☂14:─1─中華人民共和国樹立。中国共産党とウィグル人大弾圧。フルブライト教育交流計画。1949年~No.50No.51No.52 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 フルブライト奨学金制度概要
 フルブライト・プログラムの歴史
 フルブライト・プログラムは、第二次世界大戦終了直後の1945年、「世界平和を達成するためには人と人との交流が最も有効である」との信念のもとにウィリアム・フルブライト上院議員が米国議会に提出した法案に基づいて発足した、米国と諸外国との相互理解を目的とする人物交流事業です。
 日本では1949年から1951年まで、ガリオア・プログラム(GARIOA/Government And Relief In Occupied Areas)で約1,000名の日本人が米国へ留学しました。
 日米講和条約を控えた1951年8月に当時のアメリカ合衆国大使ウィリアム J. シーボルト吉田茂外務大臣との間で、日米相互の人物交流に関する覚書が交わされ、翌1952年に米国政府により在日合衆国教育委員会が設立され、ガリオア・プログラムを継承する形でフルブライト・プログラムとしての人物交流が始まりました。
   ・   ・   ・   
 戦後の高学歴出身知的エリートは、親米派で占められ、対米政策にはアメリカの意向が反映されている。
   ・   ・   ・   
 GHQによる占領政策におけるフルブライト教育交流計画、日本人の留学制度は、友人としての友好の証ではなく占領後に対日性格という政治的意図で行われていた。
   ・   ・   ・   
 1949年 平和問題懇談会結成。新世代の左翼的リベラリストである丸山真男清水幾太郎久野収らと旧世代の保守的リベラリストである和辻哲郎津田左右吉安倍能成り、田中耕太郎、大内兵衛らが、岩波書店雑誌「世界」編集長・吉野源三郎の呼びかけに応じて平和問題懇談会に参加した。
 吉野源三郎は、戦前、日本共産党との関係で検挙され刑務所に入れられていた。
 清水幾太郎久野収らは、雑誌「世界」を通じて左派社会党、総評、日教組との連携を深め、平和問題懇談会を親ソ親中国共産党に誘導してマルクス主義的政治闘争の中核とした。
 GHQ内の左派エリート達は、日本の再軍備を阻止して弱体化させ、天皇制度を廃絶して共産主義化するという初期の目的を完成の為に、日本共産党と左派系社会党の間を取り持ち、平和問題懇談会を支援していた。
 保守的リベラリストは、平和問題懇談会が急速に左傾化して政治闘争にのめり込む事に嫌気をさして去って行った。
 多くの知識人は、その事実を知らず、平和問題懇談会を新しい時代の叡知としてその発言や行動に影響された。
 中国共産党政府は、戦時中に独立した東トルキスタン共和国を軍事占領し、ウィグル人の分離独立派への大弾圧を開始した。
 中国におけるナショナリズムとは、中国中心の中華思想もとずき、臣下の礼をとる者は優遇し、敵対する少数民族を殲滅すると言うものである。
 金門島をめぐる古寧島戦役。台湾逃げ込んだ中国国民党を救った、元陸軍中将。
根本博
   ・   ・   ・   
 米ソ対立の冷戦により、日本国内にも天皇制度打倒の共産主義勢力が支持者を増やしていた。
 マッカーサーは、日本での暴力的人民革命を阻止して天皇制度を中心とした秩序を維持するべく、GHQ内の共産主義者を要職から外し、日本政府に対して日本共産党員と同調者の公職追放を命じた。
 レッドパージで、約1万人が追放された。
