🎹35:─1─日本陸軍とイスラム教との防共回廊。大日本回教協会会長林銑十郎。~No.222 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本陸軍は、対ロシア・対ソ連・対共産主義の防衛戦略から中央アジア・中東の知日派イスラム教勢力との防衛回廊を模索していた。
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 共産主義は、日本国とイスラム教にとって共通の敵であった。
 キリスト教もまた共産主義の敵であった。
 全ての宗教にとって、反宗教無神論共産主義は滅ぼすべき敵であった。
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 日本陸軍は、地球規模の地政学に基づく世界戦略からソ連共産主義勢力包囲網を模索していた。
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 日本は、アジア各地から逃げてきた独立派や民族主義者の亡命を受け入れ、右翼やアジア主義者らは亡命者を支援していた。
 日本陸軍の各特務機関は、亡命者を手足として使う為に優秀な青年を選んで軍事訓練を施して帰国させた。
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 軍国日本は、アジアの希望の星であった。
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 ウィキペディア
 ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー(バシキール語:Мөхәмәтғәбделхәй Ҡорбанғәлиев,、トルコ語: Mehmet Abdülhay Kurbanali、ロシア語: Мухаммед Габдулхай Курбангалиев、1889年-1972年8月22日)は、ロシア出身のバシキール人政治指導者。ロシア革命時に白軍と結んで赤軍に抵抗した後、日本に亡命。日本におけるムスリムコミュニティの指導者として活躍し、東京モスクの設立にも尽力したことで知られる。
略歴
 バシキール民族運動
 クルバンガリーは、1889年にロシア帝国のオレンブルク県チェリャビンスク郡に生まれた。当地で有名なイシャーンであった父と共に、宗教活動に携わった。
 1917年にロシア革命が起きると、クルバンガリーは、バシキール民族運動に身を投じた。1917年5月に全ロシア・ムスリム大会が開かれると、バシキール人代表団はタタール人の主導で進められる大会に反発し、バシキリアの領域自治を掲げて自立化に向かった。アフメト・ゼキ・ヴェリディに率いられたバシキール人の主流派は、白軍のコルチャーク派について、赤軍と戦った。
 一方、クルバンガリーは、主流派のヴェリディと対立して、領域自治、土地社会化に反対。文化的自治を主張し、バシキール人独自の宗務局の設立を求めた。1919年にヴェリディが赤軍側に寝返ると、クルバンガリーは白軍のコルチャーク側に留まり、1920年のコルチャークの敗死後は、日本軍の仲介でチタのセミョーノフの元に身を寄せた[2]。
 日本での活動
 1930年代前半に撮影された写真。後列左から2番目がクルバンガリー。(前列左から、五百木良三、犬養毅頭山満、古島一雄、後列左から、足羽清美、マビヤル・シャムグノフ(神戸モスクのタタールイマーム)、嶋野三郎)
 セミョーノフの支援を行っていた日本陸軍は、1920年の初めからクルバンガリーとも接触しており、満洲に亡命してきたクルバンガリーを保護したほか、1920年12月、1921年1月の2回に渡り、日本のハルビン特務機関長四王天延孝を介して、クルバンガリーを訪日させた。東京では、満鉄初代総裁で日露協会会長の後藤新平や、大隈重信とクルバンガリーの会見も行われた。
 一方でクルバンガリーも、自らの反ソ活動への支援を求めて日本に接近した。1922年1月から、満鉄調査部の嘱託として採用され、1924年からは東京に移住し、活動拠点を日本に移した。当時、ロシア内戦から日本に逃れてきた白系ロシア人の中に、タタール人等のムスリム亡命者も多く含まれていた。クルバンガリーは、イマームとしてタタール人コミュニティを指導する一方、陸軍、政財界、黒龍会等の民間右翼団体に接近して、反ソ運動への支援を呼びかけた。
 クルバンガリーは、1924年に在京ムスリムを糾合して「東京回教団(トルコ語:Mahalle-i İslamiye)」を結成。1930年には、渋谷区富ヶ谷に「回教学校(トルコ語:Mekteb-i İslamiye)」を開校し、在京タタール人子弟へのイスラーム教育、タタール語教育を行った。また、「回教印刷所(トルコ語:Matbaa-i İslamiye)」を同校に併設して、クルアーンタタール語書籍の出版を行った。同印刷所では、雑誌『日本通報(トルコ語:Yapon Muhbiri)』や、新聞『真理の宣言(トルコ語:İlan-ı Hakikat)』も印刷され、日本内地、朝鮮、満洲などに居住する極東タタール人コミュニティをはじめとして、世界33カ国のムスリム向けに配布された。
