🎺45:─1─原爆投下前の日本軍部によるアメリカ・ルート降伏交渉は失敗に終わった。~No.207No.208No.209 ㉘ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 戦前の日本が降伏する唯一の条件、譲れない条件は、昭和天皇の命と地位の保障、皇室の安泰、天皇制度の存続、つまり国體護持の一点だけであった。
 昭和天皇は、国家元首・最高指揮官として全責任を引き受ける覚悟を固めていた。
 日本民族日本人は、日本の伝統文化として、昭和天皇を守り天皇制度を維持する為にカミカゼ特攻や玉砕を繰り返し、本土決戦に備えていた。
 アメリカが天皇護持を認めれば、日本は即時降伏を受け入れた。
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 昭和天皇は、第一次世界大戦の惨事を知る平和主義者として如何なる戦争にも不同意であったし、戦争が始まれば早い時期での停戦を希望し、ヒトラーから逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人難民の保護を希望した。
 つまり、昭和天皇は平和に貢献し人道貢献に関与していた。
 昭和天皇が、嫌ったのはヒトラーのナチズムとスターリン共産主義で、好んだのがイギリス王家とアメリカの民主主義であった。
 日本皇室は、日本の将来の為に米英との繋がりが大事であるとして、事あるごとにイギリス王室とアメリカ大統領に近況を伝える親書を出し続けていた。
 バチカンローマ教皇や西欧の中立王国王家とも関係を保ち続けた。
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 昭和天皇は、国内外の敵から最も命を狙われた天皇である。
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストの後ろには、反天皇反日本のアメリカ・キリスト教会がいた。
 日本人共産主義テロリストの後ろには、反天皇反日本のソ連・ロシア人共産主義者がいた。
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 2020年9月号 歴史街道「国内外で展開された和平工作の〝失敗の本質〟
 太平洋戦争においては、和平への動きがなかったわけではない。近衛上奏文、ダレス工作・・・。
 そしてなぜ、失敗におわったのか。
 戦場の裏側で展開されていた。もう一つの戦いとは──。
 平塚柾緒
 近衛上奏文とヨハンセングループ
 昭和20年(1945)に入り、米軍は日本から奪取したサイパンテニアンなどのマリアナ諸島を前線基地に、長距離爆撃機B29による日本本土空襲を本格化させてきた。事ここにいたり、日本の敗色は一般国民の目にも明らかになりつつあった。
 軌(き)を一にして米英などに対する日本側の和平工作が活発化したのも、この頃からだった。それら和平工作の中で知られているものに、『ダレス工作』『バッゲ工作』『ソ連仲介工作』などがある。
 しかし結論を先に記せば、これら民間人や海外駐在武官なども交えた和平工作は、すべて実を結ばなかった。
 理由はいくつもあるが、そのひとつは工作時期が小磯国昭内閣から鈴木貫太郎内閣にかけての政権移行期に重なってしまったこと。もうひとつは、最後の最後までソ連を仲介者にして米英と和を結ぶのが、日本政府の方針だったことなどを挙げられる。
 このソ連を和平の仲介者にしようとしていた日本政府の動きに、楔を打ち込むかのような〝事件〟も起きていた。世に言う『近衛上奏文』である。
 昭和20年1月16日、昭和天皇木戸幸一内大臣に、重臣から時局に対する意見を聞くことを求めた。その結果、平沼騏一郎広田弘毅近衛文麿若槻礼次郎牧野伸顕岡田啓介東条英機重臣7名が、2月7日から26日の間に順次拝謁して上奏することになった。
 近衛文麿の上奏は3番目で、2月14日に行われた。
 『敗戦は遺憾ながら最早(もはや)必至(ひっし)なりと存候(ぞんじそうろう)』(『終戦史録』外務省編纂)で始まる近衛の上奏は、1時間以上に及んだ。
 上奏の大半は『国體の護持の建前より最も憂(うれ)ふべきは敗戦より敗戦に伴(ともの)ふて起こることあるべき共産革命』であると説き、日本の少壮(しょうそう)軍人やいわゆる新官僚による革新運動を操っているのは、実は左翼共産主義者であると断定した。
 そして戦況の悪化と共に昨今起きている軍部、官僚をはじめとする各界にわたる混乱状況は、共産革命にいたる好条件の成長過程であり、今後ますます急進展するであろうと言い、これを絶ち切るには戦争を終結する以外にないと進言した。
 いや、驚きはまだ続く。4月15日、近衛と親交の厚い元駐英大使の吉田茂(のちの首相)を筆頭に、近衛秘書の殖田俊吉、ジャーナリストの岩淵辰雄らが東部憲兵隊に逮捕されたのだ。憲兵たちは『ヨハンセングループ』と呼んでいた、親英米派の和平グループである。
 ちなみにヨハンセンとは、『よしだはんせん(吉田反戦)』の略で、憲兵たちの隠語であった。容疑は近衛上奏文を流布し、陸軍が『赤化』していると中傷したとする造言蜚語罪(ぞうげんひござい)だった。
 ……
 スイスでスタートした和平工作
 近衛上奏と吉田らの逮捕で首都・東京が大揺れしていたとき、遥(はる)かヨーロッパでも日本の降伏、米英との和平工作を巡って、いくつものグループが独自に奔走していた。冒頭に記した『ダレス工作』『バッゲ工作』などのメンバーたちである。
 当時、スイス最大の都市チューリヒに、大の親日家でフリードリッヒ・ハックというドイツ人がいた。
 ハンブルク大学を卒業した経済学博士で、満鉄顧問に迎えられたあと、第一次世界大戦当時はドイツの租借地・青島(チンタオ)にいて、日本軍の捕虜となった。日本で3年近く捕虜生活を送り、1920年に帰国、ヒトラーのナチ政権で極東顧問として活躍していた。日独防共協定のきっかけを作ったのも、ハックだったといわれている。
 しかし、ナチスの世界制覇思想に批判的になったハックは、ある日『男色(だんしょく)』の罪名で逮捕され、投獄されてしまった。
