🎺32:─1─日本軍のインド洋作戦。イギリスは恐怖、ナチス・ドイツは失望、スリランカは感謝。ベンガル飢饉。~No.152 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人は、昔の日本人とは全然違う。
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 日本軍は、開戦する前から機密暗号電報を傍受解読されていた。
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 太平洋戦争のターニングポイントがミッドウェー海戦(1942年6月5日)であり、第二次世界大戦のターニングポイントはインド洋作戦であった。
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 インド洋の戦いとは、第二次世界大戦中にインド洋周辺で行われた戦い。
 経過
 1940年
 8月3日-19日 - ソマリランドの戦い
 1941年
 8月25日-9月17日 - イラン進駐 (1941年)
 1942年
 3月10日-6月14日 - 日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領
 3月31日 - 日本軍のクリスマス島占領
 4月5日-9日 - セイロン沖海戦
 5月5日-11月6日 - マダガスカルの戦い
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 イギリスは、日中戦争以前から、日本の外務・海軍・陸軍の機密暗号電報を傍受解読し、各方面からの情報を集め日本が開戦を決断し、戦闘開始の為に大部隊を乗せた輸送船団や真珠湾攻撃の機動艦隊を動かしている事を正確に知っていた。
 日本国内、政府内には、イギリスやアメリカに軍事機密以外の国家機密情報を流している情報提供者が少なからず活動していた。
 イギリス軍は、日本軍の侵略を撃退するべく香港やマレー半島シンガポールなどの植民地に軍隊を増派し強力な防衛陣地を築いた。
 イギリス軍やアメリカ軍は、日本軍が攻撃する以前に防衛部隊の配置を完了し、レーダー網を張りめぐらし暗号無線傍受で手ぐすね引いて待っていた。
 隠密行動だと思いこんでいた日本軍は、負ける可能性が大の「飛んで火に入る夏の虫」であった。
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 世界の軍事専門家の予想に反して、日本軍は緒戦では連戦連勝の快進撃をした、が、この成功が地獄の様な惨状と悲惨な敗戦をもたらした。
 日本は、「浮き沈みは世の常」として、成功して喜び浮かれると必ず悲惨が訪れる。
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 ヒトラーとドイツ軍は、第一次世界大戦敗北を教訓として、アメリカとの戦争を避けるべくアメリカ海軍の干渉を極力回避していた。
 が、ヒトラーナチス・ドイツは、追いつめられた対ソ戦と戦局挽回のエジプト・スエズ運河攻略戦に勝利するべく、軍国日本がインド洋を軍事支配して連合軍の海上輸送路遮断・海上交通路破壊を期待してアメリカに宣戦布告した。
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 インド洋の海上輸送路には2つあり、東側のアメリカ・オーストラリア・インド・イラン・ソ連スターリングラードへの物資輸送路と西側のアメリカ・南アフリカマダガスカルスエズ運河・エジプトの東アフリカ沿岸物資輸送路であった。
 もう一つのソ連支援の物資輸送路は北太平洋航路・シベリア鉄道で、アメリカ・カナダ・アラスカ・ウラジオストック・モスクワ・レニングラードあった。
 ナチス・ドイツは幾度も北太平洋航路・シベリア鉄道物資輸送路遮断を軍国日本に申し込んだが、軍国日本・日本軍部は同盟国ナチス・ドイツより中立国ソ連との戦争を懸けるべく要請を無視した。
 ヒトラーナチス・ドイツ、ドイツ軍は、日本の非協力・裏切り行為で敗北し滅亡した。
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 1942〜44年 イギリスの植民地インドのベンガル地方で、150万人〜300万人の餓死者を出したベンガル飢饉が発生した。
 ベンガル地方は、過去にも何度も大規模な飢饉を繰り返し、夥しい餓死者を出す慢性的な食糧不足地帯であった。
 10月 大型のサイクロンがベンガル地方を襲い、僅かに生産していた農作物に大打撃を与え、飢餓が発生した。
 食糧を失った地方の貧困者は、食べ物を求めて豊かな都市部に流れ込んだ。
 その為に、都市部のスラム街が拡大して、不衛生となって疫病が蔓延し、治安が悪化した。
 日本軍は飢餓民への食糧支援を表明した。
 イギリス軍は、インド暴動で約1万人の死傷者を出して鎮圧した。
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 MAG2NEWS
 日本を分割占領から救った、スリランカ代表の「愛」の演説
