🎹12:─1─華北大水害・華南大洪水。第二次上海事変と国際連盟理事会。中国共産党の江西省瑞金大虐殺。1932年〜No.50No.51No.52 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1932年 ハンス・ケルゼン(オーストリア法学者)「国際政治の場で大きな役割を果たしている攻撃(侵略)及び防御(自衛)戦争の区別は、戦争は不法への対処としてのみ国際法上許されるという……法学的観点からいえば、無意味あるいは極めて限定された意味しかない。被った不法への対処としての戦争は、攻撃戦争としても許されるからである。攻撃はそれ自体で違法なわけではない。一定の状況でのみ違法となるに過ぎない」(『国際法における不法と不法の帰結』)
 国際法の常識として、「自力救済を目的とした侵略戦争自衛戦争として不法行為とは認められない」とされた。
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 1932年 華北で大水害。水害の被害は、15省。旱魃の被害は、10省。蝗(イナゴ)害の被害は、10省。華中で冷害と旱魃。被災者は、合計で6,000万人以上。
 蒋介石は、被災地救済をよそに、共産軍討伐の為に100万人以上の兵士を強制動員し、巨額の戦費を調達する為に被災者からも厳しく税を徴収した。そして、被災者への救済にあてるべき物資を、戦争の勝利を優先して戦場へと送った。
 文官は武官より特権を持つだけに不正腐敗しやすく、塗炭の苦しみに喘ぐ農民から奪えるものは何でも奪った。
 国際的救済物資があったとしても、政府、軍、党の特権階級、中間部、下部組織の順に搾取されて、救済すべき被災者に行き渡る事はなかった。
 湖北省の内戦では、35万人以上が殺され、350万人以上が家を失って流民化した。
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 1932年1月3日 関東軍は、イギリス・アメリカ・フランスの好意を踏みにじり撤退要請を無視して、錦州を占領し、全満州を制圧した。
 1月7日 対日強硬派のスチムソン国務長官は、軍国日本に対して不戦条約に抵触する手段で現状を変更することは承認できないという、スチムソン・ドクトリンを通告した。
 フーバー大統領は、スチムソン国務長官が提出した対日経済制裁案は、不戦条約において戦争行為に匹敵するとして退けた。
 反日アメリカ世論は、フーバー大統領の失業対策と対日融和政策に不満を募らせていた。
 ユダヤ系国際報道機関も、中国の宣教師らの偽情報をもとにして反天皇反日的記事を掲載し、軍国日本を破滅へ追い詰めようとしていた。
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1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件(東京義挙)。朝鮮人テロリストは、国家元首大元帥・祭祀王の昭和天皇の暗殺に失敗した。
 蒋介石は、フランス租界のキリスト教会に潜り込んでいた朝鮮人テロリストらを支援していた。
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 1月9日 上海の中国政府系新聞『民国日報』は、「不幸にして僅かに副車を炸く……天皇暗殺失敗は東アジアの平和回復の挫折」という落胆記事を掲載し、朝鮮人テロリストによる天皇暗殺が失敗した事は残念であると報じた。
 国民党政権は、朝鮮人テロリスト組織の大韓民国臨時政府を保護し活動資金を提供していた。
 朝鮮人テロリストのアジトは、上海フランス租界内の反天皇反日キリスト教会にあった。
 1月25日 国際連盟理事会。新しく中国代表となった顔恵慶は、対日批判を強めた。 が。参加国代表団は、日本に同情して対日批判を取り上げることなく受け流した。
 1月28日 日本の戦争犯罪とされている、第一次上海事変が勃発する。
 軍国日本は、朝鮮人テロリストを庇うファシスト国家中国(国民党政権)に対して制裁を加えるべく上海の中国軍を攻撃した。
 国際連盟理事会議長ブリアン仏外相は、満州問題の討議を一端打ち切り調査団の報告を待つという宣言を行い、日中両国代表部に議長宣言案を手渡した。
 日本代表部は、日本寄りの宣言案に異存がない事を伝えた。
 1月29日夕方 国際連盟理事会は、第一次上海事変勃発という突然の知らせを受けて緊急理事会を開いた。
 欧米列強にとって、満州は権益のない辺鄙な土地ゆえに日本側に同情して有利な条件で問題を解決しようとしたが、中国権益が集中する上海はそうはいかなかった。
