🎹11:─3─スチムソン国務長官が日米戦争を不可避とした。満州事変と国際連盟脱退。〜No.47No.48No.49 ⑧

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 A級戦犯松岡洋右を正しく評価できない日本人には、日本を歴史、近現代史、戦前日本を語る資格はない。
 靖国神社の祭神・松岡洋右には、戦犯として裁かれる罪状は存在しなかった。つまり、濡れ衣・冤罪であった。
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 敵であれ味方であれ、日本に関して各国独自の国家戦略はあったが陰謀などは一切存在しない。
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 日米戦争の元凶は、独善的排他的不寛容ななスチムソン・ドクトリン、不承認政策であった。
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 ヘンリー・スチムソンは、世界の秩序と世界の平和を守りたいと願う理想主義者であった。
 国務長官時代、アジアの秩序と平和を維持するには軍国日本を封じ込める事が肝要だとの信念で、対日強硬外交を展開していた。
 対日強硬外交を行うスチムソンを突き動かしたのは、アメリカの正義、アメリカの良心であった。
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 スチムソンは、日本で原爆による実戦爆破実験と人体実験を無警告実施をトルーマン大統領に提言した。
 原爆投下は、軍人ではなく、シビリアンの政治家と文官官僚が命じた。
 戦争を行うのは、軍人ではなく政治家と文官官僚で、軍人は可能であれば戦争を避けたかった。
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 現代日本は、戦前の日本に比べて国際情勢分析能力や外交交渉能力は劣っている。
 特に、外国語が流暢に話せる高学歴出身知的エリートにそれが言える。
 そして、歴史の事実・真実その結果を知り戦前日本を口汚く罵る現代日本人に言う言葉はない。
 その中でも、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育関係者、知識人・教養人、人権派反戦平和市民団体関係者。そして右翼・右派・ネットウヨクも含まれる。
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 現代の中国共産党は、利益で小国を味方に付け日本を追い詰めるスチムソン外交手法を真似し、地方から都市を包囲する毛沢東戦略を実行している。
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 2020年1月号 WiLL「原爆を落とした男 ヘンリー・スチムソン
 スチムソンに操られた国際連盟脱退
 日本の立場も考慮した外交に切り替えるべきだ──懸念をよそに、スチムソンは日本の満州権益を認めなかった。日米衝突は確実に近づいていた。
 〈前回までのあらすじ〉
 1929年3月、ハーバート・フーバー政権が発足し、スチムソンは国務長官に就任する。翌年10月には浜口雄幸首相とともに軍強硬派を抑え、ロンドン海軍軍縮条約を成立させた。
 しかし同年11月、浜口首相襲撃事件が起こる。海軍強硬派や犬養毅ら野党(政友会)『統帥権干犯』という〝屁理屈〟に心を動かされた佐郷屋留雄による暴挙だった。
 スチムソンは浜口や幣原喜重郎外相に代表される政治家を『善』とし、軍強硬派を『悪』とする単純な図式で日本を理解した。
 1931年9月、柳条湖(りゅうじょうこ)事件(南満州鉄道爆破事件)が起こる。スチムソンには『悪』の勢力が跋扈し始めたように見え、『善』が『悪』を駆逐することを願った。
 渡辺惣樹
 元上司の懸念 
 スチムソンが持つ日本の『悪』の勢力への憤(いきどお)りは強かった。彼の激しい、行き過ぎた対日批判を諫(いさ)めたのはフーバー大統領だった。スチムソンは閣議の中で『戦争一歩手前の手段まで日本に圧力をかける』と主張したが、フーバーは『そのような態度は戦争を引き起こす』と自制させた。
 フーバーの『指導』にスチムソンは従ったものの、国際連盟が対日経済制裁を決めればそれに反対しないと、反日に傾けること、また仮に日本が『軍事的脅威』により中国と何らかの協定を結んでもそれを承認しないことを決め、連盟に伝えた。