 それを駐独海軍武官の小島秀雄少将らがナチス政権に働きかけ、ハックを釈放させて密かに日本に送り、さらにスイスに亡命させて日本海軍の購買エージェントの職を与えた。昭和13年(1938)の春、ハック51歳のときだった。
 時が過ぎ、昭和16年(1941)12月8日、日本は米英との戦争に突入した。その一週間後の12月16日、駐ドイツ大使館付海軍武官補佐官・藤村義一中佐(のち義郎と改名)は、知人となっていたハックから一通の手紙をもらった。
 手紙には、日本が米英を相手にしても勝てるはずはない。しかし、こうなった以上は、米英との話し合いの道を作っておかなければならない。もし私の意見に賛成なら、自分はその道を開くよう努力するがどうだろうか、という内容だった。
 藤村中佐は『アメリカのしかるべき人たちと接触する道があるなら、ただちに行動に移ってほしい』と返書し、その後はチューリヒジュネーブに足を運んでハックとの接触を続けた。
 昭和20年2月、藤村中佐は駐スイス公使館付海軍武官室に転任した。そこでハックと再会した藤村は、『自分のスイス駐在の目的は和平工作を具体化させることだ』と打ち明け、上司の海軍武官・西原市郎大佐とともに協力を依頼した。ハックは喜び、『準備はもうできている』と、初めて『ダレス機関』の実態を話した。
 ダレス機関というのは通称で、正式には第二次世界大戦勃発後、大統領命令で米政府がヨーロッパに設置した戦略情報機関OSS(Office of Strategic Services)のことをいい、アレン・ダレスがその総局長の地位にあった。
 ……
 ハックとOSSの仲介をしていたのは、アメリカの『ナショナル・シティー・バンク』チューリヒ駐在員のホワイトちう男と、ハックの大学の同期生で、ダレスの秘書であるドイツ人フォン・ゲフェルニッツという男だった。
 この二人を通じて、ハックと西原大佐らがOSSのメンバーのジョイス(戦後、トルコ大使になった外交官)とポール・C・ブルンの二人に初めて会ったのは、昭和20年4月25日のことだった。
 そして二回目は2日後の27日で、このときはハック、西原、藤村の他に津山重美(大坂商船欧州駐在員)と笠信太郎朝日新聞特派員)も同席した。
 そこで日本側はダレス側に、『日米の直接の和平に関し最善の努力をしたいが、米側の御意見を知らされたい』旨(むね)のメッセージを渡した。
 5月3日、OSS側からハックを通して返答があった。米国務省から『日米直接和平の交渉を、ダレス機関を通じて始めてさしつかえない』という訓令が来たという。
 東京に打たれた暗号第一号
 ダレス機関からの返答を手にした駐スイスの西原海軍武官は、5月8日の午後、和平交渉に関する第一報を東京に暗号電した。
 発信相手は米内光政海軍大臣豊田副武軍令部総長で、直接、海相、総長に届くよう『至急、親展、作戦緊急電』とした。
 電信の内容は、これまでのOSSとの接触を概括(がいかつ)し、ダレス氏は日本が和平を望むならば、『これをワシントン政府に伝達し、その達成に尽力(じんりょく)しよう』と言明したと記し、ダレスの経歴も添えた。
 この日、ベルリンではドイツが連合国に無条件降伏をし、日本をとりまく情勢はますます危機的様相を呈(てい)してきた。
 スイス公使館付海軍武官から報告電はその後も続き、朝日新聞特派員の笠信太郎記者も、かつ朝日新聞の副社長だった下村宏情報局総裁宛に、個人名義で『1日も早い和平工作を行うべきである』と打電した。
 5月21日、保科善四郎海軍省軍務局長名で待望の返書が届いた。
 『貴武官のダレス氏との交渉要旨はよく分かったが、どうも日本の陸海軍を離間(りかん)しようとする敵側の謀略のように思える節(ふし)があるから、充分に注意されたい』
 スイス公使館の海軍武官室で返書を開いた一同は、その内容のトンチンカンぶりに唖然とした。こんな返書をダレス側に伝えるわけにはいかない。
 西原大佐たちは、ダレス側には『東京からの返電はまだ来ていない』と言って、東京にはドイツ降伏後のソ連の出方などの報告も兼ねて、和平工作実施要請の暗号電を打ち続けた。だが、6月20日に米内光政海相名で武官宛に届いた返書は、工作の終了を意味していた。
 『貴意(きい)は知った。一件書類は外務大臣に移したから、貴官は所在公使等と機密に提携し善処されたし』
 書類を外務省に回したということは、海軍は手を引くということだ。こうして秘密裡に進められていた『ダレス工作』は、6月20日に外務省から駐スイスの加瀬俊一公使にも連絡され、半ば公(おおやけ)になってしまった。
 スイスの日本側はダレス機関に、『当事者以外には秘密』との約束がまもれなくなったことを伝え、以後の工作に終止符を打った。
 いや、西原武官らの申し出の前に、すでにOSSは、外務省が加瀬公使に打った暗号電報を即時解読しており、この話はダメだと判断していた。ダレスたちOSSは、日本の外務省には全く信をおいていなかったからである。
 東京に無視された陸軍のダレス工作
 当時、スイスのダレス機関は西原・藤村ら日本の海軍グループとは別に、陸軍のグループとも和平工作を進めていた。
 この陸軍のグループをダレス機関に斡旋したのは、スイスのバーゼルにあった国際決済銀行の幹部ペール・ヤコブソンという人物である。
 日本側は前駐独大使館付武官で、終戦時はスイス公使館付陸軍武官になっていた岡本清福中将を中心に、加瀬俊一公使、在バーゼル国際決済銀行の北村孝治郞理事、同じく国際決済銀行の吉村侃(かん)為替部長らである。
 この『岡本・ダレス工作』は、西原大佐ら海軍側の頓挫の穴埋めをするかのように、1945年6月ごろから8月にかけて行われていた。
 最初に行動を起こしたのは、在欧日本人の間では平和論者として知られていた吉村である。外務省編纂の『終戦史録』に収録されている加瀬・北村・吉村による『1945年6月ないし8月アレン・ダレスとの非公式・間接和平連絡の顛末』(昭和26年7月12日)によれば、ドイツが降伏する直前の1945年5月、チューリッヒに岡本を訪ねてこう働きかけたという。
 『もう和平の手を打たねば駄目だ。丁度(ちょうど)国際決済銀行で同僚として働いている同行経済顧問のペル・ジェイコブソン(ヤン・ヤコブソン)とは気が合って別懇(べっこん)だし、ジェの細君の叔父なる人は、当時英国海軍軍令部次長(戦後総督になった)で又在バーゼル総領事館員とも懇意(こんい)であり、米英側に打診するには格好の仲介者と思われる。この筋を通じ当たってみてはどうか・・・』