 日本は「排日暴動が激化して命の危険を感じた日本人居留民が軍隊派遣を要請した為の自衛行動」と説明したが、欧米列強は自国の中国権益の侵略であると見なした。
 中国代表部は、世紀の偽造文書『田中上奏文』を広めて、軍国日本は満州や上海はおろか全中国を侵略して大帝国を建設しようとしていると宣伝した。
 反日的国際報道機関は、一斉に日本バッシングを始めた。
 その急先鋒となったのが、中国で布教活動をしている宣教師達であった。
 第一次上海事変によって、日本の不利は決定的となった。
 劣勢にあった中国代表部は、国際的反日感情の盛り上がりを利用して反撃に転じた。
 伊藤述史「何か言うても日本側の説明を聞かない」
 国際連盟理事会は、中国側の要請を受け入れ、日中紛争を規約第15条で取り扱う事を決定した。
 満州問題は第一次上海事変とセットとして協議の対象となり、全会一致ではなく多数決で採択する事となり、日本は不利な立場に追い詰められていった。
 もし、規約第16条によって日本軍が侵略と認定されるや制裁の対象とされ、軍国日本は平和と秩序を破壊する侵略者として国際連盟はおろか全世界の敵とされる事になる。
 軍国日本は、上海の日本居留民約2万人を中国軍と中国人暴徒から保護し、昭和天皇暗殺集団である朝鮮人テロ組織・大韓民国臨時政府のアジトがある上海を、自衛行為として攻撃しただけである。
 小国諸国は、日本側の熱弁による説明で、日本軍の軍事行動は領土拡大の侵略戦争ではなく、自国民現地保護目的の自衛戦争である事を理解した。
 そのに第一上海事変が勃発した事で、小国諸国はおろかイギリスやフランスも日本側の二枚舌と疑い態度を硬化させた。
 小国諸国は、中国側の要請に従い、日中紛争処理を連盟規約第11条から第15条に切り替え、審議を日本寄りの理事会から反大国意識の強い総会に移す事を勧告した。
 国際連盟は、日本側に厳しい19国委員会を設置した。
 2月 スターリンは、プラウダやイズヴェスチャなどに「日本人は侵略者で人でなしである」との報道をさせると共に、日本共産党やプロレタリア活動家らに天皇制度打倒を指令した。世に言う32年テーゼである。
 2月16日 国際連盟理事会の日中両国以外の12ヶ国は、スチムソン・ドクトリンと同旨の連盟規約と不戦条約に反する現状変更は認めないとする対日通告を軍国日本に通告した。
 欧米列強は、昭和天皇が暗殺されようが日本人居留民が虐殺されようが、自国の中国権益がある上海を攻撃する事は絶対に許さなかった。
 国際世論において、「日本=加害者。中国=被害者」という構図がかたまり、これ以降、日本寄りの発言は激減した。
 中国側は、軍国日本を追い詰めるべく、規約第15条9項に基づいて日中紛争の処理を理事会から総会に移すように要求した。
 理事会参加国のイギリスやフランスなど日本の自衛的軍事行動は主権国として妥当と考える良識派は、小国を加えた総会で討議する事は問題を複雑にして解決を困難にするとして反対した。
 中国代表の顔恵慶は、中国寄りの多数派を形成するべく大国に不信感を持つ小国の説得に奔走した。
 2月18日  昭和天皇は、日本が世界で孤立しない為に、国際連盟を敵に回さない為に、上海攻撃を短期間で終結する事を望んだ。
 早期停戦派白川義則上海派遣軍司令官は、日本軍優勢・中国軍劣勢の戦況で、中国に破滅か講和かの最後通牒を突き付けた。
 2月19日 国際連盟理事会は、中国と小国の主張を受け入れ、規約第15条に従い満州事変と第一次上海事変を一括案件にして総会で処理する事に同意した。
 2月22日 アメリカは、「日本の満州侵略を日本製品排斥運動及び居留民保護目的にあるとは考えない」という内容の通告書を諸外国に送り、自分本位の傲慢であるとして日本を厳しく非難した。
 3月 ブリアン仏外相が死亡して、新たな連盟フランス代表にジョゼフ・ポール=ボンクールが就任した。
 3月1日 満州国建国宣言。満州国の総人口は約3,000万人で、内9割は中国本土の内戦・天災・悪政から安全・安心・安定していた日本軍支配地域に逃げて来た漢族の避難民で、残りが満州族モンゴル族朝鮮族であった。
 満州族朝鮮族は漢族に同化していたが、モンゴル族のみは民族の独自性を守る為に同化を拒否していた。
 3月3日 軍部は、上海方面で中国軍を撃退し上海を制圧したと判断して、上海派遣軍に対して停戦命令を下した。
 A級戦犯重光葵駐華公使は、平和を望んでいる昭和天皇の意を酌み、早い時期から停戦交渉準備を始めていた。
 軍部は、上海事変を早期に解決し、部隊を満州に集結させる事を望んでいた。
 軍国日本には、領土拡大の野心はなかった。
 国際連盟臨時総会が開催され、参加国51ヶ国中30ヶ国以上の非常任理事国は激しい言葉で日本批判を行った。
