⛅11:─1─日本に見捨てられた沖縄・戦争孤児のネグレクト死。戦争捕虜と降伏者は違う。~No.32No.33No.34 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 マッカーサー、「琉球人は、日本人ではない!」
   ・   ・   ・   
 沖縄と日本の対立。
 本土のヤマトンチューと沖縄のウチナンチューの対立。
   ・   ・   ・   
 自分は優秀な人間と自惚れている日本人は、琉球人とアイヌ人を劣った土人として軽蔑し差別し迫害を加えていた。
 日本人の琉球人への蔑視が、沖縄戦琉球人に対する非情な仕打ちとして現れていた。
 日本人は愚かである。
   ・   ・   ・   
 罪も咎もない子供達は、無責任な大人達の犠牲となり、戦争孤児として悲惨な境遇に突き落とされ、多くの子供が餓死・衰弱死した。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍は、乳幼児などの戦争孤児を収容する孤児院を沖縄のコザに作って約100名の子供を収容した。
 食糧の配給配給量がわずかな上に乳幼児用の食べ物が乏しかった為に、乳幼児の多くが栄養失調で死亡した。
 戦争孤児達は、死と隣り合わせの日常生活を送りながら成長していった。
 日本軍兵士収容所においても悲惨な状況は同じで、栄養不足や病気による体力低下で死亡者が続出していた。
 アメリカ軍は、食糧や医薬品などの戦略物資を日本人に渡す事を嫌って、日本人兵士を捕虜ではなく降伏した者として扱った。
 降伏者であれば、捕虜を保護する事を定めたジュネーブ条約の対象者ではないからである。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍は戦勝国免責特権を持ち、占領地・支配地で如何なる非人道的重犯罪を犯しても罪には問われなかった。
 国際法戦時国際法は、アメリカ軍が犯した全ての犯罪を無罪としていた。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍は、日本兵士が民間人に紛れ込み、占領地でのゲリラや破壊活動を行う事を警戒した。
 「権威と温情で日本人に語りかけると下僕の如く従うという」日本人分析から、投降者を尋問して兵士(PW)と民間人(CIV)に仕分けし、兵士は捕虜収容所に、民間人は各地の民間人収容所に強制的に送った。
 民間人収容所には、約30万人が押し込められた。
 アメリカ軍兵士は、収容された日本人に対して直接的な非人道的虐待は行わず、物資が豊富にあるにも関わらず生きるに最低限の食べ物し、病気になっても適切な治療を施さず薬も処方せず放置した。
 宗教的白人至上主義者のアメリカ人は、非キリスト教徒で英語が話せない非白人の日本人を、尊厳を持った人間ではなく下等な野蛮な「黄色い猿」と侮蔑し、死ぬに委せていた。
 アメリカ軍全体には、日本軍が捕虜収容所で、アメリカ人兵士捕虜など連合軍兵士捕虜に行った虐待・暴力・食料制限・治療放棄・奴隷的重労働などで死に追い遣った人道的犯罪に対する報復を正当行為として許す空気があった。
 アメリカ軍の日本人虐待は、国際法上、戦争犯罪として問題とはされなかった。
 国際法戦争犯罪において、戦争に負けた日本人を有罪とし、戦争に勝つたアメリカを無罪とした。
 「人道に対する犯罪」である捕虜虐待においても、敗者の日本は有罪で、勝者のアメリカは無罪であった。
   ・   ・   ・   
 2015年12月30日 読売新聞「収容所の飢餓耐え
 ……
 まずい野草
 収容所は海辺にあり、屋根に葉を載せただけの小屋がずらりと並び、集められた数百人が小屋に2家族ずつ入れられました。入り口に憲兵が立ち、外部との接触は一切禁止です。衰弱した祖母は、遠くの野戦病院に送られていきました。
