🎺04:─1─太平洋戦争はアメリカの日本外交極秘暗号電報の誤訳・誤読から始まった。~No.18No.19No.20 ② 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年1月号 Voice「避決定の不貫徹が招いた『亡国』
 開戦以外の選択はとれなかったのか──。『決められない政治』の功罪
 森山優
 日米はなぜ戦ったのか。この疑問に明快に答えることは難しい。現在、日米戦争は、日本の東亜新秩序(大東亜共栄圏)と、アメリカの門戸開放・機会均等原則が激突したものと理解されている。
 しかし、これら双方の主張は、あくまで原則(看板)であり、自国民の夥(おびただ)しい血を流してまで実現すべきとは、両国とも考えていなかった。盧溝橋事件(1937年)からすでに4年半が経過していた日中戦争や、その過程で緊張が高まっていたイギリス(アヘン戦争以来、中国に多くの利権を保持)との関係であれば、戦争原因は国家間の利害対立の結果として、容易に説明可能である。
 ところが、日米間には交渉可能な具体的な利害対立がなかった。それがゆえに逆に両国関係が危機に陥(おちい)った際、取引による妥協ができずに戦争へ突き進んだのである。開戦50年後のシンポジウムでこのことを指摘したのが、政治学者の北岡伸一だった(『太平洋戦争の「争点」と「目的」』細谷千博ほか編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993年)。この指摘から30年が経過した。開戦に関する研究は、どれほど進展したのだろうか。まず、当該期の日本の意思決定システムを概括してみよう。
 タテ割りシステムの弊害
 大日本帝国憲法における政策決定システムは、寄り合い所帯と形容される。政治や軍はすべて天皇統治権の総攬{そうらん}者)に直結し、サポートする存在だった。首相は内閣を構成する大臣の筆頭にすぎず、閣僚の任免権がなかった。つまり閣内対立が内閣崩壊を導きかねない脆弱な体制であり、首相のリーダーシップには限界があったのである。そして統帥部(陸海軍の用兵を司{つかさど}る部署)も天皇に直結していた。さらに日中戦争で露呈したのは、政と軍の乖離(かいり)だった。
 このようなタテ割りの弊害を解決するため1940年末から定期的に開催されたのが、大本営政府連絡懇談会(のち大本営政府連絡会議に改称)だった。この場で審議された国策は、各政治勢力の反対を避けるため、玉虫色の文章で糊塗(こと)的な一致を表明するのが常だった。日米開戦まで1年間に多くの国策が決定されたが、矛盾した内容が併記されたり(両論併記)、肝心な部分は先送りにされたり(非〈避〉決定。煩雑なため本稿では避決定に統一)と、一読しただけでは何が決まったかわからない文章の寄せ集めだった。もちろん、自らの主張が国策に盛り込まれれば、それを足がかりに政策を引っ張る根拠を得た事になる。
 国策決定後も、陸海軍や外務省の間で、延々と綱引きが続けられた。典型的な例として、日米開戦の約5ヵ月前、独ソ開戦後の7月2日に御前会議で決定された『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』が挙げられる。この国策は、最大の課題だった日中戦争の解決に加え、対ソ戦準備と『南進』まで併記されていた。これを根拠に陸軍は関東軍特種演習を発動して対ソ戦備拡充をめざした。さらに『南進』のために『対英米戦を辞さず』という威勢のいい文章も盛り込まれていた。しかし、陸海軍にはそのような覚悟はなく、南部仏印進駐に抵抗する松岡洋右外相を説得するための大見得だったのである。問題は、南部仏印進駐がアメリカの対日石油全面禁輸を招いただけでなく、この国策(在外公館に向けて暗号電報で送られた)がアメリカの対日イメージに大きな悪影響を与えたことだった。
 アメリカの暗号解読で損なわれた対日イメージ
 アメリカが日本の外交暗号(マジック)を解読して利用していたことは、敗戦直後に明らかとなった。このことから、日本がアメリカの掌(てのひら)の上で踊らされていたかのようなイメージがある。しかし、日本も米英の外交暗号を解読していたことは知られていた。それがアメリカの最高強度の暗号にまで及んでいたことも解明され(森山『戦時期日本の暗号解読とアメリカの対応』『Intelligence(インテリジェンス)』9月号、2007年、他)、両国の解読能力が概ね互角の様相を呈(てい)していたことは学界で常識化している。