 日本の『悪』の勢力排除を願うスチムソンは、幣原外相の手腕に期待した。しかしスチムソンの態度が、日本の強硬派をますます米国嫌いにさせていた。若槻礼次郎内閣は12月13日に崩壊した。わずか1年前、日本の全権としてロンドン海軍軍縮条約の締結に労苦をともにした若槻の退陣を、スチムソンは憂えた。日本にあった『善』の心が消滅したように感じられたのである。
 年が明けた1932年1月2日、関東軍反日勢力(張学良)の拠点・錦州を占領した。一向に収束しない満州の状況をみて、スチムソンはますます日本批判を強めた。そうした彼の態度に危うさを感じたのは、かつての上司エリフ・ルート(元国務長官)だった。彼は国務長官時代に高平・ルート協定(1908年)を結んでいた。満州における日本の特殊権益の存在を確認する協定だった。ルートは満州の複雑な事情を理解するリアリストだった。彼はスチムソンに長文の手紙を書き、日本が持つ満州の特殊権益を米国が認めてきた経緯を説明し、日本の条約上の権益を脅かしている中国とソ連の動きにも注意するよう諭(さと)した。
 ルートはスチムソンが平和主義者であることを知っていた。しかし一方で、『和平実現のためには戦いも厭(いと)わないというタイプ』であることも理解していた。だからこそ、スチムソンの外交に危うさを感じたのだった。
 日本に同情する大国
 ルートの警告は功を奏さなかった。1932年1月7日、スチムソンは日中両国に同じ内容の文書を送付した。『米国政府は米国および米国民の中国における条約上の権利を侵害するいかなる日中間の協定も承認しない』(不承認政策)という内容だった。日本は中国が条約上、日本に与えられた権利を守っていないと主張していた。スチムソンは日本の主張を顧みない一方で自国民についてのみ、条約上の権限保護を求めた。彼は不承認政策の自己矛盾に気づいていなかった。
 スチムソンの単純な思考(愚かさ)を英国は理解していた。同調を求めるスチムソンに対し、英国政府は『米国政府の主張のような公式文書を日本政府に突き付ける必要はないと考える』と回答した。英国(サイモン外相)は日本が満州の安定化ファクターになると見ていた。英国はスチムソンの機嫌を損ねないような表現で、米国の方針に追随できないと伝えた。ロンドンタイムズは『英国政府が中国を擁護する必要はない。中国のしっかりとした内治は観念上にしか存在しないからである』と主張し、政府を擁護した。スチムソンに届けられた日本外務省からの返書(1932年1月16日)は、ロンドンタイムズの主張と同じだった。
 スチムソンはルートの忠告や英国政府の消極的姿勢を見て、自身の教条的平和主義や中国への無理解に気づくほど賢明ではなかった。彼はサイモン外相に不承認政策への同調を繰り返し求めた。海底ケーブルを使った電話攻撃であった。
 スチムソンの対日外交に懸念を示したのは英国だけではなかった。米国内のメディアは満州地政学的重要性を理解し、日本の満州の動きを同情的に報じていた。その典型がサンフランシスコ・イグザミナー紙(1932年1月10日付)であった。
 『アジアの宝島をめぐる争いごと(満州をめぐる覇権獲得紛争)に我が国も国務省も苛(いら)つく必要はない。日本が満州に対してやろうとしていることは、わが国がかつてテキサスをメキシコから奪ったことと同じなのである』
 英国同様に仏蘭両国も日本に同情的であった。オランダは中国国民党政府よりも日本こそが極東安定の要(かなめ)と見ており、蘭印(現インドネシア)への日本の投資も期待するほどだった。フランスは上海に権益があったが、彼らの関心は仏印インドシナ半島東部)にあった。同地では1930年、共産主義者に指導された暴動があったばかりだった。フランスは満州の混乱も共産主義者が関与していることを知っていた。しかしフランスはそうした見方を米国に明示的に仄(ほの)めかすことを躊躇った。第一次世界大戦時の対米借款を抱えているだけに、スチムソンを刺激したくなかったのである。
 スチムソンに与(くみ)した小国
 満州の紛争は他所にも飛び火した。国民党軍(19路軍〈蔡廷豗{さいていかい}将軍〉)が上海に迫ったのである。上海には日本だけではなく、英米仏伊などの国際租界地があった。邦人や国際租界地に住む西洋人の安全確保のため、日本は海軍(陸戦隊)を派遣し、19路軍と衝突した(第一次上海事変〈1932年1月28日〉)。
 満州事変をめぐる連盟の協議は、連盟『理事会』で行われていた。しかし連盟は上海事変を受け、『総会』を開くことを決めた。これこそ上海事変を起こした中国の狙いだった。これまで総会が開かれたのは1度だけであった(ドイツの連盟加入の是非の議論、独加盟は1926年)。
 中国は、総会に出席する小国は、中国に利権を持ち同地の安定を望む理事国とは違い中国に一方的に同情的であることを知っていた。小国は第一次世界大戦後、ベルサイユ条約に基づいて新しく生まれた国を含んでいた。彼らは理由の如何を問わず、現状維持を望んだ。満州事変は彼らのそうした心情を刺激した。