 国際2016.04.27 2291 by 伊勢雅臣『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
 「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」
1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のように語っている。
 「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」
1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のように語っている。
 {1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せていました。
 1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をどんどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきました。しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス軍艦の多くは第1次世界大戦当時に造られた古いものばかりでした。
 4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。日本軍の爆撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。}
 この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落した。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓が造られている。
 日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織させた。その中にはスリランカ人の部隊もあった。
 インド国民軍シンガポールからインドやスリランカに向かって「ラジオ昭南(シンガポール)」と呼ばれるラジオ放送を行った。当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく聞いていた。「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られているインド国民軍の歌を流した。
 アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、インド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。
 「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」
 日本が敗戦した日は「Victory over Japan Day(対日勝利の日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。デヴェンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行った。
 {この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。しかし、私達は日本によって得られたものがあります。それは愛国心という心でした。それは、日本によって全てのアジアの国々にもたらされたのでした。
 戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリランカビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなければなりません。}
 「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強い気持ちが籠もっていたのだろう。
 1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。日本が設立を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」として軍事裁判にかけようとした事に対して、インド全土に暴動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤退したのである。
 昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフランシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。
 日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けてくれたのである。
 文責:伊勢雅臣
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
 著者/伊勢雅臣
 購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。<<登録はこちら>>
