🎺39:─1─インパール作戦。ベンガル飢饉約300万人餓死者はイギリスの戦争犯罪・人道に対する罪。〜No.170No.171No.172 * ㉔ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本陸軍は戦場で、人を殺すという戦争犯罪の悪い事をしたが、人を助けるという人道貢献のいい事もした。
   ・   ・   ・
 1942〜44年 イギリスの植民地インドのベンガル地方で、150万人〜300万人の餓死者を出したベンガル飢饉が発生した。
 ベンガル地方は、過去にも何度も大規模な飢饉を繰り返し、夥しい餓死者を出す慢性的な食糧不足地帯であった。
 ベンガル飢饉の原因は天災であったが、餓死者が出たのは人災であった。
 人災とは、日本軍がアジアの3大穀物生産地帯の1つであるビルマを侵略し占領した事とイギリスが日本陸軍の飢餓地帯への食糧支援を拒否した事である。
   ・   ・   ・  
 著名なベンガル人
・スバス・チャンドラ・ボース -  インドの独立運動家。
・ラダ・ビノード・パール   -  法学者、裁判官、東京裁判判事。日本無罪論。
   ・   ・   ・   
💖38)─1─軍国日本はベンガル飢饉で食糧支援を表明したが、イギリスは拒否して餓死を選んだ。〜No.159No.160No.161No.162 
2020-10-14
🛲5」─4─日本軍のビルマ侵攻で発生したベンガル飢饉での餓死者約300万人。インド暴動で1万人の死傷者。〜No.39No.40No.41 * 
   ・   ・   ・   
 2021年10月5日 MicrosoftNews 文春オンライン「無謀な戦いの象徴「インパール作戦」は、ほんとうに“愚戦”だったのか…「グレイテスト・バトル」の真実とは?
 © 文春オンライン 『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』(笠井亮平 著)文春新書
 今から80年前、大日本帝国は国力ではるかに勝るアメリカや、その同盟国イギリスなどと戦争を始めた。無謀な戦いの象徴の一つが「インパール作戦」(以下、「作戦」)だと評者は認識している。だから副題の「ほんとうに『愚戦』だったのか」が目に留まり本書を読み始めた。先入観を揺さぶられるのでは? との期待があった。
 本書の読みどころは、まず「作戦」発動から中止までの1944年3月~7月だけでなく1941年12月の開戦直後までさかのぼって「作戦」を俯瞰したことだ。開戦後、英軍は香港やビルマシンガポールなどで日本軍に惨敗した。英軍はその後、ビルマ奪還のために準備を重ね、インパールでは満を持して迎え撃ったことが分かる。
 では、日本側は「作戦」で何を狙ったのか。インパールを攻略すれば太平洋戦線で劣勢だった戦況が好転するのではないかという日本側の見込みに基づいていた。著者の言葉を借りれば「一発逆転」をもくろんだのだ。しかしインド北東部の一都市であるインパールを仮に攻略し、かつ占領し続けたところで、敗色濃厚な戦況が大きく変わるとは限らない。願望たっぷりの「戦略的見通し」は、大日本帝国為政者たちが抱いていた戦争の見通し、すなわち「同盟国のナチスドイツが英国を屈服させれば、米国が戦争継続意欲を失う。それで講和する」という「終戦構想」を想起させる。「作戦」はその愚かな「戦略」につながる「愚戦」であった。
 本書のさらなる読みどころは、日英の情報戦に光を当てたことだ。たとえば日本側の「光機関」。インド独立の旗手、チャンドラ・ボースや彼が率いた自由インド仮政府との連絡役、情報収集や謀略、現地住民の懐柔などを手がけ、一定の成果があったことが分かる。
 日本軍はインパール北方の要所であるコヒマを一時確保するなど、英軍を苦しめる場面もあった。しかし補給を軽視したつけは大きかった。さらに敵の戦力を過小評価し、劣勢が明らかになっても戦闘を続け被害を拡大させた。ずっと指摘されてきたことであり、著者も異論はなさそうだ。
 著者によればイギリスはインパールの戦いを「東のスターリングラード」「グレイテスト・バトル」と評しているとのこと。英軍が苦戦し犠牲が大きかったことは、本書からも分かる。ただ英軍にとっては緒戦の敗戦が無残だっただけにインパールでの勝利の意義をことさらに強調する必要が戦略的にも政略的にもあり、「グレイテスト」云々の評価に落ち着いたのではないか。そうした資料批判の姿勢は必要だろう。
