🎺59:─1─昭和天皇の聖断が、日本人を共産主義者の虐殺から救った。1945年8月16日~No.289No.290No.291 @ ㊳ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇の聖断で、国土の分割占領は免れ、国家の消滅は回避され、共産主義者の虐殺から日本人が救われた。
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 大日本帝国憲法は、天皇に責任を及ばない為に第一条で「無答責」の規定を定めている。
 国際世論は、日本国民が遵守する自国の憲法を否定し、世界常識として昭和天皇の戦争責任を追及した。
 日本の天皇は、イギリス国王と同様に「君臨すれど統治せず」を守っていた。
 だが。国際社会は、日本の国民認識を完全否定した。
 昭和天皇は、ヒトラー同様に嫌われていた。
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 アメリカ軍の戦死者、約30万人。
 対日戦ではの戦死は約9万人のみで、大勝利であった。
 死亡者は兵士で、民間人はほんの僅かに過ぎなかった。
 日本側の死者は、200万人以上で、多くの民間人が含まれている。
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 敗戦後。約2万人の旧日本軍兵士は、残留してアジア各地の独立戦争に参加して、多くが戦死した。
 ビルマでは、1,000人〜2,000人。
 インドネシアでは、903人。
 ベトナムでは、700人〜800人。
 マレーシアでは、100人。
 中国では、数千人。
 旧日本軍人は、東南アジア諸国の国軍に軍事教育を行い、植民地支配を再開させようとした欧州諸国軍との独立戦争を指揮した。
 ベトナムにおいて。石井卓雄少佐を中心とした日本人義勇軍が、ベトナム人にゲリラ戦を教えた。
 その意味で、アジア諸国は日本軍部の御陰で独立できた。
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 アメリカ統合参謀長会議の下部組織である統合戦争計画委員会は、日本分割占領案を作成した。
 4ヵ国分割占領地。
 アメリカ軍‥関東・中部・近畿。
 ソ連軍  ‥北海道・東北。
 イギリス軍‥九州・中国。
 中国軍  ‥四国。
 アメリカ軍と中国軍‥近畿。
 東京は、四ヵ国共同共同管理。
 マッカーサーは、分割占領ではなくアメリカ軍による単独占領を計画していた。
 昭和天皇と日本政府が本土決戦を避けべく降伏した為に、日本の分割を免れ、日本の消滅を回避した。
 中国が日本分割を止めたというのは、真っ赤な嘘である。
 中国は、戦勝国として日本領土の沖縄を自国領とする希望を抱いていた。
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 8月15日 トルーマンは、マッカーサーに対する一般命令第一号を決裁したとスターリンに通告した。
 日本は、ポツダム宣言を受諾して降伏した。
 トルーマンは、スターリンに対して、軍国日本の降伏後の占領地分担を満州、北部北朝鮮半島、全樺太として千島列島と北海道を加えないと通知した。
 ソ連軍総司令部は、樺太及び千島列島・北方領土占領作戦を各方面軍に命じた。
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 8月16日 昭和天皇は、木戸幸一内大臣の推挙を受け、皇族の東久邇宮稔彦に組閣の大命を下した。
 「詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持に務め、時局の収拾に努力せよ」
 大本営は、大陸命第1382号で、自衛以外の全ての戦闘を中止する様に命じた。
 関東軍は、全部隊に対して全ての戦闘を停止する様に命じた。
 トルーマンは、太平洋諸島の全日本軍部隊に対して、アメリカ軍に降伏する様に命じた。
 スターリンは、トルーマンに対して、千島列島の日本軍部隊はソ連軍に降伏し北海道北半分をソ連軍が占領する地域とする事を要求した。
 そして。ワシレフスキー元帥に、9月1日迄に北海道北部と千島列島を占領する様に命令を出した。
