🎺81:─1─昭和天皇の人間宣言と退位問題。GHQと左翼・共産主義者は保守派約21万人を公職から追放した。1946年~No.355No.356No.357No.358 @ ㊾

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ソ連コミンテルンと日本人共産主義者は、敗戦革命を目指していた。
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 昭和天皇は、天皇制度打倒を叫ぶ革新派日本人らの非難に耐えながら国體を守るべく、一人孤独な戦いを続けていた。
 だが、日本民族日本人から見捨てられた、孤立状態ではなかった。
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 ハリマン「モスクワの90%以上の人々は、アメリカのスラムよりひどい場所に住んでいる」
 共産主義国の人民は、共産党によって奴隷の如く重度労働を強いられていた。党幹部は特権が認められ贅沢な生活を満喫していたが、下級党員や人民は家畜の様な貧しい生活を強要されていた。
 共産主義とは、流血と火によって破壊と混乱をもたらす憎悪の思想であり、信頼と信用により創造と安定を導く和解の思想ではなかった。
 共産主義は、けっしてプロレタリアに楽園をもたらすものではなき、むしろ地獄をもたらすものにすぎなかったかった。
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 国際世論は、日本の独立国家としての自衛権を承認せず、日本人の個人としての正当防衛をも容認していなかった。
 戦前の日本は、自国には自衛権があると思い込んだ事が、悲劇の元であった。
 戦前の日本人は、自分と同胞を守る為の正当防衛があると思い込んだ事が、不幸の元であった。
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 マッカーサーは、スイス公使ゴルジェに、「日本の国際競争力を奪うべく、幣原に組合を強くする様に命じた」と語った。
 マッカーサー「日本は、共産化するくらいでちょうどいい」
 W・シーボルト「日本の政財界も軍人も二言目には共産主義に警戒を、と訴える」
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 ニューディーラー(主にユダヤ人エリート)達は、アメリカで失敗したマルクス主義的理想主義を日本で実現すべく、民間側スタッフとして民政局(GS)や経済科学局(ESS、マーカット准将)などに参加して容共的民主化政策を強引に推しすしめた。
 対日占領政策において、好戦的現実主義のアメリカ軍人側は日本の伝統・文化・習慣に即した緩やかな改造を求めたが、平和的理想主義の民間人は日本的なものを完全破壊して世界基準による急激な改革を主張して、激しく対立した。
 ホイットニー准将の民政局(GS)とウィロビー少将の参謀第二部(G2)が、国際情勢の冷戦を睨んで激しく対立していた。
 両者の対立が、日本の政治や経済や教育に至るまで広範囲に影響を与えて、日本全体に混乱を起こさせた。
 マッカーサー元帥は、日本から神懸かり的軍国主義を完全排除し理想的民主主義国家に生まれ変わらせるべく、民政局のホイットニー准将と共産主義的ニューディーラーを全面的に支持した。
 アメリカ軍対外防諜部隊(CIC)などの諜報機関は、GHQ内に多数の共産主義者やそのシンパが入り込んで日本改造計画を遂行中であると、治安・情報を担当する参謀第二部(G2)のウィロビー少将に報告した。 
 参謀第二部は、非公式の国際的団体・太平洋問題調査会(IPR)の活動は共産主義者の隠れ蓑になっているとして警戒した。
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 セオドア・コーエン「マッカーサーは、日本の経済復興は日本が担わなければならないという考え方を受け入れようとはsなかった。また、アメリカが日本の経済復興を軽率にも中止させるような指令に対して受け入れる姿勢を示す事はなかった。経済復興なしには、民主化は決して続かないと彼自身が信じていたからだ」
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 日本人は、戦死した戦友の為にも「死んだつもりで生きる事」を強く念じ、靖国神社に詣でる度に新しい日本を再建する事を誓った。
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 外務省は、大東亜戦争を総括する報告書を作成する為に、調査局第一課と東京帝国大学教授・高木八束ら学者30名の専門家らで米国研究会を組織した。
