⛅7:─1─カイロ宣言。沖縄戦。尖閣列島戦時遭難事件と中国共産党。沖縄教育連合会。アメリカ軍の重犯罪。1943年。~No.17No.18No.19 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 本土に見捨てられた沖縄の悲劇。
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 沖縄人(ウチナーンチュ)と本土人(ヤマトンチュ)。
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 1609年3月7日(〜4月5日) 薩摩藩琉球征伐。
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 琉球は、中華思想で周辺諸島を支配し、本島人以外の諸島民を下等民と差別して重税を課していた。
 日本人は、善人ばかりではなく、悪人も多くいる。
 琉球人にも、善人はいるし悪人もいる。
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 中華帝国、日本、琉球は、中華思想を持っていた。
 朝鮮は、中華思想を持たず、小中華主義を持っていた。
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 明治政府は、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄とし、「四民平等」の太政官令を持って本島人と離島人の差別的待遇を禁止した。
 宮古島などの離島人は、同じ日本人となる事で本島人からの不当な差別から解放された。
 中華思想華夷秩序で上位者としけ優位を誇っていた中国系琉球人は、面子を潰されて激怒して日本への併呑に反発し、琉球を中国の領土にするべく画策し始めた。
 琉球の国名は、朝鮮国と同様に明国皇帝から下賜されたものである為に、日本の支配下にある事を内外に知らせるべく島名を「沖縄」と改称した。
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 中華皇帝は、アジアの覇王として、臣下となった蛮族に対して国名と民族名と暦を授けた。
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 琉球処分。明治政府は、琉球王国を日本領に編入するするべく1872年に琉球藩を置き、1879年に軍隊を派遣して軍事力で廃藩置県を断行し、琉球人の気持ちを無視して沖縄県を設置した。
 琉球王国を支配していたのは、中国系琉球人と支那党であった。
 琉球王国は、朝鮮王国よりも優遇されていた。
 本当の琉球人は、上下関係厳守の儒教価値観を押し付けてくる中国系琉球人を嫌い、神道を信仰する日本人を同胞として信用していた。
 清国は、伝統的宗主権をもって琉球は清国に属すと主張した。
 グラント前大統領は、先島諸島は清国領、沖縄は日本領とする調停案を示した。
 清国は、琉球全体の領有を主張して、先島分離案を拒否した。
 日本は、沖縄や先島諸島を武力を持って強引に日本領に編入した。
 日本人は、琉球人を差別し蔑み、そして見捨てた。
 中国系琉球人と支那党は、日本ではなく清国への併合を希望して清国軍の来航を切望していた。
 日本人が、真に沖縄の事を考えているかは疑問である。
 特に、左翼・左派のマルクス主義者が本心から沖縄基地問題に取り組んでいるかは疑問である。
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 日本は、尖閣諸島の領有について、日清戦争の開戦前から10年かけて現地調査を行った。
 清国は、日本が尖閣諸島を領有する為に調査している事を知っていたが抗議しなかったし、領有権を主張しなかった。
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 日本の真の生命線は沖縄と台湾であり、日本が独立国として生存するには沖縄と台湾を中華に渡さない事であった。
 故に。軍国日本は、沖縄と台湾を守る為に可能な兵力を投入した。
 そして、10代の少年達をカミカゼとして爆弾を持たせて出撃させた。
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 1943年12月1日 カイロ会談。ルーズベルトチャーチル蒋介石は、数日間会談を行い連合国の対日基本方針を発表した。
 第1次大戦開始以降に軍国日本が奪取、占領した太平洋の全ての島嶼を取り上げる。
 満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還。
 朝鮮の独立。
 軍国日本に無条件降伏を求める。
 尖閣諸島を含む琉球群島は、日本領に留める。
 親中国反日ルーズベルトは、日本国領土を最小限まで切り詰めるべく、極秘提案として蒋介石琉球群島の領有を進めた。
 蒋介石は、日清戦争及び日中戦争における日本軍の手強さと、日本人の日本天皇とへの忠誠心と日本国への愛国心を恐れて断った。
 中国は、沖縄編入の好機を逸した。