 また、クルバンガリーは、東京にモスクを建設する運動を行い、日本人有力者への協力を求めて活発にロビー活動を行った。東京モスクの建設費用や、渋谷区代々木上原大山町に確保した建設用地は、元三菱銀行会長の瀬下清をはじめとする日本人有力者による寄付で賄われた。1937年10月に行われたモスクの起工式では、玄洋社頭山満、川島義之陸軍大将、山本英輔海軍大将、小笠原長生海軍中将ら、陸海軍の重鎮が来賓として招かれた。
 こうした軍部の手厚い支援の背景には、大陸で勢力拡大を進めていた陸軍が、現地のムスリム住民への政治工作を行う上での足がかりとして、在日ムスリム社会の役割を重視していたためといわれる。特に、1930年代後半以降、日本軍が華北一帯を勢力下に収め、その政治工作範囲がムスリム住民の多い陝西、甘粛、新疆の各省に拡大すると、軍部の在日ムスリム社会への関心も急速に高まっていった。
 対立から追放へ
 クルバンガリーは、在日タタール人を組織し、その影響力は日本の軍部にも及んだが、東京回教団内部には、その強引な手法を批判する反対派も生じていた。1933年には、タタール人活動家のガヤズ・イスハキーが来日し、「イディル・ウラル・トルコ・タタール文化協会」を設立すると、在日タタール人社会は、クルバンガリー派とイスハキー派の二派に分かれて激しく対立した。前者は陸軍、警察、民間右翼団体の、後者はトルコ共和国大使館、神戸のインド系ムスリムの支持を受けていた。この対立は、1934年2月11日に、神田区岩本町にある和泉橋倶楽部にてイスハキーが行っていた講演会をクルバンガリー派が襲撃し、多くの負傷者を出すまでにエスカレートした。在日ムスリム社会の対立解消を求める外務、陸軍、海軍の各省はこれを問題視し、クルバンガリーの追放と、その後継にアブデュルレシト・イブラヒムを据えることを決定した。
 1938年5月5日に、クルバンガリーはスパイ容疑で警察に逮捕され、国外退去を求められた。クルバンガリーは、6月14日に東京を発って、大連に向かった。逮捕直後の同年5月12日には、クルバンガリーが中心となって建設を進めてきた東京モスクの竣工式が予定されていたが、クルバンガリーが出席することは叶わなかった。竣工式は、頭山満、葛生能久ら日本人の主導で進められ、イブラヒムがイマームとして礼拝を取り仕切ることとなった。在日ムスリム組織の一本化を求める陸軍の意向を受け、6月には東京回教団は解散し、イブラヒムを団長とする「東京イスラム教団」が新たに設立された。
 追放後のクルバンガリーは、大連、奉天満鉄調査部の活動に協力したが、現地のタタール人社会に溶け込むこともできず、その影響力は限られていた。妻子を東京に残したクルバンガリーは、その後も頭山らを通して東京への帰還要請を行っていたが、日本政府はこれを認めなかった。
 1945年8月にソ連が対日参戦をすると、満洲にてソ連軍にセミョーノフらとともに逮捕され、1955年まで、モスクワ東方のヴラディミル監獄で収容生活を送った。釈放後は、チェリャビンスクの親類に身を寄せ、宗教指導者として余生を過ごし、1972年に死去した。
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 イスラム
 イスラーム教、イスラームは、唯一絶対の神を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教(かいきょう)または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。
 ユダヤ教キリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一柱であったが、ムハンマドがメッカを占領した際、カーバ神殿に存在した全ての神々の像を破壊し、多神教及び偶像崇拝を戒め、アッラーのみを崇拝するようになった。

 日本とイスラム
 「日本の宗教」および「日本のイスラム社会」も参照
 日本では、イスラームが一般ではなく、信者数も少ない。しかし、中東出身者を中心に信者がおり、その数は日本全国で7万人とされる。ただ、日本国内の信者の数は、信用できる統計があまりなく、5万人とする説もあれば、20万人近い数字をあげる者もいる。日本の行政上、各宗教の信者数を正確に数える事は無い。文化庁宗教年鑑を発行しているものの、神道や仏教の信者数を合わせるだけで、日本の総人口を超えてしまうなど、日本の行政は、各宗教の正確な信者数については重視していない。イスラームはその中でも「諸教の諸教団」として分類され、天理教や円応教などと、ひとまとめにされている。
 日本にイスラーム教徒が初めて登場したのは、明治維新後の開国の時代になってからである。日本に滞在したロシア人やインド人、トルコ人などの中には、イスラム教を信仰する者が少数ながら存在し、彼らによって布教されたと一般的に考えられている。特に、ロシア革命で祖国を離れたカザフ人が、日本のイスラームに大きな役割を果たした。最初期の日本人ムスリムに、明治時代に長くインドで貿易商をしていた有賀文八郎がいる。 日本には、1931年に日本国内初のモスクとして愛知県名古屋市に建設された名古屋モスク、兵庫県神戸市中央区の神戸モスクや、東京都渋谷区にあるトルコ系モスクの東京ジャーミイ(当時は東京回教学院)などある。