 技術的問題より、入手情報が、どのように利用されたかが重要である。じつは、アメリカが暗号解読で得た情報は、日本側の意図を正確に把握するどころか、むしろ思い込みを増幅する材料として機能していた。日米交渉の最終段階で、アメリカの飜訳官の誤訳が日本の意図を誤解させたことは古くから知られている(西春彦『回想の日本外交』岩波新書、1965年)。しかし、仮に訳が正確でも、中国駐兵を広範に要求する日本側の提案(甲案)で交渉を妥結したとは思えない。むしろ解読電は、決定的要因として機能しなかったものの、アメリカの対日イメージを大いに損(そこ)ねたことが指摘できる。
 ヘンリー・スティムソン陸軍長官の日記には、彼らがマジックに振り回され、右往左往している様子が記されている。しかも、悲劇的なことだが、その多くが電報の文脈を読めていないことによる誤解に基づいていた。独ソ開戦の直後から、ドイツは日本に対ソ参戦を慫慂(しょうよう)していた。松岡はそれを断るため、美辞麗句を並べ、日本が南方への圧力を強化することで枢軸国の勝利に貢献していると強調する電報を送っていた。外相が松岡から豊田貞次郎に変わっても、対ソ戦不参戦の代わりに南部仏印進駐の意義を主張する同様のレトリックが用いられていた。
 ところがスティムソンは、美辞麗句の部分を真に受け、日本は口で対米交渉を唱えている裏でドイツと結託していると思い込んだのである。電文で日本は実際にはドイツの対ソ開戦を非難しており。日独の一体性は幻想にすぎなかったが、スティムソンの目には入らなかった。また、松岡は野村吉三郎駐米大使に対し、南部仏印進駐の目的は南進の基地獲得ではなく、むしろ英領マレーや蘭印との衝突を避けるためと説明する電報を野村大使限りとして送っていた。いわば日本の本音だったが、アメリカの飜訳官が、この部分を削除したため、スティムソンらの目に触れることはなかった。
 そして、解読に手間取った『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』が翻訳されたのは、発電から1ヵ月以上が経過した8月8日だった(コーデル・ハル国務長官はすぐに解読したと記しているが誤り)。そして、最悪なことに、それは近衛文麿首相が起死回生のプランとしてフランクリン・ルーズベルト大統領との日米巨頭会談を提案した直後だった。発電の際、文言から対英米戦云々(うんぬん)の過激な表現は削除されていたが、解読文を読んだスティムソンは日本の二枚舌外交を確信したのである。巨頭会談がお流れとなった原因の一つと考えられる。
 また、開戦直前の12月1日、ローズヴェルトが駐米イギリス大使に対日参戦の密約を与える際、日本軍の作戦とタイとの関係に言及したが、彼はこの日に解読された情報(駐タイ日本大使の電報)をすぐさまイギリス大使に披瀝(ひれき)している。その後、ローズヴェルトが小型船3隻を現場で泳がせるチープな囮(おとり)作戦を命じたことはよく知られており、戦端はマレー半島で開かれると注視していたものと思われる。この情報は偶然にも上陸地点まで正確だったが、真珠湾攻撃を示唆(しさ)するものではない。アメリカ側には、自分たちは日本の手の内を知っているという思い込みがあったことが想像できる。
 これらの例は、政策担当者がナマ情報(インフォメーション)に接する危険性を示している。インフォメーションは、文化的背景を理解した専門家が評価して、初めて有効なインテリジェンスとなる。ところが、つにね侵略政策を進める日本という思い込みにとらわれていた彼らは、それを補強してくれるものだけをマジックから拾って、さらに思い込みを強化してしまったため、その当否が検証されることは、今日までなかった。
 対米戦は他より『ましなプラン』だった。
 日本が日米戦争に大きく足を踏み出したのは、1941年11月5日の御前会議で『帝国国策要綱』が採択されたときであった。それまでの国策では対米戦決意には何らかの抜け道が用意されていたが、この国策は12月1日までに外交交渉が成立しなければ武力発動すると、はっきり期限を切ったのである。
 なぜ、この国策がけっていされたのだろうか。10月18日に組閣した東條英機内閣は10月いっぱいかけて国策再検討を実施、11月1日に開催された連絡会談で結論を得た。①臥薪嘗胆、②即時開戦決意、③外交交渉が成立しなければ開戦、の3つの選択肢が用意され、③が選ばれた。
