🎶05:─1─日本軍部は総力戦を研究するべく観戦武官を欧州戦線に派遣した。日露戦争と観戦武官。~No.8No.9 

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 観戦武官
 歴史
 この制度の起源は明らかではないが、傭兵ではない、国家による軍隊が必要であること、士官学校国際法などの制度の成立が不可欠であることから、およそ19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。
 日本では、1870年に普仏戦争大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉(後に中将。海軍戦術、『坂の上の雲』で有名)・柴五郎陸軍少佐(後の大将。義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
 日露戦争の際には日露両国に対して欧米諸国から多数の観戦武官派遣の申し入れがあり、日本はイギリス、アメリカ合衆国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、ノルウェー及びスウェーデンスウェーデンノルウェー連合解消の時期と重なる)、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国といった13の国々から70人以上の武官を迎えたと記録されている(en:Military attachés and observers in the Russo-Japanese War 参照)。その内、先に日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。特にイギリスのイアン・ハミルトン(英語版)陸軍中将(後の第一次世界大戦ガリポリの戦いで地中海遠征軍(英語版)を指揮)、ウィリアム・ペケナム(英語版)海軍大佐(後に大将。朝日に乗艦しての報告はジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の目に留まり、ドレッドノートの設計に取り入れられた)、アメリカのアーサー・マッカーサー・ジュニア陸軍少将(後に中将。マッカーサーGHQ最高司令官の父)、ドイツのマックス・ホフマン陸軍大尉(第一次世界大戦では第8軍の参謀としてタンネンベルクの戦いを勝利に導く)など後の歴史に影響を与えた軍人も多かった。
 第一次世界大戦では、イギリスの巡洋戦艦クイーン・メリーに乗艦して観戦していた下村忠助海軍中佐がユトランド沖海戦で戦死している。
 観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの輸送手段の発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため、自然に消滅した。」
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 ブルガリアの地を初めて踏んだ日本人-露土戦争の観戦武官・山澤静吾の武勲-
 公開日: 2017年2月7日カテゴリー: 話題の国々
 私は、ブルガリアに2004年から2007年まで大使として赴任した。この時に、山澤静吾なる露土戦争の観戦武官がロシア軍の側で戦い、戦地にいたロシア皇帝から叙勲されたとの興味深い逸話を耳にした。日本では歴史の中に埋もれて、殆ど知られていなかった人だ。
 ところが小説「屍者の帝国」(2014年発刊)の中で剣の達人として登場し、映画化もされて、最近その勇名が噂話と共に一部で飛び交うようになった。実像はといえば、中立国の観戦武官が戦地を視察中に戦うというのがそもそも不思議な話だ。本稿では、謎に包まれた山澤の行動を当時の資料などから推察する。
 露土戦争と観戦武官・山澤静吾
 山澤静吾は、幕末から明治を生きた薩摩の人である。日本ではちょうど西南戦争の時期に、ロシアとトルコの間で戦争が勃発した。これが露土戦争である。山澤は日本政府派遣の観戦武官としてロシア軍本営に属し、この戦争に臨んだ。のみならず、重大な場面で巻き込まれた。