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敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領ー (ジュニアノンフィクション)
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 チャーチルよりルーズベルト大統領へ書簡 4月7日
一 情報によれば、十六インチ砲二隻をふくむ五隻あるいは六隻の日本戦艦が、航空母艦五隻をともなって、インド洋上に軍事行動をとっています。
 我々は、これに対抗できません。
 特に、それが集結しているとすれば、なおさらです。
 貴下は、わが艦隊の編成を知っております。
 四隻の「R」級戦艦は、他のものと編成されれば、三隻の「金剛」にたちむかうことができ、我々に強味があるとすれば、それだけです。
 この四隻は、もちろん、現代的装備の日本の戦艦には対抗できません。
 コロンボ攻撃の敵航空機に。大損害をあたえたとはいえ、わが二隻の航空母艦が、セイロンの南方に集結する日本の母艦四隻にたいして、確実に勝味があるとはおもわれません。
 ゆえに、情勢は、はなはだ不安であります。
二 敵が、ただインド洋でデモをやっているのか、あるいは、これがセイロン島への強行侵略をする前奏曲なのか、まだ、はっきりわかりません。
 現在のわが海軍力では、とても、これに対抗できません。
三 いまやアメリカは、太平洋においては、日本海軍よりもはるかに優勢であるにちがいありません。
 強大な米国太平洋艦隊の出現によって、インド洋にある日本海軍は、太平洋にもどるのではないでしょうか。
 これによって日本は、現在計画中の侵略方針をあきらめるか、あるいは、少なくともこれ以上の援軍は、おくらないのではないでしょうか。
 このようなチャンスが、すぐにおこりそうにおもわれます。これはまことに重大なことであります。
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 チャーチルよりルーズベルト大統領へ書簡 4月15日
一 私は、インド洋の重大な情勢を、再び、お知らせしなくてはなりません。
  日本が、戦闘艦隊の三分の一ちかくと、航空母艦の半数を、インド洋におくるような様子があります。
  我々は少なくとも、いまの状況では、ここ数ヵ月間は、これに対抗することはできません。
  いったん日本軍がせめてくれば、セイロン島は占領されるし、東部インドが侵略されます。
  そうなれば、インドのカルカッタビルマをつうじて、中国と連絡することができなくなるし、我々の全作戦計画に、大変なくるいがでます。
  そればかりですむものではありません。
  我々が、艦隊を出動させて戦闘を開始するまえに、日本は、西インド洋の海を征服してしまいます。
  そうなれば、中東にある我々の陣地が、全部くずれます。
  ただ単に中東とインドへの護送船団が防害されるばかりでなく、インド洋一帯の海上でも陸上でも、我々の陣地をまもるために必要な、アバダンからの油の供給がとめられます。
  ペルシア湾をとおして、ソ連にむける補給線も切断されます。
  このような日本軍の圧力には、我々はとても耐えられません。
二 四月末までには、なんとかして、アメリカ太平洋艦隊が、再び真珠湾に集結することを希望します。
  そうなれば、日本も、それを警戒しないわけにいかなくなります。そうしなければ、日本は、だんだん西へ西へと侵略の手をのばすことになるかもしれません。
  アメリカの艦隊が、真珠湾に再び集結しても、日本の海軍最高指揮者たちが、どのように考えるか、はっきりはわかりませんが、とにかくこれは、重大な問題です。
三 日本の艦隊を、急速に太平洋に集中させることができないとすれば、それにかわって、現在我々が直面している大きな危険をふせぐただ一つの方法は、インド洋にできるだけはやく、最新式の有力な主力艦と航空母艦を、できるだけ多く集めることです。
四 また、インドにアメリカの重爆機をおくことが、ぜひとも必要です。
  現在、十四機があり、ほかに、五十機がくることになっていますが、しかし、先週は、そのうちのどの一機も、日本の海軍を攻撃することができませんでした。
  我々は、できるだけの数を、アフリカのリビヤからおくらせましたが、これ以上は、アメリカのご援助がなければ、充分ではありません。
  どうぞ、我々のむりな願いをきいてくださるよう、お願いします。
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 ルーズベルト大統領からチャーチル首相へ書簡 4月17日
 我々は、いま、さかんに研究をつづけています。
 我々は、航空機をおくることにします。
 イギリス艦隊は、当分の間はこの援護をうけることになるでしょう。
 また空軍を増すことは、日本のセイロンやマドラス、あるいはカルカッタ上陸を食い止める役目をはたすことになるでしょう。
 つまり我々から送る航空機は、インド方面での戦況を、だんぜん有利にするでしょう。
 航空機をはこぶためには、航空母艦「レインジャー」をつかいます。
 しかし、「レインジャー」は、あまり自慢するほど強い母艦ではありません。
