🎺42:─1─京都空襲。広島の原爆は京都の身代わりであった。~No.195 

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 言い方をかえれば、「広島は京都を救う為に身代わりとして犠牲になった」という事、予定通りに京都で原爆投下実験が行われていれば広島は被害を受ける事はなかった。
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 2021年9月19日号 サンデー毎日「新炉辺の風おと  梨木香歩
 長い間、気づかずにいたこと 1
 今夏初めてツヅレサセコオロギの鳴き声を聞いた。しばらく続いた長雨が久しぶりで小休止した日の夜だった。いつまでも永久に続くような気になっていた暑さとか寒さが、ふとした変化ああ変わるんだと悟らされるときがある。
 毎年8月に入ると、新聞やテレビで戦争の特集が組まれ始める。電話で友人と話しているうちに話題がそういう方面に移り、京都が空襲に遭っていないということを聞いた。私はずいぶん長い間京都に暮らしていたのに、そして身近に京都出身者も多数いるのに、そんなことを知らなかった。驚いて他の京京都生まれ京都育ちの友人たちにも聞いてみたが、皆生まれたのが戦後ということもあってか、ほとんど知らなかったようだ。『そういえばちらっと、京都にも少しは空襲があったのだと聞いたような気がする』という程度。生前親しくしていた、今生きていれば100歳近い知人たちからも、かつてそういうことを聞いた覚えがなかった。禁忌、ということまではなかったにしても、戦時中箝口(かんこう)令が布(し)かれていて、なんとなくそんな勢いで語ることが憚(はばか)られたままだったのかもしれないし、『京都は町全体が博物館のように文化的価値が高かったので、さすがのアメリカも手出しができなかった』という通説が心地よく、京都人のプライドをくすぐったので、敢(あ)えて語る必要もないと判断されてきたのかもしれない。
 雑誌『母の友』に、そのことに本格的に向き合った記事があった。2002年8月号『ひとりひとり考える「平和」』という特集。今から19年前、空襲体験者がまだ多くいらした頃で、清水寺南側の馬町周辺で、また西陣で、当事者たちの幼かった『そのとき』が語られている。爆撃を受けた地域の周囲には縄張りがされ、憲兵が見張りに立ち、一般人の立ち入りは禁止されたとのこと。馬町では死者35名、重傷者54名、全体の被災者は729名。西陣の被害は市内では一番大きく、死者50名にのぼった。一人一人の命の重さや生活が奪われたことは比較のしようがない種類のことだが、他の大空襲を受けた都市に比べれば規模は小さいのかもしれない。地元京都新聞では『被害は軽微、─略─却(かえ)って士気大いに昂(あが)るものがあった』。国が全体主義的になると、メディアはどこも判で押したように意気軒昂だ。京都市内では他に太秦(うずまさ)なども被害に遭ったが、府下で最も被害を受けたのは海軍鎮守府がおかれ、海軍工廠(こうしょう)が設けられた舞鶴市だ。落ちた爆弾は一発だったが、それは長崎に落とされた原子爆弾『ファットマン』と同じものだった・・・。京都市が原爆投下の予行演習として行われたものだった・・・。京都市が原爆投下の候補地に挙げられていたのは知っていたが、京都市内の空襲も原爆の下見のようなもので、本格的な大空襲を受けなかったのは、原爆の威力を正確に測るためだったのだとは・・・。そして、結局京都は原爆を免れたのは、『日本が略奪、破損した中国などの文化財を、それに匹敵する等価の文化財で日本に弁償させる』目的ということが大きいと考えられ、有名なウォーナー・リスト(戦時中に作られた日本文化財のリスト)はその参考のために作られたのだという。」
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 ウィキペディア
 京都空襲(Bombing of Kyoto)は、アメリカ軍によって太平洋戦争中の1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日にかけて5度にわたって行われた無差別爆撃。
 概要
・第1回 1月16日23時23分頃、馬町空襲(東山区馬町)死者36名(一説に40名以上)、被災家屋140戸以上。
・第2回 3月19日、春日町空襲(右京区
・第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)死者2人、重傷者11人、軽傷者37人、民家半壊3戸。
・第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区
