🎺20:─1─国民世論は避戦論の東條英機に対してアメリカとの戦争を強要し、そして脅迫した。~No.110No.111No.112 ⑫ 

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 戦前の日本人が、軍部・軍国主義者・民族主義に騙された被害者というのはウソで、その逆で、平和維持・戦争回避の外交努力をしていた東条英機首相らを弱虫・裏切り者と罵り、アメリカとの戦争を強硬に求めていた。
 軍国日本にとって対外戦争は、明治以来の正当性のある合法的な積極的自衛戦争であった。
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 NHKスペシャル
 新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(前編)」
 (2021年12月4日の放送内容を基にしています)
 もし80年前、太平洋戦争の時代にもSNSがあったなら、人々は何をつぶやいたのだろうか?今、研究者たちが注目するのが、戦時中に個人が記した言葉の数々「エゴドキュメント」だ。膨大な言葉をAIで解析。激動の時代を生きた日本人の意識の変化を捉えようとしている。
 1941年12月に始まった太平洋戦争。長きに渡った戦争で国は焦土と化し、日本人だけで310万もの命が失われた。なぜリーダーたちは判断を誤ったのか。そして、なぜ多くの市民が大国との戦争に熱狂したのか。それを解き明かす鍵が、近年発掘が進むエゴドキュメント。個人がつづった日記や手記だ。表現の自由が制約された時代。誰にも言えなかった本音が記されている。会社員や学生などの市民。最前線の兵士。国のかじ取りを担う指導者たち。ひとりひとりの視点から、新たな戦争の姿が浮かび上がる。個人の視点から歴史のうねりを追体験していくシリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。第1回は「開戦」。国家を破滅へと導く戦争の入り口で、日本人の多くは歓喜した。しかし、時計を巻き戻すと、開戦の前年、社会には戦争とほど遠い空気が漂っていた。都市部ではアメリカブームに沸き、ハリウッド映画やジャズが流行した。国の指導者たちも、国力で圧倒的に勝るアメリカとの戦争を避けようとしていた。なぜ、わずかな期間で急激な意識の変化が生まれたのか。開戦の前年から太平洋戦争に至る道のりを、市民と国の指導者のエゴドキュメントから探っていく。
 <開戦 なぜ日本人は熱狂したのか>

 当時の陸軍大臣東條英機言論統制の意図を語ったエゴドキュメントが残されていた。
 『英米に対して三国同盟が衝撃を与えるのは必然である。いたずらに排英米運動を行うことを禁止する』
 東條ら軍の指導者たちは、この時点ではアメリカとの決定的な対立を避けようとしていた。すでに陸軍は100万を超す大兵力を日中戦争に投じていた。その上、アメリカと対立する余裕はなかったのだ。

 日本とアメリカの青年たちによる卓球大会。日米親善がことさらに強調されていた。アメリカとの戦争を招きかねない三国同盟を結んだ日本。その一方で「親米」を演出するという矛盾に満ちた政策を推し進めていた。しかし、そうした日本のご都合主義は、アメリカには通用しなかった。ドイツと結んだ日本にアメリカの世論が反発。厳しい経済制裁を求める声は8割に上った。飛行機の燃料やくず鉄などの重要資源の輸出禁止が矢継ぎ早に決まった。

 開戦の8か月前。国の指導者たちは、アメリカとの決定的対立を避けるための外交交渉に乗り出そうとしていた。背景には、陸軍が極秘でおこなったアメリカとの戦力比較のシミュレーションがあった。その報告に立ち会った将校の「エゴドキュメント」が残されていた。そこには指導者たちの「本音」が吐露されている。
 『三月十八日、物的国力判断を聞く』
 陸軍の中枢で政策決定に関わった石井秋穂中佐。この日、参謀本部で明かされたシミュレーションの結果は、陸軍の首脳に衝撃を与えた。
 『誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむをえざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる』
 資源豊富なアメリカとの戦争が2年以上に及んだ場合、日本側の燃料や鉄鋼資源が不足することが判明。これを受け、陸軍大臣・東條らは、日米戦争は回避すべきと判断した。

