🎷41:─1─現代日本で「責任を取る人」と「責任を取らない人」。安倍晋三元総理。~No.166No.167No.168No.169 ㊴ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年4月1日号 週刊新潮「医の中の蛙  里見清一
 『責任』の取り方
 問いの部分ばかりが
 1月に緊急事態宣言を再発出した後に、政府は、公立病院や公的病院に比べて感染患の受け入れ率が低い民間病院に対し、従来の協力『要請』を『勧告』に強めた上で、患者受け入れに対する補助金という『飴』と、それでも協力に応じない場合は機関名の公表という『鞭』とを使って、なんとか病床確保を進める方針だと報道された。私はそれでもうまく行かないだろうと予測した。最大の障壁は、ナースをはじめとする病院スタッフの抵抗である。病院経営側がカネに目が眩んでも、現場の人たちが動かなければどうしょうもない。
 問題は自分が感染リスクだけではない。そこから家族に(年老いた両親に、まだ小さい子供に)うつってしまったらどうするのか。また、ただでさえ『あそこの家はお母さんがナースだ』と差別されるなんて話がある。そこへもってきて『その病院は、コロナを診ているそうだ』となったら、爪弾きになるのではないか。メディアは『風評被害』を云々するが、それはすなわち日本人の『民度』が低いということに他ならない。我々自身の愚かさが諸悪の根源なのだ。
 ここでよく出てくる疑問が、『仮に私や家族が感染したら、その責任はどう取ってくれるのか』である。この、『責任をどう取るか』の議論は、問いの部分ばかりが出てきて、滅多に(ちゃんとした)答えを聞かない。安倍前首相はよく、『政治家は結果責任』と力説していた。しかし閣僚の不祥事に対して『私に任命責任がある』、事務所の秘書が略式起訴されて『道義的責任を痛感する』、国会で事実と違った答弁を重ねたことについて『政治責任はきわめて重い』と連発する割に、じゃあどうしたいの?(責任をどうとったのか)がサッパリ分からない。
 医療過誤で患者に健康被害が出て、という場合、どう『責任を取る』のかは、ある程度決まっている。賠償金を払うとか担当医をクビにするとかは二の次で、『その健康被害に対して、ベストを尽くして治療する』というのがその方法である。だから上記、『私達が感染してしまったらどうするか』に対しては、『あなた方の治療をきちんと行う』、が答になる。
 1999年に起こった東海村JCO臨界事故で、被曝者のうち2人の作業員が亡くなった。事故後3~7ヵ月後の死亡で、いずれも絶望的な医療を延々と受け、『死なせてあげた方がいいのではないか』という状況だったそうだが、それでも治療を止められなかった。その理由は、政府の面子とかなんとかも取沙汰されているが、一つには『治療すること』がこのような場合の『責任の取り方』の大原則だからと思われる。
 切腹してしまっても
 こんな『責任の取り方』に納得できる人は少なかろう。JCOの例で明らかなように、そもそも起こった健康被害が元通りになるという保証はない。たとえば感染が改善しても後遺症が残ったからどうするのか。最悪、死んでしまったらどうにもならないではないか。その通りで、この『責任の取り方』は、起こってしまったことが不可逆的であれば、意味をなさない。かと言って、金を差し出すのも、担当者が罰を受けるのも、本質的な解決にはならない。事故の被害者やその遺族が、『金なんか要らないから身体を元に戻してくれ』、もしくは『あの人を返してくれ』と言うのはもっともなのだが、如何ともしがたい。理論的には、多額の研究資金を出して後遺症を治す方法を発見する、というのがありうるが、うまくいったという話は聞いたことがない。あとせいぜいが『今後、同様のことが起こらないように』くらいである。
 このことを端的に表現したのも、安倍さんである。昨年4月、パンデミックに対して最初の緊急事態宣言を発した時に、イタリア人記者から『失敗したらどういうふうに責任を取りますか』と質問され、彼は『これは例えば最悪な事態になった時、私が責任をとればいいというものではありません』と答えた。この発言は当時かなり批判されたが、これ自体は間違っていない。感染が爆発的に拡大したら、安倍さんが辞職しようとも、もいくは切腹してしまっても、何もならないのである。
 そして我々を取り巻くリスクは、そんなのばかりである。原発事故を考えればすぐ理解できるように、現代社会の『事故』は、確率的には計算不能だが、起こってしまうと修復不可能なものが多い(大澤昌幸『自由という牢獄』岩波現代文庫)。福島第一原発の吉田所長が『責任を取った』と見なされるのも、起こり得た最悪の破局的事態を結果として防げたからだろう。
 だから結局、『責任なんて取れない』のが正解のようだ。しかし、さんざん『責任は私にある』と言っておきながら、言いっ放しで、具体的には何もなしというのは、さすがにあんまりではないか。最初からそれを狙ったのかどうかは分からないが、安倍さんには、取れない責任が『私にある』と連発して結果的に誤魔化したこと、ならびにそれによって言葉の価値を貶めたことへの『責任』がある。それは、(少なくともこの点では)後世までボロカスに評価されることで『償って』もらうしかなくて、実際にそうなっているようだが、ご本人およびその周囲にそんな自覚はなさそうだ。そうでなければ『再々登板』なんて話は出ない。まあこれ以上安倍さんの『無責任』批判を続けても不毛で、野党と同じになるからやめるが、本来『取れない』責任を『取る』方法はあるのだろうか。
