🎻29:─2─アメリカと中国共産党による対日「ビンの蓋」論。~No.95 

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 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約英語:Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan、昭和35年条約第6号)は、日本国とアメリカ合衆国の安全保障のため、日本本土にアメリカ軍(在日アメリカ軍)が駐留することなどを定めた軍事同盟の事である。「日米同盟」と呼ばれる事もある。
 日本抑止論
 1971年(昭和46年)7月に中国を訪問したヘンリー・キッシンジャーとの会談で、周恩来国務院総理相が日本には「拡張主義的傾向がある」と指摘したのに対し、キッシンジャーは同意して日米安保関係がそれを防いでいる、と述べた。これは現在の記録で確認できる、米中首脳が最初に日米安保「瓶の蓋」論を共有した瞬間とされる。
 1990年(平成2年)3月に在沖縄アメリ海兵隊司令官ヘンリー・スタックポール(Henry C. Stackpole, III)少将は「アメリカ軍が日本から撤退すれば、既にに強力な軍事力を日本はさらに増強するだろう。我々は 『瓶のふた』 のようなものだ」と発言し、日本を抑止する必要があるとの見解を示した。
 1999年(平成11年)のアメリカの世論調査では、条約の目的は何かという質問への回答が、「日本の軍事大国化防止」が49パーセント・「日本防衛」が12パーセントとなった。
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 2017年2月17日 東洋経済新報社「日米首脳の蜜月こそが日本経済の「足かせ」だ
 米国の戦略目標は、再び「日本封じ込め」へ
 『富国と強兵――地政経済学序説』は、その副題にあるように「地政経済学」なる理論を提唱している。複雑怪奇な世界情勢を解読するには、地政学だけでも経済学だけでも足りず、その両者を総合した「地政経済学」が必要だからである。ここでは、日米関係を題材に、地政経済学的分析の一端を示す。
 「ビンの蓋」の米国に頼るしかない日本
 『富国と強兵 地政経済学序説』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
 まず、日米同盟の本質を理解することが出発点となる。
 冷戦期における日米同盟とは、国際政治学者のクリストファー・レインが言うように、ソ連とともに日本を封じ込めるための「二重の封じ込め」であった。これが日米同盟の冷厳な現実であることから目をそらしてはならない。その証拠に、1971年、当時の国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、周恩来と会談した際、日米安全保障条約は日本を封じ込めるための「ビンの蓋(ふた)」であると述べたのである。
 1980年代初頭、日本や西独の経済的台頭により、米国において、その覇権の後退が強く懸念されるようになると、米国は日本に対し、貿易黒字を削減するよう圧力をかける戦略へと舵を切った。
 まず、1983年に日米円・ドル委員会を設置し、大口金利の自由化、外貨の円転換規制の撤廃、外国銀行単独での信託業務進出の承認などを日本に認めさせた。
 これにより日本は金融自由化へと踏み出したが、それがバブル経済の萌芽となったのである。さらにバブル経済は金融緩和の長期化によって増幅されたのだが、この金融緩和の長期化もまた米国の圧力によるものだった。
 1985年半ば、米国は国際収支の不均衡の是正を図って、ドル高政策を転換し、プラザ合意が結ばれた。これによりドルに対する円の価値は、1985年9月の240円から1987年2月の150円まで急伸し、日本は「円高不況」に陥った。
 要するに日本は、米国の為替レートの調整コストを押し付けられたのだが、そうなった背景は地政経済学的に分析しなければ理解できない。
 経済学的には、当時の日本の輸出は米国市場に大きく依存していたため、対日貿易不均衡に対する不満から米国において保護主義が高まることは大きな脅威であった。このため日本政府は、為替レートの調整を甘受せざるをえなかった。
 地政学的には、当時、ソ連が北東アジアにおける軍事力を強化しつつあり、大韓航空撃墜事件が起き、またソ連の潜水艦が日本近海に定期的に出没するといった状況にあった。このため、当時の中曽根政権は日米関係の強化を目指していた。ソ連の脅威を前にして、米国の軍事力に頼るしかない日本には、為替レートの調整に抵抗するという選択肢はなかったのだ。
 経済政策の主権も失われた
 「円高不況」に対応するべく、日本銀行は1986年1月から翌年2月までの間、公定歩合を計5回、2.5%にまで引き下げた。
 1987年春ごろから景気回復が明確化すると、日銀は金融緩和の行き過ぎを警戒するようになり、金融引き締めを模索した。ところが、1987年5月の日米首脳会談後の共同声明において、日本銀行短期金利オペレーションについて言及がなされ、短期市場金利はさらに引き下げられた。
 日銀は、1987年8月末から短期市場金利を高めに誘導したが、これも米国の株価暴落(ブラックマンデー)の勃発によって中断し、さらに1988年1月の日米首脳会談において短期金利の低め維持が言及された。米国は多額の財政赤字と経常収支赤字によるドル安の進行がドル暴落につながることを恐れ、日本に低金利を要求し続けたのだ。
 その結果、低金利政策は1989年5月までの約2年3カ月という異例の長期に及んだ。それがバブル経済の拡大を助長したのである。
 そしてバブルは崩壊し、日本は深刻な長期不況に陥った。平成不況とは、日本が米国の圧力によってマクロ経済政策の主権を奪われた結果であったのだ。
 さらに米国は、対日貿易赤字を削減すべく、日本に市場開放と構造改革の圧力もかけ続けた。