 ソ連軍のアントーノフ総参謀長は、在モスクワのアメリカ軍事使節団代表ディーンに、「極東に於ける日本軍に対するソ連軍の軍事行動を継続するか、停止するかの決定はソ連軍の総司令官のみが決定する事項である」と答えた。
 ソ連軍は、降伏した日本軍の権利は国際法外で適応されないとの見解を通した。
 事実。如何なる戦史に於いても、国際法戦勝国の権利を守ったが、敗戦国の権利が保護された事はない。
 敗戦国の権利は戦勝国の恩情のみが認めるというのが、世界共通の一般常識である。
 マーシャル参謀総長は、マッカーサーとディーンに対して、ソ連との揉め事を起こさないように注意を喚起した。
 スターリンは、一般命令第一号に対し、二つの修正提案を付けて要求した。
 1、ヤルタ協定に従って、日本軍がソ連軍に降伏すべき地域に千島列島を含める事。
 2、日本軍が降伏すべき地域に、釧路と留萌を結ぶ北海道北半分も含める事。
 ソ連が日本本土の一部を領土として割譲できなければ、ロシアの世論は大きな屈辱を感じるだろうと、恫喝した。
 更に、ドイツ占領を前例として日本占領を行い、東京をベルリン同様に分割占領してソ連占領地区を要求した。
 アメリ陸軍省内でも、千島列島内にアメリカ軍基地を建設する為の譲歩案として、日本を分割占領する案が検討された。
 スチムソン陸軍長官は、日本全てをアメリカ軍の占領下に置く決定をして却下した。
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 8月16日 スターリンは、日本領土を手に入れるべく、トルーマンに対して、ルーズベルトとの密約から千島列島・北方領土・北海道北東部(釧路と留萌を結ぶ線の北側)をソ連地区に加えるよう要求した。
 トルーマンは、千島列島については認めたが、北海道は拒否した。北方領土は、歴史的に北海道の一部、日本固有の領土と見なしていた。
 第五方面軍の樋口司令官は、全部隊に対して「各部隊は一切の戦闘を停止、ただしやむを得ない自衛戦争はこれを妨げず」と命じた。
 日本軍は、これ以降、ソ連軍の侵略から祖国を守る自衛戦争を始めた。
 戦争には、正しい戦争が存在する。
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 8月17日 昭和天皇は、大元帥として全軍隊兵士約600万人に対し、武器を置き降伏する様に命ずる勅令を出した。
 大本営も、全軍に対して休戦命令を出した。
 全軍への勅令草案は15日には完成していたが、軍部の強い要請に従って発令を延期していた。
 陸軍中央は、関東軍に対してソ連軍への降伏を命じた。
 関東軍総司令官山田乙三大将は、命令に従ってワシレフスキー元帥に停戦を提案したが拒否された。
 ワシレフスキー元帥は、8月20日午後12時までに停戦し、武器の引き渡しと日本軍兵士全員を捕虜として捕らえると提案した。
 関東軍総参謀長秦彦三郎は、ハルピンのソ連領事館を通じて停戦交渉を申し込み、19日迄に停戦交渉が成立しなければ、玉砕覚悟で抵抗すると告げた。
 内密な話として、朝鮮をアメリカ軍ではなくソ連軍に引き渡したいと伝えた。
 ソ連軍は、関東軍との休戦協定が成立し、日本軍が武装解除するまでは如何なる交渉のも応じないと命じていた。
 その為、各地の日本軍守備隊が降伏するべく白旗を掲げて死者を出したが、その殆どが射殺された。
 ソ連は、領土と占領地を拡大するべく軍事行動を続けていた。
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 8月18日 トルーマンは、スターリンに、ソ連軍の占領を千島列島は同意し北海道北半分は否定した。
 スターリンは、トルーマンに対して、北海道北半分の占領を放棄するという書簡を8月22日に送った。
 ソ連軍は、南樺太と北千島で日本軍との停戦協定が成立した。
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 ソ連は、大国の傲慢から戦時国際法を無視し、泥棒の如く、武装解除して降伏した日本に侵略して北方領土を軍事占領した。
 ロシア人は、命の危険を冒してまでロシア人児童達を助けた日本人軍国主義者の恩を踏みにじった。