 いま、太平洋繿隊がとりつつある行動は、軍の機密ですので、くわしくお知らせできませんが、いまにわかるでしょう。
 セイロン地域の主要艦隊集中を、混合軍にすべきかどうかは、重大な問題です。
 私は、ここ二、三週間は、イントまたはセイロンの日本軍上陸を食い止めるほうが、大切だと考えます。
 このためには、インド洋で部隊を組みあわせるよりも、むしろ一時、イギリス艦隊の配置をかえたほうがよいと、考えています。
 私個人の考えですか、インド洋のイギリス艦隊は、ここ数週間はまず、大戦闘もないとおもいます。
 その間に大急ぎで陸上を基地とする航空部隊を編成すれば、日本の輸送船を食い止めることができるとおもいます。
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 チャーチルよりウェーペル将軍へ書簡 4月18日
 我々は、インド洋に艦隊を集結する努力をしている。
 このわがほうの艦隊の威力にたいして、日本は相当の艦隊を、インド洋に回さなければならなくなるくらいにしたい。
 私は、ルーズベルト大統領に、スカパ・フロー(イギリスの港)で「ワシントン」と合流するために、「ノース・カロライナ」をさしむけることをたのんだ。
 この二隻は、アメリカの最新の戦艦である。
 すると、「デューク・オブ・ヨーク」は、任地を離れてインド洋にむかい、「リナウン」をともなっていく。
 五月には、「イラストリアス」がソマビル提督の指揮下にはいり、六月には、「ベイリアント」の準備も完了するから、我々はもうすこしで、インド洋で高速主力艦三隻とイギリス最大の装甲航空母艦のうちの三隻をもつことになる。
 我々は航空母艦の航空機をつむ能力を、できるだけ大きくする手段をこうじている。
 こうして、八週間か十週間以内に、しだいに強化されていくソマビルの艦隊は、やがては、強力なものになる。
 またアメリカの主力艦隊の行動が、いまよりもはるかに活発になり、日本はいよいよ、これに心をむけなければならなくなるであろう。
 しかし一方で、もしセイロン、特にコロンボが陥落すれば、この海軍力の集結はむだになる。
 このためには、高射砲と航空機によるコロンボ防衛は、カルカッタ防衛よりも急を要するし、これを第一の目的にしなければならない。
 ちかい将来に、セイロンとカルカッタの間の長いインドの海岸線に、敵の上陸を撃退し、あるいは、海軍の行動を空中から援護するために、それだけの空軍力を用意することは不可能である。
 だが貴官は、本当に日本がマドラス州を侵略するために、四個師団、五個師団をおくる価値があると考えると思うか。
 セイロンを占領し、あるいは北方の中国に進入して、蒋介石をやっつけるほうが、はるかに大きな収獲である。
 ことに、日本がいちばん解決をつけなければならないのは、中国だけである。
 貴官は、問題を解決するためには、よくよく考えなければならないとおもう。
 コロンボの海軍基地と、カルカッタをつうじて、中国と連絡をつけておくことは、なによりも大切である。
 もし中国がやぶれるならば、日本はそれによって十五個か二十個の日本師団が、自由に他にむけられるということを考えなければならない。
 日本はもしこのとおりになるなら、やがてつぎはインドへの侵入を考えるだろう。
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 インド洋作戦は、太平洋戦争における日本軍の作戦である。
 計画内容
 インド洋作戦は、水上艦艇、潜水艦、航空部隊の三兵力をもって、連合軍がインド防衛のため、コロンボに集結していた有力な航空勢力を捕捉撃滅しようとするものであった。 当時、南方の陸上作戦は順調で、ビルマ攻略を目指す陸軍第十五軍は首都ラグーンを占領しており、今後、全ビルマ制圧作戦を進めるには海路からの軍需品輸送が不可欠であった。しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがあり、日本の海路からの輸送をイギリス艦隊が阻止してくることが予想できた。そこでこの二大拠点に打撃を与えておく必要があった。
 日本では、インド洋に展開するイギリス海軍は、空母2隻、戦艦2隻、重巡洋艦3隻をはじめ、軽巡駆逐艦も行動しており、沿岸の基地には約300機の航空機が配備されていると考えていた。
 経過
 1942年2月14日、セイロン島奇襲作戦の研究をしていた軍令部および連合艦隊は、アンダマン諸島攻略作戦およびビルマ攻略作戦の実施に伴い、イギリス艦隊が同方面に策動することが予期されるとして、南方部隊に編入されていた機動部隊をもってセイロン島以東のインド洋に作戦させ、機を見てセイロン島を奇襲するという作戦の実施を決定した。3月5日、連合艦隊参謀長は第一段第四期作戦の作戦要領を明らかにし、その中でセイロン島方面機動作戦の実施を示した。3月9日、蘭印の無条件降伏に伴い、連合艦隊長官山本五十六大将は南方部隊指揮官・近藤信竹中将に対し、機密連合艦隊電令作第八六号で「錫蘭(セイロン)島方面機動作戦ヲ実施スベシ」と命じた。これを知った馬来部隊指揮官・小沢治三郎中将はかねてから研究中のベンガル湾北部機動作戦を、情勢の許す限り南方部隊機動部隊の作戦に策応させるべきであると近藤中将に上申し、近藤は山本の了解を得た。