 G2(参謀本部)は、中国やシベリヤからの復員者の中に共産主義に洗脳された者が紛れ込んでいる事を警戒して、復員船が入港する港湾に日系アメリカ人兵士からなる特捜隊員を派遣した。
 GHQは、日本国内に潜伏している共産主義者の炙り出しの為に、公職を追放していた憲兵隊、中野学校出身者、特高など旧公安関係者を総動員した。
 GHQ内の共産主義者は、思想信条の自由や結社の自由は平和憲法で国民の権利として保障されている以上、共産主義の教育を受けたとしても犯罪を起こしていない限り直ちに逮捕するべきではないと反対していた。
 アメリカとしても、冷戦とは言っても、ソ連が国連の常任理事国である以上は過度の刺激を与える事には慎重であった。
 日本共産党幹部と主要党員は、日本から中国共産党政府へと亡命した。
 それ以外の共産主義者は、社会復帰して役所や企業に潜り込み、中国共産党と亡命日本共産党組の指導を受けながら労働運動の中核を担った。
   ・   ・   ・   
 1月 ソ連は、日本共産党を支援して共産主義化する為に、シベリアの強制収容所で洗脳した日本人兵捕虜6,000人以上を日本に送り込んだ。総選挙で、共産党は35議席を獲得して、大躍進を遂げた。さらに、洗脳した日本人兵士捕虜十数万人を帰国させた。
 共産主義勢力は、無個性に近い日本人を効率よく洗脳していた。
 左翼・左派は、強力なネットワーク網を建設し、助け合うという補完共生社会を破壊し、人心を堕落させ、体制を崩壊させ、民族を死滅させる為の陰謀を巡らした。彼らの眼中には、無国籍人民のみがいて、日本国籍日本人は存在しなかった。彼らは言う、「日本は、日本人だけの日本ではなく、其処にいる全ての人民のものである」と、そして日本国籍に誇りを持たず、日本国籍を憎悪している。
 マルクス「その国の新聞社一社を味方につける事は、その国に数個連隊を常駐させるに等しい」
 シベリア抑留と洗脳教育は明らかな国際法違反であり非人道行為であったが、共産主義者は如何なる法律や良心よりも科学的主義主張を優先した。
   ・   ・   ・   
 2月28日 蒋介石は、台湾に逃れて中華民国を樹立し、親日派など反対派を弾圧して5万人以上を虐殺した。2・28事件である。
 さらに、台湾を完全支配する為に、島内各地で伝統的三光作戦を実行して20万人以上を虐殺したといわれる。
 毛沢東は、小作人や労働者を圧制者から解放する共産革命を成功させる為に、数百万人の富農や資本家を人民から搾取した罪で虐殺し、全私産を没収した。
 中国化した国・地域では、おびただしい血が流された。
 歴史的事実として、中国を中心とした東アジア世界では、体制による大量の流血がごく当たりまえに起きていた。
 そして、反対派に対する皆殺しは日常茶飯事的に起きている。日本の様な生温さは、そこには存在しない。
   ・   ・   ・   
 3月 マッカーサーは、イギリスの新聞記者に、沖縄をアメリカの半永久的軍事基地として使用して東アジアの平和を保障するので、日本を非武装として「太平洋のスイス」なるべきだとの持論を話した。
 沖縄における日本の主権を取り上げ、日本から「切り離し」て独立させるべきだと。
 3月7日 ドッジ・ライン。デトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジは、日本経済の自立と安定の為に財政金融引き締め政策を勧告した。
 吉田茂首相は、歳出削減の勧告に従い、予算削減と行政改革を断行して、政府関係職員18万人を解雇した。
 白洲次郎「敗戦の後、政策的には左翼的にならなかったら、この国の治安は維持していけない。だから吉田茂という人は、保守反動であるにかかわず、性格的に全然合わない事を沢山やっていますよ」
