🎻27:─1─70年安保闘争の敗北。戦後民主主義世代の挫折と怨恨。地下に潜る過激派。~No.90No.91 ⑦

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年4月4日号 サンデー毎日「『世代』の昭和史 保阪正康
 戦後民主主義の理念と戦前体質の支配層
 全共闘が追求した矛盾の核心山田宗睦は、大正14(1925)年生まれの戦中派世代である。いわば戦争に駆り出された戦争要員世代よりは、少し下になるのだが、かといって昭和5、6年生まれの軍国主義教育からあっさりと戦後民主主義教育に変化して、世代的怒りを内在したという世代ではない。言ってみればそのどちらの世代の懊悩(おうのう)や憤懣(ふんまん)とも等間隔で理解できるということではないだろうか。その著(『危険な思想家』)は、山田の世代から見れば、あの時期に誰かが出すべき書だったように思う。山田でなければ『思想の科学』のメンバーか、それとも大正期から昭和の初めの世代の評論家などが刊行したように思う。
 この書の『まえがき』の出だしの一文は次のように書かれている。
 『わたしは「戦後」にすべてを賭けている。この本は、戦後を擁護するとともに、戦後を殺そうとするものたちを告発した書物として書いた。せいいっぱい書いた』
 山田は、のちにこの書を書いたことを恥ずかしいといった表現で自省(じせい)の感情を漏らしているが、しかしこの本が特別におかしいというわけではない。戦後民主主義を正直に語りたい、語り残したいと思ったからこの種の書は生まれるべくして生まれたとの認識が、当時の人々の間にあったということにあるのであろう。私にはそのことの方が極めて大事だとも思えるのだ。さらに言葉を紡いでおくと、戦後の日本社会で、与えられたにせよ民主主義体制は、確かに戦前の軍国主義体制より遥(はる)かに呼吸のしやすい社会を作ってくれた。山田のこの『危険な思想家』は、戦争要員世代の息吹を理解しつつ、一夜にして価値基準の変更を余儀なくされた次の世代への激励の書とも読み抜けるのだ。
 とするならば『60年安保世代』や次の全共闘時代への申し送りの意味も持たされたといっていいのではないか。それが当時のベストセラーになった原因ではないかと思えるのだ。
 それを前提に、この書が果たした役割をもう少し分析しておくことにしたい。
 山田によるならば、『戦後という時代と社会は、戦前の日本とはちがった新しい原理と方法で、運営されるべきものだ。戦前の専制政治と戦争に代わって、民主主義と平和が実現した。ところが、右も左も、いざとして戦前の方法で戦後を運営しようとした。そして、戦後も10年たった1955年のころ、戦後の新しい原理と方法を、否定しようというこころみがではじめたのだ』という分析を試みている。その上で山田は相応に的を射た指摘を行っている。『わたしたち、大正後期(1920年以降)の世代が、はじめて自分たちの世代的な主張をしたのは、このころである』というのである。戦争要員世代が新しい視点で、日本社会を問い始めたというのである。
 この指摘は世代論にあっては、意外に重要なのである。なぜなら全共闘世代の問題意識と通じる発想が見え隠れしているからだ。前述(ぜんじゅつ)の山田の分析をもう少し具体的に見るならば、この『大正後期(1920年以降)の世代』の論者として吉本隆明の見方が嚆矢(こうし)となって、この世代が相次いで発言することになったというのである。この部分も、山田の一文を引用しておいた方がよいだろう。
 『吉本隆明は、54年(昭和29年)のおわりに、戦前型の詩人を批判するという形で、それをやった。吉本は、かれらの戦争責任をあばくことで、その戦後責任をつくという方法をとった。戦争中にかんたんに軍部に便乗したものに、どうして戦後をになう資格や能力があろうか。資格がないくせにあるような顔をして、とうとう戦後を追いつめ、くいつぶしにかかっているではないか』
 吉本に続いてこうして戦中派の訴えは、丸山邦男(文筆家)や村上兵衛(評論家)などが、戦中派の意見や認識をもとに自分たちの時代への関わりを発表していった。丸山は大正9年生まれ、村上は大正12年生まれである。この後に大正10年生まれの上山春平、藤原弘達、11年生まれの鶴見俊輔橋川文三安田武、市川三郎、そして12年生まれの谷川雁、永井通雄、13年の安部公房、藤島宇内、今井清一などがその世代の目からみた歴史観や政治論、さらには社会論を披瀝していくのであった。ある意味で、全共闘世代が昭和40年代に提起していく問題はこうした世代がすでに形を作っていく時代でもあったのだ。