 著者の専門は日印関係史、インド・パキスタンの政治など。英印関係の資料など先行研究ではさほど注目されなかったものを活用しているようだ。本書を契機とした、「作戦」研究の深化に期待したい。
 かさいりょうへい/1976年、愛知県生まれ。岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員。各国日本大使館で外務省専門調査員を歴任。専門は日印関係史、南アジアの国際関係、インド・パキスタンの政治。著書に『インド独立の志士「朝子」』などがある。
 くりはらとしお/1967年生まれ。毎日新聞専門記者(日本近現代史)。著書に『シベリア抑留 最後の帰還者』『戦後補償裁判』など。
 (栗原 俊雄/週刊文春 2021年10月7日号)」
   ・   ・   ・   
インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか (文春新書)
   ・   ・   ・   
 日本の戦争とは、天皇・皇室を守り、日本国を植民地にさせない、日本人を奴隷にしない、為の積極的自衛戦争であって、領土を拡大する帝国主義侵略戦争ではなかった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、西洋・欧米列強の植民地支配からの東亜・アジアの解放・独立を宣言して、真珠湾奇襲攻撃を行い、米英蘭に対して宣戦布告を行って太平洋戦争を始めた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 1943年のベンガル飢饉(英: Bengal famine)は、第二次世界大戦中の1943年から1944年にかけて、イギリス領インド帝国ベンガル地方において発生した大飢饉である。
 概要
 この大飢饉により、およそ300万人が死亡した。この飢饉は、インドにおける暗黒の歴史となった。なおこの飢饉の原因は、干ばつや猛暑などではなく、ウィンストン・チャーチル元英首相の政策による影響が大きかったためとされている。チャーチルが、インド人に対し人種的嫌悪感を抱いていたため、飢饉にあえぐインドに援助をせず、多数の人々が餓死したとされている。いわば、人為的に発生した飢饉といえる。
   ・   ・   ・   
 1942(昭和17)年3月下旬 日本軍は、ベンガル湾南部に位置する北側がアンダマン諸島と南側がニコバル諸島を占領した。
 5月末 日本軍はビルマ全域を制圧した。
 10月 大型のサイクロンがベンガル地方を襲い、僅かに生産していた農作物に大打撃を与え、飢餓が発生した。
 食糧を失った地方の貧困者は、食べ物を求めて豊かな都市部に流れ込んだ。
 その為に、都市部のスラム街が拡大して、不衛生となって疫病が蔓延し、治安が悪化した。
 インド総督府は、イギリス政府に対して、災害の甚大被害によって食糧事情が危機的状況に陥り、広範囲に飢餓が発生する恐れがあると報告した。
 インド担当相とインド副王のアーチボルド・ウォヴェルは、イギリス政府に対して、インドからの食料輸出停止と小麦等の穀物緊急輸入措置を要請した。 
 イギリス政府は、要請を受けて翌43年7月迄に約60万トンの食糧提供を約束したが、植民地救済より戦争の勝利を最優先して、インドへの食糧支援を最小限(7月迄に3万トン)とし、インドからの米7万トンを戦地に運ぶ出した。
 ベンガル飢饉は天災であったが、餓死者が約300万人に拡大したのは人災であった。
 さらに。ベンガル飢饉が知れ渡ると独立派の反英運動が暴動化する恐れがあり、イギリスは日本軍に付け込まれ危険があるとして極秘扱いとした。
   ・   ・   ・   
 マドゥシュリー・ムカージー(インド人作家) 「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(『チャーチルの秘密の戦争』)
   ・   ・   ・   
 マルクス「イギリスはインド社会の全骨格を、復興の兆しさえ見えないまでに破壊してしまった」(『インドにおけるイギリスの支配』)
   ・   ・   ・   
 1988年9月20日 サッチャー「私たちヨーロッパ人は植民地化の事業について何にも謝る必要はない」