 3月4日、連盟総会は上海での武力行使の停止と日本軍の撤退を求めると同時に、日中両国の直接交渉を促す勧告決議を採択した。
 総会は上海問題に続いて、満州の案件も協議した。中国の真の狙いはそこにあった。総会では『英国の日本への態度は甘い』とする非難が相次いだ。音頭を取ったのはチェコスロバキアエドヴァルド・ベネシュ外相だった。英国のサイモン外相は日本の立場を理解していたが、小国の『騒音』とスチムソンの圧力に屈することになった。
 3月11日、総会は満州での日本の行動は武力行使を禁じる連盟規約違反であり、パリ不戦条約にも違背(いはい)すると決議し、スチムソンの不承認政策を公式に承認した。
 極東ではすでに満州国の建国が宣言(3月1日)されていた。
 上海の衝突は日中の直接交渉で停戦がなった(5月5日)。19路軍は国際租界から20キロ圏内に入ることを禁じられた。つまり以前の状態に回復されることで合意したのである。連盟の圧力のなかで日本非難決議に同意せざるを得なかった英国だったが、そのことで日本を怒らせたくなかった。サイモン外相は英国利権のある上海租界地を守れるのは日本だけであることを理解していただけに、停戦がなったことに安堵した。
 リットン調査団の無理解
 スチムソンも上海事変の収束を評価した。しかしこの事件で日本への警戒感は増していた。彼の心に『日本とはいつか戦うことになる』という意識が明確に宿った。この感情は米海軍内の対日強硬派と同期した。彼らは米海軍の増強、つまりロンドン海軍軍縮条約で認められた上限まで艦船を一気に建造すべきだと訴えた。当時、米海軍は戦艦の数こそ日本を上回っていたが、空母も巡洋艦も日本に比べ少なかったのである。これに待ったをかけたのはフーバー大統領だった。
 上海での紛争は一応の解決をみた。しかし満州問題については、後戻り(原状復帰)できない情勢になっていた。満州の事情を精査する調査団の設置は連盟決議で決まっていた。団長をビクター・リットン卿(英元インド総督)とする英仏独伊米5ヵ国代表からなる調査団(リットン調査団)が組織された。日中両国からは参与が派遣された(日本:吉田伊三郎、中国:顧維鈞{こいきん})。調査団が東京に現れたのは1932年2月29日のことだった。
 東京から満州華北に向かい現地調査を重ねた調査団は7月4日、再び東京に戻った。その間に犬養内閣は倒れ、斉藤実内閣に代わっていた(5月26日)。新たに外相に就任した内田康哉は、満州の複雑な事情を理解したはずの調査団と会談した。内田は南満州鉄道総裁(任期:1931年6月13日~32年7月6日)を務めただけに、満州事情に通じていた。
 彼はリットン団長に対し、9ヵ国条約締結国および連盟メンバー国の意向にかかわず、日本は満州国を承認すると言い切った。8月25日、日本の国会は内田の言葉通り満州国を承認した。
 リットン調査団の公式報告書がジュネーブで発表されたのは、10月1日のことである。日本国内でも関心が高かっただけに外務省は直ちに翻訳にかかり、10月10日には早くも邦訳版が出版された(『リットン報告書』 国際聯盟協会)。同報告書のトーンは言うまでもなく、不承認政策を反映するものだった。それでもわずかではあるが、満州における共産主義勢力の浸透と国民党による満州不安定化・反日工作にも触れていた。
 『(ソビエトの)北清国境を越えて来る危険の可能性は再び日本の関心事となれり。北部における共産主義者の教義と南部における国民党の排日宣伝との提携の有りうべきことを想像し、日本はますます日露両国の間に共産主義および排日宣伝に染まざる満州を介在せしめんとする希望を感ずるに至れり。日本の疑懼(ぎく)はソ連邦外蒙古において獲得せる優越なる勢力及び支那における共産主義の発達により最近数年間において増大したり』
 満州の著しい経済発展についても触れていた。そこには日本の寄与があったことも理解した書き方であった。そうでありながら、報告書の結論は『(中国の主権を前提として)満州は幅広い自治権を持つべきであり、内政に中国が深く関与すべきである』というものだった。満州に日本が持つ条約上の権利を認めてはいるが、日中両国であらたな協定を結べとも勧告していた。『満州が中国プロパーの土地であるから、内政にも関与させよ』とする報告書は斉藤内閣だけでなく、日本国民にも受け入れがたいものであった。
 『松岡を跪(ひざまず)かせることなど簡単だ』
 アンリ・クローデル将軍(仏代表)は日本の立場に理解があったが、リットン団長は中国に同情的であった。代表のなかで最も日本に冷ややかだったのは、フランク・マッコイ陸軍将軍(米代表)だった。ジョセフ・グルー米駐日大使に『日本の満州での行動を正当化する2つの主張(自衛のため、民族自決のため)は偽りだ』と頭から断罪した。マッコイはスチムソンの人選だった。マッコイの『決めつけ』を危うんだグルーは『米国が日本の立場に全く理解を示さなければ軍国主義勢力を刺激し、むしろ彼らの力を伸ばすことになる』と本省に意見した。