 全共闘世代がまさに世代として提起した視点は、戦争要員世代が言論で戦ってきた形に対する疑問、ないし不満でもあった。しかしそこに決定的な落とし穴があったことを、当時は誰もわからなかったと言ってもよかった。
 では落とし穴とはどういうことか。つまり全共闘世代の父親ともういうべき世代の作り上げた社会秩序や社会意識とはどういうもので、そこにはいかなる問題点があったのか、それをわかりやすく見ていく必要があるだろう。これは山田がやはり指摘していることでもあるのだが、日本社会を実際に動かしていた明治期生まれの世代、いわば昭和の戦争を主導した世代ともいうべきなのであろうが、この世代(山田は戦前派という言い方をするのだが)は、もう戦後は終わったといわんばかりに、またぞろ日本社会の戦前復帰を考えるようになったというのである。それを前述の論者たちは警戒し、怒り、そして自分たちの世代の役割である戦後民主主義の理念の鼓吹(こすい)に努めたというのである。
 大日本帝国時代を賛美する企業人
 ところがその最大の援軍であるべきはずの、戦後の世代が思いもよらない行動に出たというのである。これも山田の一文を引用した方がわかりやすい。彼は次のように書くのだ。
 『わたしたちは、戦後の世代がわれわれと提携して、危険な老人たちと戦闘を開始すると思っていた。ところが、事もあろうに
この若者たちは、平和と民主主義は退屈でつまらぬと言いだした。これは危険な兆しだった。かれらは、陳腐な平和と民主主義に怒り、そこから脱出しようとした。危険な老人たちと怒れる若者とが連合して、ぎゃくに戦中派が攻撃された』
 この一文でいう怒りの世代とは、純粋に戦後民主主義に信頼を置いた世代を指しているのであろうが、山田のこの論は昭和40年に書かれており、全共闘以前の時代になるのだが、確かに戦後民主主義世代の持つ『遅れてきた青年』という認識が、戦いと死の渇望であるならば、それは極めて危険だというのである。
 この書がベストセラーになった時に、私は大学を出て、電通PRセンターという会社に身を置いていた。高度成長下でこの分野は凄(すさ)まじい勢いで伸びていた。しかし意識は戦後民主主義につかっていたために、山田の書に触れた時には日々の仕事とは別に無性に腹がたったことを記憶している。我々は遅れてきた青年であるが故に、世代としての役割があるとの自覚であった。戦前への回帰を喜ぶ体質を持っている者などはいないという誇りであった。
 その反面の論に一定の説得力を感じたのは、私たちの意識の中に確かに戦後民主主義体制の矛盾や不満があったからとも言えたのである。私自身、日々の仕事の中に大日本帝国時代を賛美する世代の企業人を見て、愕然(がくぜん)としたことがあったからである。
 全共闘世代が生まれてくる前の戦後社会について、私は『60年安保世代』として、岸信介首相に代弁される大日本帝国の体質に『ノン』という回答を突きつけたことは、戦後民主主義世代の歴史的アリバイであると信じていた。それがいわば戦争要員世代からは、理解されないというのであれば、世代間には断絶しかないということになってしまうということになる。さてこうした事情を整理しながら、全共闘世代が登場する歴史的必然性のようなものを確認しておく必要がある。それを以下に箇条書きにしておこう。
 1,全共闘世代が登城する時の日本社会は、支配層は戦前の体質で組織が動いていた。
 2,しかし日本社会の建前と本質は戦後民主主義の原則を持っていた。
 3,高度成長経済の渦中にあり、経済主導の国家体制であった。
 4,東西冷戦下にあり、日本の保守政治はアメリカ追随による安保体制下を選択した。
 5,世代間の対立、相克、葛藤がある分野で見られ、社会の攪拌(かくはん)期であった。
 さしあたりこのような条件を丹念に見ていけば、全共闘の提起したテーマの重さも意味も明らかになっていくのではないだろうか。前回にも語ったのだが、こうした矛盾が鋭角的に現れていた分野、例えばそれが大学医学部の医局講座制であり、私立大学のマスプロ教育であり、経営的には授業の値上がりであった。そして政治的にはベトナム戦争へのあまりにも節操を欠いた深入りでもあったのだ。こうした個々の問題で全国化していったというのが現実の姿であった。