 アメリカは、冷戦体制として、日本をアジアに於ける共産主義勢力に対する防壁にするべく占領政策を転換して、経済復興を強く求めた。
 皇室に対する忠誠心の強い吉田茂は、保守派であったが、国体を護持する為に官公労に蔓延っている左派勢力を切り崩すべくあえて革新的政策を先取りして実行した。
 無用な議論で時間を無駄にする政策能力のない党人派を避け、国體を破壊しようとする革新系エリート官僚を排除し、手足として仕える保守系官僚を集め政治家として育成した。
 吉田茂は、昭和天皇への祝い事がある時は必ず「臣茂」と自らを称していた。
   ・   ・   ・   
 4月25日 日本で、第一回平和擁護者日本大会が開催され、共産主義者だけではなく幅広い市民層が参加して「平和をまもる会」が結成された。
 常任委員会パリ書記局は、翌50年5月に国際的な階級闘争の重要性を理解していないと激しく非難した。
   ・   ・   ・   
 5月 GHQは、日本軍元兵士と一般人の約37万人がソ連に強制連行され奴隷的な過酷な重労働をさせられ、虐待を受け栄養失調と疫病で5万人以上が死亡しているという、マッカーサー・レポートをワシントンに送った。
マッカーサー・レポート』(日本人兵士捕虜の洗脳)「各捕虜の生命及び政治的未来を再構築すべく考えられた大規模な遠心機械。それは日本人の思考形態と思考の慣習に、巧みに適用された。捕虜達の状況やその発展段階にベースを合わせ、それは収容所内で日本人共産主義者の1集団によって履行された。こうして共産主義を信奉し、あるいは便宜上、共産主義者へ帰依した仲間の捕虜達は、扇動家と情報提供者という不快な任務を兼務させられた」
 GHQのG2(参謀第二部)は、ソ連の捕虜収容所や中国共産党の撫順戦犯管理所における共産主義再教育という洗脳教育の実態を正確に把握し、帰還した日本人の中に洗脳された日本人工作員が多く含まれているとして追跡調査を行った。
 国際連合は、大国であるソ連に配慮し、日本人元兵士は軍国主義者であり当然の報いであるとして、同報告書を黙殺した。
 国際赤十字も、実態が確認できないとして、ソ連の報復的大量殺戮から目をそらした。
 ソ連中国共産党は、日本人元兵士を反天皇反日共産主義闘士にするべく洗脳教育を行い、敗戦で混乱している日本に送り込み始めた。
 洗脳された日本人は、ソ連共産主義のスパイとして活動を開始し、特に北海道と東北に駐屯するアメリカ軍の情報を流した。彼等は、日本とアメリカの関係を悪化させる労働運動を盛り上げた。
   ・   ・   ・  
 夏 中国共産党劉少奇は、極秘でモスクワを訪問し、ソ連の変わらぬ支援を取り付ける為にスターリンと秘密会談をおこなった。
 スターリンは、アジアでの人民解放運動には、毛沢東の人民戦争万能論は有効であると認め、武力闘争を支援する事を確約した。
   ・   ・   ・   
 7月 ソ連は、北方領土に居住する日本人1万7,000人に対して、日本に帰国するか、ソ連国籍を取得してロシア人として留まるかの、自由選択を与えた。
 本心は、完全な領土とする為に、日本人全員を日本本土に追い出す事であった。
 ソ連は、白人至上主義の差別主義者として、非白人の日本人を嫌っていた。
 事実。ソ連国内では、ロシア人以外への差別と弾圧が、共産主義の名の下に公然と行われ、大量の非ロシア人が処刑されるか流刑か、故郷から強制的に遠地へと移住させられていた。
   ・   ・   ・   
 9月2日 GHQの参謀2部(G2)は、「日本の刑務所などにおける死刑執行」という報告書を提出し、日本の絞首刑は絶命までに時間掛かり苦痛を長引かせる不適切なものであると指摘した。
