⛅16』17』18』─1─琉球王家の正史『中山世鑑』は1650年に成立した。~No.31No.32No.33No.34No.35No.36 * 

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 琉球王家は、正史『中山世鑑』で、父祖の地を父系社会の明国(中国)ではなく母系社会の日本と認めた。
 明国(中国)を父祖の地と記述した正史は存在しない。
 琉球は、日本に共通する面が多いが、明国(中国)に共通する面は少ない。
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 日本国語と琉球語
 日本神道琉球宗教。
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 琉球人の祖先は、日本民族日本人と同じ南方系海洋民の血をひく縄文人であり、北方系草原の民の子孫である漢族とは違う。
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 『中山世鑑』は、薩摩支配下において書かれた琉球王国の初めての正史である。羽地朝秀が王命により編纂。1650年成立。全6巻。和文体で書かれている。
 正史としての性格上、神話的な琉球開闢説話など正確な歴史とは言い難い。羽地の信条は日琉同祖論で「日本は即ち本であり、本にそむくものは禍に遭う」との立場から琉球独自の風習には批判的で、薩摩の支配圧力を如実に反映している。この信条は薩摩留学の頃に得たと見られ、『中山世鑑』に反映されている。和暦の採用や、源為朝(鎮西八郎)が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする(『琉球神道記』、『保元物語』、『平治物語』などを参考にしたと見られる)記述がある。為朝が琉球へ逃れ、その子が舜天になった事の真偽は不明だが、薩摩支配下での正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのための伝説とも考えられている。この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。
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 舜天(しゅんてん、1166年 - 1237年)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王。在位1187年 - 1237年。神号は尊敦。実在を証明する同時代史料は存在しないが、その名は16世紀頃から見られ、『中山世鑑』(1655年)や『中山世譜』(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。
 概要
 舜天の名自体は、国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にすでに見られ、16世紀には実在の王と考えられていたことが分かるが、より詳しい経歴は、1650年に編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』に見ることができる。
 それによると、沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が25代続いた。この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添按司であった舜天とされている。
 王統は舜馬順煕・義本と3代にわたって続き、1259年に英祖に王位を譲ったとされている。舜天王統の支配力が沖縄諸島にわたることは疑問視されており、巨大な浦添城を中心に沖縄本島の多くの按司ら豪族を従える按司主だったのではないかとの推測もされている。
 『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、舜天は保元の乱で日本を追われた源為朝の子であるという。保元の乱で為朝は伊豆に流刑となったが、その途上、船が嵐に遭い、沖縄本島今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。『中山世鑑』における記述では為朝が上陸した地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。尊敦は15歳で浦添按司となり、天孫氏25世の在位で謀反を起こし中山王に就いた利勇を討ち、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となった。これが舜天と伝えられる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。これが真実であるとすれば、舜天と鎌倉幕府を起こした源頼朝は従兄弟同士ということにもなる。
 『球陽』所載の伝説によれば、舜天は右鬢に角のような瘤があり、それを隠すために右側に髷を結い、人々もそれに倣ったという。これが琉球人の髪型、欹髻(かたかしら)のはじまりとされる。
 日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年(1922年)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。


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