 すると岡本は、『自分は軍人だ、加瀬がやるべきだ』と言った。そこで吉村は『それならば加瀬とベルリン時代以来懇意な北村から加瀬に話してもらう外(ほか)ない』と言ったため、岡本は北村に面会を求め、それまでのいきさつを話して加瀬の説得を促(うなが)した。北村の説得に加瀬は熟慮の末、『お国のためだ、肚芸(はらげい)で行こう』と答えたという。
 こうして陣容を整えた日本側は、6月中頃、ヤコブソンをバーゼルの吉村邸に招いて、ダレスを通じての対米和平工作を依頼した。その時の日本側の要望は、『無条件降伏という言葉は修正すること、陛下御安泰、憲法不変、満州国際管理、朝鮮、台湾は日本領土として残す』(『終戦史録』)というものだった。
 ダレス工作を引き受けたヤコブソンはただちに行動を起こし、ヴィースバーデンのダレス邸に泊まるなどして日本の意向を伝えた。工作は概(おおむ)ね成功し、ダレスはワシントンとも連絡し、日本側への回答を口にしたとも言われている。
 前出『終戦史録』の収録文によれば、ヴィースバーデンから帰ったヤコブソンは、北村、吉村にダレスに会った結果を伝えたという。
 『その要旨は次の如(ごと)きものだった。米は天皇を安泰にしたいが反対する向き(ソ連、仏、支と解された)があるので明文に書く訳にはいかぬ、アンダースタンディングとする。憲法は変更する。領土問題はノー・コメント。ソ連参戦前に交渉に入りたいというのであった』
 ヤコブソンの報告は、即座に岡本中将と加瀬公使にも報告され、加瀬公使はポツダム宣言が出される10日ほど前の7月16日に、東京の東郷外相宛に大至急電で報告した。ポツダム宣言が出された7月26日以後は、連日のように関連電を打ったが、外相からは『できるだけ情報を寄こせ』と言ってきただけだった。
 岡本中将も、『参謀本部へ相当打電したが梨の礫であったらしい』(『終戦史録』)という。そして1945年8月15日、日本敗戦の報せをチューリヒで聞いた岡本中将は自決した。
 しかし、これら在欧日本人たちがダレス機関を通じて内示した日本降伏の希望条件は、『米国の対日和平処理に非常に参考になったことは事実のようである』(『終戦史録』)と結んでいる。
 このほか米英に対する和平工作には、スウェーデン王室を通じる『バッゲ工作』や『小野寺工作』と呼ばれる和平工作もあったが、結果は『ダレス工作』と同じで、最後は日本政府や軍中央に無視され、奔走した関係者たちの〝泡沫(うたかた)の夢〟と消えていった。
 その背景にあったのは、当時の日本政府の目がソ連にむいていたことである。昭和20年5月11日、12日、14日の3日間にあわたって行われた最高戦争指導会議構成員会議で、軍部と政府はつぎの三点を目標に、ソ連との話し合いを開始することを決定していた。
 1,ソ連を対日参戦せしめないこと。
 2,ソ連をなるべく好意的態度に誘致すること。
 3,和平に導くこと。
 そして6月3日には、ソ連との話し合いのスタートともいえる、広田弘毅元首相とマリク・駐日ソ連大使との会談が箱根で開始されている。
 さらに6月9日には内大臣木戸幸一は、ソ連を仲介とする独自の和平試案を起草(きそう)し、外務、陸軍、海軍に説明すると同時に天皇に言上(ごんじょう)していた。
 試案のポイントは天皇の親書を携(たずさ)えて特使をソ連に送り、対米英との仲介を依頼する。和平の最低条件は、国体の護持と皇室の安泰にあるというものであった。
 このタイプされた木戸の試案を天皇は熱心に読んだあと、『ひとつ、やってみよ』という意味のことを言ったという。このとき木戸が考えていた特使は、なんと元首相の〝反共産主義者近衛文麿だった。
 しかし、歴史が証明しているように、このときスターリン首相率いるソビエト連邦は、米英など連合国に対日参戦を確約し、その準備に邁進している真っ最中だったのである。」
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 ウィキペディア
 日本の降伏
 終戦工作の例
 日本軍が有利な展開なうちに早期に休戦・終結させる試みは、1942年(昭和17年)の時期から一部の政治家・官僚・民間人の間で摸索された。しかし、戦争勝利を大義とした東條内閣及び軍部により弾圧され、中野正剛のように自決に追い込まれる者もいた。終戦工作としては、他に以下のようなものが知られる。
・燕京大学学長ジョン・スチュワートや上海市長周仏海を仲介者とする和平工作
・日本軍今井武夫参謀副長と中国国民軍何柱国上将との和平協議。
・水谷川忠麿男爵(近衛文麿の異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作
・駐日スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作。また、小野寺信駐在武官もドイツの親衛隊諜報部門の統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共にスウェーデン王室との間で独自の工作を行った。だが、ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた。
・スイスにおけるアメリカ戦略事務局のアレン・ダレスを仲介者とした岡本清福陸軍武官・加瀬俊一公使や藤村義朗海軍武官らによる和平工作
これらはいずれも和平条件の問題や日本側による仲介者への不信、時機などから、実現には至らなかった。
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 岡本 清福(おかもと きよとみ、1894年(明治27年)1月19日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は日本の陸軍軍人。最終階級は中将。陸軍大学校卒業(37期)。
和平工作への関与