 では、日本が戦争に勝つ見込みはあったのだろうか。永野修身軍令部総長は、確実な屈敵手段がないため長期戦化し、勝負は形而(けいじ)上下の各種要素を含む国家総力と世界情勢の推移により決まると説明した。形而下(物量)で勝ち目がないことはわかりきっており、要するに精神力とドイツ頼みということになる。国家の命運をそんなものに委(ゆだ)ねるとは想像しがたい。事実、永野は7月末の在米日本資産凍結の報に、天皇に同様の説明をしたが、昭和天皇は『捨てばちの戦(いくさ)』と批判した。
 ところが、11月の御前会議では、永野の説明に異を唱えるものはいなかった。それは、戦争以外の選択肢が、戦争より明るい未来を描けなかったからだった。対米戦は、それを目的として追求された結果ではなく、他のプランよりましだったから選ばれたのである。インドネシア等の南方を占領して、その資源を日本に輸送して戦力を培養(ばいよう)する、そのような長期戦を可能とするには、輸送ルートが確保されねばならない。そのため、船舶の損耗(そんもう)量を低く見積もることで、帳尻を合わせていた。
 さらに大前提として、国際環境の好転(ドイツの勝利、最低でも不敗、さらにソ連の中立維持)が無意識のうちに繰り込まれていた。このようなベスト・ケース・アナリシス(日本にとって最も都合が良い想定)によって、辛うじてバランスを取っていたのである(人間は損失を挽回しようとするとリスクを軽視して冒険的な選択をしがちであるという、行動経済学の成果からの指摘もある〈牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』新潮選書、2018年〉)。このうち一つでも予想が外れれば不敗の成算は崩れるが、現実にはすべてが願望とは逆の結果となった。
 流れは避決定から決定へとシフト
 それでは、臥薪嘗胆はどのように認識されていたのだろう。この選択肢の問題点は、日本が蒙(こうむ)る不利益を目に見える形で確定してしまうことだった。物資の輸入が途絶(とだ)え、1年半後には石油が枯渇して軍は動けなくなる。そのときに攻められたらひとたまりもないというのが統帥部の主張だった(ジリ貧論)。
 しかし、アメリカは攻めてくるのか。執拗(しつよう)に問う賀屋興宣蔵相に対し、永野は『不明』で押し通した。賀屋と東郷重徳外相は、アメリカが攻めてくる公算は少ないので、ただちに戦争に踏み切る必要はないと主張した。これに対し鈴木貞一企画院総裁は、戦争したほうが物資的に好転するという希望的観測で、反対する2人を説得しようとした。もし、彼らが反対を貫いていれば、開戦の意思決定はできなかっただろう。
 ところが、東郷が外交交渉(これも希望的観測に根拠を置く選択肢である)での解決に望みを託した結果、事態は危険な方向に転がりました。交渉成立の最大の障壁は中国からの撤兵という原則問題だった。陸軍は撤兵は日本の大陸政策の屋台骨を揺るがすと主張し、前内閣を崩壊に追い込んでいた。中国市場を日本が牛耳っているのは軍事力をバックとしているからであり、アメリカが主張する門戸開放・機会均等原則を適用したら、日本は中国市場から駆逐(くちく)されてしまう。これは陸軍に限らず当時の日本人の常識でもあった。要するに日本の力量に自信をもっていなかったのである。しかし東郷は、撤退した方が経済的にも好転すると主張した。戦後の日本の経済発展に照らせば東郷に分があるが、周辺の常識を崩すには至らなかった。中国撤兵に関する日本側条件(甲案)は非常に窮屈なものとなり、妥協の道は遠のいたのである。戦争の見通しとは逆に、楽観すべきところを悲観した結果だった。
 挽回のため、東郷は中国問題という原則論を回避した乙案(南部仏印からの撤兵と対日物資供給のバーター案)を用意した。東郷は乙案にも抵抗する陸軍に対し、この案が駄目なら戦争不可と主張し、結果的に非戦への道を閉ざしてしまう。冷静に考えれば、交渉が失敗しても、必ず戦争しなければならないわけではない。臥薪嘗胆に転換してもいいはずだった。しかし、陸軍が乙案を容認したことで、全体の流れは避決定から決定へとシフトしてしまった。我々はどうしても外交(平和)か戦争かという対立軸で考えがちだが、両者はともに希望的観測を根拠とした決定の側に属しており、真の対立軸は臥薪嘗胆(避決定)から外交・戦争(決定)かだったのである。
 原則論を追求したハル
 日米間の緊張が高まるにつれ、アメリカの側でも原則問題に拘泥(こうでい)せずに、暫定協定を締結することで危機を回避しようという動きが出てきた。当初は日本側に有利な大胆な提案を含んでいたが、そのほとんどが各省の検討の過程で削られていった。抵抗勢力が足を引っ張る構図は、何も日本だけではなかったのである。