 ドイツが突如ソビエトへ侵攻し、独ソ戦が勃発。金原さんが敏感に感じ取っていたように、日本の運命を大きく左右することになる。
 独ソ戦勃発から10日後。それまでアメリカとの戦争を避けようとしてきた指導者たちが、ここで決定的な判断ミスをおかす。日本軍が南部仏印、今のベトナム南部に進駐したのだ。
 『自存自衛上、立ち上がらねばならない場合に備えて、あらためて南部仏印に軍事基地を作るという要求が生まれつつあった』
 独ソ戦により、日本にとって背後のソビエトの脅威がなくなった。その隙に、アメリカの禁輸政策のため欠乏する資源を手に入れようと、東南アジアの資源地帯を押さえようとしたのだ。アメリカは、日米のパワーバランスを崩しかねない日本軍の行動に強く反応した。そして、日本への石油の輸出を止めた。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、計り知れない打撃だった。軍の指導者たちは、アメリカがそこまで強硬に反応するとは想定していなかった。南部仏印進駐に関わった石井はこう振り返っている。
 『大変お恥ずかしい次第だが、南部仏印に出ただけでは多少の反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいとの甘い希望的観測を包(かか)えておった』
 希望的観測が招いた石油の禁輸。アメリカとの戦争に慎重だった海軍も態度を大きく変える。
 『ぢり貧になるから、この際決心せよ』
海軍のリーダー永野修身。この捨てばちとも受け取れる言葉の裏には、永野なりの算段があった。
 『今後はますます兵力の差が広がってしまうので、いま戦うのが有利である』
 石油が底をつけば戦争はできない。その強迫観念が指導者を戦争へと駆り立てようとしていた。事態を冷静に見ていたリーダーもいた。海軍次官、澤本頼雄。開戦に強く反対する。
 『資源が少なく、国力が疲弊している状況では、戦争に持ちこたえることができるか疑わしい』
 澤本は、戦争に勝ち目はなく、日米の外交交渉での解決を探るべきだと主張した。
 『この方向に向かうことこそ国家を救う道である』

 10月。開戦の2か月前。日米は対立を深めながらも、ぎりぎりの外交努力を続けていた。アメリカが日米交渉の条件として求めたのは「中国からの日本軍即時撤兵」。しかし、その要求は陸軍にとって受け入れがたいものだった。
 日中戦争での戦死者18万人以上。東條たち陸軍首脳は、撤兵はその犠牲を無にするものとして受け止めていた。では、アメリカとの戦争を選ぶのか。東條は悲壮な面持ちで漏らしたという。
 『支那事変(日中戦争)にて数万の命を失い、みすみす撤退するのはなんとも忍びがたい。ただし日米戦となれば、さらに数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えねばならないが、決めかねている』
 6日後、東條は決断を首相に伝えた。
 『撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。数十万人の戦死者、これに数倍する遺族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる』
 泥沼の日中戦争がもたらした戦死者、耐え忍ぶ人々。指導者たちはその膨大な犠牲に判断を縛られていた。
 10月18日。内閣総理大臣となったのは東條英機。このとき、天皇は日米交渉の継続を望んでいた。東条内閣発足の際、側近に打ち明けた言葉がある。
 『いわゆる、虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね』
 アメリカに強く出るべきとする陸軍強硬派を、陸軍の東條に抑えさせる。それにより、戦争を避ける道を探ろうとしていたのだ。しかし国民は、軍人出身の首相の誕生に異なる期待を抱いた。
 『いまや死中に活を求めるほかはないのである』(10月17日「頴原退蔵日記」より)
 『いよいよ臨戦色濃厚な方向へ進む』(10月20日 山中宏「私の戦時財界日誌」より)
 『前内閣に類を見ない思い切ったことを断行できるのではあるまいか』(10月19日「小長谷三郎日記」より)
 アメリカから再び、中国からの撤兵を求められた日本。指導者たちは開戦を決定する。
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 岩田温2015年12月08日 13:25開戦の日に考える。何故、日本国民はあの戦争を支持したのか?