 ルーズベルトは、日本憎しの人種差別から、戦争に勝ち占領したあかつきには、昭和天皇を処罰し、日本国を大改造し、多様性を高める為にアジア・太平洋の諸民族を移民させ日本民族と混血させて単一性を消滅させる事を考えていた。
 そして、中国をアジアの盟主に復帰させる事を望んでいた。
 つまり、アメリカの理想主義を日本で実現する為に、天皇制度を廃絶し、日本国を解体しようとしていた。
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 1944年4月9日 第32軍の各部隊への命令書『球軍会報』「爾今、軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分す」
 軍部は、沖縄を差別し、沖縄人は天皇と国家を裏切って敵に内通する恐れがあると疑っていた。
 陸軍は、沖縄と沖縄人を守るのではなく、沖縄を戦場として本土を守る防衛戦略を立てていた。
 沖縄は、戦闘が始まるはるか以前に、既に見捨てられていた。
 大城将保「帝国陸軍沖縄県民を、国家と天皇に対する忠誠心が乏しい、という理由で、潜在的なスパイ容疑者と警戒していた」(『改訂版 沖縄戦』)
 7月7日 東條英機首相は、沖縄守備隊第32軍司令部の意見具申を受け、緊急閣議を開き沖縄の一般住民を安全な本土か台湾に疎開させる方針を決定した。
 沖縄県も、60歳以上15歳未満の者、女性、病人を対象として、沖縄本島宮古島石垣島西表島などから、希望者10万人を本土或いは台湾に退避させる事を決定した。
 同時に、学童疎開も決定し、国民学校初等科第3学年より第6学年までの男児希望者を募った。
 日本政府や日本軍は、戦場も銃後も、兵隊も一般市民も、老人も女子供も、全てを巻き込んで戦われる総力戦の意味を十分理解し、出来うる限りに処置をおこなっていた。
 7月21日 第32軍と沖縄県は、本土からの戦略物資を運んできた輸送船に避難民を乗せて本土に送り始めた。
 8月22日 対馬丸事件
 10月10日 アメリカ軍は、那覇空爆した。
 12月 第32軍は、沖縄県に対して、本土や台湾への県外疎開だけでは一般市民の安全を守りきれないとして、主戦場とはならないと思われる国頭などの本島北部や離島への県内疎開を説明した。
 沖縄県は、地方との調整をおこない、翌45年2月9日に県民に10万人島北部疎開とい島内疎開計画を知らせた。
 県民の一部から、本土防衛と沖縄防衛の為に軍に協力したいという強い要望が出はじめた。
 第32軍は、防衛召集を行い約2万人を集めた。
 さらに、台湾に引き抜かれた戦力を補うべく、10代の男子を根刮ぎ動員して各部隊に配属したが、彼等に与える銃器はなかった。
 軍部は、本土決戦準備の為に時間稼ぎとして沖縄を捨て石として見捨てていた。
 沖縄県民は、本土の日本人から差別されていることが分かっていた為に、自分を犠牲にしても本土の日本人以上に日本人らしくに振る舞おうとした。
 師範学校や中等学校の男子生徒を、志願という名目で1,800人を掻き集めて「鉄血勤皇隊」を組織し、各部隊に配属した。
 師範学校や高等女学校の女子生徒達も、本人希望として集めて「女子学徒隊」(ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊、瑞泉学徒隊、その他)を編成し、軍本部や野戦病院などに振り分けた。
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 1945年1月 大本営は、アメリカ軍の本土侵攻に備えて帝国陸海軍作戦計画大綱を決定した。
 作戦目的は、本土決戦準備の為の時間稼ぎとして、小笠原諸島及び沖縄本島以南の南西諸島を作戦を遂行する為の前縁と位置付け、アメリカ軍が上陸した際は出血を強要して戦争継続の意思を挫くとした。
 硫黄島も沖縄も、捨て石にされた。
 特に。本土の日本人は、沖縄県民を本当の日本人と見なさず見下し差別していた。
 2月 軍部は、沖縄戦に備えて、台湾の基輶(キールン)などから900トンの台湾産米を沖縄に運び込んだ。
 沖縄県庁は、県民が飢えない様に米を配給した。
 3月26日 アメリカ軍は、沖縄本島上陸作戦に先だって、本当西方の慶良間諸島を弾薬や食糧などの戦略物資備蓄基地とするべく上陸占領した。
 県外疎開は、約8万人で、台湾への疎開は2万人であった。 
 県北疎開は、約3万人であった。
 日本政府と軍部は、沖縄県民保護として疎開に本腰で取り組まなかったどころか、戦力不足を補う為に根刮ぎ動員を実施していた。
 日本本土は、沖縄県に対して冷淡であった。
 沖縄県庁のみが、県民を救う為に東奔西走していた。
 日本本土と沖縄の関係は、昔も今も変わりはしない。
 3月30日 イギリス諜報機関であるブレッチリー・パークは、在重慶のフランス大使がパリの外務省に送った「中国が琉球群島の領有を主張」という報告書を傍受した。
 「最近、米軍が開始した琉球群島戦を論評して〔不適切なグロープ〕の〝Shih Shih─Singpao〟(……中国名『時事新報』)が『群島の歴史を顧みて、明時代から19世紀末まで中国に属していたと明言している。
