🎹34:─3─殺し合いのノモンハン事件と人助けのインディギルカ号遭難事故。1939年12月~No.221 ㉛ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族・日本軍は、日本の心と武士の情けとして戦争と自然災害をハッキリと区別し、戦場では敵兵を容赦なく殺すが、被災地では敵兵でも無条件で助けた。
 日本軍は、自然災害が終われば、助けた敵兵と戦争をして殺し合った。
 昨日の敵は、今日の友。
 今日の友は、明日の敵。
 真面な日本民族には、災害地で被害者を助ける事によって、相手から感謝されたいという「優越感」や他人から褒められたいとい「認証願望」はなかった。
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 日本人の儒教は、「宋襄の仁」であった。
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 軍国日本と日本人軍国主義者は、敵国のロシア人遭難者を二次被害を承知で助けた。
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 ロシア人共産主義者は、日本人に助けられても恩義を感じず、恩を仇で返すように逃げ回る日本人難者を虐殺し、日本領北方領土4島を暴力で強奪し武力占領した。
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 昭和14(1939)年 
 5月12日  満蒙国境で日本・ソビエト連邦両軍が衝突(ノモンハン事件)。
 6月10日  南京総領事館毒酒事件。
 7月1日   日本軍がノモンハン攻撃開始。
 7月26日  アメリカ合衆国は日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告した。
 8月2日   アインシュタインルーズベルト米大統領宛に原子爆弾開発を促す書簡を送付、マンハッタン計画の契機となる。(アインシュタイン=シラードの手紙)。
 9月1日   第二次世界大戦勃発。ナチス・ドイツスロバキアポーランド侵攻アドルフ・ヒトラーがT4作戦を発令。
 9月3日   大本営関東軍ノモンハン事件の作戦中止を指令。
 9月15日  モスクワで東郷茂徳大使とモロトフ外相間にノモンハン事件停戦協定成立。
 9月17日  ソ連赤軍ポーランド東部に侵攻。
 12月12日 北海道猿払村沖のオホーツク海にてソ連貨客船「インディギルカ号」が座礁沈没700人以上が死亡。ソ連崩壊後に「『インディギルカ』は政治犯および家族の護送船であった」との説が発表された。
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インディギルカ号遭難
 猿払(さるふつ)村の漁民や村人と稚内の警察や漁業協同組合の救助隊は、乗客1,500人の内400人程を救出したが残りは死亡した。
 乗客は、700人の漁業労働者とその家族、約800人の囚人であった。
 皇国史観の「天皇の御稜威」「天皇の大御心」を信奉する日本人は、敵味方に関係なく、戦闘以外の災害で困っていれば見るに忍びないとして、「やむにやまれず」に差別無く助けた。
 皇国教育、教育勅語、修身教育を受けた戦前の日本人は、「人は人、罪は罪」「罪を憎んで、人は憎まず」という「やむにやまれぬ大和心」で良心の赴くままに、助け合った。後に、敵味方に分かれて戦争しようと、運悪く殺されかもしれないとわかっていても、相手に手を差し伸べた。
 当時の日本人には、現代風のキリスト教ヒューマニズムはない。キリスト教的博愛精神は、田舎の日本人にとって無縁であった。
 ラプシン船長は、船内に多数の囚人がまだ生存していると日本側が生存を指摘したが、生存者はいないと主張して見殺しにした。共産主義体制には、宗教にもとずいた人道や道徳や良心が無いだけに、囚人の人権は認めずけっして人として扱わなかった。
 憲兵隊や警察当局は、救助した全員を小樽に移送し、暖房のある施設に収容して治療を行った。
 函館駐在のソ連領事が、生存者を引き取ったが、漂着した遺留品の引き取りを拒否し全ての焼却処分を依頼した。
 神道的信仰心の厚い日本人は、死者への尊厳を持って流れ着いた遺体を丁重に扱い、懇ろに弔って荼毘にふして遺骨をソ連側に渡した。
 共産主義国ソ連は、無神論から宗教を完全否定し、命はもちろん死者への尊厳を持たず、全ての遺骨を遺族に届けることなくゴミとして海に極秘投棄した。
 日本では死者一人一人に名前があり親兄弟や故郷があるが、ソ連の死者は無名で親兄弟も故郷もわからなかった。
 無名兵士の墓とは、敬意の対象ではなく単なる石の碑にすぎなかった。
 ソ連は、中国同様に、自分が不利になる事には、けっして感謝しない。
 それどころか、降伏しているにも家買わず二国間条約を破って日本を攻撃して、武力を用いて日本領北方領土を不法占拠して自国領と宣言し、日本に返還しようとはしない。
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 ロシア人とは、使用できない性格を持っている。
 日本の配慮や思いやりは、中国人や朝鮮人同様に、ロシア人にも通用しない。
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 猿払村役場〒 098-6232 北海道宗谷郡猿払村鬼志別西町172番地1 電話 01635-2-3131 FAX 01635-2-3812
 現在位置 トップページ > 観光情報 > 観光スポット > さるふつ公園周辺 > インディギルカ号遭難者慰霊碑
 この慰霊碑は、昭和14年12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた700名以上の貴い命を悼み、昭和46年に建立されました。
 世界の海難史上に残る大惨事の発生を知り、村民総出で約400人を救出した行為と犠牲になった人々の魂よ安かれと祈る心を顕した慰霊碑は、国境を越えた人間愛の証として、訪れる人々の心に今日も大切なものは何かを語りかけています。
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 謎が多かったインディギルカ号の悲劇とは?