 今日は12月8日。大東亜戦争が勃発した日だ。
 終戦の日には、毎年、戦争について語られる。その際に強調されるのが戦争の悲惨さだ。確かに、戦争は悲惨であり、多くの人々が悲しんだ。歴史的な事実であり、そこに嘘はない。
 だが、戦争には開戦に至る経緯というものがあり、掲げた理屈というものがある。何も理由もなしに戦争を始めるということはありえない。何故、日本人の多くが戦争を支持したのか。その部分を見つめなければ、本当の意味での反省などありえない。
 以下、拙著『人種差別から読み解く大東亜戦争』からの抜粋だ。 何故、日本国民の多くが戦争を支持したのかを人種差別という観点から、読み解こうとしたものだ。
 平成七(一九九五)年八月月十五日、当時の村山富市総理が、戦争に関する談話を発表しました。いわゆる「村山談話」です。この談話の発表以来、基本的に全ての内閣がこの談話で示された歴史認識を踏襲しています。
 私は、この村山談話には大きな問題点があったと考えています。「お前は日本軍の侵略を認めない歴史修正主義者か」といきり立つ前に、冷静に村山談話を振り返ってみましょう。
 村山談話には次のような一節があります。
 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」
 「その通りだ。日本はアジアを侵略し、多大の損害と苦痛を与えた」と一気に納得せずに、もう少し、お付き合いください。これは何気ない文章のように思われるかもしれませんが、よくよく考えてみると不思議な文章です。わが国が国策を誤り、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略に手を染め、アジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えたというのです。
 「我が国」が「植民地支配と侵略」によって、「アジア諸国の人々」に対して「多大の損害と苦痛を与えた」というだけならば、認識の相違はありますが、理解は出来る文章です。単純に、我が国が他国に迷惑をかけ、申し訳なかったという話です。しかし、この文章は、そうした我が国と他国との関係だけを記述したものではありません。「我が国」と「国民」との関係についても言及しているのです。私が理解できないのは「我が国」は「国民を存亡の危機に陥れ」の一節です。
 一体、「我が国」の誰が国民を存亡の危機に陥れたというのでしょう。「何をバカなことをいうのだ。そんなのは、当時の政府のリーダーであり、軍部の指導者に決まっているではないか」という、反論の声があがるかもしれません。
 確かに当時の政府の責任者、軍部の責任者に責任があったのは確かでしょう。それは否定の出来ない事実です。政治家として、軍人として、祖国を敗戦に至らしめた責任は重いといわざるをえません。
 しかし、国民は一方的に「存亡の危機」に陥れられただけの被害者だということは出来るのでしょうか。そして、戦争を熱烈に推進し、戦争反対の声をあげようものならば、「売国奴」よばわりしていたマスメディアの責任も存在しなかったことになるのでしょうか。
 私はこの部分に大いなる違和感を覚えるのです。戦前、戦時下の日本における消費や観光に着目した面白い研究をしているケネス・ルオフという学者は、冷静に次のように指摘しています。
 「(戦後)日本を戦争の暗い谷間へと引きずりこんだとして、漠然とした少数の『軍国主義者』を非難することが通例となった。しかし、国民の支持がなければ、全面戦争の遂行などできるわけがないのだから、これは奇妙な言い草だった」(『紀元二千六百年消費と観光のナショナリズム』朝日叢書、xi頁)
ルオフは、戦前の日本で愛国主義的な雰囲気が盛り上がっていたことを指摘していますが、それはただ政府が盛り上げていただけなく、国民の側もそれを喜んでいたことを指摘しているのです。騙した指導者と騙された国民。こういう加害者と被害者の単純な二項対立は成立しないはずなのです。
 明らかに、当時の日本国民は戦争を支持し、マスメディアも開戦を熱烈に支持していました。この歴史的な事実が忘れ去られようとしています。まるで、国民は戦争指導者によって騙されただけの存在であったかのようにあつかわれていますが、戦争を熱烈に支持ていたのは国民自身なのです。
 村山談話は、単純に我が国の「侵略」を反省するだけの談話ではなく、我が国の国民が熱烈に戦争を支持ていたという歴史の真実から目を背けている談話なのです。他国に対する謝罪以前に、我々の先祖たちは、何故、あの無謀ともいえる戦争を熱烈に支持していたのだろうか、という部分を明らかにすべきでしょう。自分たちに都合の悪い部分には目を塞ぎながら、謝罪と反省を繰り返したところで、それは本当の意味での謝罪にも反省にもならないはずです。
 大東亜戦争開戦時、多くの国民が開戦を支持しました。この歴史的な事実に目を向けたうえでこそ、本当の意味での反省があるのではないでしょうか。一握りの狂信集団に騙され、国民は戦争に巻き込まれ、アジア諸国には迷惑をかけた。こうした歴史認識は、あまりに偏っているといわざるをえません。
