🎺40:─5─米国民の7割が日本への無差別絨毯爆撃による虐殺に賛成した。1944年〜No.185No.186No.187 

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 2020年3月13日 産経新聞「【東京大空襲75年】(中)無差別爆撃を後押しした米国世論
 日本に対する無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイ
 「元凶ルメー、思ひ知れ嗜虐性(しぎゃくせい)精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりをして狂喜してゐるに相違ない」
 東京大空襲から3カ月、昭和20年6月7日付の朝日新聞は、およそ記事とは思えない過激さで「ルメー」に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせた。
 「人々の無念を晴らすためにも、われわれはどうあってもこのルメーを叩っ斬らねばなるまい」
 「ルメー」とは、日本本土空襲を指揮した米軍司令官、カーチス・ルメイ少将(当時)だ。
 東京に対する空襲は昭和19年11月ごろから頻繁になったが、当初は飛行機の製造工場など軍事施設への精密爆撃が主だった。昭和20年1月にルメイが着任すると、民間人の住宅地を焼き尽くす手法に変わった。
 日本側はこれをとらえ、ルメイを大都市無差別爆撃の「元凶」とみた。
 民間人の被害が比較的少ない精密爆撃にこだわった前任者と異なり、ルメイは市民の殺害をいとわなかったばかりか虐殺を主導した-。戦後長く、こうした見方は続いた。今も根強い。
 だが、防衛省防衛研究所・戦史研究センターの柳沢潤2等空佐は、一面的に過ぎると指摘する。
 「本土空襲はルメイ個人の方針とかやり方に矮小化(わいしょうか)するのではなく、第一次大戦後に主流になった戦争のやり方、つまり早期終結を目指すために何が必要かを探ってきた歴史の流れという大きな時間軸でとらえる必要があると思う」
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空から都市を狙う発想は、1920年代には欧米を中心に有効性が論じられていた。第一次大戦の長期化への反省から、敵国の中枢を一気に爆撃し、女性や子供を含めて労働者を攻撃することで戦争の早期終結を目指すという考え方だ。
 実際、英国の元首相、ボールドウィンは32年に英議会で「先に敵国の女・子供を大量に殺したほうが勝利者となる」と演説した。米国も同じだ。対日戦争計画「オレンジプラン」には28年から日本の爆撃計画が書き込まれた。
 一方で「米国はある種、理想論が幅を利かせるというか潔癖なところがあるから、こうした考えが大手を振ることはなかった」と柳沢氏。米軍は予算獲得のため、議会や国民には「市民を狙わない精密爆撃を原則とする」と説明し続けたという。
 ところが、昭和16(1941)年12月8日を境に一変する。日本軍によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃だ。「日本人は原始的で野蛮で残虐な人種。人道的な配慮は無用だと世論はガラッと変わった」(柳沢氏)
 真珠湾攻撃直後に米国の会社が実施した世論調査では、米国民の7割が日本への無差別爆撃に賛成した。
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 無差別爆撃に向けて、米国の巨大な歯車が回り始めた。
 木造建築が主体の日本の都市を燃やすため、ゼリー状のガソリンを詰めた油脂焼夷弾(しょういだん)を開発した。屋根などに衝突すると信管が作動し、周囲にガソリンをまき散らして激しく燃える。
 ユタ州の砂漠に日本の街並みを再現し、実際に投下して威力を確認した。外観だけでなく、タンスやふすまなど内装まで作りこむ念の入れようだった。
 実際の空襲では、この油脂焼夷弾を数十発束ねたクラスター爆弾が主に使われた。投下されると空中で四散し、まさに「火の雨」を降らせた。
 米軍は、グアムやサイパンなどマリアナ諸島の占領後、ここを拠点に本土空襲を始めた。当初、軍事施設に限った精密爆撃を行ったが、昭和20年1月のルメイ着任の時期から一般市民を攻撃目標とし、東京大空襲へと突き進んだ。
 柳沢氏は「精密爆撃では効果が上がらなかったなどさまざまな要因はあるが、単に準備期間だったと捉えることもできる。大都市を一気に焼くには焼夷弾一つとっても大量の集積が必要だから。ルメイの着任がその時期に重なったという見方もできる」と指摘する。
 女性や子供など10万人以上の犠牲は、米国にとっては「成功」だった。その後、東京を含めて大阪や名古屋、横浜といった大都市に同様の空襲が繰り返された。大都市を焼き尽くすと目標は中小都市に移った。8月15日の終戦に至るまで一般市民の虐殺は続いた。
大森貴弘)」
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