 食べ物は米兵が配る缶詰が日に1個あるかないか。余りの缶詰を手に入れ、野草のツワブキと一緒に煮て食べました。あの時のツワブキまずかったこと。
 収容所では栄養失調やマラリアにかかる人が続出し、次々に亡くなりました。
 我々と同居していた一家は、年老いた祖母と孫4人の家族で、子供の両親はすでにいませんでした。やがてその祖母と2人の子も飢えで衰弱してしまい、ついに死んでしまいました。
 台風に襲われた直後、浜辺に無数の死体が打ち上げられたことがありました。収容所で死亡して海辺に埋葬していた遺体が波で掘り出されてしまったのです。
 学校らしきものできましたが、浜辺にABCを書いて『これがアルファベット』といわれただけです。
 墓、石置くだけ
 首里に戻れたのは翌年夏。その間、祖母は野戦病院で死んでしまいました。祖母の遺体は近くの山に葬り、首里に帰る時、葬った場所の目印に石を置き、それに祖母の名を刻みました。
 ……
 やっと学校生活が始まりました。男子は米兵の野戦服を直して着ていました。授業で最初の頃、『日本語はローマ字で書け』と言われたのを思い出します」 
   ・   ・   ・   
 アメリカ占領軍は、敗北した軍国日本への見せしめとして山野に放置された十数万人の日本人遺体の収容と慰霊は、抵抗運動と見なして厳しく禁止した。
 正悪・敵味方の二元論的宗教観において、敵に同情し、敵の遺体を丁重に埋葬し慰霊する事はありえなかった。
 金城和信ら少数の琉球人は、戦死した日本軍兵士や戦闘に巻き込まれて死んだ一般市民の遺体を放置し腐敗に任せる事は、彼らのお陰で生き残った者として放置できないとして埋葬の許可を求め続けた。
 アメリカ占領軍は、門前払いしても懲りずに繰り返される申請に根負けして遺体の埋葬を許可したが、戦没者の慰霊は反米運動につながるとして禁止した。
 金城達は、兵士も一般人も関係なく、日本人もアメリカ兵も分け隔てなく丁重に埋葬した。
 敵意を持って監視していたアメリカ兵も、金城らの誠意を持った遺骨収集活動に感銘を受けて黙祷を捧げた。
 宗教的人種差別が支配するアメリカは、埋葬を許可しても慰霊は頑なに認めなかった。
 金城達は、アメリカ軍の意向に奴隷的に従おうとする周囲の反対を押し切り、慰霊の許可を求め続けた。
 1946年2月 金城達は、反対や妨害に負ける事なく、アメリカ軍の許しを勝ち取って最初の慰霊塔「魂魄の塔」を建立した。
 そして、同年4月に女子学徒隊の「ひめゆりの塔」を建立し、さらに男子学徒の「健児の塔」を建立した。
 生き残った家族は、死んだ我が息子・娘達は、昭和天皇や国家や軍部の犠牲になったのではなく、「何かを守る」為に進んで戦場に赴き戦って死亡し、その霊魂は靖国神社の神として祀られていると信じた。
 だが、戦後日本は沖縄を裏切り、本土の人間は自分の家族・身内でもない琉球人の霊魂を見捨てた。
   ・   ・   ・   
 1946年1月29日 GHQは、ポツダム宣言を廃棄して、日本を解体し行政分断する「若干の外廓地域を政治上、行政上日本から分離する事に関する覚書」を発表した。
 日本国領土は、四つの主要島及び周辺の中小島嶼北方領土を含む千島列島、小笠原諸島竹島、北緯30度以南の沖縄を含む琉球列島など1,000の隣接島嶼に分断された。
 北方領土を含む千島列島はソ連軍が、沖縄を含む1,000の隣接島嶼アメリカ軍が占領管理した。
 日本は分断国家であり、現在も分断された国家に変わりはない。
 北方領土を含む千島列島はソ連に奪われ、竹島は韓国に奪われ、尖閣諸島中国共産党政府に今まさに奪われようとしている。
 全ての始まりは、アメリカの国益重視政策が原因である。
 弱小国となった日本は、アメリカ軍に占領され、言語弾圧として自国の権利を求める発言や自己主張が禁じられた。
 それが、戦後日本の偽らざる実像である。