 参加国の良識派は、上海での武力衝突は終結に向かっていると判断して、日本の名誉が守れる案での妥結を目指した。
 3月9日 清朝最後の皇帝・溥儀は、満州国国家元首である執政に就任した。
 3月11日 総会は小国の多数派が優勢として、2月16日の対日通告を正当な通告と確認し、日中紛争を処理する特別委員会・19国委員会を総会内に設置する事を決めた。
 当事者の日中両国は棄権したが、中国有利・日本不利は明らかであった。
 規約第11条に基づくリットン調査団は、調査報告を理事会に提出したのみで、総会決議とは無関係であった。
 19国委員会は、規約第15条に基づいて設置され、総会に、3項に基づく和解案と4項に基づく勧告案を用意し、リットン調査団報告書は任務遂行の資料の一部として取り扱った。
 つまり。リットン調査団報告書が日本寄りの為に、反日派多数を占める国際連盟総会の裁決には重要視されなかった。
 3月22日 イギリス下院で。オースチンチェンバレン前外相は、イギリス紳士・常識ある大人の対応として激しい対日批判を行う労働党議員を諌めた。
 日中紛争の根源は、中国・国民党政権が内戦を終結できない責任を日本に転嫁する為に、幾つかの国際条約を一方的に無視して日本を戦争へと挑発した事にあると指摘した。 
 日中紛争問題解決の為に、国際連盟総会内での謀略的対日制裁を排除し、正しい考えに基づいた慎重な対応を求めた。 
 サイモン外相は、チェンバレンの日本寄りの意見に同意した。
 上海のイギリス公館は、第一次上海事変を日本有利に終結させる為に協力していた。
 だが、報道機関の多くは、親中国として日本批判を強めていた。
 欧米列強の首脳部は日本に同情していたが、国民世論は日本批判を強めていた。
 国際認識として、日本が置かれている現状や追い込まれて状況が明らかになっても「日本=悪、中国=正」は変わらなかった。
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 4月29日 上海爆弾テロ事件(上海義挙)。
 上海系朝鮮人テロリストは、停戦妨害・戦争拡大を目的として、国歌「君が代」が流れる天長節式典会場で爆弾テロを行った。
 白川義則上海派遣軍司令官と上海日本居留民団団長が爆死し、重光葵公使(A級戦犯)ら多くの日本人要人が重軽傷を負った。
 昭和天皇は、速やかに停戦協定を成立させるべく、軍部に対して報復攻撃を禁止し、派遣部隊の早期撤兵を望んだ。
 軍部は、昭和天皇の平和を求める意向に従い、プライドを捨て、涙を呑んで停戦を受け入れた。
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 1932年 5月5日 上海に於いて、日中両国の全権とともにイギリス、アメリカ、フランス、イタリア4ヶ国の駐華公使が停戦協定に署名して、第一次上海事変終結した。
 日本軍部は、第一次上海事変停戦が成立し日本人居留民の安全が確保されるや、領土的野心がない事を知らせる為に、停戦協定成立に基づき上海派遣軍の撤収を開始し、同月中に完了させた。
 だが。中国側は、停戦協定を無視して、ドイツと軍事及び経済に関する密約を交わし、次回の対日戦に備えて軍備強化と上海の要塞化を進めた。
 小国諸国は、日本軍の迅速な軍事行動で機先を制され日本批判が不可能になった。
 イギリスやフランス政府は日本の名誉に疵が付かない形での解決を目指したが、国民輿論は厳しい反日へと傾き始めていた。
 ドイツは、世界恐慌による経済不況を復興させる為に日中戦争を利用しようと考えた。
 その経済復興策はヒトラーに引き継がれ、ナチス・ドイツはさらなる積極策として対日戦勝利の為に強力な軍事顧問団を派遣した。
 ドイツ国防軍は、ドイツ軍の戦力強化と将校団の能力向上の為に、将来有望な軍人を実戦で訓練させるべく中国軍に送り込んだ。
 欧米列強やソ連は、ファシスト中国(国民党政権)とナチス・ドイツの対日軍事協約を知っていた。
 中立国アメリカも、経済不況解消を日中戦争に求め、軍需産業に大金を投じ雇用を増やし増産を行いファシスト中国を全面的に支援した。
 イギリスは、軍国日本が上海に進出する可能性があるとして中国寄りになり、軍国日本から距離を置くようになった。
 日中戦争は、昭和天皇や軍国日本が回避しようとしても、中国と欧米列強の自国本意の思惑によって避けられない運命にあった。
 日本を破滅させた「戦争への道」の原因は、満州ではなく上海にあった。
 5月15日 五・一五事件
 8月20日 オタワ合意。英連邦諸国及び植民地行政府は、特恵関税制度を採用してポンド・スターリング・ブロックを形成した。