 〝カイロ宣言で中国に返還されるべき領土に含まれるべきところ割愛したため、我々の同盟国が敵国の群島に対する合法的領有権を認めることになったように思える。我々は歴史の恥ずべきエリートを抹消したい。
 この議題は議論されることが必要だ。群島は、日本が戦後放棄すべき、不法に占拠された領土の一つと見なされることが明らかだからだ〟』」
 イギリスとフランスは、アメリカとは違って中国を昔からよく知っていただけに、中国が主張する「明時代から琉球尖閣諸島に対して中国の領有権がある」がウソである事を知っていた。
 よって両国は、中国の主張を支持しせず、沖縄・尖閣諸島を日本から取り上げて中国に渡す事には不同意であった。 
 4月1日 アメリカ軍約18万人は、沖縄本島中部に上陸した。
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 アメリカ軍は、日本軍と島民義勇兵の頑強な抗戦を排除する為に、戦時国際法が禁止している毒ガスを使用した。
 戦争に勝つ事によって、人道に反する犯罪など如何なる戦時国際法違反も無罪にできる。
 ゆえに。アメリカ軍は、記録映写機が回っていない所で女性や子供などの民間人を軍国主義者の一味として惨殺いていた。
 勝てば官軍、負ければ賊軍。
 勝った者は、免罪符を手にして如何なる卑劣な行も無罪となる。
 負けた者は、勝者の非人道的犯罪まで負わされ、如何に人道的行為を行っても有罪とされた。
 それをそそのかしたのが、ソ連中国共産党などの共産主義者であった。
 最も憎む相手は、ソ連コミンテルン中国共産党などの共産主義者であった。
 そして、反天皇反日ユダヤ人である。
 アメリカの軍産複合体は、大量の軍需物資生産で大儲けし、アメリカの戦争バブルが1970年代まで続いた。
 戦争バブルがベトナム戦争の敗北ではじけて、アメリカ経済は不況に突入した。
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 沖縄攻防戦。アメリカ軍は、日本人は兵士も一般人も最後の一人にあるまで抵抗する事から、兵士達に「JAP HUNTING LICENSE(日本人狩猟許可証)」を手渡し女子供に関係なく絶滅するまで容赦なく殺す事を許した。
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 日本軍守備隊約11万人は、長期消耗戦作戦から、水際撃滅戦術を放棄して敵軍の上陸を許した。
 4月2日 上陸地点に近い読谷村で、一般市民が敵の捕虜になる事を恐れて集団自決した。83名中51名が、20歳以下の子供であった。
 同様の集団自決は、日本軍に関係なく、慶良間諸島伊江島沖縄本島などでも起きていた。
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 八重山諸島における戦争マラリヤで、島民約3万1,000人の内約3,600人が死亡した。
 軍による、マラリア発生地帯への無謀な疎開命令で引き起こされた惨劇であった。
 軍は、マラリアが蔓延している事知りながら、充分な医療物資も食料も用意せず強制的に移住させた。
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 2017年2月号 正論(恒川健一)「Mr.フィギュア 今月の一言
 ……
 終戦近く1945年4月11日午後、1機の神風特攻機零戦52型丙)が沖縄東方海上の米国戦艦ミズーリ右舷に突っこんだ。機体は激突四散し甲板上に遺体が投げ出された。戦艦の乗務員は冒涜する行為と怒り狂って海に落とそうとしたが、艦長W・キャラハン大佐は『この日本のパイロットは我々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。国家に命を捧げた有志であると敬意を表し水葬に付したい』と乗務員の反対を押し切り、星条旗に日の丸を描き遺体を包んで、翌12日海軍葬という最高の礼をもって遇した」
 日本は、好敵手のアメリカとは理解し合えるが、中国や韓国・北朝鮮とは分かり合う事はできない。
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 4月12日 アメリカ大統領ルーズベルトは急死した。
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 6月 尖閣列島戦時遭難事件。八重山諸島守備隊は、沖縄本島における戦闘が終了し、次は八重山諸島への米軍上陸が予想されるとして、民間人の疎開計画を立てた。
 6月30日 疎開を希望した高齢者や女子供の約180人(日本人以外に朝鮮人や台湾人も含まれていた)は、民間から徴収した船「第一千早丸」「第五千早丸」に乗船して、台湾の基隆港を目指して石垣島を出港した。
 7月3日 2隻の疎開船は、西表島を経由して尖閣諸島に達した所で、米軍機に発見された。
 米軍機は、非武装疎開船であって敵船舶として機銃掃射と爆撃を行った。
 第一千早丸は炎上して轟沈され、第五千早丸は大破して航行不能となった。
 沈没した第一千早丸の疎開者は全員死亡し、大破した第五千早丸の船内でも多くの者が負傷した。
 尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑「船上は阿鼻叫喚の坩堝と化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た」
 第五千早丸の船員は、米軍機の再来を恐れながら、必死にエンジンを修理して近くの尖閣諸島に船を入港させた。
 生存者は、尖閣諸島に命辛々這い上がったが、そこは無人島で水はあっても食糧がなかった。
 最初のうちは手持ちの米があったが、米が尽きるや雑草やヤドカリなど食べれそうな動植物を食べて飢えを凌ぎ、それさえもなくなるや水の飲んで我慢した。
 皆で助け合いながら救援が来るのを待ったが、ついに、負傷者や体の弱い者から餓死者が出はじめた。
 8月12日 生存者は、このままでは全員が餓死するとして手製の小舟を造り、石垣島に向けて救援を求める決死隊を送り出した。
 8月15日  決死隊は、前日の夜中に石垣島西部の川辺に辿り着き、日本軍守備隊に救助を要請した。
 8月16日 旧日本軍守備隊は、軍用機を飛ばして尖閣諸島に食糧を投下し、生存者達を救出する為の船を徴用した。
 8月18日 旧日本軍守備隊の救助船3隻は、尖閣諸島に到着して生存者を救出した。
 尖閣諸島遭難事件における犠牲者数は不明であるが。
 尖閣諸島で死亡した避難者の遺骨は、中国共産党政府の非難を恐れて収集し慰霊祭も行えず放置されている。
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  沖縄戦時中。アメリカ人兵士は、住民女性を強姦する事件が多発していた。
 アメリカ軍軍法会議は、強姦事件を起こしたアメリカ人兵士に禁錮9年の有罪とし不名誉除隊の判決を下した。
 海軍法務総監は、戦闘終了後の10月に有罪判決を破棄するよう勧告した。
 アメリカ海軍長官は、11月に判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。
 そこには、日本人の命より白人・アメリカ人の権利を優先するという人種差別が存在していた。
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 沖縄戦末期。日本軍守備隊は、アメリカ軍の猛攻で甚大な被害を出し、組織的に抗戦ができなくなり島南端へと退却した。
 島南端の日本軍陣地以外の洞窟は、避難民で一杯であった。
 所属する部隊を失った日本軍兵士は、軍の指揮系統から離れ避難民と一緒に洞窟に逃げ込んでいた。
 避難民の中には、乳飲み子を抱えた若い母親もいた。
 乳飲み子が泣き始めるや、避難民達は泣き声がアメリカ軍に聞かれ、洞窟が発見され攻撃を受けて皆殺しになると恐れた。
 日本軍兵士は、若い母親に黙らせるよう恫喝し、泣き止まないのなら乳飲み子を殺すか、乳飲み子と一緒に洞窟を出るように銃を突きつけた。
 避難民達は、自分が洞窟に潜んで生き残りたいが為に、若い母親を庇う事なく見捨てた。
 若い母親は、乳飲み子の首を絞めて殺し洞窟に留まるか、乳飲み子と一緒に洞窟を出るかの、二者択一の究極の選択を強いられた。
 意識の強い若い母親は、我が子の首を自らの手で絞めて殺しても洞窟内に留まったであろう。
 意識の弱い若い母親は、我が子を殺し、その自責の念で半狂乱となって洞窟を飛び出したであろう。
 そこに居合わせた日本人は、「我が身大事」として乳飲み子を助ける為に母親を助けず、横暴な日本軍兵士を誰も止めなかった。
 逃げ場のない極限状態に追い詰められた時、人は我が身が可愛く、生き残る為に他人を平然と犠牲にする。
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 アメリ陸軍省戦史局編集の公式報告書『OKINAWA: THE LAST BATTLE』
 「沖縄で支払った代償は高価なものであった。アメリカ軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」
 「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」
 「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上 「だが、アメリカ軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」
 アメリ海兵隊の公式活動報告書、「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」
 「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」
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 アメリカ人兵士達は、兵士専用の性的慰安所がなかった為に、戦争の終結後も日本人収容所やアメリカ軍占領地域で住民への暴行や強盗行為は続いていた。
 報告書には、無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行や住民女性への拉致・暴行・強姦も多数報告されていた。