 1942年3月14日、南方部隊指揮官・近藤中将は電令第一三九号をもって第三次機動戦実施要領を発令した。
 詳細は「セイロン沖海戦」を参照
 1942年3月26日、コロンボとトリンコマリーの二大拠点に打撃を与えるため、南雲忠一中将率いる第一航空艦隊がセイロン島に向けて出発。4月5日にコロンボ空襲、4月9日にトリンコマリー空襲を行い、イギリス軍との間でセイロン沖海戦が発生した。
 小沢治三郎中将が率いる第一南遣艦隊(馬来部隊)も呼応してベンガル湾北部の敵艦隊を撃滅して、カルカッタ方面に向かう連合国側交通路を遮断すべく、インド東海岸に向かい出発した。第一航空艦隊の助けもあり、ベンガル沖で多数の船舶を撃沈撃破することに成功する。
 潜水艦部隊も通商路への攻撃でイギリスの貨物船などを撃沈した。
 4月13日、海軍大臣および軍令部総長連合艦隊司令官および第二艦隊司令長官(南方部隊指揮官・近藤中将)あてに、官房機密一八三番電「今次印度洋作戦ニ於テ「ベンガル」湾「セイロン」島方面所在敵艦艇、航空兵力及商船ヲ殆ド掃滅シ軍事施設ヲ爆摧スルノ大戦果ヲ収メタルヲ慶祝ス」と慶祝電を発した。
 インド洋作戦は第一段作戦の最後に実施され、以降は第二段作戦が始まった。 第二段作戦には「すみやかにインド洋にある英艦隊を索めてこれを撃滅する」と記載されている。連合艦隊参謀だった渡辺安次は、東で主力の機動部隊がアメリカと対峙するため、西に回るのは無理があると指摘している。これに関して軍令部作戦参謀佐薙毅は、3月には第二段作戦は概定しており、決定直前にミッドウェー作戦、アリューシャン作戦が加えられたためと語っている。
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 西亜作戦(せいあさくせん)は、イギリスを屈服させ、アメリカの継戦意思を挫く目的で、大東亜戦争(太平洋戦争)緒戦における日本軍のインド洋及び中近東各地への攻略作戦である。
 概要
 マレー沖海戦後、インド洋の北西部の要衝を占領し、ペルシャ湾、紅海を制圧して、日独伊の連携を図る作戦。イギリスへの物資輸送を遮断し、イギリスを降伏させるのが目的とされたが、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦ガダルカナルの戦いなど、日本海軍の暴走により破綻した。
 昭和16年(1941年)11月15日、第69回大本営政府連絡会議において、大日本帝国の戦争戦略、国家戦略として、対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案が決定された。その方針は以下であった。
 ・アメリカ、イギリス、オランダの極東の拠点を叩いて南方資源地帯を獲得し、自存自衛の体制の確立
 ・蔣介石政権の屈服
 ・ドイツ、イタリアと提携してイギリスの封鎖、屈服
 ・イギリスの屈服によるアメリカの戦争継続の意思の喪失
 アメリカ海軍主力については、あらゆる手段を尽くしてこちらに誘い込んで撃破するという守勢作戦であった。イギリスの屈服を図るための方策は以下であった。
 インドやオーストラリアに対して攻略および通商破壊等の手段により、イギリス本国と遮断して離反を図る。
 ビルマの独立を促進し、インドの独立を刺激する
 ドイツ、イタリアは近東、北アフリカスエズに侵攻し、対英封鎖を強化する
 日独伊三国はインド洋での海上作戦を強化し、イギリスへの物資輸送を遮断する
 南方資源地帯の獲得を目指した第一段作戦は、昭和16年12月25日の香港占領、翌昭和17年1月3日シンガポール占領、同年2月15日のラングーン占領、3月9日のジャワ占領と成功を収めた。
 昭和17年(1942年)3月7日、大本営政府連絡会議で、第二段作戦の詳細検討の前提としての今後採るべき戦争指導の大綱が決定されたが、陸軍と海軍の戦略は対立した。陸軍の主張は開戦直前の対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案の通り、長期戦争の見地に立ち、長期不敗の防戦態勢を整えることにあった。そのため、太平洋正面において大規模な進攻作戦は抑制し、西太平洋の海上交通の保護を完璧にし、大東亜共栄圏における長期戦的建設の促進を優先すべきであるというにあった。また、インド洋地域を重視し、独伊の作戦と呼応し、機を見てインド・西亜打通作戦を完遂し、戦争終末促進に努めようとした。一方、海軍は大東亜戦争の主作戦は太平洋正面にあるとの立場に立ち、早期決戦の構想を堅持し、太平洋正面における守勢的戦略を攻勢的戦略に転換して、ハワイ攻略やアメリカの対日反攻の最大拠点である豪州攻略を強調した。海軍はマリアナ諸島カロリン諸島ニューギニア西部以西の絶対国防圏から遠いラバウルに基地航空部隊を集中し、5月上旬にポートモレスビーを攻略するMO作戦を実施した。
 4月上旬、日本海軍はイギリス海軍とセイロン島沖で対峙し、空母1隻、重巡2隻を撃沈したが、イギリス東洋艦隊の多くを取り逃がした(セイロン沖海戦)。チャーチル英首相は4月7日および4月15日付けのルーズベルト米大統領宛の書簡で、「今、日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば対抗できない。蔣介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油輸送ルートやソ連支援ルートが遮断される」とし、4月末までにアメリカ太平洋艦隊が日本の西進を止め、東へ転じさせるべく牽制行動をとるよう切望した。