 1945年6月頃、岡本はスイスの国際決済銀行理事で横浜正金銀行員だった北村孝治郎を呼び、アメリカに和平の希望があるのならそれに応じる用意があるという前提で、北村および同じく国際決済銀行為替部長の吉村侃の二人で和平工作に当たってほしいと依頼する。北村はスイス公使の加瀬俊一の内諾を得た上で、7月に入ってから国際決済銀行顧問だったペール・ヤコブソンを介して、アメリカの情報機関Office of Strategic Services(略称OSS。現在のCIA)でスイス支局長(ヨーロッパの責任者はロンドンにあるヨーロッパ総局のデイヴィッド・ブルース)だったアレン・ウェルシュ・ダレスと接触する(接触ヤコブソンが別個に両者と会う形でおこなわれた)。ダレスからは、日本のしかるべき筋から降伏受諾についての公式な表明があれば、直接交渉の接触に必要な準備を取るという反応を得る。これを受けて、岡本は7月18日に陸軍参謀総長梅津美治郎宛に意見具申の電報を送ったとされる。加瀬公使もこれを受けて(岡本の電報が東郷茂徳外務大臣にも渡っていることを前提に)、スイスにおけるダレスとの和平工作を説明する電報を外務省宛に送った。しかし、岡本の電報は梅津の目に触れていなかった可能性が高く、外務省はソ連を介した和平交渉を最優先としていたため、この情報が生かされることはなかった。一方、アメリカ側ではポツダム会議前後の7月13、16、18日、8月2日付で、ダレスから統合参謀長会議や国務長官に宛てて、ヤコブソンからの情報が伝えられた。とりわけ8月2日付の報告では、岡本や加瀬が日本に和平を促す電報を打ったこと、「在スイス日本人グループ」(北村・吉村・加瀬らを指す)はポツダム宣言を戦争終結への道筋を示した文書と評価した電報を日本に打ったことが記されている。彼らは日本政府が何らかの決断を下すことを期待していること、日本のラジオが伝える内容は士気を維持するための宣伝なので真に受けぬよう求めていること、公式回答はラジオでなければ何らかのチャネルで伝えられると見ていることが述べられている。最後の報告に関しては、これをトルーマン大統領やバーンズ国務長官が読んだという証拠はない。仮に彼らがその存在を知っていたとしても、トルーマンは日本が無条件降伏を拒否することを予期し、当初から交渉に応じる考えはなかったという見解も唱えられている。
 8月12日に「スイス公使館付武官」名で「天皇の御位置に関する各国の反響」という電報が陸軍省に届けられた。この中にはアメリカ政府は民主的政府樹立のために天皇が障害とならないとみなしていることや、イギリスの元駐日大使であるロバート・クレイギーが「アメリカが日本国内の混乱を避けようとするなら、皇室の維持は絶対に必要」と語ったことなどが記されていた。長谷川毅はこの情報は「武官から宮中に伝えられたと想定できる」としている。
 岡本は自決に当たり、和平工作の資料を遺すよう手続を取ったとされるが、それを引き取った補佐官が戦後焼却処分としたため、現存していない。
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 藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年(明治40年)2月24日 - 1992年(平成4年)3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。
 和平工作とその実状
 藤村の主張
 藤村が太平洋戦争末期に和平工作に携わったことは、戦後の1951年に雑誌『文藝春秋』5月号に藤村自身が発表した「痛恨!ダレス第一電」と題する手記によって広く知られることとなった。この中で藤村は、
・1945年4月23日に和平工作を開始することを決め、ハックからダレスの秘書フォン・ゲベルニッツ(藤村は「ゲバーニッツ」と記載)に連絡を取り、先方からは交渉を開始して差し支えないという回答を得た
・5月8日に、東京の海軍省に対して、ダレスとの工作についての最初の電報を打った。これに対して海軍省からは「敵による陸海軍離間策ではないか」との回答が来た
・驚いてそのような意図はないことを述べて、説得する返電を送った。さらに自らが東京に行って話す方法はないかという電報を送り、一方ダレス側からは、アメリカが責任を持ってスイスまで運ぶので、大臣か大将クラスの代表者を呼べないかという提案を受けた
・しかし、6月下旬に海軍省から「趣旨はよくわかったから、この件は現地の公使などと連携して善処されたい」という回答が来た。これを見て「東京に人なし」と痛憤した
といった内容を記している。
 これにより、藤村は「幻の和平工作に携わった人物」として一躍脚光を浴び、その後も和平工作について書いたり話す機会を持った。その中で、当初なかった内容が加わっていった。たとえば、
OSSとの接触は自分自身でもおこない、ダレスとも直接会見した
・藤村は実に35本もの電報を打ったが全て外務省に握り潰された
・現地の8月14日午後(日本時間8月15日早朝)、つまり玉音放送送出が決まる12時間前、運よく繋がった国際電話で海軍大臣副官が「藤村、あの話(和平の件)、何とかならんかね」と言ってきた。電話を受けた藤村は「ダレスとの交渉の事ですか」と問い返し、傍でこれを聞いたハックは思わず「バカヤロー! 百日遅い! 今頃何を言ってんだ」と怒鳴った
 といったものである(最後のものは1975年刊行の大森実『戦後秘史』で初めて出た)。
 これに沿った内容はテレビ番組で、藤村の没後も取り上げられている。
 アメリカ側の見方
 OSSの文書で藤村の和平工作に言及したものは、藤村が最初の電報を打つ前日の6月4日付でOSSから統合参謀長会議に送られた報告が最初である。この中では、藤村が海軍中央と直接に秘密の電信接触を持ち、信頼を得ていること、海軍のサークルは和平を指向しており、その条件が天皇の保持であること、また日本が食糧を自給できず米と砂糖を朝鮮に依存しており、食料輸入のための商船隊の確保が必要だと主張していることを伝えている。次いで6月22日には同じく統合参謀長会議宛に、「ドイツ人権威」(ハックを指すとみられる)からの情報として、再度「日本からは降伏に先立つ天皇保持の確認要求」が出るだろうと藤村が主張したことが紹介され、ダレスが降伏交渉をおこなった北イタリアのドイツ軍にどのような条件を認めたかを藤村が知りたがっていると記している。なお、これらには、藤村と直接接触した話や藤村の電報にある「日本海軍の高級士官をスイスまで責任を持って運ぶ提案」という内容は出てこない。ゲベルニッツが7月5日付でダレスに送ったと思われるメモには、日本およびスイス駐在の日本の公人についてHという協力者(ハックとみられる)から入手した情勢コメントが記されている。この中でHは加瀬公使を「三流の人物」、岡本陸軍中将を「知性がなく、勇気に乏しい」、国際決済銀行の北村理事を「知的だが日本への影響力はない」などと評する中で、藤村を「在スイスの日本公人の中でそれなりの才幹をもつただ一人」と高く評価していた。ただし、この文中では藤村が海軍大臣宛の電報を「Hの教唆(instigation)によって送った」と記しており、H(ハック)が藤村の工作を誘導していたことも示されている。
