🎵08:─1─近代的軍国主義国家日本は岩倉使節団から始まった。~No.14No.15No.16No.17 ① 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 日本は、軍国主義国家であってファシスト国家ではない。
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 当時の太平洋では、西からロシアが日本に、東からアメリカがハワイ王国に侵略しつつあった。
 1881年 ハワイ王国のカラカウア国王は、世界一周旅行の最初の訪問国として来日し、明治天皇に謁見して、アメリカの侵略からハワイ王国を守るべく、日本の力を借りる為に提案をした。
 1,日本・ハワイの連邦化。
 2、日本・ハワイ間のホットライン敷設。
 3、日本主導によるアジア共同体の創設。
 4、カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談。
 5、同じ有色人種である日本人のハワイへの移民(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により、原住民の人口が激減していた)。
 {ウィキペディアより}
 カラカウア国王は、名誉と体面と信義の為ならば命を捨ても強敵に立ち向かう日本の武士に望みを託していた。 
 1887年 アメリカ人移民である宣教師の息子達は、クーデターを起こし、カラカウア国王に修正憲法(銃剣憲法)を認めさせた。
 1893年1月17日 共和派は、アメリカ海軍ボストン号の軍事力でリリウオカラニ女王を幽閉し、ハワイ臨時政府を樹立して王政の廃止を宣言した。
 明治政府は、ハワイ王国の友好国として、ハワイ王家への信義を貫くべく、在留邦人保護を名目として巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)と帆走コルベット「金剛」の二隻を派遣した。
 東郷平八郎は、二隻の軍艦でアメリカ系ハワイ臨時政権に威圧を加え、幽閉されているリリウオカラニ女王のに接触した。
 日本軍は、在留邦人を現地で保護する為に軍隊・軍艦を派遣するのが基本方針であった。
 1894年7月4日 共和派は、日本の軍事介入を警戒しながらハワイ共和国の成立を宣言した。
 1898年8月12日 アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは、ハワイをアメリカ合衆国保護領でると宣言し、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろして星条旗を揚げた。
 ハワイは、共和派が支配するアメリカの準州となり100年の歴史を持つカラカウア朝ハワイ王家は滅亡した。
 日本は生き残りハワイは滅亡し、日本天皇は存続しハワイ王家は消滅した。
 1959年8月21日 アメリカは、アメリカ系ハワイ人の昇格要望を受け、ハワイを準州から50番目の州にする事を認め、アメリカ系ハワイ人は正式にアメリカ人となった。
 結果、先住民族ハワイ人もアメリカ人となり祖先から国を失った。
 ハワイは、キリスト教の島となった。
 アメリカの正義とは、キリスト教を地球上に広め、人民の権利を抑圧する王家を廃絶し、人民の利益を搾取する王国を滅ぼす事であった。
 それは、異教徒の天皇家・皇室、民族国家日本でも同じであった。
 日本は、平和なハワイ王国・ハワイ王家の滅亡を目の当たりにして軍事国家へと暴走し始めた。
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 2020年3月26日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [近・現代篇]
 英米重視だった岩倉使節団
 岩倉使節団明治維新のなかでも途轍(とてつ)もない壮挙だったと僕は思います。新政府の主だった首脳が2年近くも国を留守にしたのです。
 岩倉使節団は1971年冬(明治4年11月13日)から、73年9月13日の2年近くもの間、米欧12カ国を見て回りました。
 全権大使が岩倉具視、副使が木戸孝允大久保利通伊藤博文たち。薩長と公家のトップを揃えたものすごいメンバーです。
 まだ新政府の機構もしっかり固まっていない中で、総理大臣クラスを含めた主要閣僚の半分が出払ってしまったのです。
 使節が46名、随員が18名、留学生が43名、総勢107名のエリートの集まりです。みんな若くて、最年長の岩倉でも47歳、平均年齢は32歳ぐらいでした。
 派遣の目的は、基本的には諸国との友好を深めるということと、各国の制度や文献を勉強することです。学ぶべき項目を政治経済から軍事、教育、社会生活に至るまで事前に細かく調べ上げてありました。
 チョンマゲの全権大使
 この使節団のもとは、大隈重信が発案したといわれています。