 9月4日 日本政府は、満州国を中国から独立した自主国として承認した。
 10月2日 リットン調査団報告書の公表。
 「中国に於ける分裂的諸勢力は今もなお強力と思われる。この結合の欠如の原因は、人民大衆が、彼らの国と諸外国の間に厳しい緊張関係がある場合を除き、国民よしてではなく、家族や地元を基礎として考える傾向があるからである」
 「中国の過渡期の光景は……中国の性急な友人達を失望させ、平和に対する危険と化した怨恨をもたらしたけれども、それでもなお、困難、遅延及び失敗にもかかわらず、顕著な進歩が成し遂げられたことも事実である。……
 もし中央政府蒋介石政権』が現状のまま維持されるならば、地方行政、軍隊及び財政は徐々に国家的性格を帯びると期待するのはもっともである。
 国際連盟総会が昨年『1931』9月に中国を理事国に選んだのには、他の理由とともに、こうした背景があった事は疑いない」
 各地の軍閥が南京の国民党中央政府から独立を宣言し、独立国家を樹立させ、中国統一を目指して内戦を続ける惨状を打開するべく、国際連盟は国民党政府を中国の正統政府と認めて国際連盟に向かい入れていた。
 欧米列強は、日本の満州支配が、イギリスのエジプト支配やアメリカのカリブ海及び中南米諸国支配のように、独立国ではなく地方政権としての保護国か従属国が望ましいと考えていた。
 リットン調査団は、南京国民党政府の宋子文汪兆銘ら政府要人と意見交換した。
 南京国民党政権は、自国の軍事力では日本軍から満州を奪還できない為に、軍事力が付くまで満州を一時日本に明け渡すが、ソ連外モンゴル支配に倣い満州の行政権を放棄しても中国の主権は保有するという妥協案を提案した。
 蒋介石は、中国共産党殲滅を優先し、日本軍との決戦を避ける基本方針を採用していた。
 報告書は、満州は中国の主権の範囲というのが大前提で、日本が進める分離独立を否定していた。
 満州国は、地方政権として中央政権から独立して独自の施政権を有しているが、中国の一部に変わりない以上は中央政権の様な統治権は有していないと。
 12月 国際連盟総会は、リットン調査団報告書に基づいた協議した。
 イギリスのジョン・サイモン外相はもちろん、中国寄りと見られたギリシャ代表おニコラス・ポリティスさえも、中国の常軌を逸した反日暴動や日本製品ボイコットは犯罪的で日本側の言い分は正当であると演説を行った。
 「一種の侵略であり、国際法の明白な侵犯を構成する」
 ただし、日本軍の大掛かりな軍事行動は自衛行使の範囲を超えるものであると指摘した。
 最重要焦点は、満州事変の発火点となった関東軍による柳条湖爆破でなく、中国側が中国関連諸条約を放棄して日本側を追い込んだ事であった。
 日本側に対しては、中国側の不正行為に過剰に反応して軍事行動を行った事が批判された。
 19国委員会は、日本側の事情を理解しても大国への牽制として日本に厳しい勧告案を作成した。
 イギリスは、総会と19国委員会が休会に入るや、日本に不利な19国委員会勧告案を阻止するべく裏工作を始めた。
 杉村陽太郎連盟事務次官は、日本政府の満州国独立否認に言及する勧告は絶対に受け入れられないという内示を受け、イギリス人エリック・ドラモンド事務総長の協力を得て19国委員会勧告原案を骨抜きにするドラモンド・杉村案を作成した。
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 1933年1月16日 19国委員会は、休会明けで再開するや、勧告案を否定するドラモンド・杉村案に激怒して、ドラモンド事務総長の越権行為を激しく非難した。
 小国諸国も、大国イギリスの横暴に猛反発し、日本批判を強め、ドラモンド・杉村案は事実上否定された。
 1月30日 アドルフ・ヒトラーが、ドイツのワイマール共和国の首相に就任するや、対中軍事支援を加速させた。
 ヒトラーは、戦後賠償と世界恐慌からドイツ経済を立て直すには失業者に職を与えなければならないとして、国内向けとしての巨額な公共投資と国外向けとして軍需物資を世界的紛争地帯に輸出振興を推し進めた。
 軍需物資を、スペインと中国のファシスト勢力に輸出した。
 ドイツの保守層や国防軍は、反日強硬派として蒋介石の国民党を支援し、日本批判を強めていた。
 日本代表松岡洋右は、連盟に留まる事を希望して交渉を続けたが、国際連盟総会は中国寄りとなり日本の説明は聞き入れられなかった
 2月24日 連盟総会は、第15条第4項に基ずく勧告を可決した。
 第15条の可決により、日本は第16条に基づいて侵略者と認定されると制裁の対象国に指定される恐れが出た。
 日本は反対し、タイは棄権した。
 松岡洋右代表は、可決への不服として退席した。