 さらに、ハルはアメリカの原則論を執拗に追求し、その態度は頑(かたく)なであった。それでも、暫定協定案と日本側の乙案との接点は残っており、もし単独で日本側に提示された場合、妥協の可能性は皆無ではなかっただろう。しかし、ハルはこの案を原則論(ハル・ノート)と一緒に示す予定であった。さらに、中国の反対と報道へのリーク、イギリスやオーストラリアのあまり積極的とは思えない姿勢に嫌気がさしたか、ハルは暫定協定案を取り下げ、ハル・ノートのみを手渡す。とりつく島もない原則論は、それまでの米案からもかけ離れていた。皮肉にも、アメリカの強硬態度を歓迎したのは陸軍だった。とくに参謀本部の強硬派にとってハル・ノートは天佑(てんゆう)であり、期せずして国論を一致させる慶事(けいじ)と考えたのである。
 ハル・ノートを渡せば日本が軍事行動を起こすことをアメリカは承知していた。アメリカは中途半端な妥協よりも、その正義を後世に証明する、いわば歴史づくりの段階へとすでに移行していたのである。日本に一発目を撃たせる願いが叶ったものの、予想をはるかに超える規模で自らも攻撃にさらされたのは、大きな誤算だった。
 現代政治におけるリーダーシップの問題
 最後に、現在の目から見て最も穏当な臥薪嘗胆が、なぜ排除されたのかを考えてみたい。繰り返すが、臥薪嘗胆は日本が蒙る不利益を見える形で確定する選択肢だった。我々は、あの戦争による惨害(さんがい)を知っているため、それに比べればまだましな選択と評価できる。しかし、1941年の日本の指導者は、戦争が引き起こす結果を知られないのである。そして惨害は現実のものとはならないため、選択のメリットを誰も実感できない。
 さらに、国力が低下していけば、あのときなら戦えたはずと非難されることも想像される。たしかに臥薪嘗胆は茨の道である。無理解による非難にさらされながら、情勢の変化を持ち続ける。日本の期待とは逆に国際環境が悪化していくため、中国からの撤兵も自主的に始めなければならなかっただろう。それでも最悪の事態の回避を最優先し、自らの政策が招いた事態を収拾するため、身を切る措置を取る。そのような責任感と胆力が、日本の指導者には欠けていた。
 当時の政策決定システムの構造を分析すると、じつに不思議な感覚に襲われる。あんなタテ割りの足を引っ張り合うシステムで、よく対米開戦のような大それた決定ができたののだと。それでは、避決定のシステムは、決定のシステムに変貌を遂(と)げたのだろうか。もちろん、否でだる。たんに避けるべき最悪の選択が、戦争による亡国から、目先の失態にすり替わっただけだった。システムは温存され、戦争目的の議論や戦争指導、物資の配分などで果てしない内訌(ないこう)が繰り広げられた。そして、それは陸海軍解体の日まで終わることはなかったのである。
 筆者が当該期の政策決定システムを説明するため避決定という概念を提示してから、30年以上が経過した。もちろん昔話と考えて欲しいのだが、決められない日本の象徴として採用する向きもある。
 しかし、避決定のシステムはマイナス面しかないのだろうか。きわめて日本的なリーダーシップ不在の決定のあり方は、大きな成功は望めないものの、大失敗もしない。対米戦を対象に避決定を貫徹すれば、焦って戦乱の渦中に飛び込むことはなかったのである。そうならなかったのは、小役人的な原点思考を源とする、中途半端な責任感からだった。決められる政治が何を決めて、何を決められなかったのか。現代政治におけるリーダーシップの問題を考えるにあたっても、開戦過程は多くの示唆を与えてくれるだろう」
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日本はなぜ開戦に踏み切ったか: 「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)
日米開戦と情報戦 (講談社現代新書)
昭和史講義3 ──リーダーを通して見る戦争への道 (ちくま新書)
1941 決意なき開戦: 現代日本の起源
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 勝てない軍国日本は消極的避戦であり、勝てるアメリカ・イギリスは積極的開戦であった。
 つまり、アメリカが軍国日本以上に日米戦争を望んでいた為に、太平洋戦争は避けられない戦争であった。
 そして、ファシスト中国(中国国民党)やソ連中国共産党などの共産主義勢力も日米開戦を望んでいた。
 地球上どこにも、戦争回避の平和勢力は存在しなかった。