 米国の基本性格と対外政策「行き詰まった米国はフロンティア政策を海外に拡大し、中国全土を支配する為に国民党政府を支持し、中国市場を制覇するため日本と戦争した」 
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 GHQは、軍国主義を滅ぼす為に戦没者遺族への恩給を全廃する様に命じた。
 戦没者遺族は、中学卒業の初任給程度の恩給で生活していたが、恩給停止で収入の道を断たれて極貧生活に追いやられた。
 父・夫・息子といった働き手を亡くした戦没者遺族は悲惨で、行商で子供を養ったり、売春婦に身を崩したり、さらにはどうにもならなくなって親子心中した者もいた。
 革新派は、戦没者遺族を侵略戦争をした軍国主義者の家族として同情する事なく嫌悪して見捨てた。
 戦没者遺族の唯一の心の支えが、亡き父・夫・息子等に会える靖国神社であった。
 反宗教無神論の革新派は、その事を十分に理解するが故に死んだ人間を人神として祀る靖国神社の廃絶を求めた。
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 GHQの参謀第2部(G2)局長チャールズ・ウィロビーは、日本国内の冷戦として、旧日本軍軍人、軍国主義者、右翼から有能有能有益な者数人を選び出し、ソ連中国共産党からの工作活動に対抗して手足の如く使った。
 それが、戦後社会を金と威嚇と暴力で支配し、政官財を裏で操った黒幕である。 
 後のCIAも、そうした親米右翼の黒幕を単なる使い捨ての道具として使っていた。
 アメリカは、自国の国益を追究して利益を上げる事を最優先し、属国・保護国的な日本の国益などは眼中になく、何ら躊躇なく日本の利益を粉砕する。
 日本の行動全ては、日本人の自由意志による自由行動に見えながらも、アメリカが認めた行動範囲に拘束されている。
 対日戦略として、ソ連中国共産党は個人が見えないマルクス主義的諸団体を動かしていたが、アメリカはカリスマ性を持った怪しげな個人を使った。
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 アメリカ軍は、数日前まで特攻や玉砕で激戦を繰り返していた日本軍が昭和天皇の命令で武装解除して無条件降伏したとは本気で信用せず、無差別絨毯爆撃や原爆で家族を失った日本人が復讐の為に隙を見て蜂起してゲリラ戦を仕掛けてくる予想を立て、横浜ノースドックを秘密基地として最精鋭の対ゲリラ部隊を極秘で配置した。
 世界史・大陸史では当然の如く起きるはずの、人民による占領軍に対する抵抗運動・蜂起・反乱・暴動・ゲリラは日本では全く起きなかった。
 それは、人類史における不思議である。
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 GHQ内の日系アメリカ人は、要員10万人中約2万人で、任務は日本大幅改造の為の通訳であった。
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 トルーマン大統領やスチソン陸軍長官らは、アメリ戦略爆撃調査団が提出したヒロシマナガサキ報告書にショックを受け、原爆投下の正当性をどう詐って公表するかを考えた。
 そして、昭和天皇と軍国日本は早い段階でソ連を通じて有条件降伏を申し込んでいた事実を隠蔽する必要があった。
 趣旨「原爆投下によって日本市民の戦意が影響を受けたのは当然ながら極めて限られた地域のみであった。その事は明らかである。効果があったとすればそれは犠牲者の数と原爆による被曝の負傷の性質によるものである。しkし攻撃目標の広島や長崎においてさえ原子爆弾は日本人の戦意を一様に挫く事は出来なかった。その事は銘記されるべきである。
 では日本の指導者層に与えた原子爆弾の影響とはどのようなものだったか。彼らが一般市民以上に影響を受けた事は確実だが、だからといって原子爆弾の結果、彼らが戦争終結を決定したとか降伏の必要性を認めたなどという事はおよそ言えない。
 国民の戦意は低下しており戦争を終結せねばならぬという認識に基づき戦争終結の道を探るべきであるという決定はすでに5月に最高戦争指導会議の席でくだされていた。平和を画策する重臣天皇側近のグループは1944年春からすでに動き出しており、岡田啓介海軍大将、米内光政海軍大将、近衛公爵、木戸侯爵などがそれで、彼らが東条内閣の倒閣にもあずかって力があった。」
 そしてポツダム宣言受諾の賛否をめぐる8月の御前会議で、抗戦派と和平派の双方が激しく対立していた。