 午後の総会で、中国の顧維鈞代表は日本を侵略者として制裁を加える第16条の可決を求めた。
 19国委員会にしても小国諸国にしても、中国本土及び満州に於ける日本の特殊事情を理解していただけに、退席した日本側に同情し、第15条第4項の可決と19国委員会勧告案の受諾で一応の目的は達成されたとして、中国側が求めた第16条可決案を協議する事なく退けた。
 国際連盟理事会の全理事国は、日本が追い込まれている窮状に同情して、中国が強く希望する制裁実施を含んだ規約第16条の審議入りを明確に否定した。
 そして、全ての理事国は、連盟脱退をほのめかす松岡洋右代表に対し自制を持って脱退を踏みとどまる事を切望したが、脱退するかどうかは日本が主体的に決断する事であるとして静観した。
 アメリカのウィリアム・キャッスル国務次官は、日本軍の侵略手行為には断固反対するが、対日経済制裁を採択する事にも一貫して反対する旨を、国際連盟に伝えていた。
 サイモン外相「疑いなく、今回のケースは、国際連盟規約が提供する調停の機会を事前に尽くす事もなく、ある国が他の国に宣戦したものではない。また、ある国の国境の隣国軍隊による侵犯という単純なものでもない」
 国際連盟総会は、満州事変は日中戦争ではなく、日本の領土拡大を目的とした侵略戦争ではないとの認識を示していた。
 そして、この勧告で日本が連盟を脱退する事はないと漠然と信じていた。
 アンドレ・マンデルスタム「第16条が規定する制裁を適応すべきと考える連盟加盟国は皆無であった」
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 東京裁判判決文「国際連盟総会は、1933年2月24日に……日本と中国の戦争において日本を侵略者であるとして非難し、かつ戦争の終結を勧告した報告書を採択した」
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 3月 日本は、国際連盟脱退を通告したが、脱退勧告が発効されるのは2年後であった。
 この2年間の間は、加盟国としての義務を果たねばならないし、脱退通告を取り消し復帰する事も可能であった。
 国際連盟は、日本の国力では満州建国は困難で何れは頓挫し、国際連盟に復帰して、リットン報告が勧告する満州国際管理を受け入れるだろう分析して静観した。
 その為、道徳的非難をしても対日経済制裁を行わなかった。
 蒋介石は、中国本土平定と中国共産党殲滅が完成するまで、中国側の主権を保障してくれるならば満州をしばらく国際連盟管理下に置く事に賛成していた。
 日本政府と軍部は、本心では国際連盟脱退を望んではいなかったが、脱退した以上は政経分離の原則で軍事的圧力を加えるもの緊張緩和に努め、経済を優先し中国本土や諸外国との自由貿易を進めた。
 軍部の統制派は、対ソ戦略から中国とのこれ以上の戦争を望まず、ソ連統制経済を見本としてソ連との総力戦準備を急いだ。
 ソ連は、日本軍主導による満州経営が進む事に危機感を抱き、中国共産党や日本人共産主義者に対して反日暴動やテロを起こすように指示した。
 3月27日 日本政府は、満州国を日本の保護国・従属国ではなく主権を持った自主独立国にする為には国際連盟からの脱退もやむを得ないと判断し、松岡代表に対して脱退を訓令した。
 日本の満州政策は、如何なる理由があり如何なる結果になろうとも、「領土保全と現存する政治的独立を尊重」するという国際連盟規約第10条に違反するものであった。
 松岡洋右代表は、連盟に対して脱退を正式に通告した。
 4月 知日派のキャッスルは、アメリカ国務次官を退任するにあたり「最近のアメリカの極東政策」という講演を行い、日本側の満州問題解決に配慮が足りなかった亊を指摘しながらも、満州の特殊性から日本側の主張にも一理ある以上、中国側が求めている対日制裁は断固阻止すべきであると。
 満州問題解決として、国際連盟満州地域を預かり、中国の主権と日本の権益を尊重する中立的立場の総督を置き、日本の優先的地位を承認しながら、満州住民に自治を与えて地方政権を樹立するという、一提案を行った。
 5月 日本軍と中国国民党軍は、満州問題の現地解決として塘沽停戦協定を結んだ。
 中国国民党軍は、中国共産党根絶やしにするべく進軍を再開した。
 日本国内のマルクス主義者である革新官僚や隠れ共産主義者である転向組役人やマスコミ関係者達は、中国共産党の窮地を救うべく、ソ連コミンテルンの指令に従って行動を起こし、国民世論内に反中国感情を煽り、政府や軍部に対中強硬論を広めた。
 追い詰められた中国共産党も、国民党の攻勢を逸らす為に、エリート学生を共産主義に引き入れ、貧困層の社会不満を抗日に誘導し、国民の間に民族主義愛国心を広めて南京国民党政権を揺さぶった。