 欧米列強の植民地支配は、日本の植民地支配に比べて正しかったとされている。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、植民地インド経営で、19世紀だけでインド人2,000万人以上を餓死に追い込み、従わないインド人は犯罪者として拷問し虐殺したといわれるが、正確な人数は不明である。
 イギリスの植民地支配は、人民の愚民化と貧困化で、反英派や独立派は徹底的に弾圧し、インド人に密告・誣告を奨励して告発されたインド人は冤罪であっても女子供でも容赦なく叛逆罪として処刑した。
 それが、世界常識であった。
   ・   ・   ・   
 ウィンストン・チャーチルは、戦争の英雄である。
 東條英機は、極悪非道な戦争犯罪者とされ、人権は踏みにじられ、人としての尊厳は認められず、霊魂の安息は許されず、靖国神社の祭神から抹消する事を要求されている。
 エリザベス二世は、世界で最も愛されている君主である。
 昭和天皇は、ヒトラー同様に憎まれる君主で、死刑を含む極刑を求める声が多かった。
 崩御されてはや27年、今もってなお昭和天皇の戦争責任追及の声が止むどころか、せらに声高となっている。
   ・   ・   ・   
 イギリスには、天災や戦災によって夥しい餓死者を出し始めた飢餓地帯への食糧救済をする義務も責任もなかった。
 それが、欧米列強の植民地支配であった。
   ・   ・   ・   
 18世紀から20世紀までのイギリスのインド統治全期間を通じて、インドで発生した飢餓は約40回で、餓死者は約5,873万人にのぼる。
 西洋列強の植民地は、キリスト教による地上の楽園ではなかった。
   ・   ・   ・   
 18世紀 大飢饉3回 死者数不明。
 ウィキペディア
 ベンガル大飢饉(英語: Great Bengal famine、ベンガル語: ৭৬-এর মন্বন্তর)は、18世紀の1769年から1773年にかけて、ベンガル地方で発生した大飢饉である。当時の人口の約3分の1にあたる、およそ1,000万人が死亡したといわれている。
 19世紀にインドで起きた飢饉。
 1800〜25年 大飢饉5回 死者100万人。
 1826〜50年 大飢饉2回 死者40万人。
 1851〜75年 大飢饉6回 死者500万人。
 1876〜1900年 大飢饉18回 死者1,600万人。
   ・   ・   ・   
 インドでは、親英派と反英派の流血事件だけではなく、民族・宗教・イデオロギーなどでの暴動も多発し、全土で混乱が続いていた。
   ・   ・   ・   
 インドは、朝鮮・韓国とは違って、反英派は虐殺されても独立運動・独立武装闘争を止めようとはしなかったし、親英派はインド独立の為にイギリス国王とイギリス国家に忠誠を誓いイギリス軍兵士となって日本軍やドイツ軍と戦っい、非協力派はガンジーに従った。
 同じ植民地支配を受けても、インド人は朝鮮人・韓国人とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 インド共産党(読み)いんどきょうさんとう(英語表記)Communist Party of India
 日本大百科全書(ニッポニカ)「インド共産党」の解説
 インド共産党 いんどきょうさんとう
 Communist Party of India
 1920年創設のインドの共産党。略称CPI。
 インド共産党は、第一次世界大戦直後の1920年10月にソ連タシケント(現ウズベキスタン)で、コミンテルン第2回大会に出席したM・N・ローイ(ベンガル出身)を中心とする、亡命中のインド人革命家たちによって結成された。国内では1925年12月に、北インド工業都市カーンプルでS・V・ガーテーを書記長として発足した。共産党は都市の中間層や一般大衆を基盤にするインド国民会議派(1885年創立)をはじめ、全インド労働組合会議(1920年創立)や全インド農民組合(1936年創立)を通じて、組織勢力をしだいに拡大していった。それらはいずれもイギリスによって弾圧の対象にされたが、総じてインド民衆による独立要求の運動には粘り強いものがあり、共産党勢力は確実に発展していった。
 第二次世界大戦期、独ソ戦の開始を機に、帝国主義戦争が反ファシスト人民戦争に転化する状況のもとで、インド共産党は合法化された。独立前夜の1943年から翌年にかけて、350万人の餓死者を出すベンガル飢饉(ききん)が発生したが、この救済活動を通じて、共産党は大衆政党の地位をようやく手にした。さらに1946年、南インドのテランガーナーと東部インドのベンガルの両地方で提起された農民運動は、イギリス支配を根底から揺さぶる事態をもたらした。ベンガル地方の場合、ジョテーダールとよばれる地主勢力に対して、大多数の貧農と雇農層は収穫物の3分の2を要求するテーバガ運動を提起した。