 アメリカの永遠の属国を証明するのが、アメリカの占領政策を受け入れた第九条の平和憲法である。
 平和憲法とは、日本民族日本人の自主憲法ではない。
   ・   ・   ・   
 マルクス主義者は、中国共産党との共闘を考え、反米反天皇反日から沖縄を日本から独立させようとした。
   ・   ・   ・   
 4月 マッカーサーは、日本国憲法制定に当たって、本土の非武装化と沖縄の基地化をワンセットとした。
 国会は、第九条の新憲法における選挙に先立ち、沖縄県民の選挙権を停止する法改正を採択した。
 その結果。沖縄選出の衆議院議員・漢那憲和は失職し、議会で悲痛な訴えをして去った。
 全国民を代表する国会議員は、沖縄県民を見捨てた。
 沖縄と日本本土の断裂は、この時から始まった。
 戦前には。本土人による沖縄人への差別意識はあったが、同じ国民という同胞意識もあったが故に敵の猛攻を受けている沖縄を救う為に命を捨てて特攻を繰り返した。
 沖縄問題の原因は、戦前ではなく戦後にあった。
   ・   ・   ・   
 2016年8月号 前衛「ふたたびに『戦争する国』すすむのか
 沖縄戦と戦争孤児が問う『戦争』 浅井春夫
 『沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち』について
 ……
 『戦災孤児』という言い方がこれまでされてきましたが、実際は、戦争政策によって生み出された犠牲者です。『戦災』とは、何か自然災害のように原因と責任が曖昧にされている言葉で(辞書では、災いとは『病気・天災・盗難など人を不幸にする出来事。災難』と説明)、『戦争孤児』と言った方が、事実を表していると思います。後でもふれることになると思いますが、戦争孤児について調査するなかで、沖縄だけでなく、どこでも、遺された子供たちが、戦争後も長い期間たいへん苦労を強いられたことを痛感せざるをえませんでした。……孤児院で、また、その後、どのような暮らしが孤児たちの前にあったのか、戦争孤児は、戦争の最大の犠牲者だったのです。
 戦争孤児とは
 ……
 戦後1948年には、沖縄県を除く全国で、一斉孤児調査が発表されています。それによると、全体で12万3,511人を数え、うち戦災孤児は2万8,247人、引上孤児1万1,351人、棄迷児2,647人、一般孤児8万1,266人となっています。ここでいう戦災孤児とは、ここでいう戦災孤児とは、都市空襲によって、親が死亡し、取り残された子供たちです。引上孤児とは、主に敗戦後に中国などから引き上げてくる途中で、親が死亡したり家族が離散したりするなかで孤児になったケースです。棄迷児は、空襲のなかで親と離れ離れになった孤児です。一般孤児は、それらと違い、保護者の病気や行方不明で孤児になったと説明されることが多いのですが、実態は戦争孤児であり、学童疎開中に親を失った孤児たちでした。
 親戚に預けられた孤児が、10万7,108人、施設に収容された孤児1万2,202人、独立した生計を営む孤児4,201人、浮浪児は、3万5,000〜4万人と推計されています。
 戦争直後において、戦争孤児たちは、多くが生きていくために盗みなどをすることを余儀なくされていたため、行政・警察にとっての治安の対象として、『狩り込み』(いっせいに捕らえる)され、強制的に施設収容され、養護施設から逃亡するといったことが繰り返されました。この調査が、戦後3年も経過しておこなわれたことにも、戦後において、子どもの福祉に対して行政がいかに後ろ向きであったのかが示されています。戦後、孤児たちの実生活は、誰からの援助もほとんどなく、苦難をきわめました。親類などに引き取られても、労働力として酷使されるなかで、苦労して生きのびて、それこそ職業を言いたくないという人、人に言えないような仕事をしながら生きのびた人が少なくないのです。
