そのとき陪席したのが、侍従の岡部長章であった。この車は陪乗者が進行方向と逆向きに座ることになる。岡部の目には、天皇がひどく疲れているように見えた。岡部は声をかけている。天皇はじっと考え込むポーズのままだったからだ。
 『いかがでございましたか。アメリカ人は案外率直なところがあると存じますが』
 これに対し天皇はただひとこと『ええ・・・』と答えたというのだ。岡部の印象では、天皇は自らの気持ちの全てをありのままに、マッカーサーに打ち明けたと思うと証言していたのが印象的であった。こうした証言を聞くと、天皇マッカーサーの会見ではもっと深い内容が話されていたのかもしれない。前述の5点、つまり皇室とホワイトハウスのやり取りの中でかわされていた電文により、これまでの史実に新たな解釈が必要になるとの見方についてもう少し説明を加えていきたい。
 (1)についていえば、明治38年10月16日に、明治天皇は『平和克復の勅語』を発している。日露戦争が終わり、平和が甦(よみがえ)ることを考え喜ぶ内容なのだが、後半部分でアメリカ大統領に感謝する内容が並ぶ。次のような一節がある。
 『亜米利加合衆国大統領の人道を尊び、平和を重んずるに出でて、日露両国政府に勧告するに、講和の事を以てするや、朕は深く其の好意を諒とし、大統領の忠言を容れ、其の事に当たらしむ(以下略)』
 アメリカ大統領の好意に丁重な表現で応じている。国民にもそのことを打ち明けている。この時を機に、アメリカ人への関心が国内でも高まっていたのであろう。
 天皇家の人間関係を調べていた米国
 皇室とホワイトハウスのつながりが強まっていくきっかけがこのときであった。大正天皇の体の具合が悪く、大正10年11月に皇太子が摂政宮に就くことは、皇太子裕仁の名と大正天皇の嘉仁の名によってホワイトハウスに伝えられている。文面は大正天皇が書いた文面になっていて、皇太子が書く文章としては確かにおかしい。しかし摂政というのは、実はそのようなおかしな文章にならざるを得ないということかもしれない。アメリカ側がどのように受け止めたのか反響はわからない。
 しかし天皇という制度は、終身在位、男系、男性天皇ということは理解し、どのような時に国力が強まり、どのような時に弱まるのか、そのような分析は行っていたのであろう。したがってアメリカ世論の日本を見る目は、三つに分かれていったことがわかる。一つは、天皇とその周辺の人脈で見る。この勢力はアメリカとの十分の協力者なのである。もう一つ、軍事集団とその追随者を見ていて、このグループは常に戦争勢力と見ている。大正天皇に同情を寄せているアメリカの政治勢力は、この軍事集団をもっとも警戒していたことがわかる。大正12年9月1日の関東大震災アメリカはもっとも素早く支援態勢をとった。国際社会に支援を呼びかけたのもアメリカの各種団体だった。横浜に支援物資が次々と届いた。ところが日本社会で震災後に中国人、朝鮮人などの虐殺事件が報道されていくにつれ、支援物資は滞っていった。日本社会の主導権が軍事に握られていくのを知ったからだった。
 あえて三つ目として、庶民の姿が考えられる。日本社会はまだ市民的権利が保障されている社会ではない。それだけにこの国がどの方向に向かうかは、庶民が天皇リベラリズムをどの程度理解するかどうかと考えられていた。そのことをもっとも敏感に感じ取っていたのではないかと思われる。大正天皇昭憲皇太后の死なども丁寧に報告していたのである。
 ホワイトハウスが、日本の天皇家の人間関係を詳細に調べていたのは、主に日本社会の三つの勢力がどのような形で結びつくのかに強い関心を持っていたのと、もう一つはこの国が将来、敵国になる可能性を案じていたからであろう。明治40年の『帝国国防方針』では日本海軍がアメリカを仮想敵国としていることにも関係があっただろう。無論仮想的とは単なる敵ではなく、軍事力を一定の規模で維持するために必要としているものと表面上は理解していたに違いない。しかし当の日本海軍が暴走するのか否かは、アメリカにとって確認しておかなければならない点だったのであろう。
 昭和7年に駐日大使として着任したグルーは、アメリカの外交官としてベテランの一人で、太平洋戦争の開始後に、交換船で帰国した。彼は膨大な日記をつけていて、戦時下の1944年に日本社会を正確に理解するためにとアメリカで刊行している。その『序言』の中で、グルーは次のように書いている。
 『ここ数年来、われわれは日本の軍閥と軍機関の、純然たる陰険と狡猾と野獣性と冷笑的な不誠実との、累積的実例を見せられて来た。私の本には日本の軍国的心理と気質の中世紀的性格の新しい証明が示してある』
 日本の軍事主導体制を心底から憎んでいる。その半面で次のようにも書いている。
 『然しこの本は、もし私が、戦争を欲せず、合衆国、英国その他の連合国家を攻撃することが如何に愚劣であるかを知り、軍国主義的極端分子が力の及ぶ限り向こうみずな、自殺的な侵略に突進するのを、阻止しようとした多くの人々が現に日本にいることを、深く読者の心に感知させ得ないとしたら、その目的の一つを遂げなけいことになる』
 なんともわかりにくい表現を用いているのが、前述の天皇やその側近たちのリベラリズムを指しているのである。つまりグルーは、日本での10年余に及ぶ外交官生活は、皇室とホワイトハウスの作ってきた回路を見守るというのが大きな役目だったといってもいいのではないかと、私は思える。