 しかしスチムソンは馬耳東風であった。8月8日、彼はニューヨークの外交問題評議会(CFR)で激しく日本を非難した。CFRは米国の外交政策に影響力を持ち、エール大学の秘密親睦組織スカルアンドボーンのメンバーも少なくない。グルーは『米国がいかに反発しようと日本の対満州政策は変わらない、従って日本の立場も考慮した外交に切り替えるべきだ』と改めて建言したが、スチムソンの態度は変わらなかった。グルーは『日本の反発の対象がただ1人の人物に向けられている。言うまでもなく、その人物はヘンリー・スチムソンである』と憂えた。
 報告書を受け、日本の代表団は連盟本部(ジュネーブ)に向かった。松岡洋右代表は同地の米国外務官ヒュー・ウィルソン(駐ジュネーブ公使)、ノーマン・ディヴィス(後のCFR会長)に対して、米国外交の結果、日本の親米派が急速に力を失っているとの懸念を伝えた。スチムソンは『松岡を跪(ひざまず)かせることなど簡単だ』とウィルソンに語っていただけに、2人は松岡の苦しい立場や日本世論(メディア)に配慮した発言はできなかった。『日本には無理やりにでも苦い薬を飲ませる』とするスチムソンの考えが、現地外交官の自由を奪っていた。
 日米『行き止まりの道』へ 
 スチムソンのやり方は明らかに異常だった。レイモンド・ビュエル(ハーバード大学教授、外交政策協議会会長)は『日本が必要とする満州の資源を獲得するのを阻止しようとするなら、日本製品への関税を低くするといった何らかの配慮を見せるべきだ』と意見した。
 年が明けた1933年1月5日、スチムソンは出淵勝次駐米大使と面会して『日本は国際連盟から脱退すべきだ』と脅した。ジュネーブの連盟総会はスチムソンの振り付けどおり、『日本はリットン報告書の勧告に従うべきだ』と決議した(2月24日)。メンバー国でない米国の主張に、チェコスロバキアなどの小国が追随した。
 これに憤(いきどお)った松岡は『日本政府は国際連盟と協力してやってきたが、それも限界に達した』(英語でのスピーチ)と述べ、連盟総会の会場を去った。日本の立場を考慮しない決議であれば脱退やむなしとする本国の指示に従ったのである。日本を孤立させる『〝悪の国〟日本を懲らしめよ』というスチムソンの願いが成熟した瞬間であった。
 ウィルソン公使もオブザーバーとして総会に出席していた。憤然(ふんぜん)として議場を去る松岡の後ろ姿を見て、次のように書き残している。
 『総会の最後の場面は私の脳裏に焼き付いている。松岡の演説は情熱的なものだった。普段の彼のビジネスライクの話し方とは全く違っていた。彼は日本のような大国をさらし者にし、嘲笑するかのような態度を取ることがどれほど危険なことかを訴えた。
 日本はこれまで西洋列強の友国として行動していたが、連盟の決定でこれからは東洋だけでやっていくという態度を取らざるを得なくなった。今回の事態で連盟と我が国の取る方針が本当に賢明なものかどうか、初めて私自身も不安になっている。それでも(我が国のような)強国が誇りある国民を(連盟総会のような)公の場で激しく罵(ののし)ることは、その国民に消し難い恨みと反発を起こすだろう。
 私は(国際連盟の)このような態度が賢いものだとは思えない。(日本をこのように扱うことで)秩序や国際的信頼関係もどうでもよいという連中をつくり上げてしまうのではないか。(米国と国際連盟による)不承認政策は本当に正しいものなのか、初めてはっきりとした疑念が湧いた。考えれば考えるほど、この政策は(互いを)行き止まりの道に追いやってしまうのではないか』」
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 ウィキペディア
 満州事変(旧字体: 滿洲事變)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍南満州鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変。 関東軍は約5か月で満州全土を占領した。
 スティムソン談話