 それでも、本土の場合は、鉄道がとりあえずまだあり、上野駅なり、京都駅に行けば、食い物にありつけたり、靴磨きなどで稼ぎをえたりで生きのびることができました。これに対し、沖縄は、爆撃や艦砲射撃で破壊されつくしていました。米軍の撃った砲弾は日本の撃った砲弾の100倍という状況でした。そのぐらい物量のうえでも圧倒的に差のある戦闘で、負けるのがわかっている戦争をしたのです。前年10月10日のいわゆる『10・10空襲』で、大きな被害を受けたにもかかわらず、天皇は、戦果をあげることによって、天皇制存続の交渉ができるようにと、戦争を引き延ばしたのであり、沖縄は、まさに戦中からすで『捨て石』にであったのです。
 沖縄における孤児──相次いだ〝ネグレクト死〟
 こうして、沖縄では、一家全滅になった家族、過半数が死んだ家族など、被害は多数にのぼりました。戦争孤児と言っても、彼ら彼女たちだけが極端に辛い経験をしたというわけではなく、県民全体が苦難を背負っての戦後でした。そのため、沖縄においては、孤児の問題はなかなか研究の対象にはならなかったのだと思います。本当にエアポケットだったのです。ヤマトンチュの私たちが少しでも沖縄に貢献できることは何かと考えたとき、現地の人がやっていないことを研究者の立場で掘り起こし、光を当てて、戦争という問題の悲惨さを言い続けることもできるのではと考えて、この問題にとりくみました。
 沖縄戦では住民をまき込んだ地上戦が展開されました。戦争の最中から、子どもたちも、その悲惨な記憶を抱えながら生きている状況がありました。沖縄戦では、どれだけの子どもたちが孤児として遺されたのか、その正確な統計はありません。ただ一般的に言われていたのが『1,000人の孤児と100人の老人』という数字です。沖縄戦がたたかわれている最中にも、孤児院と養老院がつくられたのですが、じつはその根拠になる数字はどこにもないのです。
 すでに、1945年4月から6月の段階で、沖縄本島では、住民は米軍が設置した各収容所に収容されていましたが、その収容所のなかに孤児院は開設され、当時、11ヵ所の孤児院と養老院があったと言われてきました。私が、行政の調査や各市町村史、『ウルマ新報』などをを調べてみると、1946年までに13ヵ所の孤児院が開設されていたことが確認できました。
 ではなぜ、孤児院がつくられたのか。一言でいえば、米軍が、自分たちの基地建設をすすめ、その後の支配(統治)体制をつくるうえで、孤児たちが、収容所の外でホームレス状態となり暮らしていたら面倒だということがあったのです。いわば『囲い込み政策』として、孤児を集めて管理し、そのうえで気遣いなく自分たちの統治のためにやりたいことをすすめていく──そのためだったのです。米軍が孤児のために孤児院をつくったのではなかったことは、孤児院では、多くの子どもたちが死んでいることにあらわれていると思います。私が、孤児院の従事者から聞いた話でも、『朝起きると、何人かの子どもが冷たくなっているので、孤児院や収容所の敷地内にある大きな穴に子どもを埋めにいった』という証言がいくつもあります。相当数の子どもたちが、いわば〝ネグレクトによる〟衰弱死をしていたという現実があったのです。
 統治者であるアメリカ占領軍が、子どもたちの生命を第一義的に占領政策で位置づけていれば、大量の子どもたちのネグレクト死は免れていたでしょう。この点でも、米軍の占領支配は一貫して支配者の立場で貫かれてきました。福祉的な観点での子どもの施策は乏しく、子どもの発達と権利を保障し、行政運営の基本を規定する児童福祉法などの法整備も放置され、結局、沖縄で児童福祉法が制定されるのは、本土よりも5年も遅れた1953年のことなのです。
 孤児院内で、栄養失調などによる死が相当あったと思われますが、その実数は明らかではありません。そもそも、米軍管理のもとで、正確な統計が存在しないこと自体が、施政の怠慢を物語っており、不都合な事実を隠蔽してきました。
