🎺19:─1─作られた庶民派東条英機人気。軍部のイメージ戦略と写真週報。~No.107 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2018年8月14日 産経フォト「国策誌への出向辞令発見 同盟通信カメラマン 東条首相をカラー撮影
 首相官邸東条英機首相を撮影する内山林之助カメラマン=1942年10月16日
 同盟通信社共同通信社の前身)の故内山林之助カメラマンの遺品から、内閣情報部出向の辞令や東条英機首相のカラー写真などが見つかった。戦時中の言論統制機関、内閣情報部(後の情報局)は情報宣伝活動の一環でグラフ誌「写真週報」を発刊。制作のため写真協会を設立し、報道各社のスタッフが参加した。政府に報道機関が協力した事例だが、人員派遣を裏付ける辞令は未発見だった。
 内山林之助氏への辞令3種。上から時計回りに、1938(昭和13)年3月28日付内閣情報部の嘱託辞令、40年5月20日付写真協会の社員試用辞令、45年5月21日付情報局の解嘱辞令
 遺品は内山氏の長男弘之氏(75)が保管していた。辞令は計15通。38年3月28日付の「内閣情報部ノ事務ヲ嘱託ス」に始まり、40年5月20日付には写真協会の「社員試用トス」。45年5月21日付「情報局ノ事務嘱託ヲ解ク」で終わる。
 写真週報用に撮られた写真が多く、42年12月2日付の「大東亜戦争一周年」号の表紙は多数の勲章を着けた東条首相のカラー写真。同年6月、ミッドウェー海戦日本海軍は米海軍に大敗、ガダルカナル島撤退も迫っていたが憂う様子は見えない。」
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 東条英機は、ポーランドユダヤ人難民をヒトラーから保護しホロコーストから守るという人道貢献を行っていた。
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 2021年8月12日・19日号 週刊文春東条英機は『人情派』
 政治家の本質を見抜け
 一ノ瀬俊也
 『パンケーキおじさん』を覚えていますか。菅義偉さんが首相に就任した頃のニックネームです。
 それからもうすぐ1年。当初60%以上あった支持率は半減して30%台前半になりました。コロナ禍で五輪開催にこだわったのに、菅さんから納得できる説明はない。また、メディアを通じて国民にアピールする〝自己演出〟がうまくないことも、支持率低下の要因かもしれません。
 非常時は強いリーダーが求められがちです。実は、太平洋戦争開戦時の首相、東條英機はメディアを巧妙に使った指導者でした。
 東條というば、〝竹槍でB‐29を落とせ〟という日本軍の悪しき精神主義の象徴で、国民に無謀な戦争を強いた愚かな指導者と考えられています。ただ、当時の国民がどう見ていたのかに注目すると、意外な事実が浮かび上がります。
 1942年(昭和17)7月のある日の早朝。札幌にお忍びで現れた東條は、道端のゴミ箱から菜っ葉の切れ端をつまみ、『この葉は食えないのか』と傍らの警官に尋ねました。また民家の薪を保管する物置をのぞき、『昨年の(薪)が残っているのを見れば焚きつけには不自由しないようだ』とも言ったと、当時の新聞に書かれています。
 東條にとって、これは政治活動の一環でした。軍事や経済、社会心理など総動員して『総力戦』を遂行できる国家が戦争に勝つと考えていた彼は、第一次世界大戦でドイツが敗北した決定的要因は食料不足で多数の餓死者が出たことだと分析。国家が必要な物資を計画的に配分し、経済活動を統制することで、国民を飢えさせない体制が肝心だと訴えていました。
 そこで、自ら確認するために街に出ます。配給所や戦死者遺族への視察や慰問を足繁く行っています。私腹にハンチング帽を被り配給所に並び、近所のおかみさんの不満や苦情を聞きました。多忙を極める総理がゴミ箱をのぞき、庶民の声を聞く時間などあるはずがない。パフォーマンスを通じて、〝話のわかる指導者〟というイメージが形作られたのです。
 また、人情味があることを印象づけようとしました。政府発行の国策宣伝雑誌「寫眞週報」に頻繁に登場し、軍装で数多くの勲章を胸につけ、微笑む姿がカラーで表紙に掲載されることもありました。
 児童向けの本では、『外見、勇猛果敢ですが、一面、非常に人情深く、一部からは「人情東條」等と呼ばれています』と記され、田畑でおばさんに話しかけ、馬に乗って魚河岸へ行った話が書かれています。
 そんな東條に大衆層も親しみを覚えていました。
 『従来の総理大臣に見られなかった東條首相の、気軽な、そして、きびきびした「町の探訪」に多大な好感を寄せて』いました(伊藤金次郎『六原道場』)。戦況が悪化し、サイパン陥落の責任をとって退陣した44年7月でも『一般民衆は東條の評判がいいともこと。例の街に出て水戸黄門式のことをやるのがいいのだろう』と、評論家の清沢洌は分析しました。また作家の山田風太郎は、東條内閣の総辞職を無責任と批判する向きに対して、『東條さんの苦しみはしかし一個人の責任無責任ではあるまい』と同情すら寄せています。つまり、責任感ある指導者と認識されていたのです。