 しかし、前記の通り藤村の活動が海軍中央から事実上差し止められ、一方岡本中将・加瀬公使 - 国際決済銀行関係者のルートの活動が活発化すると、報告の中でも藤村の活動は岡本・加瀬ルートの次位の扱いとなる。8月2日付でOSSからホワイトハウスに送られたレポートには、岡本・加瀬ルートに関する報告のあとに藤村のルートの報告も(ハックと思われる「スイス在住の極東の消息に通じるドイツ人」からとして)あげられているものの、そこでは藤村が「即時交戦停止」をうながす7通の長い電報を過去2ヶ月間に東京の上官に送ったが、その返答は海軍はもはや「単独行動」を起こせず、藤村に対して「東京からの命令なしに行動を起こすな、ただし"極めて貴重な接触"は維持せよ」という返事があったと記している。外相にポツダム宣言への考察を伴った電報を打った加瀬らへの言及に対し、藤村はすでに活動を封じられた状況を伝える内容となっていた。
 ダレスとゲベルニッツが戦後に記した回想録『静かなる降伏』(邦訳は1967年、早川書房刊)では、国際決済銀行関係者を通じた和平工作には詳しい言及があるが、藤村については(「スイスで日本の陸海軍スポークスマン(中略)から接触を受けた」とあるものの)具体名などはまったく記されていない。
 海軍中央の見方
 日本海軍中央での藤村(あるいは西原)の和平工作に対するその時点での反応として一次資料で確認されているのは、前記した米内光政の意見(高木惣吉による)と海軍から藤村(西原)に送られた訓電の傍受記録のみである。
 太平洋戦争後、海軍中央にいた人物からこの工作を知った際の反応が複数証言された。部下2人に和平の研究を密かに命じていたという軍務局長の保科善四郎は、6月に藤村の電報を持参した部下が「大変喜んで」おり、保科自身が米内光政に電報を見せると米内も「嬉しそうであった」が、軍令部次長の大西瀧治郎が「陸海軍離反策の謀略」として反対したという[28]。軍令部第一部長の富岡定俊は、直属上司の大西が継戦派であることを意識して、その上位である軍令部総長豊田副武から大西を説得させるべく豊田に相談すると、(富岡は)作戦に心血を注ぐべきで、和平の問題は考えるべきではないと返答され、以降富岡は和平に関する話題に関わらなかったという。豊田自身は戦後の著書『最後の帝国海軍』(世界の日本社、1950年)で「こんな大きな問題を中佐ぐらいに言うのはおかしい」と海軍省も軍令部も危険視し、謀略か「観測気球」という見方だったと述べている。大井篤は戦後の「海軍反省会」において、藤村を東郷(茂徳)や米内が期待していたと述べているが、その「期待」について、東郷はダレスを通じてソ連アメリカの情報を得ることができるという部分であったという。
 藤村の元上司である小島秀雄は「海軍反省会」で、「藤村が小島の命でスイスに行った、と知っていたらもう少し考え方があったと戦後豊田に言われた」と証言している。
 藤村の旧所属であるベルリン海軍武官室は従来よりハックとつながりを持っていた。それに関連して、1944年以前よりハックからアメリカとの仲介の話が持ちかけられていたという証言が残されている。これが事実とすれば、ハックを介した和平工作は、ベルリン海軍武官室として組織的になされていたことになる。有馬哲夫はこれらの点を踏まえ、「藤村のスタンドプレーが、ソ連を仲介としない、米英を相手とする直接和平交渉の目を摘んだといえる」と述べている。
 竹内修司は「藤村工作の評価は今日に至るも定まっているとはいえない」と記している。
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 │日瑞関係トップ│藤村工作│藤村工作その後 │スイス国境│コンタクト│
 バッゲ駐日スエーデン公使のスイス訪問
 Former envoy in Tokyo, Widar Bagge's visit to Switzerland
<バッゲ工作とは>
 戦時中に駐日スエーデン公使であったウィダー・バッゲは日本の終戦に一役買おうとした。その動きはバッゲ工作と呼ばれ、要約すると以下のようだ。
 「1944年9月15日、近衛文麿元総理と知己のある朝日新聞社常務鈴木文史朗がバッゲ行使に米英との和平のあっせんを依頼した。
 鈴木とバッゲは接触を重ね、この工作に重光葵外相も乗り気になった。そして翌1945年3月31日、バッゲと会談する。帰国命令を受けていたバッゲに、重光外相は、スエーデン政府から英国への打診を行い、その結果をストックホルムに駐在する岡本季正公使に連絡するように依頼した。
 しかし4月7日に鈴木貫太郎内閣が組閣され、外務大臣東郷茂徳に代わった。東郷外相もバッゲ工作に賛意を示していたが会談は実現せずに、バッゲ公使は4月13日、ようやく飛行機の座席が取れ、羽田から米子に飛び、満州、シベリアを経由してスエーデンに帰国してしまった。
 バッゲ公使は帰国後、日本公使館を訪ねたが、岡本季正公使(Suemasa Okamoto)は何も知らされていなかった。また岡本が外務省に問い合わせたところ、極めて消極的な回答がなされ、その報を5月23日に聞いたバッゲは工作を打ち切った。」
 (「偕行社近現代史研究会 松田純清」 定例会発表資料および「ウィダー・バッゲ供述書」より抜粋)
<バッゲのスイス訪問>
 もともと実現の可能性は極めて低い和平工作であったが、これで日本終戦外交の舞台からバッゲは消えた。しかしその後まもなくしてバッゲはスイスを訪問し、加瀬俊一(かせしゅんいち, Shunich Kase)スイス公使と与謝野秀書記官と懇談をした事は、あまり知られていない。その内容が本国に送られたのが以下の電報である。(一部筆者補足)