 1947年8月15日、イギリス支配を脱したインドは、連邦首相J・ネルー国民会議派の指導のもとで、インド型民主主義国家つまり主権在民の連邦制共和国への道を選択した。インド共産党は1948年初めに第2回党大会を開き、インドの独立は偽の独立であり、帝国主義は直接支配から間接支配へ変化したと主張し、武装闘争を是認する極左路線を採択した。
 その後、中印国境戦争をめぐる反中国路線と、国民会議派政権支持を打ち出す一方で、党内のイデオロギー闘争が一段と激化した。1964年10月~11月の第7回党大会で、連邦・州における議会の内外活動を重視し、反封建・反帝国主義反独占を掲げるインド共産党マルクス主義者)が旗揚げする一方で、議会制民主主義の闘争だけに依拠するインド共産党と分裂した。前者の書記長にはE・M・S・ナンブーディリーパード(ケララ出身)が就任した。同党の機関誌は『人民民主主義』で、傘下には全インド農民組合や新組織のインド労働組合センターが並び、1981年には全インド民主主義女性連合が発足した。なお両党とは別に1960年代末から武装闘争中心の毛沢東派を名のる諸勢力が存在している。
   ・   ・   ・   
 2010年9月11日 AFP BB NEWS「チャーチルのインド人嫌悪、歴史的飢饉の原因に 印新刊が告発  発信地:ニューデリー/インド
 【9月11日 AFP】第2次世界大戦中の英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が、インド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み、数百万人を餓死に追いやったと主張する本が出版された。
 第2次大戦中、日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領した後も、英国人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。パニック買いでコメ価格は高騰。また日本軍が侵入した場合に植民地内の輸送船や牛車が敵の手に渡ることを恐れた総督府は、これらを押収したり破壊したりしたため、流通網も破壊された。
 こうして1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー(Madhusree Mukerjee)氏(49)は最新刊『Churchill's Secret War』(チャーチルの秘密の戦争)で、この大飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す新たな証拠を暴いたと語る。
 ■度重なる支援要請を拒否
 第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブなどを分析した結果、当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していた。しかし、チャーチルは緊急食糧支援の要請をことごとく拒否し続けたという。
 ムカージー氏は「チャーチルに対策が無かったわけではない。インドへの援助は何度も話にあがったが、チャートルと側近たちがその都度、阻止していたのだ」と指摘する。「米国とオーストラリアが援助を申し出ても、戦時下の英政府がそのための船を空けたがらなかった。米政府は自国の船で穀物を送るとまで申し出たのに、英政府はそれにも反応しなかった」
 ■強烈なインド人嫌悪
 チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたという。チャーチル内閣のレオ・アメリー(Leo Amery)インド担当相に対して、「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」と述べ、またあるときは、飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、「ウサギのように繁殖するからだ」とののしった。