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 6月23日 第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は切腹自決した。
 6月24日 歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼して玉砕した。
 6月25日 大本営は、沖縄本島での組織的戦闘が終了したと発表した。
 沖縄戦の日本側死亡者、18万8,136人。カミカゼ特攻隊約1,900機。
 県外出身日本兵戦死者、6万5,908人。
 沖縄県出身軍人・軍属、2万8,228人。
 戦闘参加者、5万5,246人。
 一般住民、3万8,754人。
 沖縄県民の3人に1人が、戦争で死んだ。
 命よりも大事なものがあると知っていた日本人は独自の死の美学を持ち、その美しい心を守る為に軍隊に協力して潔くあっさりと死んだ。
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 日本の心を持つ者は、太田実海軍少将の最後の電文に感動した。
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 戦場を逃げ回った者にとって戦争とは地獄であったが、投降した者にとって境界が有刺鉄線で区分された収容所はそ生き地獄であった。
 食糧の配給は意図的に遅配され、わざと劣悪な衛生環境に置かれ、マラリアなどの疫病が発生しても満足な治療がされなかった為に毎年1,000人以上が病死した。
 毎日のように射殺や暴行などの兇悪な事件が起きたが、アメリカ兵士による犯罪は個人の楽しみとして全て不問に付された。
 日本軍以上にアメリカ軍は、人道を無視し人権を踏み躙っていた。
 日本のアメリカ軍は、ヨーロッパのアメリカ軍とは違い自由と民主主義の解放軍ではなかった。勝者にとって負けた者は、人権のない奴隷以下の動物に過ぎなかった。
 国際赤十字社なども、敗者となった日本人の人権を無視した。
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 大田昌秀「最も頼りにしていた守備軍将兵が行き場もない老弱者や子供たちを壕から追い出しただけでなく、大事に蓄えていた食糧まで奪い取ってしまう。そのうえ、私たちの目の前で、兵士たちは泣きすがる住民に向かって『お前たちを守るために沖縄くんだりまで来ているのだから、お前たちはここを出て行け』と冷酷に言い放ったのだ」
 「ある時、摩文仁海岸の岩陰で一人の海軍将校が、水色の軍服に巻いた脚絆を佩(は)いて岩の上に正座し、東方に向かって深々と頭を下げると、あっという間もなく手榴弾で自決するのを見た。その瞬間、付近の岩陰から何人かの敗残兵たちが飛び出し、先になった者が死者の傍にあった肩かけの袋に足を掛け拳銃を構えて周りを見回した。すると別の兵隊が手榴弾を投げつけて彼を殺害して食糧を奪い取るのを目のあたりに見せつけられた」(『沖縄の決断』)
 「日本軍に対する不信感という以上に、もう人間そのものへの信頼を失っていたんです。それとは反対に、戦場では日本軍が見殺しにした沖縄の住民を助けているアメリカ兵を随分見て、鬼畜米英と教えられたのは間違っていたのかもしれないと思うようになりました」
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 沖縄県民は、日本軍によって集団自決を強要され、アメリカ軍によって殺害と暴行と強姦された。
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 アメリカ軍は、日本本土を空爆と侵攻の為の空軍基地を造るべく、戦災で家を失った沖縄県民を保護する名目で強制的に収容所に入れ、有無を言わせず土地を接収し、大型車輌を投入して家や墓を破壊した。
 アメリカ兵は占領軍の特権として、幼児から老女まで女であれば強姦した。
 6歳の女児が、アメリカ兵士に強姦されゴム捨て場に捨てられた事件も起きていた。
 アメリカ軍兵士の多くが宗教的人種差別主義者で、日本人を人間以下の黄色い猿と見下していた。
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 2021年4月4日 MicrosoftNews 文春オンライン「「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言
 早坂 隆
 「甲板は一瞬で血の海、泣き叫ぶ声で地獄絵図に」機銃掃射の尖閣沖、生き残った日本人の告白 から続く
 漂流者たちの身体はみるみる衰弱し、重度の栄養失調に陥る者が続出。餓死者が相次いだ――。終戦直前、多くの日本の民間人を乗せた疎開船が遭難し、無人島だった尖閣諸島に流れ着いた。しかし、そこから120人を超える遭難者集団による、過酷な飢えの日々が始まった。
 尖閣諸島で起きた秘史について、昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回め/ #1 を読む)