・第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名(京都府警の資料では死者43人、重傷13人など計109人が死傷したとされる)。
 報道管制が敷かれたため、被害の詳細は判明していない。
 以降の爆撃禁止
 第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。停止理由は、歴代米政府中枢にいたバーナード・バルークも主導していたように、原爆投下目標だったからとされている。何故京都に原爆が投下されなかったのかは、京都には世界的にも価値の高い文化遺産が多数存在したからと言われていたが、近年になってその説は有力ではないとも言われてきている。
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 京都ミステリー紀行
 まぼろしの京都空襲
 〜今でも残る「京都に空襲はなかった」という嘘〜
 8月になって今年も終戦記念日が近付いてきた。あっちこっちで「戦争の惨禍」の話が繰り広げられるのだろうが、その中で今でもなかったことにされているのが京都の空襲である。
 「京都は空襲を受けなかった。アメリカが京都にある文化財の価値を認めたからである」というデタラメを訂正する本や記事はいくつも出ているのに、一向に改められる気配がない。
 そんな状況で私がまたこの話を繰り返しても何が改善されるわけでもないだろうが、大事なことなので記しておく。
 京都市内にアメリカが意図して爆撃をしたのは2回。昭和20年1月16日の馬町空襲と同年6月26日の西陣空襲である。
 東山区馬町の空襲は昭和20年1月16日午後11時23分頃、B29一機が三重県境より滋賀県を経て京都市内に侵入し、市内上空を一周した後、東山区馬町上空で高性能爆弾3トンを投下した。
 7歳の女児を含む41人が死亡、負傷者48人、被害家屋316戸。
 一方西陣の空襲は6月26日の昼前、B29一機が1トン爆弾7発を投下した。北は上長者町、南は下立売、東は大宮、西は浄福寺の範囲の地域が被害を受けた。 
 即死43人を含む50人が死亡。重傷13人、軽傷53人。家屋全壊71戸、半壊84戸。7発のうち2発は不発だったらしい。
 確かに東京や大阪の大空襲に比べたら微々たる被害かもしれない。しかし40〜50人の人が亡くなっているのだから無視は出来ないだろう。
 人はよく「戦時中だったので被害状況が隠された」と言う。だから今でも「まぼろしの空襲」なのだと。
 確かに、その当時は秘匿されたかもしれないが、戦後になって公開されている。戦時中でもないのに「京都に爆弾は落ちなかった」という伝説を守りたい人たちが今でも情報を「隠して」いるのではないのか。そんな人たちには戦時中の政府の悪口はいえないだろう。
 この2回以外にも、3月19日に右京区春日、4月16日に右京区太秦、4月22日(不詳)、5月11日には上京区京都御所に爆弾が投下されているのだが、この4回は米軍に記録がないという。どうやら最初から京都を狙ったものではなく、他地域を攻撃したついでに落としたか、本来の目標値で投下しきれずに余った爆弾を捨てるために落としたらしい。
 逆に考えると馬町と西陣は米軍に記録が残っているわけで、間違いなく始めから京都を狙った空襲であったということだ。
 「文化財があったから京都は守られた」などというのは絵空事である。では何故京都にはほとんど空襲がなかったのかに関しては吉田守男の『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)に詳しいので興味のある方は読んでいただきたい。
 京都にも空襲があったという事実は決して隠されてきたわけではない。折に触れて指摘されている。にもかかわらず、伝説が修正されないのは何故だろうか。
 ひとつには一過性の話題にしかならないという事情がある。
 たとえばテレビで京都空襲の事実が紹介されてもその時だけなのである。酷い時は「京都にも空襲があった」という番組を放映したテレビ局が数年後には別の番組で「京都に空襲はなかった」という話をする。火事を消した後で放火するようなものである。
 また「京都に空襲がなかった」というのは日本人にとって「嬉しい伝説」だという理由もあるだろう。
 人間誰しも「ありふれたの真実」よりも「嬉しい伝説」のほうが好きなのである。個人のレベルでもそうだろう。都合の悪い誤解は訂正しようとするが、良い意味での誤解は「いやあ、まあ、そんなことは、あっはっは」と言葉を濁して否定も肯定もしないものである。
 「優れた文化財を守るためにアメリカは京都に爆弾を落とさなかった」というのは美しい話といえよう。しかし、美しい花には棘があるように、美しすぎる話にも裏がある。