 「原子爆弾の投下はポツダム宣言の即時受諾に反対する陸相と両総長の態度を変えるものではなかった」
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 島田雅彦「敗戦後の復興期、知識人のあいだでルネッサンス研究がなされ、自由にものを言い、チャレンジングな研究がなされる環境をつくろうとしましたが、上の顔色をうかがう儒教的な雰囲気がすぐに復活してしまいました」
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 1946年 ロックフェラー財団は、年次報告書を発表し、交問題評議会(CFR)への助成とアメリカの正当性及びルーズベルト元大統領の名誉を守るプロジェクトへの助成を強める事を書き記した。
 第一次世界大戦後に起きた歴史修正主義を封じ込め、ニュルンベルク裁判及び東京裁判の諸判決を守る決意を表明した。
 マッカーサーは、バターン半島の屈辱から、日本を完全武装解除して一切の武力を持たせない様にし、非武装中立としてアメリカ軍の管理下に置こうとした。
 国務省アメリカ軍首脳部は、対ソ戦略と日本の共産主義化防止の面から、日本に小規模な自衛軍を持たせ、軍需産業を再建させるべき考えた。
 マッカーサーは、未開国家に近い日本をアメリカ式民主主義で改造し、国連とアメリカ軍が安全を保障していれば、ソ連の攻撃はありえないとして拒否した。
 元旦 昭和天皇による人間宣言
 日本の保守層は、「国體護持」から、GHQのシーボルト外交局長に共産主義の蔓延を警戒する様に懇願した。
 『日本占領外交の回想』「共産主義とそれに染まった者を警戒する様に懇願した」
 GHQ内のユダヤ共産主義者は、日本を共産主義化し天皇制度を崩壊させる為に各業種の労働組合活動を協力に支援した。
 在日韓国・朝鮮人は、朝鮮人テロリストの遺骨を発掘し、義士として祖国で国民葬を行い、ソウルの孝昌公園に埋葬した。
 戦後の日本は、国家の補助金助成金などの財政支援が全くなく、何もない焼け野原から、どん底の生活から自分一人の才覚で生き抜かねばならない生命力(バイタリティー)があふれた時期であった。
 そこには、先送りも縮み志向もなく、負け犬根性もなく、甘えも言い訳も許されなかった。
 ソ連は、国際法を無視して軍事占領した北方領土を領土に編入し、居住していた日本人約1万7,000人を国外追放として日本へ移送した。
 歴史的事実として、世界は力こそ正義の弱肉強食の世界であり、軍事力を持たない弱者の正論は負け犬の遠吠えに過ぎない。
 軍事力を持たない弱者には、軍事力を持った強者の恩情でのみ諸権利が保障される。 
 1月 マッカーサーは、北方領土に関する訓令を日本政府に送り、同地帯をソ連の行政管轄下に置く事とした。 
 旧満州国興安省のモンゴル人官吏は、東モンゴル人民政府を樹立し、モンゴル人民共和国との統合を希望した。
 ヤルタ協定によって、外モンゴルは中国から分離され、モンゴル人民共和国の独立が承認された。
 内モンゴル自治運動連合会は、東モンゴル人民政府を吸収合併した。
 中国共産党は、内モンゴルを完全支配する為に中国人を幹部として送り込んだ。
 アメリカ陸軍犯罪捜査局(CID)は、旧中野学校グループが明治天王の曾孫である北白川宮道久王を千葉県に匿う計画があるとの情報をえて捜査を行い、8月までに全員を拘束して巣鴨に収監した。
 マッカーサー高級副官のボナ−・フェラーズ代将は、日本に親愛の情を持つ心強い知日派で、昭和天皇の戦争責任や天皇制度の取扱いに付いて外交官寺崎英成とキリスト教徒の河井道や渡部ゆりらから話を聞いていた。
 フェラーズ代将は、対日理事会事務局長となり、11月に退役して帰国した。
 フェラーズ代将に代わってマッカーサーの対日政策に強い影響力を持ったのが、カナダ人外交官で共産主義者のノーマンであった。
 ノーマンは、日本に敵意を持った知日派であり、日本で共産主義革命を起こそうとしていた。
 GHQの対日政策は、親愛を持った知日派のフェラーズ代将から敵意を持った知日派のノーマンに代わった事で、容赦なき過酷なものになった。
 その標的にされたのが、近衛文麿公爵であった。
 1月3日 イギリスのインド総督は、インド人の抗議運動に押されて、被告の死刑執行を停止する事を発表した。
 被告人が釈放されるや、インド人はニュ−デリーで釈放祝賀大会を開催して勝利を祝った。
 イギリスのインド軍総司令官オーキンレック大将は、「被告については問責しないが、イギリス軍に対する拷問、殺人の非人道的犯罪について、法的に基づいて裁く」と発表した。
 インド人は、これまでイギリス支配下で受けた非人道的拷問や虐殺に抗議してデモを行った。