 名護市の田井等孤児院の状況に関する証言でも、『毎日のように山から運ばれてくる小さい子どもたちは、裸にされていましたが、どの子も栄養失調でした。縁側に寝かせても翌朝までに半数は死んでいましたが、『シニイジ』といいますが、子どもたちは汚物にまみれており、朝鮮の女の人たちがダンボールに入れて埋葬していました』と、当時の在院児童の記憶からのべられています(座覇律子『孤児院でのこと』、字誌編集委員会編『田井等誌』、2008年)。現沖縄市のコザ孤児院では、激しい下痢で子どもたちは衰弱しており、大勢の子どもたちがそこで命を落としたとされています。下痢で床張りの部屋は豚小屋のようになっていたとも。子どもたちの遺体は、衛生係とよばれた男性が担架で少し離れた墓地に運んだことが語られているのです(『沖縄タイムス』2005年11月1日付)。
 つい最近も沖縄で、沖縄戦遺骨収集ボランティア『ガマフヤー』の具志堅隆松さんにお会いしました。孤児院跡の近きには、亡くなった子どもの遺体を埋葬というか、捨てた場所が存在します。身寄りがないにしても、その遺骨をちゃんと掘り起こして、還せるものは還してあげないといけないのではないかと具志堅さんとも話しているところです。
 収容所と米軍の沖縄支配
 沖縄の戦後は、人によっては『ゼロではなくマイナスからの出発』と言います。住民のほとんどは収容所のかまぼこ型のブリキのコンセットやテント生活を送っていました。かまぼこ型はまだいい方で、ほとんどが上(屋根部分)はあるけれど、横(壁)hsないテントの生活でした。収容所は、普通の壁みたいなものはほとんどなく、鉄条網で区切られていました。私は、米軍はこれを戦略で考えたと思っています。壁と違い鉄条網なら逃げようと思えば逃げられます。しかし、逃げても食べ物がないので逃げられない。逃げようと思っても逃げないもとでの鉄条網の意味がかなり重要であると思います。
 当時の30数万人の沖縄県民の最高85%が収容所生活をしていました。そこで住民たちは、何をさせられたのでしょうか。米軍は、基地をつくるために、住民に『あっち行け、こっち行け』と、まるで系統性のない動かし方を強いました。これは米軍管理者のレベルが低かったという面もありますが、むしろ米軍は、住民に無理難題を受け入れさせるためのトレーニングをしていたと私は思っています。少なくとも現実的にはそうした意味を持っていたといえるのではないでしょうか。
 鉄条網についても、それには、逃げられる空間のなかで、支配関係を目で見て、自分はそれに従うということを生活のなかでトレーニングする意味があるとした研究書(石弘之ほか『鉄条網の歴史』洋泉社、2013年)があるほどです。テントと鉄条網は、生活の物資が不足していたということはあったとしても、それにとどまらず、沖縄を支配していくという計画のなかで、意識して用意周到に準備をされたものだったと思います。そのなかで、収容所を出て、自分の村に帰るにしても、すでに土地は基地のために取られているので、自分のところに帰れない。基地の周りで生活することを余儀なくされるわけですが、そのことに耐えるように沖縄県民を訓育し、手なづけたのが、収容所生活の意味だったのではないでしょうか。病院での住民への医療行為、またキリスト教の布教を通しての心理的な訓育などが占領政策として具体化されていました。そして、その一環として孤児院もありました。
 むしろ米軍が一番重視したのは病院だと言われています。米軍の病院が傷ついた人や病気の人を治してくれる、米軍とはありがたい存在だと住民に思わせるような作戦をとっていました。戦後の支配のために、沖縄県民の性格や性質、文化などを分析し、用意周到に準備して、沖縄統治戦略を練ってきたのです。
 ……
 生かされなかったサイパンの教訓」