 アメリカのスティムソン国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を要求し、これを受けた幣原は、陸軍参謀総長金谷範三に電話で万里の長城や北京への侵攻を進めると英米との折衝が生じるため、戦線を奉天で止めるべきことを伝え、金谷陸軍総長はそれを承認した。この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使フォーブスに伝え、錦州までは進出しない旨を伝え、フォーブスはそれを本国にいるスティムソン国務長官に伝え、スティムソンは戦線不拡大を記者会見で伝える(スティムソン談話)。しかし金谷陸軍総長の抑制命令が届く前日に、石原莞爾関東軍は錦州攻撃を開始してしまう。スティムソンはこれに激怒する一方、関東軍も、軍事作戦の漏洩に激怒する。
 スティムソン・ドクトリン
 アメリカの国務長官スティムソンは、1932年(昭和7年)1月7日に、日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないと道義的勧告(moral suasion)に訴え、日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆるスティムソン・ドクトリン)。アメリカは不戦条約批准の際、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出し、また国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行い、さらに自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言していた。
 イギリスはスティムソン・ドクトリンに対して「この文書にイギリスが連名して日本に共同通牒する必要はない」とアメリカに通告した。スティムソンは、イギリスは極東問題でアメリカと歩調を合わせないというロンドン発の報道にひどいショックを受けた、と日記に残している[36]。ロンドン・タイムズ紙は「イギリス政府が中国の管理運営権限を擁護するなどという姿勢を出す必要はないと思われる。中国にしっかりした政府の管理運営の実態はない。1922年にも存在しなかった。現在でもない。中国政府によるしっかりとした管理運営は観念上にしか存在しない」(1月11日付)と同意した。日本政府はイギリスの姿勢を歓迎した。
 犬養内閣の外務大臣に就任した芳澤謙吉は口先介入ばかりしてくるアメリカに、スティムソン・ドクトリンへの回答として「支那不統一の現状を酌量されたし」としたためた。
 元駐日大使で満州事変時に国務次官だったウィリアム・キャッスルの退任直後の1933年4月の講演によると、フーバー政権は日本を不必要に刺激しないよう慎重でなければならず、実際、一貫して対日経済制裁に反対であると国際連盟に伝えており、侵略的行動の成果を承認しないけれども、重大な結果をもたらし得る対日ボイコットには断固反対し、不承認ドクトリン宣言によって、戦争を意味しかねない制裁発動を押しとどめた。そして、日本の権益侵害・無視という中国の挑発があったことを忘れがちであり、満州事変をめぐっては、日本への配慮に欠けたことを認めた。
 スティムソン・ドクトリンは、日本の満州の行動をけん制することに失敗しただけでなく、両国の友好関係の維持を極めて難しいものにした。日本の政治家は満州における紛争は、これから不可避的に起きる資本主義と共産主義の衝突の前哨戦であると理解していた。彼らはなぜアメリカがこの戦いを支援しないのか、どうしても理解できなかった。豊田貞次郎提督はW・キャメロン・フォーブス米駐日大使に宛てた書面の中で、「われわれだけでなくこれからの世代も含めて、中国・ロシア型の共産主義をとるのか、アングロサクソン型の資本主義をとるのかの選択に迫られる。もし中国が共産主義支配下に入り、日本がこれまでどおりの主張に沿った対処をすれば、日本自身がかつての壱岐対馬の立場に立つことを意味する。つまり共産主義の攻撃を受けて立つ防衛の最前線に立つということである。日本はその道をとる」と書いた。
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 アメリカは、松岡洋右が譬えたようにカウボーイであった。
 正義のガンマンであるアメリカは、牧場・農場一家である善良な中国を牛・馬泥棒である悪党の日本の襲撃から守り、撃退し、捕らえて神の名と法律の正義で裁き、リンチ的縛り首で公開処刑する。
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 フランクリン・ルーズベルトは、親中国反日派、共産主義容認派、ヒトラー嫌いであった。
 民主党フランクリン・ルーズベルトは大統領に就任するや、ファシスト中国を救う為に共和党反日強硬派派ヘンリー・スチムソンを陸軍長官に任命した。
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 昭和天皇は、戦争を嫌う平和主義者として、アメリカやイギリスとの協調関係維持を願っていた。