 1945年6月11日 在スイス加瀬公使より東郷外務大臣宛て
 「日本の対中立政策及び和平問題に関するバッゲとの懇談について」
 8日“バッゲ”駐日スエーデン公使、本使を来訪。与謝野を交え懇談したるが、同人談話中、参考となるべきもの、下の通り
 1 (バッゲは)今般スイス政府当局とも会談の機会ありたるが、日瑞(日本―スイス)関係が意外に悪化しているは驚きたり。 自分は(スイス)当局者に対し、日本の事情等を説明し、両国関係を悪化せしむることは、日瑞関係の為に何ら益なきことを、スイスと略々(ほぼ)同様の立場にありたるスエーデン公使としての経験より話おきたり。
 カミーユ・ゴルジェ(駐日スイス,Camille Gorgé)公使がナーヴァスになっていることは、自分も承知している所なるが、日本も中立国を大切に取り扱われる事、日本の友人として希望に堪えず。
 (日本の)憲兵及び警察官の態度の為、国交を害するが如き事は、全く惜しむべし。
 2 日本の和平説種々、流布せられる所、米国人が無条件降伏を唱えている内は、問題にならざるべく。いわんや皇室にまで、累を及ぼさんとするやの行動に至りては、全く日本を知らざるものと、言うの他なし。
 なお最近の和平説は、日本がソ連を通じ、英米と話し合いを付けようとするやに伝えられる所、自分はこれを信じないが、もし日本側の一部に斬る考えあれば、これが見当外れと言うの他なく、和平の成立を最も希望せず日本の力尽きたる瞬間に、甘き汁を吸わんとするものはソ連なりと考える。
 今次ソ連内旅行に於いても、西方より東方に移動する列車特に飛行機の数には“インプレス“せられたり。
 3 中立国のみならず、赤十字の取り扱いに付いても日本側が進んで、これを利用するの態度に出てられんこと、希望に堪えず。自分は“ジュノー”博士(Marcel Junod)とも懇談したるが、同人は日本のためにも決して不利ならずとの印象を受けたり云々。
 (ちなみに同公使は仏国内にある財産整理の為、パリに飛来し、当国(スイス)にも立ち寄りたる旨、語りおるが、スイス政府及び赤十字側の依頼を受け、事情説明に、当国を訪問せるものと察せられたり。)
<電報の分析>
 終戦直前で「日本の和平」の題名のスイス発の上記電報に関し、筆者が関心を持つのは次のような点だ。
 1 この電報は外務省編纂「日本外交文書」という資料集に収められている。国会図書館では開架式書架に収められ誰でも閲覧可能である。一方外交史料館の史料を検索しても出てこないようだ。原文はおそらくそちらには保存されていないのではないか?また日本の外交電報を傍受解読していたアメリカ側の史料から引用した事例も、筆者は寡聞にして知らない。
 2 加瀬公使が見抜くように、バッゲのスイス訪問の真の理由はスイス政府およびスイスに本部を置く国際赤十字の要請である。バッゲが帰国した1945年5月頃はまさにドイツが敗北した時期で、シベリア鉄道を経由して欧州に戻った人間は彼くらいのはずである。
 一方軽井沢に疎開中のゴルジェ駐日公使は相当神経質になっていて、軽井沢での生活の窮状を訴えるような電報などが本国に打たれていた。またジュネーヴに本部を置く国際赤十字では、マルセル・ジュノーが日本に向かう直前でもあった。ジュノーは終戦直後に広島に医料品を届けたことで知られる。スイスとしてはバッゲから最新の日本の情勢を知りたいと思ったはずである。
 3 バッゲは一方、加瀬公使を通じて日本に対して、(戦況が不利な中)こうしたスイスのような中立国、国際赤十字のような機関をうまく利用するよう促し、日本に駐在する彼らの代表を丁重に扱うよう求めた。自身が滞在した日本ではその反対を感じたのであろう。
 4 また日本がソ連を通じ英米と交渉に入ろうという和平の噂が述べられている。この時期、すでに相当流布していた裏付けとなろう。そしてバッゲ自身はシベリア鉄道で帰国の途中、東に向かう列車、飛行機の数の多さに驚く。
 5 バッゲが重光外相らと和平の模索をしたことは述べたとおりであるが、一方の加瀬俊一スイス公使は、ドイツの降伏に接し、敗戦国となった公使らとの会話で心が動き始め、5月14日には自分の意見として、交渉による和平を本省に訴えている。
 そして最後に「和平の方策として好ましいのは、ソ連に仲介を委ねることである」と、長文の具申電を東京に送ったわけだが、バッゲはソ連に仲介を頼むことを「見当外れ」と言っている。そのためではないであろうが、加瀬はその後はアメリカとの直接の交渉を後押しする。
 バッゲと加瀬は心の中には日本の和平への取り組みの思いを抱きつつも、それを披瀝しあうことはなかったのは、悔やまれるところである。
<与謝野秀書記官の考え>
 今回の懇談で、和平への取り組みの妨げになった一因と筆者が考えるのは、会談への与謝野の出席である。加瀬公使はその後も横浜正金銀行の北村孝治郎を中心とした和平への取り組みに関与し、7月19日に本国に打った電報では
 「(スイス陸軍武官)岡本(清福)中将とは根本において同意見なるも、、、与謝野書記官は全然不同意、鶴岡以下の館員は一切関知せず」
 とある。与謝野は公使館では加瀬公使に次ぐポジションである。加瀬の和平への取り組みに全く同意しない、与謝野が同席していては、バッゲに対しても話を出すことは出来なかったであろう。
 与謝野は戦後、反対した理由について、自著に次のように書いている。
 「東京が決心しなければ、出先限りで勝手なことをして、たとえ先方と話が進んでも、またまた日本にひっかけられたという事がオチで、返って悪い結果になるからだめだというのが、日米交渉はじめ過去の苦い経験を知る私の意見だった。
 1日も早く和平という点では一致しながら、方法論で公使や岡本(清福)中将と私は多少意見を異にした。」
 (「その日、あの日 ヨーロッパの想い出」与謝野秀より)
 しかし与謝野は、自説に基づき本国が動くよう何か働きかけたかということもないようだ。歌人与謝野鉄幹、晶子を両親にもつゆえ、リベラルな思想を持つかと思われるが、終戦への取り組みでは慎重であった。しかしこれが、欧州に駐在したキャリア外交官の一般的な考えであったと言えるかもしれない。与謝野の反対(消極さ)がスイス和平工作失敗に、だめ押しをしたといえようか?