 沖縄本島の孤児への政策の前には、まずサイパンで孤児対策がおこなわれていました。実は、サイパンは軍事的には、心理作戦や、日本軍の突撃などに対する戦い方を研究する実験場であったと言われています。同時に、サイパンでは、上陸後、どう支配をすればいいかという実験もなされているのです。南洋諸島でも、艦砲射撃や地上戦、『強制集団死』などで、親が死に、取り残された子どもたちへの対応が求められていました。孤児院についても、『こうやれば、孤児たちをなんとか生きのびさせることができる』という実験もおこなっているのです。
 サイパン島では、米軍占領後で、まずススペ孤児院がつくられます。その後、サイパン孤児院がつくられ、新旧2つの孤児院がありました。サイパンでの戦闘は、『民間人の死亡率だけを見れば、サイパンは地上戦がおこなわれた戦場として、のちの沖縄戦をも上回る太平洋戦争史上最悪の舞台と化した』(野村進『日本領サイパンの1万日』、岩波書店、2005年)と言われています。最初につくられたススペ孤児院は、まさに悲惨な状況で、食べ物に不自由し水のようなお粥を食べていたといいます。古い孤児院の頃には、すぐ前に死人小屋があり、物置のような小屋に亡くなった人や子どもたちを一時的に収容していたといいます。そして、人数がまとまった頃に連絡をして、トラックに乗せて運んだということです(佐々木末子『≪調査ノート≫サイパン孤児院──山田良子、嶋峰一・藤子夫婦の体験を通して』、『具志川市史だより』第16号、2001年)。
 これに対し、ススペ孤児院での悲惨な状況は、サイパン沖縄県人会会長でもあった松本忠徳氏が院長になったサイパン孤児院によって一変します。新しいサイパン孤児院は、立派な建物がつくられ、子どもたちの状況は健康的になりました。この時期には、収容所の状況も大きく改善をされています。こうしたもとで、新孤児院では、特別に栄養剤や食料、衣類なども優先的に配給され、ミルクの配給も孤児院だけにありました。医者も病院から健康診断のために訪問していました。米軍の大きな救済政策が功を奏したことはあきらかです。
 このようにサイパンでの経験(実験)からは、こういう孤児院をつくり、食料を一定水準を確保すれば孤児は死ななくてすむということがわかっていたはずです。ところが、その教訓が、戦後は生かされず、たくさんの孤児たちが亡くなったのです。結局、孤児院政策には、孤児を支える視点ではなく、支配者の視点でしかなかったのです。もちろん個々の米軍人は、クリスチャンで、子どもたちの命を救いたいと思った人はたくさんいたでしょう。しかし、米軍がとった政策は明らかにそうではなかった。あらためて沖縄戦の本質を孤児の現実を通して感じました。
 さらに、そのなかで、私がふれておきたいのが、本のなかで書いたのですが、この孤児院の問題が、沖縄戦研究のエアポケット(空白)であると同時に、『ミステリー』となっていることです。資料が本当にないのです。米軍占領下で、資料として文字で記述した記録を残すことが明確にうたわれていました(米軍陸海軍『軍政/民事マニュアル(1943年12月)』)。本来、記録がないことはありえないのです。にもかかわず。どうしてないのか。かつて日本全体も、1945年8月15日の戦争に負けたとわかった時点で、全国で資料を焼いています。それと同じように、沖縄でも、米軍にとって不都合な資料はほとんど廃棄処分にしたのではないでしょうか。あるいは、アメリカに持ち帰って密封したのか。資料はいっさい出ないのです。
 アメリカは、募金などで自国民を動員して戦争をおこなっています。沖縄にとってもこれだけいいことやっているという宣伝を自国民にグラフ雑誌などでおこない、『こういうのだったら応援しなければならない』という国民の支持を得なければなりません。不都合な現実や写真は全部検閲ではねています。その延長線上で、たぶん不都合な事実は一貫して隠されていたのだと私は思っています。