 特にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)について「半裸の聖者を気取った弁護士」だと愚弄(ぐろう)し、援助を求める総督府の英高官らに対し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと返答したという。
 ナチス・ドイツと戦う指導者として歴史に名が残るチャーチルだが、アメリー担当相はチャーチルのあまりの暴言に、ある時ついに「首相とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言したこともあった。
 ■インド史から消された災厄
 チャーチルの伝記はこれまでに数え切れないほど執筆されているが、ムカージー氏の新刊は新情報を発掘したという意味で画期的な成果だと、著名な歴史ジャーナリストのマックス・ヘイスティングス(Max Hastings)やインドの作家たちが称賛している。
 ムカージー氏は「チャーチルを攻撃しようと思って調査し始めたわけではない。ベンガル飢饉について調べていくうちに徐々に、チャーチルが飢饉で果たした役割が浮かび上がってきた」と言う。
 現在はドイツ人の夫とともに独フランクフルト(Frankfurt)に在住しているインド出身のムカージー氏は、ベンガル飢饉については小学校の教師からも両親からも習ったことはなく、インドの歴史からも消去されてきたと批判する。それは「インド社会の中流に、罪の意識があるからだ。彼らは(総督府下で)仕事に就いていたから、つまり配給を割り当てられていた。けれど田舎の人間はいなくなっても構わないとみなされたのだ」
 7年の歳月をかけて執筆したムカージー氏は、インド奥地の村々に散るベンガル飢饉の生存者から生々しい話を取材で聞くにつれ、チャーチルに対する強烈な批判意識が生じたという。「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(c)AFP/Ben Sheppard
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 アマルティア・センベンガル語:??????? ???、ヒンディー語:??????? ???、英語:Amartya Sen、1933年11月3日 - )は、インドの経済学者。哲学、政治学倫理学社会学にも影響を与えている。アジア初のノーベル経済学賞受賞者。1994年アメリカ経済学会会長。
 ベンガルで生まれ、9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受ける。またこの頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。これらの記憶や、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われる。無神論者。
 功績
 飢饉の分析
 彼の著書で示されている、飢饉が食料不足から起こるだけではなく、不平等からも起こるという指摘は、食物を分配するためのメカニズムを基にしている。彼は、1943年にベンガルに飢饉が起こったとき、価格が上昇し、食物を入手するための通貨がイギリス軍による獲得、パニック購入、貯蔵、およびぼったくり(その領域の戦争に関連づけられたすべて)を含む要素のため急速に無くなったこと、田舎の肉体労働者と都市のサービス提供者を含む人々の適切な食物供給量が有ったことをデータに提示した。例えば、ベンガルでは飢饉の前よりも食糧生産量があった。多くの社会的経済の要素として減退する賃金や、失業や、上昇する食品価格や、不十分な食品流通などのこれらの問題はあるグループ社会で飢餓につながった。ベンガル飢饉では、食物を買う田舎の労働者のネガティブな状態は民主主義の影響を受けなかった。彼らには社会参加の権限がなく、飢えや滋養の機能、病的状態から逃れることが出来なかった。