 日本のイスラーム関係の著名人
 大川周明
 井筒俊彦
 林銑十郎(大日本回教協会会長)
 四王天延孝(大日本回教協会副会長)
 フマユン・A・ムガール(ジャーナリスト、評論家、経営者)
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 林 銑十郎(1876年〈明治9年〉2月23日 - 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。
 斎藤内閣と岡田内閣の陸軍大臣を務めた後、内閣総理大臣(第33代)となり、文部大臣を兼任、組閣直後には外務大臣も短期間兼任した。
 来歴
 石川県金沢市小立野に旧加賀藩士林孜々郎の子として生まれる。母は別所さは(別所兎毛三の四女)。
 金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894年(明治27年)7月、日清戦争が始まると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1896年(明治29年)11月26日に卒業(第8期)。1897年(明治30年)6月28日、歩兵少尉任官、歩兵第7聯隊附となる。1903年明治36年)、陸軍大学校第17期を卒業。
 1904年(明治37年)に始まった日露戦争に歩兵第6旅団(旅団長・一戸兵衛少将)の副官として従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、1934年(昭和9年)1月に齋藤内閣の陸軍大臣(第25代)に就任、引き続き岡田内閣で陸軍大臣を務める。この頃、陸軍の現役将官クラスに加賀藩(加越能)ゆかりの出身者が多く占め、「加賀陸軍」と言われる隆盛を迎えた。また、林陸軍大臣の政策最高スタッフである陸軍省軍務局長に永田鉄山少将(16期首席)を登用したことで、統制派VS皇道派の抗争が激化する因を作った。
 1935年(昭和10年)8月、陸軍省にて執務中の永田軍務局長が相沢三郎歩兵中佐(22期)に斬殺される出来事がおきた(相沢事件)。永田の政治手腕に依存する林は、失意のうち翌月には川島義之大将(10期)に陸軍大臣の椅子を明け渡している。
 1937年(昭和12年)2月2日、第33代内閣総理大臣となる。林内閣は発足当時から色々と評判の悪い内閣だったが、それは林の性格から来ている部分も多い。
 「林内閣」も参照
 1943年(昭和18年) 1月半ば頃から風邪をこじらせ、自宅療養中に脳溢血を発症、そのまま2月4日に薨去。享年66歳。
 意外な所では、林はイスラム教に関連した諸事の第一人者であり、自身は回教徒ではなかったが大日本回教協会の会長を務めている。同協会は在日回教徒のためにモスク・回教会館・神学校・図書館・宿泊所などの設立を目指して活動し、協会誌である『回教世界』を発刊している。
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 日本民族日本人には、絶対神の福音を絶対の真理として生きようとするキリスト教が分からないが、絶対神に全幅の信頼を置き絶対神に全てを委ねて生きるイスラム教が全く理解できない。
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 普遍宗教で信者が数の多いのはキリスト教であるが、年々、キリスト教徒の数は減り、その反対にイスラム教徒数が増え始めている。
 特に若者は、イスラム教に改宗している。
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 ロシアと領土争奪戦争を繰り返していたイスラム教法学者は、宿敵ロシアの侵略を食い止めるべく日露戦争に勝利した日本との友好関係を求めると共に日本にイスラム教を広めるべく、日本に指導者候補を派遣した。
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 昔のイスラム教徒は親日派知日派として、日本がロシア・アメリカ・イギリスなどの西洋キリスト教文明圏と戦い、ソ連共産主義勢力と攻防を繰り返していた為、宗教の垣根を越して日本を非白人種の希望の星として支持していた。
 熱狂的イスラム教徒は、日本人兵士のカミカゼ特攻に「アラーの神の御意思」を見出し、崇高な自己犠牲行為として憧れた。
 イスラム原理主義者は、日本をアメリカに協力して繁栄する敵であったと見なす反日派・敵日派であり、現人神・神の裔を僭称する日本天皇は滅ぼすべき敵であった。
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帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」
帝国陸軍 知られざる地政学戦略 見果てぬ「防共回廊」 (祥伝社新書)