<与謝野書記官の会見記録>
 与謝野はバッゲとの会見から1年ほど後、「一外交官の思い出のヨーロッパ」にその時の様子を書いている。
 著書の中で、バッゲの終戦工作については一切触れられていないので、この時点ではまだ日本では知られていなかったか、少なくとも与謝野は知らないようだ。
 「バッゲは日本の皇室より受けた寵遇に対する感激などを語った後、次のように述べた。
(日本に滞在する中立国などの)外国人に対する日本の憲兵や警察の態度の為に、日本の国民がどんな不利を招くか。本当に残念だが、国民が了解するときはもう時機遅れだ。(後略)。
 バッゲがスイスへ来てみると、マニラ事件その他でスイスの対日感情が悪化し、国交も危なくなっていたので、驚いて私どもに、注意してくれたのであった。」
 中立国人の扱いに注意するよう加瀬公使名で本国に打電したのは、すでに見たとおりだ。
またバッゲが皇室より受けた寵遇とは、1945年3月に受けた勲三等の叙勲を指していようか?
<奇妙な人事>
 テーマから少し離れるが、与謝野についてもう一つ書く。遣欧使節団の任務を終え、スイスに赴任した与謝野は1944年8月ころ(加瀬俊一が阪本瑞男公使の死去後に赴任した翌日)、スイスからドイツへの異動を命じられた。
 誰もがドイツの近い崩壊を予測し、ベルリンの日本大使館ですらスイスの強化を名目に、苦労して大使館員らのスイス滞在ビザを取得し、多く避難させていただけに、そのスイスから出るというのは普通ではない。ましてやフランス語が専門の与謝野はベルリンで活躍できるとは思えない。
 ベルリン出張中に噂を聞いた岡本中将は、与謝野に
 「新任加瀬公使とあなたの仲は良くない。加瀬公使の着任を機にあなたをベルリンに呼んで、まとまりの悪い(ドイツ大使館)館内を引き締めようという噂がある。」と告げている。そしてその後すぐに、実際にドイツ異動の話が来た。先述の本の中で加瀬公使との不仲説を、与謝野本人は否定しているが、この噂の中に若干の真実がありそうである。また加瀬と与謝野が不仲であったとすれば、共に和平に取り組むことも難しかったかもしれない。
 そして数か月後の翌年2月21日、与謝野は再びスイスへの入国の申請をしている。3月7日にベルンの日本公使館は、さらに5人の外交官の入国を希望するが、その際「少なくても与謝野には入国許可を」とスイス外務省に説明した。
 こうしてドイツ敗戦直前の3月18日に与謝野はベルリンを離れ、スイスに入ることが出来た。ソ連軍はベルリンに60キロの地点まで迫っていた。スイス側には与謝野に関して、「前の駐在時の良い印象から入国を認めてよい」という内部資料が残っている。(スイス公文書館資料より)
 このわずか5か月のベルリン滞在の後、再びスイスという計画性のない動きの理由も不明である。日本の外務省は与謝野のスイス入国後の4月17日付けで与謝野の辞令を起草しているので、出先であるドイツ大使館(大島浩大使)の判断で進められたと考えられる。一つはっきりしていることは、これで与謝野には東からのソ連軍、西からの連合国軍に捕まる可能性、市街戦に巻き込まれる可能性が無くなったことである。
 そこには与謝野鉄幹、晶子の子息であることが影響していようか?ちなみ重光葵外相の甥、重光晶官補もフランス引き揚げの直後の1944年秋、ドイツからスイスに異動となっている。
 (2016年10月16日)
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 戦争を止める権利は、勝者・強者にあって、敗者・弱者にはない。
 敗者・弱者が、白旗を揚げ、武器を置き、両手を挙げ、抗戦意思がない事を示しても、それを認めて受け入れるかどうかは勝者・強者が決める事である。
 つまり、敗者・弱者には如何なる権利もない。
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 日本の悲劇は、昔も今も、霞ヶ関論理である、横の繋がりを拒否する縄張り意識の強い縦割り行政である。
 現代では、永田町のムラ論理が日本を堕落崩壊させつつある。
 そして、日本人特有の排他的独善的自己満足的な蛸壺体質、つまり日本人は対人不信感が強くお互いを信用していない。
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 永田町のムラ論理とは、ITに無知で専門用語一つも知らず端末に触った事がない田舎者丸出しの政治家をIT担当大臣に任命して適材適所の人材と発表し、日本の代表として国際会議に出席させる事である。
 彼の口癖は「初めてだったから」(村山富市元総理)である。
 適材適所の人材には、高学歴出身という学識が最優先要件で知識や能力は考慮されない。
 自分で考えず、自分の思いを日本国語か外国語で話さず、霞ヶ関エリート官僚が作成した無味乾燥的メモを一字一句間違いなく読み上げるだけである。
 そして永田町のムラ論理では、事後の責任追及を回避する為に不利になる公式・非公式の議事録を公文書として残さない。
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 江戸時代は、中間管理職である庄屋・名主は、村の揉めごてがに問題となって追及され、身に覚えない罪問われ責任を押し付けられる事を避ける為に、記録を公文書として残していた。
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 霞ヶ関論理と永田町のムラ論理に共通する点は、硬直化して変化を好まず、自分達の決定に従わない提案は全て不適格として排除する事である。
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 「人を見たら泥棒と思え」が、日本人の本質である。
 如何に近代化しても、日本人からムラ意識や百姓根性を払拭できなかった。