 本当は、サイパンからの歴史をひもといていくと、サイパンでの孤児院運営の教訓をどう生かしたかが、問われるはずです。しかし、米軍は、子どもの命は蔑(ないがし)ろにしたのが現実です。子どもがいっぱい死んでいます。その記録がない。私はそれが、戦後『物がない』ということだけが原因ではなく、米軍がその支配・統治を用意周到に準備したなかで、おこなわれたことであった思うのです。
 一様ではなかった戦後の様相
 ……
 孤児院で従事した元日本軍『慰安婦
 ……
 コザ孤児院では、ひめゆりの学徒隊の人たちが、従事をしていましたが、名護の孤児院では『慰安婦』だった朝鮮の人たちも養育に従事していました。いわゆる『従軍慰安婦』だった人たちにとっては、146もの『慰安所』が離島も含めて沖縄にあったわけです(『軍隊は女性を守らない〜沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』、アクティブ・ミュージアム『女たちの戦争と平和資料室』、2012年)。そうした現実があり、戦争が終わったあと、『慰安婦』だった人たちのなかには朝鮮に帰った人もいますし、帰られなかった人も多数いました。『6・23』で、『戦後』を迎えられなかった人が多数いたのです。むしろ収容所生活などの実際でみれば、圧倒的多くの県民にとっては〝戦中的戦後〟であったと言わざるをえません。
 おそらく『慰安婦』だった人たちや孤児たちにとっては、『戦後』のイメージや実態は日本全体のそれとは、相当違うのだという気がします。結局、『慰安婦』だった人たちは、孤児院のほか、養老院や野戦病院でも従事しているのですが、身寄りがなく、どこにも頼れなかったからです。『公(おおやけ)』=米軍がささえているようなところに入って仕事をするしかなかったのです。そういう現実のなかで、『慰安婦』だった人たちにとっては、『戦後』といっても、それまでとは区切れない現実が続いていたのです。この『慰安婦』の問題も記録はほとんど残されていません。たぶん沖縄本島に残った人もいると思いますが、その人たちも戦後何も語らないということが続いていたのです。
 ……
 孤児院の従事者を調べてみると、『慰安婦』だった人だけではなく、さきほどのべたように、ひめゆり学徒の生存者の方々もいました。ほかにも元教員や商売に従事している人、地域住民、空手家もいました。とにかく、世話係の人々をかき集めたという感じで、専門職として養成することはほとんどおこなわれていませんでした。専門職としてはまったく位置づけられないまま出発し、それが、かなりの期間、続いていたのです。沖縄の社会福祉制度の遅れは、戦争による破壊だけではなく、アメリカ軍の統治の下で専門職はほとんど位置づけられてこなかったということが背景にあります。本土の方は、まだしも、戦争が終わってすぐGHQが民政関係については研修会をおこなっています。専門家を養成することを、曲なりにもGHQはやっているのです。
 さらに沖縄の戦後が不幸だったこととして、米軍の占領主体が、1年半ないし2年もしないうちに、海軍から陸軍に代わっていることがあります。当時の海軍の司令官は、『陸軍はできの悪い連中が中心なので、大変なことになりますよ』といって去っていくのです。確かにその統治はひどく、孤児院もひどい状況になっていきました。
 軍隊は住民を守らない
 『慰安所』が、なぜ沖縄に多かったのかと言えば、それは中国戦線にいた部隊が沖縄に移動してきたことがありました。中国戦線では、明らかに『慰安所』をつくることとセットで、侵略をおこなっていました。その部隊の兵隊たちが移動してきたのですから、そういう部隊の軍隊の管理機構がそのまま沖縄でも継続することになったのです。朝鮮人慰安婦』の存在もそうでした。軍夫も同様です。それは、朝鮮人・中国人に対する民族差別とセットだったわけですが、日本軍は、沖縄に対しても差別意識を強くもっていたのです。