 グルーの日記を読んでいくと、その動きは天皇周辺の反軍部の人たちへの共鳴に満ちていることが明瞭になる。このことを前提に太平洋戦争の開戦時、そして終戦時の動きを見ていく必要がある。
 軍部によって裏切られた皇室外交
 グルーの置かれた状況や天皇の立場をもっとも象徴するのは、日本軍の真珠湾攻撃前夜のルーズベルト大統領の親書事件である。このメッセージは何を意味したのだろうか。検証すべき点は多い。これまでは、ルーズベルト大統領の平和を望む意思を歴史上に刻印したというように受け止められてきた。陸軍の参謀たちが意図的に10時間半遅らせてアメリカ大使館に届けたことも、妨害工作として語られてきた。
 このような見方は半分は当たっているかに思えるが、しかし重要なことはルーズベルト大統領があえて天皇にメッセージを送るということは、もっと別な意味もあったのかもしれない。その考えを披瀝しておきたい。
 ルーズベルトのメッセージが発せられたのは、ワシントン時間12月6日の午後9時であつた。日本時間では、7日午前11時である。ホワイトハウスは実際に親書を打つ前に記者発表しているから、アメリカの通信社の報道は7日午前7時に始まっている。日本でもその時間には知られている。
 『昭和天皇独白録』によると、このニュースを聞き、電報を待っていた。しかしなかなか来ない。『私はこの親書に答へ度いと思ったが』と言っている。しかし東郷重徳外相が電報を持ってきたのは、8日午前3時であった。真珠湾攻撃が始まる30分前だった。この段階では意味がないという東郷外相の助言で、返電はやめることにしたというのだ。
 実は親電は7日正午には日本の電信局に着いていたのだ。それなのにグルーが親電を受けとったのは7日午後10時半ごろである。グルーは慌てて東郷に、天皇への拝謁を申し出ている。しかし東郷と東条英機首相は断っている。陸軍の参謀たちの謀略によって天皇ホワイトハウスの緊密な関係は見事に切断されたのである。天皇も東郷外相も、そしてルーズベルトもグルーも、意図的に参謀たちが10時間半遅らせたという史実を、明治からの天皇たちの努力は全て水泡に帰したのであった。
 近現代の皇室の悲劇である」
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 現代日本人は、昔の日本人に比べて英語を話せても、世界の歴史はもちろん世界の情勢を理解する能力が低く、時々刻々と変化する国際状況に対する適応力や対応力も脆弱である。
 その傾向は、戦後生まれで、戦後平和教育を受け高得点を出して認められ・褒められた頭脳優秀な高学歴出身知的エリートに特に強い。
 現代日本人は承認願望が人一倍に強い。
 その根拠は、国民意識として女性天皇女系天皇擁立と女系宮家創設の賛成が多数派である事である。
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 政府と軍部は、憲法の定めに従い政治・軍事・外交の国政決定の場から昭和天皇を遠ざけていた。
 天皇には、統治権統帥権という国家元首大元帥の大権を持っていたが、国政や外交の決定権や軍隊の指揮命令権は持っていなかった。
 天皇とは、カリスマを持ったリーダーであって、リーダーシップを発揮するトップではない。
 大日本国憲法の隠された意図は、天皇の暴走を抑える為に「君権の制限」と「臣民の権限保護」にあった。
 国家の大権と政治・外交・軍事の決定権を分離したのは、憲法を起草者した伊藤博文である。
 伊藤博文は、最下層の小作人の子である。
 山県有朋は、武士ではなく足軽出身であった。
 武士でもなく庶民でもない中間身分の伊藤博文山県有朋らは、近代化を理解できない古臭い価値観に固執するだけの無能無策な武士を嫌い、忠誠心の欠片も持たない傲慢で強欲な庶民を信用しなかった。
 明治新政府と新設軍部の中枢を占めた元勲・元老・重臣らは低い身分出身であっただけに、天皇を警戒し、国民を信用していなかった。
 その証拠が、軍人勅諭教育勅語であった。
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 日米戦争は、日本が決断する前にアメリカとイギリスが合意していた為に、日本が如何なる譲歩をしても避ける事ができなかった。
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 皇室外交は、憲法に定められた国家外交でもなければ公的外交でもなく私的行為である為に、違憲行為が知られないように政府の外交に関係なく極秘に行われていた。
 当然、国民にも知らされる事がなかった。
 皇室特に昭和天皇が求めたのは平和で、できる限り戦争を回避する事であった。
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 戦争を求めたのは、メディアに踊らされた国民であった。
 国民は「戦争を行う為に暴走した軍部や軍国主義者に欺された被害者である」、とは真っ赤な嘘である。
 軍部や政府に戦争を強要したのは、国民である。
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 アメリカのアジア戦略は、アラスカ経由の北太平洋航路とハワイ・琉球・上海経由の中央太平洋航路の確保であった。