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 ソ連は、ファシスト中国と中国共産党を動かして軍国日本を攻撃し、天皇制度を破壊して日本を共産主義化しようとした。
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 軍国日本は、生きる為に、自衛の為に、ソ連中国共産党ナチス・ドイツファシスト中国と戦った。
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 終戦時。満州には、約130万人の日本人居留民がいたが、帰国できたのは105万人で、ソ連軍と中国人及び朝鮮人の暴徒によって約25万人が虐殺された。
 ソ連軍兵士による強姦と惨殺事件が各地で行われていた為に、逃げ切れないと判断した日本人開拓民達は集団自決した。
 瑞穂開拓団1,001人は服毒自殺し、内婦女子は約600人であった。
 朝日新聞「婦女への暴行が続きました。泣き叫ぶ声は建物の中に響き、毎日、多くの死者が出ました。今もソ連兵の残忍な顔を思い出すと、全身が震えます」(『女たちの太平洋戦争』)
 昭和21年春 ソ連軍兵士による長春第8病院の看護婦凌辱事件。
 中国共産党軍や国民党軍による日本人女性に対する凌辱も、男尊女卑の儒教価値観と敵は一切許さない許さない中華思想ゆえに、ソ連軍以上に言語に絶する陰惨な話が多かった。
 朝日新聞「敗戦の翌年の2月、ソ連兵が……引き上げると、入れ代わりに国民党軍が共産党軍と戦うため入って来て、またしても戦争です。大勢の日本人女性が殴られ、仕方なく妓女にさせられました。私は国民党軍の師団長に脅迫されて囚われの身となり、乱暴されました。何度も逃げ出し帰国を企てましたが、日本に帰り着く事ができず、生き延びるため、仕方なく現在の中国人の夫と結婚しました」『女たちの太平洋戦争』
 富沢繁「列車は臨時停車し、その度に八路軍兵士が、復員者の携帯している貴重品などを強奪する。現在の中国解放軍は軍規もかたく守られているようだが、当時の八路軍は乱れに乱れていたようだ。そして、彼女らは兵士に列車から引き下ろされ、……連行されたところは元の天津で、『妓女戸』とよばれる慰安所であった。彼女らはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた」(『女たちの戦争よもやま物語』)
 中国本土では、2万人以上の日本人居留民が行方不明となって帰国していない。
 中国においては、女性の人権は存在しない。
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 国民党軍にも中国共産党軍にも、日本軍同様に軍隊と共に移動していた慰安婦達がいた。
 国民党は、賄賂をよこす公認売春業者を保護する為に、政府公認である事を証明する「妓女身分証明票」を発行し常に所持している事を命じた。
 中国軍慰安婦には、中国人の他に日本人、朝鮮人、ロシア人などもいた。
 中国売春業者は、匪賊や軍隊が戦場や各地で攫ってきた少女を買って養女とし、年頃になったら売春婦・慰安婦として客を取らせてた。
 中国では、人身売買は当たり前の商業活動で合法であった。
 中には。貧しい家庭を養う為に、妻や娘は正業として売春を行っていた。
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 昭和20年 日本の戦争犯罪。東洋のアウシュビッツこと撫順炭鉱と軍国日本のホロコーストとされた「万人抗」のある鉱山。
 満州に於ける採掘は、大地を爆破して大きな穴を開けて行う露天掘りで、地下深く坑道を掘り進めるものではなかった。
 炭鉱悲劇としての、落盤やガス爆発といった死亡事故はなかった。
 鉱石の運び出しは、人海戦術として大量の工人を必要としていた。
 事故や病気で死亡した中国人工人で、家族があれば遺体を引き渡し、独身で引き取り手がなければ集団墓地に埋葬した。
 後日、集団墓地が掘り返されて万人抗とされた。
 8月9日 関東軍(第3方面軍司令官後宮淳大将)は、撫順炭鉱に対して通化方面への疎開を命じた。
 撫順炭鉱長以下幹部達は協議して、炭鉱業務で生活している者が多い為にいきなり廃鉱できないとし、むしろ社員一丸となって「炭鉱を死守する」と決定した。
 幹部は、奉天関東軍を訪れ、炭鉱の意志を伝え説得して許可を得た。