 今村均陸軍大将はラバウルで敗戦を迎えた後、自ら進んで過酷な環境の戦犯収容所に入り、その後禁固10年の判決を受けた。その実、彼には司令官として罪に当たるものは見いだせなかったそうだから、これぞ『結果責任』である。出所後も今村さんは、部下を死地に追いやった自責の念を抱き続け、自宅の庭の隅に建てた三畳一間の謹慎小屋に自ら幽閉し、軍人恩給あけで質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版した。その印税は全て戦死者や戦犯刑死者の遺族のために用いたと伝えられる。
 それでも今村さんは、ご自分が『責任を取った(取れた)』とは考えずに亡くなったのではなかるか。ここまでの覚悟がない人間が、軽々しく『私に責任がある』なんて台詞を吐くべきではない」
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 東條英機武藤章・木村兵衛ら元陸軍首脳は、日本が追い込まれた政治・外交・経済・軍事など多方面の最悪な状況を、撃って出て打開する為に対米英蘭戦争(太平洋戦争)開戦を決断しその結果、敗北をもたらした罪、いわゆるA級戦犯容疑・平和に対する罪の責任でリンチ的縛り首で処刑された。
 A級戦犯容疑とは、非合法的な個人の人道に対する罪ではなく、合法的な政治判断・政治決定に対する罪であった。
 つまり、政治家・軍人・官僚など権力を有する公職にある公人の「口先・詭弁ではなく実行をともなった責任の取り方」である。
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 海戦に敗れた艦長の責任の取りからは、沈没する軍艦と運命を共にして戦死し、生きて生還すれば軍人の恥とされ、如何に優秀であっても二度と艦長として軍艦には乗れなかった。
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 戦に敗れた城主の責任の取り方は、落城する城で自害して果て、切腹せず生きて落ち延びれば武士の恥さらしとされ、腰抜け侍・卑怯者と死ぬまで罵られ、家族や子孫まで汚名が付いて回り、偏見と差別、イジメと嫌がらせの原因となった。
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 現代日本を支配している空気とは、巧言令色鮮(すくな)し仁である。
 悪貨は良貨を駆逐するの譬えの様に、陰険陰湿な同調圧力という悪い言霊が相手を思いやるいい言霊を消し去り、自愛自利で日本人の民度を下げている。
 その証拠が、偏見・差別・虐待・イジメ・意地悪を増幅させ、最悪ケースとして自殺に追い込んでも反省しない、責任を取らない、無責任なSNSの書き込みや同調圧力・場の空気である。
 日本の民度は、思った以上に低い。
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 「昔の日本人が優秀だったから、現代の日本人も優れている」、はあり得ない話であり、ハッキリ言ってウソである。
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 武漢肺炎・新型コロナウイルス蔓延で見た、現代の日本人の本心は「自分は助けられたいが、他人は助けたくない」である。
 野党、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者は、感染者ゼロの為にはホテル・旅館や飲食店などを倒産させるのは「やむなし」と考え、国の借金を増やしても職を失う人々全員に生活保護を出すべきだと訴えている。
 そして、政府批判・体制批判として、国家資金を増やし生活を豊かにする「経済発展はもう要らない」と主張している。
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 現代日本の悪化は、偏見・差別・虐待・イジメ・意地悪を増幅させ、最悪ケースとして自殺に追い込んでも反省しない、責任を取らない、無責任なSNSの書き込みや同調圧力・場の空気である。
 それを誤魔化しているのが、現代価値観で作られた架空の「武士道神話」であり、何ら根拠のない日本人は賢い偉い素晴らしいという醜悪な自画自賛である。
 現代の日本人と昔の日本人は別人の日本人である。
 現代の日本と昔の日本は1980年代頃に遮断され繋がっていない。
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 現代日本人の無責任体質は、高学歴出身の知的エリートや進歩的インテリに多く、職業としては政治家、官僚・役人、教職者・学者、知識人・専門家、メディア・報道機関関係者などである。
 世代的には、戦後民主主義世代である。
 保守派やリベラル派・革新派、左翼・左派・ネットサハや右翼・右派・ネットウヨクでも同じである。
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 日本には、精神論・根性論はいらない。
 日本の再生は、何ら根拠もない作り物の「武士道神話」を捨て去る事からしか始まらない。
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 現代の日本人が、如何に努力し、苦しい鍛練を積み、厳しく律して精進しても、武士・サムライにはなれないし、その足元にも近づく事はできない。
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 日本に微かに残っていた武士道の素養が完全に消滅したのは、1990年代初頭のバブル経済崩壊と平成7(1995)年の阪神淡路大震災である。
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