 条約改定の下交渉として大隈自身とスタッフ数名が海外に行くことを想定していました。
 1872年(明治5年)が、江戸幕府が世界15か国と結んだ修好条約の改定期にあたるので、その準備交渉をしようというわけです。
 以前から使節派遣に意欲のあった右大臣の岩倉が全権大使になり、薩長の実力者の大久保と木戸らがつくことになります。『同じ行くのやったら、条約改正の下交渉をやりつつ、岩倉さんと勉強して来ようぜ』と、大隈プランがスケールアップされたのです(大隈は留守番に)。
 大久保、木戸、伊藤らは薩英戦争や下関戦争でヨーロッパ列強の怖さを知っているのですが、岩倉具視は公家としてずっと京都に住んでいたので欧米の実相を知りません。
 明治に入ってみんなが『これからは散切(ざんぎ)り頭やで』とチョンマゲを切っても、岩倉具視は『オレは日本人や。周囲がどうなろうとオレは変わらんで』と頑張っていました。
 明治新政府といっても、保守的な考えの人たちもいたわけです。そうした人たちにも海外の状況に目を向けさせる必要がありました。
 岩倉使節団は、アメリカのグラント大統領、大英帝国ヴィクトリア女王など各国元首と会見しています。しかしそれよりも重要だったのが産業視察でしょう。
 造船所や銃器工場を始め、造幣局、衣服製造場、ビール醸造所からチョコレート工場に至るまで、132にのぼる工場を視察しています。
 大久保利通は圧倒された様子で、留守を預かる西郷隆盛に『大英帝国が富強であるわけがよくわかった』と書き送っています。
 岩倉具視もついに『チョンマゲに固執している場合ではないで』と視察の途中で髷(まげ)を切り落としました。
 岩倉使節団は、巡行先のドイツで感銘を受けとよくいわれます。
 小国プロシャをドイツ帝国に成長させた宰相ビスマルクが、『国際法といっても国力次第やで』と唱え、『そのとおりやで』と日本はドイツをモデルにしたのだと。
 実際の岩倉使節団は国力(GDP)の順に欧米を訪ねています。
 まずアメリカに行って7か月も滞在します。市民戦争後のアメリカは猛然と経済発展を遂げつつあり、大英帝国に追いつく勢いをみせていました。まずアメリカこそ勉強せなあかんというわけです。
 次に大英帝国が4か月間。その次はフランスに2か月。ドイツは1か月、ロシアは2週間です。
 留学生の活躍
 留学生の派遣先も、アメリカと大英帝国で6割を占めます。初めから米英重視の姿勢なのですね。
 この留学生が後に日本に大きく貢献します。19歳だった金子堅太郎は、ハーバート大学に入り、そこでセオドア・ルーズベルトと無二の親友になります。後にこの二人の関係が日露戦争終結に導きます。
 伊藤博文日露戦争開戦とともに、金子堅太郎に大枚(たいまい)のお金を持たせてワシントンに送り込みました。金子はセオドア・ルーズベルト大統領の執務室に入り浸りになり、お金をガンガン使ってロビー活動を行ったので、アメリカは日露の仲介をしてくれたというわけです。
 女性留学生も5人いました。
 欧米に順応できなかった人もいましたが、津田梅子、山川捨松、永井繁子の3人は、まだ小学生ぐらいだったこともあり無事に順応し、10年間をアメリカで過ごしました。
 津田梅子は女子英学塾(津田塾大学)の創始者となり、山川捨松は大山巌公爵夫人として『鹿鳴館の花』と謳われ、永井繁子は瓜生外吉男爵夫人となって女子高等師範学校東京音楽学校で教えました。
 書記官や随員の多くは旧幕臣です。なぜ幕臣が多いかといえば、阿部正弘安政の改革で、幕臣に海外留学する道を拓(ひら)いたからです。
 たとえば五稜郭に立て籠った榎本武揚は、ネーデルラント(オランダ)に4年間留学していましたね。
 だから外国語ができる人間が幕府のもとにたくさんいたのです。
 政府の首脳たち、随員として旧政権の留学経験者、せらには次の世代を担う留学生たちを連れて行く。
 そういう意味では、岩倉使節団はまさに明治の遣唐使ですよね。
 『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンドさんも、近著『危機と人類』の中で、アメリカの弱点として『西欧やカナダのモデルを学ぶために、明治日本の岩倉使節団のようなものをアメリカ政府が送った例はほとんどない』と指摘しています。それほど岩倉使節団の意義は高く評価されているのです」
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 欧州旅行費は200万円(現在の金額で約55億円)
 岩倉使節団は、欧米列強の国力に比べて日本の立ち後れを痛感し、同時に欧米列強が隙あらば日本を侵略しようとしているとの危機感を募らせた。
 日本が植民地にされず独立国として生き残る為には、徹底的な西洋化政策を採用し、欧米列強に負けない工業力と商業力を得て国力を養い、防衛に必要な軍事力を付ける事であると痛感した。
 明治の指導者は、弱肉強食の帝国主義時代に日本を守る為には、欧米列強に対抗するだけの強力な軍隊を持つ必要がある事を確信していた。