 カルカッタ警察隊は、暴徒を鎮圧しようとして発砲して、民間人19人を殺害した。
 イギリス軍内のインド人将兵からも独立闘争に参加する者が増加して、イギリス軍との間で銃撃戦が始まった。
 1月4日 GHQは、日本政府に事前に連絡せずに、占領軍の権限で公職追放令を発表した。48年5月までに、「好ましからざる人物」として21万人以上を公職から追放した。
 日本人情報提供者は、国際正義の名の下に、戦争犯罪者や陸海軍軍人や民族主義者や国粋主義者らを告発した。
 民政局次長ケーヂィス大佐を中心としたニューーディーラーら民間人(多くがユダヤ人エリート)は、現実主義の軍人の対日政策を批判し、日本をマルクス主義で理想国家にするべく諸改革を断行した。
 対外諜報部隊(CIC)のソープ准将は、日本を共産主義化するべく日本共産党幹部等を釈放し、天皇制度を破壊する為に梨本宮ら皇族を戦犯容疑で逮捕しようとした。
 日本共産党や革新勢力は、国體を守ろうとする保守勢力を消滅させる為に、民政局に全面協力をした。
 昭和天皇は、藤田尚徳侍従長に、「これは私にも退位せよという謎でないだろうか。マッカーサー元帥がどう考えているか、幣原総理大臣に聞かせてみようか」と相談した。
 藤田侍従長は、返事にはイエスかノーしかなく、返答を迫れば勢いとしてノーが出る可能性があるとして、「なさらぬ方がよろしい」と奉答した。
 昭和天皇は、秘かに、歴代天皇の退位の先例や海外王室における退位の例を調べていた。
 敗戦後に退位した例として印象に残るのは、第一大戦後のドイツ帝国の崩壊であった。
 1月7日 アメリカ政府は、将来的に専制君主制である天皇制度を廃止に導くという「日本の統治体制の改革」を対日占領政策とする事を正式に決定し、マッカーサーに命じた。
 アメリカの最終目的は、アメリカがイギリス王政から独立して自由と民主主義を勝つ取った様に、日本人を天皇支配から解放して自由民にする事であった。
 つまり、アメリカの人工的「人民の正義」を日本の「民衆の正義」にする為に、道徳と良心と善意の規範である天皇制度を廃止して、約2000年受け継がれた伝統的国體(文明・文化・風習・習慣)を破壊する事であった。
 なぜ、アメリカが天皇制度を廃止しようとしたのか、国民世論が昭和天皇の処分と合わせて強く要求したからでもあるが、その根底にあるのはピューリタン精神が根強く作用していた。
 1月14日 佐渡島・旧高千村の海岸に、イギリス軍輸送機ダコタ号が乱気流に巻き込まれて不時着した。
 村長の服部確太郎は、「困っている人を助けるのは、この世の常道だ」と村人に、無私の精神あるいは惻隠の情を訴えた。
 閉鎖空間に生きる日本人は、逃げ出せない閉塞環境ゆえに「困っている者は相身互い様」という相互扶助の心があった。
 村人達は、5ヶ月前までは殺し合っていた敵であったが、ダコタ号搭乗員や在極東イギリス総領事ら8名の身の回りの世話を献身的に行った。
 「昨日の敵は、今日の友」とし、家族身内を殺された事を水に流してイギリス人達を助けた。
 島国の日本人は、大陸のように殺された同胞の復讐として惨殺しなかった。
 村人総出で、海岸に石を敷き詰めて滑走路を造った。
 40日後。ダコタ号は、無事に飛び立っていった。
 1月24日 幣原喜重郎首相は、マッカーサーを訪れ、侵略者との汚名を認め、世界の信用を恢復する為に、戦争を永久にしない事を表明すると提案した。
 1月25日 マッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛に「昭和天皇訴追せず」の書簡を送った。
 「天皇が日本帝国の政治上の諸決定に関与した事を示す……明確な証拠は何も発見されなていない。終戦時までの天皇の国事への関わり方は、大部分が受動的なものであり、補弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったという、確かな印象を得ている」
 「天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を引き起こし、その影響はどれほど、過大視しても、し過ぎる事はないであろう。天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を廃絶するならば、日本は瓦解するであろう」
 ソ連は、昭和天皇が個人として戦争に不賛成であり、戦争を早期に終結させようと為ていた事を全て知っていたが、昭和天皇を戦犯として被告席に座らせる事を要求した。
 もし。昭和天皇を裁判にかけ有罪にすれば、日本国民は激怒して天皇を守る為に内戦に発展する事は知っていた。
 アメリカ軍占領下で日本国民による内戦が起き鎮圧に失敗すれば、ソ連軍の日本占領の大義名分ができるからである。