 4月18日の日本の西進を止めることを狙ったアメリカの陽動作戦・ドゥーリトル空襲に、山本五十六連合艦隊司令長官は誘い出され、昭和17年6月上旬にミッドウェー海戦で大敗北を喫した。しかも海軍はこの敗北と損害を陸軍側に長く知らせなかった。
 昭和17年6月21日、ドイツ軍がリビアのトブルクにあるイギリス要塞を陥落し、エジプトへ侵攻した。これを受けて、6月26日、日本海軍は再編した連合艦隊でセイロン島からココス島マダガスカル島に至るインド洋域を制圧する大規模なインド洋作戦を決定し、7月上旬には、永野修身軍令部総長はフィジーサモア作戦の中止とインド洋作戦を上奏した。しかし、海軍はラバウルからさらに1000キロも離れたガダルカナルに進出して、アメリカ軍と激しい消耗戦を展開し、インド洋作戦は中止された。
 日本がインド洋を遮断しなかったために、アメリカは大量の戦車と兵員を喜望峰回りのアフリカ東岸航路にてエジプトに送ることができ、7月21日のエル・アラメインの戦いで、ドイツ軍は敗北した。
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 セイロン沖海戦は、1942年4月5~9日にインド洋セイロン島沖で日本海軍とイギリス海軍の間で行われた戦闘。インド洋作戦の過程で発生した。本記事では、セイロン沖海戦前後に日本海軍が実施および計画した通商破壊作戦(ベンガル湾機動作戦、B作戦)についても述べる。
 概要
 セイロン沖海戦は、太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)4月上旬に、インド洋のセイロン島海域で行われた日本海軍とイギリス軍の戦闘。南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)が発令したセイロン島方面機動作戦(3月9日)とベンガル湾機動作戦(3月14日)により、南方部隊指揮下の南雲機動部隊(指揮官南雲忠一第一航空艦隊司令長官、正規空母5隻基幹)と馬来部隊(指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官、巡洋艦6、軽空母1、駆逐艦4)は、4月初旬よりインド洋で機動作戦を実施した。南雲機動部隊は4月5日にセイロン島のコロンボを、9日にトリンコマリーを空襲し、大きな戦果をあげた。また馬来部隊は4月6日にベンガル湾で商船20隻以上を撃沈する戦果をあげた。
 イギリス海軍は暗号解読により東洋艦隊(司令長官ジェームズ・サマヴィル中将)をもって邀撃したが、艦隊主力同士が交戦する機会はなかった。東洋艦隊本隊とわかれて行動していた重巡洋艦2隻(5日)、空母ハーミーズ駆逐艦1隻ほか(9日)が、南雲機動部隊の攻撃により撃沈された。イギリス東洋艦隊はセイロン島とモルディブ諸島の拠点から、アフリカ東岸のキリンディニ港とマダガスカルまで後退した(インド洋の戦い)。
 背景
 連合国
 イギリスは、1941年12月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦プリンス・オブ・ウェールズが沈み、極東の最重要拠点シンガポールも失陥した。大損害をうけたイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。しかし、本国艦隊からの増援を受け、戦艦5隻と空母3隻を基幹とする大艦隊となっていた。日本軍最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インドの安全を脅かす存在であった。対してイギリス、オランダにとっては、仮にセイロン島が日本軍の手に落ちた場合、インド洋の交通網が遮断され、中東の連合国軍補給ルートの遮断、スエズ運河の陥落、ひいてはアフリカにおける枢軸国軍の勝利を招く可能性が高いという危機感を招かずにはいられないものであった。
 連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点とした現存艦隊主義をとって、ビルマ方面に進攻してくる日本軍ににらみを効かせていた。だがシンガポール陥落は不可避となっており、イギリス軍は新たな拠点の整備にせまられていた。セイロン島西岸のコロンボは施設は充実するが商業港のため混雑する、よって東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地としていた。
 連合軍にとって、広い行動選択の自由を持っている日本軍が次の侵攻をどこにするか、それを特定するのは重要なことであった。イギリス首相ウィンストン・チャーチル首相はダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威にさらされているという情報を受けとっていた。この問題に対処するためイギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する空母インドミタブル、戦艦リヴェンジ・ロイヤル・サブリンに対し、空母フォーミダブル、戦艦ラミリーズ、レゾリューション、ウォースパイト等の増派をはじめた。サマヴィル中将は3月24日(26日)にコロンボに到着し、3月26日(27日)に「ウォースパイト」に将旗を掲げた。サマヴィル中将の考えは、日本軍がセイロン島へ侵攻しようとした場合は対策不可能である、というものであった。