 その為に、アメリカは、ロシアからアラスカを購入し、独立国のハワイ王国琉球王国保護国化・属領化・領土化に動いた。
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 セオドア・ルーズベルト大統領は、太平洋を支配する為には日本との戦争は避けられないとして、琉球と台湾が日本領となった以上はフィリピン、グアムの植民地化とパナマ運河の完成を急いだ。
 もし、琉球がハワイ同様にアメリカ領(準州)に編入され、琉球人がハワイ人同様にアメリカ人になっていれば、日本とアメリカとの戦争は永久に起きなかった。
 アメリカは、日本との戦争の為に軍艦の建造を急いだ。
 アメリカは、モンロー主義で海軍力を増強してこなかっただけに、世界最強と謳われバルチック艦隊を数日の海戦で撃滅した日本海軍の力を恐れた。
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 人種差別主義者・白人至上主義者のアメリカ人にとって、アヒリカ人も、インディアンなどネイティブアメリカンも、ハワイ人も、日本民族日本人も、人間以下の獣・家畜に過ぎなかった。
 アメリカ人は、日本人を映画「猿の惑星」で描かれた凶暴凶悪な猿、つまり蔑むべき「イエロー・モンキー」と確信していた。
 日本人の中には、見下した「イエロー・モンキー」という蔑称を喜ぶ日本人が存在する。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売って金儲けしていた。
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 明治天皇以来の皇室伝統として、アメリカでの排日運動の盛り上がりに憂慮し、アメリカ国民の日本人への悪感情を鎮め差別を緩め、日米の友好を維持するべく、ホワイト・ハウス、アメリカ大統領への親書を送り続けていた。
 特に、親英派で平和主義者の昭和天皇の親書が数多く残されている。
 アメリカの親日派知日派は少数派で政治的影響力が弱く力はなかった。
 昭和天皇は、頼るべき知人・友人が少なかったが、彼らの支援を期待し、日本の心証をよくする為に親書を送り続けていた。
 だが、アメリカにおける多数派として政治的影響力を持っていたのは、親ソ連派・親中国派などの反日派であった。
 反日派以上の嫌悪日本派は、フランクリン・ルーズベルト大統領とスチムソン陸軍長官などの保守派やアメリカ・ユダヤ人などの金融財界人達であった。
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 ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、日本との戦争を決断し、日本軍がワシントン時間7日午後1時以降にアジアの何処かを攻撃する事を日本側の外交用暗号電報を傍受し解読して知っていた。
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 アメリカは、日本占領政策・日本大改造政策の為に昭和天皇を政治利用したが、将来、日本を共和国にする為に天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させる仕掛を施していた。
 それが、日本国憲法皇室典範皇室経済法・11宮家の皇籍剥奪などである。
 再武装再軍備反対の護憲派や反米親ソ親中国派などの反天皇反日的日本人は、アメリカの置き土産であった。
 アメリカ国民は、西洋の王族や日本の天皇などの世襲制専制君主を嫌い、自由と民主主義、大衆の幸福の為には廃止すべきだと確信していた。
 日本占領政策や日本大改造政策は、GHQ内のユダヤマルクス主義者と日本人共産主義者が「虎の威を借る狐」のようにマッカーサーの威を借りて行った事である。
 天皇制度・皇室の消滅と日本国の崩壊を首の皮一枚で何とか救ったのは、グルーら知日派であった。
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 日本を戦争に追い込んだ革新官僚や軍人エリート官僚は、戦後、日本共産党日本社会党などの反天皇反日的革新党に入党した。
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 ハワイ王家は、アメリカの侵略から祖国を守る為に日本に救いを求め、天皇家・皇室との姻戚を申し込んだ。
 日本は、アメリカとの対立を避ける為にハワイの申し出を断り、アメリカのハワイ侵略から目を逸らして助けなかった。
 明治31(1898)年 アメリカは、ハワイ王家を消滅させてハワイ共和国を合併した。
 神聖な使命として、ハワイ民族の痕跡を抹消するべく民族差別政策を徹底的し、日本人やフィリピン人らの移民を奨励してハワイ人を少数派に追いやり、公用語を英語に、宗教をキリスト教にした。
 その異民族・異文化・異宗教消滅政策は、インディアンなどネイティブ・アメリカン封じ込めに成功した方策であった。
 東郷平八郎は、貪欲・強欲なアメリカが次に狙うのは日本ではないかと警戒した。
 日本海軍は、日露戦争後の主敵をアメリカとして対米戦略と軍艦建造を進めた。
 日米戦争は、この時から避けられない宿命となった。
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