 絶命するまでに約14分かかる事は「残虐な刑罰を禁じた憲法36条に違反する」とし、アメリカの絞首刑を念頭に置いて「近代的かつ人道的な方法に変えるべきだ」と提言した。
   ・   ・   ・   
 10月 アメリカは、対日講和条約の原型を作り、11月に対日講和を検討中であると発表した。
 講和条約締結を、自由・民主主義の西側陣営だけとする単独講和か、社会主義の東側陣営を含む全面講和にするかで議論が活発化した。
 10月1日 毛沢東は、北京で中華人民共和国の成立を宣言した。
 中国共産党は、スターリンソ連をモデルとして暴力と死による恐怖の一党独裁体制を採用した。
 中国民族と中国人は、この時に誕生した。
 それ以前の中国人は、中華民族の漢族支那人であり、さらにその前は清国で漢族清国人であった。
 毛沢東は、黙認してきたモンゴルやチベット自治政府を廃止し、新生中国に統合する為に、50以上の弱小部族を民族に格上げして党員資格を与えた。
 中国共産党は、チベットは中国の領土であると宣言した。
 毛沢東は、スターリンに新疆を中国領と認めさせ、東トルキスタン共和国中国共産党支配下に置く事を承認させた。
 東トルキスタン共和国の政府要人5名が乗る飛行機が、イルクーツク付近で墜落して、東トルキスタン共和国は指導者を失って混乱した。
 中国人民解放軍は、東トルキスタン共和国に侵攻して、抵抗する政府軍を殲滅して軍事占領した。52年までに、ウイグル人抵抗勢力を徹底的に弾圧した。
 中国共産党は、反共産主義者少数民族独立派を弾圧し数千万人を反革命分子として処刑し、人間の欲を満たす為の現世利得を説く世俗宗教以外の普遍宗教と民族宗教は破壊した。
 大陸社会で許されるのは、生きるか、死ぬか、奴隷になるか、その三者のみである。
 長江、淮河漢水、海河の堤防が決壊して、4,450万人が被災したが、死亡者は不明である。
 共産主義者による、反共産主義勢力への大弾圧が始まり、冤罪であろうと構わずに合法的大虐殺が各地で行われた。
 共産主義革命は、大流血の上に築かれる。
   ・   ・   ・   
 毛沢東は、各地の国民党残党や軍閥勢力を根絶し、中国共産党内の民主派など非共産主義勢力を粛清した。
 公開処刑された者は、70万人以上であった。
 中国共産党に批判的な在野の知識人や学者を炙り出す為に、共産主義の欠陥や提言を歓迎するとして「百家争鳴」を呼び掛けた。
 中国共産党は、言論弾圧として、自由に発言できると信じて声を上げた50万人以上の知識人や学者を「右派」「反革命分子」として失脚させ、追放か処刑した。
 ファシストの国民党は、中国共産党とは違って、言論の自由や結社の自由を暴力行為を行わないという条件付きで反対派を受け入れていた。
 中国共産党は、穏やかな口ぶりで和やかな顔をして握手を求めても、その裏で容赦ない粛清や虐殺を行っていた。
 毛沢東は、『三国志』『水滸伝』よりも『資治通鑑』を愛読し、共産主義より中華思想中国共産党を指導し人民を恐怖で支配した。
 中国共産党の原動力は、反宗教無神論共産主義ではなく中華思想における天帝の命であり、政治思想ではなく個人崇拝である。
 中国共産党の政策は、イズム的政治ではなく、党指導者の私的な意向である。
 中国が礼節と信義の国と本気で信じている者は、歴史が理解できない無教養者と言える。
   ・   ・   ・   
 中国人は、同胞の中国人を虫けらのように殺害していた。
 日本軍が戦った中国人とは、自分の利益の為なら同胞を虐殺する冷血漢の中国人であった。
   ・   ・   ・   
 海の国境線。