 指導者として東條が優れていたと言うつもりは毛頭ありません。ただ、少なくとも彼なりのやり方で国民をまとめようとしていたのです。もっとも、当時は政府が情報を統制し、メディアは政府発表を垂れ流すだけ。新聞には政府の政策への不満を記した投書もかなり掲載されましたが、あくまでもガス抜き。『馬鹿げた戦争を止めろ』という意見は載りませんし、広言すれば逮捕されます。
 戦時中と同じ轍を踏まないためにはどうしたらよいのか。私たちは、政治家のパフォーマンスに惑わされず、その本質を見抜かなければならないのです。」
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 現代の中国共産党政府、韓国、北朝鮮などの指導者の多くは、ゲッペルスのメディア戦略ではなく東条英機のイメージ戦略を何処となく真似している。
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 ウィキペディア
 写真週報(しゃしんしゅうほう)とは、内閣情報部(のち情報局)により編集・刊行された、国内向けの週刊の国策グラフ雑誌。1938年2月16日号(創刊第1号)から1945年7月11日号(第374・375合併号)まで刊行された。価格は10銭・A4版・20ページ、内閣印刷局印刷・製本。最大で20万部発刊された。
 概要
 1937年の「国民精神総動員実施要綱」が、刊行の契機となっているといわれる。『写真報国』をうたい、戦時の国民生活を写真によって誌面で特集した。統制による人々の窮乏生活を多彩な特集でやわらげ、銃後の団結を高める記事が組まれた。
 写真は、木村伊兵衛(創刊号表紙)、小石清、土門拳、永田一脩、林忠彦入江泰吉、梅本忠男らが担当。公募等により、一般読者の写真作品も掲載された。
 一方、美術(レイアウト、エディトリアルデザイン等)は、情報部(情報局)内で担当していたといわれ、担当者の実名等は、必ずしも明らかではない。
 一般には、政府によって刊行された国内向け国策宣伝のための雑誌ということになっているが、性格や位置づけについては、明らかになっていない点も多い。
 なお、内閣情報局は写真週報創刊の2年前にあたる1936年(昭和11年)10月に、「政府の実行せんとする政策の内容や意図を広く一般国民に伝えてその正しい理解を求め、公正な世論の声を聞く」事を名目として、週刊誌形式の『週報』を創刊している。こちらの『週報』は、一般庶民には敷居が高い官報の内容を元に、各省庁が監修した各種の解説文や、情報機関が入手した国内外情勢、或いは国内外の一般的な雑報を交えながら分かりやすく解説する体裁のもので、1936年10月18日の創刊号から、1945年8月29日の休刊号まで452号を発刊した。
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 東條 英機(1884年12月30日 - 1948年12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。岩手県出身。
 民政に対する態度
「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。
 ゴミ箱あさり
 旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上(=昭和天皇)におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという。これに関連して、1943年(昭和18年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「そんな事は、朝早く起きて、街の塵箱をあさっとる奴にでも聞け」と答えた。塵箱あさりとは東條首相のことである。東條は烈火の如く怒り、西尾を予備役とした。
 言論統制に関して
 中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度が窺えたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している。
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 須坂市
 『寫眞週報』にみる戦時中における政府の広報宣伝
 実施日等2021年08月10日~2021年10月08日