 経過
 海戦後
 潜水艦作戦にも変化があった。4月10日の第二段作戦第一期兵力部署が発動され、丙潜水部隊は先遣部隊(第六艦隊)に戻されて本土に向かった。以後、新設の第八潜水戦隊などがインド洋に展開することとなる。潜水艦のほかにも、特設巡洋艦(報国丸、愛国丸)による通商破壊作戦がおこなわた。 その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、少数の潜水艦がマダガスカルの戦いに投入された。これは仏領マダガスカル島におけるヴィシー・フランス軍とイギリス軍の間で行われた戦闘であった。5月末、甲先遣隊の潜水艦と特殊潜航艇甲標的によるディエゴ・スアレス奇襲作戦が実施され、英戦艦ラミリーズが大破・タンカー1隻が沈没している。このようにイギリス連邦の通商遮断作戦を行った。
 一方、ドイツとイタリアでは、このセイロン沖作戦以降、有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に対し不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えた。野村は「北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む」と報告した。イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も、「更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス」として、日本海軍がイギリス東洋艦隊を撃滅することを希望した。
 大本営(軍令部)は6月22日の大海指第107号により「作戦に支障のない限りあらゆる使用可能兵力および機会を利用して、極力敵の海上交通を破壊擾乱し、敵の屈服を促進する」旨を連合艦隊に指示した。連合艦隊は電令作第174号により「インド洋方面海上交通破壊戦(B・作戦)」の実施を南西方面艦隊(司令長官高橋伊望中将/第二南遣艦隊長官兼務、旗艦「足柄」)に下令する。 当時の日本海軍は母艦航空隊の再建に尽力しており(珊瑚海海戦で第五航空戦隊の消耗大、ミッドウェー海戦では赤城・加賀・蒼龍・飛龍喪失)、とりあえず空母を使用しない本作戦が実施されることになった。作戦目的は、インド洋方面通商破壊作戦、敵兵力の減殺、敵艦艇の拿捕回航であった。 また連合艦隊はB作戦と並行して、ココス諸島やセイロン島の攻略の検討をはじめた。一連の日本海軍のインド洋方面作戦重視には、同盟国(ドイツ、イタリア)との連携という意味合いもあった。作戦前の7月14日、第一南遣艦隊司令長官は小沢治三郎中将から大川内傳七中将に交代する。7月16日、南方部隊指揮官(南西方面艦隊長官)は南方部隊電令作第6号によりB作戦の実施を第一南遣艦隊司令長官に命じた。
 
 以降、ソロモン・ニューギニア方面が不安定となると、インド洋方面に投入される戦力は激減した。日本海軍の潜水艦が「交通破壊活動を細々と実施する」状態になった。ドイツとイタリアは日本が作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃アメリカを戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難した。このため、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている。
 評価
 本作戦において南雲機動部隊と馬来部隊は、大きな戦果をあげた。南雲機動部隊は英軍の二大拠点であるコロンボ、トリンコマリーに大打撃を与え、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャー、空母のハーミーズ、その他多数の艦船を撃沈・撃破した。他の作戦と合わせ、ビルマ方面における日本の進攻作戦を容易にした。 大本営は作戦全体として空母1隻、甲巡2隻、乙巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶27隻撃沈、乙巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機と大本営発表を行った。当時、沈みゆくハーミーズの写真は写真週報第219号に掲載された。「週報第288号」では「わが方の電撃戦の前にイギリスインド洋方面の主力艦隊は杳として姿を現はさず」「イギリスが宣伝していた戦艦、航空母艦数隻を主力とする、いはゆる「大英インド艦隊」は、果たして今いづこに健在するのであろうか」と報じている。