 「京都に空襲はなかった」という伝説はアメリカにとって都合がいいだけでなく、国の安全保障を直視してこなかった昭和の日本にとっても都合が良かったのだと私は考えている。
【言っておきたい古都がある・10】
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 京都新聞 2021年9月12日(日)
 市内
 京都でも爆撃「西陣空襲」、碑に記憶の継承誓う 戦後生まれの住民らが献花し黙とう
 2021年6月27日 8:00
 花が供えられた西陣空襲の惨事を伝える石碑(京都市上京区・辰巳公園)
 「西陣空襲」の被害の様子を伝える写真
 爆弾投下時刻に石碑に手向けられていた一輪の花(26日午前9時40分、京都市上京区・辰巳公園)
 太平洋戦争末期に京都市上京区の住宅密集地が爆撃された「西陣空襲」から26日で76年を迎えた。当時を知る住民が高齢化する中、戦災跡地にある辰巳公園では、戦後生まれの人たちが惨事を伝える石碑の前に花束を手向けて、記憶の継承を誓った。
 西陣空襲は1945年6月26日午前9時40分ごろに起きた。京都府警察史によると、米軍機B29が爆弾7個を投下して43人が即死、66人が重軽傷を負い、建物292棟が全半壊するなどした。市内では東山区馬町と右京区太秦も空襲を受けたが、犠牲者は西陣空襲が最も多かった。
 石碑は戦後60年に当たる2005年、非戦災都市と言われる京都で空襲があった事実を後世に残すため、空襲で自宅が倒壊した磯崎幸典さん(92)=上京区=ら有志が私費で建てた。戦後70年の2015年に献花式を行って以降、高齢化で組織だった催しは行っておらず、磯崎さんも最近は外出を控えているという。
 この日は早朝から紫色の一輪の花が石碑に添えられていた。正午には公園の愛護会メンバーで近くに住む北川展之さん(74)が白いキクの花束を献花。現地でたまたま遊んでいた親子らに西陣空襲の概要を伝え、一緒に黙とうをして犠牲者の冥福を祈った。
 北川さんは、一輪の花について「当時を知る方が供えられたのかもしれない」とした上で「碑には先人の思いが詰まっている。戦後生まれの私たちも記憶にとどめることが大切だ」と話した。
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日本の古都はなぜ空襲を免れたか (朝日文庫)
原爆は京都に落ちるはずだった: 原爆投下に正義はあったのか?
京都空襲 -8888フライト- 米軍資料から見た記録
京都空襲 (語り伝える京都の戦争)
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 日本人は、京都を空爆せず無傷で残してくれた事に対してアメリカに感謝する必要はない。
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 京都は、盆地という閉鎖された地理的条件と適度な人口密集地から、原爆投下爆破を行い科学的な物的人的被害データを得るには最適な実験場であった。
 つまり、軍人や科学者にとって日本人は合法的に消費できる貴重なモルモットとであった。
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 アメリカ・イギリス・カナダにとっての原子力とは、軍事における絶対勝利の兵器であり、宇宙の真理を解き明かす最先端科学であり、政治における未来エネルギーであった。
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 アメリカ軍は、京都を空襲しなかったのは京都が文化的価値が高く世界的な文化財が多くある歴史的文化都市だからではなく、純粋に科学的な原爆投下実験を行うに最適な候補地だったからである。
 貴重な文化財がある町をピックアップした空爆不可都市リストに従って都市空爆を行っていたが、それは日本国と日本人の為に文化財を残そうとしたのではなく、占領後に戦利品として強奪する為であった。
 事実、欧米諸国の有名な博物館や美術館の展示品の多くはこうして集められていた。
 宗教的人種差別に支配されたアメリカにとって、日本人は殺しても構わない人間以下の毒虫や獣でしかなく、美術史的価値の高い日本文化財を守りたいと思うが、ジャップ、イエロー・モンキーの野蛮な日本人を生かしておくべきではないと考えていた。
 そうしたアメリカ人の日本人観を証明するのが、無差別絨毯都市爆撃や原爆投下実験である。
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