 マルクス主義勢力は、日本に階級分裂的内戦を引き起こしべく、天皇の戦争責任と引責退位を訴えた。
 GHQは、日本に悲惨な〜イズム的内戦を起こさない為に、グルー国務次官らの意見を取り入れて、天皇を免責するかわりに東條英機A級戦犯14名に全責任を負わせた。
 マッカーサーは、日本を共産主義国にしない為に譲れる所は日本人を犠牲にしても譲歩し、ソ連共産主義勢力の横暴な批判を封じた。
 1月26日 日比谷公園での野坂参三帰国歓迎大会に、3万人以上のマルクス主義者とその支持者が参加して、反天皇の民主戦線樹立を求める声が広がった。
 民政局のフランクフルト学派ユダヤ人らは、アジアの共産主義化の為に中国共産党に次いで日本共産党の飛躍に期待した。
 一部の文化的知識人は、軍国主義化して侵略戦争に暴走した原因は日本文化にあり、日本文化の核心は日本語にあると告発した。
 日本を二度と軍国主義化させない為には、劣悪な日本語を廃止して高度な文化を持った欧米語にすべきべきであと主張した。
 彼らは、日本語放棄論者と言われ、母国語である日本語には愛着はなかった。 
 漢字を廃して、平仮名のみの言語にする。
 平仮名を止めて、ローマ字に統一する。
 西洋中心主義者・西欧至上主義者・西洋礼賛主義者らは、日本の国際化の為に、文化度の低い劣等言語である日本語を捨てて文化度の高い高等言語である西洋語を採用すべきである。
 彼らも、民族言語である日本語への愛着も関心もなく、それ以上に日本語を嫌い憎んでいた。
 その本心は、日本人である事を捨て、西洋人になりきる事を夢見ていた。
 西洋人になる希望を叶える為に、他人以上に努力していた。
 西欧語を公用語として、公の場での日本語の使用を減らす。
 第二公用語に、西欧語とすべきである。
 公用語候補は、第一に英語、第二にフランス語。
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 2月 昭和天皇は、戦争責任について藤田尚徳侍従長に胸の内を語った。
 「申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。──しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまった事は、誠に残念な事であった。ところで戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終わった。それができたくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止できなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問に一応の筋は立っているように見える。如何にも尤もと聞こえる。しかし、それはそうできなかった。申すまでもないが、我が国は厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。──だが、戦争を止めた時の事は、開戦の時と事情が異なっている──鈴木が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。──そこで私は、この上戦争を継続する事の無理と、無理な戦争を強行する事は皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった」
 藤田侍従長は、昭和天皇の胸の内で人のは打ち明けられない「御退位」への想いがあるものと推察しながら、聖断の経緯を拝聴した。
 GHQ政治顧問エマソンは命令に従って帰国した。
 日本を共産主義の防波堤にするべく、対日占領政策に携わっている左翼系ニューディーラーの追放が始まる。
 GHQ参謀長サザーランド中将の更迭。
 ケーディス民政局次長とユダヤ人ニューディーラーは、公職追放令として、政治家・官僚・教師・学者・報道関係者など20万6,000人以上の天皇主義者及び保守主義者らを軍国主義者として追放した。その穴埋めとして、逮捕収監されていた5,000人以上の共産主義者マルクス主義者を採用し、日本を共産主義化しようとした。特に、教育現場での反天皇マルクス主義教育を徹底させた。
 キリスト教会も、日本のキリスト教化の為に反神道教育に協力した。
 だが、「信仰の自由」で日本のキリスト教化は失敗し、逆にマルクス主義無神論が日本に広まった。 
 2月2日 ソ連は、南サハリン州設置に関するソ連邦最高会議幹部会令を発して、日本領北方四島及び千島列島と南樺太を不法占拠して自国領に編入した。