 ロシア帝国オスマントルコ帝国は、1877年(明治10年)から1878年明治11年)にかけて露土戦争を戦った。ロシア帝国の汎スラブ主義・南下政策の中で、トルコに支配されているバルカン半島のスラブ人を救うという旗印を掲げて、ロシアの大軍がドナウ川を渡り、オスマントルコ領内のブルガリアでトルコ軍と激突した。
 激しい戦闘が何度も繰り返されたが、戦争はロシアの勝利に終わった。オスマントルコは、この後に衰退・瓦解へと向かっていく。勝ったロシアも、戦後すぐの英仏独の干渉で得たものは期待外れとなり、バルカン半島の民族問題も解決されなかった。ロシアは、その前のクリミア戦争、その後の日露戦争と苦しい戦争が相次ぎ、国内は疲弊した。その意味で、露土戦争第一次世界大戦ロシア革命という、20世紀ヨーロッパの動乱への序章となる大戦争であった。
 この露土戦争に、観戦武官としてロシア軍本営に加わったのが、陸軍省からフランスに派遣されていた山澤静吾である。山澤は西郷隆盛大久保利通と同じ鹿児島城下の三方限に、1846年1月に生まれた。三方限は、明治維新を担った下級武士が住んでいたところである。露土戦争が始まる2年半ほど前から陸軍中佐としてフランスにいたが、露土戦争の観戦武官に選ばれてフランスからロシアに入った。山澤が31歳の時で、ロシア軍本営に属して露土戦争の一年余をロシア軍の中で過ごした。
 中立国の観戦武官は自身が戦闘に加わる事はない。ところが山澤は露土戦争の大きな山場のプレヴェンの戦いで、1877年9月11日の両軍激突の時に武功をあげ、戦地にいたロシア皇帝(アレクサンドル2世)から勲章を授けられている。この戦は、ロシア軍の死者が2万という惨憺たる被害で、いわばロシアの負け戦の中での武勲だった。負け戦に、山澤がロシア皇帝から特別に感謝された行動とは、一体何であろうか。そして、ロシア軍本営にいる観戦武官が戦わなければならないとは、どういう状況であろうか。
 山澤派遣の背景
 露土戦争に日本から観戦武官を派遣したいとロシア政府に申し入れたのは、在ロシア特命全権公使榎本武揚である。榎本は旧幕臣で、戊辰戦争では蝦夷地の総裁として函館戦争を率いた。敗北後、榎本は敵将の黒田清隆の助命嘆願により救われ、明治政府に仕えてロシアとの領土交渉に当たっていた。1875年の千島樺太交換条約は、榎本とロシアの外務大臣との間で締結されたものである。さかのぼって榎本は、旧幕府から派遣されてオランダ留学中に、プロシアデンマークの戦争を観戦武官として視察した経験があり、国際法を熟知していた。
 外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、陸軍卿(陸軍大臣)の山縣有朋と協議し、陸軍省からフランスに派遣されている山澤静吾を観戦武官に選んだ。薩摩藩英国派遣使節の一人だった寺島は維新後に外交に活躍の場を得て、関税自主権の交渉に当たっていた。長州の山縣は陸軍を足場に、その後国政に大きな影響を与えていく。山澤の露土戦争派遣は、旧幕臣・薩摩・長州の、幕末・明治を飾った人たちの合作であった。折しも明治10年、日本国内では西南戦争が勃発し、よちよち歩きの明治新政府は、その存立さえも危ぶまれた時期である。
 露土戦争の進展
 ロシアは1877年4月22日にオスマントルコに宣戦を布告し、ここに露土戦争が始まった。ロシア軍はロシア皇帝の弟の軍人ニコライ公爵を総司令官とし、7月にドナウ川を渡ってブルガリアの地に入った。山澤はロシア軍本営に属して行動を共にした。ロシア軍は更に南下して、プレヴェンの要塞にこもるオスマン・パシャ指揮下のトルコ軍と対峙した。
 7月末までに、ロシア軍は3万5千に、トルコ軍は2万2千に増強された。7月31日にロシア軍はトルコ軍の要塞を攻撃した。激しい戦闘の末、日暮れまでにトルコ軍はロシア軍を撃退した。ロシアの死者7千3百、トルコの死者2千、ロシアにとってはまさかの緒戦の敗北であった。
 トルコ軍の手強さに、ロシアは8月中に軍を10万に増強した。ロシア軍の援軍として、ルーマニア軍も到着した。トルコ軍は3万がプレヴェンの要塞に立てこもった。兵力差からみて、ロシア皇帝アレクサンドル2世は勝ちを疑わず、弟の指揮する戦の観戦にプレヴェンにやってきた。山澤静吾はロシア軍本営から、負けるはずのない戦を観戦するはずであった。