 マルクス主義(隠れ共産主義)の革新官僚や軍人官僚エリート達の中で、意のままに動かせる操り人形の様な天皇に換えるべきだという考えから、昭和天皇を強制退位させる密談があった。
 昭和天皇に関して、天皇の戦争責任や天皇戦争犯罪はない。
 1932年1月8日桜田門事件。キリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇殺害失敗。
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 松岡洋右は、隠れ親米派ユダヤ派で、戦争回避と国際協調を目指し、国際連盟から脱退する事なく日本の国益満州の利益を守るべく努力した。
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 日本には、大陸を侵略して領土を広げるという野心的帝国主義・冒険的植民地主義微塵もなかった。
 日本が江戸時代後期から持っていた国防戦略は、北から侵略してくるロシア、後にソ連共産主義勢力から如何にして神国日本と現人神天皇を守るか、の一点のみであった。
 満州は、ロシアとソ連共産主義勢力から母国日本を防衛する軍事拠点であって、単なる利権・利益の経済拠点ではなかった。
 それ故に、軍国日本は世界を敵に回しても満州を死守しようとした。
 「数十万人の犠牲で得た海外領土であり、満州を放棄する事はその英霊に申し訳ないからったできなかった」という現代日本の歴史は、悪意に満ちたウソである。
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 日本軍は、第一次世界大戦とシベリア出兵で歴史的な平和貢献と人道貢献を行い、国籍・人種・民族・宗教に関係なく数多くの人々を助けた。
 日本陸軍は、第二次世界大戦・太平洋戦争・大東亜戦争時、中国大陸で1,000万人以上の中国人を飢餓・疫病を助け、溺れていた数十万人を救っていた。
 さらに、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから逃げてきたポーランドユダヤ人難民数万人を保護し、安全な国や地域に送り出し、ゲシュタポホロコースト実行の恫喝を拒絶して守り通した。
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 日中戦争の大本の原因は、ファシスト中国が断行した革命外交である。
 革命外交とは、日本が満州や中国で持っていた全ての権益を剥奪し、日本人居留民の生命財産を口先で保障すると言いながら実際は保障しない、と言う事であった。
 つまり、日本人居留民を中国共産党や秘密結社などの犯罪組織の中に放り込み、その餌食にさせたのである。
 日本政府は、中国に忖度・配慮して、戦争による暴力解決ではなく平和による話し合い解決を目指した。
 中国共産党・中国人暴徒・中国犯罪者は、武器を持たない無抵抗な日本人居留民(主に女性や子供)を襲撃し虐殺する事件をくり返していた。
 それが、通州大虐殺に対する暴支膺懲である。
 日本国民は、戦争を避けようとする腰抜け政府に絶望し、軍部に中国に対する懲罰戦争・報復戦争・仇討ち戦争を求めた。
 こうして、日中戦争が勃発した。
 日本陸軍は、対ソ戦略に全兵力を向けていた為に対中戦争には消極的であった。
 日本が本心から日中戦争を回避したければ、中国や満州で持っていた全ての利権を放棄し、中国で生活していた日本人居留民の全財産を捨てて裸一貫となって日本に帰国する事であった。
 現代日本人なら、戦争を避ける為なら無一文の乞食となって路頭に迷おうとも甘受するだろう。
 が、名誉・誇り・プライド・体面を命よりも大事にした昔の日本人にはそんな無様な惨めな事が受け入れられなかった。
 靖国神社とは、そうした昔の日本人の志・気概であった。
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 東アジアを紛争や動乱で不安定にしていたのは、ソ連コミンテルン共産主義勢力であった。
 その手先として暗躍していたのが中国共産党と日本人共産主義者であった。
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 アメリカ国内の親日派知日派は、日米関係悪化を恐れて、スチムソンに対して一部の対日譲歩を提言していた。
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 ファシスト中国を強力に支援したのは、親共産主義派のアメリカ・キリスト教諸派であった。
 軍国日本に理解を示したのは、反共産主義派のバチカンローマ・カトリック教会であった。