 そもそも、日米戦争を画策したのは、最初はレーニンとロシア人共産主義者であり、次ぎに日本軍に連戦連敗のナチス・ドイツ国防軍ファシスト中国であり、最後にスターリン中国共産党であった。
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 日米対立の発端は、明治31(1898)年にアメリカによるハワイ王国併呑、共和体制によりハワイ王家消滅、キリスト教国教により民族宗教根絶、民族言語使用禁止により英語公用化にあった。
 明治天皇・日本国・日本海軍にとっての痛恨は、救援を求めていたハワイ民族王国をアメリカの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から救えなかった事である。
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 アメリカの国家戦略は、太平洋の覇権と中国市場への航路確保であり、その戦略に立ちはだかる邪魔者が日本であった。
 対日戦を見据えた強硬策を推進させたのが、セオドア・ルーズベルト大統領であった。
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 昭和16年に戦争回避の為に始めた日米和平交渉の失敗は、交渉場所をワシントンに定めた事で、もし可能であれば東京で交渉を行っていたら、結果は違っていたかもしれない。
 何故なら、日本側はアメリカの外交暗号電報を解読していたからである。
 親中国反日強硬派のフランクリン・ルーズベルトは、チャーチルスターリンらの要請で対独戦参戦を目指し、開戦のキッカケを日本に求める陰謀を巡らしていただけ、戦争を回避する日米和平交渉を敵地である東京で行う事に同意しなかった。
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 松岡洋右外相は、ワシントンの野村吉三郎駐米大使に外交暗号電報がアメリカに傍聴されている怖れがあると警告を発していた。
 近衞文麿首相は、是が非でもルーズベルトとの日米首脳会談を開催する為に、藁にもすがる思いで、国家戦略の最高機密であったアメリカ外交暗号電報解読情報をアメリア側に知らせてしまった。
 それでも、情報の重要さは現代の日本人より昔の日本人の方が知っていた。
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 戦前・戦時中に日本の機密情報が、アメリカ・イギリス・ソ連中国共産党などの連合国側そして中立的立場のローマ・カトリック教会キリスト教会)や国際赤十字社などに流れていたが、それでも現代日本の親中国派・媚中派によって中国共産党に流れる情報量からすれば少なかった。
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 ナチス・ドイツの戦争勝利の鍵は対ソ戦勝利であり、ドイツ軍がソ連軍に勝つには補給路を断つことであった。
 ソ連軍の補給路は2つあり、一つは太平洋経由のウラジオストク・ルートであり、もう一つがインド洋経由のイラン・ルートであった。
 北アフリカロンメル軍団を撃破したモントゴメリー将軍にとっても、インド洋・アフリカ東海岸経由の紅海・ルートであった。
 全ての輸送ルート遮断は、日本軍にかかっていた。
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 大日本帝国憲法統帥権民権派と庶民を警戒してつくられた。
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 世界の常識は、平時は政府・議会が、戦時は政府・軍部が国家を動かす、である。
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 日本の政府や軍部は、排他的タコツボでタテ割りの足を引っ張る組織で、横の繋がりや協調性共同性があかった。
 軍国日本には、東京裁判A級戦犯達を平和に対する罪で有罪としリンチ的縛り首で殺した「共同謀議」などはなかった。
 東京裁判では、ホロコーストなどの人道に対する罪は認められず審理されなかった。
 昭和天皇東條英機松岡洋右松井石根A級戦犯達には、国際世論が認めず否定し消し去ったが、歴史的事実としての人道貢献や平和貢献が存在していた。