 2010/04/26 2020/11/22 北海道を学ぶ 宗谷管内, 歴史, 猿払村, 道北圏210view
 道内で起きた海難事故の一つに「インディギルカ号」が挙げられます。死者数からして、道内で起きた外国船による事故では最大の大惨事だったといえます。
 インディギルカ号は、旧ソ連の貨客船でした。全長80m程度、4500トン。この船は、12月1日マガダン発ウラジオストク行でしたが、1939年12月12日未明に20mの暴風雪に見舞われ漂流、猿払村浜鬼志別沖1500mのトド岩に座礁し、沈没しました。
 この事故を知った猿払村民、および稚内から駆け付けた樺太丸等3隻が救出活動を行った結果、429人が救出されました。その中には船長、乗客と子供たちも含まれていました。しかし、それ以外の700人以上(702人とされる)は死亡したといわれています。
 2日後までに浜には400人の遺体が打ち上げられました。そのほか、船長が船内にはもういないと虚偽の報告をしたことから救助が遅れ、船内で凍死した人たちも収容されました。救出された人たちは12月23日に小樽からイリッチ号でソ連に帰国。座礁船は2年後の6月1日に爆破処理されました。
 インディギルカ号の謎の解明
 救助された人たちの証言では、漁業関係者が秋の漁業を終えてカムチャツカ半島から引き揚げてくる途中だった人合計1064人が乗船していたとされました。しかし、正確な乗船人数は不明でした。
 ほかにも謎が多くありました。旧ソ連側が沈没船は要らぬ、遺体も収容しなくてよい、遺品も焼却するように日本側に伝えています。乗客には出稼ぎのはずなのに家族子供も帯同。乗客についても明らかにされず、旧ソ連政府が冷たい反応だったこと。
 こうした謎があることから、ソ連崩壊後、歴史学者旧ソ連公文書を調べ、護送船だったのではないかとの説を打ち出しています。極東開発のため政治犯とその家族が船で送り込まれた囚人船であったとすれば、つじつまがあう、というわけです。
 旧ソ連はこのことを公式には認めていませんので、今も猿払村にある慰霊碑や資料では、漁業関係者が乗船していたということで紹介されていますが、当時は謎が多い不気味な海難事故として、新聞などで取り上げられました。
 北海道関係の主な海難事故史
 1878年 4月20日 瀬棚海岸沖で1877年11月19日に暴風で座礁・救助されたロシア軍艦アレウト号乗組員が、同軍艦エルマック号にボートで向かう途中転覆し12人死亡
 1939年12月12日 猿払村で旧ソ連貨客船インディギルカ号座礁沈没し700人以上死亡
 1945年 8月22日 三船殉難事件。第二次世界大戦末期に樺太引揚船が旧ソ連船によって攻撃され沈没した。小笠原丸は大泊から小樽に向かう途中留萌沖で潜水艦により撃沈され638人が死亡。第二新興丸も大泊から小樽に向かっていたが留萌沖で潜水艦により攻撃され229人死亡、200人近く行方不明。泰東丸は大泊から小樽に向かう途中小平町沖で潜水艦が攻撃し667人が死亡。公式記録では合計1708人死亡
 1950年 9月19日 浜中町霧多布沖で捕鯨船が行方不明、21人も行方不明
 1954年 1月28日 道内荒天で30日までに小型漁船が被害にあい、37人が死亡または行方不明
 1954年 9月26日 洞爺丸台風青函連絡船洞爺丸などが沈没、合計1430人が死亡世界有数規模の海難事故となった
 1965年 5月23日 室蘭港でノルウェー船籍ヘイムバード号が桟橋に激突し原油に引火して爆発炎上、10人死亡、27日間燃え続けた
 1985年 4月23日 漁船第七十一日東丸が樺太南部で沈没、8人死亡
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 猿払村 人口:約3千人 面積:面積:590k㎡
大海難の悲劇が灯した
 猿払村 友好の絆
“政治”を超えた救助活動。
 が、720人の犠牲者…
 『漆黒に閉ざされる吹雪の午前2時30分ころ、浜鬼志別の浜辺に建っている漁業神源一郎宅の雨戸をけたたましく叩く者がいた。しかも妙な叫び声も聞こえる。荒れ狂う潮鳴りの中で源一郎はそれを聞き、急いで雨戸を開けた。/戸を開けて彼は、さらに仰天した。/激しく雪の舞う戸外に、見上げるような大男、ずぶ濡れになって寒さにガタガタ震えている異国人5人が立っているではないか。そして、彼らは泣くような哀願するような声で何か喚きながら、手真似で沖を指さし示した。/海の男の源一郎は、すぐ船が難破したことを知った。』
 戦前の1939年(昭和14年)12月12日、カムチャツカ近海で、約1千100人の漁夫と家族を乗せたソ連の貨客船インディギルカ号が、ウラジオストクへの帰路、暴風雨に遭遇し、猿払村浜鬼志別の沖合約800メートルのトド岩付近の浅瀬に乗り