 何故、日本国民の多くが、あの戦争を支持したのでしょうか。
 現代でも多くの若い人々を魅了する『人間失格』、『斜陽』の著者として有名な太宰治の小説「十二月八日」の中に、その手掛かりがあります。(なお、この「十二月八日」は、インターネット上の青空文庫で全文を無料で読むことが可能となっています。)十二月八日とは、昭和十六年十二月八日を意味しています。いうまでもなく、日本海軍が真珠湾攻撃を敢行した日米開戦の日のことです。小説はこのような形ではじまります。
 「きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。」
日米開戦が始まったその日、一般的な主婦がいかに感じていたのか。それがこの小説の主題です。果たして、戦争を悲しみ、呪っていたのでしょうか。困窮する生活を訴え、一日も早い終戦を願っていたのでしょうか。全く違います。日米開戦に歓喜する主婦の悦びに満ち溢れた一日が描かれているのです。朝、ご飯の準備をしようと子供に乳をやっていると、どこからラジオの声が聞こえてきます。
 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
 日米開戦を告げる重大な一報でした。この一報を受けた主婦の感想は次のようなものです。
 「しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
 」 戦争を憎む気持ちなど微塵も感じさせない叙述です。我々、戦後の日本人の大方の予想とは異なり、日米開戦の一報に、この主婦は感激しているのです。勿論、この後の辛く、苦しい戦争生活を知らないからこそ、このような感覚を抱いたのでしょう。しかし、ここで確認しておきたいのは、開戦当初、多くの日本国民が、この主婦のように日米開戦を支持していたという事実です。この主婦は次のようにも述べています。
 「いやだなあ、という気持ちは、少しも起こらない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生まれて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世の中に生まれて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて」
 暗い戦争の時代という現在の我々のイメージとは全く異なる感覚です。戦争がはじまった時代に生まれて「生甲斐」を感じるというのは、現代の感覚からすれば、不謹慎そのものでしょうが、当時の人々がそう感じていたという事実を無視することは出来ません。
では、どうしてこの主婦は、ここまで熱烈に日米開戦を支持しているのでしょうか。
 戦争そのものを好む好戦的な気分が漲っていたのでしょうか。この手がかりも主婦の叙述の中にあるので、引用してみましょう。
 「台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持ちが違うのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩きまわるなど、考えただけでも、たまらない。」
引用した中にある「支那(シナ)」とは、中国のことです。そうです。この主婦は、今回のアメリカ相手の戦争は、中国を相手にした戦争とは「まるで気持ちが違う」というのです。何故、中国相手の戦争とアメリカ相手の戦争とでは、「まるで気持ちが違うのでしょうか」。その手がかりも引用した一節の中にあります。
 「目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか」黄色人種である中国人相手の戦争と、白人であるアメリカ相手の戦争とでは、気分が違うというのです。現在、我々は「人種」という問題をあまり意識することはありません。しかし、戦前の日本では、この「人種」が非常に大きな意味をもっていました。本書は「人種」、とりわけ「人種差別」の問題から、あの大東亜戦争を説明してみようという試みです。
 勿論、いうまでもありませんが、「人種差別」の問題だけが、戦争勃発の要因ではありません。歴史とは様々な原因が複雑に絡み合って生じた出来事であり、たった一つの理由だけで、大東亜戦争を説明できるはずがありません。
 しかし、現在、日本国民の多くが大東亜戦争を支持したという事実が忘れ去られ、まるで日本国民は一部の戦争指導者に騙された被害者であったかのような議論が横行しています。間違いなく日本国民は日米開戦を熱烈に支持しました。そして、この背景には、明治維新の開国以来、日本がアメリカを始めとする白人による人種差別を受け続けているという被害者意識、そして、憤りの念が存在していました。
 この人種問題に着目し、何故、日本国民があの無謀ともいえる戦争を支持したのか、その一つの理由を理解しようというのが本書の試みです。人種問題という非常に大きな問題を扱う為、時間的にも、空間的にもかなり大きな話になりますが、本書が何らかの形であの戦争を理解するための一視座を提供するものであれば幸いです。