 新たにアメリカ大統領になったフランクリン・ルーズベルトは、前任者のハーバート・フーバー大統領の対日融和外交優を破棄し、中国に大量の軍事物資を輸出するべく対日強硬外交を採用した。
 アメリ共産党は、スターリンの指令に従い、中国共産党の窮地を救うべく対日挑発政策をワシントンに採用させるべく暗躍した。
 軍国日本は、満州の平和と発展には中国の内戦から切り離し、ソ連共産主義勢力の攻勢から日本及びアジアを守る為に満州を対共防波堤にする必要から、世界の反対を押し切り、孤立を覚悟で大陸戦略を実行した。
 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの許可を得て、正規パイロットを書類上で退役させ民間義勇兵として中国軍に派遣し、アメリカ人義勇兵の経費を支給した。
 アメリカ人義勇兵は、中国から帰国すれば原隊に復帰し、特別手当を得て、昇進した。
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 1934年 各省庁は、満州国建設の実務を取り仕切る為に、数多くの優秀な官僚や学者を満州に派遣した。
 派遣するに当たって、身分を満州国の官僚とする為に、出向ではなく退職とした。
 関東軍は、満州国政府を監視下に置いた為に、満州国各省庁の日本人幹部官僚と激しく対立した。
 日本軍部は、陸軍大臣を中心とする満州国関連事務の各省調整機関を設置して、各省庁横断の協力体制を築いた。
 関東軍は、日本政府、外務省、軍部によって満州に於ける権限が限定され不満を募らせた。
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 軍国日本は、33年5月の日中両軍の塘沽停戦協定を正式協定と認め、日中関係の改善の一環として、共通の敵である中国共産党を滅ぼす為に中華国民党軍(ファシスト軍)強化に協力知る政府顧問を派遣した。
 寺岡謹平海軍大佐は、中国海軍近代化の為に中華民国海軍大学教官として上海に赴任した。
 中国海軍は、軍艦は欧米諸国の軍需産業から購入したが、水兵の教育と訓練は日本海軍の支援を受けた。
 日本海軍による中国海軍への支援は、第二次上海事変直前の1937年まで続いた。
 第二次上海事変は、ナチス・ドイツの軍事支援を受けた中国陸軍と日本軍が戦ったが、中国海軍は中立を保って戦闘に参加しなかった。
 蒋介石も、密かに、寺岡大佐を青島行きの特別列車に乗せて、無事に日本に帰国させた。
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 1935年 黄河揚子江で大洪水。14省で水害、11省で旱魃。被災者は数千万人。数百万人の女性や子供が、中国人人身売買業者の手で上海や香港などに売られた。
 戦後、日本軍の慰安婦狩りによる被害と認定された。
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 1935年 林語堂「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというより、むしろ、個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまう事であろう。そうなる事は間違いない」(『中国=文化と思想』)
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 日中戦争を仕掛けたのは中国共産党であった。
 1937年7月7日 盧溝橋事件。中国人民解放軍総政治部発行『戦土政治課本』「7・7事変(盧溝橋事件)は、劉少奇同士の指導する抗日救国学生の一隊が決死的行動をもって党中央の指令を実行された」
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 {2015年9月13日 産経ニュース「【満州化物語(6)】“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
 日本統治時代の撫順炭鉱
 満鉄が作った未来都市
 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904〜05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。
 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。
 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。
 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》汚名だけ着せられて
 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。
 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。
 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。
 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。
 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。
 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。
 殺戮、放火、破壊…
 濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。
 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。
 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」
 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。
 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。
 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」
 翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》
 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。
 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。
 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」
 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。
 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
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 ■平頂山(へいちょうざん)事件 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。」}
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 2017年1月10日 産経ニュース「【歴史戦】中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に
 中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から)
 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8年とする解釈を変更し、31年からの14年に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。
 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した1月3日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。
 中国はこれまで「抗日戦争」として、37年7月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、31年9月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。
 45年8月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には1894〜95年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。」
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