 セイロン沖海戦で暗号が解読されイギリス東洋艦隊がセイロン島海域で待ち伏せていた事、付近に敵空母の存在の疑いがあると判断した後も偵察が不徹底で南雲機動部隊の近距離で行動していたイギリス東洋艦隊を発見できなかった事、コロンボ攻撃の際に英巡洋艦が発見し、兵装転換を行った事、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず空母赤城が攻撃換装中にイギリス空軍爆撃機9機に奇襲された事は、直後の6月に発生したミッドウェー海戦と類似しており、戦訓を活かせなかったという意見もある。また、日本の損害がきわめて少ないのに比べ、戦果は大きく、これが反面作戦を安易に考える気分も生じさせ、ミッドウェー海戦に悪影響を及ぼした可能性も指摘される。
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 アメリカとイギリスは、1940年頃から日本の外務省と海軍の暗号電報を解読して、日本軍が宣戦布告と同時に騙し討ち=奇襲(攻撃場所は特定できず)してくる事も、東條英機と軍国日本が戦争回避の為に和平交渉成立を望んでいる事も、昭和天皇と軍国日本がソ連参戦と原爆投下実験前に早期降伏を希望している事も、その他多くの日本情報を暗号電報解読で知っていた。
 軍国日本、日本軍は、実戦以前の情報戦で完敗していた。
 日本軍の攻撃を知っていたからこそ、アメリカ軍とイギリス軍はアジア・太平洋の軍事基地に対して軍隊の増派と基地の防衛を強化して日本軍撃退態勢を完了させていた。
 つまり、日本はアメリカ・イギリスの掌の上で踊らされ、軍国日本が夥しい犠牲者を出し敗北する事は開戦前から分かっていた事である。
 軍国日本は、暗号電報解読と国内外の連合国への情報提供者によつて多くの情報が知られているのも知らずに、勝てないと分かっている戦争を続けた。
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 エジプトのイギリス軍は、インド洋とアフリカ東海岸沖の海上輸送路で大量の軍事物資を集積し、ロンメル軍団の猛攻からエジプトを守り、モントゴメリー将軍は反撃に転じてロンメル軍団を撃破した。
 最強戦車部隊と恐れられたロンメル軍団は、エジプト後方のインド洋とアフリカ東海岸沖の海上輸送路に敗れた。
 同じ事は、スターリングラード攻防戦でのドイツ軍敗走でも起きていた。
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ウィキペディア
 東洋艦隊(英語: Eastern Fleet)、後に東インド艦隊 (ひがしインドかんたい、英語: East Indies Fleet)、次いで極東艦隊(きょくとうかんたい、英語: Far East Fleet)は、1941年から1971年まで存在した、イギリス海軍の艦隊である。
 1904年、第一海軍卿サー・ジョン・フィッシャーは、戦時には極東に3つの主力部隊(東インド戦隊(East Indies Squadron)、中国戦隊(China Squadron)、オーストラリア戦隊(Australian Squadron))を置き、シンガポールに拠点を置く東洋艦隊がそれを統括すべきであるとした。指揮は中国戦域の司令長官が行うことになっていた。しかし第一次世界大戦の間は各戦隊は別個に命令を受けて行動しており、「東洋艦隊」はその総称として存在しただけだった。この3戦隊による構成は、第二次世界大戦日本海軍との戦いが始まるまで継続した。東洋艦隊は1941年12月8日、東インド戦隊と中国戦隊を合体させる形で正式に発足した。
 戦争中、東洋艦隊はオランダ海軍、オーストラリア海軍、ニュージーランド海軍やアメリカ海軍などの他の海軍からも、多くの船と人員を編入した。1944年から1945年にかけてイギリス太平洋艦隊が編成されたために、東洋艦隊は戦争の終結まで東インド艦隊と称した。戦後は極東艦隊と改称し、太平洋海域を含む極東全域にわたって行動した。

 1942年5月、東洋艦隊はマダガスカル侵攻作戦(「アイアンクラッド作戦」)の支援を行った。これは、日本の船がヴィシー・フランス支配下地域の海軍基地を使う如何なる試みをも妨害することを目的とする作戦だった。作戦の間、東洋艦隊は、フランス海軍の艦船(2隻の特設巡洋艦、2隻のスループ、5隻の潜水艦)および日本帝国海軍の潜水艦群(「伊10」、「伊16」、「伊18」、「伊20」および「伊16」・「伊20」搭載の特殊潜航艇)と戦った。

 通商保護
 インド洋の通商保護は東洋艦隊の主たる任務とみなされていた。脅威の対象はドイツ・イタリア・日本の潜水艦、ドイツの軍艦、そしてイタリア・ドイツの仮装巡洋艦だった。艦隊の相当部分が輸送船団の護衛と、敵の潜水艦と水上艦、およびその補給船の捜索に動員された。しかし海軍戦力は大戦期間のほとんどを通じて他の場所で必要とされており、これらの任務には必要最小限の艦しか割り当てられず、また戦艦や航空母艦護衛艦艇の不足により安全な状態で使うことができなかった。
 海軍のものではないが注目すべき活動が1つある。1943年3月、予備連隊のひとつであるカルカッタ軽騎兵連隊のメンバーがゴア港を急襲し、Uボートに情報を運ぶ役割を持ったドイツ船を沈めるという大きな戦果を上げた。
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