 中国共産党政府は、南シナ海へ領土を拡大する為に、台湾東岸からフィリピン西岸を下ってインドネシア、ベトトナムの沖合からマレーシア及びボルネオ島まで侵犯する広範囲な境界線として「九段線」を主張した。
 降伏した旧敵兵力を消耗する為に、南シナ海の小島や岩礁や砂洲へ派遣した。
 同胞とは言え、かっての敵を許して仲間にするほど中国人は寛容ではなかった。
 自分の目的・利益の為ならば、敵だった中国人を皆殺しにしても痛痒を感じなかった。
 自己欲のみが、中国人を突き動かしていた。
   ・   ・   ・   
 10月12日 読書新聞 「若き魂の手記
 生き残つた人々に希(こいねが)う
 『きけわだつみのこえ』
 竹山道雄
 この本は『はるかなる山河に』の続編ともいうべきもので、戦歿学生の手紙や手記をあつめたものである。いかなる創作も報告も、あの戦争の無慈悲とそれについに蹂躙(じゅうりん)されつくされなかつた人間性を記して、これほどはげしい感動をあたえるものはない。これはこの戦争が後世にのこした遺書であり、もしいつかこれが忘れられるような(あるいは禁書になるような)時代がきたら、それこそたいへんである。
 おどろくべきことであるが、戦争中あの思想強制の下で、表面にはもはや何の異分子もなくなつた時代に、青年たちがこういうことを書きつづつていた。その中の一部のきびしい検閲をくぐつて救いだされたものがここに世に出ることになつたのである。基調となつているのは、時代の風潮とはまさに対蹠(たいせき)のヒューマニスティックなものである。
 この戦争が一部軍閥がおこした無名の師であること、狂的なとうてい見込みがないものであること、日本精神というわれたものへの反感、軍内部の腐敗、平和と理性と・・・。このような戦後になつて喧(かまび)すしく叫ばれていることは、もうはつきりと分かつていたのである。
 ただそれが胸をえぐるような真実味をもつて、おそらく人のいないところで(ある手記には、自分はいまこれを便所の中で書いている、とある)ひそかに記されたのである。
 『俺は気が狂いそうだ。・・・世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ。大義の為の戦、大義なんて何だ。痴者の寝言にすぎない。宿命と感ずる以上、自分は戦に出ることは何とも思はない。然しそれで宿命は解決されるであろうか。世の中はふたたび平和をとりもどせるであろうか』
 手記の中で戦争謳歌(おうか)にちかいものはこの集からのぞかれたということであるが、私のしるかぎり、学生でそういう気持ちの人はほとんどなかつた。多くの人が右のような苦しみをしている。
 
 私は限りなく祖国を愛するけれど
 愛すべき祖国を私はもたない
 深淵(しんえん)をのぞいた魂にとちては・・・

 こうした叫びが、自分が肯定することのできない義務を課せられて死に追いやられてゆく若い人々によつて発せられているということが、この本を真に悲劇の書たらしめている。その絶望や諦念のさまはほとんど正視するにしのびず、読むにたえない。そして、もつと人間的な家族におくる言葉は涙のほかないものである。
 この人々の霊の安からんことを祈りながら、本を伏せてようやくうすれかけた一頃の気持をまたあらたにした。悲嘆や痛憤がかえつてきた。しかし、あれからもう4年たつせいでもあろうか、そこに希望もないではなかつた。──これらの文字は死んだ人が書いておいたものだが、これと同じ試練の中にあつてこれにおとらぬ高い精神をもちつづけた人々で、生き残つた人々もたくさんあるにちがいない。そういう人々の声はいまどこに消えてしまつているのだろう?