 日本のマルクス主義者は、ソ連不法行為を見逃し、国民が関心を持つと、本心からではなく、言葉巧みに口先だけでソ連を非難した。
 国家の事には関心を持たず、国家がどうなろうとも興味がなく、本気になってソ連共産主義者不法行為を非難する事はなかった。
 日本政府は、自国民の引き揚げに専念し、日本国籍を離れた朝鮮人樺太に置き去りにした。その置き去り行為が、犯罪とされた。
 日本国籍から解放された朝鮮人は、敗戦国の日本人引き揚げ者と同じ船に乗船する事を拒否し、戦勝国の権利として朝鮮人専用の帰国船を要求した。
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 2月3日 マッカーサーは、昭和天皇に厳しい処分を下し天皇制を廃止させようとする危険性のある極東委員会が同月26日から活動を始める前に、新しい憲法草案を起草する事を決断した。
 通化事件中国共産党軍と朝鮮人義勇軍南満支隊(後の北朝鮮軍)は、通化に集まっていた日本人難民約3,000人を虐殺した。
 中国共産党は、大陸を彷徨う日本人難民を皆殺しにするべく襲撃していた。
 国民党軍は、中国共産党との内戦に備える為に日本人難民を保護したが、それは内戦に利用する為であって人道的救済ではなかった。
 中国には、政治はあっても、人道や人権は存在しなかった。
 南満州か朝鮮に逃げてきた日本人避難民を、反日朝鮮人が襲撃して強姦と掠奪を繰り返していた。
 中国と朝鮮は、反日一色となり、日本人難民はソ連軍の攻撃と中国人、朝鮮人の襲撃を逃れて命辛々日本に逃げ帰った。
 満州や朝鮮で、多くの日本人が子供や老人に関係なく虐殺され、日本人女性が強姦された。
 そして、集団自決という悲劇が起きていた。
 中国人で日本人を助けたのは極々一部に過ぎず、大半の中国人は日本人を襲撃していた。
 朝鮮人も、また同様であった。 
 国際世論は、敗戦国日本に同情しないばかりか、自分で招いた罪による自業自得であり、報復は中国人や朝鮮人の当然の権利であると認めている。
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 2月4日 マッカーサーは、天皇制度を当面の間存続させる為に、「日本の憲法改正に関して守るべき三原則」(マッカーサー・ノート)という憲法草案に盛り込むべき必須原則を民政局のコートニー・ホイットニー局長に示した。
「1,天皇は国家の元首の地位にある。皇位世襲される。天皇の職務及び機能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
 2,国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の為の手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸空軍をもつ機能は、将来も与えられる事はなく、交戦権が日本軍に与えられる事もない。
 3,日本の封建制度は廃止される。貴族の権限は、皇族を除き、現在生存する者一代以外には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣う事」 
 民政局は、マッカーサー三原則に基ずくGHQ草案を日本政府に送り、自主的憲法改正を支持した。
 マッカーサーは、天皇制廃止を主張するソ連、オーストラリア、カナダそしてアメリカなどから「日本の国體」を守るべく憲法改正を急がせた。
 日本共産党第5回大会は、二段共産主義革命路線を宣言した。「日本共産党は、現在進行しつつある、我が国のブルジョア民主革命を、平和的に且つ民主主義的手法によって完成する事を当面の目標とする。……党は暴力を用いず、日本における社会の発展に適用せる民主主義的人民共和政府によって、平和的教育的手段をもってこれを遂行するものである」
 マルクス主義者は、高等教育を受けて教諭資格取得者が多いだけに、教育現場に立って歴史・伝統・文化を断絶させる皇国教育否定・民主教育礼讃の戦後教育を行った。
 民政局は、教育改革として、奴隷制社会における階級闘争史観を教えるマルクス主義教育者を支援した。
 2月7日 イギリスは、ニューデリーで対日戦勝祝賀パレードを挙行したが、インド人は戦死したインド国民軍と日本軍への弔意を表す為に弔旗を掲げ店を閉めた。数万人のインド人は、インド国民軍旗や日章旗を振りながら抗議デモを行った。
 2月11日 紀元節。日本が誕生した記念日。GHQは、戦時国際法を無視して、戦争権と軍隊保有権を放棄した占領憲法草案を幣原喜重郎首相に手交した。
 2月13日 マッカーサーは、日本が世界で二度と犯罪を起こさない様にする為に骨抜きにするべく、主権在民に基づく象徴天皇制戦争放棄を日本に押し付けた。世に言う、マッカーサー草案である。