 アメリカ国内では、アメリカ・キリスト教諸派と人種差別主義者による排日運動が燻り続けていた。
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 スチムソンをはじめとした対日強硬派は、難癖を付けて日本を追い詰めても、日本は何処かで譲歩・妥協して国際連盟を脱退するとは思ってもいなかった。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、第一次上海事変締結交渉を妨害する為に天長節昭和天皇誕生日)式典で爆弾テロを行った。
 ファシスト中国は、昭和天皇や皇族を惨殺しようとしていたキリスト教朝鮮人テロリストを手駒として使っていた。
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 日本の政府も軍部も、国力(経済力・軍事力)の差から、アメリカと戦争をしても勝てない事は理解していたので、アメリカとの衝突を避ける為に、アメリカの如何に理不尽な条件や要求でも、妥協に妥協を、譲歩に譲歩を、して受け入れ努力をしていた。
 それでも、名誉と国益で受け入れられない事があった。
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 日本の野党は、政権を取る為に、アメリカの対日強硬外交を政争の道具に利用した。
 軍部内の、主流派はアメリカとの衝突を避けるべく政権与党に協力していたが、非主流派は軍部内での主導権を取る為に野党や右翼・右派と手を組んだ。
 軍部過激派と右翼・右派は、天皇の大権である「統帥権」を掲げて白色テロを行った。
 そこから、天皇の戦争責任問題が生まれた。
 戦前日本を戦争へと暴走させ破滅させた元凶は、議会、与野党に関係なく、政権奪取しか興味がなかった野心的な政治家にあった。
 国民は、私利私欲しか考えない政治家に失望し、その政治家が行う政治に絶望した。
 それは、現代日本にも通じるところがある。
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 スチムソン陸軍長官は、フランクリン・ルーズベルト大統領の許可を得て、陸軍航空部隊に命じて抗日軍への援軍を命じた。
 日中戦争の当事者ではない中立国アメリカは、公式に正規兵を派兵できない為に、正規兵を見せ掛け除隊として民間ボランティアとして中国軍に送り込んで参戦した。
 アメリカ政府は、中国空軍に航空機を提供する航空機業界に、中国政府に代わって代金を対中借款として支払った。
 ユダヤ系国際資本や欧米系国際軍需産業は、抗日中国軍を支援し、軍国日本に対する経済制裁に協力した。
 日本軍航空部隊は、日中戦争で、中国空軍に味方するアメリカ陸軍航空部隊と空中戦を行っていた。
 中国軍は日本軍と戦う為に、ナチス・ドイツから軍事顧問団を受け入れドイツ軍需産業から武器を仕入れ、ソ連からは正規兵や国際義勇部隊の援軍をえアメリ軍需産業から武器を仕入れた。
 日本軍は、日中戦争で、すでに世界を相手に戦争をしていた。
 1933年〜1943年 アメリカは、日本との戦争を想定して大建艦計画を実行する。
 1933年 親中国反日派のドイツ国防軍は、日本軍と戦うファシスト中国に協力するべく軍事顧問団を派遣した。
 同じ親中国反日派のドイツ保守派やドイツ企業もファシスト中国の勝利の為に支援した。
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 アメリ国務省は、親中国反日派が主流派・多数派として対日強硬政策を主導していた。
 アメリカ世論は、欧州に介入する事には反対したが、日本を懲らしめる為にアジアへの介入には反対していなかった。
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 日本軍を指揮していた松井石根A級戦犯)は、悲鳴を上げ、政府や軍部に対して欧米・ソ連を排除する為に「対中宣戦布告」を要請した。
 何故なら、戦時国際法上、宣戦布告による合法戦争において戦闘当事国でない第三国・中立国は戦争に一切関与できないからである。
 もし、軍事費を肩代わりしたり、軍需物資を提供もしくは売却したり、兵士を提供するなどの行為は、全て戦争参加と見なされ、攻撃されても文句は言えにからである。
 つまり、真珠湾攻撃戦争犯罪、だまし討ち、卑怯な行為ではない、といえる。
 松井石根A級戦犯としてリンチ的縛り首で処刑されたのは、こうした事実を隠蔽する為であった、と言える。
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