 9月11日、ロシア軍の総攻撃が始まった。トルコ軍は、繰り返し前進してくるロシア軍に対し、プレヴェンの要塞からクルップ製砲尾詰め大砲とウインチェスター製連発銃を何時間も浴びせ続け、反撃した。ロシア軍の死者は2万にのぼった。総攻撃は失敗に終わり、その後戦線は膠着した。
 山澤の武勇と叙勲
 その少し後の9月20日に、ロシア外務省大輔ヂエールから榎本武揚ロシア公使に「陸軍中佐山澤静吾氏は釼の形を装付せしサンブラヂミル四等賞牌を綬典相成り候」(外務省公電)と連絡があった。ロシアの惨憺たる戦いの後で、戦地にいたロシア皇帝から山澤が叙勲したというのである。
 この武勲の様子を10月19日の外務省公電は次のように記している。「山澤静吾、露軍に属し戦地に出張中、弾丸雨注の際、自若勇猛の挙動抜群、衆目を驚かし、戦地熟練の名誉を露軍に顕し、魯(露)帝より勲章を授けられし旨、戦地より申し越す」(在フランス公使館の中野代理より陸軍卿山縣有朋宛て)観戦武官が衆目の驚く勇猛ぶりで、ロシア皇帝から戦地で勲章を授与されたとは、どういう事であろうか。
 中立国の観戦武官が戦うというのは、トルコ兵がロシア軍本営に迫り、自分の身を守る必要があったとしか考えられない。ロシア軍本営総崩れの一歩手前が目に浮かぶ。山澤は、白兵戦の中で軍刀を振るって応戦したのであろう。これは想像だが、一撃で頭蓋骨を切り裂く山澤の自顕流が露土双方の兵士の「衆目を驚かし」、トルコ兵を撃退するほどの威力を持ったのではないか。自顕流は、初太刀を相手の頭蓋骨に一瞬でも早く打ち込む事を繰り返し練習する実戦向きの特異な剣法で、薩摩では下級武士が修練していた。幕末ものの歴史小説では、広い意味で薩摩の示現流として知られている。
 山澤の生い立ちをひもとくと、1846年1月鹿児島の三方限生まれ、17歳で薩英戦争に従軍、18歳で蛤御門の変を経験、21歳で戊辰戦争に従軍、23歳で御親兵として上京、25歳で陸軍へ。幕末の動乱を、白刃の下をくぐり抜けている。強いはずである。山澤の「戦地熟練」は、露土戦争の重大な場面で、ロシア皇帝が特別に感謝するほどの働きとなったようだ。
 山澤は1878年11月にフランスから帰国後、陸軍軍人を全うした。1895年に陸軍中将第4師団長として日清戦争に従軍、その武功により男爵を授けられ、1897年に51歳で没した。日露戦争が始まる7年前である。妻の若子と対の双墓が青山墓地に残る。
 プレヴェンの町は今や瀟洒な文化都市となっており、露土戦争の要塞跡には記念館が建っている。古戦場を見渡すと、140年前にブルガリアの地を初めて踏んだ日本人・薩摩の武人、山澤静吾への想像が膨らむ。
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 明治の日本は、世界から近代国家として認められる為に、他国の軍隊以上に戦時国際法と国際赤十字精神を守り、諸外国の軍隊から観戦武官を招き国際法専門家を同道させて日本軍の戦いぶりを公開していた。
 正々堂々と戦って勝つ、それが日本軍に対する明治天皇の命令であった。
 日本軍の少数部隊による敵の大軍に対する奇襲攻撃は、正攻法であって卑怯な戦法ではなかった。
 そして、皇室は、抗戦意欲と戦闘能力を失って捕らえた敵軍兵士を捕虜収容所に収容し、怪我や病気を治療し、元気に帰国できるように保護する事を望んだ。
 天皇の大御心は、「無益な殺生はしない」そして戦争回避の「平和主義」であった。
 天皇・皇室に絶対忠誠を誓う日本軍が、戦時国際法を守らず国際赤十字精神を踏みにじって虐殺行為を行う事は不可能であった。
 日本軍内部での鉄拳制裁による恐怖の新兵教育は、上官の命令は「天皇陛下のご命令」でる事を周知徹底する為に行われた。
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 日本人とは、金儲けの為に、戦場で乱取りを行い捕らえた日本人を奴隷として海外に売った日本人の子孫である。
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 軍人精神と武士道の融合である。
 武士道とは、女子供でも武器を持って攻撃してくる相手は容赦なく殺すが、武器を持たず戦う意思のない相手は殺さない事で、誰彼かまわず殺す・虐殺する事ではない。
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 日本の戦争史において、皆殺し、殲滅戦、根絶やし、虐殺は、世界の戦争史に比べて数が少なかった。