 日本を無力化する案文を作成したのは、共産主義信奉者のニューディールユダヤ人達であった。彼等の幾人かは、ソ連のスパイとして、スターリンの指示で動いていた。
 2月19日 昭和天皇の、足かけ8年半に及ぶ全国巡幸が始まる。
 群衆の中に共産主義テロリストが紛れ込んで、昭和天皇の命を狙う恐れがあるとして危惧された。
 昭和天皇は、国民から戦争責任としてどんな仕打ちをされるか分からなかったが、国民と直接触れ合う為に警備を最小限に為る事を望んだ。
 2月22日 初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンの誕生日。 日本政府は、戦争に負け軍事占領された敗北者の屈辱を甘受して、自由意志による独自の改革草案(松本案)を破棄して、強制されたGHQ案に沿った新憲法を作成する事を閣議決定し、発表した。
 2月23日 山下奉文は、軍服も階級章も名誉も全て剥奪され、囚人服を着せられたままで、馬泥棒並みの一重罪犯としてリンチ的縛り首で処刑された。
 山下奉文遺書
 1,日本人が倫理的判断に基づいた個人の義務履行。
 2,科学教育の振興。
 3,女子の教育。
 4,次代の人間教育への母としての責任。
 1959年 処刑された他のB級・C級戦犯とともに靖国神社に合祀された。
 2月25日 読売報知新聞は、AP電として「多くの皇族方も陛下の御退位に賛成だという。東久邇宮もその一人だという」と報じた。
 2月26日 ワシントンに、占領政策における最高決定機関として極東委員会(参加11ヶ国)が置かれ、第一回会議が開催された。
 2月下旬 昭和天皇は、極秘に、宮内省御用掛(通訳)の寺崎英成に対して、退位問題でマッカーサーの真意を探るように下命した。
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 3月2日 アメリカの命令に従って、憲法改正の3月2日案を日本語で作成した。
 それが、第九条の平和憲法日本国憲法である。
 アメリカの支援を受けていた鈴木安蔵高野岩三郎マルクス主義者は、将来において天皇制度を廃止する為に「国民主権」「象徴天皇制」「第九条」の平和憲法改憲派から守るべく革新系の護憲団体に参加し、理論的指導者となった。
 なぜ民間の護憲団体に天皇制度廃止論者が多く参加しているかは、この為である。
 彼らが目指した共和制とは、君主制度を破壊した、ソ連中国共産党一党独裁体制による民主的共和国である。
 GHQ内の反共産主義派は、天皇制度を守り一定規模の軍隊を持たせる為に保守派を支援し、右翼や右派を利用した。
 この後、平和憲法である日本国憲法の改正を巡って保守派と革新派は激しく対立した。
 3月14日 GHQのバーナード少佐は、モーガン国際検察局捜査課長に宛てて「岸は東京裁判で裁かれる第一グループに入れるべきだ」という報告書を送った。
 3月15日 キーナン国際検察局長は、A級戦犯被告の選定を進める執行委員会で、「状況が許すなら、東条内閣の閣僚すべてを被告にしてほしい」と語った。
 3月20日 寺崎英成は、マッカーサーの軍事秘書官ボナ・フェラーズから晩餐に招待されて、妻グエン・ハロルドと娘マリ子を伴ってフェラーズ邸を訪れた。
 グエンはフェラーズの遠縁に当たり、寺崎とフェラーズも親しい関係にあった。
 寺崎は、フェラーズに、退位問題でもマッカーサーの本心を聞いた。
 フェラーズは、退位に関して話し合った事はないが、マッカーサー元帥は昭和天皇を戦犯に指名すると日本は混乱に陥って占領軍を増強する必要があると、ワシントンに報告した事があると答えた。
 寺崎は、マッカーサーに「御退位を希望せず」との表明を願えまいかと提案した。
 フェラーズは、言葉ではなくジェスチャーで無理であると答えた。
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 3月27日 戦争調査会、第一回総会。幣原喜重郎首相が、総裁に就任した。
 幣原喜重郎首相は、戦争調査会の目的を、開戦に至った原因を探究して二度と同じ失敗を繰り返さない為にする事であり、国際法違反を行った戦争犯罪者の追及や敗戦の原因を調べて次の戦争で勝利する事ではないと考えていた。
 戦争調査会は、開戦原因の調査を重視する68項目のを決定した。
 ソ連やオーストラリアなど昭和天皇処分など厳罰を要求する連合国は、「戦争源員の調査などは東京裁判に属するもの」として、日本による自主裁判に猛反対していた。





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