 一方、センは1943年以降インドでは壊滅的な大飢饉が起こっていないことを指摘している。独立に伴って自由なメディアと民主主義が整備されたことによって、飢餓で最も影響を受ける貧しい人々の声が政府に届きやすくなり、一方で野党やメディアの批判にさらされる民主主義下の政府には彼らの声を聞くというインセンティブが発生するために食糧供給や雇用確保などの政策を行い、飢饉は回避されるとした。センは同時期の中国の大躍進時の大飢饉や、その他の権威主義的な政権のもとでの各国の大飢饉と比較し、飢饉は自然災害などの現象の影響よりも、飢えを回避するために行動しようという政府が欠如していることの影響がより大きいとしている。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ベンガル人ベンガル語: বাঙালি)は、ベンガル地方バングラデシュおよびインドの西ベンガル・ビハール州)を中心に住むインド・アーリア人に属する民族で、一部は先住民族ドラヴィダ人と混血している。言語はベンガル語を話す。
 概略
 約半分はインド国内に住んでいるが、ベンガル地方のインド側ではヒンドゥー教徒を明らかに上回っている。
 ベンガル人にはバングラデシュに住む者を中心にイスラム教徒が多い。イスラム教を除けば、大部分はヒンドゥー教徒である。その他、少数の仏教徒もいる。しかし宗教に関わらずベンガル語ベンガル文字が広く使われており、民族意識が強い。
 ミャンマーに定住するベンガル人ロヒンギャとも呼ばれ、これもイスラム教徒で民族意識が強く、仏教徒の多いミャンマーにおいて社会問題となっている。ミャンマーでは、ロヒンギャを侵入者と定義し、ミャンマー国籍を与えずに迫害・弾圧・虐殺を続けており、この差別に対して全世界でロヒンギャを援助する動きを見せている(一方でバングラデシュでは国内に貧困問題を抱えていることもあり、民族的には近いロヒンギャへの援助には比較的、消極的である[要出典])。なお、ミャンマーにおいて「ベンガル人ミャンマーの言葉でベンガリ)」との呼称は、ロヒンギャに対する蔑称となるので注意が必要となる。
   ・   ・   ・   
 BuzzFeed.News
 News·公開 2018年5月12日
 映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は10億人の人の歴史を踏みにじる
 英国で政治家チャーチルを描いた映画がヒットした。だが英国に植民地として支配された歴史を持つインドから見れば、チャーチルは何百万人ものインド人を餓死させた人種差別主義者とうつるのだ。
 Bedatri Datta Choudhury
 by Bedatri Datta Choudhury
 BuzzFeed Contributor
 💬最初のコメントを書く
 Afp / AFP / Getty Images
 私の実家では、食べ物の好き嫌いを言ってはならない。「この食べ物をつくるために、誰かが時間と労力をかけているのよ」と母に昔から教えられてきた。
 私たちの家では、食べ物を無駄にはできない。自分が食べるものに、他の誰かが費やしてくれた時間と労力をありがたく思うことは、誰もがすること、あるいはすべきことだろう。
 しかし、私の家族がテーブルに乗っている食べ物に感謝する理由は、もっと深いところにある。私の両親は、インドとパキスタンの分割とそれに続く混乱と飢饉を経験し、そのトラウマを抱えながら生き抜いてきた。
 彼らは、飢えた人々が虫けらのように死んでいくのを見てきた。彼らにとって、そして、そのような両親に育てられた私にとって、食べ物とは「権利」ではなく、常に「恩恵」だった。
 私はこう言われて育ってきた。「私たちは最悪の飢えを見て、生き延びた。お前はそういう親を持つ子なんだよ」と。だから、私は決して食べ物を無駄にできないし、これからもしない。
 映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(原題:Darkest Hour、日本公開は2018年3月30日)のはじめの方に、チャーチルが朝食を取るシーンがある(ゲイリー・オールドマンの演技は素晴らしかった)。
 スクランブルエッグ、薄切りのベーコン、シャンペンとスコッチウィスキーが、クリスタル製の塩入れや胡椒入れ、磨きこまれたカトラリーと一緒に、銀のトレーに乗っている。時は1940年。チャーチルが首相になろうとする頃だ。手紙を口述筆記させながらイライラしたチャーチルは、その豪勢な朝食を脇へ押しやり、葉巻を吹かし出す。その朝食にはおそらく二度と手をつけないのだろう。
 この男がその3年後、現在のインド東部からバングラデシュにかけて広がるベンガル地方で300万人が餓死した、ベンガル飢饉を引き起こしたのだ。
 私の家族にとって、そして、ベンガル周辺の多くの家族にとって、食べ物との関係は、ベンガル飢饉にまでさかのぼる。75年たった今の時代に生きる私も、食卓にのぼる米に感謝の気持ちを持つ。