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 2021年12月8日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「真珠湾攻撃から80年「元日本兵」が語る戦争の内実 あの時代の「狂喜」と「悲嘆」はなんだったのか
 © 東洋経済オンライン 爆発炎上する戦艦アリゾナの炎に浮かび上がる戦艦群。1941年12月7日撮影(写真:近現代PL/アフロ)
 80年前(1941年)の12月8日は、旧日本軍がハワイ・真珠湾アメリカ軍基地を奇襲攻撃し、太平洋戦争が開戦した日だ。それから80年。元日本兵たちは開戦をどう捉えていたのか。著書に『帰還せず 残留日本兵戦後六〇年目の証言』がある、作家・ジャーナリストの青沼陽一郎氏が解説する。
 喜ばしいこととして記憶されていた開戦
 あの日、父親は新聞を見て「ばんざーい!」と叫んだ――。
 80年前の12月8日は日米が開戦した日だ。それまで日米交渉の役人の話ばかりをしていた父親は、真珠湾攻撃を伝える新聞に目を通して歓喜したという。
 その話を私が聞いたのは、今から16年前の戦後60年の節目にあたる夏のことだった。当時はまだ、東南アジアの各地に終戦後も自らの意思で復員を拒み、現地で暮らす元日本兵たちがいた。私はその理由が知りたくて、それぞれの元日本兵を訪ねてまわった。そのときのひとりが「あのときを思い出す」と話したことだ。
 佐賀県の出身で開戦後に志願して入隊すると、航空隊の整備兵としてインドネシアに送られ、そこで終戦を迎えると2日後にスカルノが行ったインドネシア独立宣言の警備でその現場に立ち会っていた。そのままインドネシア独立戦争義勇兵として加わり、独立後はジャカルタで家族と暮らしていた。開戦の思い出は、決して悲観的なものではなく、むしろ喜ばしいこととして記憶に残っていた。
 少なくとも、私が聞いたその当時の状況からすれば、日本国内の庶民は日米開戦を望んでいたとさえ言えた。まして、この戦争が悲惨な末路をたどるとは想像すらしていなかった。
 同じインドネシアでもスマトラ島に在住していた元日本兵は、真珠湾攻撃の一報を横浜の自宅の布団の中で聞いたラジオで知った。まだ10代の少年だった。その瞬間に「よし、俺は兵隊になってやろう」と思った。胸が高鳴って眠れなかったという。
 その翌年、18歳で軍隊に志願した。彼は言った。
 「『人の嫌がる軍隊に、志願で出てくるバカもいる』なんて、私の前で歌う奴もいましたよ」
 2人の兄がすでに兵隊になって中国で戦っていたことも大きく影響したという。
 “白紙”が自動的に“赤紙”になった日本兵
 そうかと思えば、12月8日がそのまま人生を変えた元日本兵もいた。当時は20歳になると男性が受ける徴兵検査には、すぐさま入隊となる甲種合格と、予備となる乙種合格があった。ホーチミン市で出会った元日本兵は第3乙とされ、通常は兵隊に採用されることはないはずだった。
 「あのころは、甲種合格といったら威張って歩けるっていうんだから、第3乙なんてしゅーんとしとったですよ」
 その代わり「教育召集」というものが3カ月間だけ課せられた。徴兵が“赤紙”なら、教育召集には“白紙”が送られてきた。彼もこの白紙を手に、「じゃ、ちょっといってくるぞー」とだけ周囲にこぼして気軽に入営した。周りもすぐに帰ってくるものと、見送りもしなかった。
 山口県山口市の生まれだったが、このころには中学を出て朝鮮半島で税関の仕事をしていた。だから、彼が召集されたのも平壌だった。開戦の年の11月1日のことだった。
 「そして毎日、日にちを数えながら、あとしばらくしたら帰れるぞ、と言ってやっとったんですよ。そうしたら12月8日に、どどーん!となっちゃって、それでもう自動的に赤紙になっちゃったんです」
 真珠湾奇襲攻撃が日米開戦のきっかけとなったのとほぼ同時に、陸軍がマレー半島に奇襲上陸してイギリス軍と戦いながらシンガポールを目指すマレー作戦が開始されている。この作戦に参加した元日本兵は「あのときは、面白かったぁ」と懐かしそうに振り返った。
 開戦前に召集令状を受け取ると、輸送を担当する自動車部隊に配属された。朝鮮半島で戦車部隊と一緒に訓練を受けると、釜山から台湾に移動。そこで自動車を輸送船に積み込んだところで1941年12月8日を迎えた。
 シンガポールまでは、自動車が走れる舗装された道だったから、自分の運転する車を飛ばして、とにかく競ってシンガポールを目指した。
 その先をいく兵士たちは自転車に乗って目的地を急いだ、いわゆる「銀輪部隊」が率先していた。彼らと徒党を組むようにマレー半島を制圧していく勢いは、まさに痛快だった。そのとき、日本が負けようなどとは夢にも思えなかった。
 敵兵のことを敬称をつけて呼んでいた
 当時の日本兵に共通するのは、敵兵のことを「敵さん」と敬称をつけて呼んでいたことだった。「鬼畜米英」ではなかった。その勢いに乗じて敵さんの資材をぶんどって回った。自動車のガス欠が見えていたから、それこそ制圧した敵さんの飛行機の中から燃料を抜き出して運転する自動車に使った。