 日本民族日本人には、哲学や思想は適しているが主義主張のイデオロギーは不向きである。
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 グローバル思考の現代日本人は、物語や時代劇は好きだが歴史や神話そして民話・昔話は嫌いである。
 彼らに歴史を語る、特に日本史を評価し当時の日本人を批評する資格はない。
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 アメリカとイギリスは、戦争開始以前から日本の外務省の暗号極秘電文を傍受し解読し、日本側の意図をよく知り、さらには日本国内の協力者から裏付けの国家機密情報も得ていた。
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 終戦交渉失敗とヒロシマナガサキの原爆投下の原因は、昭和天皇と政府及び軍部が敗戦国となるにしても自主独立国家としての名誉と尊厳と意地を保つ為に国際法に則った、国家と国家による正式交渉にこだわり続けた為である。
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 昭和天皇や軍国日本の失敗は、日本国と日本民族の命運を賭けて、信用してはならないソ連スターリン共産主義勢力に和平の望みを託して終戦工作の仲介を依頼した事である。
 ヒロシマナガサキの原爆投下の原因は、日ソ中立条約を結んでいたソ連スターリン共産主義勢力、左翼・左派の裏切りにあった。
 それは、現代でも変わりはない。
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 日本国内には、日本とアメリカとの直接終戦交渉を潰したい勢力が存在していた。
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 アメリカは、如何に昭和天皇や軍国日本が講和・停戦・降伏・終戦を求めても受け入れない政治的理由があった。
 つまり、昭和天皇や軍国日本はミッドウェー海戦敗北、サイパン島敗北、沖縄戦敗北などを契機としてヒロシマナガサキ原爆投下実験前に戦争を止める事はできなかった。
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 ソ連スターリン共産主義勢力の系譜を受け継ぐのが中国共産党である。
 マルクス主義社会主義共産主義は、平和勢力ではなく、陰謀をめぐらし、人民革命という戦争を起こす血と死体を好む虐殺者であった。
 ソ連軍とロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人避難者(主に女性や子供)を虐殺し北方領土4島を強奪した。
 スターリンの狙いは、日露戦争の復讐戦と北海道・北方領土4島を含む日本領土の割譲であった。
 アメリカのルーズベルト大統領は、昭和天皇や軍国日本が降伏する意思を知りながら、ルタ会談でスターリンの要求を全面的に認めた。
 スターリンは目的を成功させる為に、悪辣にも昭和天皇や軍国日本にウソを吐き戦争終結と平和回復の望みを抱かせ続けていた。
 軍国日本は、ソ連・ロシア人を信じ、スターリンに望みを託し、それ以外の手段を切り捨てた為に滅亡した。
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 マルクス主義者である革新官僚や少壮軍人エリート官僚そして報道機関の花形記者らが、分別なき単細胞的右翼・右派や軍国主義者・民族主義者らを精神論で煽って戦争を始め、情勢分析ができない血気だけの学力優秀な少壮軍人を精神論で煽って徹底抗戦・本土決戦・降伏反対を声高に主張させた。
 革新官僚は、敗戦後も官公庁に残った。
 少壮軍人エリート官僚の一部は、敗戦後、日本共産党日本社会党に入党し、GHQの日本改造占領政策に協力した。
 彼らは、マルクススターリンではなくレーニンの信奉者であった。
 レーニンは、世界共産革命戦略としてアジアで中国めぐる日米戦争を引き起こすべく陰謀を巡らしていた。
 レーニンの日米戦争勃発陰謀に協力したのが、最初は孫文であり、孫文死後は蔣介石と毛沢東であった。
 日本は昔も現代も、中央の成績優秀なエリートより地方の現場で動いている非エリートの方が有能であった。
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 日本民族日本人が好きな「負けて勝つ」や「負けるが勝ち」や「潔く負ける」は、人類の戦史において存在しない。
 人類の歴史に於いて、卑怯であろうが、汚かろうが、勝てば官軍である。
 歴史の教訓は、負けた者は死滅か奴隷かの二者択一しか存在いない。
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 現代日本ヒロシマナガサキ原爆投下前に戦争を止めなかった昭和天皇や軍部を戦争犯罪者として糾弾しているが、それは歴史はもちろん戦争や平和が理解できない証拠である。
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 現代日本の政治家、官僚、企業家・経営者は、終戦時の重臣、政治家、官僚、軍人、企業家・経営者はおろか開戦時の重臣、政治家、官僚、軍人、企業家・経営者よりも劣っている。
 それ以上に、メディア・報道機関には雲泥の差がある。
 ましてや昭和天皇に遠く及ばない。
 さらには、誰一人、昭和天皇を批判・非難する資格はない。
 現代日本が当時の日本に及ばない証拠が、東日本大震災福島第一原子力発電所事故そして武漢ウイルス感染症拡大防止の後手後手、狼狽ぶりである。
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