 ベンガルの人々は非常に長い間、自らが栽培した米を、イギリスの軍隊や市民を養うためにすべて取り上げられていた。イギリスによる食料の徴収は、世界の歴史でも最悪の飢饉の1つを起こすほどひどかった。
 飢えの軌跡を辿れば、非常に明確な支配構造が見えてくる。
 私たちは何百万人もの同胞を飢えで亡くしたが、このことが書籍で語られることはほとんどない。一方、パンやジャガイモが配給されていた時代のヨーロッパでの苦労や困難の話は、様々な場面で聞こえてくる。
 私の世代はそれほどの規模の飢饉を見たことがないし、おそらく、そうした飢饉を生き抜いた人のトラウマを表す語彙も表現も持ち合わせていない。しかし、世代を超えて語り継がれてきた当時の話を、誰もが聞いて育ってきた。
 友人の祖母は友人に、飢えた男性が「米を恵んでくれ」と訪ねてきたときのことを語った。祖母は急いで台所に行き、すでにかなり制限されて少なかった配給の貯えの中から、少し分けてやろうとした。しかし戸口に戻ってくると、男性は亡くなっていたという。友人の祖母に会ったことはないが、私の祖母も昔から、食べ物を分けてくれと頼まれたら決して拒んではいけない、と言っていた。
 礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視
 される。すべて、一握りの米のために。
 チャーチルは1896年、イギリス陸軍軽騎兵第4連隊の少尉としてインドに赴任した。
 彼がインドを、「俗物と退屈なやつだらけの、神のいない土地」と形容したことは有名だ。イギリスの首相となったチャーチルは1943年、ベンガル沿岸の農業地帯のほとんどを空軍基地に変えさせた。日本軍から植民地を守るためだ。
 映画『遠い雷鳴』で、ベンガルの田舎にある黄色と緑の肥沃な田が、ゆっくりと消えていくシーンを見たことを覚えている。まずは、灯油が足りなくなる。そのあと、すべてが壊れていく。礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視される。すべて、一握りの米のために。
 子どものころ、祖父母からいろいろな話を聞いた。当時物騒だったカルカッタ(現コルカタ)で、米を炊いたあとに捨てる余ったゆで汁のでんぷんを食べさせてくれと頼んで回る物乞いのことを。街の路上では、そうした人々が何千人も死にかけていた。チャーチルが、穀類を運ぶオーストラリアの船に、ベンガルを迂回させたからだ。
 ビルマにいた私の大おじと大おばは、飢えと渇きに苦しむこうした地域を通り抜け、故郷の町ノアカリ(現在はバングラデシュ)まで、ほとんどの道のりを歩いて帰ってきた。ようやく故郷にたどり着いたものの、大おじは疲労とトラウマから立ち直ることができなかった。
 別の友人は、皿の上の米は1粒も残さず食べるよう言われて育った。彼女の祖母は飢饉を生き延びたが、「明日、目が覚めたら何も食べるものがないかもしれない」という恐怖を決して拭い去ることができなかったのだ。飢饉が最悪の状態となったのは、彼女の祖母が17歳のとき。友人にその話を語っていたのは、70歳くらいのときだった。
 この男は私たちにとってのヒトラーだ。
 カルカッタでは、イギリスがつくった社交クラブが栄え、チョウリンギー通りの中心地には新しいレストランが次々にできた。その一方で、地方の女性たちは売春をするようになった。
 親は娘を売り、生き残った家族は金もなく、死者の魂を弔う気力もなかった。私のおばは、子どもたちを食べさせるために売春をする母親たちの話や、子どもたちを満足に食べさせてやれない申し訳なさに耐え切れず、子どもたちを殺してしまった父親の話をする。
 山と積まれた死体が、キツネや犬に食べられているころ、膨大な餓死者が出ているという知らせがチャーチルに届いた。しかし彼は、飢饉はインド人が「ウサギのように子どもを産むこと」に対する代償だと言ったという。
 チャーチルの答えは、「なぜガンジーはまだ死なない?」だった。
 このときチャーチルは、インドから食料をむしり取りながら、インド人兵士がたくさんいる英国陸軍を統率していた。
 ヒトラーと戦い、反ヒトラーの道徳性を称える一方で、彼自身はベンガルの飢饉につながる政策をとり、その政策を喜んでいた。インドの人口を「気持ちよく」間引けるからだ。
 この男は私たちにとってのヒトラーだ。
 だが、この男への憎悪は、世界のどこに見られるというのだろう?