 それはやはり戦時中のように表にはでないでいる。いま世に聞え声はどうも空疎で、この本がうつたえるような真実のひびきは感ぜられぬ。前の大戦後ドイツ人はあれほど戦争を呪詛(じゅそ)し平和を誓つていたのに、20年たつとそれをすつかり忘れてしまつた。あの轍(てつ)をふまないためには、ただの叫び声はあまり当てにならない。
 この本は、あの時代にもかくれたところで真実が考えられていたことを示しているが、いま生き残った人々はきつとやはり目につかぬところで黙々と考え感じながら、よりよき社会と人間性のために働いていることだろう。それこそ平和のための本当の力になるだろう。この本は、若い日本人があれほどの悪条件の中にあつてもなお正しい判断をもつていたことを証拠だてているのだから、と思うのである」
   ・   ・   ・   
 11月 劉少奇テーゼ。北京で、世界労連のアジア・大洋州労働者組合会議が開催された。劉少奇は、流血を伴う武装闘争こそが人民を解放する唯一の方法であると、毛沢東路線の支持を要請した。
 劉少奇共産党に指導されて、敵とよく戦う事の出来る、強力な人民解放軍とこの軍隊の活動の拠り所とする根拠地を建設しなければならないとともに、敵の支配地域の大衆闘争との武力闘争とを結び付けなければならない」
「我々革命家は白色テロの支配する都市で、帝国主義とその手先から追求されて、まったく根を下ろす事が出来なかった。我々革命家は、やむを得ず、農村や山間に逃れ、武装によって自己の生存を守らなければならなかった。だが、この様な武装自衛闘争が、もし、単純な防衛だけであったならば、それは必ず、帝国主義とその手先によって消滅させられてしまったであろう。だから、我々は、農村の農民やその他の帝国主義に反対する全ての人民と密接に結び付いて、あらゆる可能な方法によって帝国主義とその手先の数知れない包囲攻撃を打ち破らなければならなかった。つまり正規の革命軍を組織して帝国主義とその手先の軍隊に撃滅を与えなければならない」
 11月16日(〜23日) 北京で、世界労働組合連合会(世界労連)執行局主催でアジア大洋州労働組合会議が開催された。参加国は13ヵ国で、117人が出席した。
 指導したのは、全ソ連労働組合中央理事会のリノヴィエフであった。
 中国共産党は会議で、非合法の暴力的武闘闘争を前面に押し出したが、同時に幅広い中間派人民の支持を得る為に平和的な非暴力的合法活動を行う事とした。
 劉少奇「植民地・半植民地の帝国主義者は、完全に武装した匪賊であって、彼等はその支配地域の人民を支配する為に強力な兵力を持っている。我々は、この兵力を過小評価してはならない。このような地域においては、労働者階級と胊圧迫人民が、上述の情報以外の最も容易な、楽な方法で帝国主義者とその手先きの弾圧を打倒し、人民民主主義国家を樹立する事は出来ない……大部分の植民地・半植民地においては、民族解放闘争の主要な闘争形態は武力闘争である」
 中国共産党は、共産主義革命を日本を含むアジア全体で展開する為に、極東コミンフォルム連絡局を北京に設置した。
 アジアの共産化が成功するかどうかは、日本の共産化にかかっていた。
 故に。中国共産党は、日本での暴力的共産主義革命を目指していた。
 アジアに於ける戦争の元凶は、中国共産党の存在であった。
 戦前の軍国日本は、中国共産党の謀略に振り回されて滅亡した。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、日本を潰そうとしている。
   ・   ・   ・   
 11月26日 第9回昭和天皇マッカーサー会談。マッカーサーは、連合軍は数年間日本に駐留する事を明言した。
   ・   ・   ・   
 11月29日 コミンフォルムは、ハンガリーで第3回会議を開催し、平和擁護闘争並びに戦争放火者反対闘争に関する決議を行い、国際共産主義運動を統一し非共産主義団体関係者を平和運動を通じて共鳴者とする運動方針を採択した。
 共産主義運動を平和の為の闘争と位置付け、共産主義者を平和活動家と呼ぶ事とした。
   ・   ・   ・   
 12月16日 駐日ソ連代表部G局(部長兼局長ディェリェヴャンコ中将)は、日本共産党に対して革命闘争指令1号を発令して武装蜂起準備を指令した。
 日本共産党は二つに分裂し、野坂参三の「占領下平和革命論」を支持する穏健派と武力革命路線を主張する過激派が激しく対立した。
 「日本におけるNKVD(内務人民員部)は、極東コミンによって、G局に割り当てられた仕事に基づく機関であり、同機関の組織・活動について、日本共産党に知らせる義務はG局にはない」
 日本共産党は、国際共産主義組織内では極東における一下部組織で、中国共産党よりも下にあって独自裁量権は認められてはいない、惨めな組織であった。
   ・   ・   ・   




   ・   ・   ・