 大日本帝国、軍国日本、昭和天皇、軍部、陸軍、A級戦犯達、戦争犯罪者日本人は、ホロコーストなど非人道的残虐行為を行ったナチス・ドイツヒトラー、ナチ党員、親衛隊、ゲシュタポ戦争犯罪者ドイツ人とは違うのである。
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 日中戦争が泥沼として長期化したのは、ナチス・ドイツアメリカ、イギリス、ソ連、フランスがファシスト中国(中国国民党)を支援していたからでる。
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 武士や役人・官吏は、偏見を持って庶民(百姓や町人)を軽蔑し差別した。
 そして、庶民も武士や役人・官吏が嫌いで、土下座をして平身低頭したが、本音は面従腹背を決め込んでいた。
 民と官の対立は、古代から日本に深く根付いている不治の病であった。
 つまり、何時の時代でも政・官は庶民の事など考えてはいなかった。
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 日本の公文書は、日本書紀的な文章で、反論批判が起きて正当性を危うくさせない為に、本文とは矛盾するような別説・異説・珍説などを幾つも併記する玉虫色の文章であった。
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 統帥権は、ドイツ帝国から教えられた皇帝の独立した権限であった。
 つまり、大日本帝国ドイツ帝国の摸倣である。
 大日本帝国大日本帝国憲法は、明治維新の元勲が政治・軍事・外交に影響力を行使する事で正常に機能する特殊な統治体制・臨戦態勢であった為に、山縣有朋大正11年没)や西園寺公望(昭和15年没)が死去してから機能不全に陥り軍国日本は戦争の中で滅亡した。
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 伊藤博文小作人出身)や山県有朋足軽出身)ら身分低い家柄の明治元勲らは、身分高い旧幕臣と負け組の佐幕派武士団そして強欲で金儲けしか考えない庶民を信用せず、民選議員の議会と試験エリート官僚の政府と倒幕派独占の藩閥軍部を分断させ、政府と議会に軍政・軍事予算決定権(軍事物資)を与えても統帥・軍指揮命令権(作戦・用兵)を剥奪する大日本帝国憲法を作成した。
 つまり、明治近代化の原動力は政治権力者による人間不信・庶民不信であった。
 それが、決められない縦割りシステムと嫌々と後手後手の泥縄式対応策を生み出した大日本帝国憲法の欠陥である。
 明治元勲は、身分低い家柄で家禄(収入)が少なく貧しかった為に、「背に腹はかえられず」武士としても名誉や体面を捨て、庶民に頭を下げて借金をし内職仕事を分けて貰って何とか生活してきたという嫌な経験があっただけに、庶民が嫌いであった。
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 日本民族の伝統的文化精神の土壌には、儒教的武士道はもちろん、排他的・不寛容なキリスト教も、反宗教無神論・反天皇反民族のマルクス主義共産主義も馴染まず、深く根付く事はなかった。
 武士道は、明治以前では無意味・無価値であったが、そもそも江戸時代の日本には存在しなかった。
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 何故、権力者・武士が庶民(百姓や町人)を嫌い差別したのか、それは戦国時代に庶民が乱取りで捕らえた日本人を南蛮人に奴隷として売って金を稼いでいたからである。
 庶民の本音からすれば、政治権力を持った幕府の将軍や領主の大名が誰であったも関係なく、面従腹背で忠誠を誓う気は全くなく、「おらが殿様」と慣れ親しんだのは表面の建前に過ぎなかった。
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 聖武天皇は、日本を仏教立国にするという宗教改革を現実にするべく、行基に奈良大仏建立への協力を求め、民に対して詔を発して参加を呼びかけた。
 光明皇后は、地獄のような日本を仏の力で救ってもらうべく、貧窮者・病人・孤児らを救済する悲田院や施薬院を設置した。
 もし、天皇の詔がない官の公共事業であったら、民は素直に従わなかった。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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