 『写真週報』は、内閣情報部(途中から内閣情報局)により刊行された週刊の雑誌です。前年には日中戦争がはじまり、戦時色が強くなる昭和13年(1938年)2月16日付の創刊号から、終刊となる昭和20年(1945年)7月11日付の374・375合併号までに全部で370冊発行されました。
 『写真週報』は、国民に向けた時局意識を高める手段として発刊されたため、表紙には目を引くように特徴的な写真を載せています。軍事一色にならないように女性や子どもたち、海外の様子なども入れ親しみが沸くような工夫が見られます。もちろん、政治や軍事にかかわる写真も載せられています。アジア・太平洋戦争開戦後は軍事色が当然ながら色濃くなります。
 須坂市では、市内神林公明家が所蔵していた昭和14年12月20日発刊の96号から昭和19年3月22日314号までの212冊をご寄付いただきました(一部欠号有り)。創刊当初の号や終戦間近の号がないのが非常に残念ですが、これだけの冊数がまとまって残ることはたいへん珍しいことで、国立公文書館でも全号は揃っていません。
 戦時中の物資が潤沢にはない時代の雑誌で、紙質が脆弱なため特徴的な複製81点と軍事債券の複製5点も展示しています。
1 会期 8月10日(火)~10月8日(金)
     開館は平日 午前9時~午後5時
2 会場 文書館展示室(旧上高井郡役所内)
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日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫 と 18-1)
日本よ、情報戦はこう戦え! (扶桑社BOOKS)
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 国家は、平和な時代・平時であれば政府が動かし、戦争の時代・戦時となれば軍部が動かが、停戦や終戦は政府が軍部の賛同を得て国民に知られないように極秘で外交交渉を行う。
 国民は、情報の10の内1~2を知らされ、戦争に勝つと信じて込まされて戦場に送り出される。
 つまり、国民が知るのは戦争ではなく戦闘である。
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 国民は「日本は正しい」との強い確信から、日中戦争から太平洋戦争までの全ての戦争に賛成し、戦争回避の弱腰に対して激しく非難し一刻も早い開戦を要求していた。
 日本国民は、軍国主義者・国粋主義者ファシストらに騙されていたのではない。
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 現代の政治家、官僚、学者、経営者そしてメディア関係者と戦前の政治家、官僚、軍人、学者、経営者、メディア関係者は、別人のように違う。
 現代の高学歴な知的エリートや進歩的インテリには、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、戦前を正しく認識できない為に、論ずる、批評する批判する非難する資格があるか甚だ疑問である。
 特に、リベラル派戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀なマルクス主義世代にはそれが言える。
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 東条英機は「軍人は政治に関与せず」を信条とした根っからのエリート軍人で、天皇主義者として昭和天皇への忠誠心が強く、人に対する相性的な好き嫌いがハッキリし、特定の政治信条、思想・哲学・イデオロギーを持っていなかったが、国民の人気を高める為にイメージ戦略で庶民派・人情派を演出した。
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 東条英機は、帝国陸軍軍人として、政治家や官僚らとは違って私腹を肥やさず清貧を貫き、企業家・経営者のような豪邸に住まず質素倹約で慎ましい生活を送っていた。
 ある意味、庶民派らしく欲がなかった。
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 東条英機首相、松岡洋右外相らA級戦犯達は、アメリカとの戦争を避ける為にヒトラーと手を組む三国同盟を締結するという戦争犯罪を行ったが、同時に、世界から見捨てられた数万人のポーランドユダヤ人難民を助けホロコーストから守るという人道貢献も行っていた。
 政治家・官僚・軍人であったA級戦犯達は、国家指導者として与えられた権限で政治・経済・外交を動かし戦争を始め国民に戦死を命じたが、人として平和貢献と人道貢献を行い、敗戦後、戦争犯罪者として見せしめ的縛り首で殺された。
 それが、靖国神社問題である。
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