 その代わりに、チャーチルを描いた映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は2018年1月、アカデミー賞6部門でノミネートされた。
 Working Title Films
 2017年に公開された『ダンケルク』(こちらはアカデミー賞8部門にノミネートされた)は、「白人ばかりの連合軍」という嘘で虚飾された映画だった。
 同様に、『ウィンストン・チャーチル』の脚本家は、映画の中のあるシーンを勝手に丸ごと、完全に都合よくつくり変えてしまった。
 チャーチルがロンドンの地下鉄に乗るシーンだ。首相が現れたことに驚いて立ち尽くす乗客たちに、チャーチルは、戦争についての意見を求め、彼らが和平交渉という案を拒絶するのを聞く。チャーチルは「古代ローマの歌」の勇壮な詩を暗唱し、その詩を黒人男性が締めくくる。そしてチャーチルは彼とハイタッチするのだ。
 しかし、ジョー・ライト監督が時代設定をあと数年遅くしていたら、おそらくチャーチルには、ベンガルの飢えた人々のための食料供給所で料理をさせたはずだ。
 イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっている。
 チャーチルは、有名な人種差別主義者だった。
 彼の頭の中にある進化論的な人種のピラミッドでは、白人のプロテスタントが最上部を占め、最下層はアフリカ人。ユダヤ人とインド人はその上だったという。こ
 のことは、多くの歴史家や知識人たちが書いてきたことで、ごく最近では、国連事務次長を務めたこともある作家のシャシ・タルールが、『Inglorious Empire :What the British Did to India(不名誉な帝国:英国はインドに何をしたのか?)』に著している。
 私はもちろん、チャーチルを英雄化し、ベンガル飢饉については何も触れずにいるこの映画(『ウィンストン・チャーチル』)には不満がある。
 しかし、もっと怒りを感じるのは、この映画がでっち上げようと決めたこのエピソードについてだ。
 チャーチルが黒人男性とハイタッチし、「古代ローマの歌」を暗唱して絆を深めるシーンによって、ただの戦争屋を人間味あふれる人物にしてしまうことは、単に歴史を歪曲しているだけでなく、素知らぬ顔で嘘をつくことにもなる。
 私は、ベンガルから何千マイルも離れたニューヨーク市内の映画館でこの映画を見ながら、自分の国の歴史について、その中でこの男が果たした役割について、私が知っていることすべてが揺らぐのを感じた。間違った認識を刷り込まされ、狂わされている感じだった。
 祖母の記憶、私たちが聞きながら育った話、子どものころから食べ物に対して感謝を持ってきたこと、そうしたことすべてが捻じ曲げられていたのだ。
 映画と文学を学ぶ人間として、歴史フィクションというジャンルのことは理解しているし、その限界もわかっている。私たちは何十年もかけて、ポストコロニアル理論(植民地主義帝国主義に関わる文化・歴史を広範囲に取り扱うもの)を読み、何も語られていない歴史の境界から、物語を掘り起こそうと努めてきた。
 それなのに、私たちから搾れるだけ搾り取って去っていった70年後に、また別の白人男性が、映画館に座る私たちに向かって、イギリス人は君たちにとって実にいい人たちだったと語りかける。イギリス人には英雄しかいない、と語りかけるのだ。
 イギリスにとっては、チャーチルのような独裁者を英雄化し、輝ける過去の物語をつくり上げることが実際に必要だということはわかる。EU離脱問題に揺れる今の時代ではなおさらのことだ。恥ずべき暴力の上につくられた国には、称えるべき歴史が必要だ──実際には、称えるようなことをたいしてしてこなくても。だから嘘をつく。
 しかし、重大な国民的アイデンティティの危機に直面しているときに、戦争屋で人殺しでもある人物を、人間味あふれる人物に仕立てて、国民的英雄にしようとすることと、2世紀の間苦しめられてきた植民地の辛い歴史の真実を覆い隠してしまうほどの大きな嘘を、不道徳にもでっち上げることは、次元の違う話だ。
 イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっているのだ。
 もちろんそれは、今に始まったことではないのだが。
 この記事は英語から翻訳されました。翻訳:浅野美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan
   ・   ・   ・   
飢饉・疫病・植民地統治―開発の中の英領インド―
ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(吹替版)