 この5項目についての共通点は、先に山田宗睦が指摘していたことでもあるが、日本の支配体制が戦前と変わらない状況なので、それを解体しようと戦中派が戦っているのに、戦後派は協力しないという。その意味である。こういう見方は運動理論の先導的な役割を果たしている人々が、思うようにならずにしばしば絶望的に口にする言葉である。当時(昭和40年ごろということになるのだが)、日本の政治は実質的には保守政治による派閥中心内閣であった。派閥を動かしているのは政治理論というよりは、極めて日本的共同体のしがらみによっていた。派閥のボスは、子分の選挙の面倒を見て、資金調達の役割も担い、そして大臣ポストを割り振っていくというのが慣例でもあった。こういう政治は、確かに近代的な議会政治とはいえない。こういう派閥中心のボス政治が、日本社会の宿痾(しゅくあ)として存在していたのだった。
 そういうボス政治がこの国の組織全体に及んでいて、それが極めて官僚的な構図としてあらゆる面で疲弊を生んでいたのである。全共闘世代が各大学で授業料値上げ反対闘争をきっかけに瞬く間に大学全体に、抗議闘争が広がっていくのを私は確認した。昭和42年からは全共闘運動は、各大学に広がり、そこにさまざまなセクトが生まれて主導権争いを始めていた。そういう経緯については私は詳しくは知らない。そしてそのことを論じるだけの知識がないので触れない。ただある大学で、授業料値上げ反対闘争の全共闘の記者会見があるというので、私はその頃は出版社に身を置いていたので、取材に出かけたことがあった。
 教育とは何かを根源的に問い直す
 その時に指導者の一人が、マスプロ教育が実際に知識の切り売りであり、学生をベルトコンベアに4年間乗せてから下ろして、また次の学生を乗せてというような言い方をした。教授は知識の販売員のようなもので、教育とは何かを根源から問い直す必要があるという意味のことを言った。こうした教育論を聞いたことがなかったので興味を持つ半面、あまりにも多い同年齢の学友たちとの教育期間を経験して、逆に大学のあり方を考えていることになるほどと頷(うなず)いた。前述の山田宗睦の論を援用することによになるのだが、戦争要員世代が戦後に日本社会の改革やその問題点を指摘していくのに、私たちの世代(戦後民主主義の世代)はそれに協力しないという不満を述べていた。これは短兵急な見方であるというので、自著を恥ずかしいと言ったのかもしれないが、実は大正10年代生まれの世代も、私たちの世代も価値基準としては戦後民主主義に全面的な信頼を持っているにせよ、実はこの社会の回転軸は大日本帝国の影を残しているのかもしれないとの自省を持ったことはなかったように思う。
 全共闘世代の問題提起が、歴史的にどのような形になっているのか、日本社会の現実を確かめなくてはならないように思えるのである。
 前述の5項目は改めて検証してみるべきであろう。日本社会の変化は、それぞれの世代が持つ歴史的役割が生かされているのか、それとも私たちの世代は基本的には、本質が変わらない中で表面だけは変化しているのか、そこを見ていくのが世代論の中心テーマだと気がつくのである。」
   ・   ・   ・   
 戦後民主主義世代は、敗戦国日本が戦前の常識・秩序・意識で続いている事に疑問を抱き、その結論から猛反発し、戦後日本は古いもの全てを捨てて一新した、今までとは全く違う新生日本にするべきだと確信して行動を起こした。
 人民(共産主義)の大義から、民族アイデンティティの歴史・伝統・文化・宗教を破壊し、父親支配の家・家庭・家族を打ち砕こうと、立ち上がった。
 戦後民主主義世代で高学歴出身の知的エリートや進歩的インテリは、戦後教育とメディア・報道機関で精力的に活動した。
   ・   ・   ・   
 GHQは、占領政策の一環として日本の大改造計画を実行し、子供達には洗脳教育を、大人達には洗脳再教育を、そして全国で悪書指定の焚書を断行し、文化・宗教・芸能を破壊した。
 日本の洗脳教育に利用されたのが、反神道・反民族神話の西洋キリスト教価値観、反文化・反宗教無神論マルクス主義共産主義)価値観、そして反天皇反日本の中華儒教価値観であった。
 そうして人工的に作られたのが、反体制・反国家・反政府、反社会・反世間、反家・反家庭・反親などの反発意識の強い戦後民主主義世代である。