 最も地獄のように凄惨な殺し合いを続けて来たのが、人を人とも認めない中華儒教の中国であった。
 その証拠が、中国共産党である。
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 日本軍部・日本陸軍は、将来、日本軍が戦う総力戦を研究する為に多数の観戦武官を欧州戦線に派遣した。
 その戦略路線をめぐって日本陸軍内部で意見対立が起き二派に分かれた、それが後の統帥派と皇道派である。
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 大日本帝国陸軍は、1871年明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍帝国陸軍、陸軍。
 解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。
 第一次世界大戦
 シベリア出兵における帝国陸軍騎兵連隊
 詳細は「第一次世界大戦下の日本」を参照
 大正期の第一次世界大戦には日英同盟に基づき連合国として参戦、1914年(大正3年)には敵対する中央同盟国のドイツ帝国が租借していた中国の青島を、海軍やイギリス軍とともに攻略(日独戦争・青島の戦い)、結果戦勝国となる。帝国陸軍は多数の将校を観戦武官として第一次大戦の主戦場であるヨーロッパに派遣、仔細に調査し、それまで範を取っていたドイツ軍の敗因と塹壕戦に代表される総力戦の研究を進めた結果、資源に乏しく基礎工業力も貧弱な国力のもと短期に敵主力を殲滅するための手段として、歩兵の浸透戦術による塹壕線突破と戦車・航空機の支援運用を重視した戦略・戦術ならびに装備を整えることになる。
 詳細は「シベリア出兵」を参照
 また、第一次大戦終戦間際の1918年(大正7年)より、前年のロシア革命によって内戦に突入したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に対する干渉戦争として、日本は連合国と共に兵力を派兵(シベリア出兵)連合国の中で日本は最大の兵力を投入し、1922年(大正11年)に至るまでボリシェヴィキ労農赤軍パルチザンと戦闘を行う。
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 江渡 恭助(えと きょうすけ、1881年明治14年) - 1917年(大正6年)7月9日)は、日露戦争および第一次世界大戦に従軍した日本海軍の将校。イギリス戦艦の爆発事故により戦死した。
 第一次世界大戦の初期には軍令部の士官となり、またドイツを相手どった青島の戦いで重砲を預かり功績を挙げた。1916年(大正5年)5月、江渡はイギリス大使館駐在武官に任じられる。シベリアを横断しヨーロッパへの旅路を経験した。日英同盟のもと、江渡は1916年(大正5年)8月15日からイギリス本国艦隊の戦艦「ヴァンガード」乗組の観戦武官の一員となった。
 1917年(大正6年)7月9日は月曜であった。日付のかわる直前に、スコットランドスカパ・フローに停泊していたヴァンガードは爆発した。これはおそらく、数箇所の弾薬庫の向かいにたくわえられたコルダイトが、そばにある無人のボイラー室で燃え上がったものだといわれる。ヴァンガードはほとんど瞬時に沈没し、江渡を含めたおよそ843名がそのまま溺死した。救命されたのは2人だけだった。現在この地は軍事遺産保護法(1986年制定)が扱う対象となっている。1984年(昭和59年)、江渡の親族がオークニーを訪れ、ヴァンガードの難破物まで案内されている。
 江渡は戦死後同日付で大佐に昇進し、功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章を受章した。さらにイギリス政府によるバス勲章も与えられている。
郷里・五戸町の博物館には、ささやかながら江渡についての展示品があり、また同町には「江渡恭助人材育成基金条例」が設けられている。