◆◆◆
 いきなり始まった「無人島生活」
 尖閣諸島の沖合で米軍機の襲撃に遭った疎開民たちは、傷ついた船で尖閣諸島魚釣島を目指した。
 石垣島の北西約170キロの位置にある尖閣諸島は、魚釣島や北小島、南小島、久場島大正島などから構成される。
 3・8平方キロメートルほどの面積を持つ魚釣島は、その中で最大の島である。明治時代には筑後国上妻郡(現・福岡県八女市)出身の実業家である古賀辰四郎が、島内に鰹節工場を建設。船着場も設けられた。最盛期には250名ほどが暮らしていたとされる。しかし、昭和15(1940)年に事業は停止。人々は島を去った。
 ©️共同通信社© 文春オンライン 尖閣諸島魚釣島の岩だらけの海岸(1979年)  
 島に閉じ込められ、負傷した腕からはウジが…
 それから5年後、疎開船を攻撃された漂流者たちが、無人島となっていたこの島に上陸を果たしたのである。昭和20(1945)年7月4日のことであった。
 この時に上陸した人の数は正確には不明であるが、120名以上はいたという証言が多い。
 漁師の証言通り、島内には確かに天然の湧き水があった。漂流者たちはこの湧き水によって、ようやく喉の渇きを癒すことができた。
 その後、石垣島に救助を求めに行くために、一部の者たちが友福丸に戻った。だが、直したばかりの機関が再び故障。計画は断念せざるを得なくなってしまった。友福丸はやむなく海上に放棄された。
 こうして漂流者たちは、魚釣島に閉じ込められるかたちとなった。この島で救助が来るのを待つことになったのである。
 しかし、彼らを取り巻く状況は極めて悪かった。米軍機の攻撃時に重傷を負った者も多く、傷跡にはすぐにウジが湧いた。遭難者の一人である石垣ミチはこんな話を伝える。
 〈朝鮮の女の方で腕をやられ、わずか皮だけで腕がぶらさがり、その腕から湯呑み茶わんいっぱいくらいのウジがでてきました。この方は泣きながら、ぶらさがっている腕を切ってくれと嘆願して、どうにもならないのでカミソリで切ってやりました〉(『沖縄県史 第10巻』)
 次々と人が死んでいく「飢餓地獄」
 漂流者たちは島内に群生するクバ(ビロウ)などを重ねて屋根代わりにし、その下で暮らした。
 漂流者たちの主食となったのも、このクバの茎や若葉であった。当初は船内にあった米や味噌、各自の携行食などを集め、共同で炊事をして分け合いながら食べていた。しかし、少ない具の量を巡って、諍いが起きることもあった。その後、それらの食糧が尽きると、各自で食べ物を調達するようになったのである。
 漂流者たちはクバの茎をそのまま生で食べたり、水煮にしたりした。その他、サフナ(長命草)やミズナ(ニンブトゥカー)なども口にしてなんとか飢えを凌いだ。漁のできる技術や体力のある者は魚や貝、海藻などを採集した。ヤドカリやトカゲを捕まえて食べる者もいた。岩の窪みに溜まったわずかな塩を集めて舐めた。
 それでも食糧はまったく足りなかった。一部には、食糧を独り占めしようとしたり、他人の分を盗み取ろうとする者も出た。5人の子どもを連れた母親だった花木芳は、島での体験をこう記す。
 〈そのうちに食べものも無くなり、栄養失調になって動けなくなってからは、顔も体もよごれ放題、青ぶくれしてお腹も腫れて、このまま死んで行くのではないかと思っていた。
 島で一番初めに亡くなったのは、離れに住んでいたンミ(婆さん)だった。くばの葉の下に、手を組んで膝を抱いて座るようにしていらっしゃるので、「ご飯ですよう」と声をかけても聞きなさらないから、「婆ちゃんを呼んでおいで」と子どもをよこしたら、「あのばあさん、死んでいるよ」と子どもにいわれて初めて知った〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第二集』)
 毒のある豆を食べて中毒死する人も…
 毒のある豆を食べた者が中毒死する事件も起きた。当時、10歳だった石垣正子は、次のように回顧している。
 〈ある日、キヌ姉が山の向こう側の浜に豆が生えていると言うので、二人で豆を取りに行きました。それは丸っこい葉で蔓がそこらいっぱいにのびて、空豆に似た豆がいっぱい生えていました。その豆を煮て食べたら吐いたり下したりで、キヌ姉は祖母にさんざん叱られ、キヌ姉はどうしてこんなになるまで食べるのと私を怒り、大変な事になりました。この毒豆で死んだ幼子もありました〉(『沈黙の叫び』)
 このような毒豆を食わずとも、重い下痢に悩まされる者が多かった。こうして漂流者たちの身体は、みるみる衰弱していった。重度の栄養失調に陥る者が続出し、餓死者が相次いだ。当時、17歳だった屋部兼久は次のように証言する。
 〈上陸してからも毎日毎日、人が死んで行きました。弱った老人がたおれ、負傷した人、子供の順で死んで行くのです。埋葬しようにも硬い岩根の島で、穴が掘れないのです。離れた所に石をつみ上げてとむらいました〉(『沖縄県史 第10巻』)
 小さな帆船を製作し、決死の脱出計画
 島には時折、米軍からの空襲もあった。漂流者たちを巡る状況は悪化するばかりであった。
 絶望的な日々が続く中、状況を打破するための一つの試みが始まった。8月上旬、一部の漂流者たちが「サバニ」と呼ばれる小さな帆船の製作を始めたのである。サバニは南西諸島で古くから漁のために使われてきた小舟だが、漂流者の中に船大工がいたのだった。