 ところが、日本軍の自動車が使うものと違っていた。あまりに高品質で、今でいうところのハイオクのようなものだった。これを使って自動車を飛ばしていたら、快調な走りではあったが、かえってエンジンがおかしくなった。すでに物資の違いはそんなところにも見えていたが、日本軍の兵站が脆弱であっても、それでも相手の高級品を手中に納めることは容易だと感じた。
 あるときは、敵さんの機関銃だけを備え付けた鉄板だけの小型のタンクが置き去りになっていた。これはエンジンが利用できる。そう判断した自動車部隊は、エンジンを取り外して持ってきたことがある。
 車体からエンジンを取り外すのに時間がかかり、ようやく手に持って運び出そうとしたとき、鉄板の隙間から光るものに気がついた。注視してみると、そこに人の目があった。イギリス兵がこちらを見つめていた。それも3人。彼らはタンクに乗ったまま、日本兵がエンジンを抜き取る様子をただじっと見ていた。
 驚くと同時に愉快になった。敵さんが手出しできないほどに、それだけ日本には勢いがある。強いのだ、負けるはずがないのだ、そう思った。日本軍の勢いはそのままに、翌年2月15日にはシンガポールを攻略している。
 ただ、いいことばかりは続かなかった。このあと戦局は大きく転換する。
 シンガポールが陥落してからは、しばらく現地ですることもなく、命令が出るまで、ぼうっとして過ごしていた。それからビルマ(現ミャンマー)の戦線に移動して、インパール作戦に従軍することになった。史上最悪の作戦とも言われるこの作戦の顛末については史実に残るとおりだ。
 後方支援のはずが自動車の通る道すらなく、象や牛に支援物資を背負わせてぬかるんだジャングルの道を行く。追加支援はない。戦線を維持できなくなった撤退の道すがらは「白骨街道」とも呼ばれた。敵さんとの戦いで死ぬよりも、飢餓とそれにマラリアコレラで死ぬ兵士ばかりになった。
 「追及して来ーい!」
 それが後退する日本兵たちが口々に叫ぶ言葉だった。
 絶命している日本兵が多数
 野戦病院と呼ばれている場所にたどり着けば、そこは死体のやまだった。そこまでの道の途中には、蚊屋を吊ったまま、中のハンモックに横たわって死んでいる兵隊もいた。
 やがて自動車部隊が自らの自動車を放置した山麓の地点にたどり着くと、車の中に乗り込んだまま、そこで絶命している日本兵の姿もあった。自動車の屋根は、木の枝と葉で補修してあった。
 「追及して来ーい!」
 その言葉がむなしく響いた。彼はそのままビルマ終戦を迎え、復員することなく隣国のタイで生涯を閉じている。戦争のはじまりから終わりまでを知る人物だった。
 80年前の12月8日。日本国民の多くは日米開戦を賞讃した。しかし、それから4年後にはそれが大きな間違いであったことを知る。約310万人の日本国民が犠牲になった。そのうち約240万人は日本の本土の外で絶命したとされ、その半分は骨すら拾われずにいる。そして国体が大きく変容し、価値観がまったく塗り替えられた。
 あの時代の狂喜と悲嘆はなんだったのか。今いちど考え直す必要がありそうだ。」
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 日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義共産主義イデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
 明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
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 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられたことである。
 アメリカの太平洋侵略を最も警戒したのが、1894(明治27)年にハワイ王国滅亡を目の当たりにした東郷平八郎であった。
 ハワイ王国は、アメリカからの侵略から母国を守る為に日本の軍事支援を期待して、明治天皇天皇家との姻戚関係を申し込んだ。
 日本は対ロシア戦に備えて軍備強化を急いでおり、そこに新たに対アメリカ戦を加える余裕はなく、苦渋の選択として天皇家とハワイ王家との結婚は断り、1898(明治31)年にハワイ王国の滅亡を涙を流しながら傍観するしかなかった。
 日本海軍内のワシントン海軍軍縮会議に猛反対した艦隊派は、ハワイ王国滅亡を教訓としていた。
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 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事力による軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
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