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 下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年明治14年〉10月8日[1] - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。
 1915年(大正4年)9月8日イギリス駐在となり、観戦武官としてイギリスの巡洋戦艦クイーン・メリーに乗艦したが、1916年5月31日にクイーン・メリーは第一次世界大戦中最大の海戦となったユトランド沖海戦で撃沈され、妻と一男一女を残して下村も戦死した。34歳没。同日付で海軍中佐に特進。その葬儀は海軍葬として東京で執り行われた。
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 Home»連 載»歴史シリーズ»「我が国の歴史を振り返る」(23) 日露の「戦力」と「作戦計画」比較
 歴史シリーズ
 「我が国の歴史を振り返る」(23) 日露の「戦力」と「作戦計画」比較
 宗像 久男 / 2020年2月9日 / 1.6k
▼なぜ日露両国のみの戦争に留まったか 
 さて、「日露戦争は第0次世界大戦だった」と分析する歴史家がいることを紹介しましたが、戦争の特色が①総力戦、②機関銃の本格的な使用、などから戦史的に重大な節目になったのがその理由になっています。
 「日露戦争」には、欧州などから70人以上の「観戦武官」が派遣され、両国の戦いを間近に観戦していました。この「観戦武官」制度の起源は明らかではないのですが、19世紀半ば頃に確立したと言われます。我が国からも「普仏戦争」時の大山巌、「米西戦争」時の秋山真之などが有名ですが、「日露戦争」時には、イギリス、アメリカ、ドイツを含む13カ国から派遣の申し入れがありました。
 特に「日英同盟」のイギリスからはハミルトン中将以下33人の大所帯、アメリカからはマッカーサー中将(ダグラス・マッカーサーの父)らが観戦し、戦場の実相や戦法などが「観戦武官」を通じて世界中に拡散し、この後の戦争に多大な影響を及ぼすことになります。
 ちなみに、この「観戦武官」制度は、第1次世界大戦以降は自動車や航空機などの輸送手段の発達によって「戦域」が広がり、1人の武官が戦闘を観ることが不可能になったため、自然消滅します。
 他方、「日露戦争」は、戦争そのものは日本とロシアの2国に留まりました。それにも訳があります。1904(明治37)年2月8日に戦争が始まり、9日にロシア、10日に日本が宣戦布告すると、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなど西欧諸国のほとんどが「局外中立」の声明を出します。
 まさに「1カ国と交戦状態になった場合は中立を守り、2カ国以上と交戦状態になった場合は参戦の義務がある」と定めた「日英同盟」がフランスをはじめ他国を牽制したのでした。
 清国も満州除く各省及び内外蒙古の「局外中立」の声明を発しました。韓国(大韓帝国)は当初、日露のいずれに付くか迷っていましたが、日本の第1軍が仁川に上陸して京城を経て平壌に前進し、かつ旅順沖の緒戦で日本が勝利するやようやく態度を決し、2月23日、日本の軍事行動に対する便宜供与を含む「日韓議定書」に調印します。
 また、日露戦争勃発後の4月8日、イギリスとフランスは、ドイツのアフリカ進出に対する警戒から「英仏協商」を締結します。これによって、「百年戦争」(14~15世紀)以来、数百年にもわたる英仏間の対立関係は終止符を打ちました。
 この条約は、やがてロシアを含む「三国協商」に発展しますが、この時点では、ロシアに痛手を与えることになります。ロシア外交の基軸だった「露仏同盟」が「日英同盟」に対抗する力を持たないことが明らかになったのでした。
 今回は、地味な内容となりましたが、孫氏の兵法に「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」とあるように、彼我の「戦力」や「作戦計画」の静的な比較は、戦争の歴史を振り返る上でとても重要ですので、あえて詳しく触れてみました。(以下次号)
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未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―(新潮選書)