 流れの速い黒潮に囲まれた魚釣島には、岸に何隻かの難破船の残骸があった。それらの難破船の木材や釘が、サバニの貴重な材料となった。
 釘は錆びついていたものを伸ばして使った。婦人たちは衣服などを縫い合わせて、船の帆をつくった。
 こうして全長5メートル、幅2メートルほどのサバニがついに完成した。
 敵機からの機銃攻撃によって船体に穴が開いた場合のことを考えて、様々な大きさの木の栓も用意した。止水用の栓である。
 石垣島に向かう9名の「決死隊」を結成
 こうしてこの船を使って石垣島まで連絡を取りに行く「決死隊」が結成された。選ばれたメンバーは、一心丸の機関長だった金城珍吉をはじめとする9名の男たちである。
 決死隊が魚釣島を出たのは、8月12日の夕方であった。9名は島に残る者たちが歌う「かりゆし」の歌声と共に送り出された。
 十分な材料もない中で急造したサバニでの航海は、まさに死を覚悟したものだった。決死隊の面々は出発前、自身の頭髪や爪を切り、島に残る者たちに預けていた。もしもの時の「かたみ」であった。
 サバニはやがて島の沖合に出たが、風も順風とは言えなかった。6名が漕ぎ手となって、懸命に櫂を漕ぎ続けた。
 翌13日は、不運にもほとんど無風となった。さらに途中、3回ほど米軍機が上空に現れた。しかし、そんな危機にも「決死隊」は冷静であった。彼らはサバニをわざと転覆させて舟の下の海中に身を隠し、無人の転覆船を装ってやり過ごしたのである。
 14日、ついにサバニは石垣島に到着。駐屯する日本軍の守備隊に遭難の情報を伝え、救助を求めることができた。
 魚釣島から見えた「日の丸」
 だが翌15日、大東亜戦争終結。日本は敗戦国となった。
 無論、魚釣島に残っている者たちは、玉音放送のことなどつゆ知らず、助けが来るのをひたすら待っていた。
 魚釣島の上空に日本軍の機体が姿を現したのは、16日のことである。最初、機影を発見した漂流者たちは、
 (また敵機か)
 と思い、岩陰に身を隠した。しかし、機体に「日の丸」が見えると、一斉に歓喜の声をあげた。漂流者たちは涙を流して喜び合い、機体に向けて懸命に手を振った。島の上空を旋回した機体は、落下傘に吊るした筒を落として飛び去っていった。筒の中には、乾パンや金平糖などの食糧が入っていた。魚釣島には航空機が着陸できるような場所がないため、救助は艦船で行うことになったが、まずは食糧の投下を実行したのである。
 食糧を得た漂流者たちは、
 (もう大丈夫)
 と心から安堵した。
 しかし、中には身体が衰弱し切っていて、もはや手遅れの者もいた。分けてもらったばかりの金平糖を握りしめながら息絶えた者もいたという。
 それから2日後の18日の早朝、生存者たちは島に近づいてくる3隻の救助船を発見した。生存者たちはクバの葉を燃やした煙で合図を送った。
 こうして漂流者たちは救出された。
 生存者たちは次々と救助船に収容されたが、島で亡くなった者たちの遺骨を持ち帰ることはできなかった。
 帰還後にも起きた悲劇
 救助船は8月19日に石垣島の港に帰港。桟橋には出迎えの人たちが多く集まっていた。台湾に向けて石垣島を出発した日から、すでに約50日が過ぎていた。
 そしてこの時、彼らはようやく日本の敗戦について知ったのである。
 魚釣島から生還することができたにもかかわらず、その後に栄養失調などの影響で命を落とした子どもたちもいた。宮良廉良とその妻である幸子の間には二男五女があったが、魚釣島から石垣島に戻って1週間後、五女で3歳の洋子が絶命した。洋子は床に就いてはいたが、前日まで時おり笑顔さえ浮かべていた。父はそんな洋子を見て、
 「子どもたちが元気になった」
 とおどけて踊ってみせていたという。
 さらに翌月には、次男で1歳の邦雄も旅立った。
 束の間の幸福な時間は、脆くも瓦解した。
 この一連の遭難事件の犠牲者数には諸説ある。米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかとされている。
 終戦翌年の昭和21(1946)年、遺族らによる魚釣島への遺骨収集が行われた。昭和44(1969)年には、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。
 しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。
 遺骨収集も進む気配がない。多くの遺骨はいまだ島内に取り残されたままである。(文中敬称略)
 (早坂 隆/Webオリジナル(特集班))」
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 尖閣諸島戦時遭難事件あるいは尖閣列島戦時遭難事件とは、太平洋戦争末期の1945年7月に日本の小型船2隻がアメリカ軍機の攻撃を受け、当時、無人島だった尖閣諸島に漂着した事件である。約50日後に救出されたが、戦闘と飢餓などにより50人以上が死亡した。石垣島から台湾へ民間人を疎開させる途中に遭難したもので、「対馬丸」以外に沖縄県からの疎開船が撃沈破された数少ない事例である。台湾疎開石垣町民遭難事件、あるいは遭難船名に由来して一心丸・友福丸事件とも呼ばれる。