 英語・フランス語の公用語化が無理なら、日本国語を誰でもが理解できるように漢字使用を廃止してローマ字表記、平仮名もしくは片仮名の何れかの表記にしようという国語改造計画が進められた。
 高学歴の進歩的インテリ(マルクス主義者)は、日本国語改造計画に賛同し協力した。
 民族を証明するのは、特異な民族言語と特殊な民族宗教である。
 特異な民族言語を失った人間は民族ではなくなり、文化の進歩として、ローカルな民族からグローバルな国民に進化する。
 ハワイ民族は、歴史・伝統・文化・習慣・風習を生みだした特異な民族言語と特殊な民族宗教を奪われてアメリカ人となり、民族固有の王国と王家を失った。
   ・   ・   ・   
 日本民族や日本国語は、明治になって新政府が新しく創作したもので歴史が浅く、文化はあっても伝統はなかった。
   ・   ・   ・   
 天武天皇(在位673~686)が、天皇という称号、日本国という国名、日本人という人別を定めたが、明治時代までは一般的に使われる事が少なかった。
   ・   ・   ・   
 戦後民主主義世代で安保闘争に参加した一部の過激派高学歴進歩的インテリは、ソ連中国共産党共産主義勢力から活動資金を得て反天皇反日本、反米・反安保・反米軍基地、護憲、反自衛隊反戦平和団体、人権などで主要な立場に立っていた。
 高学歴進歩的インテリは、日本をインターナショナル国家にするべく、日本民族にまつわる歴史・伝統・文化・宗教、家・家庭・家族などを完全破壊し消滅させようとした。
 そして、廃神毀釈(神殺し)の宗教改革や戦前否定の文化改革が起きた。
   ・   ・   ・   
 過激派マルクス主義者は、暴力的共産主義人民革命を起こすべく昭和天皇明仁皇太子、皇族を惨殺するテロ計画を立て、幾つかを実行したが全て失敗に終わった。
 キリスト教の赤い神父・赤い牧師や仏教の赤い僧侶らは、日本国と日本人を救う為には天皇制度打倒・皇族消滅・皇室絶滅しかないとして過激派高学歴進歩的インテリの反天皇闘争に理解を示し陰ながら支援していた。
 が、若い高学歴進歩的インテリの目論見は、第一世代の吉田茂重光葵岸信介、第二世代の池田勇人佐藤栄作福田赳夫田中角栄らの戦前派親米反ソ保守勢力によって全て潰されて失敗した。
   ・   ・   ・   
 過激派高学歴進歩的インテリは、中核派革マル派などに分裂し内部抗争を繰り返し、その中から爆弾テロや銃撃事件を引き起こす反天皇反日本の共産主義テロリストが生まれた。
   ・   ・   ・   
 戦後民主主義世代は、理想主義的観念論で人民主権の社会改革を目指したが、公権力に敗れて挫折し、旧制世代的な世の中への憎悪を心に刻み、今ある冷戦時代を生きるという現実主義的体験論を否定した。
 戦後民主主義世代が、社会の一線に立って決定権を握ったのが1980年頃であり、決定権を行使してバブル経済を破綻させ、決定権を握り続ける事で日本経済は衰退し再建不能な状況に追い込み、先進国・経済大国から後進国・経済破綻国へと追いやり、毎年40兆円の借金を生みだし1,000兆円以上の借金を子供や孫の世代に押しつけている。
 焼け野原となって何もかも失った戦後日本で戦後復興・高度経済成長・バブル経済をもたらしたのは、戦前の日本が持っていた最新を目指す軍事技術力であった。
 戦前の日本が経済大国になれたおは、最先端軍事技術を時代の潮流に合わせ将来の夢の実現に活用して新しい民生製品を生みだしたからである。
 戦後民主主義世代は、戦前を否定し、軍事技術を捨て、新しい商品を生みだす本業・実業ではなく株や土地への巨額投資という副業・虚業に血道あげ日本を崩壊させた。
 が、戦後民主主義世代にイノベーションを行う才能・能力も技術・技量もなく、あったのは愚にも付かない理想主義的観念論による屁理屈だけであった。そして、歴史力・伝統力・文化力・宗教力そして言語力もなかった。
 戦後民主主義世代がもたらしたのは、土台を食い潰す飽食、その場限りの分別をかなぐり捨てた狂喜乱舞であった。
 その証拠が、平成7(1995)年の阪神淡路大震災、平成23(2011)年の東日本大震災、そして令和2(2020)年の新型コロナウイルス武漢肺炎)における、東京にあって傍観するか思考停止状態で右往左往するだけの政治家、官僚、企業家・経営者である。
 戦後民主主義世代とは、総じて失敗者、敗北者、破壊者であった。
   ・   ・   ・