 炭鉱関係者としては、日本人従業員とその家族合わせて約1万3,000人。
 満州全土の貧しい日本人家庭から、男はおろか女性も一般鉱山夫として相当な数が働きに来ていた。
 国民勤労奉仕隊員として、近隣の日本人農家から約2万人。
 炭鉱で働く中国人は、中国共産党・国民党・馬賊などの捕虜からなる特殊工人隊数百人一般工人10万人以上であった。
 撫順市には、約4万1,000人の日本人居留民が住んでいた。
 撫順守備隊である日本軍(約2,000人)は、同年7月に急遽特設された第138師団で精鋭ではなかった。
 炭鉱側は、通常の勤務体制と同時に自警体制をとり、15日以降に日本人炭鉱員とその家族全員に自決用の青酸カリを配付した。
 治安対策として。抗日ゲリラが紛れ込むのを防ぐ為に、中国人勤労奉仕隊と特殊工人隊に賃金、食糧、衣服を与えて解散させた。
 何時敵に寝返るか分からない中国人に囲まれた撫順炭鉱は、中国人が敵に回る事なく中立を保ってくれる事を願って最善の配慮をおこなった。
 日本軍守備隊は、抗日ゲリラの襲撃から日本人残留民を守るべき警備に当たった。
 日本人残留民達も、治安が悪化し犯罪が多発し始めた中国人居住区に近寄らず、日本人居住区に閉じ籠もった。
 中国人暴徒は、強奪目的で家財道具を持って避難する日本人残留民を襲い、抵抗する日本人を死傷させた。 
 在郷軍人が中心となって自警団を組織して、市内の住む日本人残留民を中国人暴徒から保護し、市内の治安を守った。
 中国人暴徒は、住人がいなくなった日本人住宅に押しかけて残っている家財道具を全て奪った。
 同様の処置は、南満州鉱業や鞍山製鉄所など他の施設でも取られた。
 8月15日前後 満鉄総裁は、北満地域からの避難民約4万人の受け入れを撫順市及び撫順炭鉱に依頼した。
 撫順市と撫順炭鉱は、受け入れを渋ったが、差し当たって行く当てのない日本人避難民の受け入れを決めた。
 だが。栄養失調で体力が弱っていた日本人避難民の間で発疹チフスが蔓延して、治療空しく約1万人が死亡し、市街に集団埋葬された。
 8月27日 ソ連軍は、撫順炭鉱を無傷で接収するべく、犯罪集団の囚人部隊ではなく軍規が厳しいザバイカル方面軍5,000人を送り込んだ。 
 8月28日 日本軍守備隊は、無駄な抵抗をして一般市民に犠牲者を出す事を避ける為に、恥を忍んで降伏し武装解除した。
 ソ連は、ジュネーブ条約を無視して日本軍兵士全員をシベリアの強制収容所に送った。
 ソ連軍は、貨物列車を動かす為の石炭が必要な為に、日本人従業員に石炭増産の重労働を強いた。
 炭鉱側は、課せられた厳しいノルマを達成するべく、中国人労働者を使う事ができなかった為に、撫順市内で避難せず留まっていた日本人残留民を加えた。
 ソ連軍は、発電機などの設備を没収して本国に送った。
 撫順炭鉱は、労働不足と電力不足で採炭作業に支障をきたしたが、ソ連統治下で99万トン、貨車3万輛分を運び出した。
 昭和21年3月10日 中国共産党軍は、撫順に駐屯していたソ連軍が撤退するや代わって進駐したが、依然としいてソ連の統治下にあった為に日本人居住区には手を出さなかった。
 約半月後。撫順を支配していた中国共産党軍は、国民党軍の攻撃が近づくや撤退した。
 日本人残留民は、統治者を失った撫順が無法地帯になった為に国民党軍の進駐を願った。 国民党軍は、撫順に進駐し、発電機など多くの主要設備を奪われた撫順炭鉱を復興を日本人従業員に命じ、抗日ゲリラから日本人残留民達を守った。
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 6月 国民党軍は、撫順炭鉱復興に必要でない日本人残留民の日本送還を始めた。
 最初は鉄道を使用したが、中国共産党軍の攻勢で鉄道が使えなくなるや、飛行機で安全地帯まで空輸して帰国させた。
 撫順炭鉱にいた日本人残留民が全員無事に帰国できたのは、昭和23年8月であった。
 7月 国民党軍は、平頂山事件や万人抗に関係した調査し、炭鉱内にいる事件に関与して従業員11名を逮捕した。
 奉天の戦犯抑留所、後に市内の第一監獄所に数百人が収容された。
 戦犯裁判所は、101名以外を釈放した。




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