 1985年に始まった市場志向・分野選択型協議では、電気通信、エレクトロニクス、医薬品・医療機器、木材製品、自動車部品が対象となり、翌年、規格の統一や関税の引き下げ等の合意がなされた。
 1988年には、一方的な報復措置であるスーパー301条を含む包括的通商・競争力法が成立した。
 1989年には日米構造協議が設置され、貯蓄・投資の不均衡、土地利用、流通制度、内外価格差、企業系列、排他的取引慣行までもが対象となった。その結果を受けて、日本は大規模小売店舗法独占禁止法の改正を行った。
 この頃から日米交渉は、個別品目ごとの協議ではなく、国内の法制度や商慣行に対する露骨な内政干渉と化していった。そうなった背景もまた、地政経済学的に理解しなければならない。
 1985年、ミハイル・ゴルバチョフソ連の書記長に就任し、ソ連の脅威が大きく後退した。日米同盟はソ連および日本の「二重の封じ込め」であるが、ソ連の脅威が後退したので、米国の戦略目標の重点は日本封じ込めへと傾いたのだ。
 さらに冷戦が終結すれば、日米同盟の主たる存在意義は日本封じ込めとなる。
 実際、1990年、在日米軍基地司令官のヘンリー・C・スタックポールは、「再軍備して復活した日本など、誰も望んではいない。だからわれわれは、ビンの蓋になっているのだ」と発言している。
 また、1992年に米国防総省が作成した「1994~99年のための国防プラン・ガイダンス」は、ライバルとなる大国の出現を阻止することを第1の戦略目標として掲げ、もし東アジアから米軍を引き上げたら、日本が東アジアを不安定化させるだろうと警告を発している。
 「属国」化を招いた構造改革
 この冷戦終結後の日本封じ込め戦略の経済版が、一連の構造改革要求である。
 1992年、ブッシュ政権は輸出振興法を制定し、貿易促進調整委員会の下で包括的な輸出促進戦略を行う方針を打ち出した。続くクリントン政権は「経済安全保障」を掲げ、国家安全保障会議と並んで、国家経済会議を設置した。そして対日貿易赤字の削減を目指して、1993~94年の日米包括協議を実施した。そこで米国は、対象分野ごとの数値目標の設定を要求し、スーパー301条の枠内での協議とすることを求めるなど、かつてなく強硬な姿勢で臨んだ。
 これら一連の経済交渉とは、日本封じ込め戦略に基づいていた。現に、当時の米国通商代表部(USTR)代表のミッキー・カンターは、「冷戦終結後の国家安全保障は米国の経済力に懸かっている」と述べていた。
 こうした日米経済交渉を通じた米国からの構造改革要求は、その後も、1997年からの日米規制緩和対話、2001年の日米規制改革および競争政策イニシアティブ、年次改革要望書、さらにはTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)へと続いている。
 もっとも、この間の日本は、規制緩和や自由化、グローバル化といった構造改革こそが経済成長のために必要だと信じるようになり、米国の要求をむしろ積極的に受け入れ、自ら進んで構造改革を実行するようになっていた。おかげで日米経済摩擦もほぼなくなり、日米関係は改善した。
 このような対米従属のありさまを、日本人は「親米」と呼んでごまかしているが、海外の研究者たちはもっと率直で、たとえばジョン・ダワーは「従属的独立」、ガバン・マコーマックやマイケル・マスタンドゥノは「属国」、ズビグニュー・ブレジンスキーは「保護領」と呼んでいる。
 しかも、米国が要求した構造改革は、本来は、インフレ対策である。市場競争の促進によるデフレ圧力によってインフレを退治しようという政策が、構造改革なのだ。1980年代の英サッチャー政権や米レーガン政権が構造改革を進めたのも、当時の英米がインフレに悩んでいたからである。
 ところが日本は、デフレにもかかわらず、インフレ対策であるはずの構造改革を推進し続けた。長期のデフレ不況から抜け出せなくなったのも当然である。
 このように、日本経済は、冷戦末期以降の米国の地政経済学的戦略によって、着実に弱体化させられてきたことがわかる。それは、日米関係がよく、両国首脳の間に信頼関係があるときであっても同じである。冷戦終結後から平成不況が続いているのも、偶然の一致ではない。
 トランプと仲良くしても日本の弱体化は避けられない
 さて、トランプ政権の下で、日本経済はどうなるのであろうか。地政経済学的分析に基づくならば、予測はさほど難しくない。
 地政学的には、米国が「世界の警察官」たることを放棄しつつある中、日本は、中国や北朝鮮といった地政学的脅威にさらされながら、なお日米同盟に依存している。
 経済学的には、トランプ政権はかつてなく露骨な「米国第一」を掲げて、日本の貿易黒字を非難し、2国間の経済交渉を要求している。
 この日米関係の地政学と経済学が結び付くのは、ほぼ必然である。ウォール・ストリート・ジャーナル紙が評するように「米国の軍事支援に依存している以上、日本には、それが誰であれ米国大統領と協力する道を見つける以外に選択肢はほとんどない」のだ。
 実際、日米首脳会談に先立って、ジェームズ・マティス国防長官が訪日した。2月10日の日米共同声明においては、尖閣諸島に対する日米安全保障条約第五条の適用の確認(何度、確認すればよいのか!)とともに、日米間の経済対話の創設が盛り込まれた。いずれも、米国の地政経済学的戦略に日本が封じ込められていることを如実に物語っている。
 そして親米派構造改革派が何と言おうが、米国の地政経済学的戦略は、日本経済を確実に弱体化させてきたのである。それは、トランプ政権の下でさらに決定的なものとなろう。これは構造的な問題であって、日米首脳が信頼関係を構築すれば回避できるといった類のものではない。
 この日米関係の地政経済学的構造から抜け出すには、どうしたらよいか。まずは「強兵」なき「富国」などはあり得ないという厳しい現実を直視することが、その第一歩となる。
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