 事件の経過
 石垣島尖閣諸島・台湾の位置関係。
 1945年(昭和20年)6月24日、石垣島の住民に対し、24回目となる台湾疎開希望者の募集がされた。台湾へ物資を受け取りに行く独立混成第45旅団「水軍隊」所属船の往路を使った輸送であった。6月30日の夕刻に石垣港で乗船が始まり、「友福丸」(軍呼称:「第一千早丸」)と「一心丸」(軍呼称:「第五千早丸」)の焼玉エンジン搭載小型船2隻に約180人が乗り込んだ。乗船者のほとんどは女性と子供で、男性は高齢者が少数、朝鮮人と台湾人も少数いた。乗船者数を各120人程度の約240人とする回想もある。
 船団は、空襲を避けるためになるべく夜間航行を選び、6月30日夜7時頃に石垣港から台湾の基隆港を目指し出航、7月1日午前2時頃に経由地である同じ八重山諸島西表島船浮へ入った。昼間は碇泊して7月1日夜に航行再開する予定であったが、「友福丸」のエンジン故障のため出港を延期し、7月2日の午後7時に船浮を出た。船団は台湾直進ではなく、尖閣諸島付近まで迂回した欺騙針路で進んだ。
 船団が数時間で基隆入港予定という7月3日午後2時頃、定期哨戒中のアメリカ軍機(日本側ではB-24爆撃機と判断)1機によって発見されてしまった。アメリカ軍機は船団側方から3回の爆弾投下と機銃掃射を行い、さらに船尾方向から航過しながらも機銃掃射を1回加えた。日本側は機関銃で応戦したが、効果は無かった。船上では「一心丸」の宮城三郎船長以下死傷者が続出し、銃弾で割れた瓶から味噌が流れて血と混じる惨状となった。「一心丸」は船体中央部に爆弾が命中して炎上沈没、「友福丸」も機銃弾でエンジンが破損して航行不能となった。アメリカ軍機は、「友福丸」も沈没するものと判定しつつ立ち去った。「友福丸」から伝馬船が降ろされて救助作業が行われたが、乗船者には体力に劣り泳げない者も多かったため相当数が溺死した。
 「友福丸」は浸水しながらもかろうじて沈没を免れ、有り合わせの布をつなぎ合わせて帆を張り、翌7月4日朝にはエンジンも再始動できた。乗船者の中に尖閣諸島で古賀商店の鰹節製造事業に携わった経験者がいたため、尖閣諸島へと向かうこととなり、4日午前9時半頃に魚釣島に到着した。このとき尖閣諸島には、本船団とは別に遭難して漂着した日本兵6人がおり、合流している。
 上陸当初は米や鰹節など乏しい食糧を出し合って野草入りの雑炊にする協同炊事が行われたが、1週間から2週間ほどで打ち切りとなり、以後は各自で食糧を集めた。魚釣島には淡水が湧くため飲料水には困らず、石垣島民に別名で「クバ島」と呼ばれるほど食用樹木のビロウ(地方名:クバ)も豊富だったものの、100人以上の食糧としては不十分だった。ネズミやヘビも生息していたが、動きが素早くて捕まえられなかった。サクナ(長命草)などの野草や、磯辺で獲った小魚やヤドカリなどで命をつないだ。体力の低下が激しく、数人の餓死者が出た。毒草を食べて苦しむ者もあった。B-24爆撃機も島に連日飛来したが、幸いに死傷者は出なかった。
 救援を呼ぶために一部の者が「友福丸」で出発したが、すぐに機関故障を起こして航行不能となり、やむなく船体を放棄して伝馬船で島へと戻った。その後、手漕ぎのサバニを作って救助を呼ぶことが計画された。遭難者の中にいた船大工1人と陸軍工兵を中心に、海岸にあった難破船の残骸を資材として建造は進められ、10日ほどで全長5のサバニが完成した。陸軍兵と船員経験者ら8人の決死隊が編成され、出発直前に強く希望する主計准尉1人も加えて、8月12日午後5時頃に石垣島を目指して出発した。帆走と漕走で進んだ。途中で3度も敵機に遭ったが、攻撃は受けなかった。8月14日午後7時頃に石垣島の川平湾へと到着、川平駐屯の日本軍部隊を経由して独混第45旅団司令部に連絡がされた。
 8月15日、事態を知った独混第45旅団の要請を受け、台湾所在の日本軍機が魚釣島に飛行、乾パンと金平糖をパラシュート投下した。石垣島からも独混第45旅団水軍隊の長谷川少尉が指揮する2〜3隻の救助船が軍医を乗せて出発し、終戦の日の後である8月18日に到着した。救助船は魚釣島所在の生存者を収容し、19日午後に石垣島へと帰還した。救出されたにもかかわらず、急に多量の食物を摂取したことによる消化器疾患や、助かったと言う安堵感により死亡した者もあったという。
 また、救助船到着時に南小島(別名:トリ島)へ食料採取に出かけたまま帰島不能で消息不明になっていた者が6人あり、取り残されてしまった。6人が魚釣島へ戻ったときには救助船が去った後で、うち2人はその後に病死した。残る4人は、11月に家族が雇った台湾漁船によって救助された。
 犠牲者数については諸説あるが、『沖縄県史』の統計表では乗船者180人余のうち死亡75人、『琉球新報』によれば救出までの死者70人・救出後の衰弱死等20人近くとされている。このほか、少ない数値では戦死者約45人・餓死者8人、多い数値では約240人乗船で半数死亡とする回想もある。また、『沖縄県史』では、八重山諸島住民の戦闘死者総数179人のうち、船の沈没による死者総数37人となっている。
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