上げて転覆、720人が死亡する歴史的な大惨事となった。
 冒頭の一文はその海難を伝える猿払村史の臨場感溢れる記述だが、作家の司馬遼太郎氏も「街道をゆく38-オホーツク街道」であえて「大海難」の項を立て、村史同様インディギルカ号の惨事に触れている。
 約400人の生存者を救出し、700人を超える遺体を収容した地元の人々の奮闘は大変なものだったらしい。が、この海難事故がその後の歴史に残るのは惨事の大きさの故だけではない。
 日ソが激しく戦ったノモハン事件の停戦協定発効後3カ月も経たない時期で、日ソ関係が最悪の状態だったにもかかわらず、人々が人間としての無私の救助活動に当たったというヒューマニズムの発露があったためでもある。
 2年後には第2次世界大戦が始まり、この事故はやがて忘れられた。が、猿払村の人々だけはこの悲劇を心に留め続け、事故の翌年から戦中、戦後を通して毎年、犠牲者の霊を弔う法要を営んできた。
 同村の浜猿払地区に「電話通信ゆかりの碑」がある。34年(同9年)、同地区と樺太女麗(サハリン・プリゴロドノエ)間約163キロに海底ケーブルが敷設された。
 終戦直後の45年(同20年)8月22日、ソ連軍の侵攻によって、真岡(ホルムスク)郵便局の9人の女性電話交換手が「さようなら、さようなら、これが最後です」の声と共に集団自決した悲劇は、あまりにも有名だが、この最後の交信を海底ケーブル経由で直接聞いたのが猿払電話中継所。戦争の悲劇を後世に伝えるため、記念碑を建て、実物のケーブルを保存している。
 「日本最北端の村・猿払」はその苦渋の歴史を秘めながら、海を隔てて向かい合うロシア(旧ソ連)と良くも悪しくも“共存”せざるを得ない運命にあったといえる。
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 ウィキペディア
 インディギルカ号の遭難地に建てられていた日ロ友好記念館。遭難時の資料が展示されていた(2011年閉館)。
 インディギルカ号(ロシア語:Индигиркаインヂギールカ)は、旧ソビエト連邦の貨客船。1939年12月12日の未明、北海道猿払村浜鬼志別沖合で座礁、沈没。全長80m内外。船名は、シベリア地方のインディギルカ川に由来。

 概要
 遭難
 シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中に暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流。猿払村の浅瀬に座礁した。猿払村の住民が総出で救出活動にあたり、子供も含め429名の生存者を救出するものの700名以上が死亡したと思われる。なぜか正確な乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

 救出後
 当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、事件を知ったソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄したばかりか遺体の収容は不要、遺品の返還も無用、という異例の連絡を行っている。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。
 猿払村は、1971年(昭和46年)にオホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は、慰霊碑の建立には協力したものの、冷戦時代に付きものであった派手なプロパガンダはなく、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

 謎の解明
 ソ連崩壊後の1991年、歴史学者の原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所(グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している。

 記念碑
 前記の通り、1971年に道の駅さるふつ公園近くの海岸に記念碑が建立された。費用は寄付によって賄われ、土台は当時のソ連政府から寄贈されたシベリア産の石材である。道の駅さるふつ公園の敷地には、事件の資料などを展示した「日ソ(ロ)友好記念館」が1972年にオープンしたが、施設の老朽化を理由に2011年に閉鎖・解体された。展示されていた資料の一部は道の駅さるふつ公園の管理棟内に展示されている。
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