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 近代日本はロシアの侵略から母国と天皇を守る為に富国強兵を急いだ。
 富国は、殖産興業で、軍需産業であった。
 強兵は、近代教育で、兵隊育成であった。
 そして近代的天皇制度と国際法遵守を国の中心柱とした。
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 現代日本人は、武士でも百姓でもなく、その子孫でもなく、まして勤皇の志士や尊王攘夷派さらには開明幕臣とも無縁である。
 現代の日本人と昔の日本人は別人といってもいいほどに違う日本人である。
 まずもって、現代の日本人は昔の日本人に比べて歴史力や文化力がない。
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 現代日本の全ての高学歴出身知的エリート(政治家・官僚・学者・その他)は、寄って集って挑んでも一人の金子堅太郎には勝てない。
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 強力な軍事力を持たない外交交渉は、如何に道理ある正論や国際法を持って言葉を尽くそうと、誠意や配慮しょうと、何らかの成果もあげる事はできなかった。
 国際社会が、日本を普通の国として認めて受け容れたのは日露戦争の勝利後でった。
 世界の常識は、宗教的白人至上主義に基ずく人種差別であった。
 白人は、日本人を蔑称・黄色い猿(イエロ・モンキー)と軽蔑し人間以下の家畜・獣と見下していた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として家畜の様に売買して金を儲けていた。
 日本人の命は金で買えたのである。
 日本人女性は、娼婦・売春婦にされた。
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 ハワイ国王は、アメリカの侵略から母国を守る為に日本との連邦化を求め、ハワイ王家の王女(国王継承者)と天皇家の皇族との結婚で姻戚関係を望んだ。
 が、明治天皇も日本政府も、ロシアとの戦争に備えてアメリカとの関係悪化を避けるべく、同盟及び婚姻の申し込みを断り、ハワイ王家の滅亡を傍観した。
 ハワイ国王は、外交で生き残る為にイギリスと親密関係を深めたが、存亡の危機にイギリスは助けてはくれず、ハワイ王国は共和国に改変されアメリカの保護領となり、ハワイ王家は消滅した。
 東郷平八郎日本海軍は、ハワイ王国を滅ぼして領土としたアメリカこそが真の敵国でると確信した。
 日米戦争は、この時、避けられない運命となった。
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 イギリスは狡猾な外交を行い、イギリスの利益にならなければどんな友好国であっても見捨てた。
 イギリスは、中国共産党に侵略された友好関係にあったチベット国を見捨て、中国軍に虐殺されるチベット人を助けなかった。
 チベット国は、外交では救われなかった。
 チベットの悲劇は、中国共産党に国と国民を売る裏切り者=親中国派がいた事である。
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 日本とハワイ王国チベット国との違いは、国民一丸となって外国の侵略を撃退する強力な軍隊を持ち、軍事力を背景とした巧妙な外交を行えたかどうかである。
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 日本は、チェスではなく将棋の社会である。
 短期間で日本が近代国家に転換し発展して自主独立を守りえたのは、現場を取り仕切ったのが旧幕臣達であったからである。
 新時代に役立つ人材であれば、恭順した旧幕臣であれ、賊軍として官軍・天皇の軍隊と戦った朝敵であっても登用した。
 前者の代表が勝海舟であり、後者の代表が榎本武揚である。
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 倒幕派には、伝統的慣習法の地方分権幕藩体制を壊す事ができたが近代西洋法の中央集権国家体制を作る事ができなかった。
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 何時の時代でも、賢い日本人は2割で、愚かな日本人は3割で、愚かではないが賢くもない日本人が5割いる。
 問題は、政権を握り権力を行使する日本人がその三者の内の誰かである。
 海外視察と称して税金を使って観光旅行する政治家、無意味・無駄な公共事業を増やし退官後の天下り先をつくり維持する官僚・役人、国家の借金を減らすどころか増やすだけの日本人は、賢い日本人ではないのは確かである。
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