 『方言を使ってはダメだ』と言葉狩りをして標準語を強制したことは有名ですが、沖縄県民はいつ裏切るかわからないと、信用せず、軍官民一体の名の下で、沖縄県民を逃がさないように管理したわけです。住民の家を使って軍隊がそこで生活するということまでやった。住民は、軍隊といっしょに行動することを余儀なくされたため、米軍は住民をも狙わなくてはいけなくなりました。その結果、住民の死亡者が膨大なものになったのです。軍人よりも多い犠牲者を強いることになりました。
 よく『集団自決』という ことが議論になります。多くの人は、沖縄は『集団自決の島』というイメージを持っています。それも事実ですが、いちばんの本質は、『軍隊は住民を守らないだけでなく、殺すこともためらわない』ということです。むしろ軍隊そのものは住民を殺す存在、守らない存在であること、軍隊があることで、安全、安心を確保するものでも何でもないということに、沖縄戦の本質があることを、私たちがいま教訓とすべきであると思います。
 この本には八重山宮古での孤児院の設立と計画にもふれています。そこで生み出されたのは戦争マラリア孤児です。戦争マラリアというのは、マラリアの伝染の恐ろしさが高い地域に、軍事的戦略のために住民を移住させた結果生まれた被害をさします。ここにも、軍隊が住民を死に追いやったという沖縄戦の本質が示されていて、本当に日本、そして日本軍とは、ひどいと思います。
 陸上自衛隊幹部学校がつくった『沖縄作戦講和録』という報告書が、防衛研修所戦史室にあります。自衛隊の幹部が、沖縄戦を調べ、当時の沖縄にかかわった軍や政府の幹部、財界やメディアの幹部から話を聞いたいる記録です。そして調べた結果が、『これが皇軍のなれの果てか』というぐらい軍隊は規律が乱れ、住民を守らず、自分勝手なことをしているということだった言っています。たぶん本土では、軍隊に対するそこまでの認識は住民には見られなかったと思います。しかし、沖縄では明らかに軍隊は住民を守らない、住民を殺しさえする存在であった。そのことが沖縄戦から学ぶべきことなのです。この本に書いた 沖縄戦における孤児の歴史からも、そのことを私たちは学ぶべきだと思います。
 女性、子どもの問題の解決を
 ……
 ただ、日本の戦争は、女性や子どもの人権にとどまらず、人権を踏みにじってきました。それは沖縄だけでありません。それがもっとも表れているのが、遺骨収集の問題です。日本軍の戦没者は310万人とされています。そのうち海外戦没者は240万人です。そのなかの110万強の遺骨は、海没とされる30万人も含めていまだ還っていないという現実があります。これは世界の軍隊のなかでも珍しいことなのです。〝死者の権利〟もないがしろにされたままです。
 そもそも日本軍においても日清・日露戦争を通じて『戦場清掃』が決められ、死者の処置は、死亡の原因、地点、日時などを把握して、火葬することが定められ、日中戦争の際には『内地送還』として、戦死者の遺骨の内地送還が決められていました。遺骨を家族のもとに還すことは軍部の至上命令だったはずです。ところが、アジア・太平洋戦争では空の遺骨箱で返し(戦死地の砂袋か名前の書いた紙一枚が入っているだけのものが多かった)、『英霊』として靖国に祀るというフィクションによって国民の不満を封じ込め、体制に取り込んできたのです。『英霊』にし、顕彰し、戦後は、戦傷病者戦没者遺族等援護法を52年に制定し、戦争の犠牲者となった家族への福祉的機能をともなった国家賠償の対象とすることによって、戦後の国民の反発を抑え込んできました。ここでは、『準軍属』まで対象とされたが、東京大空襲をはじめ、一般戦災死亡者は捨て置かれました。こうして戦争の真実を抑え込み、戦争への考え方を変えていくような取り組みが、国家の手ですすめられてきたのです」
   ・   ・   ・   


    ・   ・    ・   

[asin:B015XAAVTQ:detail]